SonofSamlawのブログ

うひょひょ

人間関係に悩み苦しむ者への11章の序文と目次(内容は別でURLで示します)

内容は下で別にURLで示します。

 

 

序文

この序文は本書の性格を説明したものではあるが、かなり長くて退屈かもしれないので、急ぐ方は本文に進んでいただきたい。そして本文を読んで、もし、「おもしろい」と思っていただいたとき、この序文を読んでいただきたい。

本書は、友達ができないで悩む者、組織の中でうまくいかない者、人間関係に悩む者、いじめ・暴力・迫害に悩む者、その他の日常の生活における問題について、かつてないほどに徹底的にしかも《不道徳的に》検討・整理したものなのであり、その対策や事態の整理をするのに役立つ知識を提供するもので、安易な――しかも危険な――アドバイスをするようなことはしない。学校などで教えるような現実・現場を無視した「きれいごと」は一切書いてない。だから、たいていの者にとって簡単には承諾しがたい不道徳的、ショッキングな考え方や事実の解釈が登場する。そのため、一般の人たちにとっては受け入れがたいものに見えるかもしれないし、斬新・新鮮なものに見えるかもしれない。なを、本書の基底にあるものは、二〇世紀の代表的な思想である「実存主義」と「構造主義」の考え方である。

本書のメインテーマは、いじめを含む我々の他人への虐待に関するものなのである。しかし、そのために我々はまずその対極にある「魅力的なもの」や「社会でうまくいっている者」について検討しなければならない。人から嫌われ、いじめられる者が問題となるのは、人から好かれ、尊敬され、人間の中でうまくやっていける者がいるからなのであり、もし、この世にいじめられる者しかいないのなら、このことは問題とならないからだ。そして、その次にそれより重要な誰もが見ないようにしている、あるいは考えたくないようなあまり語られることのない「我々のおぞましい部分」を検討しなければならないのである。話題は広い範囲にわたっているが、それらは全ていじめを含む《弱者》にとっては実に悩ましい人間関係の問題、さらには「暴力・残忍な行為の問題」に焦点をむすんでいるのである。

我々にとって、自分の魅力・強さというその人の「価値の度合い」は、社会の中で自分の運命を完全に決定する重要な要素であり、自分では選択できず、しかも修正もできない。本書は、この我々人間の最も重要な要素である魅力・強さ、そして各人の間にあるこれらの要素のあまりにも大きな格差、さらには、誰もが軽々しく口にする歯の浮くような理想とは程遠い我々人間のおぞましい行動について、徹底的に検討・整理したものである。

相手を魅惑するものが、一体何なのであるかがわからないのであり、これは永遠の謎なのである。相手を魅惑できる者は生まれつきそのような才能を持っており、それらは我々がコントロールできるものではない。我々は相手の顔を見たとき、魅惑的なものかどうかを判断することはできるが、どういう顔が我々を魅惑するのか、という判断基準は我々の意識の中にないのである。

人に好かれ、尊敬される者にとってこの世は楽しいものになるが、人に嫌われ、いじめられる者にとってこの世は地獄となりはてる。本書は、このような問題を抱える者に対して、良い対策を生み出すための土台を与えるものであり、けして対策そのものを示すものではない。人間関係に悩んでいる者、いじめに苦しんでいる者やその家族に対して、本書は、一般的に言われているような「歯の浮くような良い子的なこと」は言わない。本書は、実際の人間世界の《からくり》を示し、未知なるものを取り除き、人間に対する宗教的な信頼や過大な期待を捨てさせ、問題に対して実際に効果のある対策を見つけるためのガイドとなるのである。人間をあまりに信頼してしまうことは危険である。このことが、特に人に好かれない者にとって、多くの災難に見舞われ、多くの悩みを生み出す原因になっているものだ。我々人間は、相手を野獣と同様に、危険なものとして注意しなければならないのである。

本書は、人間関係において多くの者を悩ませ、多くの犯罪にもつながる人間に頻発する不可解で不気味な行動が、実は「あまりに人間的な行動」、つまり人間から切り離せない行動である、ということを説明しようともしている。たとえば本書により、いじめは異常なことではなく実に「あまりに人間的な行為である」ということが理解でき、いじめをなくすことは不可能であることがわかるのである。となると、いじめをなくそうとしたり、相手にいじめをやめさせようとしたりする、というむだな努力をするのではなく、他の現実的な対策(それを避ける)に力をそそげるようになるのである。

本書の内容は、いろいろな話題にわたっているが、それらは全て人間や自然に対する従来の常識にとらわれない理解のための資料となり、これらを理解することは、実際の人間関係の問題に対処するための準備となるのである。これらいろいろな話題は、人間の間に起こるあらゆるやっかいな問題(人間関係での悩み、いじめ、戦争、日常におけるいさかい、犯罪など)の理解と対処に役に立つものとなるのである――山で道に迷ったとき、もし数百メートル上から現場を見下ろすことができたなら、進むべき方向がわかるであろうがこれができないために遭難してしまうのである。特に、我々の生まれつきの不平等さ、残忍な性質、おぞましい性質について徹底した考察が成され、それに関係した文献が引用されている。本書は、人から好かれることが人間にとって最高度に優位なことであることや、逆に人から魅力を感じられないことが当人にとって最高度に不快なことであり、しかも危険であることや、自分ではコントロールできない非理性的なもの、つまり、我々の生理的な欲求や情念による恐るべき行為について徹底的に検討されている。これらの検討から、いじめ・残忍な行為・犯罪という人間の理想とはかけ離れた恐ろしくおぞましい姿を容認しなければならないことが理解できるのである。我々はそれらを排除することはできず、それらと共に生きていかなければならないのである。また、他人から好かれず、相手にされなかったり、いじめに合ったりすることが多かった私の魅力ある人間に対する怒りと、私と同類の人間に対する同情が、本書を書く原動力になっている。本書は、外観があまりにも貧弱で見苦しく魅力のない、それがために悲しい人生を送らねばならなかった私自身と、人間関係において優良な成功者の間にある関係を冷静に研究したものであるとも言えるのである。

人間関係でうまくいっている者は、それが空気のようなものにしか感じられず、何の問題も感じられない。しかし、人間関係でいつも引っかかってしまって苦労している者には、人間関係に関する大きな問題を見出すことができるのである。胃腸の具合がよい者は、胃腸の存在自体を感じることができないのと同じである。

本書は、第一部において、人間を魅惑するものについて詳細に検討しており、それらにひそむ我々の不気味な策略をあばこうとしている。第二部では、我々の一般に「悪い」と言われている部分を取り上げている。本書は、人間の「いじめ」も含まれる醜くいが「あまりに人間的な」本性をあばくことにその目的があるのであって、人間のすばらしさについては何の関心もない。我々は、いじめに対してまゆをひそめるだけでなく、人間の中に確実にある醜いものや恐ろしいものの存在をしっかり見るべきである。いじめの問題は、それをなくすというのではなく、人間存在にとってそれが最も《人間的な行為》の一つである、ということ理解し、それに沿って対策が考えられなくてはいけないのである。それは、火事や他人の不幸を見に行く野次馬たちや、それらの事件をかぎつけて喜び勇んで我先にと報道しようとするマスコミや、そのニュースをわくわくしながら《快感をもって》見る我々のおぞましいが「あまりに人間的な行為」にしっかり現れており、この行為をなくす対策がないのと同じである。我々は、火事があるとなぜか不道徳なことながらわくわくし、引き寄せられていく。これは、いかなる対策や教育によってもなくすことはできないのであり、性的な欲求や酒・タバコ・麻薬への欲求と同じであって、けしてなくせるという種類のものではなくして、我々の確固たる性質なのである。

そんなわけだから、第一部は第二部の前座であるにすぎない。前記のように私は、人間の美しく見せかけられた行為の裏でうごめいている生命体の不気味な策略――それはたいてい偽装されている――について調べてみたかったにすぎないのである。第二部の最後の章に、いじめの問題に対する重要な考察がまとめられている。それは、相手をいじめたくなる我々の衝動の問題ではなく、いかなる者がいじめられるのか、えじきにされるのか、という最も重要な問題が検討・整理されている。

本書を隅々まで読んだ方は、我々は多くのものと関係し合っており、その関係の仕方は科学的には理解しがたいものであることがわかるであろう。さらには、世界中で戦争・暴力・いじめなどがけしてなくならないこともわかるであろう。この世界は我々にとっては常に未知なものなのである。いつかは解明できるようなものではないもの(泥沼)なのである。

人から好かれないことは、いじめられることにもつながる。魅力のある者は人間の中で楽しい人生を送れるのに、それがない者は寂しい人生となるだけではなく、虐待される恐れもあるのである。そのような者にはパトロンが付かないので、まず社会で成功する可能性はない。社会で成功する者には、必ずパトロンが付いているのである。我々の喜びや悲しみは、全て人に好かれるか嫌われるかで決まる、とさえ言える。人間関係でうまくいかない場合、たいていの人はそれを自分自身、自分の行動や判断の責任にしてしまう。そして人の中でうまくやるために書かれた本などを買って読んでみる。しかし、うまくいかない場合が多い。いったいどうしたらいいのかわからない。こういうとき、場当たり的な行動をしないで、よく研究してみるべきなのである。研究は余裕があるからするのではなく、切羽詰っているからするのである。本当に困ったときこそ、根底から調べる必用があるのだ。世界のいたるところで、そのような不幸に見舞われている者いることを知れば誰もが安心する。本書はこのことを不運な者たちに教えるのである。それらは自分の責任ではなく、つまり自分がコントロールできうるものではなく――従って我々にその責任はない――、単に我々誰もがコントロールできない自然の法則にすぎないのである。

本書の内容は、「こうすれば人に好かれる」というようなものではない。こんな本はいくらでも出ている。しかし、このような本が役に立つものかどうか考えてみるといい。それらの本に書いてあるとおりに判断、行動したら誰でもうまくいったなどということはないだろう。その本のとおりにしても、うまくいく者もいればうまくいかない者もいるのだ。それこそが問題なのだ。これらの本に書いてあることは専門学校で教えてくれることに似ている。大学のように根底から教えてくれないで、ある「やり方」だけを教えてくれるので応用が効かない。だから、たまたまうまくいけばいいが、そうでなければそれでおしまいである。大学のように基本から教えてくれれば、何かにつまずいてもそこからだ脱出する方法を自分で考えることができるのである。「どうしたらいいのか」と考える者より、「何が問題なのか」を考える者のほうが、優れた解決策を考え出せるものだ。天才はあることについて意識的にも、無意識的にも常にそのように考えていたからこそ、本番で驚くべき判断を下せるのである。

本書は、我々が人間の中で生きるときに起きる問題を検討し、それらに対処するときに参考になる資料を提供するものである。それは前記のように「どうすればいいのか」ということを押し付けがましく説得するのではなく、「どうなっているのか」についてだけが検討されているのである。よく知ることは大事である。たとえば自分が運動選手としての才能がないということを早めに知れば、別な、より自分に向いている道を選択することができる。そしてその道で成功することができるかもしれない。しかし、それを察知できなければ、自分の才能を信じてその向かない道で自分の一生を棒に振ってしまうことになるのである。

私は大学の受験で失敗し――高校の受験でも失敗し、低レベルの高校に補欠で五万円を払って入ることができた!――、片親で貧乏な家庭であるために、浪人など許されないので短大に入り、そこから理工学部編入した。そして楽しい大学生活を送ることができ、卒業の時には成績で一番になった。もし浪人などしていたら、また落ちてめちゃくちゃになっていたと思う。受験というものが苦手な自分をよく知っていたからこそ、最良の判断ができたのである。会社に入ってからも、外観の悪い私には常にメインの仕事を与えられなかった。しかし、受験というゲームに優れていても、もっと重要なものに疎い同僚は実戦で私の敵ではなく、私は脇役からメインに容易にのし上がることができたものだ。これが私の成功への唯一の道なのである。つまり、よくわかっていれば,どのような困難な局面でも楽しい人生を送る道を見つけることができる可能性が高くなるのである。その資料を提供することが本書の目的なのである。

いつもくよくよしてけじめをつけられない人が、自分のこの性格を悪い性格と決め付けてしまう場合、この人はある固定観念にとらわれているだけなのである。そのような性格の人は想像力があり、いろいろなものの関係や類推に関する能力や芸術の才能がある――だからこそけじめがつけられないのであり、いろいろなものの関係が強く見えてしまうのである。わりきれるということは、「わりきる」という能力(無神経とも言われる)があるということもできるが、別の観点では、いろいろな関係を感じることができないという無能さを示していることにもなる。だからこそ、彼がそのような能力が必要な仕事につけば、わりきりのいい人など敵ではなくなるだろう。

人が何かに行き詰まり焦っているときに、基本的な考察に進むことは遠回りに見えてなかなかできないことなのであるが、かえって近道なのである。刑事コロンボのようにとんでもないところを捜してみると、よい解決策が見つかるかもしれない。

本書は「人間の本質」とか「人間の理想」などではなく、「実際の人間の姿」(哲学では実存)を示したのである。それは美しいものではなく、おぞましいものであった。だからこそ、いつの時代でも暴力、戦争などがなくならないのだ。まず、生の人間のいやらしさを知るべきである。我々はそれと共に生きている。それらを見ないようにしてはいけない。

米国のカーネギーにより、我々の名誉心や虚栄心をくすぐることにより相手を動かす手法を解説した本が、一九三六年出版され、世界中で翻訳され一五〇〇万部も売れたという。この「友をつくり人を動かす方法」が、日本語訳ではカーネギー「人を動かす」(山口博訳、創元社)である。しかし、それよりはるか前に、ドイツの一八四四年生まれの哲学者ニーチェの「人間的な、あまりに人間的な」の中で、そのことはすでに徹底的に検討しつくされていたのである。しかし、この本は哲学書という固い仮面をかぶっていたこともあって、一般人には浸透しなかった。我々は優越感を得たいという願望の上に生きている。それを満たしてやることで相手をコントロールすることができるのである。しかし、ここで肝心なことが忘れられている。それは、人の名誉心や虚栄心を満足させることのできる者は、それができる能力がある者に限られているということだ。名誉心や虚栄心を満たしたくてしょうがない人に対して、どんな者でもそれを満たせるわけではない。その人はある特定の相手からしかそれを満たすことができないのだ。ある者に感心されるからこそ気持がいいのであって、その行動そのものではなく、その相手が問題であるということだ。ある者にほめられれば嬉しいが、別な者にほめられても嬉しくないばかりか不快さえ感じることがある。我々の名誉心や虚栄心を満たしてくれるものは、相手の行動ではなく相手の固有の何かなのである。ある者がやれば効果があるのだが、別な者がやれば逆に相手を不快にしてしまう。我々はほめてもらいたい相手にしかほめてもらいたくないのである。カーネギーの前記の有名な本は、人間のこのような固有な性質をまったく無視しているし、他の多くのこの関係の本でもこのところが無視されている。各人の固有なものの重要性を無視したこのような本を信じて自分を改善しようと努める者は、変な宗教に入信するのと同じで、恐ろしく遠い回り道を歩かされてしまうのである。

一九九五年一〇月には二人の人が解任された。ロッテのバレンタイン監督と国連の明石代表だ。組織でうまくいかなくなる原因は、全て人間関係にあるものだ。この二人も上司に嫌われたのである。この年、バレンタイン氏はロッテの監督としてチームをパ・リーグ二位に導いたというのになんということだ。ゼネラル・マネージャーのいじわるそうな広岡氏とうまくいかなかったらしい。しかし、バレンタイン氏はふたたびロッテの監督になり、二〇〇五年にロッテを日本シリーズで優勝させた。彼のやり方はカーネギーの前記の本に書いてあることに近い。選手を叱らずに気持ちよくさせ、力を発揮させるのである。しかし、彼以外の者が彼と同じ行動をしても同じ効果を上げられないだろう。彼がやったからうまくいったのだ。同じ行動でもやる者によってまったく効果は違ってくるということだ。どんなに良い道具も達人が使わなければ生きないのである。彼という才能によってこの方法はうまくいったのである。彼の固有なものは他人が学びまねできるものではない。彼の行動と彼は分離できない。彼の行動だけをもってきて誰かにくっつければ同じ効果をもたらすというものではない。彼の行動は全体の一部にすぎない。なぜ彼が成功したかということは永遠に未知なのであって、簡単に解釈してしまうべきでない。それを我々が見ることのできたものだけのせいにしてしまって、けりをつけた気持になってしまってはいけないのである。

また、いじめの問題において、我々が相手を虐待したいという気分は、前にも記したドイツの哲学者ニーチェが、きわめてまじめな哲学書の中で検討した「残忍性」という本能から説明できるのである。しかし、その対象に誰がされるのかということが次の問題となる。自分が好きな人であれば何をやっても、何を言っても腹は立たないものだ。我々が怒るのは相手の行為ではなく《相手自体》なのである。その相手の固有なものが相手を怒らせたり、惚れさせたりするのである。

しかし、我々はたいていその固有なものを見ないようにして、あるいは見てはいけないものとして、「誰にも共通に備わっているもの」を問題にしたがる。「人間は皆平等である」などという判断――これは単なる期待や信仰である――はそれを表している。しかし、それは違うだろう、我々は皆同じではない。それを誰もが秘かに感じているはずである。しかし、多くの者はそれ以上考えず、断固とした意見をもたないでいるのである。

我々は、我々にはまったくコントロールできないものによって完全に決められている。それが各自の固有なものだ。我々は自分で選択できなかった性格・体形・健康・頭のよさなどにより運命を決められてしまう。誰もが自分のそれらを自分で選ぶわけにはいかない。余談になるが、たいてい、「我々の精神」が「体」をコントロールしていると考えるが、この「精神」と「体」という分割そのものが間違いなのであり、「精神」も「体」の器官の一つである(ドイツの哲学者ニーチェは「道徳の系譜」という著書の中で、意識は体の中の器官の一つであるとしている)。我々の精神活動は、我々を代表しているわけでも、体のその他の部分をコントロールしているわけでもなく、それらと対等なのである。

前にも言ったように、どうしたら人に好かれるようになるのか、どうしたらいじめられなくなるのか、という問題に答えている本は多くある。しかし、このような本が役に立つとは思えない。前記のように、うまくいった者の行動を他の者がそっくりまねても、たぶんうまくいかないだろう。よくあの人は着こなしがいい、などと言うが、その人が着るからその服は恰好いいのであって、別の人が着たら「ださい」かもしれない。体形が悪い人が着た場合、印象はまったく違うものになる。体形の良い人は何を着ても恰好いい。ちょうど、人から好かれる人は何をやってもステキに見えるのと同じだ。うまくいっている人は、全体としてうまくいっているのである。しかし、我々は、我々がコントロールできそうなところだけを見つけて、それだけをまねすればいいと考えてしまうのである。これが多く出ている本の基本的な考え方なのである。

世の中での出来事においては、同じ場面がもう一度リピートできればいいがそれはできないので前の経験が参考にならない、あるいは参考にしてはいけない場合が多くある。我々は、常に前の経験が役に立たないような、未知なる事件に対処しなくてはならないのである。つまり現場ではその者の知識や実績よりも、自分ではコントロールできない直感・本能・魅力・体力・体形といったもののほうがはるかに頼りになり、それが身を助けてくれるのである。単に今までの成功例だけを頼りにして対処しようとしてもうまくいかないし、それは危険ですらあるのである。現場では知識や実績よりも能力と呼ばれる可能性が主役なのである――人は相手の実績よりも可能性に魅惑されるものだ。成功には決まったパターンなどはないものだ。

格言でも正反対のことを言っているのがある。たとえば「急いては事を仕損じる」と「先んずれば人を制す」、もう一つ挙げると「虎穴に入らずんば虎子を得ず」と「君主危うきに近づかず」である。これらはある場面での対処の仕方であるが、互いに反対のことを教えている。前者は「よく考えろ、待て」と「とにかく急げ」であり、後者は「危険や困難に飛び込んでいかなければ何も得られない」と「危険はできるだけ避けよ」であり正反対のことを勧めている。どのような行為にでも容易にもっともらしい理屈はつけられるものだ。全ての格言はその正反対な格言をもつ、と言いたくなる。これだからこそ、こんな言葉に従うことは危険なことであると言えるのである。その場に応じて臨機応変に対処しなければいけないのであって、その拠りどころは自分の判断しかない。今までの経験はあまり頼りにならないのである。大事なところで、格言や変な本に書いてあることに従うことはきわめて危険なものとなる。また、他人がうまくやったといって、それをそのまままねるのも危険である。そのやり方はその人がやるから、その場面であったからこそうまくいったのであって、その人やその状況以外に適応できるとは限らないのである。ある場面ではある格言が役に立つが、別な場面ではその正反対の格言が役に立つのである。ということは、格言は最前線ではまったく役に立たないということではないか? つまり、格言は未知のことに使用してはいけないのであり、うまくいった過去のことを美しく法則化し、化粧を施し、味わい深くした芸術の種類に属するものなのであり、成功者の単なる武勇伝にすぎないのである。

あるTV番組、私の最も尊敬する世界的に見ても最も品格のある優れた番組だった「知ってるつもり」でノストラダムス(一五〇三年生まれのフランスの医師・占星術師)のことをやっていた。この中である学者が次のようなことを言っていた。『優秀なビジネスマンは効果のある行動をするとき、論理によるのではなく、直感、もっと正確に言えば予言によっているのである』。優れた行為、あるいは役に立つ行為は、けして論理的には出てこないものなのであり、何かによって規定されるものでもなく、それはいきなり断片的に立ち現れるものなのである。

戦争のとき、軍師は敵の行動を予想し手を打つ。それは経験よりも予言の世界なのだ。論理的なものはもうすでに起こってしまったことを整理するときのみ役立つものなのであり、未知なるものに対して、とくに優れた行動に対してはまったく役に立たないものなのである。未知なるものに対して有効なものは、予言に関係する能力なのである。このけして論理的に解明できない――科学的な観点から見ればバカにされるような――能力こそが、現場において頼りになる唯一のものなのである。

けんかの後に仲直りして、またけんか、――よろしい、反省しない者たちはいつも生命力あふれ明るく快活で健康的だ。反省とはまったく役に立たないだけではなく、害になる場合もあるものなのだ。というのは、あることに反省したからといって、次に起こることに対して役に立つとは限らないからだ。次に起こることに役立つものは、反省や今までのことについて整理したものではなくして、感・予言という種類のものなのである。理論や経験は予言の才能がある者と結びついてのみ、最高の効果を生み出せるものなのである。才能のない者が理論や経験のみにしがみつく場合、臨機応変のできない彼らは、恐ろしい間違いを平気で犯してしまう可能性があるのである。

一つの事件にたいしても正反対の見方ができる。たとえば「彼はけじめがある」と言われたとき、それはほめられている。あまり深入りせず、あまりこだわらずに物事をさばいていくありさまは、ある立場の人にとっては良く見えるのである。しかし、別な立場の人から見ると彼のやり方はよく見えない。「つっこみが足りない」とか「徹底していない」とか言って非難される。ある行為は、それに関係する人がそれによって利益や快感を受けるときに、適当なほめ言葉が当てられる。しかし、その逆の場合には適当なけなし言葉が当てられる。どのような行為でもいくらでもほめる理屈はつくれるし、その逆も可能である。

次のようなおもしろい話がある。これはあるセメント会社の会長がある雑誌で言っていたことだ。ある靴のメーカーのセールスマン二人がアフリカの市場調査をしてきた。一人はアフリカでは靴をはいている者が少ないので商売にならないという判断をした。しかし、もう一人はアフリカでは靴をはいていない者が多いので大市場になる可能性があると判断した。どちらも正当な意見に見えるが、正反対のことを言っているのである。まったく正反対の判断にそれぞれ正当な理屈が存在することがわかる。このように、一つの行為の正当な理由はいくらでも作り出せる。だから議論しても決着しないのである。我々は常に自分を守るための行動をして、後からそれが正当に見えるような理由を考え、それのためにその行動をしたということにしてしまうのである。行為自体の絶対的な価値というものは絶対になく、それと関係するものへの影響により決められるものなのである。我々は常に過去の経験に大きく依存しないように、また、固定観念に用心して判断する必要がある。

前記のように、本書は二部構成になっている。第一部は我々を魅惑するものに関する資料を提供する。第二部では我々のおぞましい部分・破壊的で暴力的な部分・恐ろしく不気味な部分に関する資料を提供する。内容は多くの人がたいして意識していないが、どこかで常に気にしているものが多い。それぞれの初めの章は短い断片的な文章で構成されている。というのは、内容が論理的に進めていくべきものではないからである。もし論理的に進めていこうとすれば、多くの重要な資料が省かれねばならなくなるだろう。

余談になるが、これは日本語の問題と同じである。日本語の場合、述語(痛い、行くなど)は文章の最後に入れるので、一度述語を言ってしまえば文章は終わってしまう。最も大事な述語を言う前によく考えなくてはいけないのである。日本語をしゃべる人がよく言う「えー」とか「やっぱり」は、この考える間なのである。日本のどこかの学者が、日本人が「やっぱり」を多用するのは、日本人が集団主義だからだと言っていたが、それは違うのだ。というのは、TVで英国の大学の日本文化専攻の白人の先生が日本語でしゃべっていたとき、しきりに「えー」と「やっぱり」を連発していたのであった。英語のように、主語の後にすぐ述語を置いて、その後に目的語や補語や関係代名詞をどんどんくっつけていける言語では、気楽に思いついた語を付け加えていけばいいので、考え込んでしまうことはないのだ。英語をしゃべる者は皆考え込むことがなく流暢ではないか。

断片的な書き方もこれと同じで、重要であると思ったことを漏れなく入れることができるのである。そして、その一部がその後の章で詳細に検討されているのである。

第二部の最後の章はそれまでの章の集大成であるといえるもので、どのような者がいじめられるのかについて検討している。それまでの章はこの章のための準備であるとも言える。いじめられる者が選ばれ、いじめが実行されるメカニズムを他の章で明らかになった考え方により説明している。

本書では、専門書や普通の人がなかなか読まないであろう哲学書をはじめ雑誌、新聞、TVの番組から多く引用している。私の考えを主張するのではなく、先駆者や経験者の意見を集大成したかった。そのため、引用の量は膨大になってしまった。

 

 

目次                           

 

序文                                    六 

 

第一部 人間の魅惑的な部分についての考察               

 

第一章 人間の魅力・エロティック・強さ・幸運に関するエッセイ        一六 

――相手を酔わせ、恐れさせることのできる麻薬の保有者は成功する――

第一部  第一章 人間の魅力・エロティック・強さ・幸運に関するエッセイ - SonofSamlawのブログ (hatenablog.com)

 

弟二章 男女の強弱関係                           六――強者、弱者の行動の違いを男女の行動に見る――

第一部 弟二章 男女の強弱関係 - SonofSamlawのブログ (hatenablog.com)

第一節 はじめに                             

第二節 女性は幹であり、男性は枝葉にすぎない   

第三節 女性は強者である              

第四節 女性のたくましさについて           

第五節 母親と息子                  

            ――どうして女性同士は仲が悪いのか? ――

第六節 男性によって作り出された女性像        

第七節 かわいさ、恰好よさについて          

第八節 女性は本質的に二枚目である           

第九節 おねえちゃん                  

第一〇節 女性のバストのこと              

第一一節 衣服について                 

第一二節 老人と子供の男女について           

第一三節 離婚について                  

第一四節 昔の書物中に正確に表現されている女性の優れた行動  

 

第三章 相手や行為の価値や魅力                       九 

――価値・魅力は対象や行為自体にあるのではなくて、対象の背景や我々と対象の関係の中にある――

第一部 第3章 相手や行為の価値や魅力 - SonofSamlawのブログ (hatenablog.com)

第1節 我々は平等ではない                   

第二節 我々は上も下も必要としている              

第三節 関係の重要性                     

第四節 相手の価値の定め方                   

第五節 価値は変化していく                   

 

第四章 所有する、知りつくすと魅力を失う                 一一〇 

第一部 第四章 所有する、知りつくすと魅力を失う - SonofSamlawのブログ (hatenablog.com)

――全てを知られることの危険さにつて――

第一節 所有と価値                        

第二節 我々は、我々の作ったイメージから事実を認識する      

第三節 未知なるものや所有していないものは、魅力的にイメージされる 

第四節 詳細な説明は、相手をいらいらさせる     

第五節 略語の魅力                 

第六節 互いに飽きられないために          

 

第五章 魅力は些細・余計・背景的なものに依存している           一二七 

第一部 第五章 魅力は些細・余計・背景的なものに依存している。 - SonofSamlawのブログ (hatenablog.com)

 

第二部 世と人にひそむ恐ろしくおぞましい部分の考察   

 

第一章 世と人にひそむ恐ろしくおぞましい部分に関するエッセイ       一三四 

――自然と人間の本性は、おぞましく、恐ろしい――

第二部 第一章 世と人にひそむ恐ろしくおぞましい部分に関するエッセイ - SonofSamlawのブログ (hatenablog.com)

第二章 快と不快について                         一六四 

第二部 第二章 快と不快について - SonofSamlawのブログ (hatenablog.com)

――我々の行動は、すべて不快を中和するためものだ――  

第一節 はじめに                    

第二節 快について                    

第三節 不快の中和                   

第四節 不快は人を動かす                 

第五節 待ち得ないこと                  

第六節 不快は各人の固有なもので、誰にもコントロールできない  

第七節 怒ることについて                  

第八節 誰かを悪者にする                  

第九節 我々の不快中和のためのおぞましい行為        

第一〇節 不快を溜め込むことの恐ろしさ            

第一一節 退屈について                    

第一二節 非利己的な行為は、偽装された我々の利己的行為である 

第一三節 退屈者の不快の中和例                

 

第三章 凶悪な殺人犯の心理                        一九二

  ――不快を社会的正当な手段で中和できなかった者の恐るべき行動について――

第二部 第三章 凶悪な殺人犯の心 - SonofSamlawのブログ (hatenablog.com)

第一節 我々の中の野獣

第二節 連続殺人犯

第三節 連続殺人犯の幼年期の不幸

第四節 関連した話題

 

第四章 マーフィーの法則精神分析学                   二一一          

――我々の意識が知り得ることのできないメカニズムの存在について――

第二部 第四章 マーフィーの法則と精神分析学 - SonofSamlawのブログ (hatenablog.com)

第一節 我々の不思議な行動

第二節 各人の局所的な理解は、全体には適応できない

第三節 我々の無意識な他と関係した行動について

第四節 マーフィーの法則

第五節 「マーフィーの法則」の例

第六節 「マーフィーの法則」の著者ブロック氏の言葉

第七節 我々の固定観念を打ち破る道具としての「マーフィーの法則

 

第五章 我々の残忍性                           二二九  

――我々は、どうしてここまで残酷になれるのか? ――

第二部 第五章 我々の残忍性 - SonofSamlawのブログ (hatenablog.com)

第一節 はじめに

第二節 死刑

一. 動物刑

二. 檻に閉じ込める

三. 磔刑

四. 生き埋め

五. 串刺しの刑

六. 切断刑

七. 解体刑

八. 切り裂き刑

九. 粉砕刑

一〇. 火刑

一一. 肉を焼く

一二. 鋸引き

一三. 矢で射る、突き刺す

一四. 車刑

一五. 四つ裂き刑

一六. 石打の刑

一七. 溺死刑

一八. 絞首刑

一九. 銃殺刑

第三節 グリムメルヘンの中の残忍性

第四節 刑罰と残忍性に関するニーチェの意見

 

第六章 いじめられる者について                      二八四  

――いじめられる者はいじめられるようになっていた、というしかない――

第二部 第六章 いじめられる者について - SonofSamlawのブログ (hatenablog.com)

第一節 はじめに

第二節 グリムメルヘンにおけるいじめ

第三節 「生意気」について

第四節 我々をいらいらさせるもの

第五節 いじめのメカニズム

第六節 いじめられる運命にあった民族ユダヤ

第七節 いじめを科学的に解明しようとしてはいけない

第八節 家庭内暴力について

第九節 準いじめ行為

第一〇節 いじめの例とその解釈

 

参考文献  

 

カーネギー「人を動かす」(山口博訳、創元社

1章

ニーチェツァラトストラ」(手塚富雄訳、中央公論社

ニーチェ善悪の彼岸」(信太正三訳、筑摩書房

アーサー・ブロック「マーフィーの法則」(倉骨彰訳、アスキー出版)

ニーチェ道徳の系譜」(信太正三訳、筑摩書房

雑誌「ラジオ技術」(二〇〇〇.11、アイエー出版)

 

2章

野村ひろし「グリム童話」(筑摩書房

カール=ハインツ・マレ「子供の発見」(小川真一訳、みすず書房

ヴォルテールカンディード」(吉村正一郎訳、岩波書店

ロバート・K・レスラー「WHOEVER FIGHT MONSTER」、日本語訳では「FBI心理分析官」(相原真理子訳、早川書房

太田光「NHK知るを楽しむ向田邦子」(NHK出版)

中谷彰宏「不器用な人ほど成功する」(PHP文庫)

カール=ハインツ・マレ「首をはねろ!」(小川真一訳、みすず書房

タキトゥス年代記」(国原吉之助訳、岩波書店

 

3章

木田元現象学の思想」(筑摩書房

ニーチェ「偶像の黄昏」(原佑訳、筑摩書房

清水真木ニーチェ」(講談社

 

4章

ショーペンハウアー「意思と表象としての世界」(西尾幹二訳、中央公論社

ロラン・バルト「テクストの快楽」(沢崎浩平訳、みすず書房

ショーペンハウアー「随感録(パレルガ ウント パラリポーメナからの抜粋)」(秋山英夫訳、白水社

カーネギー「道は開ける」(香山晶訳、創元社

アーサー・ブロック「マーフィーの法則」(倉骨彰訳、アスキー出版)

 

5章

 

6章 エッセイ

週刊誌「週間ポスト」(二〇〇六年九月)

バタイユ「エロスの涙」(森本和夫訳、筑摩書房

アラン「精神と情熱に関する八一章」(小林秀雄訳、東京創元社

ニーチェ全集」(白水社

ジョナサン・カラー「ソシュール」(川本茂雄訳、岩波書店

 

7章 快と不快

二―チェ「道徳の系譜」(秋山英夫訳、白水社

ニーチェ「人間的な、あまりに人間的な」(浅井真男訳、白水社

バタイユ「エロティシズム」(酒井健訳、筑摩書房

読売新聞(二〇〇六年二月九日)

朝日新聞(二〇〇六年六月二二日)

読売新聞(二〇〇八年一一月二九日)

 

8章 連続殺人

朝日新聞(二〇〇五年五月一三日)

読売新聞(二〇〇七年四月一九日)

 

9章 マーフィー

フロイト精神分析学入門」(懸田訳、中央公論新社

フッサール現象学の理念」(立松弘孝訳、みすず書房

バーナード・ルイスイスラム世界はなぜ没落したか?」(臼杵監訳、日本評論社

宮本久雄・大貫隆編「一神教文明からの問いかけ」(講談社

三島憲一他「現代思想の源流」(講談社

 

10章 残忍性

モネスティエ「死刑全書」(吉田春美・大塚宏子訳、原書房

レーダー「死刑物語」(西村克彦・保倉和彦訳、原書房

 

11章 いじめ

 

なだいなだ「いじめを考える」(岩波ジュニア新書二七一)

齊藤勇「人はなぜ、足を引っ張り合うのか」(プレジデント社)

レイモンド・シェインドリン「物語 ユダヤ人の歴史」(高木圭訳、中央公論新社

青山恵「中高年サラリーマンを襲ううつ病の恐怖」(PHP本当の時代、二〇〇〇年二月特別増刊号)