序文
本書は、主に人間の一般常識に反するような意外な事実やショッキングな行動についての話を集めたものである。常識は間違っていることが多い。それに気づくこともあるが、なんとなく考えられているのでしっかり把握されることがなくうやむやにされてしまう。本書はそれを確固としたものにしようとしている。相互にあまり関係ないいろいろな話題を断片的に並べている。このような内容は論理的に進めていけない。もし論理的に進めていこうとすれば、それほど多く書けないし、多くの重要な事柄が省かれねばならなくなるだろう。つまり本書で扱おうとしている事柄は「一筆書き」ができるようなものではないのである。断片的な書き方であれば、重要であると思ったことを漏れなく入れることができるのである。いままでにない斬新な内容で、特に人間関係に悩んでいる方に参考になるはずである。本書は実際の人間世界の《からくり》を示し、未知なるものを取り除き、人間に対する宗教的な信頼や過大な期待を捨てさせ、問題に対して実際に効果のある対策を見つけるためのガイドとなるのである。人間をあまりに信頼してしまうことは危険である。このことが、特に人に好かれない者が多くの災難に見舞われ、多くの悩みを抱えなければならない原因になっているものだ。我々はまず、相手(人間)を野獣と同様な危険なものとして理解しなければならないのである。
本書は、人間関係に悩む者、いじめ・暴力・迫害に悩む者に対して、その《からくり》を理解させることによって、よい対策を生み出すための手助けになるのである。これらの問題に関して、かなり《不道徳的》に、ピアースの「悪魔の辞典」的に検討・整理したものなのであり、その対策や事態の整理をするのに役に立つ資料を提供するもので、安易な――しかも危険な――アドバイスをするようなことはしない。学校などで教えるような現実を無視した「きれいごと」は一切書いてない。だから、たいていの者にとって簡単には承諾しがたい不道徳的、ショッキングな考え方や事実の解釈が登場する。そのため、一般の人たちにとっては受け入れがたいものに見えるかもしれないし、斬新・新鮮なものに見えるかもしれない。節は、たいてい相互に関係がないので、どこから読んでもかまわない。また、いくつかの章に分けているが、これはおおざっぱなものなので、その章のテーマとあまり関係ない節もある。
概要
本書は人間の本性についてまとめてみたものである。特に、いやらしく不気味な部分や、常識に反するところをあばくことに専念した。我々はよくよくみると実にいやらしい存在なのである。たいてい、我々を気高い存在として見る、あるいは見ようとする傾向があるが、世の中に起こる事件を見る限りこの見方があやしくなる。しかし、どうしても一般人にとってはそのまま見る、ということが趣味に合わないようなのである。しかし、このように誤った見方をしていると、多くの問題は解決されない。そう考えたくはないが、一度でも現れてしまったものは、その存在を認めなければならない。隠してはいけない。
本書は、次の項目で人間の間に起こるいろいろな現象を整理してみた。分類は便宜上のものであり、分けなくてもよかったのかもしれない。その程度の分類である。
第一章 女性と男性に関すること
第二章 心理に関すること
第三章 人間関係に関すること
第四章 残忍性といじめ、虐待、争いに関すること
第五章 科学的な考えに関すること
内容は、きわめて不道徳的なところが多い。しかし、このような人間のおぞましいところや信頼できないところを知ることで、回り道なく問題に対処できるようになるのである。悪いところを知ることのほうが、よいところを知るより価値がある。その証拠に、我々は相手のよいところより悪いところの方が印象に残るのだ。我々は他人の悪口を言うことに快楽するし、他人の不幸には何より関心を示すものだ。我々はいつもきれいごとを言いながら、きわめてエロティックなことを考えているし、他人の不幸を楽しんでいるではないか。火事見物がその証拠となる。誰も言い逃れはできないはずだ。本書はこの悪いところについて徹底的に追及している。必ずしもそうは言えない部分もあるが、基調には必ずそれが読み取れるはずである。
第一章 女性と男性に関すること
第一節 本当は、女性は冷静、男性は感情的なのだ
男性は恰好よく、女性はそれに憧れるだけの者だ、と思っている者も多い。しかし、そうであろうか、誰もがそう思っていても、どこかで無意識的にそうではないということを、誰もがわかっているのではないだろうか。それをわかっていても、明確に整理できないでいるだけなのではないだろうか。いつも、昔から言われている固定観念に従ってしまうのである。
私はこれから、このような考え方(男性優位説)の逆が現実なのだ、ということが動かし難いことであることを説明していきたいと思う。まず、マレ氏の「子供の発見」の中の「ヘンゼルとグレーテル」の章から引用してみる。
この物語では、普通の夫婦の役割が入れ替わっている。夫はなげき悲しむだけだが、つまの方は考え、そして行動する。冷静に見て、この場面から読み取れるのは、一方の夫は弱く、感性的であり、他方のつまが強く、論理的、理性的だという事実だけである。
このような事実があることを、心理学者たちは、たえず主張しつづけてきたし、またあらゆる近代的研究によっても、この事実は確認されている。おどろくべきことには、このような認識が早くもこの太古の昔話に出てくるということだ。さらに注目に価するのは、この昔話の場面が、淡々と、何ら非難も交えずに、このような行動方式を描き出していることである。この話の中で、夫は嘲弄されないし、つまも支配欲の強い女としては描かれない。つまの名誉も、夫の名誉も傷つけられない。わずかな行数と、かんけつながらきわめて濃密な描写によって、一組の親の姿が浮き彫りにされ、両親の行動方式と共に、夫婦の役割についての本質的な、正しい認識が表現されている。
心理学者たちはとうに知っていることであるが、夫は、つまとは逆に感情的な問題の見通しや、判断、処理が下手である。夫はすぐに感性的になりやすい。たいていの場合、夫はこの種の状況に出合うと、話の中のきこりと同じように途方にくれ、きこりと同じように、自分のつまの積極性や行動力にもたれかかる。ところがおおくの男は、自分たちにこのような行動方式があることを認めたがらない。たいていの男たちは、そのような行動方式を恥ずかしいとおもっているのである。・・・わたしたちの目に甚だ奇異に映るのは、この昔話(ヘンゼルとグレーテル)の中で紹介されている母親像である。この母親像は、母性愛の故に、どんな犠牲にも甘んじなければならないような母親像、またいかなる利己心、つまり自分自身へのいかなる思いとも無縁でなければならないような、一般的な母親の像とは、全然合致しない。
このような一般的な母親像は、感傷的で、非現実的で、間違った夫の像と全く同じようにまやかしである。
この昔話は二人の人物を、不似合いな台座から地面に引き戻す。
現実を誤認して、何百万人ものアメリカの男性は、自分たちのワイフを「ベイビー」と呼んでいる。わたしたちの国(ドイツ)でも、恋人のことをシュッツヒェン(小さな宝物)とかプッペ(人形)と言ったりするが、これまた「ベイビー」と同程度のもので、やはり間違っている。もしも、いずれかの性に、幼児的な特徴が備わっているとすれば、それは正に男たちである。
第二節 本当は、女性は冷酷で厳しく、男性は優しい
病院の看護師、老人ホーム、保健施設などの介護職員において見てみると、女性の職員は、男性の職員に比べ、厳しく、冷酷で、恐ろしい。男性職員は、入所者や家族に対して優しく、暴力的な行動や、相手を辱めるような行動はけしてしない。しかし、女性職員にはきわめて残忍で冷酷なものがいつも臭い、たいてい攻撃的ですぐに怒ってしまう。入所者の頭を平気でたたいたり、すわって眠っている入所者に対して「おきろ!」と口汚く言いながら顔をたたくように起こしたり――これはほんとにすごい、首を折ってしまうのではないかと思うほどである――、眠っている老人にご飯を食べさせるために「起きて!」と言いながら顔をぴしゃぴしゃ叩いたり、歩きが遅い老人をどんどん引っ張って転ばせてしまい、そのまま引きずっていったりするなど、きわめて粗っぽく、攻撃的で、冷酷であり、しかも冷静なのである。不快感を男性のようにちゅうちょすることなく、相手にぶつけていき、実に野生的であるのだ。女性のこの性質には、しばしば男性は驚かされる。男性はけしてこのようなことができない。男性は、相手を前にしてどうしたらいいのか迷ってしまう。女性のように、断固たる決断ができないうちに事が終わってしまうのである。だから、無難な行動を選択するより他はないのである。女性は、行動の前に迷いはなく、行動の後もそれをけして後悔しない。やりたいことをやりたいときに自信をもってやってしまう。だから男性に比べ、欲求不満は少なく快活でいられるのである――だから女性の凶悪な犯罪は少ないとも言えるのである。私の母親が、二〇〇六年一月に胃潰瘍で入院したある病院では、男性の介護職員が数名いたが、彼らは女性の職員と比べて優しく、恐怖感を感じさせなかった。女性の職員の場合、何か不気味で恐ろしいものが付きまとっていて、相手を油断させないのであるが、男性職員の場合には、悪く言えば隙が多く、それが相手を緊張させないのであり、それは「優しさ」という美しく偽装された欠陥なのである
第三節 本当は、女性は無神経、男性はデリケート
女性は健康者であり、従って無神経なのである。無神経で鈍感であることは、健康者の性質であり、逆に神経質であることは、不健康な者の性質であり恥ずべきことであることは、誰もが本能的に知っており、だからこそ誰もが本能的に自分の神経質であるところを隠そうとし、無神経・無頓着であるように振舞おうとするのである。神経質であることは恥かしく、恰好悪く、みっともないことであることを誰もが本能的に知っているのである。無神経・無頓着であることは欠陥であることではなく、優良・健康の証であり、それは最高に恰好いい姿なのであり、有利なのであり、優秀なのであり、つまり序列において上位なのであり、このことは誰もが先天的に知っていることなのである。「恰好いい」とか「魅力的」とかいう条件には、「有能さ」に負けないくらいに、あらゆる刺激に影響されないでいられるという「無神経さ」という《能力》がその多くを占めているのではないだろうか。
第四節 女性は幹であり、男性は枝葉にすぎない
フランスの思想家のヴォルテール「カンディード」(吉村正一郎訳、岩波書店)の中に、次のようにある。『女性はけして、自分のことでは困らない』。しかし男性は一人では生きられない。女性を必要としている。それは、頼りにし、めんどうをみてもらう相手として、自慢話を聞いてほめてもらう相手として必要なのである。一九九五年一月十七日に起きた阪神・淡路大震災では、一人ぐらしの者が増え、孤独死も増えたそうで、その多くは五〇代の男性であったそうだ。いかに男性が、《生活能力》がないかを示している。そういう状態になると男性は酒を多量に飲み、栄養のことも考えない。三三才の男性の例では、地震のため仮設住宅に住んでから、夫婦げんかになり離婚した。彼は、風呂の中で死んでいたそうだ。女性がいなくなると、男性はめちゃくちゃになってしまう。女性においては、このような孤独死などという例などはないだろう。女性にとって男性は、めんどうをみてあげる者であり、けしてめんどうをみてもらう者ではない。だから、いないほうがむしろいいのだ。つまり、旦那は金のために必要なのであって、その他のことでは一切じゃまになるだけであって、いないほうがいいのだ。ところが男性は、女性にいつも居てほしいのであり、男性は女性の中で生きているのである。「姦計(わるいたくらみ)」をはじめとして漢字には、「女」をもつものが「男」をもつものに比べてはるかに多いような気がする。女性には、人間の中の野獣の危険で油断できないところがはっきり現れているのであり、太古からそれらは誰にも感じられ、恐れられ、しかも魅惑されてきたのであった。だからこそ男性も女性も、女性が多くいるところにいると疲れると言うのである。多くの男性の中にいることは、男性にとっても女性にとっても、気疲れしないものだ。つまり、男性にとっても女性にとっても、女性は危険で恐く、油断ができない。しかし、そこがまた魅力的なのである。ここで我々は、人を魅惑するということの秘密が、少しわかってきた。
男性は誰でも、このような女性のたくましさ・強さ・有能さとその魅力を無意識的に気づいているものだ。しかし、たいていそれを明確に認識できないでいる。そしていつも、男性のほうが女性より優位な存在であると思いこんでしまっている。一見気まぐれに見える女性の行動は、実は正確に先を読み、それに対処するための本能的な行動なのである。だからこそ、その行為は的確なのであり、しばしば、自分のほうが優位に立つべきだと思い込んでいる男性を驚かせ、いらいらさせ、嫉妬させ、ときにはきちがいのように怒らせてしまうのである――夫が妻を殺してしまう事件には、このような原因であるものが多いと思われる。
第五節 男性は女性に自慢話を聞かせたい
男性の自慢話は、たいてい自分自身の能力的なことに関するものが多い。それは、俺はウィスキーをストレートで飲むほど酒に強いとか、あの製品は自分がいなかったなら絶対にできなかったろう、といったものだ。しかし、女性の場合は、自分の家がお金持ちであるとか、家が大きいとか、息子の頭がいいといった、自分に関わっているもの全てに及ぶことが多い。つまり、女性は全体を気にしているのに対して、男性は自分のことだけを気にしている。男性の虚栄心は、女性とは質が違うし、はるかにみっともなく見苦しいものであるように思われる。
男性はいつも自分を自慢したいと思っているが、その相手は誰でもいいわけではなく、女性的もしくは女性的な立場の者、つまり自分の部下、客としてなら店の店員、つまり自分をもてなさなければならない立場の者、自分をご機嫌にしなければならない立場の者でしかも魅力的である者に限られるように思われる。そういう者を前にしたとき、彼はその衝動に襲われるのだ。相手によってはその衝動は、まったく襲ってこないものだ。女性が余り自慢をしない一つの理由は、女性には男性にとっての女性に対応するものがいないからだ。つまり、女性のめんどうをみてくれる者はいないのである。女性は正に孤立無援な独立者・完全者なのである。
男性は手柄を立て、それを女性に見せてほめてもらおうと思っている。それは、息子が母親にほめてもらいたいのと同じである。母親と息子の関係は、女性と男性の関係の本質であると言えるし、この二人はたいてい仲がいい。息子はいつも母親を気にしているが、母親はそんな息子がかわいい。息子はいつも母親の中で生きている。母親は外界と戦いながら息子を守る。しかし母親には頼るものは何もない。女性は、一人で生きていけるようにつくられた者なのである。ところが男性は、そのようにはつくられてはいない。女性の助けを必要としている。そんな男性に女性は母性愛を感じる。つまり、息子や男性は、女性のある生理的欲求、つまり母性愛という本能の欲求を満たすための手段としても利用されることがあるである。
第六節 女性は強者である
男性は、いつも女性に自分のよいところを見せようとしたり、自慢したりする。男性は女性を気にし、翻弄されている。このことには、男性が女性に対して低い立場であることが現れているのだ。下位の者は、上位の者が気になってしょうがないが、上位の者は下位の者など気にならない。男性はたいてい女性をバカにしているが、そのくせ女性を頼りにし、自分を売り込み、認めてもらいたい、ほめてもらいたいと思っており、その心境はきわめて複雑で不安定だ。これは、弱者・低位の立場の者の典型的な行動なのである。高位の立場の者はこのような行動はしないし、何も迷いはないものだ。
昔、日本では中国からあらゆることを導入した。それで今の日本があるのだ。近代になってからは、オランダ、ドイツ、アメリカ合衆国、西欧からひたすら養分を取り入れてきた。しかし、それによって外国に見かけ上追いつくと、今度はいばりはじめ、それらを学んだ国々をバカにしはじめる(たとえば中国など)。これは、弱者の特徴的なふるまいなのである。根本的なものを自ら生み出す能力をもっていない人まね人間や国家はいつも不安定だ。神国日本とか大和魂といった大きなことを言っておきながら、実はいつもびくびくしながら外国のことを気にしている。田舎者のように、自分の故郷をいつも最高の所と思いながら、思おうとしながら、実は自信がなく、外部のことが気になってしょうがないのである。根本的に独立した強いものをもっていない日本人は、海外のことが気になってしょうがない。自分で全てを決定し、実行する能力がないからだ。これは弱者である証拠だ。この無能者であることによる不快感が、やたらに自国をほめたたえ、外国をバカにするという行為の原動力になっているのである――これは、イスラム世界の人たちの行動にも言えることだ。彼らは、イスラム以外の宗教や文化に対して、強い関心と憎しみを感じている。優越者は、他人のことなどまったく気にならない。自分のやるべきことを自分だけで決まられ、それを実行することに専念でき、それだけで精一杯であり、これにより不快も中和され欲求不満も少ない。
これと同じに、男性はいつも女性に対して本能的に劣等感を感じているからこそ、自分の優位性を必死に主張するのである。中世ヨーロッパで始まった魔女狩りも、女性の強さ、不気味さ、神秘的なところ、優越したところに不安・不快を感じた男性によって始められたのであろう。女性は、「生活する、生きる」ことに関して、断然に強者、有能者なので、外部の事は気にならず、自分のことに専念できるのである。
母親と息子は、男性と女性の関係を代表している。息子は、母親に自分のいいところを見せたいと思っているのをはじめとして、複雑な感情をもっている。しかし、母親が息子に対して考えていることは、ただ息子のめんどうをみることだけであり、それ以外の雑念、迷いはない。まして、息子にいいところを見せようなどとはまったく考えていない。息子から見れば、それだけで母親は魅力的なものとなる。これが女性の魅力だ。それに対して、息子のほうは、母親に頼ってみたり、時にはリードしようとしたり、複雑で不安定だ。男性は、いつも女性に認められたい、自分の自慢話を聞いてもらいたいと思っている。このことだけでも、男性が女性に対して、「生活する、生きる」ということ、つまり、全ての根底となるところにおいては、弱者であることを示しているのではないだろうか。男性は、この弱者であることによる不快をまぎらわすために、女性をけなし、男性の優位性を常に主張し続けなくてはならなくなってしまうのである。
第七節 女性のたくましさについて
女性はよく社会のルールを守らないといわれる。どんなところでも車を駐車したり、入り口と書いてあるところから出て行ったり、と言った具合である。これは男性に比べて社会性がない、と言われることになる。では、社会性とは何であろうか。これは道徳や社会の規律を意識してこれを守ろうとすることだ、というふうに優等生的に言われる。これらの優等生的な行動は、野生的、あるいは強者の行動とはまったく質が違うものなのである。他人を恐れ、気にして、比較して、人間に多くの意味をもたせていくことが弱者の行動であり、これこそが社会性の正体なのだ。女性は、生まれつき強者であり、隠しきれない野性的なものがほとばしり出ている。それは、彼女らの荒々しい車の運転にも現れている。女性は、男性のようにデリケートではなく、生きるのに必要なものを男性より多くもち、余計なものをもっていない。一人で生きていける者であり、一人で決められる者なのである。だから女性は、男性より社会性がなく見えるのである。野獣のように貪欲に自分と家族を守ることがちゅうちょなくできるのである。そのためには、男性のように周囲の目を気にすることをしないでいられる能力が必要なのだ。強く、有能であるということは、いろいろなことを考えないでいられるということである。余計なことに関して完全に無意識になれ、目的のことのみに専念できることは、なんと健康的なことなのであろうか。これは、武道などで言われる「全てを捨て去った一撃、迷いなき一撃」と同じであり、一流の武道家(現代のボクシング、K1、PRIDEも含めて)は、一度決めた攻撃に迷いなく集中できるのである。つまり、本能的に行動するのであって、この際、理性は停止し、本能のじゃまをしないようにしているのだ。前記の言葉は、二〇〇三年のNHKのTV番組の中に出てきた言葉だ。主人公の栄花氏は、二〇〇〇年の剣道全日本選手権で三連覇のかかる宮崎氏を敗っている。そして、二〇〇三年の世界選手権で主将に選ばれた。この栄花氏は、一九九九年の全日本選手権では、決勝で宮崎氏に敗れている。相手が面を打ってきたところをかわして胴を打ちにいったが、面が先に入っていたのだ。これについて栄花氏は次のように言っている。「面が得意な宮崎氏の攻撃に対して、それを受ける計画を立てた」。しかしそんな計画は、宮崎氏の「全てを捨て去った一撃」の前に敗れた。それから考え方を改めた。「効果を求めず、無心に進む」という方針に変えた。また、中谷彰宏「不器用な人ほど成功する」(PHP文庫)には、『直観力においては、プロとアマチュアで、それほどの差がありません。直感に対する迷いが、アマチュアのスピードを止めるのです』とある。また、中国の史記には「背水の陣」というのがあり、これは見方の退路を断って、戦いに全力を尽くさせることを言う。つまり、自分の部下にいざとなれば逃げようという雑念を捨て去らせるのである。この逆の極端なものが、たとえば強迫性障害という神経症なのであり、あまりにもいろいろなことが気になってしまう病気だ。このようになると、才能というものが、霊感というものが、自信というものが、全てじゃまされてしまう。アーサー・ブロック「マーフィーの法則」(倉骨彰訳、アスキー出版)には、『思慮分別のある人間は何も成しとげられない』とある。まったくそのとおりである。
これは、あらゆる分野でいえることだ。何かに偏っているからこそ、何かを忘れているからこそ、あるところをいいかげんにしているからこそ、いろいろなことを理解していないからこそ、余計なことを知らないからこそ、偉業を成しとげることができるのである。だから天才は、いつもかたわな者なのである。何かを得るには、何かを失わなければならないのである。
ジェットコースターのような怖い乗り物に乗ったとき、女性は「キャー」などと叫ぶ。しかし、ほんとに怖がっている者がそんなことをするだろうか? 本当に怖いとき声は出ないのではないか。むしろ、だまって乗っている男性のほうが、より怖がっているのではないか。一見より怖がっているようにみえる女性は、リラックスして楽しんでいるのであろう。それに対して、男性のほうは楽しむどころではない気分なのであろう。私自身は男性だが、このようなときには、きわめて大きな恐怖に襲われ、じっと静かに耐えているしかなく、とても騒ぐ気にはなれない。
前記の「ヘンゼルとグレーテル」の話のように、何か事件があると、男性ははじめのほうでは恰好よく振舞うが、しだいにその元気はなくなっていき、何をしたらいいのかがわからなくなっていく。問題が長期になればなるほど、女性のほうが優位になっていく。そして男性は、女性が優位になっていくことに不快を感じ、あせり始まる。そして、何とか優位を取り戻そうするのだが、うまくいかない。そうなると男性はいよいよ焦り、怒ったり、金切り声をあげたり、めちゃくちゃになってしまう。これを見た女性は興ざめしてしまい、たとえば別れることや離婚を決意する、つまり、女性に逃げられてしまう。ここでまた、太田光「NHK知るを楽しむ(向田邦子)」より引用してみよう。
第八節 母親と息子、そして、どうして女性同士は仲が悪いのか?
赤ん坊や幼児は、親たちから見ると、まだ決まった性を持っていない。差別なしの愛情を以って、おむつを当てられ、おっぱいを飲まされ、寝かしつけられる。やがて、ある時期になると、母親の扱いは変わる。(前出のマレ「子供の発見」より)
母親にとって息子と娘は違う。我々にとっては、自分の欲求に合うものが価値あるものになる。母親の欲求、つまり母性愛は、男性的なもの、つまり、弱さ・不完全さ・たどたどしさを求めていて、その逆のものを嫌う。だから、「おしゃまな女の子」は嫌われるのである。たいていの女性は、自分は強く、男性や息子は弱いとは思ってなく、その逆であると思っている。しかし、彼女の体はそう思っていないのだ。本質的に強者であり、野生的で生命力あふれる女性は、息子という自分の対極にいるものに愛着を感じる。息子につくすことで、母性愛という欲求は満たされるのである。ニーチェは『母親は、子供の中の自分を愛している』と言っている(これは二〇〇三年か二〇〇四年のNHKの「中学生日記」という番組の中に出てきて知ったのであった)。これの解釈は、いろいろあるだろうが、その一つは、子供、特に息子の中に母親の望むものがあり、それをかまうことによって何かが得られるからこそ、彼女は息子をかわいがることに専念できるのである。全ては、自分の欲求を満たすためにやっているということだ。
女性の母性愛という欲求を満たすものは、はじめ夫だった。しかし、息子が生まれたとたんに、夫はその座を息子に奪われてしまうのだ。彼女にとって、息子は夫よりも女性の欲求に応えるものが強いのである。娘は母親の欲求には合わないので、母親は娘のことを息子よりかわいがらない。娘には、彼女の求める弱さ・不完全さ・たどたどしさが不足しているからである。つまり、女性にとって息子はペットなのである。しかし娘は、ペットにするにはしっかりしすぎているのである。かわいがられるということが、けして喜ばしいことではないということがわかる。つまり、不完全なもの、頼りないものと見られているのである。だから、母性愛をくすぐるのである。母親にとって息子は、自分にない弱さ・不完全さ・たどたどしさをもっている者で、そこがかわいいのである。それに対して娘は、自分と同等である完全な者、強者なのである。だからこそ、困ったことが起こったときには、母親は日頃ないがしろにしている娘をより頼りにするではないか。気づかわれ、かわいがられている者は、いざというとき、あてにされないことが多い。日頃はいいかげんに扱われて冷たくされている者こそ、いざという時に頼りにされるのである。
女性にマザコンはいない。それは、男性だけのものだ。マザコンとはマザーコンプレックスのことで、この言葉はフロイトの弟子で精神医学者のユングの用語である。ユングのこの用語の意味では『母親の考えや言動に左右されやすい心的傾向』(広辞苑より)とあるが、一般に広まっている意味は、母親の言うなりになる、母親を頼りきっている、母親が大好きである、母親のそばに居たい、母親がいないと不安である、つまり母親という強者にかわいがられ、その居心地のよさから離れられなくなった男ということだ。女性でこのような傾向をもつ者を、私は見たことがない。娘はたいてい母親とは仲が悪いとまでいかなくても、ライバルの関係であり、息子のように母親の中に居ようなどとは考えない。では、ファザコンはいるのだろうか。こんな用語はない。あるとしたら、フロイトの用語であるエレクトラコンプレックスで、『女児が父親に愛着をもち、母親に反感を示す傾向』(広辞苑より)をいう。しかし、娘が大きくなった場合には、父親と仲が良くても、いつも娘が父親をリードし、面倒を見ているのであって、父親に頼りきっているのではない。むしろ、父親が娘を頼りにしているのである。父親にとって、娘は第三の母親なのである。第一の母は自分を産んでくれた女性、第二の母はお嫁さんである。娘は、父親の面倒を見ることで、強者である女性の欲求、つまり弱い者の面倒をみたいという母性愛を満足させているのである。ここで前出のマレ「子供の発見」より関連のあるところを引用する。
ここで取り上げられている事柄は、母親が女性であり、息子が男性であるということだ。異性が互いに引き寄せ合うことは、決っして単なる憶測ではない。このような事実は、まぎれもなく、わたしたちが、生まれながらに持っている天性のようなものである。しかし確実なのは、この特性が、身内の者と、身内以外の者とを区別するようなデリケートな神経を持っていないということである。つまり、異性が相引くという原理は、続柄や等親などを全然問題にしない。当然の結果として、男の子が母親を愛する場合と、父親を愛する場合とでは、愛し方が違ってくる。また、娘と父親との関係と、娘と母親との関係では、質が違う。親の側から見ても、同じことが言える。母親と息子の結びつきが、母親と娘との結びつき以上に強く、しかも質が違うのは、ひとえに、息子が男性であるからだ。つまり彼女は、息子に対して特別やさしいのである。・・・母親が娘に対して割合素っ気ないことは、確かである。しかも、女対女の母娘関係には、非情、陰険、冷酷の痕跡が、女対男の息子との関係よりもずっと多く見られる。・・・一方男対男の父子関係にも当然、類似の行動方式が現れるだろうと、考える人がいるかもしれないが、この推測は当たらない。父親は自分の息子たちを、彼らが息子だという理由だけで、かわいがることが多い。
ここで、女性同士の関係にみられるこのような不和の原因を探る必要がある。女性同士の関係は昔からよくない。女性同士の友情は稀有であるし、友愛というような言葉を、女性に適用する者は一人もいない。男性の中にもいないし、女性の中にすらいない。女性の同士愛は、存在しないと言ってもいい。彼女たちには、今まで連帯感がなかったと言ってもいいし、今日でもないに近い。・・・一方、男性の場合の事情は、がらっと変わる。彼らの相互関係は昔から円滑である。男たちは、互いに好感を抱き、進んで親交を結ぶ。遠い昔から、男たちは手を結び合ってきたし、今日でも彼らの連帯感は強い。彼らは進んでグループを結成する。某組合、某学友会、某支部、某修養会等々。彼らはクラブや協会や、あるいは常連の飲食店で、男たちの社交界を楽しむ。中でも最大の男の団体は、ほとんど全国の男たちを一本にまとめて一つの共同体――今は廃止された――を作り上げる軍隊である。ここで男たちは戦友となった。
マレ氏は、この文章の後で、引き続き女性同士がどうして男性同士のような付き合いができないのかを考察しているが、失礼ながらそれらには決定的なアイデアが欠けているので、それをここで紹介することはしない。これから、前記の問題(母と息子、娘の関係や女性同士の不仲)を、もっと高い視点から見ることにしよう。私は、これらのことを説明する簡単なアイデアを、ニーチェ「道徳の系譜」(信太正三訳、筑摩書房)に見つけた。私は二〇〇五年の冬、秩父のある老人保健施設で、重度の痴呆のおふくろのめんどうを見ながら読んでいたこの本の中に、次の文章を見つけ震撼した。これで男女間の最も重要な問題に、ついにけりをつけることができた、という思いで満足した。その部分を引用しよう。
この点を見のがしてはならないが、強者らは必然的に互いに分離しようと努めるのに、弱者らは必然的に寄り合おうと努めるからなのだ。強者らにして結合することがあるとすれば、それは彼らの権力への意志の攻撃的な総合行動と総合満足を見込んでのことにすぎないもので、個々の良心の大きな抵抗なしにはすまされない、これに反して、弱者らが連合するのは、ほかならぬこの連合そのものに愉悦を覚えるからなのだ。
女性と女性は両方強者であるので、必然的に分離しようとする。また、男性と男性が互いに溶け合うような友情をむすぶのは、彼らの中に互いに求め合い、協力し合う弱者の本能があるからである。このように考えると、前に説明した母親と息子は仲がよく、母親と娘は仲が悪いことが、より明快に理解できる。さらに、他のあらゆる種類の男女組み合わせの仲・不仲についても理解できるのである。
たとえば嫁と姑の仲が悪いのも、女性同士だからであり、両者は強者であるから、対等な相手と協力していくことが苦手であり、すぐに権力闘争が始まってしまうのである。男性同士のように互いにもたれ合うようなことができない。強者は互いに眼をそむけ、張り合い、時には憎み合い、攻撃し合うものだ。全てを自分だけでできる能力をもち――女性はけして、自分のことでは困らない(ヴォルテール)――、全てを自分だけで決められ、相手に助けを求める必要の少ない女性にとって、対等な仲間は必要なく、かえって行動のさまたげになるだけなのだ。しかし、弱者である男性同士の婿と舅では、仲が悪いというのは聞いたことがない。この二人は「サザエさん」のマスオ君とナミヘイさんのようにたいてい円満だ。
また前記のように、母親が息子に比べて娘をかわいく思わないのは、娘は女性であり、したがって強者であるからである。母親と娘は強者同士であり、互いに相手をライバルと見るため、安定な関係ができないのである。しかし母親と息子の場合、母親(女性)は強者、息子(男性)は弱者、という強弱関係が、この二人を安定な関係にしているのである。前記のように、強者は弱者を支配し、いたわることにより、ある満足感を得るのであり、弱者は強者に従うことにより、ある満足感を得るのである。しかし、弱者であると思っていた息子が、強者のふりをしたとき、母親は大きな怒りに駆られることもあるのであって、これは、自分の思ったようになっていないということに対する反応(怒り)であり、「かわいさ余って、憎さ百倍」と言われているものなのである。
父親と息子は弱者同士であり、それは前記のニーチェの言葉では、『連合そのものに愉悦を覚える』のだから仲良くできるのである。また、娘と父親は、前記のように娘が父親をリードしたり、気づかったりする強者の役であり、父親は弱者の役であるから安定した付き合いができるのである。
我々は、有能な者の中にいるとき疲れる。本章の初めのほうで記したように、男女共に、女性の中にいると疲れると言う。これは、女性の欠点ではなく、女性が男性より通常の生活――芸術・科学・哲学など特殊な部門においてはそうでないが――において有能であることから理解できるのであり、女性が日常において、生きるということにおいて、男性よりはるかに有能であることの証拠であり、男性に比べて強者である女性の相手を威圧する力が、男性に比べてはるかに大きいことが現れているのである。
第九節 男性によって作り出された女性像
女性は自分自身の美や肉体のエロティックさを、男性が考えるようには意識していない。それらは、いつも生きるために利用しうる道具くらいにしか意識されていないのであろう。
性的なことに関してみてみると、女性が「あらいやだわ」などと言うと、それを聞いた男どもは、「色気をだしちゃって」とか、「かわい子ぶっちゃって」とか、つまり、その女性が性的なアピールをしているのだと思ってしまうのである。これは、私の母親が麻雀屋で働いているときに経験したことだ。男性は女性の考えや行動を、いつも自分の欲望に沿って推測してしまっている。男性は、自分が女性に感じるようなムラムラする気分を、女性も自分自身の身体、あるいは他の女性の身体に対して感じている、という間違った考えをもってしまっている。男性が女性に感じる性的興奮を、女性は自分に対してまったく同じように感じ、それを表現しているに違いないと決めつけてしまっているのである。しかし女性はけしてこのようなことを感じていない。それを感じるようには、体ができていないのだ。
もし女性が、男性が女性の体に感じるような性的な興奮を、自分自身、あるいは他の女性に感じるのなら、ポルノ雑誌を見る女性は多いはずであるが、そのようなものを見ている女性はまずいないであろう。男性と女性の視点はまったく違うのである。また、女性が身に着けるエロティックな下着について、男性がそれを見て感じるのと同じようには、女性は感じていないことも重要である。女性が極めて小さい下着を身に着けようと思ったとき、男性に生ずるような性的な興奮はないものだ。しかし、男性は、男性が女性に感じるような性的欲求により、それらを身につけて、自分でも興奮を味わっていると考えてしまっている。もともと、これらのエロティックな下着を考え、女性に着せたのは男性なのである。女性自身は、こんなものを着たいと全然考えていなかったのだと思う。だから男性諸君は、女性が我々男性とはまったく違う視点、感覚でそれらを身に着けていることを覚えておく必要があるのである。
エロティックな下着と言ったとき、男性と女性では、その意味するところがまったく違うのである。「ある事」、「ある行為」を互いに「エロティック」という言葉で指し示すのであるが、それの意味するところは男女でまったく違うのである。たとえば「黄色」という色を見たとき、ある者は色神経が他の者と違っていて、それを他の者の感じる「赤色」と感じているとする。しかし、彼はそれに他の者が名付けた「黄色」という名前を付けている。だから、「黄色」を見たとき、彼は「赤色」と感じるけれど、他の者と同じくそれは「黄色」だと言うのであり、一見他の者と同じに感じているように見える。しかし、彼は「黄色」という色に、他の者と同じものは感じていないで、「赤色」と感じているのである。ただ呼び名として「黄色」を当てているだけなのだ。しかしこの違いは、表面には出てこないのである。同じ名前が付けられた色が、人によって違って感じられているかもしれないのであるが、これは調べることができないのである。それは、他人の感覚と自分の感覚を比較することが絶対にできないからである。我々は自分の視点からしか見られないのである。だから、いつも他人も自分と同じように感じているかもしれない、という憶測を出られないのである。男女は、互いに相手が何を感じ、何を考えているのかを知ることはできないのである。物質的なものから感覚的なものへの過程は、科学的には理解しがたいところがあり、哲学などでは「クオリア」と呼ばれるものを想定する者もいる。
もし、女性が男性の想像するような感覚で、エロティックな下着を身に着けているのなら、誰にも見える所にそれらの洗濯物を干す者がこれほど多くいることはないであろう。女性は、それらを他人にみられても恥ずかしいとは思っていないのである。それは、それらの下着に対して、男性が感じているようなことをまったく感じていないことを示している。
余談ながら、エロティックな話題として昔、TVで次のようなおかしな番組があった。若い女性が台の上に立ち、手すりにつかまってくしゃみをさせられ、それを皆で見るのである。女性は鼻の中に毛をいれられくしゃみを誘発させられる。なんとも変な番組であり、すぐになくなってしまった。しかし、私はこの番組に興味があった。女性がくしゃみをする姿は、実にエロティックなのだ。女性のあらゆる生活シーンを、エロティックに感じてしまう男性にとって、とりわけ、女性がくしゃみをするときの体の動きには、きわめてエロティックなものを感じるものだ。まず深く息をしてから、それをいっきに放出する。そのとき、体のいろいろな部分が揺れ動くだろう。いろいろな筋肉が緊張することも想像できる。男性はそれらにエロティックな興奮を感じるのだ。また、女性がのどにたまった痰を排出するために、のどを細め、肺からの空気を瞬間的に外へ出すときの体の動きと、そときに発する声(はっはっは・・・)もきわめてエロティックなものである。しかし女性は、この様なことに関して何も感じないだろう。このような話は、男性にしかわからないことで、女性とは考えを共有できない。誰でも自分の想像や推測によって、大半を把握してしまっている。男性は自分のかってな思い込みで、女性を把握してしまい、それをけして変更しないでいる。男性と女性は見かけだけでなく何もかも違う。生まれつき相手を追いかけるようにできている者(男性)と、追いかけられるようにできている者(女性)の違いであり、下品な言い方をすれば、冒す者と冒される者の根本的な違いなのである。
男性は女性に夢のようなものを求めているが、女性は男性にそのようなものは求めていない。ただ、利用しようと思っているだけで、きわめてクールだ。男性が女性に感じているイメージは、全て男性がかってにこしらえてしまったものだ。たいていの男性が考えているような女性などは、世の中にはいないものだ。女性は男性のようにロマンティックではないし、繊細でもなく、くだらない夢などは見ていない。まして弱くも、優しくも、デリケートでもない。たいていの演歌に歌われているような女性像は、全て男性の作詞家が作り出したもので、あんな異様な人間は、けして存在しないことは確かである。なんと女性の作詞家までがこの影響を受け、男性作詞家に近い歌詞を書いている始末である。ところがたいていの人は、なんと女性までもがこの間違った女性像に疑問をもたないのだ。つまりほとんどの人は、我々の本当の姿を認識していないということになる。つまり、言っていることと行為がまったく違っているのである。大昔に作られたドイツメルヘンには、男女の本当の姿が非常に正確に描かれているのに、現代に至るまで、あいかわらず間違った認識が繰り返されているのである。
はじめに述べたように男性は、女性が多くの男性の中にいるときの言動を、自分をかわいくセクシーに見られたい、という願望からきているものと思っているのだが、これは間違っている。女性が男性の中で気を使っているのは、そのような浮いた欲求からきているのではない。つまり、単にその中でうまく振舞うことにより、感情的満足なんかではなく、何らかの実質的利益を得ようという乾いた目的のための行動にすぎないのだ。前記のマレ氏の文章にあるように、彼女は自分が女性であることを、あるいは美貌を、場合によってはセクシーさを利用して、うまく生きようとしているだけなのであって、男性が感じる意味でのエロティックな快感を求めての行動などは、断じて考えていないのである。
第一〇節 女性は本質的に二枚目である
男性のタレントは、二枚目で出てきてもやがて三枚目になってしまう者が多く、最後まで二枚目でいられる者は少ないように思える。男性は禿げ易く三枚目になりいやすのである。男性が二枚目でいることは、きわめて不安定であるのだ。二枚目を維持することが難しいのは、何か無理をしているからだ。男性は本質的に三枚目なのである。だから二枚目に居ても、少しバランスがくずれると三枚目に《落ちて》、そこで安定してしまう。《落ちて》という表現は、三枚目になってしまった者が二枚目に再びなることはけしてない、つまり、下にあるものが自然に上に浮かび上がることはないことから、妥当な表現ではないかと思う。男性は恰好よくしていても、それは女性に対抗しているだけで、無理しているのである。男性が二枚目になっているときや、恰好つけているときは、きわめて不安定な状態なのである。本質的に恰好よいのではなく、ただそのふりをしているだけであるので、何時力がつきてしまうかわからないのである。才能のない者が努力でつないでいるのと同じなのである。
ところが女性は、本質的に二枚目なのである。だから男性とは逆に、女性が三枚目を演じるとき、無理している、あるいは場違いなことやっている、ということが誰から見ても明らかなのである。女性は安定した二枚目であり、本質的に恰好いい存在なのである。前記のように、女性は第二の意味でのかわいさ、恰好よさをもっている。女性は幹であり、本体であり、けして道化役には成りえない。女性はそのままで、何の努力もしないで二枚目でいられるのである。これが落語の中には、けして女性のばか者が出てこない(立命館大学の先生がNHKのラジオ放送で二〇〇五年に言っていたこと)ことの説明にもなるのであるである。
二〇〇九年現在、「だめ男」(だめおと読む)が話題となっている。女性から見て、あるいは女性と比較して、無神経、無能、ぶざま、まぬけ、恰好悪い、と思わせるような実に醜い男性特有な行動をする男性のことだ。あるNHKのラジオ放送でも「だめ男」について特集していた。しかし大事な事は、このような恰好悪い男性がたまにいるのではなく、男性は全て「だめ男」なのであり、その本性が女性のように優等な男性は絶対にいないのである。もしそのような男性がいたとしたら、彼はなんとか根性でその醜いところを隠し通しているわけであって、これにはかなりの努力が必要なのである。男性が女性のように恰好よく振舞うには、女性と違いかなりの努力と無理が必要なのである。であるから、男性は誰もが、いつか力尽きて、本性をさらけ出さねばならぬ時が必ず来るのである。その姿を見て、女性は男性というものにあきれはててしまうのであり、男性というもののぶざまな本質を知るのである。
女性の二枚目的な魅力、つまりかわいさや恰好よさ、もっと正確に言うのならエロティックさ――このような魅力には、全てエロティックなものに起源があるという大胆な仮説が出てくる――に対する男性の関心は、遊びや芸術に対する関心とは違い、これらよりはるかに強いし、確固たるものである。芸術などへの関心は常に力を入れていなければ持続できないが、男性の女性への関心は、我々が努力していないとすぐに引き込まれてしまい、それを我慢するために大きな力が要るのである。そのために、いかに多くの犯罪が行われているかを知るがいい!
第一一節 「ふざける」の史上初めての科学的解釈!
「女性度」というものを定義するならば、これが高くなればなるほど二枚目的行動(恰好よく、エロティックで主役的なもの)を無理なくこなし続けることができるのであり、「ふざける」という自らを三枚目的行為で《落として行く》行為は少なくなっていく。前記のように男性は、この「女性度」が低いために二枚目的な態度を安定して永く続けられないのであり、それに耐えかねて「ふざける」という態度が出てくるのである。男性は「ふざける」という行為により、男性の本質である三枚目という安定点に落ちつこうとするのである。これは、男性が体に合わないことをやっていることに対する不快さから一時的に逃れるための手段であり、言わば麻薬なのである。時々、自分本来の居所に戻る、生まれ故郷に帰ることにより、この不快を中和しようとするのである。一方、女性は本質的に二枚目なのであるから二枚目的行為に対してこのような不快を感じることはなく、「ふざける」という行為をする必要がないのである。事実、女性が男性のように「ふざける」ことは少ない。女性は、常にまじめで二枚目で恰好よい存在に安定して居続けられるのだ。
女性が二人いて共同作業をしているとき、「女性度」が高い方は常に「ふざける」ことなく二枚目の行動を安定して維持することができる。しかし、相手より「女性度」が低い方、つまり弱者は不安定になり――我々の態度は、常に相手と自分との関係によって決まる――、ふざけたり、おどけたりする行動が多くなってしまうのである。
第一二節 バスト
男性も女性も女性を見るとき、まずバスト(女性の胸部のこと)に目がいくと言われている。男性は当然であるが、女性の場合も同じで、これは数人の女性からきいたことなので確かなことだろう。女性は、女性に対してエロティックな関心はないのであるが、気にしているというわけだ。いかに女性が、そしてそのバストが、我々にとって重要なものかがわかる。私が小学生のとき、バストの小さい女性の先生がいた。運動会のとき、男女が踊る種目があった。そこでかかった音楽に合わせて皆で歌った。それは、「マイムマイムマイム・・・」という歌詞だった。皆はそれを変えて「XXXX、Xぺっちゃんこ」と歌った。Xはその先生の名前である。つまりX先生はおっぱいが小さいよ、と言っているのである。男子生徒は――女子生徒もかもしれない――相手の女性のバストを気にしている。それが大きいとき、ある種の不快であるエロティックな興奮に襲われたり、ある種の威圧を感じたり、敬意を表したりするものだ。しかし、それが小さいときには、がっかりするだけでなく、バストが小さいという不幸を嘲笑し、快楽のネタにしてしまうのである。男性がボディビルディングで胸を大きく、足を太くするのも、女性の体に近づくため、あるいは対抗するためではないのか、と考えてしまうのだがどうであろうか? しかし全ての男性が、無意識に女性の体に憧れていることは確かなのである。
第一三節 衣服について
女性の衣服の種類は、男性のものに比べてはるかに多くある。それは下着に限定しても、男性のものの一〇〇倍以上の種類の商品がスーパーマーケットには並んでいる。男性のファッションは、背広が出てきてからなくなってしまった、ということを何かで読んだことがある。そのとおりに男性の衣服は種類が少ない。売り場にたくさん置いてあっても、同じ種類のものがたくさんあるだけであって、形はほとんど同じなのである。男性が女性の着るようなものを着れば、間違いなくおかしい。しかし女性は、どのようなものを着てもステキであり、男性の着るようなものを着ればまた新たな魅力が出てくるものだ。これは、いじめの問題においての一つの考え、「どんな行動をしても、生意気・分不相応と見られない者は、いじめられない」ということに対応している。つまり、何を着てもおかしくないということは、何をやっても、何を言っても、周りの者に不快を与えないことと同じであって、これは、その者がより強い者、魅力ある者、高貴な者、価値ある者であることの証なのである。このような優者は、どんなラフな恰好をしても、また正装をしていてもまったく違和感がないものだ。誰もがそれについてとやかく言う気になれない。もし、からかいでもしたならさっそく反撃がきそうな恐ろしさを感じさせるのだ。敵にしたくない、友だちになりたい相手である、と相手に感じさせるのである。その者は、誰にもその者を刺激しないほうがよいと判断させ、また、刺激する意欲も起こさせないのである。何か余計なことを言ったりやったりして、その強く、不気味で、不明な相手を刺激しないほうが得であることを、誰もが本能的に知っているのである。その迫力を前にして何も言えなくなってしまうのだ。
女性は何を着ても、けして《なまいき》にも、《分不相応》にも見えないのである。このことからも、女性が男性より上位の存在であることがわかるではないか。
第一四節 おねえちゃん
日本語をしゃべる者の中での話ではあるが、女性は「おねえちゃん」、男性は「おにいちゃん」と呼ばれることがある。どうだろう、「おねえちゃん」は、その響きからして何かしっかりして、前記第二の意味でかわいくて、恰好よくて、たのもしく、しかもエロティックな印象があるではないか。「おい、ねえちゃん」と言われたとき、ばかにした感じはない。相手を対等以上に見て、頼りにしている感じがするではないか。これは、女性の本質と一致するのである。一方、「おにいちゃん」は何かばかにした、軽く見られた感じがする。年が大きくなった女性が「おねえちゃん」と言われたとき、当人も周りの者もいやな言い方をするな、と感じるが、それ以上の不快は感じないものだ。しかし、男性が「おにいちゃん」と言われると、当人を含めた誰もが侮辱されていると感じる。たしかに両方共に、相手に対して失礼な言い方だが、その質はまったく違う。「おねえちゃん」は魅力を感じたり、恰好いいと思ったり、エロティックなものを感じたりしたときの「ムラムラした感じ」、つまりある種の不快に対処するために吐き出されたいわば苦し紛れの文句であるといえる。その相手に対抗する、挑戦する、いじわるをして反応を見る、といったイメージがある。一方、「おにいちゃん」の方は、ばかにしているというイメージしか感じない。英語でも同じで、「ボーイ」と「ガール」の響きの印象の違いは、「おにいちゃん」と「おねえちゃん」の関係と強く似ている。不思議なことは、これまで述べてきたような男女の差異が、「おねえちゃん」、「おにいちゃん」という言葉の響きに現れているのである。男性と女性の印象が、その名称から受ける印象に正確に対応している。これは、人間の魅力・顔・体形骨格・声・しゃべり方・しぐさ・性格の間に決まった関係があることと同じである。恰好いい者は、その風采だけでなく、しぐさ・声・しゃべり方といった全てがエレガントで魅力的なのである。
一般に言えることであるが、あるものにつけられた名称からうけるイメージは、そのものからうけるイメージに一致していることが多い。たとえばフランス人やドイツ人や中国人の風采に、フランス語やドイツ語や中国語は合っている。もし、ドイツ人がフランス語を話したらおかしい。ナチスのヒトラーが、あの演説をフランス語でやっていたらおかしい。あの演説は、彼の性格から出てきたものというより、ドイツ語から出てきたものなのである。もし、彼がフランス語を母国語としていたならば、あのような激しい演説をするような性格にはなっていなかったであろう。フランス人において、ヒトラーやムッソリーニのような激しい演説をした者がいたであろうか? イタリア人にはイタリア語、スペイン人にはスペイン語が合っている。もし、イタリア人が中国語を話していたら奇異だろう。我々は、不思議なことにその奇異さを正確に感じることができるのである。スペイン語の突き刺すような響きは、スペイン人の獰猛な性格に合っているし、イタリア語のあの独特の抑揚は、イタリア人の陽気で非ドイツ的な性格に合っている。各人種の印象は、その言語から受ける印象と一致するのである。
これらは、けして科学では解明できない我々が今までに考えてもみなかったような謎なのである。言語というものは、我々の一部分、我々の所有物ではない。つまり言語は、我々がこの世に現れたのと同じに、《我々が作られた原因》によって作られたのである。であるから、我々と言語の関係は従属関係(我々が言語を作り、支配、管理しているという)ではなく、対等な関係なのであり、しかも密接な関係がある。人間や生物が、我々にとって永遠に謎であるのと同じように、言語は、我々にとって永遠に謎なのである。
話はもどって、「ぼうや」という単語もひどいものだ。これは「おにいちゃん」よりさらにひどい。男性の本質がまぬけで、恰好わるく、みっともないものであることが、この単語に表されているではないか。
相手の呼び方について、もう一つおもしろいものがある。相手が男性の場合、目下のときは「~君」と呼び、目上のときは「~さん」と呼ぶ。しかし、相手が女性の場合、目下でも目上でも「~さん」と呼ぶことが多い。つまり女性は、どんな立場でも「~さん」と呼ばれることが多いのに、男性は、目下であればほとんど、男性からも女性からも「~君」と呼ばれる。「~さん」は、「~君」より敬意を表すものなのであるから、我々は男性より女性に、より敬意を感じていることになり、なんとこれも、男女の関係の本質に合致しているのである。
第一五節 老人と幼児
子供(幼児)や老人の場合、男女の本質的な優劣がそのまま出ているものだ。前記のように子供の場合、女性は「おねえちゃん」と呼ばれ、その響きからして頼もしく、恰好よく、エロティックな雰囲気まで漂う。男性は「おにいちゃん、ぼうや、ぼく」などと呼ばれ、軽く見られていることが現れている。そして外観も、女性に比べてみっともない感じだ。男児は、いかにも「ぼうや」、「ぼく」という感じなのである。
これは、老人についても言えることである。老人の場合でも、女性のほうがより美しく、恰好いい。男性は「だしがら」みたいである。まるで、子供のときの「ぼうや」という感じが復活してきたかのようで、いかにもみっともない感じである。老人でも女性の体形は美しいが、男性はボロ雑巾のように見え、しょんぼりしている。子供と老人には、男女の本質的な違いがそのまま出てきているわけである。
よく女性は年をとっても、男性のように貫禄とか、味が出てこないと言われている。確かに功績を上げた男性は、りっぱな風貌になっていく。男性も二〇から六〇才くらいの間では、女性よりステキな風貌をもつ者も多い。誰でも健康で、うまくいっていて、楽しいときには、顔も、体も、動作も魅力的に見えるものだ。社会においてうまくいっている最中の男性は、だから魅力的に見えてしまうのである。男性は女性よりはるかに遊び人なのである。だからこそ、自分の好きなことをやっていて、それがうまくいったときの喜びは、女性に比べてはるかに大きい。その大きな喜びが男性を美しく《見せかける》のである。女性は一つのことに執着し、喜び、興奮するというより、もっと全体を気にしている。特定のことに執着することのできる女性は少ない。いつも全体を、《母親のように》見ているのである。
社会で成功した男性には、昆虫のオスのようにメスよりも美しい装飾が、そのメスより劣る体の表面に施されていくのである。しかし、その成功の期間が終わると、その中身が子供時代と同じようにむき出しなってしまうのである。退職してぶらぶらしている男性は、それまであった美しい薄いメッキがはげていくのである。そして、子供のときのように女性に比べて、その外観が劣っていくのである。これが男性の正体なのであろう。たまたまうまくいって、美しく見えるようになったというわけだ。これが男性の青年期から壮年期にかけての美しさなのであろう。加速している者は、いつも美しい。しかしそれが終われば、まぬけで、醜い者になってしまう。しかし女性は、いつもその美しさ、恰好よさを安定して維持しているものだ。女性は、その生涯にわたりそれらを保っている。魅力というものを、安定して保っているのである。序盤で優位に立ち、中盤で男性に抜かれるが、最後にまた抜き返す、というわけだ。
第一六節 離婚について
年取った夫婦において、女性が離婚を申し出てさっさと出て行ってしまうという話は多い。男性は、「今まで苦労をかけてきたから、これから二人で仲良くやろう」などと考えているのに、女性のほうはまったくそんなことは考えていない。女性は、男性の論理では動いていないということだ。ここに、男性と女性の大きな違いが現れているのだ。
年取って夫に先立たれた女性は、それ以後、むしろ今までより元気になり、活動的になり、友達も多くなっていくものだ。男性より強者であり野生的な女性は、男性のように思い出を回想することにふけるなどというデリケートなことはまずやらない――強者、つまり健康な者、社会的生理的に優位な者は無神経でいられるのであり、神経質になる必用がないのである(必要のないことをやる者はいない)。神経質は弱者特有の症状なのである。だから、いままでのことにまったく振り回されない。しかし、弱者である男性が相手に先立たれた場合、最も大事な支えを失ったという気分でいっぱいになり、元気がなくなってしまい、思い出にひたり続けるのだ。彼は、今までいかに彼女に頼っていたのかがわかるのである。しかし、女性にとっては、今まで彼を「ほんのつかの間利用してきた」という感覚しかない、つまり、彼女は誰にももたれかかる必用のない強者なのである。
男性と女性の間にいざこざが起こると、男性は怒り狂い、迷い、気が転倒し、時に反省し、めちゃくちゃになる。一方、女性のほうは、冷静・冷酷であることが多い。女性は、このめちゃくちゃになった男性を見て、いっそう冷静になっていく。男性はこれを感じて、いっそう不快になり、また、負けている自分を感じて焦っていくのであり、これは弱者のお決まりの反応なのだ。そして最後に反省し、あやまるのはいつも男性だ。女性は、絶対反省などせず安定を保つ。そして、相手の男性にあいそをつかす。迷いのない女性は、けして自分が悪いなどとは考えない。そして、女性はさっさと出て行ってしまう。男性は、それをなんとかくい止めようとする。
二〇〇五年四月のあるTV番組では、離婚の問題が取り上げられていた。結婚から二〇年くらいで離婚するケースが多いようだ。女性の男性に対する不満は、一日中家にいてむさくるしい、用もないのにしゃべりかけてくる、といった《ひどい》ものだ。男性の女性に対する不満は、うまい食事を作ってくれない、話をしてくれない、優しくしてくれない、といったものだ。この両者の不満は、その質がまったく違うことがわかる。明らかに、女性は男性にあいそをつかしており、不満の根底には男性に対する幻滅の気分がある。男性はこれに気づいていないことが多い。女性が夫に魅力をまったく感じていないのに我慢しているのは、彼がお金をもってくるからなのだ。「亭主元気で留守がいい」とは、このことを言っているのである。しかし、男性は妻に魅力を感じ続け、何かを期待し、何より頼りにしている。自慢話も聞いてもらいたい、その他の話もしたい、ぐちも聞いてもらいたい、身の回りの世話もしてもらいたい、という具合だ。だから、夫の妻に対する不満は、たいてい妻が自分のことを相手にしてくれないというたぐいの内容だ。男女の強弱関係は、このようにはっきり出ているのである。夫は妻だけを見ている。しかし女性は、いつも生きるためにどうすればいいのか、という視点から全体を冷静にながめているのであって、夫はその中の一部でしかない。夫が妻にしてあげ、喜んでもらいたいと思っている夢のようなことなど、女性はけして求めていない。女性はもっと現実的なことを求めているのである。
二〇〇五年九月のニュースによると、三〇才の夫が、三一才の妻を布団に押しつけ窒息死させた。彼らは一年くらい前に結婚した。この事件の少し前に子供が生まれた。彼は、「妻は子供が生まれてから、自分をかまってくれなくなった」と言っているそうだ。妻の関心が子供にいってしまった、ということだ。はじめの子供が生まれると、夫婦のそれまでの甘い生活は終わる、とはよく言われる。女性には次の仕事が入ってきたわけで、それまでのように夫だけをかまってはいられない。妻は次の段階に迷うことなく進むのだが、弱者である夫は想い出にふけり前向きの行動ができないのである。
ある詩人が――たしかボードレールだと思うが――「結婚は女性にとっては重大なことだが、男性にとっては単なるエピソードにすぎない」と言っていたが、それは逆である。現在では、女性はいとも簡単に離婚していくではないか。幹である女性は、つまらない男性と我慢していっしょに居る必要はない。女性は一人でも生きていけるのである。たぶんボードレールはこの問題をまったくわかっていない。離婚を言い渡す女性にとって、夫の価値はなくなってしまっている。知れば知るほど、夫の価値はなくなっていったのであった。しかし夫にとっては、結婚当初から妻の価値はたいして下がっていないのである。男性は、生涯に渡り女性に魅惑され続けるのである。
これは、息子と母親の関係でも同じである。この最も仲の良い関係は、よく見るとけして愛すべき関係ではない。息子は無条件に母親全てを愛するが、母親はそうではなく、自分の求めるものだけを愛して、その他は冷酷に切り捨てている。これは、前記のニーチェの『母親は、子供の中の自分を愛している』が良くたとえている。一見すると、男性のほうがやりたいほうだいやっているようだが、実は、それらは女性の手の中にあるものであって、女性は強者のやり方で男性――息子も――をうまく利用しているのである。昔読んだ西遊記の漫画で、孫悟空は気がつくと観音様の手の中に居ただけであったというのは、正にこのことなのである。この西遊記も、ドイツメルヘンと同じように男女の本質を知っているのである。女性はきわめて現実的だ。生きるのに必要なことを優先して考えており、つまらない夢や余計なことなどは考えていない。だから判断が早く、冷酷なのだ。男性のように、恰好つけたり、良く見せようとしたり、その他いろいろなことを考え迷ってしまうことがない母親にとって、最も愛すべき息子のことでさえも、冷たい目、高い視点から見ることができる。
女性が夫に離婚を迫ることに対して、男性は日頃もっと気を使えばいいなどという人が多い。しかし女性は、そんなことを問題にしているのではない。夫そのものに魅力を感じなくなり、あいそをつかしてしまっているのである。一週間に何回も「愛しているよ」などと言えばいいなんてばかなことを言う者がいるけれど、夫が完全に知り尽くされ、飽きられてしまったのであって、もはやどうしようもないのである。夫自体に――その態度や行動ではなくして――きっぱりあいそがつきてしまったということで、こういう場合、本体そのものが完全にあいそがつかされてしまっているのであるから、小細工はまったく効果がない。しかし、このことに気がつかない無神経でバカな男性が実に多いものだ。
第一七節 女は強者・優者なのに、どうして男のほうが有名人が多いのか?
この疑問に完全に答えてみようと思う。二〇一二年、質問サイトの「知恵袋」に次のような質問が投稿された。
女に生まれた劣等脳の諸君! 何でもいいから、せめて一個くらい発明できるようにがんばりたまえ。男女間の脳の性能の差が歴然としています。女の脳では文明社会は築けません。 全て男性の発明です。自動車・飛行機・ロケット・船・鉄道・オートバイ・コンピュータ・複写機・カメラ・テレビ・ラジオ・映写機・冷蔵庫・洗濯機・レントゲン 無線機・三権分立・免疫療法・ワクチン療法・憲法・法の支配・株式会社・先物市場・金融システム・レーザー技術・赤外線技術・光ファイバー 燃料電池・石油精製技術・アルミ精錬技術・化学繊維・人工衛星・羅針盤・ロボット・トランジスター・IC電話機・顕微鏡・望遠鏡・印刷機・拡声器 レコード・CD・DVD・時計・発電システム・送電システム・信号システム・通信システム・複式簿記・リニアモーター・ホーバクラフト・MRI・CTスキャン・超音波診断装置・・・
どうだろう、この意見、納得できるところもある。しかし私は、次のように反論してみようと思う。
男がそういう発明・遊びができるのは、女性の手の中にいるからなのだ。月着陸船が月まで行けたのも、サターンロケットがあったからだ。つまり連携プレイなのだ。男は独立し、自立しているわけではない。必ず周りのものと関係している。女性的なものの中にいるからこそ、偉大な仕事もできたわけなのだ。男は、女によって引かれたレールの上を、単に走っているだけであって、言わば、女性に完全にコントロールされているだけなのではないか? 女性は発射台、男性は弾丸にすぎない。サーカスで言えば、下で支えている者と、その上で宙返りをしている者の違いだ。どちらが偉いのか? 単に仕事の分担にすぎないのである。すべてはシステムなのであって、男性はその部品にすぎない。すべては関連しているし、独立・自立しているものはない。前記の功績は、このシステムの成果であって男性のみの功績とは言えない。
第二章 心理に関すること
第一節 肉体的なものの優越性
肉体的な魅力は、他のいかなるものよりも激しく我々を魅惑する。ここで、面白い例を話してみよう。あるとき、頭はいいが体が貧弱な女性Aが、敵対的な関係にある頭は悪いが体形、体格に恵まれた女性Bを見て、次のように言った。「頭が悪いくせに!」。これにより、彼女は肉体的に負けたという不快感から一時的に逃れようとするが、女性Bの肉体的優位性に強く嫉妬している。一方女性Bは、敵対的関係にある女性Aのことを「ぺちゃぱいのくせに!」とののしるだろう。しかし、彼女の女性Aより自分の方が頭が悪いということに対する劣等感は、悪質なものではないのである。それに対して、女性Aが女性Bを見て感じる肉体的な劣等感は、きわめて悪質なのである。
頭のいい女性Aは、社会的な地位として女性Bを超えている。しかし、彼女はどうしても満足できない。どうにも理性的には処理しきれない不快が、日夜彼女に襲いかかってくるのである。彼女は肉体的に女性Bより劣っているという不快感を「頭が悪いくせに」などという論理ではとうてい解消できないのである。自分は頭がいいという優越感でそれを埋めようとしても、どうにも埋められず悩まされ続けるのである。肉体的に劣っているということに、我々は最も大きな劣等感を感じるのであり、性質の悪い不快に女性Aは生涯にわたり苦しめ続けられるのである。一方、女性Bは快活な生涯が送れる。頭が悪いという劣等感は別のことで埋めることができる。肉体的に優位な者は、結婚相手にも恵まれ、子供もたくさんでき、友達も多くもち、幸せな生涯を送れるだろう。一方、頭脳的にだけ優位な者は、仕事において一時的には成功をおさめるが、結婚相手も見つからず、友達もいない寂しい人生となる。
頭が良い、肉体的に優れている、という二つの優越感は、その質がまったく違う。我々は本能的に肉体的優位性を最高に求めている。また、「肉体的に劣っている」という劣等感は、「頭が悪い」という劣等感に比べてはるかに悪質であるのだ。この劣等感は、我々を煮えたぎるようないらいらからけして解放しないのだ。
一九七〇年一一月二五日に割腹自殺した作家の三島由紀夫(一九二五年生まれ)は、一九六二年頃からボディビルディングを始め異常なほど熱中した。そして筋肉がついた体に大きな喜びを感じ、機会あるごとに裸になり、「薔薇刑」と題する自らのヌード写真集を出版した。小さいときから自分の貧弱な体に劣等感を感じていた彼は、作家という知的な活動の成功よりも、肉体的な優越の方により大きな喜びを感じるようになってしまったのだ。それは、生まれた時から肉体的に優れている者に比べ、はるかに大きなものとなるものだ。彼にとって、筋肉もりもりの自分のエロティックな身体を眺めることによる快楽は、知的世界での快楽をはるかに上回るものだったのだろう。
第二節 我々の相手に対する態度
我々は、自分が相手より下であると感じた場合、相手に気を使う。声は高くなり、早口になり、口数も多くなる。相手に飽きられてはいけないと思う。相手の気を引くような行動をするようになるのである。相手にあいそつかされたくない、自分を良く見てもらいたい、という気分である。また、相手より上だと感じた方は、相手を見下ろす態度が始まる。声は低くなり、ゆっくり落ち着いてしゃべり、口数は少なくなる。自分にこびる相手に不快を感じることもある。
我々はけんかや議論になったとき、相手との強弱関係がしゃべり方に影響を与える。つまり、二人の関係が自分のしゃべり方をコントロールしているのである。相手より強い立場の者は、おもしろいように相手を攻撃するうまい言葉が出てくるものだ。まるでどこからか湧き出してくるかのようだ。しかし、弱い立場の者はうまく相手を攻撃する言葉が出てこない。全ては二人の間の強弱関係に支配されているので、勝手な行動は許されないのである。強い立場にある者は、無意識的(どこからか確実性のあるアイデアが到来するということ)に相手を攻撃する言葉が出てくるのだ。これに対して弱い立場にある者は、何もかもうまくいかないのである。
態度が堂々としていないと、相手に軽く見られてしまい、話し合いや議論において相手のペースになってしまうと言われる。しかし、これは逆なのであって、堂々としているから優位に立つことができるのではなくして、相手より優位であることがすでに決まっていて、それを感じているからこそ堂々としていられるのである。相手より劣っていることを察知した方は、とても堂々とはしていられないのだ。この優位性は、けして行動とか努力などから生じるものではない。それは、我々がコントロールできないメカニズムにより決まってしまっているのであって、我々がまったく関与できないものが、我々の思考や行動を支配していることは確かなことなのである。
人が落ち着いていられるのは、相手に対して自分が優位に立っていると感じているときだ。頭の良さ・経済的なもの・体形・体力・健康さ・背景などのいろいろな我々の属性のなかで、その場で必要なもので優位に立っている場合、我々は落ちつけるのである。
第三節 魅力的なものは不明・ぶきみなもの
魅力とは不明なもの、未知なるもの、ベールに覆われているもの、まだ手に入れていないものなのかもしれない。俳優は客にしゃぶりつくされてはいけない、と言われている。つまり、自分の正体を知られてはいけないということだ。これはあらゆる者にいえることだろう。何もかもを知ってしまったなら、想像するものがなくなってしまい、魅力が失われてしまうのである。過去のことは知られてもかまわないが、現在のことは絶対知られてはいけない。宗教もそうであり、彼方に重要なものがあり、それには容易に近づけないとすることによって、より荘厳に見えるようにしている。我々を魅惑するものは、想像というものに関係しており、不明であったり、ここにはなかったり、現実にはなかったりするものなのである。旅行でも、誰も自分の住んでいる近くには行かず、遠く知らない所に行きたがるものだ。これははるか昔のローマ帝国の人も言っていることだ。
我々は神や道徳(善、悪)や我々の内容を作ってきた。昔から、「人としての心」とか「人としての道」とか言う。我々は何の根拠のなしに、我々の正体は崇高なものでなければならないとしてきた。『もともとうすっぺらだった我々の中には、内容が押し込まれて体積を持つようになった』(前出のニーチェ「道徳の系譜」より)、というわけだ。それと同じように、相手のイメージには、我々の想像したものが多くを占めているのであり、これが現実の把握を妨害している。だから、自分のいやらしい本性をかくして相手に見られないようにできる者は、相手を魅惑することができる可能性がある。相手の想像がすてきな自分を作ってくれるからである。しかし、相手の想像が下劣な自分を作ってしまうこともある。不明だからといっても、必ず魅力的になるわけではなく、嫌われればすべては悪く想像され、いっそう嫌われしまうことになる。
もともとうすっぺらである自分を厚く見せかけられる者は、魅力的に見られる。他人に自分の本性を全て知られることは、想像の余地をなくし飽きられてしまうことになる。我々にとって、衣装・化粧・変装・偽装は必需品であり、これがないと危険ですらある。相手にできるだけふくらまされて見られなければならない。相手に自分をふくらませて見られていたが、よくよく見られるとそれはうすっぺらであることがばれて、がっかりされてしまうことがある。そうなると、がっかりされるだけでなく、相手はいままで隠していた自分のいやらしい本性をちゅうちょなく出してくるし、バカにしたり、いじめたり、攻撃してくることがあるのだ。相手の全てを知ってしまうことや、相手に自分の全てを知られてしまうということで良いことは一つもないということだ。よく、「互いに相手を知り合おう」などというが、これは後述のように危険な行為なのである。
会社などで新人が入ってくるとき、そしてまだ本人を知らないでその経歴だけを見ているとき、誰もがその者に魅惑されていく。新人が歓迎されるのは、「未知なる者である」ということと、「パトロンががっちり付いている」という魅惑的な背景があるからである。それに対して、パトロンがいない組織から見放された――嫌われたと言ったほうがよいのかもしれない――出世できなかった知りつくされたベテランは、誰からも嫌われる。彼自身は何も変っていない。ただ彼の背景が変っただけなのだが。
判断にしても、人を魅惑する判断というものは、把握の困難さがある。音楽をはじめとしてあらゆる芸術、そして、他のいかなるものでも、この把握の困難さが人を魅惑する。綿密に練られたことがばれてしまった冗談などは、ちっともうけないのだ。すぐれた即興は把握しがたいゆえにうけるのである。それは、我々を連れまわし、迷わせ、だまし、考えさせ、回り道させ、興奮させ、緊張させるのであり、食べ物であれば香辛料の役目を果たし、長く飽きさせないのである。女性でいえば、衣服を剥ぎ取って中を見てみたいと思わせる、つまり、セクシーな体は魅力的であるというのだが、その正体は不明さというもの、相手に把握されないもの、わけのわからないものなのである。ある体形・体格の女体は、どうして男性を魅惑するのか? それは、何らかの不明さに関係しているのであって、そういう体には把握できないもの、未知なものがあるのである。つまり、野生的で生命力あふれる肉体は、虚弱でさっぷうけいでずんどうな、あるいは痩せこけた肉体に比べてはるかに把握がむずかしいものなのだ。我々はその未知なる身体能力に魅惑される、つまり、ある種の冒険心・探究心に、もったいぶらない言い方をすれば性欲にあおられるのである。また、我々はそういう魅力的な人が何を考えているか、何ができるのか、どこにどういうふうに住んでいるのか、と気になってしょうがなくなる。つまり、冒険心とか好奇心とかいう本能が刺激されるのである。これは我々を緊張・興奮させ、けして把握させないことだ。相手に誘惑され、連れまわされ、騙されてしまう。これは快楽であり魅力の正体でもある。何かを把握しようと意欲する者に対して、けしてそうさせないではぐらかしてしまい、さらに、夢の世界にひきずり回し酔わせてしまうのであって、これは「麻薬の世界」なのであって、けして「まじめな世界」ではない。相手を緊張させ、落ち着かなくさせ、読み飛ばしを多くさせて、全てを自分に有利なようにイメージさせてしまうのだ。これにより、相手はその者に高い価値を感じるのであり、これは有能な詐欺師の世界でもあるのである。
知れば知るほど魅力を感じるといわれる者がいるが、この者はいつも逃げまくっているのであり、けして、本性を知られたわけではないのだ。つまり、相手の間違ったイメージが次々と変更されているにすぎないのであって、いやらしい本性はちゃんと知られないで済んでいるのである。本当に知り尽くされれば、誰でも必ずあいそ尽かされてしまうものである。
当人が気持ちよく、容易にやった行為は魅力あるものとなる。それに対して、当人が苦労し、やっとの思いでやり遂げたような行為には魅力はない。世の中にある優れたものは、その多くがこのように気持ちよく、苦労少なく、あっさりとできたものだ。つまり、才能によってできたもので、この才能というものは常に未知なもので、人を強く魅惑するものなのである。というのは、どうしてそんなに優れたものが出てきたかが不明だからである。有名になろう、優れたものを作ろう、という願望を抱いて成されたものは、人を長く魅惑することはない。人を長く、強く魅惑するものは、ぱっとなにげなく出てきてその「仕掛け」がまったくわからない。ステキな人はぱっと現れ、さっと消えていく。前日から考えていた冗談などはうけないもので、大うけする冗談はその場において即興で作られたものであり、そのことは周りの誰もがわかるものだ。その苦労を一部始終見られ、あるいは推測されたようなものには魅力はないものだ。人は、そのしかけを知ってしまったものには魅力を感じないのである。だから、我々は本能的にそれを隠そうとするのだ。
芝居や展示などでは余計なものは全て隠す。見せてはいけないものは全て隠す。仕掛けなどはまったくなく、不思議さだけが見えるように見せかけなければならないのである。我々が「恰好つける」ときには、いつもそう見せかけようとするではないか。まるで生れたときから知っていたり、できたりするように見せかけるのであり、そうでなければ「恰好よく」ないのである。全ての「仕掛け」を見せてしまった「恰好よさ」なんてものはないのである。一九六〇年代のTV漫画で、「エイトマン」や「宇宙少年ソラン」はいきなり所長の前や現場に現われる。どうやってそこまで行ったのかはわからない。彼らの日頃の泥臭い生活――睡眠・食事・排便・排尿といった生きるために誰でも必要なもの――は全て隠されている。だからこそ彼らは恰好いいのである。同じく一九六〇年代に英国で作られ世界を魅了した国際救助隊「サンダーバード」――これは人類の至宝である――では、あらゆる人間生活の泥臭さが隠され、恰好いいものだけを見せるようにしている。また、救助隊が目的地に到着する時間を正確に予告する。これらは「恰好よさ」の条件だ。もたもたしている「刑事コロンボ」ではどうかといえば、やはり同じだ。もたもたしているように見せかけておきながら、本番では、いままで相手をいらいらさせながらたらたら集めていた情報を無駄なく使い、あっさり解決してしまう。その不思議さ、落差の大きさ、痛快さが「刑事コロンボ」の「恰好よさ」なのである。この「恰好よさ」の問題は今までまじめに考えられたことがなかった。
買ってしまうとがっかりしてしまうのは、手に入れたとたんに仕掛けがわかってしまい未知さがなくなってしまうからだ。未知のものという「麻薬的なもの」を前にした興奮と緊張により、また、「待ち得ない」という我々の性質により、そのときの我々のイメージには、酒に酔ったときと同じに、対象の欠点が欠落してしまっているのである。自分の願望にマッチしたイメージが作られてしまうのだ。後出のニーチェ「善悪の彼岸」からの引用文のように、知らないものを理解したり、一度下した判断を変更したりするより、すでに知っているものの中で強引に整理したり、夢みたものに沿うようなもののみを見て、それでよしとしたりしてしまうことのほうがはるかに容易なのである。ほとんどの部分を自分の想像で補間し、それを買ったほうが良いと考えようとするのだ。とにかくそれを買いたいという気持ちが、酒をくらった脳のように欠点をイメージに上げさせないようにしている。しかし、買ってしまい所有してしまうと、今までの興奮と緊張という不快――その不快の中和のためにそれを買ってしまったのだ――はなくなり、さめた目で見られるようになり欠点がイメージに現れてくる。なんでも手中にあるとそれを敬う気分はなくなり、いままで読み飛ばしていた、というより読み飛ばさせられていた欠点が、急にイメージに現れてくるもので、大部分の価値ある部分は実は想像上のものであった、ということがわかってくるのである。前記のように、我々のある状態によって、見ることができるところとできないところが、すでに決まってしまっているということである。これは自分ではコントロールできないことなのである。だから、焦っているときや、困っているときには、他人のアドバイスが重要になる。その事件に関係ない者には、自分に見えないものが見えるのである。
結婚した後、互いにがっかりしてしまうのも、以上のことで説明できる。結婚前は、互いに結婚を成し遂げるという興奮と緊張のために、酒をくらった脳のように相手の欠点はイメージの中に現れてこない。全てを良く解釈してしまう。そして、この時期は互いに自分のいやなところを全力で隠しているのであり、一番よい時期と言える。ところが、結婚してしまうと目的が達成され、一仕事終えたときのあのけだるい気分となり、リラックスして、またある種の不快――願望が達成されると、こんどは次の願望がやってくる、これは不快、苦悩である――を感じるようになる。そして、相手を良く調べる機能が解禁となり、相手の欠点がどんどんイメージに現れてきて、良いところが目立たなくなっていく。相手のイメージは、結婚前のステキなものでなく、いやらしいものになっていく。さらには、互いにいやらしい面を隠さず、むき出しにするようになっていくのである。というのは、結婚という目標が達成されたために、互いに相手に恰好いいところを見せるという行為の価値がなくなっているからだ。結婚という目標に向かって加速している状態が、互いに自分の欠点を隠すようにさせ、また、相手の欠点を見ないようにさせ、互いに相手を素敵なイメージに作り上げさせていたのである。
何か困っている場合、他人に相談するとうまいアイデアが出てくるものだ。何かを発表する場合でも、他人に見てもらうとうまく修正してくれる。当事者のイメージには、興奮と緊張により酒をくらった脳のように多くのものが欠落しているのだ。しかし、他人はまったくそのような困難がないので、当事者の見えなくなっているもの全てが見えるのである、また、我々は、急いでいたり、焦っていたり、緊張していたり、困っていたりすると精緻なイメージを作る能力が低下する。このとき、我々は細部まで調べる忍耐がなくなってしまう、というのではなくして、まったくそれらをイメージできない状態になってしまうのである。たとえば自分の家が火事になったとき、「一一九番は何番か?」などときいたりする。しかし、その困難が終わると、急にいままで見えなかったところ、細部が見えてくる。
第四節 思い出と人
我々は、ある事柄をいろいろなものの関連の中に見ているものだ。たとえばある景色を見ていい気持になったとすると、そのイメージには必ずその景色とかかわりのあり、自分の知っている魅力的な人のイメージが潜んでいるものである。その人とのよいかかわりによって、またその人が目の前の景色にかかわりがあることによって、我々はその景色を愛するようになるのである。そういうことは、たとえば私が好きだった鉄道模型などにおいても言えるのである。鉄道模型のことを考えていても、その考えていることを楽しく魅力的にしているのは、実はそれとかかわりの深いある魅力的な人間のおかげだったりするものだ。どんな良い思い出にも、必ずある魅力的な人との関係が見られるものだ。我々は、人間のことを我々が考えているよりはるかに気にしているのである。あることをやることやあるところに行くことがうれしくてたまらないとき、ある魅力的な人が関係しているのである。我々が何か楽しいとき、間接的にせよ必ずある人のイメージが潜んでいるのである。だから、人間関係がうまくいく者は何をやっても楽しく、そうでない者は何をやっても楽しくないのである。
音楽においても同じようなことが言える。どんな良い曲でも、世界にその曲しかなかったなら、はたしてそれをどれほど良いと思えるだろうか。他の曲との比較や関係、あるいは音楽以外にものとの関係によってそれはきわだってくるのではないだろうか。私が好きだった鉄道模型を無人島において独りでやっていても、はたして楽しいだろうか。鉄道に関係したもの――その中には実際の鉄道やそれにかかわる人やそれを利用する人やそれを愛する人がいる。そしてそれを模型として楽しんでいる人がいる。それをいっしょに楽しんでくれる家族がいる――の中でそれにかかわっているからこそ楽しいのではないだろうか。つまりある関係の中に入っているからこそ、それが意義あるものとなるのであって、鉄道模型自体が意義あるものなのではないのである。我々のどのような行動の中にも、いつも他の人や他のことが意識されていると言っていい。一見そのように見えないような行動においても、そのよりどころは他の人間や他のこととの関係においてあるものなのだ。
第五節 思い出と人その2
私は、幼年時代のことをたびたび思い出す。それはほとんどが人間関係のことではなく「物」に関することだ。たとえば昔使っていた懐かしい真空管ラジオ・真空管テレビ・たんす・柱時計・昔住んでいた所などである。ところが、その物質的なイメージの背後に常に私の大好きな母親の影が濃厚に寄り添っているのを感じるのである。もしこれらの思い出から、母親の印象という背景を取り除いてしまったなら、これらの物の思い出は無味乾燥なものになり、私をまったく魅惑することができなくなり、懐かしい思い出としてけして出てくることはないであろう。
思い出は魅力的な人の記憶と結びついていることが多いものだ。自分の尊敬する人や好きな人――つまり、価値ある人――といっしょに過ごした時間は、何をやっていても後からたびたび美しい情景として思い出されるものである。たとえば昔忙しく働いていた頃のことを思い出したとき、そこには病気で寝ていた大好きだった母親がいたりする。その母親に魅力が強いほど、その思い出は濃厚になるのである。もしそこにこのような人が関係していなかったならば、この思い出にたいした価値はなくなるのであり、思い出すことなどなくなるのだ。
私が中学生の頃、鉄道模型に熱中していた頃の思い出の中には、必ず台所で炊事をしていた母親の姿が出てくるのである。自分の見下す者や嫌いな者と過ごした時間のことなどは、思い出さないものである。魅力を感じない人との行動は、どんなに劇的なものであったとしても、我々に強い記憶を残さないものなのだ。ステキな思い出の中には必ず魅力的な人がいるのであり、この人がその思い出においしい味、良い香りをつけているのである。
ある二人がいっしょに何かの作業をやったとする。この二人の間に大きな優劣関係や強弱関係があるとする。身体的優劣関係・頭脳的優劣関係・社会的組織的優劣関係、あるいは、片方はもう片方を好きだが、もう片方は片方を好きではないなどである。この作業のことを劣っている者の方はいつも懐かしく思い出すのだが、優れている方にとってはほとんど印象に残らないのである。相手が魅惑的なほど、いっしょにいた時間が記憶に残るのである。だから、自分がいくらその思い出に強い印象を感じていても、相手が自分に魅力を感じてくれていなければ、相手のその思い出の印象は薄いのである。
一人でドライブしても良い思い出とはならない。しかし、魅力的な人とのドライブは、どこに行ったとしても印象が強くなり、何度も思い出し味わいたくなるものである。また、ある車の持主が魅力的なら、その車やその駐車場までもが魅力的に見える――その駐車場に自分の車を置いてみたとき、異様な興奮に襲われたりするものだ! 魅力的な者の住むアパートは魅力的なものになる。魅力的な者のやること・着ているもの・趣味・その者が関わったもの全てが魅力的に見えてくる。魅力的な者が触ったもの・歩いた道・用いたもの・その仕事までもが魅力的に見えてくるのである。我々は、魅力的な者が活動した場所に立つことや、その者の行なった行動を模倣することで異様な興奮を味わうのである。これは女性の下着泥棒が、盗んだ下着を身につけて異様な興奮を味わうのと同じことで、下着自体に魅惑されているのではなく、その下着を着けているセクシーな女性への関心が、この下着を魅力的なものとしているのである。下着自体が魅力的ならそれを買ってくればよいのであるが、そんなことをする男はめったにいないのであって、「ある女性が身につけた下着」に執着するのである。魅惑するものには必ずある魅惑的な人間が関わっている、ということである。二〇〇三年にNHKのBSで放送された「冬のソナタ」の主役であるペ・ヨンジュンは、日本の中高年の女性を魅了した。そして彼は、日本人が永年軽蔑してきたはずの韓国を魅惑的なものとしてしまった!
幼年期の良い思い出は、良い親や魅力ある人間により作られる。幼年期の良い思い出をもっている者は逆境に強く、これがない者は逆境に弱く、犯罪者になる可能性もあると言われている。魅力的な人との良い思い出が作れた者は、おいしいものをたらふく食べ、やりたいことを存分にやった者と同じであり、逆境に強く、犯罪という方向に行かない。尊敬できるような相手と親交をもつことができた者は、また、価値ある相手に敬意を表された者は、現状を守ろうとするし、そのために臆病にもなり、優しくもなり、良い子にもなる。自分が手に入れた良いものが失われるのが恐いからだ。良い子的行動の正体は、偽装された利己的な意志(ニーチェが言う力への意志)なのである。しかし、良い思い出をもたず、しかも現在が悲惨な者は、守るものや失うものがないので、彼の生理的・情念的欲求不満は現状を迷いなく破壊しようとするのである。
第六節 良い人、悪い人
我々は相手によって「良い人」になったり、「悪い人」になったりする。良いとか悪いとかはその人の本質なのではなく、相手との関係、または周りとの関係において現れるものなのだ。相手なしに、その人自体の性格などというものは現れない。ある人に優しい人が、別の人にはいじわるだったりする。誰でも自分が好きな人や自分にとって価値あると思った人には優しく良い人になる。しかし、嫌いな人や劣悪だと思った人には冷たくなる。我々単体では何も起こり得ない。何かとの関係で、何かと反応することによって、ある衝動が発生するのだ。その人を何ものとも関係させないで、独りにしておいたなら、その人の性格などはわからないだろう。
あることをやりたくないと言っていた者が、別の者に促されると、たちまちいそいそとそれを楽しそうにやりだす始末だ。そのやること自体がいやなのではなく、やれと言った者に価値を感じなかっただけなのである。自分の好きな者、価値を感じる者に言われれば、どんなことでも価値あるものに見えてしまうのである。
人間には裏と表があると言われる。しかし、裏表がないと言われ、ほめられる人もいる。しかしその人に裏表がないのではなく、ある相手に対して裏を見せなかっただけのことなのである。裏表があるかないかではなく、見せるか見せないかの問題なのである。どうしてその人が相手に裏を見せないのかというと、その人が相手に魅力を感じているか、恐れているからである。つまり、彼は自分の醜いところを相手に見せてしまうと自分の得にならない、あるいは危険であると感じているからなのである。その人は別のどうでもいい人には、自分のいやらしく醜いところを平気で見せつけているものである。
第七節 無神経についてその1
かっこよさ、エロティックさ、健康さなどの魅力には、必ず無神経さが関係している。神経質な格好よさ、などというものはない。無神経さはステキさの、あるいは有能さのバロメーターなのである。神経質なところを隠そうとする者は多いが、無神経さを恥じたり、隠そうとしたりする者はいない。無神経とは欠陥ではなく、能力なのである。感じることができない、というのではなく、感じないでいられる、という能力である。
第八節 無神経についてその2
斬新な考えではあるが、「精神統一」の正体は、単に無神経になることなのである。その心をこれから説明しよう。
毒入りコーラ事件をご存知だろうか? 電話ボックスなどに置いてあった飲みかけの毒入りのコーラを飲んで死んでしまった者が多数出た事件だ。この無神経の極致とも言える者に対して、強迫性障害者の世界はその対極にある。認知心理学によれば、心配性の人は、物事を悪くみる傾向があるのではなく、より正確にみることができただけである。つまり、健康的、楽天的な者は、単に危険を認識できなかっただけなのである。
しかしこの心配性は、評論家としてはよいのであるが、行動者としては好ましいものではない。知ることとできることは違う。知っていることが、かえって行動のじゃまとなることがある。知っていることだけでは、実は何もなしとげられないのである。役に立つ行為とは、知識とはまったく別なところから出てくる。この行為に対して、ある種の知識・知能などは足を引っ張る要素となるのである。つまり、大きな成果、大きな危険を伴うことにかかわるとき、無神経は最大の武器なのである。知識や心配は、事の実行のためにはほとんど役にたたない。整理には役に立つのだが。
目にできた成功例のみを参考にする。これらは無意識に行われる。超常現象を信じる、迷信を信じるのは、無限の自由度による困難を嫌う手段なのである。可能性の範囲を狭めて楽にする。自分は優秀である、と考え、楽にする。うまくいったときだけを残し、法則化してしまう。つまりポジティブイルージョン(陽的錯覚)である。雨男、自然現象をコントロールしている、という優越感。こうやったとき、必ずうまくいく、とか。職人技は、無意識に行われる。意識するとかえっておかしくなる。長年の経験が、無意識に蓄積される。
第九節 我々は相手の話をすべて聞くことはない
あるラジオ番組で作家の角田さんが、次のような面白い話をしていた。『会話をきいていると、話がかみ合っていないことがよくある。相手の問いに対してぜんぜん関係のない答えを返している』。うわさ話もそうであって、人を経るごとにどんどん大きく変形されていく。二人も経ればもう原型はとどめていない。正確に聞き取ることの難しさ、というより我々は自分で創作することに慣れている、ということだ。だからこそ母国語であれば、どんなに早口で言われても理解することができる。つまり聞いた話の大半は、自分の推測・創造で補われている。つまりつくり話となってしまっていて、それを相手の話としてしまうのである。昔、第二次大戦でのスターリングラードの攻防戦の話で、「ロシアは、ドイツ軍を凍えさせるために冬を待った」と教えられたが、実際は違う。当時の参戦者の話によると、冬が到来したのは成り行きであり、防戦に必死だったそうだ。部外者により脚色され本当のように伝えられてしまったのだ。
これと関係のある話として、音楽をところどころ間引いたものを聞くと原曲を再現しにくいが、間引いたところにあるノイズを入れると聞きやすくなるという事実もある(TBS夢夢エンジン、NTT研究所の方の話、二〇一二年六月)
どんな学問の場合にあっても、早まった仮説、架空の作り話、《信仰》への善良にしておろかしい意志、疑念や忍耐の乏しさなどが、まず最初にあらわれる。――われわれの感官が、繊細で忠実で用心ぶかい認識の器官たることができるようになるのは、あとになってからのことであるが、それも完全にそうなるわけではない。われわれの眼には、なにかの折にふれて、すでに幾度か作られたことのある心象をふたたび作り出すほうが、ある異常で新しい印象をしっかりととらえることよりも、はるかに心地よいものに映るのだ。後者のほうが、より大きい力を、より多くの《道徳性》を必要とする。なにか新しいものを聞くということは耳に辛いこと、面倒なことである。耳なれぬ音楽を聴くのは、われわれの気分にそぐわないものである。よその国の言葉を聴くと、知らず識らずのうちにわれわれは耳にしたその声音を、われわれにいっそうなじみ深くしっくりした響きをもつ言葉へつくり変えようとする。・・・われわれの感覚にも、新しいものは敵対的な不快なものに感じられる。一般に、感性の《きわめて単純な》過程のなかにすらすでに、怠惰といった受動的な情念をもふくめて恐怖とか愛とか憎悪とかいうような情念が、支配している。――今日の読者は、一つのページの一つ一つの言葉を(ましてやシラブル(音節)なんかを)残らず読みとっているわけではなく――むしろ、二〇の言葉のなかから、たまたま五つぐらいの語をえらびとってきて、この五つの語が含むらしくおもわれる意おば《推測》する。――これと同じくわれわれは、一本の樹を見るにも、その葉、枝、色、形にわたって綿密に完全にそれを目に入れているわけではない。むしろわれわれには、そこに樹というもののだいたいのすがたを想像してみることのほうが、はるかに容易なのだ。きわめて特異な体験の場合にあってさえも、われわれはやはりそれと同じことをやる。すなわちわれわれは、体験の大部分を仮構する。そして、《創作者》としてでないかぎりは、何らかの出来事を強いて観察することなどはほとんどない。およそこうしたものが語る真実は、われわれがまるっきり根本から、昔から、――偽ることに慣れているということだ。あるいは、もっと高尚で偽善的な言いかたをすれば、ようするにもっと気持ちのよい言いかたをすれば、われわれは自分で思っているより以上にずっと芸術家である、ということだ。――活発に談話をかわしているときに、しばしば私は、話し相手の人物の顔つきを、彼の述べる思想や私が彼に思いつかせたと信じる思想などのおかげで、非常に明りょうに繊細にはっきりと目にすることがあるが、この明りょうさのほどは、私の視覚の力の及びうる程度をはるかに超えたものである。――この場合、話し相手の顔の筋肉の動きや目の表情などの微妙なところは、私の想像によってつけ加えられたものにちがいない。おそらく当の相手の人物は、まるっきり別な顔つきをしていたか、もしくは何の表情をも見せていなかったのだ。
私は昔、会社の食堂で、「すっぱいものが嫌いです」と言ったところ、相手は「刺激のあるものが嫌い」と解釈してしまった。さらに、「辛いものが嫌い」とも解釈された。私は刺激のあるもの・辛いものは大好きなのであり、酒はウィスキーのストレート、わさびはたっぷり付けて刺激を楽しむ人間だ。しかし、相手には「すっぱいものが嫌い」という素直なイメージが作られないのである。事実は、必ず相手の手が入り変形されるものだ。事実をそのまま見ることは、むずかしいというより不可能なことなのだ。つまり、我々の知ることは、全て「我々を通したもの」であるのだ。事実は我々の趣味・嗜好・体の状態・社会的な状態・願望などの影響を受け、変形されてしまうのだ。このイメージは我々によって作られたものであって、事実ではない。我々の体が媒介する以上、我々の固有な性質の影響は受けるのである。見たものはその人固有の整理に仕方(形式、フォーム)によってまとめられるのである。
第一〇節 未知なる我々、無意識の不思議
二〇〇六年七月一〇日のドイツでのサッカーワールドカップのフランスとイタリアの決勝戦で、フランスのジダン選手はイタリアのマテラッティー選手に何かいやみを言われて怒り、その相手に頭突きをして倒し、退場してしまった。こんな大事な試合でも、彼はある衝動を抑えられなかったというわけだ。このジダン選手は度々このようなことがあったみたいで、「自分でもわからないうちにやっている」というようなことを言っていた。このようなことは誰にでもあることだ。人によっては殺人に及んでしまうこともある。このような場合、日頃の心得なんかが全てすっ飛ばされて「どこからか過激な行動の指令が来る」としか考えられない。我々が予想もしなかった衝動が、どこからか到来して実行されてしまうという感じだ。悪いことが重なって起こったとき、我々はそれを「偶然」で片づけるように、これらの行動について真剣に整理してみようとは思わず、あってはいけない行動として覆い隠そうとしたり、見ないようにしたり、忘れてしまおうとしたりする傾向がある。この場当たり的な態度がこれらの問題に対する理解を妨げている
我々や宇宙の中のものは、実は科学が予想もしなかったようなメカニズムにより動いているのではないだろうか。我々が関係ないと思っているものの間には、実は驚くべき関係があるのではないだろうか。それだから、我々が意識していないのにかってに出てきてとんでもないことをしでかしてしまう、というふうに見えるのである。オーストリアの精神科医であるフロイトは「精神分析学入門」(懸田訳、中央公論新社)の中で、「しくじり行為」はけして偶然ではなく、ある意味、意図のある行動で、我々の無意識の中で意欲された行動なのである、と言っている。つまり、「しくじり行為」は単なる間違いなどではなく、意識はされないがある策略の上に成り立っているというのである。たとえばあることを忘れることが多い場合、責任感がないというのではなく、その者固有の無意識の策略があり、無意識の領域で意図的に忘れるようにしているということである。
私には少し変人的な要素があるのだが、中学生のときに出欠委員をしていたとき、一年間、ほとんど毎日出欠簿を職員室に戻すのを忘れた、という驚くべき体験をした。毎日やるべきことなのに、帰る時間になると忘れてしまうのである。これは責任感でかたづけるような問題ではない。帰る時間になると私の体は「積極的に忘れる」ことを実行していたのであった! これはまさに、フロイトの指摘した無意識によって意図された「しくじり行為」なのだ。
会社の寮での話だ。トイレで必ず大便を流さない者がいた。その者が転勤したとき以来、そのことが無くなったので犯人が特定できた。犯人はきわめて紳士で常識のあるようにしか見えない者であった。この事実に誰もが驚いた。絶対そんなことなどしそうもない者であった。そんな者が、実は怪物であったというわけだ。
第一一節 言い間違いについて
NHKのラジオ番組「日本語辞典」で、「言い間違い」の研究をしている方の話である。
サイモンとガーファンクルをガーモンとサーファンクルと間違う者が、実際いる。間違いとは、まったくでたらめではなく、驚くべき法則に従っているのだそうだ。日本語をローマ字で書いた場合、母音のみ、あるいは子音のみの入れ替わりがある、という驚異的間違いがあるそうだ。たとえば苗場(naeba)をbaenaとnとbを入れ替えてしまう。このような、信じがたい言い間違いが、たくさんあるそうだ。
これらは、フロイトが言うように、我々の無意識で綿密に計略されたことに間違いはないのである。
第一二節 快と不快
快とはどのようなものだろうか。快というもの自体があるのだろうか。実は、快とは不快が取り除かれるときの感覚なのである。快そのものはなく、不快こそが実在するものなのである。常に不快の海の中にいる我々には、どこかの不快が取り除かれるとその時、快と呼ばれる感覚が生じる。快は不快が取り除かれていく、その時間だけ感じることのできるはかないものであると言える。だから、あまり長くは続かないものだ。
おいしいものも、お腹がすいていなければおいしく感じない。そのもの自体においしさがあるのではなく、我々がある状態のとき、我々との関係においてそれはおいしいという感覚を我々に生じさせるのである。これは、お腹がすいたという不快が取り除かれていくときの感覚なのである。同じものでも、お腹がいっぱいのときには食べてもおいしくないだろう。また、こった体をマッサージしてもらうと気持ちがよいが、こりが直ってしまうとまったく気持よくなくなり、むしろ不快に感じる。こっているという不快が、マッサージを気持のよいものにしていたというわけだ。
快を感じる前には、不快というものがまずなければいけないのである。つまり、不快は快を感じるため条件であるということになる。このように快というもの自体は存在しない。実在するものは不快のみなのである。前記のように、こっているとき、マッサージをすれば気持ちがよい。しかし、こりがなくなっていくに従い気持よさが少なくなっていき、やがて不快になってしまう。どのようなよいものでも度を越すと不快になる。だから、不快から快に至る過程は不快の中和と呼ぶのがふさわしいだろう。酸性という不快に中和剤を入れていくと中和されていく。この過程こそが快感なのである。そして、完全に中和されたときに快感は終わる。さらに中和剤を入れていくと、こんどはアルカリ性という別の不快になってしまうのだ。酒でも同じで、ある量までは天国的気分を味わえるが、それ以上惰性で飲んでいくと気持ちが悪くなっていく。ここで、ショーペンハウアー「意志と表象としての世界」(西尾幹二訳、中央公論社)より、これらに関係する部分を引用してみよう。
あらゆる満足、あるいはひとびとが通例幸福とよんでいるようなことは、もともと本質的にいえばいつも単に消極的なことにすぎないのであって、断じて積極的なことではあり得ない。それはもともと向うからわれわれの方におのずと近寄ってくる祝福ではなく、いつの場合もなにかの願望の満足といったことであるほかはないものである。願望、すなわち欠乏があらゆる享楽を成り立たせる先行条件である。ところが願望が満足されると、その願望も、したがってまた享楽もなくなってしまうであろう。そういうわけだから満足とか幸福とかいってみても、それはなんらかの苦痛、何らかの困窮からの解放という意味以上のものではあり得ない。
われわれは自分が現に所有している財産や各種の有利さのことはかくべつ気にもとめず、高く評価することもせず、それは当然なことだぐらいにしか考えていないのだが、これも今言った事情からくるのである。財産や有利さは、いつも苦しみを寄せつけないようにしてくれるという消極的な意味でのみ幸せをもたらすものにすぎないからである。財産や各種の有利さは失われたあとではじめて、われわれはそれらの値打ちを感じるようになるだろう。なぜなら欠乏、窮乏、苦悩こそが積極的なものであり、直接に訴えかけてくるものだからである。それゆえにまたうまく切り抜けてきた困窮、病気、欠乏等々のことを思い出すのはうれしいことであるが、そのわけはこれらを思い出すことが現在の所有物を享受するうえでのただ一つのよすがだといえるからである。
第一三節 おぞましい不快の中和方法
我々は、不快をまぎらわすために、下劣なもの、いやらしいもの、汚いもの、醜いもの、憎たらしいものを必要とすることもある。ヒトラーは自分の不快を、ユダヤ人をいじめることによりまぎらわせようとしたのだ。彼は、ユダヤ人の陰謀がドイツを滅ぼすと言って、まず、ユダヤ人を憎むべき悪者にしておいてから、彼らを思う存分に虐待することに専念し、うさばらしをしたのであった。前記のニーチェの表現を借りれば、彼が快活に生きるためには、ユダヤ人のようなものが清涼剤として必要だったのだ。まことに不道徳的ながら、弱い者、まぬけな者、不幸な者、かたわな者などを見ることで、我々はうさばらしをすることができる。DVD「ノートルダムの背むし男」(水野晴朗監修、キープ株式会社)という映画の中では、次のような台詞がある。『人は醜いものにひるみ、そしてそれを観たい。それには悪魔の魅力がある。我々は恐怖から快楽を引き出す』。
誰もが、火事、交通事故、不幸なニュースなどに引かれ、昔なら、かたわ者の見世物や残忍な公開死刑などをいそいそと見に行ったではないか。そういうひどいものを見ることによって、うっとうしい不快から一時的に逃げることができるのである。我々は、下劣な者や他人の没落を見ることにより、自分の優越を感じるということはよく言われるのだが、それだけではなく、それ自体を清涼剤として楽しむのである。人を次々に殺して切り刻む殺人鬼も、その延長上にあることは確かだ。彼はその行為により、彼の不快を中和しようとしているのである。
その他にも、我々は誰でも不快を中和するために驚くべき行為をしている。しかし、それを公表することはあまりしない。これらはけして他人には言えないもので、秘かに実行されているものだ。それは、生物の中でもおそらく人間だけがもつ、人間が人間であるがための最も根底にある重要な要素であり、我々の中の最も不道徳的な本能である残忍性と同列である重要な本能である。しかしそれらは、誰もがそれを口にすることすらためらうようなものである。
我々は良い臭いにも快を感じるが、くさいというしかないような臭いにも、ある状態のとき快を感じることがある。普段はそのくささは不快であるのに、あるときには、それがある不快を中和する働きをもつのだ。毒は毒で制する、ということだ。誰もが自分の陰部や便の臭いなどを嗅いで快を感じたことがあるだろう。私はこのことを、幼年時代にいく人かの友達からきいたことがある。小学校二年生くらいの時、私の組の中の友人は、授業中にズボンのポケットの穴から自分の性器をいじりその手の臭いを嗅いだり、それを他人のノートになすりつけたりしていた。それで、彼はある不快をまぎらわしているのだろう。また、私が一八才くらいのとき、ある人から小さいときよく自分の便の臭いを嗅いで快感を得たということを聞いたことがある。
性的な欲求による不快に対しても、人間の汚くいやらしい部分によりいやされるものだ。陰部をなめたり、臭いを嗅いだりして不快をいやすのである。それはけしてよい味やよい臭いではない。しかし、我々がある状態のときには、こたえられないものとなって我々を魅了するのである。納豆は見るからにおぞましく、腐っているかのような外観と臭いをもつが、食べ慣れていればたいそうおいしいものだ。これは日本人にとっては食欲という不快を中和してくれる大事なものなのである。
しかし、このような行為は、秘かに行われなければいけないもので、けして他人に見られたり、知られたりしたらまずいものなのだ。それは、全て不道徳的なものであり、社会的に禁止されているものなのである。性交はその中の代表的なものだが、常に秘かにやらなければならないもので、人間にとって必用なものであるのにもかかわらず、その乱用は、いつの時代にも不道徳なものに見られている。アーサー・ブロック「マーフィーの法則」(倉骨彰訳、アスキー出版)には次のようにある。『この世の良いものは、法律で禁じられているか、不道徳であるか、食べて太る』。
ある夏のオリンピックの女子マラソンで、先頭集団にいたある選手が、給水の後にそれを吐いて棄権してしまった。私はその選手が吐いた映像を見て、言いがたいことであり、まことに不道徳ながらエロティックなものを感じ、妙に興奮したのを覚えている。これは私が変質者であるということではなく、生物の中で人間だけがもつと思われるエロティックな感情なのである。
エロティックな感情と行為――サディズム、マゾヒズムも含めて――は、我々のある不快を中和するシステムなのである。それが生殖のためであろうと何であろうと、我々はそんな目的を考えて行動しているのではなく、ただある衝動に押されて半ば無意識的に行動してしまうのである。フランスのバタイユは、彼の著書「エロティシズム」(酒井健訳、筑摩書房)の中で、『エロティシズムとは、禁止を侵犯することである』と言っている。つまり、禁止されていることを侵犯することにより、何か(エロティックな欲求による不快の中和)が得られるのである。我々の体――精神ではなく! ――が求めてやまないものは、その多くが社会的に禁止されていると言える。それはいつも我々を最も強力にコントロールしているのであり、それに対処するための行為はたいてい不道徳とされているので秘かにやられるのである。しかし、これらの行為への欲求は、我々の最も根底にあるもので、けして抑えることができないものであり、まして教育などで取り除くことはできないものなのだ。それは、わいせつな事件がけして絶えることがないことからもわかる。わいせつな事件は太古から現代まで変わらない量で――きわめて多量と言えるだろう――続いているではないか!
第一四節 テロの正体
あの恐るべき九.一一同時多発テロを指揮したとされるオサマ・ビン・ラディンの怒りは大きく、世界はそれを思い知った。彼は裕福な家の生まれだそうだから、貧困のみがこのような行動の条件ではないと言える。この原因はイスラムにあると思う。信仰心の厚い彼らは、日頃は貞淑である。しかし自分たち、とりわけイスラムが冒涜されたと判断したとき、その怒りは特別大きい。凶悪な犯罪者が、日頃は静かで良い人に見える場合が多いのと同じである。彼らはいつも外観的には貞淑にしている。しかしこの宗教は、彼らの「心の中の怪物」までは手なずけられなかったのだ。我々人間のうさばらしの多く(酒も豚肉も)が悪徳として禁止され、しかも熱心に信仰しているのに一向に報われず貧しい者が多いムスリム(二〇世紀、二一世紀において、そしてたぶん永遠に?)、欧米やアジア諸国にもどんどん差をつけられてしまっていらいらしている彼らには、不幸な人生を強いられた結果凶悪な犯罪者と成り果てるしかなかった者と同じに、必ずや不快が溜まりそのはけぐちを求めているのだ。恵まれた者は、不快が多く溜まっていないので、悪口を言われても大きな怒りに襲われることはないはずだ。不快は中和しない限り溜まっていく。だから、彼らはいつも貞淑でありながらむかむかしているのである。しかし、ひたすら抑えている。
こうした彼らにとって、「敵を憎む、敵を攻撃する、敵を苦悩させる」ことは、数少ない貴重なうさばらし(別名快楽)の機会となるのであって、そのとき、いつもこらえていた憤懣をここぞとばかりに爆発させるのである(後述のように、ムスリムはサッカーの試合などの観戦でも過激だ)。彼らは、イスラムが冒涜されたから怒るのではない、その前から怒っているのである。だから敵としてよいものが現れ、それに対する報復がイスラムによって公認されたとき、彼らは怒るよりむしろ喜びに近い感情に襲われる。彼らは、それらを不快の中和手段としてうまく利用するのである。その敵を憎むことによる清涼感をまず味わえる。その敵を攻撃する大義名分ができたとき、攻撃的行為がイスラムの指導者によって承認されたとき(たとえばジハードとして)、溜まりに溜まった彼らの不快を激しく破裂させることができるのである。彼らの怒りをぶつけてもよいと公認された敵に対して、互いに呼びかけあい、報復を誓い――これは実に気持ちがいいものなのだ――、執念深く狂ったように攻撃を仕掛けるのだ。これは、彼らにとってめったにない、彼らを日頃は抑圧している宗教によって公認された気持の良いうさばらしの機会、言わばフェスティバルとなるのである。イスラムというきわめて厳しい戒律をもつ宗教で抑圧された彼らには、このような機会でもないかぎり思いっきりうさばらしをすることなどできないのだ。だから彼らは執拗に相手をののしり、執念深く攻撃するのであり、これは生理的に見てまったく正常な行為なのであり、決して異常でわけのわからない行為ではない。彼らは、イスラムの指導者によって残虐行為(聖戦、ジハード)が承認されることによって、普段は厳しく禁じられているが本能は欲している残忍な行動を、のどが渇いた者が水を飲むように、たまった不快を中和するためにたやすく実行してしまうのである。しかしここで、同じような厳しい宗教の戒律(律法)で縛られていて、二〇〇〇年以上迫害され続けたユダヤ人が、このようなテロ活動をすることが少ないということが、疑問になるのであるが。
イスラム世界では、ムスリムに日頃はあらゆるうさばらし的な行為を抑制させているが、たまに敵を見つけ出し、あるいは作り出し攻撃させることで、彼らに溜まった不快を一時的に中和させるのである。昔、ローマ帝国において、市民を退屈させて危険な状態にしないようにするために、残酷な見せ物を催したのと同じだ。彼らは、貞淑に生きる中で溜まる不快に対処するために、暴力を振るう機会をイスラムの名の下に生み出さねばならなかったのである。
テロ、正確に言うとテロルとは何であろうか。広辞苑には「政治目的のために、暴力あるいはその脅威に訴える傾向」とある。また、LONGMAN英英辞典には「政治的な要求を得るために爆弾、射撃、誘拐といったような暴力を使うこと」とある。しかし、その本質はそうではないのだ。二〇〇五年現在、ロンドンの地下鉄での自爆テロ、イラク・アフガニスタンにおいて、イスラエルーパレスチナ紛争において、テロは盛んに行われている。これらが本当に政治的な目的なのだろうか。自分たちの国がうまくいっていないことに対する不快、相手国に比較して自国が貧しいことへの不快、相手国が自国へ害を及ぼしているという推測による不快というのではなく、単に「自分自身の不快」をまぎらわせたいだけなのではないだろうか。自分たちの不快の原因とはまったく関係のない者への暴力は、政治的と言えるだろうか。これは家族への暴力と同じで、ただ自分の個人的なうさをはらしているだけではないだろうか。適当に選ばれた者に、適当な理由をつけてうさをはらしているだけだ。それはやればやるほど――連続殺人や家庭内暴力のように――エスカレートしていくのだ。酒もタバコも麻薬も一度手を付けるとやめられなくなる。不快は一時的にしか中和できないのである。テロは、ただ自分の個人的な不快をまぎらわせようとしているだけなのに、もっともらしい政治的な理由をとってつけて恰好よくみせているのである。攻撃される者は、彼らの不快とは何の関係もないばかりでなく、自分と同じ側にいる者だったりする。誰でもいいのだ、やりやすい者と場所が選ばれ攻撃される。気の弱い者が敵ではなく、家族に攻撃するのとまったく同じだ。それは自分でもいいと言ってもいい。誰にも復讐できない場合、怒り狂っている者は自分に襲いかかることもあるのだ。これらに関連した、二〇〇六年六月二二日の朝日新聞における松本仁一氏の記事を次に引用してみる。
外国人を拉致してはビデオカメラの前で殺害する――。イラクでテロ活動を続けてきた「イラク・アルカイダ機構」のアブムサブ・ザルカウィ容疑者が七日、米軍の爆撃で殺された。米軍は指紋や入れ墨などから本人と確認したと発表、組織の側も死亡を認めた。二〇〇四年五月以来、日本人旅行者香田証生さん殺害にも関与するなど多くのテロ事件を指揮してきた男は、最後には仲間に密告されたと伝えられる。ザルカウィ容疑者の異様さは、組織の指揮者である彼自身が刃物を握り、犠牲者ののどをかき切っていたことである。その場面はビデオで撮影され、メディアに送りつけられた。知人の心理学者は「人を殺すことで快楽を得る、典型的な異常性格者」と見る。平常の社会では存在できないような犯罪者が、単なる殺人行為に大義名分をくっつけ、二年にわたって多くの人を殺してきたのである。かつて「カルロス」と呼ばれる国際テロリストがいた。本名イリッチ・ラミレス・サンチェス。ベネズエラ生まれだが七〇年代にパレスチナ解放組織に加わり、ドイツ赤軍や日本赤軍とともに多くのテロ事件にかかわった。一九九四年、潜伏中のスーダンで捕まるまで、八三人を殺したとされる。・・・彼を取材した作家フレデリック・フォーサイス氏は、彼の革命は隠れみので、「無力な人間を襲って殺人行為を楽しんだ異常性格者」と評している。ザルカウィ容疑者と同じではないか。異常性格の殺人嗜好者が政治的なイデオロギーに隠れて人を殺しつづけ、一部の人々から英雄として喝采を浴びるのである。
この記事は、テロは殺人嗜好というある種の欲求不満者たちの不快中和手段にすぎなかった、ということ明快に言っているのである。ニーチェ「道徳の系譜」(秋山訳)には『相手を苦悩させることは第一級の快楽である』とある。彼らは、人を苦しめることにより快活さを得ていたわけである。後述するように、テロに限らず人間のあらゆる行動は,全て利己的なものから出てくるものなのである。
第一五節 退屈という苦悩
前出のショーペンハウアー「意志と表象としての世界」より引用してみよう。
人間の人生は、だからまるで振り子のように、苦悩と退屈の間を往ったり来たりして揺れている。じつをいえば苦悩退屈の双方は、この人生を究極的に構成している二つの部分である。きわめて奇妙な話であるが、今まで述べてきたことというのは、もしも人間がありとあらゆる苦悩や苦悶(くもん)を地獄に追い払ってしまったら、その後で天国のために残っているものは退屈だけしかないという事実によってきっぱり言い表せるに違いない。・・・ところがまたもや他面において、困窮や苦悩からのしばしの休息が人間に恵まれるようなことが起こると、こんどはたちまち退屈がまじかに迫ってきて、人間はいやでもおうでも暇つぶしを必要とするようになってくるということである。いっさいの生あるものを駆り立てて動かし続けているものは、生存への努力であろう。ところがいったん生存が確保されてしまうと、彼らはこの先どうしたらよいのかがわからなくなってしまうのだ。そのため彼らを動かす第二のものは、今度は生存の重荷から逃れだして、それをもう感じないようにしようという新しい努力となるのであり、「時間をつぶす」こと、すなわち退屈から逃れようとする努力となるのである。
つまり我々にいまわかってきているのは次のようなことだ。困窮も心労もなく安全に守られているほとんど全ての人々は、いっさいの余計な重荷を払いのけるに至ったかと思っていると、こんどはたちまち自分自身が重荷として感じられてくるということである。それで、これまで彼らは人生をできるだけ長く維持しようと全力を傾けてきたはずだというのに、こんどはほかならぬその人生をけずり取るようなことを、そのつど、すなわち浪費的に過ごしてきた一時間一時間を、儲けものだと思うようになってくるのである。
ところで退屈というのは、みくびってもかまわないような害悪ではまったくないのであって、退屈がつづいていくとしまいには容貌にまでも正真正銘の絶望の面影がきざしはじめるようになるであろう。お互いにほとんど愛し合ってもいない人間のような存在が、それなのにあれほど熱心にお互いに相手を求め合っているというのも退屈のせいなのであり、そこで退屈こそが社交の源泉だというようなことにもなってくるのである。だからまた退屈をふせぐためには、どこの国でもほかの一般的災難を防ぐのと同じように公の防止策が講じられているのであって、これは国策からおこなわれることでもあるのである。というのも、この退屈という害悪は、その反対の極である飢饉(ききん)と同じように人間をはなはだしい無法状態へと駆り立てかねないものだからである。民衆というものは「パンとサーカス」を必要とするのである。
会社などにおいて口数が多い人がいる。これは、その者が退屈で苦しんでいることが現れているのである。退屈という不快を、しゃべるということで中和しようとしているのだ。その逆に、忙しい人はあまりしゃべらないものだ。これは忙しくてしゃべる余裕がないというのではなくして、忙しさのために、性的なものをはじめとするあらゆる不快が中和されているのであり、むしろ緊張感という快感に酔いしれているのである。また、自分で会社を興した頃には、いっしょうけんめい誠実にやっていた者が、全てがうまくいき、部下を指揮するだけの立場になると、退屈によるいやな不快が襲ってくるものだ。だからこそ今度は、部下をいじめ始めるのである。彼が会社を興した頃には、こんな不快はなかった。こんな不快にあえぐ会社の社長や役員が、業績の悪い店の店長を大勢の前でいじめる、という例は多い。余裕のでてきた彼らは、忙しく必死の者に比べてはるかに大きい不快にあえいでいるのである。さらにこのような成功者は、退屈しのぎのために不正をやりだすのである。これは金儲けのためというよりは、不快を中和するための本能的な行動、つまり冒険という意味があるのだ。忙しさによる不快に比べて、暇・退屈による不快は、はるかに性質が悪いもので、前記のショーペンハウアーの引用文にあるように、貧困・困窮と同じくらいに犯罪をも生み出す温床になっているのである。
第一六節 非利己的な行為の正体
我々はいつも何かに飢え不快にあえいでいる。希望や喜びでさえも不快の別な顔だ。そして、待ち得ない我々は、これらの不快をはやく中和しようと思っている。生命力や能力のある者ほどこの不快は大きいものだ。だから、健康な者や若い者はせっかち、つまり待つことに大きな不快を感じる。良い行為も悪い行為も、全てはこの不快の中和のために行われると言ってよいだろう。たとえば名誉心や虚栄心、つまり、自分が優れていたいという欲求は一つの不快であり、これらの不快の中和のために、我々は実にいろいろな方法を生み出しているのである。
たとえばあらゆる非利己的に見える行為の中に、利己的な要素を見つけてみるとおもしろい。世の中に純粋に非利己的な行為はない、ということだ。どのような自己犠牲的行為・親切な行為・無欲の行為・献身的な行為・優しい行為の中にも、利己的な動機をたやすく見つけることができるのである。たとえば私は車の運転中に、交差点でよく右折者に道を譲る。このときの私の心理について調べてみると、これは、私の優越への渇望(ニーチェに言わせれば、「力への意志」)という不快感のために起こす行動なのである。その場を取り仕切ったり、相手をリードしたりすることによって、私はわずかではあるが満足感(優越感)を得ることができるのであり、それを得たいがために、私はこのようなめんどくさいことをやらずにはいられなくなるのである。親切にするという行為は、「物が食べたい」などの欲求と同種の「優越したい」という欲求により、自分がそうしなくてはいられなくなったわけであって、けして相手のためにやったわけではないのであり、相手はただ利用されたにすぎない。非利己的な行為の正体は、我々の「より高度な不快中和手段」であると言える。優越感を得るために、遠回しでわかりにくい方法で行なうことにより偽装して、高貴で気高いものに見せかけるのである。
前出のニーチェ「善悪の彼岸」から、関連したところを引用しよう。
現今《利害関心なき人間》というものが大いに一般民衆の称讃を博しているのを見るにつけて、われわれは、いささか危険とは思いながらも、民衆が真に関心をもつものは何であるかを、また、およそ一般庶民が痛切に深く心にかけるものは何であるかを、はっきり理解しなければならない。ここで一般庶民というものには、教養人も、また学者も含まれるし、なおまた全くの間違いでないとすれば哲学者も含まれるとみてよい。そこから次のような事実が明らかになる。つまり、繊細な洗練された趣味をもつ者たちや、すべて高級な本性をもつ者たちにとって興味があり魅力があるものの大部分は、一般人には全く《興味がない》もののように見えるという事実である。――それなのに一般人は、そうしたものに打ち込んでいる者を見ると、それを《利害関心がない》(無私無欲)と呼び、どうしてこう《無関心的》に振舞うことができるのかといぶかる。こうした民衆のいぶかりの念を、魅惑的な神秘的・あの世的表現にもたらしさえした哲学者もあった。(――おそらく彼らは高級な本能の人間を経験から知ることがなかったからであろう?)――。ところが彼らは、かかる《無関心的》な行為が条件いかんではまことに興味ある利害関心の行為であるという、あるがままの真実に正しい真理を、提示することがなかった。―― ――「そんなら愛はどうなんだ?」――なんだって! 愛からでた行為は《非利己的》であるとでもいうのか? なんたる馬か者だ――! 「また、自己を犠牲にする者は称讃される、だって?」だが、じっさいに犠牲をはらった者なら、自分がその代わりに何かを望み、それを手に入れたことを――おそらくは自分の何かをささげた代償として自分に必用な何かを手に入れたことを――知っている。また、自分がここで何かを犠牲にしたのは、かしこでそれ以上のものを獲えるためであり、おそらくは総じてより以上の者でありたいため、あるいは、ともかくも自分を《より以上》の者と感じたいためであることを、知っている。
どんな人間の非利己的な行為の中にも、我々の名誉心や虚栄心がもぐり込んでいるものだ。自己犠牲的な行為の中に、我々は自分の好みに合う甘い蜜(優越感)を見つけ出し、それを味わっているのだ。世の中に報酬なしの行為はないものだ。他人のために自分の利益を無視したように見える行為もよく見ると、我々の名誉心や虚栄心を満足させるための策略があることがわかる。我々はけして損することなく、ちゃんと自分の利益を得られるような策略を立てているのである。どのような自己犠牲的行為の中にも、必ずある策略があり、我々は見返りとして「優越感」という報酬を受け取るのである。それらの行為は、意識的にも無意識的にも、我々の優越することへの渇望、という不快を中和することを唯一の目的としているのである。我々にとっては、優越感は重要なものであって、それを得るがために我々は、実に驚くべき量の手間やお金をかけたり、危険なことをやったりするものなのである。野村ひろし「グリム童話」(筑摩書房)には次のようなオーストリアの「精神分析学」の創始者フロイトの言葉が紹介されている。
幸福な人間は決して空想しない。空想するのは不幸な人間だけである。みたされなかった願望こそ空想を生みだす原動力であって、空想というものはどれもこれも、願望充足であり、人を満足させてくれない現実の修正を意味しているのである。人を空想へと駆りたてる願望は、その性別、性格、生活事情によってそれぞれ異なるが、しかし、たやすく二つの主なグループに分類することができる。すなわちそれは、人格高揚に奉仕する名誉心的願望か、性的な願望かである。
この名誉心的願望か性的な願望のために、我々は空想に駆り立てられるのである。
恐れながら勇気をもって言うのであるが、ユーゴスラヴィア生まれの聖女マザー=テレサ(カルカッタのテレサ、一九一〇年生まれ)の聖なる大規模な活動においても、同じことが言えるのである。テレサの活動があれだけ大きな規模になったのも、彼女の不快が並外れて大きなものであったということだ。彼女は、あの献身的な活動の中から、何か利己的なものを、たぶん無意識のうちに得ようとしていたことは確かなのである。
我々の行動はすべて利己的なものである。だから、迷わず利己的に猛進できる者は、最終的にうまくいく。しかし、他人のためである、という意識が強すぎる者は挫折するのである。そんな自然法則はないからである。偽装し続けなくてはいけないからだ。無理はそんなに長くは続かない。
第一七節 音や視覚ノイズは心のマッサージ、いらいらを静める
我々は、騒音は悪いもので、静かなことがよいと思っている。しかし、これは間違った固定観念だ。我々は常に不快にあえいでいる。静かさは我々の不快を中和してくれないし、むしろいらいらさせる。ある種の騒音(1/fノイズなど)は心のマッサージであり、やらなければならない辛い仕事・作業、あるいは退屈による不快を中和してくれるのである。また、目に入る雑多な光景も我々の不快を中和してくれるのである。私などは、静かなところでは読書は一〇分も続けられないが、騒音や視覚的騒音の中では持続できる、という経験がある。
第一八節 目の利口そうな者
我々は顔、体型、言動などから相手の特徴を推測できる。我々は重い痴呆の人の顔を見ただけで正常でない精神状態を感じるし、気分の悪い人の顔を見ただけで相手の気分の悪さを感じることができる。これは当たり前のことだと思っているかもしれないがそうではない。目の前のものの状態を察知することができるのは、目を含めてそれを可能とする「しかけ」が我々にあるからだ。我々が相手の顔や体や言動によって相手の状態を推測できるのは、我々の体にそれを可能とする「しかけ」があるからだ。しかし、その「しかけ」について、我々の意識が少しでも知っているだろうか? どのようなメカニズムや論理によりそれらを判断しているのかを、我々は知らない。足の長い人は恰好いい、目の大きい人は美しい。しかし、どうしてだろうか? 我々は理由は知らないけれど、そのように判断してしまう。
ヨーロッパの車は、誰が見てもヨーロッパ風に見えるし、アメリカの車、たとえばシボレーは、誰が見ても日本車とは違うデザインがあり、独特の美しさ・恰好よさを感じる。しかし、いったいどこが日本のデザインと違うのか我々にはがわからない。これは、我々の意識の中では整理できないもので謎なのだ。我々はこのような判断を生まれたときから誰もが共通にできるようになっているのである。これらの判断は学ぶのではなくて、どこからか到来するものである、と考えないと理解できない。恰好いいもの、かわいい顔、セクシーな体がどのようなものでなければならないかの判断条件は、我々の意識にはないことは確かだ。というのは、それを考えてもわからないからだ。
頭の良い人は、その人の顔、体型、言動などにそれが現れているものだ。つまり我々は彼らのそれらを見るだけで、彼らの頭の程度を判断できてしまうのである。しかし、その対応関係が、我々にはまったくわからないのである。「頭のよい人はよい顔をしている」と言うなら、「よい顔とはどんな顔か」と質問する。それに答えて「あそこがこう、ここがこう」などと答えるならば、「どうしてそこがそうなっているとよいのか」と質問する。これは無限に繰り返すことができる。つまり、我々にはわからないがそう感じるだけのことであって、その根拠を我々の意識は知らないのである。もっとわかりやすく言えば、我々は何も判断していない、それはどこからか到来したのである。
我々の意識は頭が良いかどうかを、現物が目の前に現れたときに初めて判断できる。しかし、頭のよい者はどのような外観をしているかを説明できない、つまり知らない。我々の意識はその判断のメカニズムをまったく知らないが判断できてしまう。我々のこのような判断のメカニズムは、意識の中にあるものではない。それは意識以外のところ(フロイトに言わせれば無意識・エス)から意識に届けられる、というふうに考えたくなる。だから、我々は頭の良い者の特徴が目に、顔に、体に、その動作にどのように現れているかがまったくわからないのである。我々の判断のメカニズムはいつも謎なのである。
そこで本題である「頭が良さそうな目をしている」を考えてみる。確かに、頭が悪い人の目を見るとトローンとしているのだ。これは不思議だ、ただ顔に穴が開いていて、そこに誰でも同じような眼球が入っていてそこに瞳があるだけなのに、どうして大きな違いを表現できるのだろうか? ひょっとしたら、目が利口そうであるのではなくして、顔全体、さらには体全体からくる印象を目のせいだと思い込んでしまっているだけなのではないだろうか? しかし、前述のようによくわからない。わかりそうでわからない。そう言うのがもっとも正確なのではないかと思う。
余談になるのだが、科学や哲学とは何か、という問題についても同じことが言える。広辞苑には、「科学とは、体系的であり、経験的に実証可能な知識」、「哲学とは、諸科学の基礎づけを目ざす学問。世界・人生の根本原理を追求する学問」とあるが、この説明は、歴史上成果のあった科学や哲学の仕事の一例を示したのにすぎず(たとえば前記の広辞苑の哲学に関するはじめの部分は、ドイツの哲学者フッサールの現象学の説明である)、これでは科学や哲学の「心」をまったく感じることはできない。科学や哲学そのものについて何も説明できてなく、素人がこれを読んでも何もわからない――これは、偉大な音楽や文学や哲学を、解説書などで理解することが不可能であることと同じだ。わかる者ならば、「ある考え」が科学的であるのか哲学的であるのかは、直感的にわかるものだ。しかし逆に我々は、科学とは、哲学とは、という質問に答えることは不可能なのである。それらについての論理的な説明は、我々の意識の中だけでは不可能なのである。歴史上の偉大な科学者・哲学者の仕事には、それぞれ共通の何かがある――だからそれらを科学・哲学と分類できるのである。しかし我々には、それを説明できないのである。それは、我々が目の前に現れた人間の顔を、良い顔・醜い顔に分類することはできても、良い顔・醜い顔とはどのような顔なのかを説明できないことと同じなのである。我々が良い顔・悪い顔を判別する基準は意識の中にはないのである。だから画家は、魅力的な女性を描くのにモデルを必要とするではないか。想像だけで魅力ある女性の絵を描いた者があるだろうか?
第一九節 喜びも不快である
何かを達成した時の満足感や成功の後の喜びの中にも、よく見ると不快が忍び込んでいることにお気づきだろうか? だからそういう時、落ち着かないし、何かでそれをまぎらわせたくなる。酒を飲んだり、たばこを吸ったり、騒いだりして落ち着かない。つまり何かをせずにはいられない。これも、ある種の不快だと言えないだろうか? 素敵な者をみた時、恰好いいものを見たとき、自分の恰好いい体形に満足した時、気持ちがいいといいうよりむしろある種の不快が伴っているのを感じる。そしてその不快が次の行動に駆り立てるのである。その素敵な者や恰好いいものを手に入れたくなったり、もっと自分を恰好よくしたくなったりする。つまり、満足することができない。すぐさま、次の欲求が襲ってくるのである。そして次の行動に駆り立てられる。良くなればなるほど、うまくなればなるほど、知れば知るほど、さらにそれ以上を求めて現状に不満を感じ、より大きな不快感が訪れる。
二〇〇六年二月に開催されたトリノオリンピックで行われたスノーボードクロスという競技での女子の決勝戦で、独走状態でゴールに迫っていたアメリカの選手が、なんとゴール直前でジャンプして体をひねった際、着地に失敗して転び、はるか後ろにいた後続の選手にゴールの数メートル手前で追い抜かれてしまった。彼女はゴール手前の段差でジャンプしたとき、あまりにも大きな「喜びという名の不快」のため、「何もしないこと」ができないでつい遊んでしまった。空中で体をひねって自分の喜びを観衆に表現してしまった――実はそうではなく、顔に落ちてきた髪の毛をかき上げるのと同じで、不快を払いのけただけなのだ――のだ。それでバランスをくずし転倒してしまった。あまりも大きな不快に我慢しきれずに、それに対処しなければならなかったというわけだ。これは、どこかがかゆいときには、思わずかいてしまうのと同じだ。
第二〇節 ミニバイクは抜かれる
我々は道を歩いているとき、前を歩いている人のことがたいそう気になるものだ。自分が敬意を表すべき者であるという判断をした場合、そのまま後ろについて歩いていく。しかし、見下すべき者であると判断した場合には、追い抜いてしまうものだ。自動車に乗っていても同じ事で、前を走るミニバイクがどんなに速く走っていても、後ろの車は必ずこれを追い抜こうとするものだ。我々は相手の行動でなく、相手の価値により自分の行動を決定するのである。つまり我々は、相手の話の内容でなく相手の肉体や社会的地位により、その話しを好意的に敬意をもって聞くのか、ぞんざいに聞くのかを決定してしまうという性質があるのである。
第二一節 利益では説明できない嫉妬の大きな力
カール=ハインツ・マレ「首をはねろ!」から引用しょう。
いままで述べてきたことを要約しよう。人間というものは、カイン・情動への執着と、自分もアベルと同じように裏切られ騙し討ちにあうのではないかという同時的な不安と、殺された者の後日の仕返しによってひどい殺され方をするのではないかという不安とに取り囲まれて、かなり破廉恥に、またさほどの道徳的抑制もなしに生きているということである。つまりこういうことだろう――人間というものは、暴力的衝動と、そのような衝動を人間から奪い取る何がしかの不安との境目に当たる狭い尾根の上で何とか生きているのであり、またこのような不安定なバランスが、人間をある程度融和的な状態に引きとめているのである。
現存する資料や研究が示すように、妬みや不信は子供部屋を占領し、さらに言えば、広く世界をおおっている。たとえば、温和の典型とされているアフリカ原住民たちの集落や、表向きは「攻撃」との絶縁を強調する反権威主義的な無認可保育園も、その例外ではない。だから、狩猟や自然物の採集を生業とした原始民族のさまざまな文化が持つ融和性――これはしばしば引用されるものだ――もいつの間にか好ましい作り話になってしまったのである。
さらに同書から引用しよう。
裏切られ、捨てられ、消される(KHM九一「地中の小人」)――妬みや、不信やまたそのようなものから派生する殺害意図は、兄弟(姉妹)や子供の間だけに生まれるものではない。このことについてはいくつかのメルヘンが証明している。グリム・メルヘンの場合には、とくに「地中の小人」(KHM九一)があげられる。この物語の発端は「歌を歌う骨」(KHM二八)に似ている。ただし、この場合は三人の王女が獲得できることになっている。そこで、三人の狩人の若者が三人の王女を探すために出かけて行く。これは「歌を歌う骨」の場合に比べてはるかに条件がいい。というのも、「歌を歌う骨」の場合には、二人の兄弟のうち一人しか王女を獲得できず、それが大きな原因となって事件へと発展していくからだ。一方、「地中の小人」の場合は違う。もしも三人の狩人の若者が力を合わせて課題を果たせば、めいめいが一人の王女を獲得することになる。したがって、この場合には、妬みや、不信が生まれる理由は一つもなく、むしろ信頼に満ちた共同作業を助長するような状況があるだろう。事実、三人の若者は当初お互いにきわめて協調的である。だから、三人はくじ引きで、家に残って食事の支度をする者の順番を公平に決める。つまり、一人が家に残り、他の二人は王女探しに出かけるというわけだ。したがって、王女探しの二人は日替わりということになる。最初の日は一番年上の若者が家に残って炊事をした。するとそこへ一人の小人がやってくる。この小人は、体は小さいくせにとてつもない強力の持主で、一番年上をめちゃくちゃに殴る。そこで彼は当然そのことを二人の仲間に話して、小人には気をつけろと言いそうなものだが、そうでない。彼は小人の一件については口をつぐむ。二番目の年上もまた、地中の小人から同じような目にあわされ、さんざん殴られる。その日の夕方、王女探しから帰ってきた一番年上は、二番目の年上に、留守中に何か起こらなかったか、と聞く。二番目の年上はそこで小人の一件を報告する。二人の年上は、自分たちが災難にあったことをお互いに口惜しがる。ところが奇妙なことに、若い狩人ナンバー2は、ナンバー1に裏切られたと思わない。その証拠に、このナンバー2は、ナンバー1が自分に予め警告も与えないで自分をわなにかけたことについて文句も言わないし、非難もしない。親しい者からこのようにあしらわれることを、ナンバー2はごく当たり前のこと、正常なこととでも思っているのだろうか? たぶんそうなのだろう、なにしろナンバー2がその後にとる行動は、ナンバー1のそれと同じであって、わが身に起こったことを彼は一番年下の若者に一言も話さないのだから。二人の年上はこの点で一致する。
このような行動の動機については、メルヘン「強いハンス」(KHM一六六)が説明している。このメルヘンの場合も状況は同じである。(ヒーローの)ハンスも、(他の二人の仲間から)乱暴な小人に気をつけろという注意を受けていない。その根拠としてあげられるのは、ハンスの仲間の一人(“もみの木ねじり”)の考えである。「ハンスの奴もきっとおれたちと同じ目にあうさ」。しかも、「そのような考えだけで」別の仲間(“岩砕き”)もつい嬉しくなってしまう。これが本音である。つまり、「他人の不幸を喜ぶ気持」が動機なのだ。他人の不幸を喜ぶ気持は、まず第一に協同の精神、つまり三人の仲間にとってきわめて困難な課題を果たすために必要と思われる精神をむしばむ。むしばむだけならまだいいが、それだけに終わらずに暴力への第一歩を踏み出すことになる。ショーペンハウアーは他人の不幸を喜ぶ気持を悪魔的なものと見なすが、この見方は全く正しいだろう。ところが、これが蔓延していることもまた確かな事実である。たとえば、二歳以下の子供たちにもこの「気持」は発見できる(アイブル=アイベスフェルト著「行動学から見た戦争と平和」、一九七五年)。いくつかの格言は「他人の不幸を喜ぶこと」の快感を賞賛し、そのような快感の有害性を過小評価している。たとえばこんな格言がある――「損傷を受けた者(失敗者)は嘲笑を免れない」。しかし、この嘲笑は危険である。なぜなら、嘲笑は社会的な関係を崩壊させ、その結果、協調的精神を危うくするからだ。
(「地中の小人」の)小人は一番若い狩人には勝てそうもない。この若者は二人の年上からバカ呼ばわりされているが、小人に一杯食わされないどころか、彼の方が小人をぶちのめしてしまう。小人は助けてくれと叫び、ハンスが殴ることを止めさえすれば王女たちの居場所を教えてやる、と約束する。ハンスは殴ることを止める。小人はハンスに、三人の王女たちの居場所と三人の救出方法を教える。ハンスはしかも、よいアドバイスを一つ、ロハで手に入れる。それは次のようなものだ――二人の年上を信用してはいけない、「もしもあんたが王女たちを救い出したいのなら、あんたは一人でその仕事をやらなくてはならない」。
ハンスは小人の言葉を疑わない。そして後から証明されるように、小人の忠告を忠実に実行するが、二人の年上と別れようとしない。ハンスは仲間意識を忘れない。ハンスは善良であり、また善良でありつづけるが、実はこの態度が不利を招くのである。不利と言っても、ハンスがそのために愚鈍と見なされたり、嘲笑されたりするというようなことでは決してない。メルヘンに出てくる善良なヒーローはすべて、そのような嘲笑を黙って甘受する。そんなことよりも、はなはだまずいのは、善良であることが危険を伴うということ、しかも時によっては生命の危険を伴うということである。これは問題である。善良であることが、善良とはいえない人間の攻撃を挑発するのである。善良であることが、奸計(かんけい:わるだくみ)、悪意、卑劣、そのほかもっとも悪質なものを誘発するのだ。
ハンスは隠しだてせず、正直に小人との間に起こったことを報告する。ハンスはみごとに小人をやっつけてしまった。ところが、このことがどうやら年上の仲間たちの嫉妬心を刺激するらしい。これはいったいどういうことだろう? ハンスは三人の王女の居場所を知っている。王女たちは井戸の底にいるのだ。三人の若者は、井戸の底へ降りていって三人の王女を引き上げさえすればいい。そうすれば、三人の若者は裕福な人間になれるのだ。そうなることは、貧しい狩人の若者たちがひたすら夢に描いてきた未来図だ。それがいま実現しそうなのだ。つまらないやきもちなんか吹きとぶはずである。また本来ならば、二人の年上は感謝の気持をこめて一番若いハンスの肩を叩くべきであろう。ところが、ふたりには感謝の念などはない。彼らはハンスの肩を叩きもしない。まあ、それもいいとしよう。だが、二人は少なくとも喜ぶべきだろう。ところが喜びもしない。すばらしいニュースも、二人には全く関係がない。二人は自分たちの将来の身分を喜ぶのでもなければ、美しい王女が間もなく自分のものになることを喜ぶわけでもない。そのようなことよりもずっと強く二人の心をとらえるのは、ハンスが自分たちと違い小人をみごとにやっつけてしまったことと、さらに、きわめて重要な情報を巧みに入手したことである。二人の年上の妬みは、富や、権力や、一人の美しい女性が得られるという見込みよりも強力である。二人は喜ぶかわりに怒る。しかしその怒りはあまりにも激しくて「目がくらむ」ほどである。何というばかげた、無目的な態度だろう! そのような態度は彼ら自身の損になるだけであり、彼らの妬みは何の得にもならない。にもかかわらず、二人はそのような態度をとる。
第二二節 我々はなぜ火事を見に行く?
我々は他人の不幸を見たり、知ったりすること、さらには他人を苦しめることにより快活になることができる――この不道徳な意見にたいていの人は眉をひそめるかもしれない。それでは火事のときに、どうして野次馬が大勢現場に駆けつけるのであろうか? 昔の残忍な公開死刑に大勢の人々が集まるのはなぜか? 彼らはどのような動機で駆けつけるのか? その目的は何なのだろうが? 私はこの質問を前記の命題に反対する人にあびせてみるのだ。すると彼らは困った顔をして沈黙してしまうのだ。我々は他人の家の火事を何となく見に行くのではなく、砂糖に群がるアリのように、じっとしていられない衝動に襲われるのだ。我々はそれらに快楽する、もっと正確に言えば、性欲や食欲にがまんできないように、我々の渇望を満足させようとするのである。また我々は、他人の危機だけに快を感じるだけではない。冒険家は自分自身を危険にさらすことで、修行僧は自分を痛めつけることで、マゾヒストは自分を苦悩させることである満足(快楽)を得ようとするのである! これらには何か麻薬的なものがある。この麻薬的なものたちは、我々を無条件に強力にひきつける。であるのでしばしば優等生すらも悪事に巻き込まれてしまう。
他人の家の火事は、その家に関係のない者にとっては迫力ある見世物くらいの意味しかない。自分に関係のない他人の不幸は、我々を強く引きつけるイベントなのである。昔のローマ帝国でいえば、人と人、人と野獣の殺し合い、また少し前まで行なわれていた公開死刑を見物するのと同じなのである。現代でも、K―1、PRIDEといった過激で残酷な格闘の見世物に誰もが見入ってしまう。
二〇〇五年四月に韓国のソウルで、ラオスから来た象が逃げて焼肉店に侵入しあばれた。店の中はめちゃくちゃになってしまった。それを見ていた見物人に話をきいたところ「一生思い出すほどおもしろかった、しかし、店長と知り合いなのであまりおもしろがれない」とひどいことを言っていた。人の不幸を本当に心配できるのは、その人と強い関係がある、つまりその人からなんらかの利益を得ることができる者のみなのである。
野次馬たちは家に帰れば「私は他人の不幸を望まない」、「誰もが幸せになってもらいたい」、「世界平和」などと言っている。身近に起こった不幸な事件をわくわくしながら見物しておきながら、普段はそれとは正反対なことを言っているのだ。お昼のワイドショーやニュース番組で悲惨な事件は報じられると、誰しも見入ってしまうものだ。大惨事ほど人を引きつける。「子供がマンションの十二階から落とされた」、「トラックのタイヤがパンクして対向車線に飛び出して対向車と正面衝突、家族三人は即死」、「車内で三人が自殺」といったニュースは、大きな声では言えないが人をなぜか引きつける。
第二三節 優しさと善良さの正体
ニーチェは「人間的な、あまりに人間的な」(浅井真男訳、白水社)で謎めいたことを言っている。
名誉心は道徳的感情の代用物であること。――道徳的感情は、少しも名誉心をもたないような天性の人々には欠くべからざるものである。名誉心の烈しい人々は道徳的感情なしにでもやっていける、ほとんど同じ成果を収めながら。――それゆえ、名誉心に縁遠いけんそんな家庭の息子たちは、ひとたび道徳的感情を失えば、通例急速に完全なごろつきに成り下がるのである。
つまり、我々が「良い子」の行動をするのは、それによって我々の名誉心や道徳的感情が満たされるからであり、ただで善人をやる者などはいないのだ。報酬があるからこそ、良い子でいられるのだ。まったく無条件な非利己的・善良な行為などはないのであって、何かをその行為により得られるからこそ、そんなめんどうくさいことができるのである。社会的に正当なことをやることにより報酬を受け取れるめぐまれた者にだけに、善人を演ずる舞台が用意されるわけであり、そうでない者は、そのような不快の中和手段がないわけであるから、したがって行き場がなくなり「完全なごろつき」に成り下がるしかないというわけだ。
少し脱線するが、ある有名人がよく、「神は乗り越えられない試練は与えない」などと唱えている。しかし、世の中を良く知っているものなら、この意見はナンセンスなのである。乗り越えられないで挫折してしまう者は大量にいるのだ。しかし、この者たちの情報は伝えられることはない。というのは、報道されるものは、すべて成功者についてだけだからである。しかし一般の者は、報道されないことは存在していない、と思ってしまっている。
刑務所から出てきた者が、すぐに悪いことをしてしまう。ときには、人を殺す。しかし、よく考えてみれば当たり前だ。住むところもない、働き場所もない、頼るところもない、金もないでは、盗みをするか、犯罪者になり、刑務所に入るしかない。更正などできっこない。生きることが困難なのだから。刑務所において、「園芸療法」などまったく意味がない。考え方の問題だけではないのだ。生活していく手段がない場合、我々は更正などできない。こんなことがどうしてわからないのだろうか? おりこうさんでいるから、うまくいくのではない。うまくいっているから、おりこうさんでいられるのである。
幸せな経験は我々を弱く、優しく、考え深くする。これは守ろうとする気分であり、野生的本能である攻めよう、制覇しよう、破壊しようという気分を抑制する。これは、道徳的・宗教的な気分である。また守るべきものをたくさん背負った者も同様である。良いものをたくさんもつと、それを失うことが怖くなってしまうからだ。幸せな思いをしてこなかった者は、、守るべきものや失うものがなく、従って、この者にとって悪い行為を抑えるという努力の価値は、何もないのである。
また、病人も弱く、優しく、考え深くなる、つまり、善良な者になる。それは自分を守ることに専念しなければならないからだ。一般には、善き行いの代表的なものであると思われている「優しさ」とは、実は不気味なものでよく見るとその中には、我々の策略・姦計がひそんでいる。たいていの場合、優しい行為には自分の優越を確認しようとする実にいやらしい我々の策略がひそんでいるものだが、弱者、たとえば病人の優しさには、自分を守るための策略が見える。これは相手をコントロールするための手段の一つだ。我々は自分に弱いところがあればそれが気になる。どこか痛いところがあれば、その部分の存在を強く感じそれを守ろうとする行動が本能的に始まるのである。それは生存の維持への不安を感じ始めた者の策略であり、自分の生存を維持するということが唯一の目的とされているのである。それは、相手を気づかっているように見せかけているが、実は自分を気づかってくれることを見返りとして要求しているのだ。相手に自分を攻撃しないようにさせ、自分のためになる行為をさせよう、自分の見方にしようとする策略があるわけだ。この優しさという我々の実に「気高い演技」は、あらゆる場面で我々が相手をコントロールする有力な手段として、また、我々が優越感を得るための手段として活用されているのである。
会社などの組織の中で、落ちぶれていく者は優しくなっていく。家族の中に病人が出た者、困り果てた者も優しくなっていく。前出のニーチェ「道徳の系譜」(秋山訳)には『きまじめさは生命力の衰えを示している』とある。失業した者とそうでない者では、同じお金をもっていてもそれに対する考え方は違う。失業した者は残ったお金、もう当面入ってこないお金をどう有効に使おうか、という守りの体制に入っていってしまう。この状態は人を弱くする。別な言葉で言えば、何かを攻撃したいというエネルギーを奪い去ってしまう。この状態は人をきわめて考えさせ、まじめにしてしまい、良い人・優しい人にしてしまう。これらの気づかいは道徳というものを生み出していく土壌となる。また、それらは宗教的な気分でもある。宗教はこのような気分を体系化したものである。組織の中でうまくいかなくなってしまった者は、皆このようなタイプの者になってしまうはずだ。ある程度めぐまれた状態から落ちてゆくとき、人は優しくなっていくのである。しかし、前記のように初めからめぐまれていない場合、人は悪くなってしまうのである。
新撰組の副長であった一八三五年生まれの土方は、残忍なことをしたことで有名だが、「鳥羽伏見の戦い」に敗れた後、落ち目になってしまうと、優しい人間になっていったそうだ。衰退していくに従い、人は優しくなっていくのだ。それは生命力の強度とか社会的な地位・状態が態度に現れているだけであって、けして精神的な成長の問題などではない。土方は肉体的に弱くなったわけではないが、社会的に弱くなった。彼は周りのあらゆる関係の中で弱くなってしまったのである。肉体的・社会的な状態により、それに対応した欲求が生まれ、それが精神をコントロールしているわけである。グリムメルヘンの中にもそれははっきり現れている。強い存在である女性は、実は決して優しくないのであり、きわめて冷酷な判断を下すことが多い。弱者である男性のほうがはるかに優いと言える。しかし、社会的に落ちぶれても強盗や人殺しを続け、けして優しくならない者もいる。このような者は肉体的・精神的に強く(無神経や精神障害者も含まれる)、また、守るべきものや大事なものをもたない者なのであろう。
第二四節 体験したことしかわからない
我々は自己体験がないことを、それがある者と同じに理解することができない。それは自分流のかってな推測になってしまうのである。我々の内的な問題は、客観的なものとして他人に伝えること、理解してもらうことなどできないのである。次の実例は、このことを理解するのに良い例だ。ある弁護士の話である。彼はある事件で彼の家族を殺された。その事件後、彼は犯罪被害者のための活動を始めたそうだ。しかし、彼の家族が殺される前、彼は逆に犯罪者を救う活動をしていたそうだ。自分の家族が殺されるという体験は、横目で見る他人事とはまったく違うものだった。わかっているつもりでいたものが、それを自分が体験することでまったく理解していなかったことに気づいたのであった。あることについて、自己体験のある者とない者では、まったく話はかみ合わない。これは話し合いなどでは解決できず、互いに同じ体験をするまでわかり合えないのである。
登山家でも、遭難して死にそうになってなんとか生還した場合、登山をやめる者も多い。遭難を他人事としてきいていたときには、それほど強く感じなかったが、体験すると他人事としてきいていたものとは別物となるのだ。
第三章 人間関係に関すること
第一節 悪口を言われる名誉
悪口を言われる、ということは相当困難なことをやっている、ということなのだ。何もやってない人は、何も言われない。自信を持ってくだされ。有益、有効なことをやりとげようとするとき、必ずそれを不快に思う者が出てくるものだ。その量は、その有益さに比例する。その行為が理解できない者は、想像よりはるかに多いものだ。
我々は、自分の理解できないことを、「理解できない」と認識することはない。必ず自分の理解できる「悪いもの」で理解しようとする。つまり、理解できない者は、必ず悪者にされてしまうものだ。次のニーチェの言葉を引用してみる。『我々は理解できないことは、誤解する。全てが誤解される、ということは、その者が、特別の存在であるということである』。
ユダヤ人は2000年以上にわたって、いじめられ続けてきた。なぜなのか? それは、彼らが、彼ら以外の者が理解できないほど優秀だからである。世界の0.2%の人口なのに、ノーベル賞受賞者の20%を占めているらしい。
第二節 結婚できない者へ
結婚できる人とできない人、魅力ある人と魅力ない人について断片的にまとめてみた。近頃、結婚できなくて困っている男性が、結婚詐欺で殺された事件があった。結婚できない人、異性との付き合いができない、長続きしない、という悩みを抱える者は多い。
結婚がすぐにできてしまう人と、なかなかできない人がいる。ずっと一緒にいたい人と、わかれたくなる人がいる。その人のそばにいるだけでわくわくすると、何も感じない人がいる。あるNHKの女性アナウンサーなのだが、その声としゃべり方にきわめて魅力がない方がいた。後でわかったのだが、その方は独身で、老後のことを心配していた。外観は美人なのだが、きわめて魅力がない、まるでマネキン人形のようであった。結婚できないで困っている人は、すべてこんな感じの人だ。
魅力というものは、外観、動き、声、しゃべり方、書かれた字など、すべてに現れている。我々は相手を見たとき、それが魅力的なものかどうかを判定できる。では、魅力的なものの条件を知っているだろうか? じつは、我々の意識はそれを知らない。知らないのに判定してしまう。不思議である。だから、画家は必ずモデルを必要とする。もし、魅力的な者が想像できたなら、モデルは必要ない。
はっきり言えば、魅力とは生まれつきのもので、努力で手に入れられるものではない。もしそれが可能であると教えている者がいるなら、まやかし者である。人を魅惑するもの、それはいったい何だろうか。たぶん、というか絶対、これが我々にはわからない。わからないのに感じることができる、ということだ。
人を魅惑するものを持っていない人は、悲惨な生涯をおくらねばならない場合が多い。というのは、この世の幸せというものは、すべて他のものとの関係によってつくられるものだからである。婚だけでなく、組織に参入する(面接)ためにも、いい仕事にありつくためにも、まず他人に好かれなければならない。つまり、パトロンがつかなかった者には幸福はない。パトロンは有能さではなく、魅力でよって来るのである。いくら仕事ができても、人に嫌われた人に先はない。私はそういう例をたくさん見てきた。
人に好かれるのは、その行動ではなくその人自体なのだ。そしてそれは本人にはどうしようもない。カーネギーをはじめ多くの「人に好かれる」ための本が出ているが、はたして効果が出ているのか疑問である。私の場合、すべての努力は効果なかった。結局生まれつきのものの効果が支配的なのだ。ここが大事なのだが、TVなどで出てくる成功談は、そもそも素質のあった少数の者によるものであり、その下にはうまくいかなかったその何千倍もの者が沈黙している、ということを知っておくべきだ。うまくいった者は出るが、いかなかった者は出てこない。つまり、だめだった者がいないのではなく、報道されなかっただけなのだ。
とにかくこの問題は深刻で、おおかたの問題と同じく解決策はない。早々と結婚できて、組織でもうまくいって楽しい人生を送っている者と、友達もいないし結婚もできない、社会的にもうまくいかない者がいるということだ。それは本人のせいではない。悪いことの原因を、すべて自分の中に探してはいけない。それは、もっと広大なものに関係している。そして、それらをコントロールすることは、我々にはできない。どうか、変な宗教にはしるのだけはやめよう。自分の得意な分野に集中することをお勧めする。
第三節 魅力はシステムとして存在する(背景の重要性)
ある人のある行動がステキだからといって、別の人がその行動をそっくりまねても、同じ効果は得られないものだ。その人がやったからこそステキだったのである。魅力的なものとは、その行動者を含めた大きなシステムなのだ。魅力ある者の行動は、その全てが人を魅了するものだ。しかしたいてい、その行動だけが取り出され、ほめたたえられることが多い。しかし、その行動はその人と一体となったときに魅力を放つのである。
ある人が魅力的である場合、どこから見ても、何をしていても魅力的である。視野にかすかに入っただけでもその人だとわかり、ワクワクするものだ。魅力的な人のもっているもの、やっていること、住んでいる家、属している集団までもが魅力的に見えてくるから不思議だ。実は、それらのものや状況がその人と関連し合って、互いを魅力的にしているのである。
魅力とは「その人の中」のみにあるものではない。人は動きの中に魅力が現れる。また、その人の背景が大きな役割を果たしている。つまりその人にかかわる全てのものが、その人の魅力に関与しているということだ。その人を魅力的にしているのは、これら全体と、それらとの関係であって、その人一人だけの問題ではなく、「大掛りなシステム」であったのである。だからその人があるシステムからはずれてしまい(会社から解雇されてしまったとか)、ぶらぶら私服で歩いていると、まったく前のような魅力がなくなってしまう。
私が小さかったとき、雑誌(確かマンガ雑誌「少年サンデー」)に載っていたいくつかの飛行機の写真があまりにも美しかったので、切り抜いてノートに貼ってみた。しかし、ノートに貼られた写真を見ても魅力を感じなかった。それが雑誌の中にあったときに感じた魅力は、ノートに貼られた写真にはなかった。だから、雑誌にあったときには何度も見たそれらの写真は、ほとんど見ることはなくなってしまった。同じ写真なのになぜだろうと思った。雑誌のページの中で写真は、我々の意識しないノートとは違う背景の中にある。そこに貼ってあるのではなく溶け込んでいる。背景は写真と同じつるつるした紙の上にある。そしてそれらのページは雑誌に中にある。これらのもの全てが「飛行機の写真」を魅力的なものにしていたのである。もし、あるページをやぶってしまったら、そのページの魅力はなくなるだろう。背後のものや余計なものによって、それらの写真は魅力的なものになっていたのである。また、その写真によってその雑誌も魅力的なものになっているのである。この相互関係が魅力の解明の鍵となるのであり、魅力とは多くのものの関係の中で生まれる、ということがわかるのである。
暴走族の行う「暴走行為」の魅力についても同じだ。誰もいない所や山の中を暴走して楽しんでいる暴走族はいない。彼らは必ず周りに人が多くいる所で暴走するものだ。彼らは、暴走において何を得ようとしているのだろうか。たぶん、自分たちの行動を周りの人に見せつけることにより、優越感という快感を得ようとしているのだ。彼らには必ず多くの見物人が必要なのだ。彼らと見物人との関係が、暴走行為を彼らにとって価値あるものにしているのだ。彼らが快活に生きるためには、普通の人たち、つまり自分たちを驚きの目で見る「反自分」の存在が絶対に必要なのだ。彼らは、もし周りの人たちが全て自分と同じようなスタイルの人であったなら、自分たちの《演技》を驚きの目で見てくれる相手がいないということになり、彼らの不快はぶつけるところがなくなり、快活に生きられなくなるであろう。彼らは自分たちの行為を見せたいのであり、その見せたい相手は誰でもよいわけではないのである。これはキャバレーやナイトクラブでホステス相手に自慢話をする男たちと同じ心理である。この場合も、この男たちはより優れたホステス――最高のホステスとは、客の自慢話をうまく聴くだけではなく、「この人に聴いてもらいたい」という欲求を相手にいだかせる能力(魅力)をもつ者なのである――に聞いてもらいたいのであって、誰でもいいというわけではない。彼らは周りの人たちとの関係によって、より快活になろうとしているのである。彼らにとっては、自分たちの驚くべき暴走行為を見た周りの人の反応をイメージすることが、究極の目的なのである。別な言い方をすれば、彼らは何かの不快に対処するために綱を引っ張る。そのとき、それの反対側は誰かに引っ張ってもらわなければならない。誰もが彼らの側を引っ張っていたのでは、綱は彼らを引っ張ってはくれない。引っ張られる綱を引っ張り返すことにより、彼らは快活になることができるのである。暴走行為自体にはまったく価値はない。しかし、自分たちを驚きの目で見てくれる《普通の人》と関係することにより、暴走行為には大きな価値が出てくるのである。
他人とのおしゃべりも、研ぎ澄まされた目で見てみると、魅力的な相手との係わり合いを楽しむ――下品ではあるが性交と同じで――ことが、唯一の動機なのであって、けして、その話題自体を楽しもうと思っているわけではないのである。その話題は、その相手と係わり合うための道具にすぎないのであり、我々の気にしているものは、間違いなく我々と相手の関係なのである。だから、相手がろくでもないことがわかると、我々は何もしゃべる気がしないものだ。
魅力というものは、このように多くのものの関係で成り立つものなのであり、それは「相乗効果」と言われることもある。だから、メインであると思われるものだけを取り出してみると魅力がなくなってしまうものだ。注目されているもののみに魅力が存在するのではなく、「周りとの関係」により魅力的に見えるということで、同時に周りのものも魅力的に見えるのである。人の魅力においては、肉体的なもの・家系・家庭環境・服・仕事・勤めている会社・友達といったもの、つまり背景的なものが大きな役割――というよりそれが全てを決定している――を果たしているものだ。我々からそれらのものを取り払ってしまえば、我々にはまったく魅力がなくなってしまうのである。しかし、このことはなかなか意識されないものだ。文章でも同じことが言える。その基本的な筋・論理・骨格などよりも細部が人を快楽させるのだ。何回読んでも飽きないという味は、人が意識もしない細部や余計と思われるところからにじみ出てくるものなのである。本体は、それらのおいしい味を支える骨組みにすぎなかったのである。しかし、たいてい我々はこの細部の効果に気がつかない。骨格が大事であると決めつけてしまっている。感じるが意識されない。それがわかる者は才人なのである。
第四節 相手の目をみて話せ?
これはよく出てくることだが、こうするとでかえってしゃべりに集中できなくなる。「人の目を見ていない者は話を聞いていない」と言われるが、根拠がない。これは単なる思い込みである。私は、相手の顔を見ないほうが話しに集中できる。むしろ、慣れていない相手と話すときは、対面しないで、一二〇度くらいの角度でいた方がいいのである。
第五節 よく知り合え、話し合えだと? とんでもない!
とはよく言われるが、仲良くやるためには、互いに分かり合わないほうがいいのである。
昔、あるヨーロッパの弦楽四重奏団について面白い話を聞いたことがある。彼ら四人はプロフェショナルであり、生活がかかっているので仲良くやっていかなければならない。そこで、彼らは午前中の数時間の練習以外は、一緒にいないようにしているというのだ。これは長く付き合うための唯一の方法なのである。あまり互いを知りすぎることは前記のようによいことは何もない。我々の考え方は必ず各人で異なるものだから、あまり互いに深入りするとどこかで意見が食い違うことになり、互いに相手に嫌悪を感じるようになるものだ。争いが起こっても、互いの間に強弱関係がある場合は簡単だ。弱い方は強い方に従うしかないから平和なのである。しかし、互いが対等であり、しかも、互いに強者である場合、互いの不信感は大きくなる。
しかし、わかっている者は相手と少し話しをしてみてまったくトンチンカンであった場合、基本的なものの違いがあり、危険な信号であると判断して、その者とその関係の話は絶対にしないようにするものだ。主義・趣味・宗教などが違っている場合、その関係の話や議論をするのは極めて危険で避けるべきなのである。仲良くしていかなくてはいけない関係の場合、意見の合わない分野のことに深入りしてはいけない。何か気になることを言われれば、必ず反撃したくなりけんかとなり、相手のことが嫌いになっていく、つまり相手の魅力はそぎ取られていく。これらは実に急速に進行し、あっという間に破局を迎えてしまうものだ。夫婦でも友達でも仕事仲間でも、長く付き合わなければいけない場合、話はあまりしないほうがよい。互いに不明であるほうがよく、自分をあまり知られないようにするべきであり、また、相手のことも知り過ぎないようにするべきだ。相手の見られてはいけないものを見てはいけない。見なければ気にならないからだ。全ては必要な最小限にとどめておかなければならない。自分の考えは自分一人で楽しめばいい。自分の考えに相手を引き込もうとするから争いになってしまうのである。自分の楽しみを相手にも味あわせようと思うのがよくないのである。
夫婦げんかや離婚の問題などでは互いによく話し合え、と言うが、これはとんでもないことである。話し合えば合うほど、互いの両立しがたい考え方の違いがはっきりして、また、互いのいやらしく、醜いところがいっそうはっきりしてしまい、相手を前よりも嫌いになってしまうのである。互いに丸裸になってしまい、いやらしい中身を見せてしまうことであり、互いの価値を下げてしまうのである。
前出のアーサー・ブロック「マーフィーの法則」には次のようなものがある。『美しさは皮一枚のもの、醜さは骨の髄まで』。我々の本質は多くの者が期待しているような崇高なものではない。これは今までの歴史を見ればわかることだ。我々人間獣の中(本性)は、解明不可能で永遠に未知であり、かなり不気味であることは確かである。うまく生きるにはそれをいかに隠し、あるいは見ないようにするかにかかっている。古くなって腐りかかりまずくなったものをいかにおいしく見せるのか、香辛料などをふりかけていかにおいしく食べさせてしまうかなのである。これをうまくやってのけた者が、楽しく人生を送れるのである。言っておくが、これは性悪説などというものとはまったく関係がない。善いの、悪いのというようなことはこの話にまったく関係がない。善い悪いは自然界に存在するものではなく、我々が作り出したものである。だから時代・民族・宗教・個々の人によっても違うのが普通である。我々はまずいと思ったものは食べたくないし、醜いものには近づきたくないのである。我々は結局、このようなことにおいて行動していることをよく知り、それに沿っていかなければならない。
第六節 はげますことについて
相手がどのような魅力的な人であっても、我々は自分の主義・趣味・宗教などが攻撃されれば、たちまち目を血走らせて反撃するものだ。我々の体が怒ってしまうのだ。たとえば説得や励ますことは、相手の固有な状態を「間違いである」と決めつけることなのである。つまり、説得や励ますことは、自分の主義・趣味・宗教などを相手に押し付けること、相手のそれらを全て払いのけて自分のそれらに置き換えようという行為であり、宗教で言えば相手に改宗を迫るのと同じである。互いに楽しく談話していても、誰かが相手を説得したり、励ましたりし始めると、とたんにそれを言われた方は不愉快な顔になり、重苦しい雰囲気になってくる。相手を説得したり、励ましたりすることは、相手の考え方や相手の状態をまったく無視し、相手の中に土足で入り込もうとする行為だからである。たとえば病人は励ましてはいけない。これは、実際にうつ病をはじめとして多くの病人の言っていることである。基本的な苦悩を取り除いてやりもしないで、ただ頭を押そうとしているだけであるのだ。それだけではなく、誰にとっても励まされることは不快なのであり、それによって励まされる者が利益をこうむることはまずない。人を励ますことで役に立つことが何かあるとすれば、励ましている者が相手との会話によって生じた、あるいは、いつももっている不快から一時的に逃れることができるくらいであって、これは励まそうとする者の欲求不満解消(不快の中和)の手段となっているだけなのである
第七節 家庭内暴力と不快感
「必ずどちらかが悪い」、「悪いことが必ずある」という間違った信仰がある。この考えが、これらの問題の取り扱いを間違わせてしまうのである。
家庭内暴力、いったいどうすればいいのか、という問題を考えてみる。この場合、暴力を振るう者が悪いので、その者に作用してやめさせればよい、と考えてしまうのではないか。しかし、原因は彼ではなく、彼に訪れる不快感なのである。この不快感をなくさないうちは、彼は暴力をやめないだろう。つまり、彼が悪いわけではない。彼が好きで不快感を呼び寄せているわけではない。かってに訪れるのであって、これは彼の責任ではない。この不快感をそのままにしておいて、彼に暴力を振るうな、といっても無理なのである。しかし、不快感が彼に訪れないようにする方法は、というと簡単には見つからない。彼も被害者なのである。であるから、この問題は我々のやりくりで解決できるようなものではないのである。
関連した話として、昔、私のおふくろは私と口論になったときに、「あなたは薄情なので、私が倒れたら冷たくされるわね」と言った。しかし、私はおふくろが倒れたとき、一三年間も最高の世話をした。この場合もどちらが悪いということではなく、どちらもかわいそうなのだ。薄情ではないのにそう言われた私もかわいそうだが、薄情な息子に怯えるおふくろもかわいそうだ。決してどちらかが悪い、ということではない。悪いものが何一つなくても、悪いことは起こる、ということだ。簡単に悪者を決めてしまってはいけない。本当の解決策を見失ってしまう。
第八節 すべては敵対関係にある
生命は常に外敵と戦っている。体の中では日夜、細菌やがん細胞が撃退されている。我々は安全の中にいるのではなく、大量の危険を大量の努力で打ち消すことによって、なんとか安全を手に入れている。このバランスが崩れれば、あっという間に終わってしまうのである。体の中の平和とは、そんな激闘の結果なのである。これは体の中だけではなく、すべての平穏は外敵との激闘にかろうじて勝っているからなのである。しかし、その戦闘に参加していない場合、戦闘は異常で、平和こそがあるべき姿である、と錯覚してしまうのである。
二〇〇六年サッカーワールドカップ、フランスとイタリアの決勝戦におけるジダンとマテラッティーの間の争いを見てもわかると思うが、スポーツは楽しいものではなく戦いなのである。スポーツマンシップなどは名ばかりにすぎない。机上で考えているときと違い、ピッチでは敵に対する恐ろしく大きな闘争心が支配しており、とても人には言えないような暴言も飛び交っているそうである。また、楽しいはずの長距離ドライブも、やたらに接近してくる後続車への憎しみと報復の願望、前の車をあおりたくなる我々の残忍な本能のおかげで、出発前の楽しい気分はすっかりなくなり、我々はあの太古の人々の気分に戻ってしまう。必死に前の車を追いかける者、必死に逃げる者、これこそが我々の正体なのである。また宗教においては、昔から異教徒への憎しみが絶えないではないか? 宗教は人々を救うものというよりは、我々の闘争心をかきたてるものであるように思える。キリスト教とイスラム教の争いは、イスラム教がムハンマドにより七世紀に創始されてからというもの尽きることがない。正に宗教は人間たちを平和にするのではなくして――ドライブが楽しいものとなるよりは、追いかけあいという闘争になってしまうように――、人々に闘争の舞台を提供してしまうものなのである。トルコ中部の地方カッパドキア高原に六~一三世紀に岩を掘り進んで建設された地下都市には、キリスト教徒が住んでいたが、イスラム教徒の攻撃に備えるために多くの工夫がされていた。二〇〇六年現在、キリスト教圏とイスラム教圏の間には、解決不可能な激烈な戦いが起こっていて、二〇〇一年の九月一一日の事件以後、アフガニスタンにおける米国・NATOとタリバンの戦いはとどまるところを知らない。これは、キリスト教圏とイスラム教圏の戦いに他ならない。米国に力でかなわないムスリム(イスラム教徒)の一部の人々は、一九六〇~一九七五年のベトナム戦争における北ベトナム・南ベトナム解放民族戦線が、米国軍を苦しめたようなゲリラ(奇襲して敵を混乱させる戦法)という陰湿で不気味な戦法と同じような方法、つまりテロと呼ばれる方法で、世界中の直接の敵とは関係のない人々に、かってな理由をこじつけて報復している。敵はけして降参することはないのであり、不快のはけ口があらゆるところにちゅうちょなく向けられるのである――これは、我々の不快を最愛の家族への暴力により中和せんとする「家庭内暴力」と同じなのである。
我々を含めた生物の互いの関係の本質は、はっきり敵なのである。しかし、高等になるに従い、人間になるに従い、それらをそのまま見せることをやめるようになっていく。それどころか、我々のそのような本質をまったくナンセンスなものとしてしまう思想がはびこってくるのであって、これらは道徳や宗教を見てみればわかる。しかし、その宗教が出てきたおかげで、前記のように異なる宗教同士の戦いが起こることになった。また、その理念とは逆に今から少し前の時代のヨーロッパでは、実に残忍なことが、なんと仲間の者に対して行われていたではないか。カトリック教会で始められたという異端審問や、それぞれの国が取り組んだ魔女狩りはよい例である。これによって、多くの罪のない者が殺されてしまった。どうして、普通の人や女性をいじめ、殺さなければならなかったのだろうか。それは、彼らがそうしたかったということであり、僧侶や役人の日頃は抑え込んでいる残忍性が出てきたまでのことだ。僧侶のメッキははがれたということだ。聖書の「汝殺すなかれ」というのは、全然守られてはいないではないか。我々のいやな部分は、いくら隠そうと思っても時々ちらりと出てきてしまう。もちろん、それにはもっともらしい理由がとってつけられているのではあるが、かってな理由をとってつけて人殺しをやっているだけなのであって、まったくテロリストの活動と同じだ。宗教では、我々の危険な本能までは手なずけられなかったということだ。それどころか、宗教自体が我々の不気味さと残忍さをよく現しているではないか。前出のニーチェ「道徳の系譜」には次のようにある。『すべての宗教はそのもっとも深い根底において残忍の体系である』。
「人間は皆、敵ではない」という考え方に従っている者は悩みつきなくなるだろう。というのは、しばしばこれが裏切られるからだ。相手に融和的なものを期待してはいけない。我々は以上のことをよく念頭におき、人とつき合わなければならない。いつも、用心をしていなければならない。相手は、未知で不気味で危険な存在であると考えていなければいけない。我々の正しい本性を知り、「融和に」振舞うのである。そうすれば、相手がいやな行動をしたとしても、それは想定内ということになり、あまり驚かないし腹も立たないでいられる。
第九節 我々を強く魅惑する者の中には、恐ろしい姦計が潜んでいる
優秀な詐欺師は、最も詐欺師らしくない誠実な者に見えるのだ。このような者を前にすると、誰でもこの良い香りに酔ってしまい、うまくコントロールされてしまう。これは、コントロールされる側にとってなかなかの快感なのである。詐欺師だけではなく、我々を強く魅惑するものには、中途半端ではない第一級の不気味な姦計がひそんでいるということを忘れてはならないのである。それは女性についても言える。
会社などの組織においても、出世する者は常に上司を騙している。彼は、常に自分と上司が困るような事実は報告しないで、何も問題がなく全てがうまくいっているように見せかけるので、彼の上司はいつも上機嫌でいられ、彼を好きになるのである。有能な上司は、必ず有能な部下に騙されているものなのであり、それは、キャバレーやナイトクラブで、ホステスに騙されながら高いお金を払って虚栄心を満足させているまぬけな男性たちと同じなのである。我々は、どんな回り道をしようとも――つまり、我々の醜い欲望による行為を、非利己的行為に見せかけながら達成する――、最終的には自分自身を満足させることを目標としていて、しかも麻薬的なものを常に求めている。有能な者は、それを知っていて上司を満足させ、酔わせ、麻痺させることに長けているし、それに徹することができるのである。そのような連中は、その行為をけして恥じたり罪悪感に悩まされたりすることもなく、自信をもって迷いなく快活に長期にわたって続けることができる、という能力をそなえているのである。つまり、無神経になれるのである。これは、あらゆる種類の有能者に言えることである。組織で出世する者は、必ずや部下や関係者などには気を使わず、自分の運命を左右する上司にだけ気を使うことに何のためらいもなく自信をもって専念できる、という能力があるのである。そのしわ寄せは、全て弱い者にいく。ある者を喜ばせるには、別な者を苦しませなければならないのである。ある者がお金をもうけることは、別な者がそれだけ損をすることと同じである。部下や関係者、あるいは弱い立場にいる者に気を使いたくなる者は、それらの者には好かれるが、そのことは彼の出世にはあまり関係しない。弱い者に優しく誠実で正直であるということは、一般には善良なことだとされているのだが、これは単なる彼の趣味にすぎないのである。彼は、彼の善良で危険なこの趣味のために、自分の運命を左右する上司より、部下や関係者に気を使うことに価値を感じるようになる。これは、聖者気どりと言ってもよい。このような者は、あるところまでは出世しても、いずれ必ず左遷されるものなのである。それは、彼の行動が彼の出世するタイプの上司を上機嫌にできないばかりか、むしろ不愉快にしてしまうからなのである。彼の上司は、全体としてうまくいくことをたてまえとしては称えているが、これはまったくの見せかけ(嘘)であり、本当のところは、自分の利益のことしか考えていないのである。
我々は永い歴史の中で、相手を魅惑する能力と相手に魅惑される気分を最高度に美化し、信頼し、崇高なものにしようとしてきた。多くの詩人は、この作業に迷いなく専念してきたし、宗教もこの立場だ。しかしこの結果、我々の恐るべき本能に対しての用心というものがおろそかにされてしまったのである。我々の美しいとされている部分は、自分がうまく生きるための、あるいは自分の欲望を満たすための恐ろしい武器であったのだ。美しく見えるものは恐ろしく、特に女性は不気味で、あらゆる行動に姦計(悪だくみ)を感じさせる。この「姦計」という文字のなかに「女」という文字が三回も使われている――この文字を生み出した昔の人には、そのことがわかっていたのである。「女」という文字は、漢字の中で多く用いられており、学研の漢和辞典「漢字源」で調べると、「女」を部首にする漢字は九九個あり、「男」を部首にする漢字はなかった。いかに女性が、自然界に深く根づいているかがわかる。女性というものは、強く・かわいく・恰好よく・美しく・有能・不気味・恐ろしい。――有能である者は常に不気味であり、麻薬のような危険な魅力で我々を誘う。
二〇〇六年現在も、大昔と同じく、我々の間には恐ろしく不気味な事件が後を絶たない。いじめや暴力などである。我々のいやな中身が、我慢しきれずにたまに顔を出すということだ。これらは教育・道徳・法律・刑罰などではなくすことはできない。魅力と残忍性は同じものの表裏なのだ。この問題に関しては、別のところで詳細に検討しようとおもう。
第一〇節 成功にしがみついていると危険
明日のことはわからない。今日、どんなにうまくいっていても、明日うまくいくかどうかとは関係ない。これまでのもの、実績、準備などが、明日のことに役に立つかどうかはわからない。成功は積み上げていくものではなく、一発で決まるものなのである。もちろん成功のためには、永い準備が必要な場合もある。
このことに関連したことで、良いものを二つ合わせても、さらに良いものはできず、むしろ悪くなる。ある成功が発展していってさらなる成功をもたらすことはない。たいていの成功は単発で終わる。だから、一つの成功にしがみついている者はやがて没落する。「君主豹変する」という格言もある。真の天才は、一生の間にその様式を変えていく。ベートーヴェンなどはうまくいった様式に行き詰ると、その様式を捨て新たなる様式に移り、三つの様式を作った。
世の中は我々の把握しているつもりのメカニズムとは、まったく違うしかけで動いているのだ。
第一一節 信頼、自立、という考えは捨てよ
この考えに縛られていれば、悩みは尽きない。信頼できるものはない、というより、信頼してはいけないものだらけである。さらに、我々は自立、独立してはいない。我々の行動は、我々によっているのではない。では、なんなのか? それはわからない、というのがもっとも誠実な回答である。
第一二節 文化とは何か?
ウィキペディアで引いてみると次のようにある。
文化にはいくつかの定義が存在するが、総じていうと人間が社会の成員として獲得する振る舞いの複合された総体のことである。社会組織(年齢別グループ、地域社会、血縁組織などを含む)ごとに固有の文化があるとされ、組織の成員になるということは、その文化を身につける(身体化)ということでもある。人は同時に複数の組織に所属することが可能であり、異なる組織に共通する文化が存在することもある。もっとも文化は、次の意味で使われることも多い。
これはほとんどわからない。最近、NHKのラジオの「日本語辞典」という番組で、ある先生が『文化とは、集団の個性である』と言っていた。非常にわかりやすい。
第一三節 主張のない日本人。辛くてもそのまま。
三・一一震災において、良い子であることが、反響を呼んだ日本人です。規則を守り、静かにしている日本人です。
しかし、このことは、日本人のある欠陥を示しているのです。この民族はとにかく不平を表明しません。何か問題があっても、そのまま我慢してしまいます。たとえば、スーパーマーケットで売っている弁当の味付けがものすごく辛く、とても体にわるいのですが、なかなか改善しませんでした。そこで、私は店長に苦情をいいました。いままでにこのような苦情はなかったそうです。その辛さときたら辛いと思う味に、さらに山盛りの塩分を追加したような味で、どのような人にとっても必ず辛いはずです。しかし、苦情を言う人はいないのです。これがほめられる状態といえますか?
日本人のこの体質は決して悪いところだけではありません。こうではない世界の民族、つまり、自己主張ばかりする民族が多い中、注目されてはいます。しかし私から見て、会社でも、病院・施設においても、この習性は、私にとって良いことはなにもありませんでした
第一四節 踏み切りでは停止するな
踏み切りで停止しますよね。しかし何しているのか? 単に停止しているだけだ。何も確認していない。確認しようとしても、数メートルくらいの範囲しか見えない。そんな範囲を見ても何にもならない。ひどい人になると、踏み切りの中で止まっている。どうして踏み切りの前で停止するのか? 何も考えないで停止していてもしょうがない。むしろ、早く通り過ぎてしまったほうが安全である。日本人は「型にはまることしか考えていない」とおもう。決められているからやる、ということしか考えていない。それにどのような効用があるか? 必要なのか? ということを考えることがない。役所的な考えがはびこっている。前例がないとか・・・
ヨーロッパではこのような法律は無いそうだ。ほとんど無意味なことが決められ、改正されない。ものまね文化の日本ならではだ。停止する意味がまったくない。なにもやっていないし、何も確認できない。何も見えないのだから。この法律は改正されねばなりません。
第一五節 真の護身術とは?
昔、護身術のプロが言っていたのであるが、真の護身術とは、相手と戦うことではなく、災難を避けるところにあるそうだ。
第一六節 組織の責任ではなく、個人の問題である。
ある組織、たとえば病院や老人ホームなどと付き合った場合、「良い施設」とか「悪い施設」とか決めたがる傾向がある。しかし、それは間違っている。そのとき対応してくれた者が良い人だったのかもしれないし、機嫌が良かっただけなのかもしれない。その者は、別の日、別の条件では、別人のようになっているのかもしれない。大勢いれば、良い者から悪い者までいる。それは管理できるものではない。同じ者でも、相手、状況、機嫌などによって態度・行動は違ってくる。施設の問題は何もない。ただ担当した人の問題があるだけなのである。これらのことを良く把握して行動しないといけない。施設・組織の問題はない、構成する人の問題なのである。同じ病院でも、医者が変われば質も変わる。単に担当者の問題であるのだ。そして人間の質というものは、組織が制御できるものではなく、その人で決まってしまうのである。
第一七節 病院、施設などでのトラブル対処法
誤った対処例を「知恵袋」という質問サイトから引用する。
【質問】
私の祖母の介護施設でのトラブルついての質問です。 施設の不手際に
クレームを言ったのですが、全くしていないことを言われ、「いやなら出て行ってくれ」などといわれました。どうしたらいいのですか? 具体的には、「いちいちクレームがうるさい」とか、訪問していないのに「時間外に訪問して、職員の邪魔をする」とか、「過去の不手際についてのクレームをいつまでたっても言う」とか、あたかも私が悪いような言い方をされます。実際にはそのようなことをした事はありません。家庭の都合で、祖母を移動させたり、在宅介護が出来る状況ではありません。感情的になってトラブルをこじらせたくありません。こういった施設に対してどのように対処したらよいでしょうか? 教えてください
【回答】
入所施設でのトラブルかと思いますが。職員→主任→施設長など、段階を経て、上のほうへ話をしていったほうがいいかと思います。その次は、施設→行政の介護苦情窓口→国保連に相談します。現状では、管轄の行政まで話をもっていってもいいかと思います。なるべく感情的にならないように、訪問した日時については今後メモをとるなどしたほうが良いでしょう。その際対応した職員の名前も控えるなど、記録を残すようにすると客観的事実を積み上げることができると思います。最悪、施設を変える覚悟はしたほうがいいでしょう。利用者が我慢しているからつけあがるわけで、同業者として腹立たしいです。
以上、相談と回答の例であるが、この回答は優等生的であり最悪なものである。絶対このようなことをしてはいけない。私は、アルツハイマー、骨折3回の母親を14年間みてきた。病院は4回入院し、施設でも苦労した。そして、このような場合の対処法を会得した。
まず、施設の問題は何もない、ということである。問題は個々の職員にのみある。これを施設が管理することはできない。つまり、どんなことが起こったとしても、それは施設の問題ではなく、問題を起こした者の問題である、と考えることが大事なのである。
さらに肝心なことは、「悪」を更正させることは不可能である、ということである。指摘されれば、「悪」はさらにへそを曲げ、復讐に燃えてしまうものだ。職員の中には、必ず「悪」がいる。わかっていない非常識者もいる。逆に、すばらしい者もいる。なんの変哲もない者もいる。つまりいろいろな者がいるもので、これは施設で管理できない。「悪」は、必ず誰もみていなければ悪事を働くものだ。これを管理することはできない。だから、施設長や、まして上の意見のように国の機関などに相談するなどもってのほかである。所詮、他人の家なのである。そして、職員は皆仲間なのだ。「いやなら出て行け」といわれたらどうするのか? 簡単に次には移れない。入所者は弱い立場にいる、ということを認識しなくてはならない。上のようなことは、どこに行っても起こる。いるところなくなります。どこに行っても同じである。
そこで、対処法である。まず今問題になっていることにかかわっている者に察知されないように、入所者を守ってやることだ。善良な職員か主任程度に相談し、あまり広げないようにする。大事なことは、こっそり対処してしまうことなのである。当然、「悪者」には気づかれないようにすることが肝心だ。
私はアルツハイマーの母親を一四年間老人介護施設に預けた。あまりにも介入したので、いろいろあり、職員同士での私への悪口も多くなっていった。私の完璧な対応例をお話ししよう。とにかくわかってない者が多く、大変だった。さらには「悪」がいて、誰も見ていないととんでもないことをやってしまう。この場合、善良な主任がいたので、誰にも察知されないようにこっそり対処しうまくいった。ようするに、私とその主任のみで対策を考えた。できるだけ、信頼のおける者の小人数で誰にもわからないように対策を考え、実行するのである。施設長は何もしてくれない。直接やってくれる介護、看護職員を敵にしたらおしまいである。
さらに、きまずい状態になったときの対処法を示しておく。口論になったり、職員の間にこちらの悪口が広がったり、職員全体の態度が悪くなったりしたときの対処法である。これは、私が実施してうまくいった方法である。自分でできることは、自分でやり、無口で静かにする。そうすると、相手には不気味に見えてくるものだ。何も要求せず、何も文句も言わないようにする。どうしても職員に頼らなければならないことは、上でも述べたように信頼のできる職員に頼む。悪もいるが、必ず善良な職員もいるものだ。それでこっそりと静かに切り抜ける。このようにしていると、何か不気味に見えてくるもので、他の職員のこちらに対する憎しみや不信感は、この「不気味さ」により消失していく。つまり、この態度はわさびとか麻薬のようなものなのである。いやなもの、くさいものをかき消してくれるのだ。とにかく、このようにして多くの敵を鎮火させるのである。
つまり、「こっそりかわす」ということが大事。法律など、何の役にもたたない。すべて、自分で対処するしかない。市も国も何もしてくれない。最後は自分で対処するしかない、という考えが大事である。相手を変えようなどと思ってはいけない。ある日、施設の相談員の方が私に、「最近みんながあなたに対して反感をつのらせているようです。なんとか元にもどさなくては」と言われた。その時私はこう言った。「そんな努力はかえって逆効果ですよ。何も反応しないことです」。仲を戻そうなどと焦ると、かえって相手の嫌悪感をあおるのであり、すべてを無視し、自分のやるべきことを黙々と進めていけばいいのである。このような行動は、相手から、つまり敵側から見れば脅威なのであり、品格を感じるのであり、自分が負けた、という気分になってしまうのである。仲を戻そうとする行為に出れば、相手の想定の通りとなり、それはこちらの品格を落とすことになり、相手はさらにばかにしてくるのである。相手を混乱させることが肝心なのである。
第一八節 序盤型人間に騙されるな
私がかってに呼んでいるのだが、序盤型人間というものがいる。この人は、仕事が始まると元気よく処理していく。私の元上司で二人このタイプがいた。初めの方は北大物理を出ていた。この人、序盤はとにかくすごいのだ。しかし、中盤や終盤になると人が変わったようにだめ人間に成り果てる。すべての判断がいい加減でやる気もなくなってくる。この人、学会発表のときも他人の発表の批評は天下一、という感じで誰もがその才能を実感していた。しかし、自分の発表はぜんぜんだめだった。しかも、めちゃくちゃな行動が出てくる始末だ。この状況をみた者は皆、彼から離れていく。
ある学会へ論文を投稿しようとしていたときの話である。ビデオヘッドの渦電流を考慮したFEM解析の話です。しかし、計算結果と実験結果が合わなかった。それでなんと彼は、計算結果を無視して実験値と合うような線をかってに引いてしまった。驚きというか、犯罪といってもよい行為である。よくも恥ずかしくもなく、そんなことができたものかと思った。彼はこのように、中盤・終盤になると人が変わったように「無能」に成り果ててしまう。
その逆もある。序盤はだめでも、中盤や終盤で目が覚めてくるタイプ、つまり序盤、中盤、終盤という積み上げ、というか因果関係は自然界には存在しないのだ。簡単なことができなくても、難しいことができる人もいるし、その逆もいる。準備しなくても、いきなりできる者もいるし、準備はしっかりできるのに本番がだめな者もいる。しっかり準備させた者より、いきなり現場に立たせた者のほうが有能だったり、前の晩の演奏会で演奏した者が、しっかり準備した者を追い抜いてコンクールで優勝したり、といった具合である。
第一九節 「悪い」ことは「良い」ことより重要視される
一〇の良い行為をしても、たった一つの悪い行為でそれらは帳消しにされてしまうものだ。どんなにステキな人でも、たった一回その人のいやなところや、ぶざまなところを見せられ不愉快にされただけで、もうその人に対する夢のような気分はなくなってしまうものだ。
私の母が小さいとき、近所に住む青年に良くしてもらい、彼女は彼を好きだったそうだ。しかしある日、彼が便所で大便をしているとき下の窓が開いていて、彼の肛門から出て行く大便を見てしまったそうだ。そのときから彼女は彼を嫌いになってしまったそうだ。また、阪神タイガースをリーグ優勝に導いた星野仙一氏は人気が出て、その後いろいろなところに登場し、理想の上司とも言われた。しかし、二〇〇八年の北京オリンピックでメダル獲得に失敗した後は、印象が悪くなり、週刊誌などで悪口をさんざん言われ、どこからもお呼びがかからなくなってしまった。
だからこそ頭の良い者は、集団のなかでの行動において、良いことをすることより、自分の悪いところを見せないようにすること、失敗しないようにすること、相手を不愉快にしないようにすることに熱中するのである。それが最も少ない労力で大きな成果(出世すること)を上げる秘訣なのである。我々は良いことよりも、悪いこと・不快なこと・醜いことのほうがはるかに印象に残るものなのである。
第二〇節 人から好かれない者にはスポンサーはつかない
人間のあらゆる成功の背後には、その者が実力を発揮できる場を提供したパトロンが必ずいるものである。もしこのパトロンがいなければ、我々は自分の能力を発揮できる舞台に立つことができないのであり、どのような能力があったとしても何もすることができないのである。あの大作曲家ワグナーも、バイエルン国王というパトロンがいなかったならば、あのような大きな仕事はできなかったであろう。組織などで出世する者は、必ず上司に好かれているもので、それは「生理的に好かれている」と表現するのが正確だろう。つまり成功者とは、自分の運命を左右する者を「生理的に魅惑する能力」があった者なのであり、女性なら性的な魅力が最強の武器になるのである。我々の最終的な行動や判断は、けして理性的なものではなく、結局我々は、生理的(本能的)なものに振り回されてしまうのである――立派な職についている者の性的犯罪が多いのもこのためである。社会的成功者は、全て自分の運命を左右する有力な者に「生理的に好かれた者」である、と言ってもよいのである。このことは、実力はあってもまったく報われない者が大量にいる、という事実から疑う余地がないのである。
理性的なものは、我々の醜い正体を隠すために利用されるだけである。もし、我々がこれらの正体をむきだしにしたなら、人間の中の争いは増大し誰もが平和に生きられなくなってしまうだろう。しかし、我々のこの醜いが承認しなければならない正体を、悪いもの、そうあってはいけないもの、なくさなければならないもの、としてしまい、よく調べようとしない者が大多数を占めていることは確かなことである。
どこかで聞いたことがあるのだが、自動車レースのF1の世界でも人間的魅力の効果は大きいそうである。アイルトン・セナより優秀な人はたくさんいるそうだ。しかし、彼らは舞台に立つことすらできないのである。だから実力を示せないのだ。F1ドライバーは恰好いいやつばかりだろう。スポンサーに認められるには、実力と魅力の両方が必要なのである。どんなに実力があっても、魅力がない者にスポンサーはつかない。どちらにしようかな、と考えたとき、よほどの実力差でもないかぎり、自分の好きなほうを選んでしまう。日本人としては初めてF1ドライバーに選ばれた中島悟氏は、人好きのする人だ。このとき、星野氏も候補に挙げられたらしいのだが中島氏が選ばれてしまった。二人の腕は同等であろう。しかし失礼ながら、中島氏のほうがはるかに魅力的であることは確かである。
我々はおいしいものを食べたい、と本能は言っている。しかし、理性はそれを隠さなくてはいけないと思っている。だから、このような地下的な動きはなかなか公にはされない。しかし、ここぞというときに出てくるのは、理性でなくこの本能なのである。たとえば教育委員会の会長が酒気おび運転で逮捕されたり、不法投棄撲滅運動の中心的人物が会合の帰りに車の窓からタバコの吸殻を投げ捨てたりという具合に、我々はそんなに長くお利口さんではいられないのである。我々は、本能の醜さを隠さなければならない、というさらなる高度な生理的欲望により、理性という道具を生み出したのである。理性と呼ばれる「良い子」は、このような理由により作り出されたものなのである。それは実在するものではなく、本能の自然な「悪くも良くもない行為」を悪行としようとする立場、たとえば宗教的立場から我々が作り出さねばならなかったものなのである。
人間の中で生きるには、単に仕事ができるだけではだめだ。仕事ができても、仕事がなければ何もできない。仕事を誰かがやらせてくれるからこそ能力を示すことができるのである。まず仕事をもらうという能力、つまり、自分に仕事をくれる上位の者に好かれるという能力が必要であって、これがない「かたわな者」は大成できないのである。
二〇〇五年にプロ野球チーム「楽天」の二人目の監督として、野村氏が選ばれた。結局、若い人ではなく実績のある人になってしまう。優秀な人はたくさんいるだろう。しかし、実績のある人は少ない。だから、才能と実績をもつ数少ない人たちがいつも繁盛してしまう。では、実績はどうしたら積めるのであろうか。まず、監督にならなければ実績は積めない。つまり、誰かに監督に選んでもらわなければならない。技術が優秀である以上に、選定者に好かれることがまず大事なのである。好かれている者はけして捨てられないのである。
スポーツ選手の場合、引退後、TVの解説などで活躍している人もいるが、仕事がなくなり自殺してしまったり、おかしなことに手を出して警察のやっかいになってしまったりする人も多い。引退後も人の中でうまくやっている人は、見るからに人好きがすることにお気づきだろうか。選手時代の成績にはあまり関係なく、人好きのする者は進んで拾い上げられる。世の中でうまくいっている者には全てパトロンがついているのである。「あいつのめんどうをみてあげよう」、さらには「あいつのめんどうをみたい!」という欲求を相手に起こさせる者は一生幸せに生きられる。それは、その者が魅力的であったということにつきる。このパトロンの非利己的に見える行為は、実はそのパトロンがその魅力的な者を支配して優越を感じたい、感謝されたいという利己的な考えによっているのである。パトロンはその者を喜ばせてあげる代償として、必ず何かを得ようとしている。それはたいていの場合、優越感という快感である。これは母親の母性愛と同じである。相手が魅力的であればあるほど、この快感は大きくなるのである。
ブルース・リー主演の映画「ドラゴンシリーズ」にノラ・ミャオという女優がよく出てきた。それはブルースに好かれていたからだ。彼女はかわいくて美しかったが、ブルースが死んでからは、表舞台から消えてしまったらしい。前に、有力なパトロンにかこわれていた者の場合、そのパトロンがいなくなると、次のパトロンはなかなか見つからないものだ。というのは、彼女には前のパトロンの臭いが残っているからだ。誰でも、相手を自分だけのものにしたいし、新鮮なもののほうがよいものだ。
吉村作治氏は、早稲田大学の有名なエジプト学の先生である。彼はちょびひげをはやした人好きのする人であり、数多くのTV番組に呼ばれている。確か二〇〇五年だったか、NHKのラジオで彼の自伝が朗読されているのを聴いた。職人の家庭で育ったことから始まり、早大に入りエジプト学に没頭して、やがて教授になる。この話を聴いていて――私は全てを車の中のカーラジオで聴いた――、彼のこの成功は、彼が人から好かれることによっているということがよくわかった。だから、大学の先生方は彼を選んだのであった。もし、同じ事を私がやっていても、私は選ばれなかっただろう。やったことよりも、その人が重要なのである。二〇〇五年、アメリカ合衆国では、ブッシュ大統領が重要なポストを「彼が好きな者」で固めていると批判されていた。しかし、これは誰でもやっていることだ。吉村作治氏が順調な人生を歩めたのは、彼の人好きがする性格、外観によるところが大きい、と言ったら叱られるだろうか? 彼の実力が彼を救ったのではなく、彼の魅力が実力を発揮できる舞台を用意してくれたのである。我々は魅力がなければ、実力を発揮できる機会をも与えられないのである。有名な哲学書ニーチェ「ツァラトゥストラ」(手塚富雄訳、中央公論社)の中では、この問題が次のように簡潔に言い表されている。
友らよ、君たちはいうのだな、趣味と味覚は論争の外にあると、しかし生の一切は、趣味と味覚をめぐる争いなのだ。
しかし誰もが、「私が好きだから彼を選んだ」などとは言わないで、「彼がふさわしいから選んだ」と言う。我々が自分でも本当の動機に気がつかないか、そのようなことを人に言えないので「道徳的な理由」を作り出し公表するのである。つまり、偽装するのである。趣味、嗜好で公の判断をした、つまり体の要求に従ったなどとは言えないからだ。我々の行動は全て趣味、嗜好によっているのであるが、それにはすぐに「理性の仮面」がかぶされてしまい、中の仕掛けが容易に見られないようにされてしまうのである。我々はこの作業をたいていあまり意識しないでやってしまうので、自分でもわからないことが多いのである。「理性」とは、いつも情念・生理的欲求(本能)に支配されている不安定で何の地盤もない小船(以下のニーチェの著作からの引用文における「ある衝動の道具」)でしかないことを忘れないでいただきたい。
我々のどのような行為にも、必ず利己的なものが、以下に示す引用文でニーチェの用いた言葉で言えば「自分の生の保持のための生理的要求」が隠れているものだ。我々のあらゆるまじめで誠実で理性的に見える仕事や行為も、実は、我々の個人的な趣味・嗜好に支配されているものなのである。このことを格調高く言っている文章を、前出のニーチェ「善悪の彼岸」(信太正三訳、筑摩書房)より引用しよう。
たっぷり時間をかけて哲学者たちを綿密に吟味し仔細に観察したあげく、私は次のような考えをいだくにいたっている。――われわれは、意識的な思考の大部分を、やはり本能の活動の一種とみなさなければならない。哲学的な思考でさえもその例に洩れない。遺伝や《天性》に関して学び直したように、この点でもわれわれは学び直さなければならない。分娩のひとこまが、遺伝の経過と継続の全過程のなかにあっては問題とならないように、《意識している》ということも、何らか決定的な意味において本能的なものと対立したものではない。――ひとりの哲学者の意識的な思考の大部分は、彼の本能によって秘かに導かれ、一定の軌道に乗るように強いられている。一切の論理とその運動の見かけの自主独立性の背後にも、もろもろの価値評価が、もっとはっきり言うなら、或る種の生の保持のための生理的要求が、隠れている。それはたとえば、確定したものは不確定なものより価値があるとか、仮象は《真理》よりも価値がないとかいったような評価である。このような評価は、それがわれわれにとってどんなに規制力としての重要性をもつものであろうとも、だがしかし、それは前景的評価にすぎないもので、われわれごとき生物の保持のためにこそ必要となるような一種の愚劣事なのだ。・・・すべての哲学者を、半ば不信の念をもって、半ば嘲笑的に眺めたい気になるということは、われわれが何度となく彼らの無邪気さ加減を見抜くがためではない、――つまり、彼らがいかにしばしば、いかにたわいなく間違ったり迷ったりするかを、要するに彼らの児戯と子供っぽさを、見抜くがためなのではない、――そうではなくしてむしろ、彼らが充分に正直でないからなのだ。なにしろ、彼らは、誠実という問題がほんのちょっとでも触れられたとなるや、すぐさまこぞって大仰な有徳者振りの空騒ぎをやらかす。彼らはおしなべてみな、自分たちの固有な意見が、冷徹な、純粋な、神々しく超然たる弁証法の自己展開によって発見され、獲得されたものであるかのような振りをする。・・・ところが、実際をいうと、ある前提された命題、ある思いつき、ある《感悟》が、たいていは抽象化され篩いにかけられた彼らの胸中の願望が、後からこじつけた理由によって弁護されるのである。・・・これまでのすべての偉大な哲学の正体が、次第に私には明らかとなってきた。すなわちそれは、その創作者の自己告白であり、思わず識らずのうちに書かれた一種の手記なのだ。・・・実際のところ、ある哲学の極めて迂遠な形而上学的見解が、もともといかにして成立するにいたったかを解明するためには、いつもまず次のように問うてみるがよかろう(これが利口というものである)、――つまり、その哲学(その哲学者)は、いかなる道徳を欲しているか、と。それゆえに私は、《認識への衝動》が哲学の父であるとは信じない。むしろ私は、ここだけにかぎらず他の場合でも同じことだが、いま一つ別な衝動が認識を(また誤認を)ただ道具として利用しているだけなのだ、と信じる。・・・哲学者にあっては、非個人的なものは全く何ひとつ存在しない。とくに、彼の道徳は、彼の何者なるかということについての、確定的にして決定的な証拠を提出する、――換言すれば、彼の本性の最内奥の諸衝動が、どのような位階秩序において整置されているか、ということについての決定的な証拠を提出する。
以上のやや難解な文章において、ニーチェは、彼以前の伝統的哲学者たちが自分の固有な願望に応えるために、ある学説を称えなければならなかった、そして、その願望から出てきたことを隠すように、後からこじつけた理由で弁護する、ということを言っている。我々は生理的な欲求から逃げられず、それと無関係に理性的、非利己的に行動することはできないようになっているのだ。我々のあらゆる行動には、その人固有の、他人にはわからない願望の充足、不快の中和など、つまり生理的欲求に対する対処が見て取れるのである。しかし我々は、そのことが悟られないような理由をとってつけて、自分の生理的欲求や衝動といういやらしい――誰もがそう思っている――行動を隠そうとするのである。
ところで、それらの行動の原因たる衝動は、我々が選んだり、欲したりしたものではない。我々はその衝動にまったく関与していない。その衝動は呼び寄せもしないのに勝手に訪れてくる。我々はどこからか到来してくる衝動に身をまかせるしかない。この衝動は、我々にりっぱな仕事をさせることもあるし、恐るべき犯罪に走らせることもあるのだ。
同様に、相手を選ぶときでも自分の生理的欲求にしたがって選んでしまう。しかし、そのメカニズムは隠される。我々は自分の本当の内部事情を、相手に知られることを最も恐れる。それは誰もが、そうなることが極めて危険であることを本能的に察知しているからだ。「あいつが好きだから選んだ」などと公表したなら、非難されることは確かだ。これは本書によって、これから検討されることになる重要なテーマである。
第四章 残忍性といじめ、虐待、争いに関すること
第一節 キリスト者の聖なる場所での大喧嘩
私が中学生のとき、私は興味本位であるキリスト教の教会に行ってみたことがある。教会にはジャネット・リンのポスターが貼ってあった。私は席に座り、周りの者が祈り、歌う姿を見ていたが、とてもついていけそうになく唖然としていた。それらのことが終わると、場所を移し食べ物が出てきて皆で食べていた。私も参加して食べた。しかし、驚いたことに「聖なる人、善人」をめざす人々の間で、それらに反するような激しいけんかが、いとも簡単に始まったのであった。私の目の前で、些細なことから口げんかが始まった。彼らは、大きな声で口汚くののしり合っていた。彼らはこの教会にきて、良い子になりすましているのだが、それは文字どおりなりすましているだけであって、本当の自分、つまり「あまりに人間的な自分」はちゃんといるのであって、重要な局面に直面したときは、これが必ず顔を出すのである。彼らは、教会で学んだことを全然実践せず、する気もなく、ただキリスト教と教会という雰囲気に酔いしれているだけなのである。そしてこのことは、人と人のけんかはなくすことができない、ということをも示している。人と人のけんかがなくならなければ、国と国との戦争もなくならない。
我々は他人と戦うようにできているのである。しかし、現場(戦場)を離れて静かな気分になると、我々の野生の本能を嫌ったふりをして、聖職者気取りで誠実なことを言い出すのだ。しかし、彼が現場に立てば、静かな気分はどこかにすっ飛び、戦闘態勢に入っていくのである。今までの人類のしてきた戦争についてよく考えたことのある者なら、戦争のない世界を作るなどという考えは、ばかげたものであるということがわかるだろう。ドイツの一七二四年生まれの哲学者インマヌエル・カントの本で「永久平和のために」というのがあるが、これは完全に机上の空論であって、彼は生涯大学教授という平和な暮らしのせいか、現場の恐ろしさというものをまったく無視している。現場の恐ろしさを知っている者ならば、このようなことは考えないだろう。机上の空論に長けた者は、現場に入るとその無能ぶりを露呈するものだ。ところで白状するが、私はこの本を一行も読んだことがないくせにこのようなことを言っている!
第二節 他人の不幸は蜜の味
他人の不幸の見物や想像は、我々のうっとうしい不快を中和する手段でもある。これは、男性がポルノに引かれるのと同じである。ポルノ映画や雑誌を見てマスタベーションをする、これで一時的にうっとうしい不快を中和するのである。ポルノを見ることはけして楽しいことではない。しかし、ポルノは我々、たぶん男性を最も強力に引きつけるのである。それと同じように悲惨な事件や他人の不幸に関する報道を見ることにより、我々は、不快をまぎらわせようとするのである。
「他人の不幸は蜜の味」と言われる。他人の不幸は、きわめて不道徳的すぎてなかなか言えないことであるが、我々にとっては最高の清涼剤なのである。我々は他人の不幸にとりわけ大きな関心を示し、その情報にはきわめて敏感だ。
つまり、他人の不幸は、性的なものと同じく麻薬的な魅力があるということだ。我々は、麻薬的なものからけして逃れられない。
第三節 相手を苦悩させること
暴力や他人を苦悩させることは、我々をわくわくさせるところがあるのである。前出のバタイユ「エロティシズム」には、次のような人間の残忍性と暴力に関する恐ろしい記述がある。
戦争は、動物的な暴力とは異なって、動物たちがあずかり知れぬ残虐さを発展させた。相手から虐殺を受けた後の戦闘においては、捕虜の処刑へと事が進むのは日常的だった。こうした残虐さは、戦争の、際立って人間的な側面だ。モーリス・デイヴィの本から次のような恐ろしい描写を引用しておこう。
「アフリカでは戦争の捕虜を拷問にかけ、しばしば殺してしまう。・・・フィジー諸島における要塞劫略のあとの光景は、あまりにも恐ろしいものであるため詳細に描くことなどとうていできない。いちばん残虐でない行為を一つ挙げたとしても、そこでは性の区別も年齢差も無視されている。身体部位への数知れぬ切断がときには生きている犠牲者にも加えられるため、そしてまた性欲混じりの残虐行為がおこなわれるため、敗者は捕らえられる前に自殺してしまう。メラネシア人特有の運命論的な考えゆえに、多くの敗者は逃げようとさえもせず、頭をこん棒で打たれるがままになるのだった。不幸にも生け捕りにされたときには、その運命はひどいものだった。中央の村に連れてゆかれ、高位の身分の少年たちに渡され、もてあそび拷問にかけられる。あるいはこん棒で殴打されて意識もうろうとなり、そのまま過熱したかまどのなかに入れられる。そして熱さのあまり痛みの意識が戻ると、その狂ったようなけいれんに見物人たちは大笑いするのだ」。
モンゴル帝国の創設者であるチンギスハンか、その孫のフビライハンのどちらかであるか忘れたが、バーミヤーンを攻略したときに、その王の耳の中に溶かした銀を流し込んだという話を聞いたことがある。なんで彼はこんな残酷なことをしたのであろうか? 「彼の中の残忍性がそう要求していた」という以外の理由は見つからない。
インターネットでは、ものすごい発言がみられる。相手が少しでも間違うと、しめたとばかり、喜び勇んで罵倒する。
第四節 今はひどい世の中になった?
凶悪な犯罪や残忍な事件があると、人々はたいてい「昔はこんなことはなかった、もっと平和だった、今はおかしい」なんてことを言うものだ。しかしそうだろうか? むしろ昔はもっとひどかったのではないか。
太古において、我々は食うか食われるかの状態であったろう。そこは弱肉強食の世界であり、暴力が支配していたと思われる。「あいさつの起源」について、私が中学生のときの国語の教科書に書いてあったことを思い出す。それは次のようなものだった。太古において、荒野で知らない者同士が出会うと、どちらかが死なねばならなかった。つまり、戦いになってしまうのである。我々の今でも変らない自分を守るためということのためだけではなく、ただ「相手を打ち倒したい」というあの攻撃的な本能のためでもあるのだ。これを避けようとする手段として、「あいさつ」が生み出されたというのだ。荒野での戦いを避けたいと思った者(弱者)が、あいさつという行為を発明したのだ。その後さらに発展して、集団(部族など)の中での秩序を保つために、我々の危険な衝動を押さえつけ、本性を覆い隠す必用が出てきて数々のアイデアが考案された。鋭くとがっていた人間はどんどん丸みをおびていくように仕向けられていくことになる(ニーチェ)。このアイデアとは、たとえば部族内の規律・刑罰などであり、また、公正・正義などの観念も生み出され、宗教もそれに加わり、やがて全てを支配するようになってしまった。つまり、我々の本性(利己的で残忍で醜いもの)が、全て悪とされて禁止され、それをやった者が周りから非難され処罰されるようになった。しかし、このような手段によって抑えつけられ、手なずけたはずのもうなくなっていなくてはならない不道徳・悪と呼ばれる我々の危険な行為への衝動は、けして鎮火させることのできるものではなかったのだ。それは時々平和な世界に現れ、太古にはしょっちゅう起こっていたことを再現して見せるのである。昔は平和であった、世の中おかしくなってきた、などと言う者は単にその者が運よく平和であっただけで、今よりひんぱんに起こっていただろう恐ろしい事件を単に知らなかっただけなのだ。そりゃそうだろう、昔はTVもラジオもなかった。つまり、事件がなかったのではなく、それをいちいち報道できなかった、あるいはそれを知る手段がなかった、ということなのであって、今と変らないか今以上の凶悪で残忍な犯罪が行われていたと思われる。自分が知らないことはないものとしてしまう、というのはあまりにも雑な考え方ではないだろうか。
第五節 犯罪者たち
外で静かな人は激しいものがないのではなく、それを外では抑えているのだ。それを出すための手段をもっていないからだ。誰にも恐るべき危険なものはあるのであって、その排出の仕方が人によって違うだけなのではないのだろうか。
二〇〇四年四月に、若い人の悩みを紹介するTV番組があった。その中で次のような告白をしている青年がいた。「自分に中に野獣がいる。いつも誰かを殴りたくなってしまう」。彼は自分の中に、自分でもコントロールできない危険な衝動があることに気づいているのである。前出の野村ひろし「グリム童話」から、フロイト(「精神分析学」の創始者)の言葉をもう一度引用しよう。
幸福な人間は決して空想しない。空想するのは不幸な人間だけである。みたされなかった願望こそ空想を生みだす原動力であって、空想というものはどれもこれも、願望充足であり、人を満足させてくれない現実の修正を意味しているのである。人を空想へと駆りたてる願望は、その性別、性格、生活事情によってそれぞれ異なるが、しかし、たやすく二つの主なグループに分類することができる。すなわちそれは、人格高揚に奉仕する名誉心的願望か、性的な願望かである。
凶悪な犯罪者たちは、皆、空想をよくするのである。
第六節 刑罰の効果と意味
カーネギー「人を動かす」より関連するところを引用する。
この事件のおこる少し前、クローレーはロング・アイランドの田舎道に自動車をとめて、ガール・フレンドを相手に、あやしげな行為にふけっていたことがある。だしぬけに、一人の警官が自動車に近づいてことばをかけた。「免許証を見せたまえ」、いきなりピストルを取り出したクローレーは、物もいわず相手に乱射を浴びせた。警官がその場にくずれおれると、クローレーは、車からとびおりて、相手のピストルをひったくり、それで更にもう一発撃ってとどめをさした。この殺人鬼が“だれひとり人を傷つけようとは思わぬ心”の持主だと、みずから称しているのである。クローレーがシンシン刑務所の電気椅子にすわるとき、「こうなるのも自業自得だ――大勢の人を殺したのだから」と、いっただろうか――いや、そうはいわなかった。「自分の身を守っただけのことで、こんな目にあわされるんだ」、これが、クローレーの最後のことばであった。・・・この問題について、わたしは、シンシン刑務所長から、興味のある話を聞かされた。およそ受刑者で自分自身のことを悪人だと考えている者は、ほとんどいないそうだ。自分は一般の善良な市民と少しも変わらないと思っており、あくまでも自分の行為を正しいと信じている。なぜ金庫破りをしなければならなかったか、あるいは、ピストルの引き金を引かねばならなかったか、そのわけを実にうまく説明する。犯罪者は、たいてい、自分の悪事にもっともらしい理屈をつけて、それを正当化し、刑務所に入れられているのは実に不当だと思い込んでいるものなのである。
後に引用する一八四四年生まれのニーチェの論文の中にも、このことがきっぱり明言されている。だから、前記の刑罰に対する第二の考え方は、学者たちの空論に終わっているのである。前記の死刑とグリムメルヘンの話しから察しがつくように、たぶん昔は、処刑や拷問という残酷な行為への我々の欲求を満たすがために、犯罪者や戦闘での捕虜や敗者が利用されたのであり、それは残酷な行為が何はばかることなく、思う存分実行できる絶好の機会であったのだ。やがて、それを刑罰と呼ぶようになり、正当な行為として現在に至るまで、いろいろな意味があてがわれてきたのである。集団や国家により、あるいは宗教により残忍な行為が抑制されるようになった人間獣は、そのはけ口を刑罰や拷問という公認された残虐行為に求めざるを得なかった、これが、原初の刑罰の意味であったのであろう。これらは、個人の勝手な残忍な行為を禁じたはずの集団・国家・宗教によって行なわれたまったく同じ残酷な行為なのである。
概していって、刑罰は人を非情にし、冷酷にする。刑罰は人を自己集中的にならしめる。刑罰は疎外感を鋭くさせる。刑罰は抵抗力を強くする。
疑いもなくわれわれは、刑罰の本来の効果を、何よりもまず、それが用心深さを増させる点に、記憶を長続きさせる点に、将来はもっと慎重に、もっと疑いぶかく、もっと内密にことを運ぼうと意志させる点に、多くのことに人はどうせ力およばぬものだということを悟らせる点に、つまりは自己批判の一種の改善をもたらす点に求めなければならない。人間においてにせよ動物においてにせよ、およそ刑罰によって達せられることは恐怖の増大、用心深さの増進、欲望の制御がそれである。この点からいって、刑罰は人間を馴致するにしても、これを《より善く》することはない、――むしろこの反対を主張する方が当を得ているだろう。(下世話にも、「痛い目にあえば利口になる」という。が、利口になるだけに、わるくもなる。運よく鈍物になる場合もかなりある)
第七節 刑罰についてのニーチェの意見
ニーチェの刑罰に関する考えをみてみる。前出のニーチェ「道徳の系譜」(信太正三訳)から、関連部分を引用する。
そもそも正義感はいかにして地上にあらわれたかという問題の説明役をもつとめねばならないほどのあの思想、つまり「犯罪者は刑罰に値する、なぜなら彼は別の行動をもとりえたはずだから」というあの思想は、実のところ、はるかに後になって達成された、いとも巧妙な、人間の判断と推理の一形式なのだ。これをば最初からあったものだとする者は、古代人類の心理にがさつな手つきで暴行を加えるものだ。人類史のきわめて長い期間にわたって、悪行の主犯者にその行為の責任を負わせるという理由で刑罰が加えられたことは全然なかったし、したがって有罪者だけが罰せられるべきだという前提のもとに刑罰がなされたこともなかった
つまり「犯罪者は刑罰に値する、なぜなら彼は別の行動をもとりえたはずだから」というあの思想は、実のところ、はるかに後になって達成された、いとも巧妙な、人間の判断と推理の一形式なのだ。これをば最初からあったものだとする者は、古代人類の心理にがさつな手つきで暴行を加えるものだ。人類史のきわめて長い期間にわたって、悪行の主犯者にその行為の責任を負わせるという理由で刑罰が加えられたことは全然なかったし、したがって有罪者だけが罰せられるべきだという前提のもとに刑罰がなされたこともなかった。――むしろ刑罰は、現在でもなお親が子を罰するのと同じように、加害者に向けてぶちまけられる被害についての怒りからして、なされたのである。――しかしこの怒りは、すべての損害にはどこかにその代償となるべき等価物があり、したがってそれは、加害者に苦痛を与えることによってであろうと、実際に賠償されうるものだという観念によって制限され加減された。
今一度問うが、いかにして苦悩は《負債》の補償となりうるか? それは、苦悩させることが最高度の快感を与えるからであり、被害者がその損害さらには損害からくる不快と引き替えに異常な悦楽を手に入れるからである。すなわち、苦悩させることは―つの真の祝祭なのであり、すでに述べたごとく、債権者の身分や社会的地位が低ければ低いほど、それだけ反対にいよいよ高く値ぶみされるものなのである。これは推測して言っただけにすぎない。というのも、こういう地下的に秘密なことがらは、そうすることのやりきれなさは別として、これを根本的に究明することは困難だからである。それに、ここで不用意に《復讐》という概念を援用する者は、洞察を容易にするどころか、暗ますだけである(――復讐そのものは、まさにあの「苦悩させることがどうして報償(著者注、損害をつぐなうこと)でありうるか?」という同じ問題へと、立ち帰るだけなのである)。残忍というものがどれほどまで古代人類の大きな祝祭の歓楽となっていたか、いな、どれほどそれが彼らのほとんどすべての歓楽のなかに成分として混じっていたか、他方また、残忍への彼らの嗜欲がいかに素純に、いかに無垢のすがたであらわれているか、また、ほかならぬあの《無私の悪意》(もしくは、スピノザの言葉をかりれば、《悪意ある同情》)が、彼らによっていかに根本的に人間の正常な性質と見なされ――、したがってそれにたいし良心がいかに心から然りを言う(!)ものとみなされていたか。こうしたことがらを力のかぎり眼前に思い浮かべてみることは、私の見るところでは、飼い馴らされた家畜(すなわち近代人、つまりわれわれ)の繊細の感情(デリカシー)、というよりはむしろその偽善に逆らうものであるように思われる。より深徹した眼識をもってすれば、おそらく今日といえどもなお、人間のこの最古の、もっとも根本的な祝祭の歓楽を充分に知ることができるであろう。「善悪の彼岸」一九四節において(さらに早くはすでに「曙光」一八節、七七節、一一三節において)、私は、高度文化の全歴史を通じて見られる(ある重大な意味ではその歴史を形成さえしている)残忍の、いや増す精神化と《神聖化》とを、控え目ながらも指摘しておいた。それはともかくとして、死刑や拷問あるいは異教徒焚刑といったものなしには、至大な規模の王侯の婚儀や民族祭典は考えられようもなく、同様に、遠慮会釈なく悪意や残酷な嘲弄を浴びせかけることのできる相手なしには、貴族の家政は考えられようもなかったということは、それほど遠い昔の話ではない(――たとえば、公妃の宮廷で「ドン・キホーテ」が読まれた場面を想い浮かべてみられるがよい。今日のわれわれなら、ドン・キホーテを通読するとき、ほとんど拷問といってよいような苦味を感じさせられる。こういうことは、この書の作者やその同時代の人たちには、はなはだもって奇妙なこと、解(げ)せないことに思われたであろう。――彼らはこの書を、世にも朗らかな本として、良心の呵責などつゆいささかもなしに読んだし、読んでは死ぬほどまでに笑ったのである)。苦悩するのを見るのは愉快である、苦悩させることはさらに愉快である、――これは残酷な命題である。が古い、力強い、人間的あまりに人間的な根本命題であり、おそらく必ずや猿ですらもこれを是認するであろう。というのも、噂によれば、猿はさまざまの珍妙な残忍の仕草を工夫しだす点で、すでに充分に人間の登場を告げ知らせており、いわば人間登場の《前劇を演じ》ているという話だからである。残忍なくして祝祭はない。人間の太古来の長遠な歴史が、そう教えている。――そして刑罰にもまた、じつに多くの祝祭的なものが見られるのだ!
『今一度問うが、いかにして苦悩は《負債》の補償となりうるか? それは、苦悩させることが最高度の快感を与えるからであり、被害者がその損害さらには損害からくる不快と引き替えに異常な悦楽を手に入れるからである。すなわち、苦悩させることは―つの真の祝祭なのであり』という部分をしっかり印象に残しておいていただきたい。
第八節 死刑
太古より執行されてきたあまりにも残忍な死刑の例を見ることにより、我々は人間というものに確実にひそむ恐ろしいもの、つまり残忍性について知ることができる。我々は、絶えず他人を苦しめたいという欲求に苦しめられ、絶好の機会があるとそれを実行し――誰もがエロティックなことにひそかに熱中するのと同じに――、快楽してきたのである。古代から少し前まで行なわれていた残酷な数々の死刑の方法を知ってほしい。そこには、我々が他人を苦しめたいという本能(残忍性)が現れているのである。罪人を罰する、見せしめにする、更生させるという近代的理由は、当時まったく考えられていなかったのである。
モネスティエ「死刑全書」(吉田春美・大塚宏子訳、原書房)では、死刑を三七に分類している。それは、動物刑、喉切りの刑、腹裂きの刑、突き落としの刑、飢餓刑、檻に閉じ込める、幽閉、磔刑、生き埋め、串刺し刑、皮はぎ刑、切断刑、解体刑、切り裂き刑、粉砕刑、火刑、肉を焼く、鋸引き、矢で射る、突き刺す、毒殺、吊り落とし刑、鞭打ち刑と棒打ち刑、車刑、四つ裂き刑、絞殺刑、ガロット、石打ち刑、溺死刑、絞首刑、斬首刑、首切り装置、ギロチン、銃殺刑、ガス室、電気椅子、毒物注射である。
第九節 死刑の楽しみ(?)
モネスティエ「死刑全書」には、次のようにある。
時期によって多少の増減はあるものの、動物刑は七世紀にわたって行われ、そのあいだに処刑のやり方においていくつかの変遷があった。猛獣に供される囚人は、個人であれ集団であれ、最初は縛りつけられ、そのうち縛られなくなったが、手には何も持っていなかった。やがて、抵抗と死の恐怖を長引かせるために、ちょっとした武器が与えられるようになった。なかには一頭、ときには二頭の猛獣を殺してから、三頭目にやられて命を落とす者もいた。このようなサスペンスは、観客にとって、まさしく処刑の面白みが増すことになった。
一九一五年まで記録のある中国の方法は、もっと手っ取り早いが創意に富んでいる。それは石油やガソリンといった引火性の液体を何リットルも囚人に飲ませ、長い導火線を口から入れて胃までおろすというものである。それから導火線に火をつける。囚人は大きな火柱を吐いて爆発する。
水は、人を沈めるだけでなく、人に飲ませるために使われることもある。「水責め」の名で知られるこの刑罰は、その名が示す通り、囚人に大量の水を飲ませるというものである。犠牲者は横棒の上に寝かされ、さらに強く引きのばされる。執行人は、囚人の喉の奥にさしこんだ漏斗に、または通常の呼吸ができないように口をおおった布の上に、ゆっくりと、しかし途切れることなく水を注ぐ。少しでも空気を吸おうとすれば、囚人は水を飲みこむので、ゆっくりと溺れていくのである。
しかしフランスではこの刑罰に規則が設けられていて、「小尋問」では九リットル、「大尋問」と「特別尋問」では一八リットルと決められていた。
それによって多くの囚人が死ぬことはあっても、表向きの目的は受刑者を殺すことではなく、罪を告白させたり、共犯者の名を聞き出したりすることであった。
ときには真水のかわりに塩水や酢が用いられることもあった。有名なクラランス公ジョージ・プランタジュネットは、エドワード四世の命令で、マルヴォワジー酒を飲むことが許された。彼は死ぬまでワインを飲まされたのであった。
すでに指摘したように、処刑用具であり見世物用具である絞首台、晒し台はヨーロッパだけでなく近年の植民地の、ほぼすべての町や村に常置されていることがおおかった。
町や田舎の住民は耐え難い恐怖に襲われそうなものだが、実際は逆であった。人々は絞首台でねじ曲がった体が揺れていても気にもしなくなる。民衆に印象づけようとしてかえって無関心にさせてしまったのだ。フランスでは「万人のためのギロチン」が登場する大革命以前の数世紀間、絞首刑は「気晴らし」、「娯楽」になっていた。
公開絞首刑が見せしめにならないというもう一つの例は一八二〇のものだ。二五〇人の死刑囚に関するイギリスの調査によれば、そのうち一七〇人が一回以上処刑の現場を見たことがあるという。一八八六年の同様な調査では、絞首刑を宣告されてブリストル監獄に拘留された一六七人のうち、処刑を見たことがない者はたったの三人だった。
銃撃ではなく砲撃がなされることもある。フランス革命期、リヨンのブロットー平野で行われた処刑はその悲惨さで名高い。一八七六人が鉄屑弾を詰めた大砲で処刑されたのである。
アフガニスタンでは、一九一八年になっても政治犯は砲撃で処刑されていた。一九一三年、政府に対する陰謀が発覚した際、首謀者九人が捕らえられ、この方法によって公開処刑された。一人一人大砲の口に縛りつけられた受刑者の体は発砲と同時に粉々に砕けた。この種の処刑法はヨーロッパや北アフリカでも行われていた。
火薬の発明によって新しい楽しみが可能になった。一六世紀にプロテスタントが思い描き、後の竜騎兵の時代にカトリック教徒が行った楽しみである。受刑者が男ならば肛門から、女なら膣から、漏斗を使って火薬を詰め、砲弾のように飛ばすのである。
中国でも二〇世紀初頭、受刑者に大量の揮発油を飲ませ、導火線を口から胃まで入れて吹き飛ばした。口から五センチから二〇センチ出ているこの導火線の先端に火を付けると、受刑者は大きな火を吹いて爆発した。
第一〇節 不幸なものはいじめられる
通り魔殺人の被害者の家族は、周囲の者から迫害されて、そこに住んでいられなくなることがあるという。この驚くべき事実は、「我々にとって不幸な者は、かわいそうであると同時にいやらしく、憎むべき存在にすらなり、さらに突き落としてしまうことにより、我々は、より快活に生きることができる」、「我々は、他人の不幸を火事見物の野次馬のように自分の最高の不快中和剤・清涼剤としてしまう」という恐ろしいが「あまりに人間的な性質」が、我々に確実にあることを示しているのである。また、母親を幼年期に自殺(自死)で亡くした者は、何かにつけて「自殺(自死)などするような母親の子供だから」と批判されるそうである。これは、はっきりいじめである。いじめを嫌悪する人々が、なんと自らこのようなひどいいじめをやっているのである。
二〇一二年現在、派遣労働者たちは、派遣先で正社員に白い目で見られている。バカにされるだけではなく、いじめの対象にもされてしまうのである。どうしてだろうか? 単に不幸であっただけ、正社員になれなかっただけなのに。しかし、彼らはなぜかいやらしく見えてしまうのである。ここに人間の残忍性という不気味な本能が潜んでいるのである。不幸な者は、いじめの対象にされやすいのである。
幸福な者、裕福な者、有能な者、うまくいっている者、退屈な者は、無能な者、つまり不運な者、不幸な者を「努力の足りない悪者」呼ばわりし批判する傾向がある。うまくいっている幸運な者は、ある者の無能や不幸やそのためにせざるを得なかった「悪い行為」を、その者の怠慢・悪徳によって生じた非難すべきもの――つまりその者に全ての責任がある――と決め付けてしまい、それによりある満足感――自分が優れているという――を味わおうとするのである。つまり、「その者の不運」を自分の名誉心を満足させるために利用してしまうのである。相手にまったく責任のないことを、相手のやりくりのまずさから出てきたものだ、とすることにより優越感を味わおうとするのである。これは、前記の「通り魔魔殺人」の被害者に対しての我々の「冷たい態度」と同じである。残酷なことではあるが、「幸運で退屈な者」は、自分の欲求不満の解消のために「不運な者」を道具として利用してしまうのである!
不幸な者を見たとき、我々は道徳的な哀れみを感じなければいけないと思いながらも、本当のところは、憎しみ・いらいら・嘲笑の感情を抑えようがないのである。この本能が残忍性なのであり、それから出てきた行為の一つがいじめと言われるものであり、身体的や社会的に不幸な者や弱い者、魅力のない者に対して加えられる一見おだやかな攻撃なのである。どのような者の身体にも、必ずや攻撃的で残忍な野獣が宿っているものなのである。だから、かたわな者はいじめられ、昔なら見世物にもされるのである。それは、我々がかたわな者や不幸な者を見ることによって、何らかの快感が得られるからなのである。あまりにもすばらしいTV番組であった「知ってるつもり」でも次のように言われていた。「かたわの者たちは、いつも皆にいじめられるか、いじわるな目でみられる」。我々は不幸になった者をかわいそうに思うだけではなく、付き合う価値を感じない汚らわしい者、さらには憎たらしい者とまで見てしまうのである。
不幸になった者に気を使っても、その見返りが期待できない。我々はただであいそう良くしたり、気を使ったり、親切にしたりしているのではない。見返りを期待しているからこそ、そんなめんどうな行為を楽しくできるのである。もし、見返りが期待できないとわかったなら、何もやらないばかりか逃げてしまうのである。しかし、ここまでならまだいいのであるが、もっと恐ろしいことには、我々は不幸な者を目の前にしたとき、妙に不快になり、その不快感を中和するために、さらには日頃のうっぷんまでもが便乗してきて、その相手を苦悩させたくなる、つまりいじめたくなってしまうということだ。この利害関係からはとうてい理解できない我々の行為は、実に恐ろしいものである。
会社などの組織においても、落ちぶれた者は誰にも相手にされないばかりか、汚らわしい者として見られてしまうのである。組織の上層部に見捨てられた者は、価値の低い者になってしまうのである。組織によって、集団によってその者は汚らわしい者とされてしまうのである。いったんそうなると、その者の行動は全ていやらしく解釈されてしまうのであるから恐ろしい。
以上のことはあまりにも恐ろしいことであるが、人間の誰にも備わる本能なのである。きれいごとを並べ立てる者たちは、このようなことにまったく気づいていないのである。不幸に見舞われた者に対する、周りの者が下す恐ろしく苛酷であるが、実は「あまりに人間的」な判定は、常に問題にされずにいる。このようなことが表に出て議論されたことはない。いつも「そのようなことはあってはならない、道徳的には許されない」と簡単に片付けられるだけなのである。この問題の重大さがわかっていないのである。この問題は、教育や法律や道徳や刑罰などの強化や見直しで解決できる問題ではないのだ。人間が人間である以上、人間は前記のおぞましい行為をやめることはないだろう。不幸に見舞われた者は弱者になる、それはその者の価値を下げる、そして周りの者から相手にされなくなるばかりでなく、いじめの対象にされてしまうのである。不幸はさらなる不幸を呼ぶのであり、数学的に言えば、「不幸になる速度(不幸の度合いの微分)」は「不幸の度合い」に比例する。この微分方程式の解は指数関数となり、いったん不幸になり始めると急激にその不幸の度合いは増大していく。
その逆もある。私が小学校のとき、「健康優良児」として健康な生徒が表彰されていた。私はこれが不思議だった。どうして生まれつき恵まれた者が表彰されるのであろう。彼らの健康は生まれつき授かったものであり、彼らは他の者より余分にものをもらったのと同じだ。彼らは運が良かっただけだ。しかし、その運の良さをほめたたえられ、もう一度良い思いをできてしまうのである。良い者は、その良い分だけさらに良いことが起こる可能性があるのである。
だめな者は「根性がない」とかいやみを言われ、憎まれ、いやがられ、迫害され、いじめられる。うまくいっている者は何も特別なことをやっているわけではない。生まれつきそうなっていただけのことではないか。だめな者は、そのだめさが人に第一級の不快を感じさせるのである。我々は何かを悪ものにしなければ気がすまないのであって、我々の不快の原因がその不幸な者になすりつけられてしまうのである。困りはてた者はいやらしく、憎たらしく見え、その原因までがその者にあるとされ、いっそういやらしく、憎たらしくされてしまうのである。それは、残忍性のえじきになる危険性が増すことでもある。だめさというものは、我々の残忍性を強く刺激するのである。困り果てた者、弱ったもの、できの悪い者は残忍性を刺激するような臭気を放つのである。これがいじめを誘発するのである。
第一一節 いじめをなくすことができるか?
いじめや虐待に関する番組で決まって言われることは、「いじめに関して教育するべき」とか、「いじめた者の親にも責任がある」などというばかげた意見だ。さらには、児童相談所の職員が虐待した家族に合い、虐待しないように注意するというが、そんなことでやめさせることができると思っているのだろうか? 弁護士に相談するのもよい、とされていたが、弁護士に何をしてくれるのか、と尋ねると「書面で家族に注意する」という答えだった。まったくばかげている。そんなことをしてもまったく効果はないだろう。むしろ、告げ口された怒りでもっといじめ・虐待がエスカレートする恐れがある。この人たちは、いじめ・虐待のメカニズムを知らないのである。教育や注意で解決できるような問題ではないのである。親や教育者には何もできない。この人たちは、人間の固有な本能について無知である。残忍性は我々に備わっている本能であって、間違ったものではないのである。だから、現代においても時々顔を出すことがある、ということだ。いじめはあらゆるところで発見することができる。科学は我々の、あるいは宇宙の法則を知ることはできるが、それを変えることはできない。いじめは「人間的な行為」なのであって、決してこれは「非人間的な行為」なんかではない、おかしな、間違った行為などではないのだ。有史以前から、人間社会にはいじめは空気のように存在していた。それを教育によってなくそうとしているさまはこっけいでもある。いじめに専念する者は常に一定の割合で存在するのであって、我々の働きかけによりこれを消滅させることなどできないのである。
いじめとは、無くさなくてはいけないものではなく、決してなくせないものなのである。いじめは、人間心理の構造からくるものであって、これにより人間の行動原理を知ることができるのである。
第一二節 いじめに関するアンケート調査
二〇〇六年の一一月に、NHKのラジオニュースで報じられた京都大学のアンケート調査では、他人をいじめたことのある者の多くがいじめられた経験ももつ、という興味深い結果を出していた。しかし、この「いじめらた」ということが、いったいどのレベルなのかが問題である。他人をハイレベルでいじめたことのある者が、このアンケートで自分もいじめられたと答えた場合、そのレベルは絶対自殺したくなるようなハイレベルのものではなく、少しからかわれた程度であることは確かなことである。相手に極度の魅力を感じたとき、我々は大きな不快(たとえばエロティックな欲望)を感じるのであり、それを中和するために行なわれる「相手を困らせるような行為(からかう)」は、相手にとっては名誉なことであって、ここで問題にされているような「いじめ」の対極にあるものだ。しかし、これも「いじめられた」と回答されてしまうのである。自殺しなければならないほどいじめられた経験のある者が思い浮かべる「いじめられた」という感覚は、そんな経験のない者にはけして思い浮かべられないものであり、けして教えることはできない。アンケートの結果には、当人にとって名誉となる「からかわれた」から、自殺に追い込まれる程度の深刻ないじめまでが、同じ「いじめられた」という回答で出てくるのである。この「いじめられた」という回答の意味は、実に多くの内容が含まれるのであって、つまり、まったく意味のない結果なのである。このような問題に関しては、アンケート調査などはまったく役に立たないだろう。人間各自の固有で内的な問題は、他人に伝えようがない。これらの問題を科学的・客観的に整理しようとすることはあまりにも軽率なのである。
第一三節 私のいじめられた経験
いじめとは生物の中で我々人間だけがもつ、最も人間的で不気味な性質である。我々は他人に親切にしたいという欲望と、いじめの欲望を矛盾なく所有している。しかし、前記のように他人に親切にすることも、実は利己的なものから出てきているのである。私はよく、相手が前記の二つの間を移動するところを見せられてしまう。相手は、初対面のときには気味が悪いほど優しく、魅力的だ。この場合、いじめの欲望の強い者ほど優しく振舞うもので、これは芝居であり、何かを探っているのである。二回目では態度が悪くなっている。そして、三回目には冷酷な態度になっているか、襲いかかってくるのである。もし、一回目と二回目の審査に合格し、十分敬意を払う価値があると判断された場合には、三回目以降も親切にしてくれるのである。これから、私が経験したいじめの例をいくつか示してみる。
(一)私はいじめの対象にされやすい人間だった。私が小さい頃、年上の友だち二人と遊んでいるときのことだ。そこにさらに三人より年上の少年がきて仲間に入った。そしてまもなく、その少年が私をいじめ始まった。友だち二人は私を助けようともしないでその少年の指示に従った。ここに不気味な我々の正体が見えてくる。二人の友だちは少年の指示にいやいや従ったというより、むしろわくわくしながら従っていたように見えた。というのは、誰にとっても人を苦悩させることは、最高度の快感を得ることであるからである。私は空き地に連れて行かれ、何回も高いところから草むらに落とされた。その草の中にとげのある雑草が多くあったので、私の手足は血だらけになっていた。三人はいじめの快感を味わっていた。いつも仲良く遊んでいた二人の友だちもだ。その次に、私はダンボールの箱に押し込められた。そして、少年が二人の友だちにダンボールの穴から私に小便をかけるよう指示すると、彼らはそれに従い私にそれをひっかけた。最後にその少年は私に、「このことは誰にもいうなよ」と言って帰った。私のおふくろはそれを聞いて、その少年の家に行ったことは言うまでもない。
これはいじめの典型である。なにも理由がないのに、いじめが始まっている。その少年はいつも私を見ていて、いつかいじめてやろうと思っていたのかもしれない。その少年はよくあるように暗く、変人的なところがあった。不快をためこむタイプだった。それにしても、いじめる相手としてどうして私が選ばれたのであろうか。他の二人ではいけなかったのであろうか。いじめは、いじめたくなるような者がいなければ、けして起こらない。世の中には、絶対にいじめられない者と、いじめの対象に必ずされる者がいるのだ。いじめは、いじめられるタイプの者によって誘発されると言ってもいいくらいだ。
わたしが驚いたのは、二人の友だちが私に加勢してくれるどころか、少年といっしょになって「いじめ」を楽しんだことだ。我々には誰にでも、驚くべきおぞましいものが宿っているということだ。彼らが悪いとか、おかしいとかではないのである。その二人の友だちとは、その後も仲良く遊んだ! なんとも不気味なことではないか?
(二)私が小さいときに住んでいた練馬区錦町の町内会の旅行にいったとき、バスの席の隣には年上の少年が座っていた。彼はバスの中で、異様に私に優しかった――いままでも指摘してきたようにここがポイントである。それは彼の人に優しくしたいという欲求が強いということであり、欲求不満が大きいという危険信号でもあるのだ。その行為(優しい)により、彼は何かを満たそうとしていたのであり、その対象として私がぴったりであっただけで、私は単に彼のうさばらしに利用されただけだったのだ。だから、その後のある日、私の通っていた仲町小学校の校門の付近でその少年に会ったので、私が近づいて行きながらにこやかにしゃべりかけると、少年はあのときの態度とはまったく違うけんかごしの態度をしてきた。そして、いまにもいじめられそうな感じがしたので、私は逃げてしまった。このように、我々には一貫した行動はできないのだ。誰でもどこからか訪れるとしか思えない欲求や衝動に身を任せる以外はないのである。
(三)一九六四年、私がまだ小学校に入る前の話しである。東京板橋の上板橋商店街に、よくおふくろと買物に行ったものだ。おふくろがそこで友だちになった女性の息子が「けんちゃん」であった。おふくろとその女性はたいそう親しくなり、私と「けんちゃん」も親しくなった。おふくろは、私が一人っ子だったので他人の家に泊まるという体験によって良い効果が期待できるという、誰かの、今から見ればまったくナンセンスな意見を信じ、小学校の入学式の一日前に、彼の家に私を預けることにしたのであった。「けんちゃん」は――またしても! ――気持悪いほど優しく、親切であった。夜には、風呂にも行き、露店の並ぶ縁日にも行き楽しかった。夕飯を皆で食べ、「けんちゃん」の部屋で寝た。良い思いでとなった。そして、それからずいぶん経ったある日、私がおふくろと上板橋商店街に買物に行ったとき、「けんちゃん」がいた。私はうれしくなって声をかけた。しかし、相手は驚くべき冷酷な態度で、「何か用?」と言ったのであった。あの初めに会ったときの雰囲気はまったくなく、ちんぴらのような態度であった。それに我々は驚いたものだ。我々は驚きのまま買物から帰った。私のおふくろはいままでにそんな経験はしたことがなかったらしくとりわけ驚いていた。
現在(二〇〇六年)の私には、この謎がすっかりわかるのである。「けんちゃん」は、初めに私と付き合った時に、私に何の価値も見出せなかった。彼はあのとき、私に優しくしながらも、それとは別に幼いながらもちゃんと私の値踏みをしていたのであった。彼の中で、私は十分低い価値に置かれてしまったのであった。だからこそ、我々が声をかけたときに、彼は何も気を使う必要を感じなかっただけではなく、不快すら感じたのである。この状態になると、私は彼に相手にされないばかりか、いじめられる可能性もあるのである。
誰でも初対面のときに、本能的に相手の価値を定めることに専念するのである。それを定めてしまうと、その後はその固定された価値が、相手に対する態度を支配することになるのである。それは容易には変更されないのである。
(四)私が小学校のとき、一つ年上の友だちと雪の日に遊んでいた。我々は空き地で雪合戦を始めた。しばらくそれをやっていると、相手がしだいに興奮してきたのを感じた。そして彼は私に本気で雪を投げつけてきた。顔つきが普段と違ってきて猛獣のようだった。彼は私に接近しながら、狂ったように雪を私に投げつけてきた。そして帰ってしまった。私は何が起きたのかわからなかった。彼は日頃は優しく親切な人間なのだが、彼の中のもう一つのものがでてきたかのようだった。私が相手をいらいらさせるのかもしれない。相手が私でなかったなら、彼はこんな衝動に襲われなかったであろう。次の話もこれと似ている。
(五)私が小学校のとき、友だちと二人で埼玉県の徳丸田んぼに遊びに行った。ところが往路で、相手の態度がおかしくなってきたのである。いかにもだるそうにしながら、不真面目な態度となっていった。「お前となんか真面目に付き合っていられないよ」というような相手をバカにしきった態度であった。これは、非常に穏やかな「いじめ」であることは確かなのである。我々はもう遊びに行くなどという状態ではなくなり、そこで帰ってきてしまった。私は相手に不快を感じさせる、だるくさせる才能があるようである。
(六)小学校のとき、四人対四人でバスケットボールをやったのであるが、私にはただの一回もパスが来なかった。どう見ても、私にパスをだすべき場面でも、絶対に私には出さないのである。これは私の存在がない、頼りないということもあるが、あんなやつにパスしてやらない、という「いじめ」であることは確かなことである。
(七)私が小学校四年のときだった。夏のある日、体育の授業はプールだった。それが終わったとき、私はスイミングパンツを更衣室に忘れてしまった。私はそれがないことに気づいたのは、家に帰ってからだ。次のプールの授業のとき、おふくろは学校にスイミングパンツを買ってもってきた。すると私の担任のいじわるな先生は、自分が私のスイミングパンツを隠したことをおふくろに告げ、申し訳なさそうにしていたそうである。
私はたいていの人に嫌われる。その先生にも嫌われていた。彼女はスイミングパンツを忘れたのが私でなければ、そんなことはしなかったであろう。この事件も日頃、彼女が私から受けている「不快」という損害に対する報復なのであり、「いじめ」と言われるものなのである。
(八)私が中学校に上がった頃、小学校のクラス会があった。秩父に行くために池袋駅で待ち合わせをした。一〇人ほどが集まった。先生は一人一人にあいさつしていた。いよいよ私のところかな、と思っていたら、私はとばされ次の者にしゃべりかけ始まってしまった。私は最後になるのかな、と思って待っていたがついに私のところにはこなかった。彼のいじわる心は、私をわざととばしたのであった。私は帰ろうかと思ってしまった。私は彼のクラスにいたときに、たいそう彼に嫌われていたものだ。このときの彼の行動は、「いじめ」なのである。つまり、昔私が彼に嫌われていた、彼をいらいらさせた、私に魅力がなく醜かった、という彼の不快に対する報復だったのである。ひどい話ではないか?
第一四節 いじめの例とその解説
二〇〇五年の初めの頃、ある会社の元会長のT氏の自社株をめぐる不正のことが、毎日のようにTVで報道されていた。その中で関係者の次の二つの話が印象に残った。T氏は自分の経営する施設の中の中華料理店で女性と二人で食事をした。ところが、相手の女性が注文したものの中に、彼女が嫌いなものが入っていた。このことを怒った彼はそこの責任者を首にしてしまったそうである。もう一つの話では、同じく自分の経営するレストランに自分の子供を連れて食事に行った。しかし、そこで出てきたビーフステーキの大きさが子供には大きすぎると言って怒り、そこの責任者を異動してしまったのだ。これは家庭内暴力、幼児虐待と同じ種類のものだ。自分の手中にある者、支配下にある者の他人から見れば何でもない行為に対する異常な不快(生意気感)に対処するための報復だ。報復とは、相手に苦悩を与えることにより不快を中和する方法なのであり、それ以外の理由は後から考えられ、とってつけられたもので本当の理由ではないのである。再三言っているように、我々は相手を苦悩させることは、第一級の不快中和の手段なのである。もしこれが彼の経営する店でなければ、彼はこれほどの怒りを感じなかったであろう。自分の支配下にある者の不手際はこんなに人を怒らせるのである。自分の支配する者、見下した者がやらかす自分の思ったとおりになっていない行為は、我々にとって耐え難い不快となるのである。そして、彼はその相手にどのような報復もできる立場にあった。こうなると彼は迷いなくその者をいじめ、その不快を手っ取り早く中和しようとするのである。
病院、老人のための施設などでは、普通の会社、店などとは違うところがある。普通の会社、店などでは客から利益を取り出せる可能性があるうちは客に気を使う。しかし病院とか老人のための施設などではそうではない。入院したばかりの頃には、職員は気を使ってくれる。その後の経過が順調であればそれがそのまま続くこともある。しかし職員の本心は、患者やその家族を見下しているのである。彼らにとって患者たちは客ではなく厄介で無価値な者なのである。彼らは役人的な眼で――つまり何をやっても安定した給料がもらえることによる緊張感のない眼――患者たちを監視している。入院が長くなり飽きられてきたり――入院したての頃は新鮮で、何も知り尽くされていないので丁重に扱われる――、トラブルがあって印象が悪くなったりしたとき、職員の本心は現われてくる。職員は自動車販売店の職員が客に感じるようなものを、患者たちに感じることはない。患者は入院させてやっているのであって、入院してもらっているわけではないという意識が常にあり、「いやなら出ていけ」という台詞がすぐに出てくる。ここに確固とした強弱関係があることを職員も患者とその家族も正確に感じている。職員は自分たちが強い立場であることを、患者とその家族は自分たちより弱い立場であることを自覚している。だから何かうまくいかなくなり、患者やその家族が職員に注文をつけると、とたんに職員の態度は変わり、攻撃態勢に入っていく。つまり弱い立場の者が偉そうなことを言ってやがる、という生意気さを感じるのである。老人や弱い立場の者のめんどうをみる施設にも共通のものがある。こういうところの職員にとって、入所者は価値低い者に見えるのである。だから初めの頃はその気分を隠して丁寧な態度をしているが、それは次第にできなくなり、いつか本心が出てくるのである。これは、弱い者、困った者、病院や施設側が攻撃してもいっこうにかまわない者が、何か良からぬこと(職員にとって)を企てているということに対する不快感、つまり「生意気」という感情に対処するための行為なのであり、「いじめ」と呼ばれる行動につながっていくのである。職員自身の上位感は、客を求める商人の気分には絶対なれず、緊張感のない退屈な気分、不快な気分へと職員を運んでいく。
会社などの中でのいじめもすごいものがある。あるTV番組で見たものであるが、社長に嫌われた社員が客と会議している最中に、社長に照明を消されてしまったとかいう信じられない話や、部長に嫌われた課長が徹底的にいじめぬかれ、ついには円形脱毛症になってしまったという話も出てきた。このような表には出てこない残酷ないじめが、毎日どこかで秘かに行なわれているのである。それらの例から、我々人間の誰もがしっかり見なくてはならない人間の不気味な正体が見えてくるのである。
次の例は、青山恵「中高年サラリーマンを襲ううつ病の恐怖」(PHP本当の時代、二〇〇〇年二月特別増刊号)より引用してみる。
「明日の朝までの急な仕事ができた。悪いが、今日は皆で残業してくれないか」
松田武司次長(仮名、44歳)は、部下一〇人に向かって声をかけた。都市銀行の午後のオフィスである。二〇代、三〇代の部下は顔を上げ、一瞬、妙な目配せをし合った。「すみませんが、僕はちょっと用があるので今日はのこれません」
一人の部下がいうと、次々に「僕も」「私も」と同じような声が上がった。何もいわずに下を向いて拒否の態度をとる者もいる。若い行員たちの顔には、どこか同じような薄ら笑いが張りついている。松田次長はかっとしたが、次の瞬間、力を抜いた。こんな状態がすでに一ヶ月も続いている。叱責すればさらに態度は硬化するのだ。
きっかけは一ヶ月前、部下二人を皆の前で叱責したことだった。決算前の忙しい時期に部下二人が三日間の有給休暇を取ってスキーに出かけ、真黒に雪焼けして出社してきた。前々から届けがでていたとはいうものの、思わず皆の前で「この忙しい時期にスキーとはなんだ!」と叱責してしまったのだ。
松田次長は、入行二二年目。戦後の高度経済成長期を生き抜いてきたモーレツ世代の上司に仕事をたたき込まれてきた。
「僕らの頃は、上司に皆の前で怒鳴られることなど日常茶判事。怒鳴られても、いま、自分は鍛えてもらっているのだとおもったものです。・・・」
こういう松田次長の感覚からすれば、このときの叱責はごく当たり前のことだった。ところがこの叱責には、当の二人だけでなく、周りの部下たちもカチンときたらしい。以来、残業を命じられても彼らは何かと理由をつけて断りはじめた。廊下ですれ違っても黙礼さえせず、無視する。飲みに行こうと誘っても誰もついてこない。しめし合わせてそっぽを向き始めたのだ。
自分の管理能力を問われているようで上司にいうこともできず、松田次長は孤独な毎日を送った。松田次長と部下たちの間がうまくいっていないことは、まもなく部長の耳にも入った。松田次長が統括する部門の仕事はいつも遅れがちだ。部長からの評価も下がり、松田次長はさらに孤立した。彼は不眠、憂鬱からついに出社拒否症となった。心配した家族に付き添われ、松田次長が精神科の門をたたいたのは、昨年五月のことである。松田次長の治療にあたった初代関谷神経科クリニックの関谷透院長は、しばらく休暇を取って心身を休ませるよう指導した。ストレスによる「軽症うつ病」である。
ここで、この例を本章の考え方で解釈してみることにする。『きっかけは一ヶ月前、部下二人を皆の前で叱責したことだった。決算期の忙しい・・・と叱責してしまった』とあるが、こんなことはどこでもやっていることだ。有能で出世するタイプの者でこのようにしていない者はないといえる。というのは、我々は実は恐怖でしか動かないものなのである。組織の中でうまくやっている者は、相手に恐怖を感じさせることに長けているもので、相手を威嚇し、恐怖を与え、けして自分に背かないように縮み上がらせることができる能力、風采をもつ者なのである。度々言うが、学校でも好かれる先生は怖い先生なのだ。相手に恐怖を感じさせない先生は嫌われる。恐怖は、勉強という退屈で不快な作業を楽しくできるようにしてくれる麻薬、あるいは香辛料であるのだ。我々は、我々に常にまとわりつく不快を中和するために恐怖を、緊張感を、音的や視覚的ノイズを、そして苦悩でさえも求めているのだ。だから、誰でも冒険が好きであるし、マゾヒズムもけして異常なことではないのである。それは我々にとって不快を中和する麻薬であるのだ。つまらない授業も恐ろしい先生の与えてくれる麻薬あるいは香辛料と一緒に飲み込めばおいしく食べられるのである。だから部下を叱責することは、部下たちに嫌われる原因ではない。部下たちは、自分たちに恐ろしさを与えてくれ、冒険をさせてくれ、自分たちを振り回してくれるような強く、怖く、不気味で未知でたくましく生命力あふれる《怪物》を求めているのである。
『若い行員たちの顔には、どこか同じような薄ら笑いが張り付いている』とある。つまり、初めから松田次長はバカにされていたのであって、その行動などはまったく関係がない。他の者が同じ行動をしたら、結果はまったく違っていたであろう。部下にとって彼は価値の低い者であったのだ。簡単に言えば彼は次長の器ではなかったのであり、誰もが上司として認めていなかったのだ。
関谷クリニックの話として、『昔は上司が部下をいびるといういじめがほとんどだったが、最近見られるのは、若い部下が集団で上司をいじめるという例。会社に対する考え方が滅私奉公的な中高年と、ミーイズムに徹する若者との価値観の差が原因です。この差に気づかない、頑固で融通のきかない上司は、いじめの対象になりやすいのです』とあるが、これもおかしい。世の中で出世している者は、どんな時代でも頑固で融通がきかないし、人の話を聞かないし、わがままであるのではないのか。そんなことを好き勝手にやっていながら彼らは人から嫌われず、バカにされず、好かれ、尊敬され、「生意気」などとは言われないのである。誰もが彼の行動を気持ちよく感じるのである。彼の存在自体が魅力的に見えるのである。問題なのはその行動ではなく、その者の固有なものなのである。自分が好きになった者の行為は何でも同意できる。自分が認めている者が言うからこそ、それに同意できるのであって、そのこと自体に同意しているわけではないことが多い。尊敬する者に怒られても、恐ろしいと思うだけであり、不快は感じない。しかし、バカにしている者の言うことは「生意気」と感じ、どんなことでも聞く気がしないし、指示されれば不快になる。
松田次長は、次長という役職に合わなかった人なのであり、このポストではどのような行動をしてもだめになるのである。彼は部下としては有能であったが、その上になる才能はもち合わせていなかったのである。ピーターの法則、『階級組織では、人は自分の責務をまっとうできない無能レベルまで昇進する』(前出のブロック「マーフィーの法則」より)の通り、彼にとって次長ポストは「無能レベル」だったのである。この次長という立場での「無能」とは、いままでのように与えられた仕事をこなせないとか、良いアイデアを生み出すことができないとかいうものではなく、部下たちに自分の価値を感じさせ、恐れられるようにする、つまり自分の命令に無条件に従わざるを得ないような気分にさせる能力がないことなのである。部下二人を皆の前で叱責したことは、誰から見ても「生意気な行為」であったというわけで、部下たちの感じた彼の価値を超えている分不相応な行動であったというわけだ。この行動は誰にも「僭越な行動」に見え、前記のニーチェの引用文にあるように、部下たちはこのとき、松田次長に与えていたわずかな価値からこの分を差し引いたので、彼の価値はついに尽きてしまったというわけだ。この結果、部下たちはこの「もぬけの殻」となった者にまったく気を使う必要がなくなり、生意気な彼の行為に不快を感じ、その報復としてあからさまないじめが始まったというわけである。この事件がなくても、いずれこのような行動をしなくてはならないときがくるポストであるから、こうなるのは時間の問題であったということだ。
第一五節 いじめの例とその解説その2
もう一つの悲惨ないじめの例を同記事から引用する。
背もたれのない丸椅子に座り、オフィスの一番出入口に近い場所で、星俊一さん(仮名、四〇歳)は一日中、フランス語の辞書と分厚いフランス語の本を前に過ごしていた。もう一ヶ月も毎日同じことをしている。
ドアを開けて男性が数人、談笑しながら入ってきた。昔、星さんが担当していた得意先の人間だ。いま、この得意先を担当しているのは星さんより若い男性社員である。
最初のうちは得意先たちも、一番出入口に近い星さんのそばを通るときは言葉をかけていたが、さすがに気まずくなり最近では目をそらして通り過ぎる。
星さんは、中高一貫教育の私立校からストレートで東大に入学。卒業後、大手電機メーカーに入社した。バリバリ仕事をこなす一方、二八歳のときに社内の留学制度を利用してアメリカのビジネススクールに留学。経営学修士号(MBA)を取得して帰国。将来を嘱望されたエリート社員だった。帰国後、星さんはビジネススクールで学んだことや、そこで培った人脈を仕事に役立てようと張り切った。そして五年間メーカーで働いた後に、ヘッドハンティングで外資系証券会社に転職した。高給を保証され、会社からは期待された。星さんは次々に新しい企画を立て、顧客を開拓していった。ところが、バブルがはじけ、金融不況に直面し、会社はリストラや部署の統廃合、新規事業の先送りを余儀なくされた。星さんの上司も異動した。新しい上司は、MBAを持ち、ヘッドハンティングされた星さんに初めから批判的だった。高給取りの星さんは、新規事業を立ち上げる余裕のなくなった会社のリストラの対象となったのだ。
星さんは、まもなく、留学の経験が生かせる職場とはいいがたい仕事につけられた。“誰にもできる仕事”である。事務職の女性にコピーを頼もうと思えば、「自分でしろ」と注意される。上司の印が必要な書類を渡しても一番後回しにされる。留守の間にかかった電話のメモをわたしてもらえなかったこともある。部内の会議も星さん抜きで行なわれた。なんとか認めてほしいと思い、不況を乗り切るための企画を考えて提出すれば、見もせずにごみ箱に捨てられた。はじめは上司のいじめに顔をしかめていた同僚も、星さんがリストラの標的にされていると知ると、見て見ぬふりをするようになった。上司の機嫌を損ねれば、今度は自分に矛先が向くからだ。
ある日、上司に呼び出され、星さんは分厚い英文の本を手渡された。アメリカの学者が書いた金融論である。
「君は英語ができるから訳せるだろう。これを一冊、翻訳してほしいんだ」星さんは一番出入口に近い机に、丸い背もたれのない椅子を与えられた。訳しても何の意味のない本を我慢して訳し終えると、今度はフランス語の本を手渡された。
「僕はフランス語はできません」というと、「頭がいいんだから訳せるだろう」と取りつく島もない。星さんは食欲不振になり、頭痛や吐き気に悩まされ、会社を休むようになった。順調にエリートコースを歩んできた星さんにとって、生れて初めての挫折だった。
以上の例を本章の考え方により解釈してみよう。星さんの転職した会社の二番目の上司にとって、彼は言わば継子なのである。継子は自分の子よりかわいくないだけではなく、憎たらしいほどである。継子が手間をかけたり、かってなことをやったり、優秀であったりしたときには、大きな不快を感じる。母親にとって、自分が生んで初めから育てた子に比べて、途中から渡された継子の価値は低いのだ。それは、その子は自分が産んだものであり、自分がその子の起源であるという優越感を感じられないからである。つまり、自分が産んだ子は、全てが自分に関係している、その子の功績も全て自分につながっているということで、母親はその子というより、これらの構造に価値を感じるのである。この構造が、我々に自分の子がかわいいという感情を作り出しているのである。自分の子をかわいがるのも、自分の部下をかわいがるのも、全てこの構造によっているのである。つまり相手の周囲との関係、あるいは自分との関係、つまり「相手の背景」は、「その人自身」よりも我々にとって重要であり、我々はなによりもこれを強く意識し、行動の大部分はこれにより支配されてしまっているのである。
このことをニーチェは、『母親は子供の中の自分を愛している』と言っている。自分が愛するもの全ての中には必ず自分がいる、ということだ。継子でも自分の子と同じように育ててくれる者もいる。しかし、たいていの場合、グリムメルヘンの物語のように、継子はぞんざいに扱われるだけでなく、親の日頃の不快のはけ口(虐待)にもされてしまう。価値が低く感じられた者は、やることなすこと不快に感じられてしまう。劣っていても憎たらしいし、優れていても許せない(生意気)のである。水は低いほうへ流れる、全ての不快は最も価値の低い者のせいにされる、その者が悪いのだとしたくなってしまうのである。
星さんの二番目の上司は一番目の上司と違い、彼を自分の部署に招きいれたのではなく、育てたわけでもない。ただ誰かがヘッドハンティングしてきた東大卒――この響きがなんとも憎たらしく感じられる――で、優秀で、高給を保証された憎たらしいやつなのである。
この記事の著者の青山氏は、次のように言っている。
働き盛りのエリートが企業の中で自分の能力を発揮できずに錆びついてしまう「錆びつき症候群」。不況になってから、こうした例が増えてきた。いじめに合う人の多くに共通するのは、専門分野を持ち、将来性があり、仕事がよくできる人。そして目前の仕事を自分一人でやろうとする人だ。一人でしようとせず、周囲の人に仕事を上手に分担、委託するのも一つの予防策である。
しかし、あらゆる組織において、成功する者の行動は星さんの行動と変わらないし、それどころかもっと強引なのではないかと思う。つまり成功者と挫折者の違いの原因が、青山氏の指摘するようなところにあるのではなく、つまり両者の行動にあるのではなく、両者自身の固有なものにあるのである。
この固有なものとは、その者が歩んできた道にも関係している。前記の例で、継子がいじめられるのも、昔、日本で朝鮮人が差別されたのも、人間自体の性質や行動によるものではない。彼らが我々の前に現れるまでの過程が問題にされているのである。途中からこの優秀な星さんを受け入れた二番目の上司は、以前から彼のうわさを聞いてにがにがしく思っていたのであったのだろう。しかし、彼を初めに受け入れた上司は、彼を自分の完全な支配下に置いているし、彼の功績は全て自分が原因であり、自分がコントロールしたものだという優越感があるので、彼と彼の行動に不快を感じないのである。前記のニーチェの言い方を借りれば、一番目の上司は、星さんの中の自分を愛していたのである。しかし、星さんの中に二番目の上司はいなかったのだ。この二番目の上司にとっては、星さんの中に自分が愛すべきもの(自分に関係しているもの、自分の痕跡)がなかったので、星さんは価値低い者であったのである。だからこそ、その価値低い者の行動には生意気なものを感じ、この不快感に対処するために報復、つまり「いじめ」という行為をしなければならなかったのである。星さんに対するこの二番目の上司のいじわるな行為は、このように考えれば、実にわかりやすく、彼を非難することはできなくなるのである。つまり、彼の行動はニーチェの有名な著書の題名のごとく「あまりに人間的」なのである。
どんな者でも本能的、無意識的に何かをたくらんでいる。しかし、それらは偽装されてしまっていてなかなか見抜けないのである。誰もが自分のことばかり考えており、全ての行動は利己的なものから出てきている――あのマザー=テレサ(カルカッタのテレサ)においても例外ではないのであり、彼女は、自分の人並みはずれた大きな欲求や不快に対処するがために、あのような大規模な《聖なる行為》をせざるを得なかったのである。ある「利己的な行為」は、ある者を通すと非利己的な行動、誠実で魅力的な行為に見え、別な者を通すとそのまま利己的で、いやらしく、また生意気に見えてしまう。高度に偽装された利己的な行為は、非利己的で崇高な行為に見えてしまうのである。これはまったく麻薬の世界であり、まじめな世界ではない。人を酔わせるということが成功への唯一の方法なのであり、それ以外の「まじめな方法」はけしてないということが、あらゆる実例で証明されているのである。本番で我々はけして理性的ではいられないのである。成功の秘訣は、いかに人を不道徳な方法で誘惑する(つまり騙すということ)かにかかっているのである。いかに人を酔わせることができるかということであり、麻薬の力をもっている者だけが世の中でうまく生きていくことができるのである。このまったく不道徳的な意見は、歴史の中で十分に実証されているではないか。
星さんは、二番目の上司を彼の身体的魅力においても、素性においても酔わせることができなかったのである。我々は、酒、タバコなどをやめたとしても、けして麻薬的なものからは逃れられない。我々はいつもある不快と戦わなければならない。常に麻薬は誰にでも必要なのであり、我々は最終的に麻薬で止めをさす。麻薬の役目を果たすものは、魅力的な者との付き合い、生意気な者をいじめること、ポルノ雑誌を見てマスタベーションする、不道徳的なことではあるが火事などの他人の不幸を見物すること、ある宗教に入信することなどである。そして悲しいことではあるが、自分の家族、とくに幼児を虐待することでもある。
以上のような、まことに不道徳的な意見ではあるが、世の中の出来事を良く見ている才能ある者ならば、必ずや納得のいくことだと思う。世の中で起こっている異常であり、間違っていると決めつけられている事件は、人間の本性をよく知った者から見れば正常なこと、「あまりに人間的な行為」だったのである。
第一六節 殺人事件の例
二〇〇四年に報じられた韓国での連続殺人事件である。ユ・ヨンチョルとい男性が三〇人以上の女性を殺害した。彼はレスラー氏が説明している凶悪な犯罪者とまったく同じに、きわめて不幸な幼年期を送った。父にいじめぬかれて、いつもびくびくして生きていたそうだ。さらに悪いことは続くもので、絵の技術は優秀であり、この方向に進もうと思ったのに、なんと色盲であるがためにこの世界からも門前払いをくわされてしまったのであった。つまり、彼は自分の不快を中和できるであろうと思った唯一とも言える道からも追い出されてしまったのであった。これで彼には、彼をいやしてくれることになる専念できる社会的に正当な道がなくなったと見えたのである。幼年期に養分をたくさんとれなかった彼には、さらなる正当な道を探す根気がなかった。彼にはもう専念できるもの、守るもの、大事なものがなかった。ついに、彼は彼に残された不快中和手段により、彼に溜まりに溜まった不快を抜かねばならぬときがきた。無差別な報復が始まり、これはテロと言ってもいい。相手は全て女性だった。なぜ女性だったのか、それはかってな理由がとってつけられていた。しかし本当のところは、バタイユ・レスラー・マレの各氏が言っているように、我々にとっては、特に凶悪な犯罪者にならなければならなかった者には、性的なものと暴力と死が結びついているからであろう。三〇人以上の自分と同じくらい不幸な女性(娼婦)を殺してしまったのだ。不幸なものが不幸なものを痛めつけることによって、不快をまぎらわせようとするのである。毒は解毒しなければならない。放っておけばなくなるという種類のものではないのである。成功者と犯罪者は、不快を中和する手段が違っていただけなのである。不快の絶頂という断崖絶壁に追い詰められた者は、とにかく不快を中和しなければならない。正当な手段が拒絶されれば別な悪い方向に進むしかない。火事になった高層建造物の窓から人が飛び降りるのと同じだ。飛び降りたら大変なことになるのだが、そこにいることもできないのである。
二〇〇四年末に、奈良市で起こった誘拐殺人事件で、わいせつ目的で誘拐や殺人などの八つの罪に問われたK容疑者は、母親を子供のとき亡くした。それまでは明るい子供だったそうだが、それ以来暗くなり、友達もできなくなってしまったという。そしてポルノビデオをきっかけに、女児に対する性的な関心が深まっていったという。母親が亡くなって、社会的に正当な方向での不快の中和手段を見つけられなくなり、また友達との交流による楽しみを感じる精神状態でなくなってしまった彼は、悪い方向に進むしかなかったのだ。社会的に正当な方向で中和できなくなった不快を、最後に引き受け、処理してくれるのは、前記のように性的なもの・暴力・死の結びつきなのである。
前出のマレ氏の著書「首をはねろ!」から、関連したところを引用してみよう。これはグリムメルヘンの「ネズの木の話」の解釈の章である。母親が継息子の首をりんごの入った箱のふたで切って殺してしまうという話である。その原因をマレ氏は次のように分析している。
この夫の行動方式を徹底的に観察することはいっさい不要だ。彼の思いやりのないエゴイズムは暴力とも無関係である。欲望を感じ、かつエンジョイする人間はすべて平和である。
これに反して妻は欲望やセックスに反対する何百年来のプロパガンダ、つまり、男より明らかに女を目標としたプロパガンダの犠牲であるといえよう。寝室において妻がよろこびの声を発することは現代でも、方々の国でとんでもないこととされている。このような抑制の根源は遠く神話や宗教にまでさかのぼり、キリスト教より古い。もっともこのような抑制をきわめてはっきり表現したのはキリスト教である。アウグスティヌス(アウレリウス、三五四―四三〇)にとっては、食事の楽しみすら不純であり、自然にそむくものである(「告白」)。しかし欲望を敵視する倫理はとりわけ女性に適応された――結婚前はもちろんのこと、結婚してからでも、女性はしとやかさと純潔を保たなければならなかったし、夫婦のベッドは常に清潔にし、もちろん欲情によるしみなどがあってはならなかった。パウロはこのことをきわめてはっきりと説明している(テトスへの手紙、二・五、ヘブライ人への手紙、一三・四)し、また国中のいたる所で、欲情に対する反感が語られ、欲情のために夫婦の義務を行った者は罪人とされた。このような欲情を敵視するプロパガンダには、もちろん大きな影響力があった。このメルヘンの中の女房も明らかにこの影響を受けており、自衛と抑圧が恐ろしい暴力衝動に通じることを、身をもって示している。
ここで、この文章の初めのほうの「この夫の行動・・・平和である」は、欲望を抑圧する必要がなくそれを満たす手段をもつ者には不快が溜まらない、不快の中和手段をもつ者はいつでも快活でいられる、ということだ。それに対して、欲望を満たすための手段を禁止されていたり、もっていなかったりすると恐ろしい暴力衝動に通じていくということだ。これは凶悪な犯罪者やテロリストに言えることだ。彼らは、欲望やストレスによる不快を遂次中和する手段を運命・宗教により完全に禁止されているのである。ふだんは良い人、静かな人に見える者は、ある時、恐るべき行動に出ることがある。暴れん坊やいたずら者は、凶悪な犯罪とは無縁なのだ。しょっちゅう他人に怒っている者は、どんなときでも快活でいられるのである。
第一七節 いじめに関する話
ニュースでは幼児虐待の事件が多く取り上げられる。幼児虐待はなんと多いことか。しかし、家庭内暴力はもっと多いであろう。もし、世の中で起こっている残忍な行為を全て拾い上げてみたなら、驚くべき量となるだろう。そして、一般の人はこれらを見て、「動物でもこんなことはしないのに、動物以下だ」なんてなことを言う。しかし、この意見は人間というものをまったく理解していないものだ。動物にはいじめはないそうだ(一部の猿にはいじめの行動が見られるそうだ)。残忍性は人間の悪い点ではなく、人間だけがもつ性質なのであり、これこそ「人間的なもの」なのである。人間であれば誰の中にでもいじめの意欲は存在するのである。いじめは不快感と残忍性が結びついたときの人間の自然な行動である。
二〇〇五年八月に報じられた事件は、継父からいじめられた娘の話だ。継父はその娘が宿題をやっていなかったという理由で、数時間虐待した後、娘を首から下を地面に埋めてしまった。以前からこの娘の悲鳴は聞こえていたそうだ。彼には実の娘がいたそうだが、彼女にはそんなことはしなかっただろう。彼の妻もそれを見て見ぬふりをしていたそうだ。自分の実の子でない彼女は、彼にとって価値の低い者であったのだ。その者が少しでも手間のかかることをやらかすと、他の者(たとえば実の娘)が同じことをやったのに比べて、はるかに大きな怒りが彼を襲うのであった。彼の不快は、相手の行動よりも相手の素性に大きく依存しているのである。彼女が彼の実の娘であったなら、同じ行動をしてもこんなことはしなかったかもしれない。自分にとって価値の低い者の行動は、いちいち不快なのである。彼のこの行為(虐待)は必然的なものであって、彼にはどうすることもできなかったのであろう。彼のこの残忍な行為よりも、彼の不快がいかに大きなものであったのかということがまず問題なのだ。この不快を彼から取り除かない限り、彼は虐待をやめることはできないだろう。彼がある不快に苦しめられることについては、彼には一切の責任はないのである。彼は自分の不快をコントロールすることはできない。それはどこからか到来するとしか言えないのである。娘を、無力な者を、数時間にわたりいじめることが、いかに彼にとって大事な仕事――性交などと同じに――であり、必然的な行為であるかを誰もが思い知るがいいだろう。不道徳的な発言になるが、彼はただ「人間的な行為」を行っただけのことであり、その継娘は運悪くその餌食になってしまっただけなのである。
このようなことが世界のどこかで、毎日のように起こっているのである。恐ろしいことではあるがこれらは、我々が暴力・いじめと共に生きなければならないことを示しているのである。また、このようなことは、太古から一定の割合で起こっていることで、道徳的には異常なことであるが、人間としては正常なことなのである。常にある割合で、不快を家族への暴行によることでしか中和できない者がいるのである。どんな時代でも、どこかで必ず弱い者が強い者にいじめられている。しかし、周りの者たちはそんなことは知らずにいる。いじめは常に秘かに行なわれるものだ。そして、たまたまTVニュースなどでそのような事件を見ると驚くのである。つまり、我々はこの「あまりに人間的な」我々の性質をほとんど理解していないで、それをまるで間違ったもの、悪いもののように扱うのである。くりかえすが、これは悪くもなく、間違っているわけでもない人間の「あまりに人間的な性質」なのである。
第五章 科学的な考えに関すること
第一節 才能と努力
我々の成果の原因を、才能と努力に分解して考える風潮がある。これは、人間を、精神と肉体にわけてしまうことに似ている。ニーチェは、意識を器官の一つと考えている。つまり精神は肉体の一部にすぎないと考えている。つまり、人間を精神と肉体にわけてしまうのは、あまりにも軽率な考えだということではないか?
それと同じで、我々の成功の原因を、才能と努力にわけてしまうのは、あまりにも軽率ではないか? 「一%の才能と九九%の努力」などと言うが、意味不明な内容だ。成功するときに何が起こっているのかは、我々にはまったくわからない、というのが正確だ。才能と努力に分割、なんていう単純なものではない。それは、とても我々には把握できる代物ではないのである。才能と努力と言うことで何かわかったような気がするが、実は何もわからないのであり、わからないことがもう一つ増えただけなのだ。
第二節 どこもおかしくないということは奇跡だ。
我々の体や社会の平和・平静は、多くの我々にはまったくコントロールできないものによって成り立っている。それらが少しでも狂えば、それらは失われてしまう。遺伝子のほんの一部に異常があるだけで、我々は障害者となってしまう。きわどいところで健康や平和は成り立っているのである。つまり、それを維持したり、コントロールしたりすることは、難しいというよりも不可能に近いのだ。つまり、自然の法則にまかせる以外はない、ということなのである。
第三節 科学とは何か
今までの考え方で説明できない不思議な現象や、理想に合わない人間のおぞましい考え方、行動をむりやりいままでの枠組みの中で整理しようとしたり、間違いだとしたり、無視したりせず、それに合せた考え方をするのが「マーフィーの法則」である。しかしそれは、従来の科学のように体系化されたものにはなり得ず、ニーチェの哲学のように箴言調に言い表されるだけなのである。大域的な自然現象は、今までの科学の考え方の延長で説明できないであろう。渡り鳥が何の目印もない海原の上を、どうして間違いなく目的地まで行けるのか、数十キロも離れたところに犬を捨ててきたのに、どうして彼は戻ってきてしまうのか、「体内時計」はどうやって時間を把握しているのだろうか、という問題は現代の科学でも未来の科学でも到底解明できない。難しい問題は全て「体内時計」などという言葉に繰り込んでしまい、何かわかったようなそぶりをするのが科学というものなのである。渡り鳥の場合も、科学は「鳥は何らかの方向検出手段をもつ」ということでこれらの問題を処理するしかない。物質の間に働く引力(万有引力)についても同じで、「とにかくそのような力が働くようになっている」と理解するのである。どうして離れていて、その間に何もないのに関係し合うことができるのかという謎が残る。アインシュタインの一般相対性理論は重力に関する壮大な理論で、引力を媒介する空間の数学的構造(物質の存在により空間が曲がる)が導かれ、ニュートンの万有引力現象が説明されるが、元をたどれば「光速度不変の原理(光の速度を測定したとき、発光源の速度と観測者の速度に全く関係しない)」という理解不可能な半ば事実・半ば仮説――相対性理論の華麗な魅力と不思議さは全てこの原理から出てきているのであり、空間の歪みはこの原理の歪みから出てきたものなのである――と、「加速度による力と重力による力は見分けがつかない」という「等価原理」というアイデアから《うまく》・《偶然に》・《運よく》・《要領よく》導かれたものである。この「光速度不変の原理」は、どうしてそうなっているのかは依然としてわからないのであり、しっかり確かめられてもいないし、確かめる方法も定かでないのである。万有引力現象を説明したと一般相対性理論は胸をはって言うだろうけれども、その土台となった「光速度不変の原理」は誰もが説明できないでいるのである。この原理は「万有引力」と同等に解明不可能であって、「万有引力」の不思議さをこの原理に移動させただけなのである。科学におけるどのような理論の中にも謎として残るような仮説があるのであり、《不明な場所を移動した》にすぎないと思える。
現在の科学で整理されている全ての現象の最も根本的なところにおけるこのような謎は、前記の「渡り鳥の方向検出手段」、「体内時計」の謎と全く同じである。我々にとって、これらの現象のメカニズムを根本的に、つまり、想像や仮説ぬきに解明することは不可能であるだろう。つまり、我々が事実として捕らえられることの他に、多くのものの間に「科学的な常識を超えるような関係」を想定する必用があるのである。一神教に関する啓蒙書である宮本久雄・大貫隆編「一神教文明からの問いかけ」(講談社)には次のようにある。
こういう言い方に対して現代人は、すぐ次のように反論するかもしれません。生命が人間を越えたものから贈られ委託された物だなどというのは、古代人の作り出した、また宗教者が信じたがる、幼稚な神話にすぎない。じっさい人間自身の手でクローン人間すら作りうる時代になりつつあるではないか、と。しかしこうした言説に対して、あの存在の超越的根拠としての神理解は、逆にそれこそ、科学の原理的な限界を見ていない神話にすぎないのではないか、と問いかけて来るはずです。確かに現代の科学は、酵素を用いてDNAをある種のウイルスなどに連結し、これを増殖させる手立てを発見しましたが、科学に分かるのは原理的にそこまでなのです。何故こういう操作をするとDNAが増殖するのか、そもそも何故DNAなるものが既にここに存在しているのか、そのことについて科学は知り得ないはずである。つまり、自然やそこに働く自然法則を既に存在しているものとして受け取ることしか、科学にはできない。そこに科学の限界があり、人間の限界があるのではないか。そして自然が、そこに働く法則が、なかんずく生命そのものが、所与のものとして与えられて在るということ自体、なんと神秘に満ち満ち、驚くべきことではないか。(旧約聖書学の関根清三氏による)
第四節 哲学とはいったい何?
哲学には興味あるだろうか。私は少し変わった、しかし本質をついた解説をしてみようとおもう。まず、よくある解説を見てみる。たとえば「ウィキペディア」で哲学を引くと次のようにある。
「フィロソフィア」というのは単に「愛知の学」という意味であり、それだけではまだ何を研究する学問であるかは示されていない[7]。この語では内容が規定されていない[8]のである。哲学以外の学問の場合は一般に、(例えば「経済学」「生物学」などのように)名前を聞いただけでもおおよその内容は察しがつく[9]。ところが哲学の場合は、名前を聞いただけではそれが何を研究する学問なのか内容を理解できない[10]。これは哲学という学問の対象がけっして一定していないことを示しており[11]、哲学はまさにその字義のとおり「知を愛する学」とでもいうほかに仕方ないような特徴を備えている[12]。(→#哲学の対象・主題)このように対象によってこの学を規定することができないと、「対象を扱う<<方法>>に共通点があり、それによって規定できるのはないか」との期待が生まれることがあるが、そのような期待も裏切られる。哲学には一定の方法があるわけではない[13]。
このあと、ものすごい分量の説明があり、とても読んでいられません。これはもう、哲学史である。もう一つ参考のために、科学を「ウィキペディア」で引いてみると次のようにある。
科学(かがく)という語は文脈に応じて多様な意味をもつが、おおむね以下のような意味で用いられている。(広義)体系化された知識や経験の総称。(広義)自然科学、人文科学、社会科学の総称。自然についての体系的知識[1]。自然科学。(狭義)科学的方法に基づく学術的な知識、学問。
これも何のことやらさっぱりわからない。広辞苑をみても同じで、さっぱりわからない。ここで、少し別のことを考えてみる。我々は勉強しなくても苦しんでいる人を見れば、苦しんでいるように見える。喜んでいる人を見れば、喜んでいるように見える。しかし、「どこがどうなっているとそうなのか?」ときかれてもわからない。ステキな人を見ればステキに見えるが、どこがどうだとステキなのか、ときかれてもわからない。もしこれを論理的に説明しようとしたら大変なことになり、まとまらなくなる。まるで上のウィキペディアみたいに・・・
哲学に関して言えば、これは生まれつき才能のある者しかわからない、というより、ここが肝心なのだが、「感じることができない」と言ったほうが正確である。科学でもそうで、生まれつきわかる才能のある者は、科学を直感的に理解できる。つまり哲学とは、それを感じるものだけが味わえる「あるもの」というしかない。音楽だってそうであって、わからない者にわからせる論理などはない。論理的なものも、実は音楽と同じ感覚的なもの(クオリアといってもよい)であったということではないのだろうか。つまり、一つの音楽ジャンルみたいなものである。そんな軽いものだと思う。音楽ジャンルを論理的に整理できるだろうか? わかる者なら、ある論述が哲学的なのか、科学的なのかは直感的にわかる。しかしどうして、ときかれても、彼は説明できない。私がステキと思う彼女が、どうしてステキなのかときかれても、私は説明できない。これと同じである。あらゆる概念は説明困難である。ある感覚に名前をつけただけだからである。しかも、いろいろな意味が付け加えられていくので、だんだん骨格が見えなくなる、というかわからなくなっていく。
アインシュタインの相対論は科学である。しかし、哲学的とも言われる。つまり、科学であり哲学でもある、と言える。しかし、哲学的に見えない人もいる。それは、哲学的才能、哲学的感覚、哲学のクオリアがないのである。この人にどんな説明をしても、哲学的に見える、ということを理解させることはできないであろう。哲学とは、哲学的イメージ、哲学的におい、哲学的色合い、つまり、哲学的感覚というしかない。
カントの「純粋理性批判」は哲学である。これはわかるものなら直感でわかります。しかし、これを論理的に考えたら大変なことになる。哲学を、科学を基礎付けるものとする意見もある。しかし、科学は哲学などなくてもやっていける。実際、科学をやっている者の大半は哲学などに興味がないか、あるいは哲学的才能がない。哲学によって基礎付けられなくても、科学は困らない。哲学などなくてもまったく困らない。哲学ほど役に立たなかったものはない、とまでいえる。もっと言えば、哲学ほど役に立たなかったものはない、と言える。つまり、哲学は「何々のため」というのではなく、哲学的才能、感覚の欲求を満たすためだけに行なわれる精神的活動なのである。つまりもっとも趣味的なものなのである。だから、この才能がない者にはさっぱりわかりません。実用性がまったくないので理解し難いのだ。そういうことで、「よく生きる」ためとか、「正しく生きる」ためとかいう、おかしな理由が出てきてしまうのだ。
それと、哲学の他の学問と違うところは、自分を自分でもちあげようとしている、自分自身を自分で調べようとしている、観察し、考え整理する、という行為自体を分析しようとするところである。だから、わけわからなくなってくるのである。
第五節 格言への批判
世の中での出来事においては、同じ場面がもう一度リピートできればいいがそれはできないので前の経験が参考にならない、あるいは参考にしてはいけない場合が多くある。我々は、常に前の経験が役に立たないような、未知なる事件に対処しなくてはならないのである。つまり現場ではその者の知識や実績よりも、自分ではコントロールできない直感・本能・魅力・体力・体形といったもののほうがはるかに頼りになり、それが身を助けてくれるのである。単に今までの成功例だけを頼りにして対処しようとしてもうまくいかないし、それは危険ですらあるのである。現場では知識や実績よりも能力と呼ばれる可能性が主役なのである――人は相手の実績よりも可能性に魅惑されるものだ。成功には決まったパターンなどはないものだ。
格言でも正反対のことを言っているのがある。たとえば「急いては事を仕損じる」と「先んずれば人を制す」、もう一つ挙げると「虎穴に入らずんば虎子を得ず」と「君主危うきに近づかず」である。これらはある場面での対処の仕方であるが、互いに反対のことを教えている。前者は「よく考えろ、待て」と「とにかく急げ」であり、後者は「危険や困難に飛び込んでいかなければ何も得られない」と「危険はできるだけ避けよ」であり正反対のことを勧めている。どのような行為にでも容易にもっともらしい理屈はつけられるものだ。全ての格言はその正反対な格言をもつ、と言いたくなる。これだからこそ、こんな言葉に従うことは危険なことであると言えるのである。その場に応じて臨機応変に対処しなければいけないのであって、その拠りどころは自分の判断しかない。今までの経験はあまり頼りにならないのである。大事なところで、格言や変な本に書いてあることに従うことはきわめて危険なものとなる。また、他人がうまくやったといって、それをそのまままねるのも危険である。そのやり方はその人がやるから、その場面であったからこそうまくいったのであって、その人やその状況以外に適応できるとは限らないのである。ある場面ではある格言が役に立つが、別な場面ではその正反対の格言が役に立つのである。ということは、格言は最前線ではまったく役に立たないということではないか? つまり、格言は未知のことに使用してはいけないのであり、うまくいった過去のことを美しく法則化し、化粧を施し、味わい深くした芸術の種類に属するものなのであり、成功者の単なる武勇伝にすぎないのである。
あるTV番組、私の最も尊敬する世界的に見ても最も品格のある優れた番組だった「知ってるつもり」でノストラダムス(一五〇三年生まれのフランスの医師・占星術師)のことをやっていた。この中である学者が次のようなことを言っていた。『優秀なビジネスマンは効果のある行動をするとき、論理によるのではなく、直感、もっと正確に言えば予言によっているのである』。優れた行為、あるいは役に立つ行為は、けして論理的には出てこないものなのであり、何かによって規定されるものでもなく、それはいきなり断片的に立ち現れるものなのである。
戦争のとき、軍師は敵の行動を予想し手を打つ。それは経験よりも予言の世界なのだ。論理的なものはもうすでに起こってしまったことを整理するときのみ役立つものなのであり、未知なるものに対して、とくに優れた行動に対してはまったく役に立たないものなのである。未知なるものに対して有効なものは、予言に関係する能力なのである。このけして論理的に解明できない――科学的な観点から見ればバカにされるような――能力こそが、現場において頼りになる唯一のものなのである。
けんかの後に仲直りして、またけんか、――よろしい、反省しない者たちはいつも生命力あふれ明るく快活で健康的だ。反省とはまったく役に立たないだけではなく、害になる場合もあるものなのだ。というのは、あることに反省したからといって、次に起こることに対して役に立つとは限らないからだ。次に起こることに役立つものは、反省や今までのことについて整理したものではなくして、感・予言という種類のものなのである。理論や経験は予言の才能がある者と結びついてのみ、最高の効果を生み出せるものなのである。才能のない者が理論や経験のみにしがみつく場合、臨機応変のできない彼らは、恐ろしい間違いを平気で犯してしまう可能性があるのである。
一つの事件にたいしても正反対の見方ができる。たとえば「彼はけじめがある」と言われたとき、それはほめられている。あまり深入りせず、あまりこだわらずに物事をさばいていくありさまは、ある立場の人にとっては良く見えるのである。しかし、別な立場の人から見ると彼のやり方はよく見えない。「つっこみが足りない」とか「徹底していない」とか言って非難される。ある行為は、それに関係する人がそれによって利益や快感を受けるときに、適当なほめ言葉が当てられる。しかし、その逆の場合には適当なけなし言葉が当てられる。どのような行為でもいくらでもほめる理屈はつくれるし、その逆も可能である。
次のようなおもしろい話がある。これはあるセメント会社の会長がある雑誌で言っていたことだ。ある靴のメーカーのセールスマン二人がアフリカの市場調査をしてきた。一人はアフリカでは靴をはいている者が少ないので商売にならないという判断をした。しかし、もう一人はアフリカでは靴をはいていない者が多いので大市場になる可能性があると判断した。どちらも正当な意見に見えるが、正反対のことを言っているのである。まったく正反対の判断にそれぞれ正当な理屈が存在することがわかる。このように、一つの行為の正当な理由はいくらでも作り出せる。だから議論しても決着しないのである。我々は常に自分を守るための行動をして、後からそれが正当に見えるような理由を考え、それのためにその行動をしたということにしてしまうのである。行為自体の絶対的な価値というものは絶対になく、それと関係するものへの影響により決められるものなのである。我々は常に過去の経験に大きく依存しないように、また、固定観念に用心して判断する必要がある。
第六節 善良と幸運、因果関係の謎
知っていることと、できることは別なことである。知っていてもできない人がいるし、できてもわかっていない人がいる。一般にはわかっているからできる、と思われているはずだ。しかし、この因果関係は我々がかってに決めたことなのだ。上の二つの間には何の関係もない。「わかる、知る」と「実行できる」は、我々の別な行動であり、それらは対等の関係にあるのである。世の中には、このような不当な因果関係や序列が決めつけられているものが多い。日常的なことができないのに、もっと難しいことができるわけない、と言う者がいるが、これも関係ないだろう。難しいことができる者は、日常的なことができない者が多いのではないか。また、準備はよくできるのだが、本番がだめな者がいるし、その逆もある。批評がうまい者は、実際に何かをやらせるとその実行力のなさを露呈するものだ。逆に、実行力のある者は、自分のやったことを整理できないし、それを他人に教えられないことが多い。それぞれの作業は、それぞれ別の才能がいるもので、それぞれの間には何の関係もないのである。
ここで余談となるがゴルフや野球などでは、スイングするときに体の軸がぶれているとうまいショットができないと言われている。たしかに、うまいショットをする者はスイング中に体の軸がぶれていないことが多いのである。しかし、体の軸がぶれていなくてもうまいショットができない者もいることは確かなことで、この二つに因果関係があるとは言えない。うまいショットは、運動神経や骨格や肉付きといった天性のものによっている。体の軸がぶれないのもこれらのことによるもので、けして体の軸をぶれないようにしているからではない。つまり何を言いたいのかというと、うまくいっている者は、うまいショットもできるし、体の軸もぶれないようにもできるのであり、この二つはどちらかが他方の原因なのではなくして、両方ともに幸運なゴルファーや野球の選手の二つの「因果関係のない天性(運命)」なのである。これは、めぐまれた者が「良い子」でいられるのと同じなのであり、幸運だから全てはうまくいくのである。けして「良い子」であるからうまくいくのではない。「正直者は得をする」は、「うまくいっている者は、お利口さんでいられる」ということを、因果関係を逆転させて道徳的な印象にしてしまっているにすぎない。
ここで前出のニーチェ「善悪の彼岸」から、関連部分を引用する。
知識と能力の間の割れ目は、おそらく、ひとが考える以上に大きなものであり、不気味なものである。大きな規模の能力を有する者、創造者は、おそらく一個の無知者であらねばならないだろう。
机の上が整理できていない者は、頭の中も整理できていない。序盤をうまくやった者が、中盤、終盤でうまくやれる。簡単なことができない者が、難しいことをできるわけない。このような誰でも納得してしまいそうな法則は、実は我々の考えの中だけの話であり、自然法則にはない。
第七節 遊ぶのにいい人と結婚したい人
「ニーチェ全集」(白水社)の中には、次のようにある。『人間の能力はその時点での上昇度にある』。『我々は、その人が何をやってきたかより、何をやれそうかということを重視する』。
遊ぶのにはいいが、結婚する気にはならない者がいる。我々はいろいろな用途別に相手の価値を決めている。この判断は無意識的に、つまり「我々を抜かして」行なわれる。よく考えられた行動などというものはないのであって、考えるのは行動してからなのである。我々の重大な行動は、それが大発見であろうが殺人であろうが、我々の意識があまり関与しないで遂行されるものだ。ひらめいた、とか、気がついたら殺してしまっていたとは、よく言われることではないか。
我々はちょっと遊ぶにはよい者と、一生を伴にしたい者とを正確に分けている。結婚したい者のほうがより上位の価値をもっていることは確かである。前記のニーチェの引用文における「知識ある者」は「遊ぶのにはよい者」に対応し、「有能な者」は「結婚したい者」に対応するのである。結婚したくなるような者は、たとえ何も知らなくても、たとえ軽自動車に乗っていても、我々を魅惑する。彼は未知であり、可能性があり、麻薬的なもの――これこそが我々を最高に魅惑するのだ!――をもつのである。我々を最高度に魅惑するものには、必ず麻薬的なものがひそんでいるということを覚えていてもらいたい。
第八節 英国人の日本の家のリニューアル
私はすごい田舎に住んでいる。商店街も疲れきった日本的な雰囲気だ。 ところが、そんな古い家を借りて、英会話教室を始めた英国人夫婦がいた。かなり年配であった。するとどうだろう? その店がまるで英国の店の雰囲気になってしまったのだ。基本的なところは何も変わっていないのに、すっかり日本ではなくなってしまったのである。壁には英国国旗が貼ってあるが、そんなことが原因ではない。残念ながら、周りに比べてはるかに美しかった。
日本人がどんなにリニューアルしてもこうはならなっただろう。ここに我々が努力では到底到達できない何かを感じる。英国人なら誰でもこのようなリニューアルができる。しかし、日本人にはできない。
第九節 肝心なところが不明です。
文系の方は、科学や医学が、とんでもないところまで「わかっている」と思っているのだが、実は肝心なところがまったくわかっていないのである。それどころか、それがわかることは不可能であることも直感的にわかっている。
万有引力は確かなもので、実験的にわかり、それが数式に表せたのではあるが、それが「どうしてそうであるのか」はわかない。これは永遠にわからないであろう。科学とは、そんなものなのだ。
第一〇節 車の色について
クラウンは白が似合う、どうして? わからない。わからないが、白が似合う。現実にもそれが多い。では、セドリックは? 白は似合わない。ダーク系が似合っているし、現実にそれが多い。いったい、どうしてなのだろうか? 車によって似合う色が決まっている! 不思議ではないか? これは哲学的である!
第一一節 新築とリホーム
古い家を新築の家のようにしてくれる仕事がある。私は二つの例を見たが、なんとまったく新築には見えず、前とほとんど変わらない。車でも同じで、古い車をどんなに塗り替えても新車には見えない。しかし、新車はどんなに汚しても新車に見える。
第一二節 九.一一事件は偽装? 衝突の力から検証
あのニューヨークの九.一一事件において、航空機が衝突したとき、どれだけの力がWTC(世界貿易センター)にかかったか検証して見る。ボーイング七六七は、長さ約五〇m、速度約八〇〇km/h=二二二m/s、重量約一五〇tである。これがニューヨークのWTCに衝突したとき、WTCが受ける力を計算してみる。簡単なモデルとして、速度八〇〇km/hの物体を等加速度で減速し、五〇mで停止させるときに必要な力Fを計算してみる。
質量m(kg)、速度v(m/s)の物体を、長さh(m)で等減速度αで止めるために必要なαは、v(二乗)=2hαより、α=v(二乗)/(2h)であるので、このとき要する力Fはmα=mv(二乗)/(2h)=一五〇〇〇〇二二二(二乗)/(二五〇)=七三九二六〇〇〇(N)≒七五四三(t)、減速時間は約〇.四五秒である。
約一万トンの重りが短時間(〇.四五秒)横からぶら下がった(?)ことになる。大型タンカーが二〇万トンくらいであるので、その二〇分の一、鉄道の機関車は100トンくらいであるので100台くらいの重量である。こんな凄い力がかかっても、衝突画像を見ると、ほとんど動いていない。これは不思議です。やはり、おかしい!
第一三節 マーフィーの法則
マーフィーの法則とは、自然現象をいままでの科学や固定観念に捕らわれずに考えていくものなのである。その背景を述べてみようと思う。
精神分析学の「意識の中だけでは関連づけられなかったことが、意識が立ち入れない無意識というものの中で関連づけられる」というアイデアを心的過程以外のものにも適応してみると、全く関係のないと思われていた事件や行動は、実は関係していたと考えられるのである。しかし、その関係の仕方は我々にはわからないのである。このアイデアを進めると、「私はあらゆるものと関係している」ということになり、私という閉じたもの自体がなく、私という他のものとは独立・自立して、従来の意味で科学的に存在するものはないということになる。ニーチェは、我々の思考は全て我々の自由にならないその者のレベル、つまり高貴な者から下劣な者に至る序列、つまり位階序列の中の位置によって決まっていると言っている。つまり、各人の考えや行為は、全体との関係の中で決まってしまっているのであるから、個人は自立しているとも、自由であるとも言えない。彼らは、それ以前には議論の外にあり、けして問題にされなかった「各人の固有なもの」、「生理的な欲求」、「情念」、「他との関係」、「無意識」などを、我々の行動や心理の研究における主要な場としたのであった。また、ニーチェは前出の「道徳の系譜」(信太正三訳)の中で、『意識という器官』と言っている。つまり、ニーチェもフロイトと同じように意識を「我々を構成する諸要素の一つ」くらいにしか考えていなかったのである。つまり、意識は受動的なものであって、主体的なものではないことを予言しているのである。
我々の無意識の思考・判断・行動のよい例がある。朝六時に起きようとして、目覚まし時計をセットして寝ると、目覚まし時計が鳴る一〇分くらい前に目が覚めることが多い。このことを多くの者が体験していることを私は確認している。これはいったい誰がやっていることなのか。自分の全く意識していないところでやられている。眠っている時には私の意識はない。だから私の意識がやっているわけではないことは確かである。いったい何者がそのときに私を起こしてくれるのだろうか? その者は私が起きなくなくてはならない時間を知っていて、時計も見ているのだ(体内時計というわけのわからない考えは使わない)。これもフロイトの言う無意識の活動なのかもしれない。また、良いアイデアを思いついたとき、いきなりどこからか到来したとしか思えないことがある。それが、自分の意識に現われたときには、もう完成したものとなっていたのである。自分は何もしていない。それは自分の意識がかかわることができないどこかで作られ、私のところへ、私の意識へ届けられたのだ。何十桁もの数の掛け算を暗算でやってしまう者がいるが、これは意識の上の作業としては全く理解できない。その者にそのやり方きいても満足な答えが返ってこないそうである。つまり、彼にもどうやっているのかわからないのである。さらには、大数学者たちの業績は驚くべきものがある。その発想はどういう過程で出てきたのであるかが全くわからない。その大半は意識の中で作られたものではなく、どこからか――フロイトに言わせれば「無意識」から、そして「外部」から――届けられたものであることは確かなことである。だから、彼らにもどうしてそのようなアイデアが出てきたのかがわからないのであり、ただ届けられたものをそのまま出しただけなのだ。天才的な数学者は、世界の多くのものと連携していたからこそ驚くべき成果を生み出せたのである。
恋人だってそうだろう。その人とは運命づけられていたかのように出会うのである。その経緯はとても論理的には説明できない。けして自分の意識が何かを仕組んだわけはない。突然襲ってくるのであって、自分は何もやっていないのである。かってにそうなってしまったのである。自分はただそれに従っただけなのである。
我々の考えや行為を調べると、その全ての出元がわからないのである。自分の知らないところで、何ものかが我々をコントロールしているとしか思えないのであり、それは「無意識的にやっている」とよく言われるものだ。いじめ・暴力・殺人なども、当人はどうしてそんなことをしたのかがわからないのであり、悪魔に取り付かれたというのが唯一の理由となる。犯罪者をかばうつもりはないが、彼も何者かにコントロールされ、犯罪をさせられた被害者の一人だったというしかないのではないだろうか。たいていの場合、自分の行動はある理由から行なわれたとされる。しかしその理由は、その行動が行なわれた後に考え出され、添えられたものなのである。自分のある行動について、他人は実に多彩な解釈をするものだが、自分においても、自分の行動についていろいろな解釈をするものだ。つまり自分の意識の中に、その行動の起源がないということなのである。また、一つの行動の理由は時間と共に変わっていくものである。
第一四節 マーフィーの法則はジョークではない
ウィキペディアには次のようにある。
【概要】
「不都合を生じる可能性があるものは、いずれ必ず不都合を生じる」という種類の「経験則」で、アメリカ空軍が起こりといわれる。日本でも一九八〇年頃から計算機科学者を中心に知られるようになり、一九九〇年代前半に広く流行した。
【欠陥 】
このジョーク集には、経験法則や帰納が陥りやすい実例があるとされる。一例として「洗車しはじめると雨が降る」という言葉に共感する人は、洗車しはじめてすぐに雨が降ったという出来事の印象を引きずっているのが原因である(実際は洗車しても雨が降らない場合の方が多い)。もしマーフィーの法則が正しければ、「雨を降らせたいので洗車しよう」という言葉が引き出せることになる[1]。
ここで問題なのは『洗車しはじめてすぐに雨が降ったという出来事の印象を引きずっているのが原因である(実際は洗車しても雨が降らない場合の方が多い)。もしマーフィーの法則が正しければ、「雨を降らせたいので洗車しよう」という言葉が引き出せることになる』という記述である。いやな印象は大きくのこるので、それがすべてに感じてしまう、つまりマーフィーの法則は「錯覚である」という科学的意見である。しかし、私はそうは思わない。「洗車すると雨がふる」なら、「雨をふらせたいとき、洗車したらふるか?」だが、このときは雨はふらない。これもマーフィーの法則であるのだ。この法則は、この法則を人に見せたいと思うと成り立たなくなってしまう、という深遠なものを含んでいるのだ。これもまたマーフィーの法則なのである。つまり、その人が希望したとたん、その現象は起こらなくなってしまうのである。雨がふるとかふらない、というより、期待したことに反することが起こる、というのが法則なのである。ここの理解が肝心である。
さらに問題なのは、「ジョーク集」としているところである。「マーフィーの法則」は哲学的な意味がある。凡人にはジョークにしかみえないのであろうが、自然法則の最新の考察である。フロイトの精神分析や構造主義の思想を受ける決して色あせることのない斬新な自然現象の解釈なのである。
第一五節 独立・自立していない我々、渡り鳥の謎
私がまだ小学校に上がる前の話だ。私は東京の練馬区錦町の借家に住んでいて、近くに住む三人の兄弟姉妹とよく遊んでいた。私はある日、その中の一番年下の少女(私より小さい)と私の家で遊んでいた。私のおふくろは買物に行っていて、家には我々二人しかいなかった。雨戸は閉まっていた。閉鎖された室内には異様な雰囲気が漂い始めた。我々二人は突然性的な衝動に襲われた。小さいながらエロティックな世界に入っていった。私が促すと、幼い彼女はパンツを脱ぎ、よつんばいになって私にアピールしてきたのであった! 私はそれに応えて、その中のものをピンセットにつけた脱脂綿で刺激した。彼女はたいそう気持良さそうだった。私は当時、その部分に女性の「あれ」があることは知らなかった。しかし、私は本能的にそこに狙いをつけていたのである。二人は成人の男女が楽しむように、エロティックな快楽に身を任せていったのであった――これは本当に本当の話である!
これは未だに結婚していない私が、最初にして最後(?)に女性と交わしたエロティックな経験である。幼い私と彼女は、教えられたこともないのに、成人男女がやるようなことをやりだしたのである。これらのことは、我々が先天的にもっている本能によるのだ、と言われる。しかし、これから示す例では、「先天的なもの」だけでは説明がつかず、これを理解するには、別な考え方によらねばならないことがわかる。我々の行動の原因が、自分といわれるものや意識の中だけにあるわけではなく、そのほとんど、おそらくはその全てがどこからか届けられる、つまり、我々の行動はどこからか来る指令に従っているだけである、という大胆な仮説を立てなくてはならないことが要請されるのである(オーストリアの精神科医のフロイト(一八五六年生まれ)が、このような考え方の父である)。おおかたの人が受け入れ難いであろうこの考えは、渡り鳥が遠い目的地に間違いなく行ける、ということについて考察するだけで正当性を得るのである。
鳥が他のものと関係なく、独立・自立しているものと考えた場合、どのような「先天的能力」を想定したとしても、現代の科学の範囲では、遠隔地への正確な飛行、という行動のメカニズムは説明できないのである。何も目印のない海上において、どうして目的地の方向がわかるのであろうか。常識的な範囲で考えるかぎり、我々はこのようなことを可能にする「先天的能力」を思いつかない。この渡り鳥の問題だけを考えてみても、渡り鳥が他のいろいろなもの、我々が認識できないものと関係し合い、協力することによって――その有名な例は、超心理学で言うテレパシー・念力・念波という超感覚的なものであり、これらの信じがたいものも実際にありそうな気がしてくる。我々はテレパシーを意識していないが、無意識のところで使っているのかもしれない――、見えない糸に手繰り寄せられるように遠い目的地まで正確に行くことができる、という考え方が支持されるのである。渡り鳥は遠い目的地への進路を、無意識に察知している、つまり自分の意識以外のものによって誘導されている、ということだ。もっと高い視点で言えば、渡り鳥が移動するということは、渡り鳥を含む全体(宇宙)の動きの現れなのである。この考え方は、一六三二年生まれの「神に酔える無神論者」と言われるユダヤ系オランダ人哲学者スピノザの宇宙モデル(世界感)に似ている。彼によれば、唯一の実体は神なのであり、あらゆるものは神の属性(本質的な性質)の諸様態(かりそめの形態)にすぎず、その世界で一切は必然性によって動き、人間に自由意志というものはない、というものだ。この今ではあまり出てこない古色蒼然とした思想が、また呼び戻されるというわけだ。私は、今までこの彼の考えをただバカにしてきたが、そうではなく、二〇世紀の「マーフィーの法則」や、一九世紀のフロイトの「無意識あるいはエス」のアイデアの先駆的なものだということがわかったのである。その後のカントやヘーゲルやショーペンハウアーやニーチェなどの仕事には、この渡り鳥の謎について参考になるようなものがないのである。渡り鳥は、独立・自立した存在ではなく、全ての行動は、他のものとの関係によって決まっていく、つまり宇宙全体の我々がけして知ることのできないメカニズム(スピノザの言う神)に従属している、とスピノザ風に考えなくては整理しようがないのだ。構造言語学の著書ジョナサン・カラー「ソシュール」(川本茂雄訳、岩波書店)では、これに関連した科学哲学者ホワイトヘッド(一八六一年生まれ)の意見が引用されている。
何世紀にもわたって哲学的文献につきまとってきた誤謬は、「独立した存在」という観念である。そのような存在方式はない。どの存在体も、それが宇宙の爾余(ジヨ、その他のもの)と互いに結び合わされている仕方を視点として理解されねばならない。
全てのものが関係しているという考え方は大胆に思えるかもしれないが、「我々は独立していて、他のものとは無関係に自分の意志のみで行動している」という仮定のほうがはるかに大胆であると思わないか?
いろいろなものが関係し合って「渡り鳥」というものがある場合、「渡り鳥」というものの範囲はあやふやとなる。私が「渡り鳥」と言うとき、目の前にいる小さな塊だけではなく、もっと全体に分布しているものを考えなくてはいけないのであろう。同様に、我々人間も独立・自立しているわけではなく、多くのものと関係し合っている(何ものかにコントロールされている可能性もある)のであり、ある人の行動は、全体の行動でもあり、従って、個人の責任というものも考えられなくなるのである。
以上のような考え方は、米国で生まれた「マーフィーの法則」の中の多くに見られる。たとえば「我々が急いでいるときには、信号は赤であることが多い」では、我々の体験から「人が急いでいる」ということと「信号の動作」が無関係ではなく関係していて、我々の知ることのできないメカニズム(前記スピノザの言う神)でそれらは連動している可能性が高い、ということを言っている。
第一六節 あまやかしの効果
レスラー「FBI心理分析官」では、凶悪犯の多くが不幸で満たされない幼年期を送ってきたことが指摘されている。ここで、幼年期を幸せに送ることのできた者――甘やかされて育てられてしまった者――が授かる能力についての興味深い話を、カール=ハインツ・マレ「子供の発見」(小川真一訳、みすず書房)の最終章「ガチョウ番の少女」から引用してみよう。
ヒロインが受けたような甘やかしの教育にだって、いい所はある。もちろん、このような教育を受けた子供たちは、「路上」のけんかで同じ年恰好の子供たちと戦うこともできない。けんかを挑まれても、彼らはなすすべを知らない。彼らはみんなから弱虫と思われ、利用しつくされ、軽べつされる。そこでこの子供たちは屈辱と敗北を喫する。しかし、このような無能から、将来に関する悲観的な予想を引き出すのは間違いである。またこの無能を理由に、たえず子供たちに文句を言い、彼らのふん起を要求し、期待することも間違いである。多くの小さい「王女」、もしくは何人かの「甘えん坊の少年」の将来の見通しが、他の子供たちに比べ特に暗いわけではない。むしろ逆である。この昔話はそのことを証明している。なぜなら、この昔話の中で最後に目的を果たすのは、利口で、すれっからしの腰元ではなくして、それまで大してパッとしなかった王女であるからだ。
やさしい甘やかしや、親密な親子関係は、子供たちに一つの潜在力を植えつけ、それによって彼らは他の子供たちをしのぐことになる。しかし、この潜在力が発達しきるまでには、かなり長い時間を要し、この力が発揮されるのは、だいぶ後になる。だから成果が現れると、多くの人たちは、「たなからぼたもち」のように思う。一方、かつての優者たちは、往々にしてそれまでの優位を保ちきれず、中ぐらいのところでモタモタするか、さもなければ落伍する。かつての優者たちは、最初の成功から間違った結論を引き出し、自分を過大評価する。
甘やかされて育った者はだめだといわれる。しかし、何がだめなのであろうか。甘やかされて幸せに育った者の体には、幼年期に何かが形成されている。これは、前記のレスラー氏の意見と同じである。それがかなり後年になって、肝心なところで効いてきてその者を助けるのである、一方、甘やかされないで、いいかげんに育てられた者は、世の中をうまく生きる手っ取り早い知恵を習得する。苦労や、いやな思いをたくさんしてきたので、当座の困難をしのぐ術には長けているのである。しかし、それらは十分に熟成されたものではなく、場当たり的な知恵なのである。真の天才はその才能を生涯にわたりゆっくり伸ばしていくという。金をかけたものは使っていてそれだけのことがあるものだ。安く済ませたものは、長期的に見て高価なものにはかなわない。手っ取り早く知恵をつけたすれっからしは、十分に養分をとって育った者に、大きな、そして長期的な問題においてとてもかなわない。この考えは、レスラー氏が連続殺人犯の調査から導き出した考えと一致している。つまり、幼年期の幸福な生活は、甘やかしも含めて後年、その者を大きく助けることになるのだ。
参考文献
カール=ハインツ・マレ「子供の発見」(小川真一訳、みすず書房)
ショーペンハウアー「意志と表象としての世界」(西尾幹二訳、中央公論社)
DVD「ノートルダムの背むし男」(水野晴朗監修、キープ株式会社)
アーサー・ブロック「マーフィーの法則」(倉骨彰訳、アスキー出版)
朝日新聞(二〇〇六年六月二二日)松本
カール=ハインツ・マレ「首をはねろ!」(小川真一訳、みすず書房)
ニーチェ「人間的な、あまりに人間的な」(浅井真男訳、白水社)
モネスティエ「死刑全書」(吉田春美・大塚宏子訳、原書房)
青山恵「中高年サラリーマンを襲ううつ病の恐怖」(PHP本当の時代、二〇〇〇年二月特別増刊号)
ロバート・K・レスラー「WHOEVER FIGHT MONSTER」、日本語訳では「FBI心理分析官」(相原真理子訳、早川書房)