第二章 快と不快について
――我々の行動は、すべて不快を中和するためものだ――
第一節 はじめに
我々にとって、快・不快はどういう意味があるのだろうか。昔からこれらについては真面目に問題にされなかったし、軽くみられ、軽蔑されていた。それらを行動の理由として公表することはためらわれていた。しかし、我々の多くの行為の根底には、必ず快・不快を見つけることができることは確かなのである。この非理性的なものは、たいていの者にとってつまらないものに見えるかもしれないが、我々がとてつもなく努力するための原動力になったり、我々を成功に導いたり、我々に、親切で善い人になりすますことによる優越感を得るがための「演技」をさせたり、あるいは、犯罪・けんか・暴力・いじめ・戦争などに駆り立てる美しくも恐ろしい感情なのである。哲学の世界で言えば、ソクラテス・プラトンやそれ以前の人から、デカルト・ライプニッツ・スピノザ・カント・ヘーゲル・ハイデガーなどという王道を歩んだ人たちは、この快・不快を全く問題にしていない!
多くの人には、快・不快などによって物事を判断することを、無条件に戒めてしまう習性がある。我々は、理性的に判断し行動していかなければいけないとされている。しかし、この快・不快こそが、我々を動かす最も大きな原因であり、世界のほとんどの問題はこれにより起こっているのではないだろうか。けんかも戦争も実に些細でつまらないことが原因で起こるものだ。それはたいてい当事者しかわからない固有な不快だ。しかし、それだけ大事になるということは、その些細と言われることは、当事者にとっては重大なことだったのではないだろうか。他人が見ると些細ないことでも、当事者にとっては重大なことなのである。我々の心が感じることは、とても立場の違う他人が憶測できることではないのである。しかし、いつでもそれらの本当の原因はまともに相手にはされないのである。現在でも多くの人は、快・不快を問題外のもの、問題にしてはいけないものと決めつけてしまっているのである。
田舎の人たちは、知らない人がいるとじろじろ見る。それは、日頃のつまらなく、苦しい、我慢ばかりの生活による不快からくるものだ。この行為は、彼らの不快の数少ないはけ口なのである。貧乏人は家の中にいられずたえず外にいるそうだ。それは不快をまぎらわすためだ。それに対して、めぐまれている者はあまり外に出ない。裕福な家の者は、自分の家より不快な外に出る理由はないのであり、彼らは回りのことにあまり関心がないものだ。というのは、自分が楽しむことで満ち足りているからで、それで精一杯なのであって、それだけで十分なのである。火事があっても、今楽しい者は見に行かないだろう。しかし、そうでなく、何かに飢えているような者は、火事や事件を見に行きたくなる。それで、今の不快をまぎらわせようとするのだ。しかし、不快は困窮からのみ出てくるのではない。なんの不自由のない金持ちの息子でも、また別種の不快にあえいでいるものなのである。彼らは、前記のように家の中で十分に楽しくすごせる。しかし、今度はそのこと自体が自分に重くのしかかってくる。それは恐怖・危険などによる緊張感という「冒険的な快楽」がないことによる不快である。何もかもに不自由することがない、ということが今度は不快の原因になってしまうのである。不快は貧乏人・裕福な者・忙しい者・暇な者と、どのような者でも抱えているものなのだ。我々は不快という海の中にいる。不快をまぎらわすために、我々は行動に駆り立てられる。その行動は社会的に正当なものにもなるが、犯罪にもなるのである。
何かを達成した時の満足感や成功の後の喜びの中にも、よく見ると不快が忍び込んでいることにお気づきだろうか? だからそういう時、落ち着かないし、何かでそれをまぎらわせたくなる。酒を飲んだり、たばこを吸ったり、騒いだりして落ち着かない。つまり何かをせずにはいられない。これも、ある種の不快だと言えないだろうか。素敵な者をみた時、恰好いいものを見たとき、自分の恰好いい体形に満足した時、気持ちがいいといいうよりむしろある種の不快が伴っているのを感じる。そしてその不快が次の行動に駆り立てるのである。その素敵な者や恰好いいものを手に入れたくなったり、もっと自分を恰好よくしたくなったりする。つまり、満足することができない。すぐさま、次の欲求が襲ってくるのである。そして次の行動に駆り立てられる。良くなればなるほど、うまくなればなるほど、知れば知るほど、さらにそれ以上を求めて現状に不満を感じ、より大きな不快感が訪れる。
二〇〇六年二月に開催されたトリノオリンピックで行われたスノーボードクロスという競技での女子の決勝戦で、独走状態でゴールに迫っていたアメリカの選手が、なんとゴール直前でジャンプした際、着地を失敗して転び、はるか後ろにいた後続の選手にゴールの数メートル手前で追い抜かれてしまった。彼女はゴール手前の段差でジャンプしたとき、《あまりにも大きな喜びという名の不快》のため、何もしないことができないでつい遊んでしまった。空中で体をひねって自分の喜びを観衆に表現してしまった――実はそうではなく、顔に落ちてきた髪の毛をかき上げるのと同じで、不快を払いのけただけなのだ――のだ。それでバランスをくずし転倒してしまった。あまりも大きな不快に我慢しきれずに、それに対処しなければならなかったというわけだ。これは、どこかがかゆいときには、思わずかいてしまうのと同じだ。
不快は優秀な者ほど大きいと言える。不快は生命力や優秀さのバロメータ(指標、目安)でもあると言える。もちろん、それだけではなく、めぐまれない者(経済的、社会的、肉体的、精神的に)は常に誰よりも不快であると言える。しかし、そんなめぐまれない者の中でも、生命力あふれる者や頭の良い者、つまり優秀な者の不快はより大きなものとなるだろう。
一見理性的に見える行動も、実は非理性的なものの上にのっているものだ。理性的なものに見せかけられているが、実はその正体は非理性的なものであるのだ。我々の行動は全て生理的な欲求・情念などの非理性的なものが起源になっていると言える。しかし、我々はその行動に後から理性的な化粧を施す。しかも、それらの非理性的なものは、各自の固有な事情(その者の頭のレベル、性格、健康度、社会的事情など)に完全に依存しているので《科学的に》整理できるようなものではない。我々の行動の原動力のかなりの部分を占める不快という非理性的なものは、その当人にしかわからないものであり、論理的・客観的に整理できるものではない――だからこそ、こういうものを偉大な思想家たちは《内的な》と意味深く表現するのである。我々のどのような行動も、このような非理性的なものに深く根を下ろしているもので、だからこそ、我々の行動には、不可解なことが多すぎるではないか。
前にも記したが、このような我々の非理性的な部分を、啓蒙主義思想の頂点たるドイツの哲学者カントを気にしながらも徹底的に検討したのは、一七八八年生まれのドイツの哲学者ショーペンハウアーであった。そしてその弟子のドイツの哲学者ニーチェ(一八四四年生まれ)は、これを徹底させた。二一世紀はニーチェの世紀であるなどと言う者もいる。謎めいたこの人の著書は、いつもあらゆる種類の人たちを魅惑し続けている。ニーチェに関する優れた解説書である前出の清水真木「ニーチェ」によれば、世界のどこかで一週間に一冊くらいの割合でニーチェの研究書が出版されているそうである。ここで、二―チェ「道徳の系譜」(秋山英夫訳、白水社)から以上のことに関係した部分を引用してみよう。
*正しい人間がその加害者に対してさえ公正な態度をくずさないということ(単に冷たく、程よく、よそよそしく、無関心であるというだけにとどまらないで、あくまでも公正であるということ、なぜなら公正であるということはつねに積極的な態度であるからである)、もしそういうことが現実に見られて、個人的な中傷や嘲笑や誹謗をあびせかけられても、公正な裁き目の、高い、澄んだ、深く見抜くと同時におだやかに見つめる客観性が曇らされることがなければ、それこそこの世における完成の極致、地上最高の至芸である。――というよりか、むしろそんなことは期待しないほうが賢明なようなもの、ともかくあまり軽々しく信じてはならないようものである。普通は、いかに正しい人の場合でも、ほんの少量の攻撃、悪意、追従だけですでに、血走った彼らの目から公正を追い出すに十分であることは間違いない。
つまり、我々の情念が、不快が、我々、あるいは、我々の《理性》をも完全にコントロールしてしまうのである。不快によって、我々は善人や公正な人間になりすまし気取っている状態から簡単に引きずり降ろされてしまい、すぐにどなったり、わめきちらしたりしてしまうではないか。我々は簡単に《悪い子》なってしまうのである。我々の公正さと呼ばれるものの正体は、このように、確固たる地盤をもっているようなものではなく、常に我々のいやらしいところを隠すための場当たり的で見せかけだけの薄っぺらな宙ぶらりんの飾りであるにすぎないのである。
二〇〇七年、私が本書を執筆しているときでも、私の愛車(パジェロ)に定期的に傷をつけている者がいた。ときどき訪れては秘かに傷をつけていく。彼は私の車だけではなく、この二〇年にわたり多くの車に傷をつけているようだ。これは、ただ一人の者の犯行なのである。前の車であるセドリックにも傘で突いたような傷がボンネットにつけられていた。これは、異常者の行動ということでは片付けられないもので、結局、我々とはこのような存在なのだということである。彼は何もおかしなことをやっているわけではなく、このような行動でしか彼の不快を中和できないのである。
二〇〇七年二月のTVニュースでたびたび問題にされた市議会の議員の政務調査費の使い方もひどいものである。飲み食いやエロ本やマンガ本の購入に使うなど、まったくいいかげんな彼らの実態が明らかにされた。しかし、これは正に我々の正体を示しているのである。我々は、誰でもこのたぐいのことをやっているものなのである。本章は、めぐまれた苦労のない優等生的な者には容認できないような、我々の不可解で不気味で実にいやらしい行動の必然性を紹介するものなのである。
第二節 快について
快とはどのようなものだろうか。快というもの自体があるのだろうか。実は、快とは不快が取り除かれるときの感覚なのである。快そのものはなく、不快こそが実在するものなのである。常に不快の海の中にいる我々には、どこかの不快が取り除かれるとその時、快と呼ばれる感覚が生じる。快は不快が取り除かれていく、その時間だけ感じることのできるはかないものであると言える。だから、あまり長くは続かないものだ。
おいしいものも、お腹がすいていなければおいしく感じない。そのもの自体においしさがあるのではなく、我々がある状態のとき、我々との関係においてそれはおいしいという感覚を我々に生じさせるのである。これは、お腹がすいたという不快が取り除かれていくときの感覚なのである。同じものでも、お腹がいっぱいのときには食べてもおいしくないだろう。また、こった体をマッサージしてもらうと気持ちがよいが、こりが直ってしまうとまったく気持よくなくなり、むしろ不快に感じる。こっているという不快が、マッサージを気持のよいものにしていたというわけだ。
快を感じる前には、不快というものがまずなければいけないのである。つまり、不快は快を感じるため条件であるということになる。このように快というもの自体は存在しない。実在するものは不快のみなのである。前記のように、こっているとき、マッサージをすれば気持ちがよい。しかし、こりがなくなっていくに従い気持よさが少なくなっていき、やがて不快になってしまう。どのようなよいものでも度を越すと不快になる。だから、不快から快に至る過程は不快の中和と呼ぶのがふさわしいだろう。酸性という不快に中和剤を入れていくと中和されていく。この過程こそが快感なのである。そして、完全に中和されたときに快感は終わる。さらに中和剤を入れていくと、こんどはアルカリ性という別の不快になってしまうのだ。酒でも同じで、ある量までは天国的気分を味わえるが、それ以上惰性で飲んでいくと気持ちが悪くなっていく。ここで、前出のショーペンハウアー「意思と表象としての世界」より、これらに関係する部分を引用してみよう。
*あらゆる満足、あるいはひとびとが通例幸福とよんでいるようなことは、もともと本質的にいえばいつも単に消極的なことにすぎないのであって、断じて積極的なことではあり得ない。それはもともと向うからわれわれの方におのずと近寄ってくる祝福ではなく、いつの場合もなにかの願望の満足といったことであるほかはないものである。願望、すなわち欠乏があらゆる享楽を成り立たせる先行条件である。ところが願望が満足されると、その願望も、したがってまた享楽もなくなってしまうであろう。そういうわけだから満足とか幸福とかいってみても、それはなんらかの苦痛、何らかの困窮からの解放という意味以上のものではあり得ない。
われわれは自分が現に所有している財産や各種の有利さのことはかくべつ気にもとめず、高く評価することもせず、それは当然なことだぐらいにしか考えていないのだが、これも今言った事情からくるのである。財産や有利さは、いつも苦しみを寄せつけないようにしてくれるという消極的な意味でのみ幸せをもたらすものにすぎないからである。財産や各種の有利さは失われたあとではじめて、われわれはそれらの値打ちを感じるようになるだろう。なぜなら欠乏、窮乏、苦悩こそが積極的なものであり、直接に訴えかけてくるものだからである。それゆえにまたうまく切り抜けてきた困窮、病気、欠乏等々のことを思い出すのはうれしいことであるが、そのわけはこれらを思い出すことが現在の所有物を享受するうえでのただ一つのよすがだといえるからである。
第三節 不快の中和
我々が怒るのも、かゆいところをかくのも不快を中和するためである。不快はあるところまではがまんするが、ある限度をこえるとがまんできなくなる。これは、けして我々にはコントロールできないことだ。我々は、その不快の原因であると我々が決め付けた相手に対してどなりつける、暴力をふるう、困らせる、つまり苦悩させることにより、不快を中和しようとする。つまり、報復である。その相手によって困らせられたという不快は、相手を苦悩させることで埋め合わせる(中和する)ことができる。きわめて言いにくいことだが、後の章で述べるように、我々は他人の苦悩を見るとき第一級の快を感じるものだ。
たとえば痴呆老人を収容する施設などで、入所者がおかしなことをしたとき、職員がいじわるく言ってきかせるのはどうしてか。相手は何もわからないということはわかっているはずだ。これは入所者のおかしな行動により受けた不快を、相手をどなりつけることで中和しようとしているのである。
不快は常に我々にある。後述するように、何も心配のない生活の中にも、退屈という不快がある。これも、きわめて耐え難いものなのである。それは、何かの行動によりまぎらわせなくてはならない。鼻くそほじり・爪かみ・セックス・マスタベーション・のぞき・万引き・酒・麻薬・たばこ・ギャンブル・仕事に燃える・けんか・戦争・いじめ・他人に優しくする・冒険など、実に多様な行動によって、我々は苦しい不快を中和しようとするのである。だるいとき、じっとしていられないことと同じだ。「何もしない」ということができない。F1ドライバーのアラン・プロストは、レース前にしばしば爪をかんでいたものだ。
我々は、騒音は悪いもので、静かなことがよいと思っている。しかし、これは間違った固定観念だ。我々は常に不快にあえいでいる。静かさは我々の不快を中和してくれないし、むしろいらいらさせる。ある種の騒音(1/fノイズなど)は心のマッサージであり、やらなければならない辛い仕事・作業、あるいは退屈による不快を中和してくれるのである。また、目に入る雑多な光景も我々の不快を中和してくれるのである。私などは、静かなところでは読書は一〇分も続けられないが、騒音や視覚的騒音の中では持続できる、という経験がある。
飲み屋や床屋で話がとまらなくなる者が多い。誰もがしゃべることに飢えているものだ。誰かに話をしたいが、他人は我々の話しなんかをよく聞いてくれない。他人は、我々が一番話したい体験談や自慢話などは、特に聞きたがらないものだ。誰もが他人のことなどに興味はなく、自分のことしか興味がないのだ。他人の功績なんかに興味をもっている者は絶対にいない。しかし、誰もが、自分の苦労話・成功談・武勇伝・自慢話を誰かに聞いてもらいたいものだ。しかも、それは自分が敬意を表さずにはいられないような者、あるいは魅力的な者でなければならないのだ。自分が見下す者には、何もしゃべる気はしない。しかし、このような話を聞いてもらいたいような価値ある相手に、自分の話しを気の済むまで聞いてもらう機会はまずないだろう。
そこで、世の中にはそれを仕事としている者がいる。それは、キャバレーやナイトクラブのホステスだ。ホステスはお金をもらって、我々の前記の欲求を満たす仕事である。客にいくらでも自慢話をさせ、名誉心や虚栄心を満足させて帰すのである。客にしゃべる張り合いを感じさせるホステスには人が集まる。彼女はただ客の話にあいづちを打っているだけでも、客の不快を中和できる。彼女が前にいるだけで、客はしゃべる張り合いを感じ、次々に自分の名誉心や虚栄心を満たすための話題が出てくる。つまり、客に「自分は重要な人間なのだ」という気分を一時的に――ちょうど、アンデルセンの「マッチ売りの少女」がマッチを燃やしている間くらいに――味あわせてあげるのである。高いお金を払ってまでも、ホステスとしゃべりにくるのだから、これは麻薬とおなじだ。誰もが、いかに不快に苦しんでいるかがわかるであろう。その苦しみから逃れるために、我々は多くの金を使ってしまうのであり、また、多くのわいせつな犯罪や凶悪な犯罪に走ってしまうのである。これだけ見ても、我々の不快というものに第一級の重要性を認めなければならないことがわかる。
前記のように、床屋では、客が話し初めて止まらなくなることがある。彼は、恐ろしく興奮していて、自分の名誉心や虚栄心をみたすための話題がとりとめもなく出てくる。特に、自分の判断・主義・主張にはとりわけ力が入る。彼の話は、話せば話すほどエスカレートしていく。店の人はそれをうまく聞いているが、それが仕事のじゃまになってくることもある。しかし、しゃべっている方はいっこうにおかまいなく、まるで飲み屋にでもいるような気分で狂ったようにしゃべり続ける。一度始まった話は終わりがなく、次々に話題は出てくる。話せば話すほど興奮してくる。不快はしゃべっている最中は中和されるが、それが終わるとまた襲ってくるので話をやめられなくなる。その話をきいている人はうんざりする。それでも当人は気がつかない。相手が自分の話を聞いてくれる、あるいは聞かなればならない状況の中で話すことは楽しいことである。他でこんなことは到底できないだろう。床屋は数千円でそれができるところなのである。しかし、彼はどのような者にもこのようにしゃべるのではなく、話をするに値しないと思った相手には、まったく何もしゃべらないだろう。つまり、このような行為の価値は、しゃべること自体にあるのではなく、話す相手、自分、話題の関係にあるのである。相手がつまらない者ならば、しゃべることの価値をまったく感じないのである。
二〇〇五年一〇月のニュースでは、パスコの名で知られるパン屋(敷島製パン)の職員の不正が報じられた。健康保険組合の事務長であった彼は、17人もの愛人に、なんと19億円もの会社の金を横領して貢いでいたのであった。彼女らは、彼にとってはホステスなのだ。彼は、何らかの不快を彼女らによって中和しようとしたのであった。そのために19億円を要したのだ。人間の不快はなんともやっかいなものではないか。それをいやすことは、命がけの大仕事になってしまうこともあるということだ。不快をあなどってはいけないということだ。
第四節 不快は人を動かす
ドイツの哲学者ショーペンハウアーは一八二〇年三月ベルリン大学の講義担当資格審査に望んだ。このときの様子を、前出のショーペンハウアー「意思と表象としての世界」の解説より引用してみよう。
*ベルリン大学の大講堂には哲学科教授全員が、ヘーゲルを筆頭にして参集した。その席上で、こともあろうに彼は、ヘーゲルへの攻撃的意見を決然と展開したのであった。彼はカントの非常に大きな功績を回想してから、カント以降の詭弁的哲学者について遠慮なく語った。彼の態度、彼の言葉と結論にはなにか人を射るようなもの、いな軽蔑そのものが表れていたといっていい。ヘーゲルのほうも、講演を中断させて、若い敵手をへこませるような厄介な質問をもち出して、優越者の立場で彼を窮地へ追いやろうとしたといわれる。・・・一八二〇年の夏学期のごく少数の聴講者を得てショーペンハウアーの大学における初講義が行われた。しかしそれが彼の最初にして最後の講義であった。翌年、彼は題目を改め、自分の哲学体系のための講義を告示したが、聴講者は皆無であった。当時ベルリン大学でヘーゲルの人気は絶頂に達していた。ショーペンハウアーは明らかに示威的に、ヘーゲルの講義時間と同じ時間を選んで、自分の方に聴講者を引きつけようと試みたからであった。しかも十年の長きにわたりつねにヘーゲルと同じ時間に講義すると告知した。ヘーゲルの教室は満員であった。この有名人に対抗して、同じ時間帯に、ずぶの新人が、自分の打ちたてた「総合哲学」について講義しようというのである。彼が講義室へ出かけていっても、講義そのものが成り立たなかった。
ショーペンハウアーは、大学への就職のための講義でヘーゲルに敗れた。ヘーゲルと同じ時間に講義をして、学生を集めようとした。しかし、学生は全てヘーゲルの講義に出てしまい、一人も来なかった。そして、その後も、大学への就職はかなえられなかったそうである。彼は、ヘーゲルに敵対心をもつように運命づけられていたと言える。この敵対心は単なる個人的な敵対心ではなかったのである。彼の態度はやがて、弟子のニーチェに受け継がれ、二〇世紀の哲学の一つの起点を作ることになるのである。そして、ヘーゲル哲学(客観的観念論)はその後、ショーペンハウアーの判断のとおりに崩壊していったのであった。彼は晩年特に、ヘーゲルを言葉汚くののしった。しかし、その怒りこそが彼を奮起させ、仕事に駆り立ててくれたのである。ニーチェは前出の二―チェ「道徳の系譜」の中で『彼は、敵を必要とした』と言っている。我々は敵と張り合うなかで、より大きな力を出すことができるのである。敵の存在とその不快感は、彼が大きな仕事をするため、健康に生きるために必要なものであったのだ。このことについてのニーチェの意見を、前出の二―チェ「道徳の系譜」(信太正三訳、筑摩書房)から引用してみよう。
*ショーペンハウアーが房事をば(その道具たる女、この《悪魔の道具》をも含めて)実際に個人的な敵として扱ったにもかかわらず、いつも上機嫌でいるためには敵を必要としたということ、また彼がどぎつい胆汁のような蒼黒い言葉を好んだということ、激情にかられて怒るため怒ったということ、また彼は敵もなくヘーゲルもなく女もなく官能もなく生存や存命への意志も全くなかったら、病気になりペシミストになっていたろうということ(――というのも、どれほどそうなりたいと願っていたにせよ、彼は病気でもペシミストでもなかったからだ)、である。なんなら賭けてもよいが、もしそうしたものがなかったら、ショーペンハウアーは生き永らえてはいなかったろうし、人生からおさらばしていたであろう。がしかし、彼の敵が彼をこの世に引きとめ、彼の敵が彼をくりかえし生存へと誘惑したのである。彼にとって憤怒は、古代の中にキュニコス学派の徒におけるのと全く同じように、彼の清涼剤、彼の気晴らし、彼の報酬、彼の嘔吐防止剤、彼の幸福であったのだ。
フーリガンと呼ばれるサッカーの試合で乱闘を起こす過激なサッカーファンがいるが、この者たちは自分の応援するチームのために戦うというのではなく、自分の不快をぶつけるための一つの手段として、サッカーを利用しているにすぎない。彼らの本当の目的はそのチームを応援することではなくして、彼らの不快を中和するために誰かと戦うことにある。戦う場を得るがために、彼らはサッカーという興奮しやすいものを選んだのであり、それは単に不快の中和のための手段にすぎない。彼らは敵を、攻撃できる相手を求めているのであり、それを得るがために偶然見つけたのがサッカーの応援なのである。これは、独特のユニホームを着て、見るからに怖そうな学生野球の応援団にも言えることだ。彼らは野球のためというのではなく、自分たちの不快に対処するため、独特の欲求を満たすための行動の場として、野球を利用しているだけなのである。
おどけたりして他人を笑わせるのも、他人にやさしく親切にするのも、他人をいじめるのも、我々のある不快を中和するためなのである。後述するように、我々の全ての行動は必ず利己的なものから出てきたものだ。もし、そう見えなかった場合、それはうまく偽装されているのである。異常に他人を笑わそうとしたり、あいそが良かったり、親切だったりする者は、必ずや大きな不快を抱えて苦しんでいる者なのである。彼らの不快が、彼らをじっとさせないのである。だから、こういう者は家に帰ると人が変わったように無あいそだったり、不機嫌だったり、家族に暴力を振るったりするのである。
「広辞苑」によると、中国前漢の歴史家である司馬遷は、武帝の時、父談の職を継いで太史令となり、自ら太史公と称した。李陵が匈奴に降ったのを弁護して宮刑に処せられたため発憤し、父の志をついで「史記」一三〇巻を完成した(前一四五頃~前八六頃)。宮刑とは古代中国の刑罰。男子は生殖機能を去る。彼も宮刑に処せられた、という不快を中和するために史記という著作を表さずにはいられなかったのであろう。
前出のロバート・K・レスラー「FBI心理分析官」から、関連のあるところを引用してみよう。
*家庭や社会からかえりみられず、暴力的な空想にふけるようになっても、それだけではまだ実際に犯罪を犯すところまでいかない場合が多い。こうした状況にある若者は、いつ爆発するかわからない時限爆弾のようなものだ。彼らの行動をたどってみると、犯罪を犯す前に何らかのストレスがあり、それが重大な暴力行為のきっかけになっていることがわかる。
もし、我々に不快がなければ、何もする気にはならないだろう。我々の行動の原因の多くは不快であるのではないだろうか。不快をまぎらわせようとする行動の中から、大きな成果も凶悪な犯罪も生まれてくる。そして、常に大きな不快を抱えている者には大きな仕事ができる機会が開かれていると言えるし、凶悪な罪を犯す可能性があるとも言える。不快は人をじっとさせておかないのである。女性より男性のほうが、より大きな仕事をできる――歴史上ではそうであって、常に男性は偉人のほとんどを占めている――し、怒りやすい。家庭内での暴力も男性が多い(しかし、家庭内で夫に暴力をふるう女性も少なくないそうだ)。これは、男性の不快が女性よりはるかに大きいからではないだろうか。男性は、たばこ・酒・マスタベーションなど、不快を中和する行為を女性よりかなり多くやっている。
第五節 待ち得ないこと
せっかちな我々にとって、待つ、判断を繰り延べする、考えを宙ぶらりんにしておく、相手の話をよく聞くなどは大きな不快となる。だから我々は、決めつけてしまったり、わらないところは自分の想像で作り上げてしまったり、あきらめてしまったりするものだ。問題をそのままにしておき何もしないでいる、よくわかるまで待つ、他人や自然や運命に任せる、ということに耐えられないのである。バス停留所で待っているときでも、スーパーマーケットの支払いの時でも、数分でも待つことは耐え難く、いっそのこと歩きまくっているほうが楽なものだ。判断について言えば、我々はすぐに良い・悪い・正しい・間違い・大事な人・どうでもいい人、という具合に早く把握してしまいたい。ここで、ニーチェ「人間的な、あまりに人間的な」(浅井真男訳、白水社)より、この問題に関連ある部分を引用してみる。
*待ちうること――「待ちうる」ということは実にむずかしいことなので、最大の詩人たちも「待ち得ないこと」を作品の動機にするのを厭わなかったほどである。かくしてシェイクスピアは『オセロー』において、ソフォクレスは『アイアス』においてそれをしている。アイアスの自殺は、もし彼が一日だけ自分の感情を冷ませておいたならば、彼自身にも神託のとおりもはや不必要なことと見えたであろう。おそらく彼に傷つけられた虚栄心の凄まじい囁き(ささやき)を軽蔑して、自分に言ったであろう、「俺の立場にあれば誰だって羊を英雄だと思ったのではないか? あれは一体そんなにとんでもないことだろうか? むしろ、一般的な人間らしいことにすぎないのだ」と。アイアスはこんな風にみずから慰めることもできたであろう。情熱は待とうとしないのである。偉大な人々の生活にある悲劇的なものはしばしば、時代および人間の低劣と彼らとの間の葛藤に存するのではなく、彼らが一、二年自分の事業を延ばすことができなかったということに存するのである。彼らは待ち得ないのである。――あらゆる決闘の際に、忠告する友人は、当事者たちはもっと待ちうるかどうかという一つのことを確認しなければならぬ。待ち得ないとなれば、両当事者のいずれもが「俺が生き続けるには彼がすぐ死なねばならぬ、あるいはこの逆だ」と自分に言う以上は、決闘は合理的である。待つということはこうした場合には、傷つけられた名誉の恐るべき責苦を傷つけた相手の面前でなお受け続けることを意味する。そしてこのことはまさしく、生一般の価値以上の苦悩となりうるのである。
次の話は、私が小さい時に読んだものである。ある夫婦が通りすがりの者と、彼の不思議なてぬぐいと自分たちのもっていた馬を交換した。その手ぬぐいは三つの願いをかなえてくれるというのだ。早速、その手ぬぐいに妻は「お腹がすいた、ソーセージが食べたい」と言ってしまう。なんともつまらない願いをしてしまった。すると、ソーセージが出てきた。これで一つの願いがなくなった。すると夫は「そんなつまらないことに使ってしまって」と怒って、「そのソーセージがお前の鼻にくっついてしまえ」と言った。すると、その第二の願いはかなえられ、ソーセージは妻の鼻にくっついてしまった。妻はすぐさま「いやだわ、とってちょうだい」と言った。するとその願いはかなえられ、ソーセージは鼻からとれた。これで三つの願いは終わった。大切な三つの願いは、こんなつまらないことに使われてしまったのである。夫が二つ目の願いを止めておけば、こんなことにはならなかったのである。しかし、彼の不快は、彼を利益がまったく無視された報復に駆り立てた。本番においては、感情的なものを抑えて本当に大事な利害関係を冷静に考察する理性などは、どこかに引っ込んでしまい、情念が主役になるのである。彼は、妻がつまらない腹立たしい願いをしてしまったことに対する報復をする前に、少し待てばよかったのだ。しかし、それは当事者でない冷静な者が言うことであって、当事者はけしてそうはできないのである。報復を、彼はけして待つことはできなかったのである。我々の「待つ」ということに対する不快は、我々を大きな損害を被る可能性が大きい場当り的な行動に激しく駆り立てる。このことは、前記のニーチェの引用文の最後で、次のように言われている。『待つということはこうした場合には、傷つけられた名誉の恐るべき責苦を傷つけた相手の面前でなお受け続けることを意味する。そしてこのことはまさしく、生一般の価値以上の苦悩となりうるのである』。くりかえすが、我々は現場ではけっして理性的ではいられない。理性的な判断は、実は現場を離れた静かなところでしかできないという非実用的なものなのである。だから、学者さんたちはたいてい理性的・優等生的でいられるのである。
第六節 不快は各人の固有なもので、誰にもコントロールできない
どんなけんかや戦争も些細なことから始まるものだ。その些細なものとは何であろう。それは、当事者以外の者の落ち着いた目が見た場合の見え方である。しかし、当事者にとっては大きな問題であったのだ。全てのことは、我々の生理的欲求・情念を無視すれば理性的に判断できるのかもしれない。しかし、我々は生理的欲求・情念の中にいるのであるから、理性的な判断はできないのである。当事者の心は、当事者以外の者とはまったく違うのである。
人によって不快の種類は違う。その人の性格や社会的事情により不快は違ってくる。貧乏、勉強についていけない、体調が悪い、肉体的に劣っているなど、不快の種はいろいろである。人種によっても違うであろう。国によって、その国独自の国民が共通にもつ他国とは違う不快をかかえているものだ。その不快はその事情にある者しかわからない。それらの不快を中和することはたいてい不可能に近い。話し合いなどでは解決できない。また、教育などもまったく無力であろう。いじめの問題に対して、「もっと教育に力を入れなければならない」という意見を多く聞くが、この人たちはいじめのメカニズムがまったくわかっていない。各自がもつ内的な問題は、科学的には解決できないのである。けんかも戦争もけしてなくならないだろう。これらは、我々が呼吸するのと同じくらい人間にとっては自然なことなのである。人同士のけんかがなくならないのに、国同士の戦争がなくなるわけがない。しかし、それらを話し合いや教育でなくしていけると思っているバカ者が多数いることは確かだ。
自分でコントロールできない事情やそれに伴う苦悩をかかえた個人や国などの不快・不満をなくすために、ある対策を実施したとしても、それによってある者にはよくなるが、ある者にはかえって不快・不満を増大させる結果になるものだ。つまり、全ての者を救う共通な手段はない。ある者を救えば、ある者はけ落とされることになる。だから、ある対策はさらなる不快・不満、したがって新たなる戦いを生み出してしまい、全体としての不快・不満の量は減らすことはできないものだ。
体形が悪いと悩んでいる者の不快を、教育やカウンセリングでなくすことができるであろうか。問題は、彼らが要求しているものを提供しなければ解決しない。しかし、それは不可能だ。教育とはせいぜい数学・社会・国語などを教えるくらいではないかと思う。あまりにも教育というものの内容を膨らませすぎている。我々は不快を取り除いてもらいたいだけだ。優等生的なお話はけっこうだ。各人の不快を取り除かなければ、けんかもいじめも、そして国同士の戦争もなくならない。優等生の学者に任せていても、やれ授業の内容を変えるだの、ゆとりの教育だのといったとんちんかんなことばかりやっていて、つまり自分の仕事を作ることばかりに専念してしまうだけだ。教育とさわいでいる者はめぐまれた者、「運よく」困窮から立ち直った者なのだ。立ち直ったのはただ運がよかっただけなのに、それを行動や生き方のせいにし、これを他人に押しつけるのだ。また、単なる自分の趣味嗜好を、何かに役立つものとしてしまい人に勧める。たとえば痴呆の人にモーツァルトを聞かせるとよいと言われているみたいだが、これは何の根拠もない。ただ、モーツァルトが好きな人が、自分が気持ちいいのでそれが誰にでも適応できると思い込んでしまう。そして、それを聞いた者がそれを鵜呑みにしてまたそのことをひろげてしまう、という具合だ。また、園芸療法においても同じことが言える。網走刑務所でもやっているこの療法は、園芸の好きな者が始めただけであり、何の根拠もない。誰でも自分の好きなものしか人には勧めないだろう。自分の嫌いなものを相手に勧める者はいない。しかし、自分と相手とは事情が違うのだ。自分がそうすることによってうまくいったのは、うまくいくようになっていたからなのだ。誰でもそのようにすればうまくいくというものではない。自分はそのやり方で、偶然うまくいっただけのことだ。それを誰にも当てはめようとしてはいけない。偉い学者さんや、めぐまれた者たちや、しいたげられた者の不快を知らない者は、かってなことばかり言っている。世の中は、こういうめぐまれた先生のような者しか表に出られない。だからその様な意見しか表に出てこないし、それが当たり前であるかのように見えてしまうのである。しかし、大先生の意見がナンセンスだと思っている人は陰に隠れてたくさんいるのである。
現在、世界のどこかで必ずいじめ・けんか・拷問・虐殺・戦争や恐るべき残忍な行為などが、太古と同様に秘かに、あるいはどうどうと行なわれている。また、あらゆる国において、全人口のわずかしか満足していない。残りの者たちは不快にあえいでいる。表に出てくる意見は、少数のめぐまれている者のものだ。彼らは優等生的なことばかり言っている。絶対全人類を幸福にする(不快をなくす)方法はない。一部の者を満足させるのには、大多数の者を置き去りに、または犠牲にしなければならない。いろいろな悩みを抱えている者を救えるわけがない。国家間の両立しない利害によるいらいらを、簡単な会議などで解消できるわけがない。
昔から現在、そして未来に至っても、ばかどもの教育論は続けられるだろう。全てを教育に繰り込もうとする。わけのわからないものは全て教育のせいにしてしまい、そこに投げ込んでしまう。まさに役人の仕事の仕方だ。そして現場をけして興味深く調べようとしない。いつも一度覚えた、一度確信した、一度信仰した療法のみで患者に対処しようとする。これでは患者は殺されてしまう。彼らは困っている者の不快が全然わかっていない。そして、それらがどうしようもない問題であることがわからない。だからこそ「人間はみな平等である」などというバカなことを言っている者がいるのである。彼は平等でないところをまったく見ないで、手が誰にも二本あるとか、頭が誰にも一つあるとかの最もわかりやすいところしか見ていないのである。何もかも調べもせず、自分が見ることができたもの、見たと思ったもの、見たいように想像したものだけを事実にしてしまう無邪気さには、腹が立つばかりだ。我々を根底で動かしている醜く不気味で恐ろしいものや、各人の固有なもの(肉体的にも社会的にも不公平であるということ)をまったく無視してしまっているようだ。
いろいろな人がいろいろな固有な不快を抱えている。それらはいつか破裂する可能性がある。いじめ・けんか・テロ・戦争などはある破裂なのである。その破裂を一部のめぐまれた者たちは、ただ冷静に首をかしげて見ているだけしかできない。教育、とんでもない、飯が食えなくて困っている者に音楽を聴かせようというのだ。貴族の方々には貧乏人の気持ちはわからないものだ。
第七節 怒ることについて
相手に対して遠慮なく怒る人がいる。学校の先生でも、会社の偉い人でも、怒っているときの様子は野獣のようであり、きちがいじみている。不快が彼のこらえられる限度を超えたのだ。その逆に、いかなるときでも怒れないでこらえ続けるしかない人もいる。学校では、よく怒る先生のほうが怒らない先生より好かれる。それはまるでこしょう・わさびのように、我々の不快を中和してくれるからだ。よく怒る人は、相手を選んで――自分よりも上位の人には絶対怒らない――何も迷わず言いたいことを全て言ってしまう。そして、そのことに対して反省はほとんどしない。このような人は、社会的に成功している場合が多い。凶悪な殺人犯などは、けしてこのタイプではないだろう。
では、どうしてたやすく言いたいことを迷いなく言ってしまえるのだろうか。その一つの理由は、不快が大きいのであろう。自分の考えをもち、自分だけで方針を決められ、良い・悪いという判定が明快にできることは、それに反するものを見たときや知ったときに、大きな不快を感じるものだ。主義主張がはっきりしている者ほど、それに合わない者にたいして大きな不快を感じるものだ。それは人一倍価値意識が強いということだ。物事の価値を自分の確固たる観点から決める力が強いので、それに反するものを見たときの不快も大きくなるのだ。彼らは普通の人より不快が大きく、いつもそれと戦っている。だからこそ、それは怒ることにより中和しなければならない。また、このような人は面白い人が多いものだ。他人を笑わせようとするユーモアも、当人の不快中和手段の一つなのであり、清涼剤の役目を果たしているのである。
もう一つの理由は、その人が無神経であるということだ。しょっちゅう怒ることによって、不快はあまりたまらないうちに抜かれる。だから、いつでも快活でいられる。余計なことを考えずに、まず自分の体を守ることに専念できるのである。不快を溜め込むことはきわめて危険なのであり、それは不快をちょくちょく中和する行動の危険さに比べてはるかに大きいのである。この無神経さというものは、有能な者が必ずもっている能力で、大きな成果を上げるためには必ず必要なものである。余計なことをまったく気にしないで、目的に関係あることしか気にならないという能力なのである。つまり、自分の目的のためにはどのような行為でも平気でできるという、きわめて野生的でたくましい能力なのだ。この無神経さがないと、いろいろなことが気になり、目的のことに力を集中できなくなる。何かを得るためには、何かを失わなければならない。今もっているものを失うことを恐れていたなら、何も価値あるものは得られないだろう。女性は男性に比べ無神経である。デリケートさがなく、たくましく、冷酷で、野生的だ。無神経さは一つの能力だ。いざというとき、女性はやらなければならないことだけに集中できる。男性はいろいろなことを考えてしまうものだ。余計な機能を停止させれば、それだけ必要な機能にエネルギーを多く配分できる。ある人をやめさせる、動物を殺して食べる、人を見捨てるなど、自分の欲することを遂行するためには何でもできるという無神経さは、大きな成果を上げるためや、自分や関係者を守るために必要な能力なのである。
人前で、ある人をどなりつけて恥をかかせる。自分の方針にそむく者に対して大きな不快を感じ、迷いなく報復することができる、なんと幸せなことなのか。不快をけして溜めない能力をもっているのだ。この様な人は、必ず不快を社会的に正当なことで中和できるのだ。けして犯罪者にならないでいられる。強い不快にも襲われることもなく、小さな不快を溜め込み、なんとなく生きていて、我慢だけして、何も成果を出せないでいる人に比べてなんと幸せなことか。彼らは、ただ本能に従い怒り、本能の赴くままに仕事に専念する。怒ることに対して、何の迷いもない。酒によっているかのように言いたいことを言える。なんと野生的で有能な者なのだろうか。
第八節 誰かを悪者にする
我々は誰かを悪者にしたがる。それは我々の不快をまぎらわすために悪者が必用だからである。悪者に悪口を言うことや、制裁を加えることや、ときにはいじめることは、公認されることであるから、思う存分できるのである。警察などでは、犯人がいなければ仕事がかたづかないで困る。だから、無実の者が犯罪者にでっち上げられてしまうことが世界中で起こっている。組織などでは損害を蒙ったとき、その原因となった者を探す。そして、強引に誰かを、あるいはあるグループを悪者にしてしまうものだ。ある者のせいでこんなことになったとして、悪口をいう――これがまた快感なのである――、制裁を加えるなどするのである。これらの行為で我々の不快は一時的に中和される。悪者となるものは誰でもよい。誰でもいいから早く悪者を確定してしまいたい。何かがうまくいっていないとき、我々の不快をいやすためには、その原因をなすりつける犠牲者が必ず必要となるわけだ。我々はその原因にするのにふさわしい者を見つけたとき、今までの不快は清涼感に入れ替わる。ここで前出のニーチェ「人間的な、あまりに人間的な」より、関連した部分を引用する。
*不機嫌の放出――何かに失敗した人間は、その不成功の原因を偶然によりは他人の悪い意志にもっていきたがる。彼の苛立った(いらだった)感情は、一つの事柄ではなく一人の人物を自分の不成功の原因と考えることによって和げられる。なぜなら、人物ならば復讐できるが、偶然の不正はのみ込まねばならないからである。それゆえ、王侯が何かに失敗したときには、その側近は誰か個人をみせかけの原因として王侯に告げ、彼を全廷臣の利益のために犠牲にするのがつねである。さもないと、王侯もまさかの運命の女神そのものに復讐することはできないので、彼の不機嫌は廷臣すべてに向かって放出されるであろう。
これはいじめと同じだ。不快をいやすには誰かを苦悩させなくてはならないというわけだ。いじめられる者は不快をかきたてるような醜く、憎たらしく、さらに弱い必要があり、魅力的であってはいけない。我々は不快をいやすために、おぞましいものを求めたり、不快をかきたてる者を求めたりする。愛するものと憎むべきもの、我々には両方が必要なのである。
組織の内部においても、にらみ合い、けんか、いじめと、いろいろな戦い、攻撃が行なわれているものである。相手を攻撃する者は、その組織での成功者である。組織の中での成功者は、前記のように他の人より価値意識が強い者だ。彼らは、回りのものをなんとなく見ることはなく、常にそれらの価値の明暗を強く感じてしまう。価値の低い者や価値の低い事――これは彼の解釈であって実際にはそうでないことが多い――を見たとき、彼は強く不快を感じる。そして、その不快をいやすために、彼はその者、その事に係わった者を悪者にし、攻撃するわけである。
第九節 我々の不快中和のためのおぞましい行為
我々は、不快をまぎらわすために、下劣なもの、いやらしいもの、汚いもの、醜いもの、憎たらしいものを必要とすることもある。ヒトラーは自分の不快を、ユダヤ人をいじめることによりまぎらわせようとしたのだ。彼は、ユダヤ人の陰謀がドイツを滅ぼすと言って、まず、ユダヤ人を憎むべき悪者にしておいてから、彼らを思う存分に虐待することに専念し、うさばらしをしたのであった。前記のニーチェの表現を借りれば、彼が快活に生きるためには、ユダヤ人のようなものが清涼剤として必要だったのだ。まことに不道徳的ながら、弱い者、まぬけな者、不幸な者、かたわな者などを見ることで、我々はうさばらしをすることができる。「ノートルダムのせむし男」という映画の中では、次のような台詞がある。『人は醜いものにひるみ、そしてそれを観たい。それには悪魔の魅力がある。我々は恐怖から快楽を引き出す』。
誰もが、火事、交通事故、不幸なニュースなどに引かれ、昔なら、かたわ者の見世物や残忍な公開死刑などをいそいそと見に行ったではないか。そういうひどいものを見ることによって、うっとうしい不快から一時的に逃げることができるのである。我々は、下劣な者や他人の没落を見ることにより、自分の優越を感じるということはよく言われるのだが、それだけではなく、それ自体を清涼剤として楽しむのである。人を次々に殺して切り刻む殺人鬼も、その延長上にあることは確かだ。彼はその行為により、彼の不快を中和しようとしているのである。
その他にも、我々は誰でも不快を中和するために驚くべき行為をしている。しかし、それを公表することはあまりしない。これらはけして他人には言えないもので、秘かに実行されているものだ。それは、生物の中でもおそらく人間だけがもつ、人間が人間であるがための最も根底にある重要な要素であり、我々の中の最も不道徳的な本能である残忍性と同列である重要な本能である。しかし、それらは、誰もがそれを口にすることすらためらうようなものである。
我々は良い臭いにも快を感じるが、くさいというしかないような臭いにも、ある状態のとき快を感じることがある。普段はそのくささは不快であるのに、あるときには、それがある不快を中和する働きをもつのだ。毒は毒で制する、ということだ。誰もが自分の陰部や便の臭いなどを嗅いで快を感じたことがあるだろう。私はこのことを、幼年時代にいく人かの友達からきいたことがある。小学校二年生くらいの時、私の組の中の友人は、授業中にズボンのポケットの穴から自分の性器をいじりその手の臭いを嗅いだり、それを他人のノートになすりつけたりしていた。それで、彼はある不快をまぎらわしているのだろう。また、私が一八才くらいのとき、ある人から小さいときよく自分の便の臭いを嗅いで快感を得たということを聞いたことがある。
性的な欲求による不快に対しても、人間の汚くいやらしい部分によりいやされるものだ。陰部をなめたり、臭いを嗅いだりして不快をいやすのである。それはけしてよい味やよい臭いではない。しかし、我々がある状態のときには、こたえられないものとなって我々を魅了するのである。納豆は見るからにおぞましく、腐っているかのような外観と臭いをもつが、食べ慣れていればたいそうおいしいものだ。これは日本人にとっては食欲という不快を中和してくれる大事なものなのである。
しかし、このような行為は、秘かに行われなければいけないもので、けして他人に見られたり、知られたりしたらまずいものなのだ。それは、全て不道徳的なものであり、社会的に禁止されているものなのである。性交はその中の代表的なものだが、常に秘かにやらなければならないもので、人間にとって必用なものであるのにもかかわらず、その乱用は、いつの時代にも不道徳なものに見られている。前出のアーサー・ブロック「マーフィーの法則」には次のようにある。『この世の良いものは、法律で禁じられているか、不道徳であるか、食べて太る』。
ある夏のオリンピックの女子マラソンで、先頭集団にいたある選手が、給水の後にそれを吐いて棄権してしまった。私はその選手が吐いた映像を見て、言いがたいことであり、まことに不道徳ながらエロティックなものを感じ、妙に興奮したのを覚えている。これは私が変質者であるということではなく、生物の中で人間だけがもつと思われるエロティックな感情なのである。
エロティックな感情と行為――サディズム、マゾヒズムも含めて――は、我々のある不快を中和するシステムなのである。それが生殖のためであろうと何であろうと、我々はそんな目的を考えて行動しているのではなく、ただある衝動に押されて半ば無意識的に行動してしまうのである。フランスのバタイユは、彼の著書「エロティシズム」(酒井健訳、筑摩書房)の中で、『エロティシズムとは、禁止を侵犯することである』と言っている。つまり、禁止されていることを侵犯することにより、何か(エロティックな欲求による不快の中和)が得られるのである。我々の体――精神ではなく! ――が求めてやまないものは、その多くが社会的に禁止されていると言える。それはいつも我々を最も強力にコントロールしているのであり、それに対処するための行為はたいてい不道徳とされているので秘かにやられるのである。しかし、これらの行為への欲求は、我々の最も根底にあるもので、けして抑えることができないものであり、まして教育などで取り除くことはできないものなのだ。それは、わいせつな事件がけして絶えることがないことからもわかる。わいせつな事件は太古から現代まで変わらない量で――きわめて多量と言えるだろう――続いているではないか。
第一〇節 不快を溜め込むことの恐ろしさ
一九八九年二月一四日、イランの最高指導者であったシーア派(既存の支配勢力に批判的、その反対がスンニ派)で原理主義(イスラムの規範からはずれているものを排除・抹殺しようとする――それは、イスラム世界の衰退をイスラムの教えに立ち戻ることにより阻止しようとする「イスラム主義」の行き詰まりより生まれた。つまり、イスラムからはみ出たものを元に戻そうとするのではなく、切り取ってしまう、つまり暗殺してしまうのである)のアーヤトッラ・ホメイニという人が、イギリスの作家サルマン・ルシュディ(当時はインド系イギリス国籍)の書いた「悪魔の詩」という本の中に、イスラムを冒涜する部分があるということで怒り、彼と発行・翻訳に関わった者たちに死刑宣告をした。イギリス警察は彼を保護した。イランの財団は、暗殺の実行者に懸賞金(数億円)を払うことを提示した。日本では、この本を翻訳した筑波大学助教授が一九九一年七月一一日に、大学構内で首を切られて殺されてしまった。他国でも翻訳者や関係者が殺されたり、重症を負わされたりした。
このように、ムスリム(イスラム教徒のこと)は過激な行動をする。ムスリムは東南アジアにも多くいて、彼らも中東の人たちと同じく、イスラムへの冒涜に対して過激な行動を示す。だから、この怒りの大きさと過激さはムスリムの特徴であり、人種の問題ではないと言える。
二〇〇六年二月九日の読売新聞で、次のようなニュースが報じられた。デンマークのラスムセン首相が「世界的危機」と表現するほどの事態になってしまったのである。発端は、デンマークの保守系有力紙で発行部数約一五万の「ユランズ・ポステン」が、昨年九月三〇日付けの週末文化面で、ムハンマドの風刺漫画一二枚を掲載したことだった。漫画に添えられた「表現の自由」と題した同誌文化部長の著名記事は、ムハンマドの生涯に関する絵本を作る際に、実名で絵を描く画家が見つからなかったことが、企画のきっかけだと説明。芸術関係者の間で、イスラムに関する「自己検閲」が働いていることに疑問を呈した(著者注:つまり、彼はイスラムへの批判や嘲笑に対して、多くの者に自己検閲が働いていることに対して不快を感じた。そして、そのいらいらをまぎらわすために、冒険をしてしまったわけである。また、彼は平和であり、それに退屈していたのであった。そこで、冒険をやってみたくなったのである)。同誌はこうした問題意識をもって、デンマークの四〇人の風刺漫画家に、「ムハンマドをどう見るか」を描くように依頼し、うち一二人が応じた。絵の中には、ターバンの中に爆弾を入れた姿もあった。直後から中東諸国が、風刺漫画を「イスラムに対する誹謗」と抗議。今年(二〇〇六年)に入り、欧州各国の新聞が漫画を転載したことからイスラム教徒による抗議行動が始まった。「表現の自由」という価値観も問い直されている。イスラム諸国のボイコットで、乳製品のメーカーのアルラー社だけで、すでに八〇〇〇~九〇〇〇万ドル規模の損害が発生した。レバノンではデンマーク領事館放火、シリアではデンマーク、ノルウェー大使館放火、駐デンマーク大使召還、イランでは駐デンマーク大使召還、オーストリア大使館前で抗議デモ、デンマークとの通商禁止発表、リビアでは駐デンマーク大使召還、パレスチナ自治区では武装グループがドイツ人男性を一時拘束、欧州連合事務所に侵入、謝罪要求、アフガニスタンでは米軍駐留基地付近でデモ、一〇人射殺、バングラデッシュではイタリア大使館に向かう抗議デモを警察が阻止、タイではデンマーク国旗を燃やして抗議、ヨルダンでは漫画転載の週刊誌を回収、編集局長解任、ソマリアでは抗議デモが暴徒化、少年射殺、サウジアラビアでは駐デンマーク大使召還、イエメンでは漫画を転載した週刊誌を発禁処分、編集局長に逮捕状、フィリピンではデンマーク国旗を燃やして抗議、インドネシアではデンマーク大使館入居ビルまえで講義デモ、デンマーク領事館に突入図り、警官三人負傷。朝日新聞によると、この一二人の漫画家は脅迫を受け、生命の危険を感じており、二四時間体制で護衛されているそうだ。また、東南アジアのイスラム教徒の多い国では、デンマーク人に対して退去するように勧告しているそうである。
あの恐るべき九.一一同時多発テロを指揮したとされるオサマ・ビン・ラディンの怒りは大きく、世界はそれを思い知った。彼は裕福な家の生まれだそうだから、貧困のみがこのような行動の条件ではないと言える。この原因はイスラムにあると思う。信仰心の厚い彼らは、日頃は貞淑である。しかし自分たち、とりわけイスラムが冒涜されたと判断したとき、その怒りは特別大きい。凶悪な犯罪者が、日頃は静かで良い人に見える場合が多いのと同じである。彼らはいつも外観的には貞淑にしている。しかしこの宗教は、彼らの《心の中の怪物》までは手なずけられなかったのだ。我々人間のうさばらしの多く(酒も豚肉も)を悪徳として禁止され、しかも熱心に信仰しているのに一向に報われず貧しい者が多いムスリム(二〇世紀、二一世紀において、そしてたぶん永遠に?)、欧米やアジア諸国にもどんどん差をつけられてしまっていらいらしている彼らには、不幸な人生を強いられた結果凶悪な犯罪者と成り果てるしかなかった者と同じに、必ずや不快が溜まりそのはけぐちを求めているはずだ――恵まれた者は、悪口を言われても大きな怒りに襲われることはない。不快は中和しない限り溜まっていく。だから、彼らはいつも貞淑でありながらむかむかしているのである。しかし、ひたすら抑えている。
こうした彼らにとって、前記のショーペンハウアーの引用文と同じで、「敵を憎む、敵を攻撃する、敵を苦悩させる」ことは、数少ない貴重なうさばらし(別名快楽)の機会となるのであって、そのとき、いつもこらえていた憤懣をここぞとばかりに爆発させるのである(後述のように、ムスリムはサッカーの試合などの観戦でも過激だ)。彼らは、イスラムが冒涜されたから怒るのではない、その前から怒っているのである。だから、敵としてよいものが現れ、それに対する報復がイスラムによって公認されたとき、彼らは怒るよりむしろ喜びに近い感情に襲われる。彼らは、それらを不快の中和手段としてうまく利用するのである。その敵を憎むことによる清涼感をまず味わえる。その敵を攻撃する大義名分ができたとき、攻撃的行為がイスラムの指導者によって承認されたとき(たとえばジハードとして)、溜まりに溜まった彼らの不快を激しく破裂させることができるのである。彼らの怒りをぶつけてもよいと公認された敵に対して、互いに呼びかけあい、報復を誓い――これは実に気持ちがいいものなのだ――、執念深く狂ったように攻撃を仕掛けるのだ。これは、彼らにとってめったにない、彼らを日頃は抑圧している宗教によって公認された気持の良いうさばらしの機会、言わばフェスティバルとなるのである。イスラムというきわめて禁欲的な戒律をもつ宗教で抑圧された彼らには、このような機会でもないかぎり、思いっきりうさばらしをすることなどできないのだ。だから、彼らは執拗に相手をののしり、執念深く攻撃するのであり、これは生理的に見てまったく正常な行為なのであり、決して異常でわけのわからない行為ではない。彼らは、イスラムの指導者によって残虐行為(聖戦、ジハード)が承認されることによって、普段は厳しく禁じられているが本能は欲している残忍な行動を、のどが渇いた者が水を飲むように、たまった不快を中和するためにたやすく実行してしまうのである――しかしここで、同じような厳しい宗教の戒律(律法)で縛られていて、二〇〇〇年以上迫害され続けたユダヤ人が、このようなテロ活動をすることが少ないということが、疑問になるのであるが。
イスラム世界では、ムスリムに日頃はあらゆるうさばらし的な行為を抑制させているが、たまに敵を見つけ出し、あるいは作り出し攻撃させることで、彼らに溜まった不快を一時的に中和させるのである。これは、前記のショーペンハウアーの引用文にあるように、昔、ローマ帝国において、市民を退屈させて危険な状態にしないようにするために、残酷な見せ物を催したのと同じだ。彼らは、貞淑に生きる中で溜まる不快に対処するために、暴力を振るう機会をイスラムの名の下に生み出さねばならなかったのである。
テロ、正確に言うとテロルとは何であろうか。広辞苑には「政治目的のために、暴力あるいはその脅威に訴える傾向」とある。また、LONGMAN英英辞典には「政治的な要求を得るために爆弾、射撃、誘拐といったような暴力を使うこと」とある。しかし、その本質はそうではないのだ。二〇〇五年現在、ロンドンの地下鉄での自爆テロ、イラク・アフガニスタンにおいて、イスラエルーパレスチナ紛争において、テロは盛んに行われている。これらが本当に、政治的な目的なのだろうか。自分たちの国がうまくいっていないことに対する不快、相手国に比較して自国が貧しいことへの不快、相手国が自国へ害を及ぼしているという推測による不快というのではなく、単に《自分自身の不快》をまぎらわせたいだけなのではないだろうか。自分たちの不快の原因とはまったく関係のない者への暴力は、政治的と言えるだろうか。これは、家族への暴力と同じで、ただ自分の、個人的なうさをはらしているだけではないだろうか。適当に選ばれ、こじつけられた者を悪者にでっちあげて、適当な理由をつけてうさをはらしているだけだ。それはやればやるほど――連続殺人や家庭内暴力のように――エスカレートしていくのだ。酒もタバコも麻薬も一度手を付けるとやめられなくなる。不快は一時的にしか中和できないのである。テロは、ただ自分の個人的な不快をまぎらわせようとしているだけなのに、もっともらしい政治的な理由をとってつけて、恰好よくみせているのである。攻撃される者は、彼らの不快とは何の関係もないばかりでなく、自分と同じ側にいる者だったりする。誰でもいいのだ、やりやすい者と場所が選ばれ攻撃される。気の弱い者が敵ではなく、家族に攻撃するのとまったく同じだ。それは自分でもいいと言ってもいい。誰にも復讐できない場合、怒り狂っている者は自分に襲いかかることもあるのだ。これらに関連した、二〇〇六年六月二二日の朝日新聞における松本仁一氏の記事を次に引用してみる。
*外国人を拉致してはビデオカメラの前で殺害する――。イラクでテロ活動を続けてきた「イラク・アルカイダ機構」のアブムサブ・ザルカウィ容疑者が七日、米軍の爆撃で殺された。米軍は指紋や入れ墨などから本人と確認したと発表、組織の側も死亡を認めた。二〇〇四年五月以来、日本人旅行者香田証生さん殺害にも関与するなど多くのテロ事件を指揮してきた男は、最後には仲間に密告されたと伝えられる。ザルカウィ容疑者の異様さは、組織の指揮者である彼自身が刃物を握り、犠牲者ののどをかき切っていたことである。その場面はビデオで撮影され、メディアに送りつけられた。知人の心理学者は「人を殺すことで快楽を得る、典型的な異常性格者」と見る。平常の社会では存在できないような犯罪者が、単なる殺人行為に大義名分をくっつけ、二年にわたって多くの人を殺してきたのである。かつて「カルロス」と呼ばれる国際テロリストがいた。本名イリッチ・ラミレス・サンチェス。ベネズエラ生まれだが七〇年代にパレスチナ解放組織に加わり、ドイツ赤軍や日本赤軍とともに多くのテロ事件にかかわった。一九九四年、潜伏中のスーダンで捕まるまで、八三人を殺したとされる。・・・彼を取材した作家フレデリック・フォーサイス氏は、彼の革命は隠れみので、「無力な人間を襲って殺人行為を楽しんだ異常性格者」と評している。ザルカウィ容疑者と同じではないか。異常性格の殺人嗜好者が政治的なイデオロギーに隠れて人を殺しつづけ、一部の人々から英雄として喝采を浴びるのである。
この記事は、テロは殺人嗜好というある種の欲求不満者たちの不快中和手段にすぎなかった、ということ明快に言っているのである。前出のニーチェ「道徳の系譜」には『相手を苦悩させることは第一級の快楽である』とある。彼らは、人を苦しめることにより快活さを得ていたわけである。後述するように、テロに限らず人間のあらゆる行動は,全て利己的なものから出てくるものなのである。
サッカーのワールドカップの予選だと思ったが、イランでイラン対北朝鮮の試合が行われたときのことだ。イランの観客は北朝鮮の選手に石、食い物を投げつけている。投げるものがなくなると、床のコンクリートを砕いて投げつける。さらには、爆発物まで投げつけたそうだ。
このように、ムスリムは特別過激な行動をする傾向がある。ムスリムが過激に変身していくのは、前記のようにイスラムの戒律が厳しいからではないだろうか。静かでおとなしい人ほど怒ったときは激しいものだ。彼らは不快の中和手段の多くを、イスラムによって禁止されている。そのため不快の量は、ムスリム以外の者と比べてはるかに大きくなる。それが、何かのきっかけで破裂してしまうのである。これは後述するが、社会的に成功している者が、驚くほどわいせつなことをやってしまって捕まるのも、日頃、何かを抑圧していることからきているのだ。社会的にうまくいっているので、彼らは良い子でいなければならない。だから常に周囲に気を使い、「恥ずかしい生理的欲求」を抑圧していなければならないのである。それが溜まりに溜まって、いつか破裂するわけである。
全ての宗教は誰かによって作られたことは確かである。しかし、キリスト教でいえば神をナザレのイエスが、イスラムでいえばアッラーを預言者ムハンマドが仲介した(これが神託を告げる預言者の仕事だ)、というのが彼らの言い分だ。どの宗教も自分たちの《発見した》神が唯一のものだと主張している。つまり、絶対的に一つしかないものがいくつかあることになる。これはおかしい話だ。では、イスラムは信者を幸福にするというならば、二〇〇五年現在、これを信仰する民族の間でどうして激しく争いが起こっているのだろうか。彼らはそれを欧米のせいにしている。しかしこれは、前記のように、不快があると誰か他の者を悪者にしたくなる、という我々の性質からくるものだ。どうしてそれだけ多くの人(イスラムは二〇〇五年現在一〇億人以上の信者がいるそうだ)が信仰する確固たる宗教が、信者を幸福にできないのだろうか。自分たちの軽蔑するキリスト教の者どもより貧しくなくてはいけないのだろうか。彼らを不幸にしているのは、実はイスラムという宗教自体なのではないだろうか。彼らが敬愛する神、アッラーは、信者があれだけ信仰に身をささげているのに、どうして、全員を幸福にしてやらないのだろうか。どうして、多くのテロリストを生み出さなければならないのだろうか。ムスリムは、どうしてイスラム自体を疑わないのだろうか。これは、多くの宗教に言えることである。人を救うどころか、宗教は人殺し(カトリック、プロテスタント教会での異端審問、魔女狩り、宗教戦争)、戦争、テロの原因にもなっている始末だ。確かに宗教は、我々の凶暴で危険な本能を抑えつけ、平和な世界を実現する良い手段ではある。しかし、抑えられたものはけしてなくならない。抑えつけられて溜まった欲求不満は、いつかは破裂するのである。いつかは良くなる、と宗教は言う――ではいつまで待てばいいのか、信者にはけっして到達できない彼方をいつも問題にして、信者をはぐらかしているように見えるのである。
第一一節 退屈について
前出のショーペンハウアー「意志と表象としての世界」より引用してみよう。
*人間の人生は、だからまるで振り子のように、苦悩と退屈の間を往ったり来たりして揺れている。じつをいえば苦悩退屈の双方は、この人生を究極的に構成している二つの部分である。きわめて奇妙な話であるが、今まで述べてきたことというのは、もしも人間がありとあらゆる苦悩や苦悶(くもん)を地獄に追い払ってしまったら、その後で天国のために残っているものは退屈だけしかないという事実によってきっぱり言い表せるに違いない。・・・ところがまたもや他面において、困窮や苦悩からのしばしの休息が人間に恵まれるようなことが起こると、こんどはたちまち退屈がまじかに迫ってきて、人間はいやでもおうでも暇つぶしを必要とするようになってくるということである。いっさいの生あるものを駆り立てて動かし続けているものは、生存への努力であろう。ところがいったん生存が確保されてしまうと、彼らはこの先どうしたらよいのかがわからなくなってしまうのだ。そのため彼らを動かす第二のものは、今度は生存の重荷から逃れだして、それをもう感じないようにしようという新しい努力となるのであり、「時間をつぶす」こと、すなわち退屈から逃れようとする努力となるのである。
つまり我々にいまわかってきているのは次のようなことだ。困窮も心労もなく安全に守られているほとんど全ての人々は、いっさいの余計な重荷を払いのけるに至ったかと思っていると、こんどはたちまち自分自身が重荷として感じられてくるということである。それで、これまで彼らは人生をできるだけ長く維持しようと全力を傾けてきたはずだというのに、こんどはほかならぬその人生をけずり取るようなことを、そのつど、すなわち浪費的に過ごしてきた一時間一時間を、儲けものだと思うようになってくるのである。
ところで退屈というのは、みくびってもかまわないような害悪ではまったくないのであって、退屈がつづいていくとしまいには容貌にまでも正真正銘の絶望の面影がきざしはじめるようになるであろう。お互いにほとんど愛し合ってもいない人間のような存在が、それなのにあれほど熱心にお互いに相手を求め合っているというのも退屈のせいなのであり、そこで退屈こそが社交の源泉だというようなことにもなってくるのである。だからまた退屈をふせぐためには、どこの国でもほかの一般的災難を防ぐのと同じように公の防止策が講じられているのであって、これは国策からおこなわれることでもあるのである。というのも、この退屈という害悪は、その反対の極である飢饉(ききん)と同じように人間をはなはだしい無法状態へと駆り立てかねないものだからである。民衆というものは「パンとサーカス」を必要とするのである。
このように、我々には安住の地がないものなのである。前記の中の『この退屈という害悪は、その反対の極である飢饉(ききん)と同じように人間をはなはだしい無法状態へと駆り立てかねないものだからである』という見方で二〇〇六年現在を見てみると興味深い。平和な状態では、かえって誰もがいらいらしていて、犯罪も多くなっていくのである。お金に困っているとき、家族の誰もが緊張し退屈という不快は襲ってこない。団結して問題を切り抜けようとしているときの気分は、「快感」と言ってもよいほどだ。しかし、裕福になると、たちまちこの「快感」はなくなり、退屈が家族をけんか、暴力に駆り立てていくものだ。我々は驚いたり、不安だったり、恐ろしかったり、緊張していたりしていないとすぐに退屈になってしまう。また、良いことでも、長く続くと退屈になってしまう。つねに、変化を求めているもので、冒険への欲求もこの本能に対処しているにすぎないのだ。
会社でも客が来なくて困っているときには、従業員は危機感により緊張し、一生懸命働き、客を呼ぶためのアイデアを考えるものだ。この状態は、彼らにとって苦悩であるが快感もそこにはあるのである。緊張感が我々をけして退屈させないようにしてくれるからだ。しかし、会社が順調になり、客に不自由しなくなるとさっそく退屈が襲ってくる。いままでありがたいと思っていた客がうるさく感じられ、態度も悪くなり、仕事もいいかげんになってくるものだ。誰もが仕事におもしろさを感じなくなり、だるく感じるようになり、やる気もなくなってくる。二〇〇三年頃に騒がれた、三菱関連の自動車メーカーの欠陥隠しは、このようなよい例なのである。その後、これらのメーカーは販売不振になり、従業員はこれをばんかいするために奮闘していくが、この気分は苦悩と快感が入り交ざっているものだ。我々は、危険なものや苦悩にさえも魅惑されることがある。それは、それらが我々の「退屈」という不快を一時的にも中和できる唯一の特効薬だからだ。本書ではたびたび言うが、サディズム・マゾヒズムはこれらの延長上にあるもので、けして不可解なものではない。それらは、相手を苦悩させることや、自分が苦悩することを欲している。いじめは相手を苦悩させることにより快楽することであるから、サディズムの家族であり、冒険は自分の余剰エネルギーを消費する(不快を中和する)ために自分を困難にさらし、苦悩させることであるから、マゾヒズムの家族である。我々には誰にも、その強度は人により差があるが、これらの本能があるものである。
我々は忙しいのも苦しいが、暇も苦しい。「治に居ては乱を欲し、乱に居ては治を欲す」という格言がある。平和は退屈、戦争はごめんということで安定点がない。政治家が不正をして見つかり議員を辞職するという事件は多い。なぜ彼らはそのようなことをやってしまったのか。それは、彼らがそのときそれをやらなければならない状態にあったからで、やったというのではなく、やらされてしまった、というのが正確な表現だろう。その状態の苦しさからくる衝動が、彼らにそれをさせたのだ。彼らがその職(議員)を得ようとしているとき、彼らにとって誠実な行動は実に自然で快適なものだった。しかし、議員になってしまうと、誠実な行動を《見せびらかす》必要がなくなってしまう。選挙運動しているときには、多くの人に票を入れてもらわなければ落選するという恐怖感によって、誠実な態度と行動という《演技》をすることが、実に楽にできたのであった。しかし、議員になってしまうとその気分はなくなり、今度は退屈が襲ってくるのである。そして、新たなる変化・冒険・戦いを彼の本能が求め始めてしまうのだ。そしてついに遊んでしまうのである。それは、わいせつなことであったり、わいろのたぐいであったりもする。行動・考え方はめちゃくちゃでいいかげんとなる。不正は一つの暇つぶし、不快の中和手段でもあったのだ。そして、それが見つかると、今度は後悔が始まるのだ。そしてまた、あの誠実だった頃の気分に戻るのである。オリンピックで優勝した選手が、その後やる気がなくなり、だめになってしまうことが多いのもこれと同じである。人生はこの繰り返しなのである。ニーチェはこの繰り返しを自然法則と見て、「等しきものへの永遠回帰」と呼んでいる。
我々は退屈であるとその苦しさのあまり、何らかの行動をしなければいられなくなる。退屈は、我々を実に不可解で驚くべき行動に駆り立てるのだ。やっと危険から逃れたと思うと、すぐに別な種類の危険が待ち受けているのである。退屈に対処する行動というものは、ものが食べたい、どこかがかゆい、呼吸が苦しいなどのときと同じで、どうにも我慢できなくなってやってしまうという種類のものであって、理性的なものが介入できるようなものではない。まるで、くすぐられているかのようにもがき苦しみ、また後ろから来る火の手に追われて、ついに高層建築の窓から飛び降りてしまう者のような衝動的な行動しかできなくなり、ほとんど考えず、まるで何者かに操られているかのように行動してしまう。我々は、これらの行動をやっているというよりは、むしろやらされていると言ったほうがふさわしい。
会社などにおいて口数が多い人がいる。これは、その者が退屈で苦しんでいることが現れているのである。退屈という不快を、しゃべるということで中和しようとしているのだ。その逆に、忙しい人はあまりしゃべらないものだ。これは忙しくてしゃべる余裕がないというのではなくして、忙しさのために、性的なものをはじめとするあらゆる不快が中和されているのであり、むしろ緊張感という快感に酔いしれているのである。また、自分で会社を興した頃には、いっしょうけんめい誠実にやっていた者が、全てがうまくいき、部下を指揮するだけの立場になると、退屈によるいやな不快が襲ってくるものだ。だからこそ今度は、部下をいじめ始めるのである。彼が会社を興した頃には、こんな不快はなかった。こんな不快にあえぐ会社の社長や役員が、業績の悪い店の店長を大勢の前でいじめる、という例は多い。余裕のでてきた彼らは、忙しく必死の者に比べてはるかに大きい不快にあえいでいるのである。さらに、このような成功者は、退屈しのぎのために不正をやりだすのである。これは金儲けのためというよりは、不快を中和するための本能的な行動、つまり冒険という意味があるのだ。忙しさによる不快に比べて、暇・退屈なことによる不快は、はるかに性質が悪いもので、前記のショーペンハウアーの引用文にあるように、貧困・困窮と同じくらいに犯罪をも生み出す温床になっているのである。
二〇〇六年には、小学校などでいじめによって自殺したという事件が多く報道された。これは教師や学生がいかにいらいらしているかが現れている。この原因は、受験のストレスなどいろいろあるだろうけれど、退屈がかなりの部分を占めていることは確かである。
第一二節 非利己的な行為は、偽装された我々の利己的行為である
我々はいつも何かに飢え不快にあえいでいる。希望や喜びでさえも不快の別な顔だ。そして、待ち得ない我々は、これらの不快をはやく中和しようと思っている。生命力や能力のある者ほどこの不快は大きいものだ。だから、健康な者や若い者はせっかち、つまり、待つことに大きな不快を感じる。良い行為も悪い行為も、全てはこの不快の中和のために行われると言ってよいだろう。たとえば名誉心や虚栄心、つまり、自分が優れていたいという欲求は一つの不快であり、これらの不快の中和のために、我々は実にいろいろな方法を生み出しているのである。
たとえばあらゆる非利己的に見える行為の中に、利己的な要素を見つけてみるとおもしろい。世の中に、純粋に非利己的な行為はない、ということだ。どのような自己犠牲的行為・親切な行為・無欲の行為・献身的な行為・優しい行為の中にも、利己的な動機をたやすく見つけることができるのである。たとえば私は車の運転中に、交差点でよく右折者に道を譲る。このときの私の心理について調べてみると、これは、私の優越への渇望(ニーチェに言わせれば、「力への意志」)という不快感のために起こす行動なのである。その場を取り仕切ったり、相手をリードしたりすることによって、私はわずかではあるが満足感(優越感)を得ることができるのであり、それを得たいがために、私はこのようなめんどくさいことをやらずにはいられなくなるのである。親切にするという行為は、「物が食べたい」などの欲求と同種の「優越したい」という欲求により、自分がそうしなくてはいられなくなったわけであって、けして相手のためにやったわけではないのであり、相手はただ利用されたにすぎない。非利己的な行為の正体は、我々のより高度な不快中和手段であると言える。それは、我々の醜い欲求による不快の中和を、遠回しでわかりにくい方法で行なうことにより、高貴で気高いものに見せかけ、優越感を得ようとしているのである。
どんな人間の非利己的な行為の中にも、我々の名誉心や虚栄心がもぐり込んでいるものだ。自己犠牲的な行為の中に、我々は自分の好みに合う甘い蜜(優越感)を見つけ出し、それを味わっているのだ。世の中に報酬なしの行為はないものだ。他人のために自分の利益を無視したように見える行為もよく見ると、我々の名誉心や虚栄心を満足させるための策略があることがわかる。我々はけして損することなく、ちゃんと自分の利益を得られるような策略を立てているのである。どのような自己犠牲的行為の中にも、必ずある策略があり、我々は見返りとして「優越感」という報酬を受け取るのである。それらの行為は、意識的にも無意識的にも、我々の優越することへの渇望、という不快を中和することを唯一の目的としているのである。我々にとっては、優越感は重要なものであって、それを得るがために我々は、実に驚くべき量の手間やお金をかけたり、危険なことをやったりするものなのである。後述のフロイトの意見によれば、この名誉心的願望か性的な願望のために、我々は空想に駆り立てられるのである。
恐れながら勇気をもって言うのであるが、ユーゴスラヴィア生まれの聖女マザー=テレサ(カルカッタのテレサ、一九一〇年生まれ)の聖なる大規模な活動においても、同じことが言えるのである。テレサの活動があれだけ大きな規模になったのも、彼女の不快が並外れて大きなものであったということだ。彼女は、あの献身的な活動の中から、何か利己的なものを、たぶん無意識のうちに得ようとしていたことは確かなのである。
第一三節 退屈者の不快の中和例
ニュースではたびたび、わいせつな事件が報じられる。特に、大学教授・高校教諭・警察官・医者・議員・公務員などの安定している職業の例が多い。安定していることによる退屈という不快を、仕事や趣味などの社会的に正当な方向で中和できない凡人は、性的なものや悪事の方向に進むしかなくなる。二〇〇五年頃に報じられたこれら、社会的にめぐまれた凡人のしでかした事件は、大学教授による手鏡によるスカート内ののぞき、高校教諭による女子高生のパンツ剥ぎ取り、デジカメによるスカートの中の撮影、社会保険庁の職員による女性下着の窃盗、国会議員による女性のバストさわりなどである。特に、前記の大学教授はよくTVにでてくる有名な人であったため、誰もが驚いた。家宅捜索により、二〇本のわいせつなビデオテープが発見されてしまった。ビデオテープを楽しむくらいにしておけばよかったのだ。しかし、これらの欲望は、酒・タバコ・麻薬におけるのと同じように、やるほどに量が増えていくのだ。ついに、彼は、増大する欲望に無意識的に押し出されてしまったのだ。女性の下着の洗濯物でも、ただ見ているだけでは何も起こらない。しかし、盗んだりすればりっぱな犯罪となる。一歩手前で踏みとどまっているのと、それを少しでも踏み出してしまうのでは、天と地ほどの違いになってしまう。
前記の大学教授は、いままでエリートコースを歩んできたのだろう。たぶん、苦労をあまりしなかった彼は、この一線を越えることがどういうことになるか、という問題の重要度は上位にはなかったのだ。退屈による不快の中和への願望が、理性的な判断に勝ってしまった。すべてが順調だった彼は、それがためにかえって退屈していた。もし、仕事がうまくいっていなかったり、家族が病気だったりしていれば、彼はこのようなことをする気にはまったくならなかったであろう。たとえば家族を殺された者は、自分の娯楽への欲求や、まして性的な欲求などは消えうせてしまうのである――これは、このような経験のある者しかわからないだろう。心配事が退屈を許さないからであり、もっと正確に言えば、心配事――これは冒険とまったく等価である! ――がある種の不快を中和してくれるのである。
教授になる前の彼は、不安で忙しく、退屈するどころではなかったろう。この状態は良い状態である。加速状態にある体は退屈感が少なく、むしろ快感といってもいい状態なのである。忙しさは、我々の最もやっかいで耐え難い退屈という不快から、我々を遠ざけてくれる。しかし、教授になり、TVにも出演するようになって、安定な生活が手に入ると、たちまち退屈という不快に襲われるようになった。こういう時、我々に最も早く忍び寄ってきて、強力に誘惑するものは性的な欲望だ。この不快による苦しさは、彼が今までに経験したことのないものであった。人生に余裕がでてきて、何も邪魔の入らなくなった彼は、いよいよ強くなる自分にはコントロール不可能な体の要求を抑えられなくなった。彼はやったというより、やらされたのであった。今や、彼はわいせつなことにとことん専念できるだけの精神的・社会的な余裕がある。今までにたいした挫折も経験したこともないだろう彼は、怖いもの知らずで、犯罪者となる恐ろしさをまだ知らない者が気楽に万引きをやってしまう――これは万引きの一つの動機であって、裕福で退屈しているような奥様が退屈しのぎの冒険としてやってしまうものなのである――ような《健康さ》で、わいせつというワクワクするような冒険に全力で専念できた。今まで彼を拘束していたもの――それが、かえって彼を楽にしていた――が取り払われてしまうと、もっと苦しい状態となってしまったのである。たいていの人は、彼のわいせつな行動に驚くであろうが、驚くべきものは彼の性欲のすさまじさだ。何もかもうまくいっている状態は、最も危険な状態でもあるものだ。幸福な時には、危険な誘惑にだまされやすいものだ。苦労してやっと安住を手に入れたと思うと、そのままでいることを許さないものが出てくるもので、安住の地はないということだ。
二〇〇六年一二月に、また、彼は痴漢行為で捕まった。電車の中で女性の足とおしりを触ったというものだ。事務所に連れて行かれたときには、彼は家族に申し訳ないということで、ネクタイで自殺しようとしたそうだ。彼には、どうしても抑えられない衝動が襲ってくるのだ。その衝動は彼が作り出すわけではない、衝動がどこかからかってに訪れるのである。彼自身も困ってしまっているのであり、彼には責任はないのである。私は自信をもって度々言うのだが、彼はやったというのではなく、やらされてしまったのである。この考え方が、本書における最も重要な考え方なのである。
二〇〇五年三月には、ある国会議員が飲み屋から酔って出てきて、歩いていた女性に抱きついてバストを触ったという事件があった。彼はトップ当選した一年生国会議員だ。この頃彼には、当選の喜びが去って退屈が忍び寄ってきていたのだろう。まだ、国会議員になる準備をしていた頃には、こんなことはまずしなかったろう。しかし、事がうまくいってしまい、当面差し迫った問題を見つけられない凡人には退屈が襲ってくる。国会議員を目指している頃の加速状態の快感の炎は、全て鎮火してしまった。彼の才能はそこまでだったというわけだ――ここが異才変人である小泉総理大臣と違うところだ。性的な欲望は誰にもある。しかし、それ以外のものへの専念により、うまくかわすことができる。
解決を迫られた期限付きの問題を発見でき、それは重大で解決しなければいけないと判断でき、それを楽しく、また忙しく解決することに専念できるという才能は、我々に何をさせるかわからない退屈という危険なものから、我々を守ってくれるのである。もしそういう才能がない場合、退屈が襲ってきて、どこからか悪い行為の指令が到来する。よいアイデアがどこからか到来するのと同じように――それは自分の意識の中に起源がない――その悪い行為の要求はどこからか到来するのだ。当人は、ただそれに従うだけといってもいい。こういう観点で見ると、当人も被害者であることは確かなのである。
二〇〇五年三月には、ある都立病院の医師が、女性患者の裸の写真を収集していたという事件が報じられた。パソコンを調べたらそれが出てきたという。彼はたぶん仕事も惰性になり、退屈な毎日を送り、苦しんでいたのではないかと思う。問題意識をもっているわけでもなく、没頭できる趣味もなく、ただなんとなく医者になり、なんとなく生きているだけだったのではないかと思う。この退屈による不快は、性的なものを要求するようになる。職業柄それはたやすいところにあった。彼は苦しくなって、ついに呼吸してはいけないところで呼吸してしまったというわけだ。
二〇〇五年八月に報じられたニュースによれば、役所勤務の二〇代の男性が一〇代の女性を殺した容疑で取り調べられているというものだ。彼は大学を出て、四年間かけてやっと公務員になったそうだ。公務員になるために活動していた不安だった頃、彼はこんなことを考えたこともないだろう。考えていても、それを実行しようとは思わなかったはずだ。不安と忙しさは、我々をけして退屈にしない。しかし、運よく公務員になれてしまい安心すると、今度は退屈に苦しめられることになり、性欲という性質の悪い欲求が忍び寄ってきた。仕事も緊張を感じられない単調なものであったのだろう。仕事にも熱中できず、熱中できる健康的な趣味などももっていない彼は、性的なものに進むしかなかったというわけだ。
二〇〇五年九月には、四二歳の巡査部長が当直の日に、自動販売機から一八〇〇円を盗んで、六ヶ月の停職になり、その後依願退職をしたという事件が報じられた。ある種の万引きと同じように、この事件も金が目的というのではなくて、退屈をまぎらわすのが目的なのである。彼は単調で平和な生活に退屈していた。変化や冒険を求めていたのである。ゲーム感覚であり、ちょっとしたうさばらしだったのだ。しかし、結果は恐ろしいことになってしまった。
二〇〇五年九月には、シャープ(株)の社員(課長)が通勤の途中で、自分のフン尿をペットボトルに入れ、それを女性に投げつけた、という事件が報じられた。彼は日頃はきわめて静かで、常識的な人であり、没頭できる趣味などはなかったのではないかと思う。しかし、それだからこそ不快は溜まっていくばかりであった。そして、それを抜かなくてはならないところまできていたのであったのであろう。
二〇〇五年四月に起こったJR西日本福知山線での脱線事故は、一〇〇名以上の死者を出した。運転手が、無理なダイヤ通りに運行しなければ処罰されてしまうことを恐れて、スピードを上げすぎてカーブに進入してしまったため、脱線してしまったのだ。
JR西日本では、運行の遅れをまねいた運転手に、罰則を設けているそうだ。日勤教育という名目で、社内規則や反省文を書かせたりするそうだ。何日も続けられるので自殺してしまう者も出ている。上司が一時間ごとに課題を出して、それに対して書かせる。安全対策と、ほとんど関係ないと思われる作業が延々と続けられる。「この次に、このようなことをしたら、会社を辞めます」ということも書かせられる、そう書かないと、次の仕事につかせてもらえない。たった五〇秒遅れたために、日勤教育となり自殺してしまった者がいるそうだ。
これらは、テロ活動と同じで単なる残忍行為であり、つまり、いじめなのである。では、どうしてこんなに部下を虐待するのであろうか。昔の国鉄の時代にはこのようなことは、まずなかったろう。会社が順調で余裕があって管理者が意地悪でないとき、客に対してはぞんざいになり――昔の国鉄は客に対して態度が悪かった――、従業員はだらけてくるが、組織内のいじめはあまり起きない。しかし、会社の経営がぎりぎりで、競合他社と競っていて、管理職にいらいらが溜まってくると、その下の管理職には、そのしわよせがいき不快は大きなものになる。部下は、他社との戦い他に、上からも意地悪されるので、性質の悪い不快を味わうことになる。そして、その不快はその下の者をいじめることで中和される。そして、そのいじめられた者はまたその下の者をいじめる。あらゆる者が、強い性質の悪い不快を感じるようになる。トップがろくでもないと、いじめが多くなるものだ――これは学校においても同じだ。誰もが緊張と不快で震えている。そして、自分がいじめることの可能な者を些細なことで悪者にし、外観上は処罰することに見せかけ、その者をいじめることでうさをはらすのだ。自分がもてなくなったものは、下のものに渡すのである。自分の不快は、誰かを苦悩させることにより中和しようとする。そして、それは酒・たばこ・麻薬と同じようにエスカレートしていく。次々に残忍ないじめの方法が考え出される。これは昔、死刑のために驚くべき残忍な方法が考え出されたのと同じだ。相手を困らせ、どうにもならなくしてしまうことの喜びにより、彼らはなんとかバランスをとらなければならないのである。ストレスの多い職場で生きぬくためには、誰かを犠牲にしなくてはならないということだ。人間とは――生物全般に言えることだが――、なんと恐ろしいものなのであろうか、実際には融和的なものは何一つとしてないのである。
二〇〇六年二月には、次のような事件が報じられた。「エリート医師の迷走」と題された事件だ。ある医師が、警察に妻が首を吊って自殺したと通報した。しかし、死んだ時刻と通報の時刻の間が長かったことと、首についた跡が首吊りではなく、首を手で絞められたことを示していたことから殺人と断定した。そして、彼は自供した。口論になり、かっとなって殺したそうだ。日頃は仲のいい夫婦だと近所の人は言っていた。しかし、このようなケースはよくある。これは不可解な事件ではなく、我々の日頃は隠された正体が顔を出しただけなのだ。「かわいさ余って憎さ百倍」ということだ。未知で不気味である我々は、いかに簡単に怪物になってしまうかがわかるだろう。日頃は「良い人」であった彼が、突然怪物に、殺人鬼に変身する。凶悪な犯罪者と普通の者の間には、それほど大きい隔たりはないのである。
彼はエリートだったのであろうから、全てがうまくいっていたのだろう。妻とも仲良くしていたらしい。だから、我々の危険なものについての自己体験がまったくなかったのだろう。そういう危険な状態になる可能性と、なったときの対処法についてまったく無知であったのだ。そして、女性というものをまったく正確に理解していなかった。女性は男性より劣るもの、不完全なもの、バカな者、男性につき従うものという間違った考え方を信仰していたのだろう。彼は、我々の中の醜いものについて、いままで全てが順調でいやな思いをしたことがないので、まったく予備知識をもっていなかったのであろう。
あるとき、彼と妻の間に、些細なことをきっかけに口論が始まった。たぶん彼女は、彼の信じている間違った女性像(女性は男性より劣っている)に沿わないことを言い張ったのだろう。彼は、彼の思ったようになっていない彼女の不可解な点や優れた点を見てしまった。わがままな彼は、その意外なこと、《自分の思った通りになっていないということ》――このことが、我々を最も怒らせる原因になるのである――による不快に耐え切れず、いままで紳士に偽装していた薄いメッキ・化粧をやぶり捨て、ついに彼の中の野獣の赴くままに怒り狂ってしまったのである。自分の敗北を感じ、それに耐えられなくなったのだ。その不快を、彼は暴力をもって中和しようとしたのであった。これは彼の意識がやったのではない。体がかってに、つまり無意識的にやってしまったのである。彼にも何が起こったのかがわかっていない。だからよくこのようなことをした者が言う、「何でこんなことをしてしまったのか、わからない」。これは本当のことなのだ。
二〇〇八年一一月二九日の読売新聞には、「家族と口論、放火」という題名で次のような驚くべき事件が報じられていた。記事を引用する。
*H容疑者は「暖房用の灯油を大量にまいて、ライターで火を付けた」と容疑を認め、動機について「家族と口論になり、腹が立った」などと供述している。
きっかけは、ささいな口げんか。捜査関係者によると、H容疑者は「翌日は出勤が早く、眠りたかったのにテレビの音や家族の声がうるさかった。注意したら子供たちに『そっちこそうるさい』などと“逆ギレ”され、大げんかになった」と話しているという。
その後、子供たちは二階の自室に戻ったが、腹の虫が治まらないH容疑者。
「二階の階段付近に灯油をまき、火を付けた。さらに一階の階段付近にも放火した」という。
異変に気付いた妻は、二階から飛び降りて脱出。H容疑者も衣服に火が付き、外に逃げ出したが、長女と長男は逃げ遅れ、二階の別々の部屋で遺体で見つかった。
近くの自営業男性は出火直後、燃え上がる家の前で「あんたバカじゃないの、子供が中にいるのに」とH容疑者に叫ぶ妻を目撃した。
H容疑者のことは、職場では「無断欠勤もなく、仕事ぶりもまじめ、穏やかな性格で、客の受けもよく、運転技術も社内で十本の指に入る」と評判だったらしい。このような性格の者、つまり社会的によい子、つまり《手軽な不快の中和手段》をもたずただ溜め込む者が、驚くべき過激な行動に誘導されてしまうのである。「そっちこそうるさい」と子供たちに反撃されたとき、彼は何もできなかった。ただただ不快を溜め込むだけだった。このとき怒鳴りつけるとか、殴ってしまうことができていれば、つまり《手軽な不快の中和手段》を彼が身につけていれば、このような惨事に至らなかったと思う。このような悲惨な事件は私も想像もできなかった。人間とは何とも不気味なものではないか?
わいせつな行為で社会的な地位を失う者、冒険により命を失う者、不正の発覚により名誉を失う者、些細なことによるけんかにより相手を殺してしまう者が多いことは、我々の不快を中和することへの渇望が、よい子でいること、社会的な地位や命などを守ろうとする願望に対して、はるかに勝っていることをを示している。