ライター:mpcsp079さん(最終更新日時:2013/7/25)投稿日:2013/7/23
9.11やアポロ計画の偽装はどうして出てくるのか?
これは国民の退屈を一掃するためなのである。ローマ帝国ではこの退屈を溜めさせないために、残酷な見世物を催さなければならなかった。記者は恐ろしい事件であるほど報道意欲が掻き立てられる。我々は火事を争うように見に行く。特に、USAという大きな国では、いかにして国民を退屈させないかで、政府は悩んでいる。たまに大きなイベントがひつようなのだ。
このため、あのアポロ11号というような大嘘や9.11事件(テロルではない)が要求されたのである。
ショーペンハウアー「意志と表象としての世界」中央公論社より引用してみよう。
人間の人生は、だからまるで振り子のように、苦悩と退屈の間を往ったり来たりして揺れている。じつをいえば苦悩退屈の双方は、この人生を究極的に構成している二つの部分である。きわめて奇妙な話であるが、今まで述べてきたことというのは、もしも人間がありとあらゆる苦悩や苦悶(くもん)を地獄に追い払ってしまったら、その後で天国のために残っているものは退屈だけしかないという事実によってきっぱり言い表せるに違いない。・・・ところがまたもや他面において、困窮や苦悩からのしばしの休息が人間に恵まれるようなことが起こると、こんどはたちまち退屈がまじかに迫ってきて、人間はいやでもおうでも暇つぶしを必要とするようになってくるということである。いっさいの生あるものを駆り立てて動かし続けているものは、生存への努力であろう。ところがいったん生存が確保されてしまうと、彼らはこの先どうしたらよいのかがわからなくなってしまうのだ。そのため彼らを動かす第二のものは、今度は生存の重荷から逃れだして、それをもう感じないようにしようという新しい努力となるのであり、「時間をつぶす」こと、すなわち退屈から逃れようとする努力となるのである。
つまり我々にいまわかってきているのは次のようなことだ。困窮も心労もなく安全に守られているほとんど全ての人々は、いっさいの余計な重荷を払いのけるに至ったかと思っていると、こんどはたちまち自分自身が重荷として感じられてくるということである。それで、これまで彼らは人生をできるだけ長く維持しようと全力を傾けてきたはずだというのに、こんどはほかならぬその人生をけずり取るようなことを、そのつど、すなわち浪費的に過ごしてきた一時間一時間を、儲けものだと思うようになってくるのである。
ところで退屈というのは、みくびってもかまわないような害悪ではまったくないのであって、退屈がつづいていくとしまいには容貌にまでも正真正銘の絶望の面影がきざしはじめるようになるであろう。お互いにほとんど愛し合ってもいない人間のような存在が、それなのにあれほど熱心にお互いに相手を求め合っているというのも退屈のせいなのであり、そこで退屈こそが社交の源泉だというようなことにもなってくるのである。だからまた退屈をふせぐためには、どこの国でもほかの一般的災難を防ぐのと同じように公の防止策が講じられているのであって、これは国策からおこなわれることでもあるのである。というのも、この退屈という害悪は、その反対の極である飢饉(ききん)と同じように人間をはなはだしい無法状態へと駆り立てかねないものだからである。民衆というものは「パンとサーカス」を必要とするのである。