SonofSamlawのブログ

うひょひょ

第二部 第六章 いじめられる者について

第六章 いじめられる者について

――いじめられる者はいじめられるようになっていた、というしかない――

 

第一節 はじめに

以上のことから我々は誰でも、何らかの不快を中和せんがために他人を苦悩させたいと望む性質があることがわかった。相手から被った不快や、その相手とはまったく関係がない不快を、ある者に暴力を振るう、困らせる、恥をかかせる、つまり苦悩させることにより中和しようとする。たとえば外での不快を、家族をいじめることによりまぎらわそうとするのである。その者の不快にまったく関係がないのに、不快中和のためにえじきにされてしまう者もいるのである。

残る問題は、どのような者がいじめの対象にされるかである。この回答は実に簡単である。つまり、いじめられる者はいじめられるようになっていた、いじめる者はいじめるようになっていた、つまり、いじめる者といじめられる者の関係(構造)がある、ということだ。「いじめられる者」は、「いじめる者」が存在していたからこそ《いじめられた》のであり、「いじめる者」は、「いじめられる者」が存在していたからこそ《いじめた》のである。この自然界の構造は、我々にコントロールできるものではない。相手と自分との強弱関係(いじめ関係)という構造を、誰もが正確に嗅ぎつけることができる。しかし、我々のこの判断の根拠を我々の意識は知らない。それは我々の意識の立ち入れないところ(我々がけして知ることのできない宇宙のメカニズム)で判断され我々の意識に届けられると言うしかないであり、つまり、このことを科学的に解明することは不可能なのである。いじめる者やいじめられる者は、《正常なもの》から当人の努力不足で外れてしまった、というのではなくして、生まれながらに「その位置に居た」のであり、たぶん一生にわたり「その軌道」から逃れられない、ということだ。本章ではこの考え方により、「いじめられる者」について詳細に検討していくことにする。

二〇〇六年の一一月に、NHKのラジオニュースで報じられた京都大学のアンケート調査では、他人をいじめたことのある者の多くがいじめられた経験ももつ、という興味深い結果を出していた。しかし、この「いじめらた」ということが、いったいどのレベルなのかが問題である。他人をハイレベルでいじめたことのある者が、このアンケートで自分もいじめられたと答えた場合、そのレベルは絶対自殺したくなるようなハイレベルのものではなく、少しからかわれた程度であることは確かなことである。相手に極度の魅力を感じたとき、我々は大きな不快(たとえばエロティックな欲望による不快)を感じるのであり、それを中和するために行なわれる「相手を困らせるような行為(からかう)」は、相手にとっては名誉なことであって、ここで問題にされているような「いじめ」の対極にあるものだ。しかし、これも「いじめられた」と回答されてしまうのである。自殺しなければならないほどいじめられた経験のある者が思い浮かべる「いじめられた」という感覚は、そんな経験のない者にはけして思い浮かべられないものであり、けして教えることはできない。アンケートの結果には、当人にとって名誉となる「からかわれた」から、自殺に追い込まれる程度の深刻ないじめまでが、同じ「いじめられた」という回答で出てくるのである。この「いじめられた」という回答の意味には、実に多くの内容が含まれるのであって、つまり、まったく意味のない結果なのである。このような問題に関しては、アンケート調査などはまったく役に立たないだろう。人間各自の固有で内的な問題は、他人に伝えようがない。これらの問題を科学的・客観的に整理しようとすることはあまりにも軽率なのである。

二〇〇七年六月には、T相撲部屋で入門二ヶ月の若い力士が死亡した。兄弟子のいじめに恐怖し逃げ出したが、連れ戻され、夕食の時、T親方にビール瓶で一〇回殴られ、彼の命令で縛り付けられ、殴るなどの暴行を受けたそうだ。このとき、T親方は兄弟子たちに「おい、まだ顔がはれ上がっていないじゃないか、もっとまじめにしっかり殴れ」と指示していたそうだ。そして翌日、けいこの後、見物客の帰った後にもT親方の残忍性は炸裂した。異例な三〇分にわたるぶつかりけいこでも、目撃者によれば、倒れるたびに兄弟子たちにおもいっきり蹴られ、「ギャー」という悲鳴が聞こえたそうである。彼はその後まもなく死亡してしまったという。死因はそれらのリンチによるものらしい。死体は顔がはれ上がり、鼻が折れ、歯が折れ、全身があざだらけで、耳が切れていて悲惨なものであったという。

彼に対して親方と部屋の兄弟子は、なぜこのようなひどいことをしたのだろうか? これは彼らの心の底にうずく欲求、つまり《残忍性》による不気味な欲求を満たす《絶好の機会》だったのである。我々はエロティックなものに強力に引かれるのと同じくらいに、残酷な行為――暴力に引かれるのだ。大義名分を得たT親方と親方から大義名分を得た三人の兄弟子たちは、普段はやりたくてもなかなかできない残忍な行為を思う存分楽しんだのであろう!

しかしこの事件は、《我々の残忍性》だけでかたづけられない。たぶんこのように虐待されない力士も多数いるのだ。彼は他の力士たちに比べ、いじめられやすい性質があったということだ。つまり我々の残忍な本能は、「いじめるのにふさわしい者」しかいじめないのである。相撲部屋において生き残るためには、「兄弟子や親方がいじめたくならない」という性質をもつことが絶対必要なのである――これはあらゆる世界で生き残る、さらには出世するために必用なことだ。人によってこの程度は大きく異なり、才能があってもいじめによって挫折してしまう者が多いのである。会社などの組織において、有能な者であっても上司にいじめられ左遷されてしまい、その能力を発揮できない者が多いのである。組織の中で出世し続ける者は、周りの者に好感をもたれ――特に上司に――、けして悪質ないじめを受けることはないようになっていた、と断言できる。横綱になる者もいれば、入門二ヶ月で殺されてしまう者もいる。横綱大関になれた者に上記のような殺人的ないじめを受けた者が、一人でもいただろうか? 歴代の横綱たちの一人でもこのような殺人的ないじめを受けたことがあるだろうか? これはいじめの問題に関する重要な資料となる。たぶん彼らはそのような災難に見舞われなかった幸運な者なのである。上記のようにひどくいじめられ続けていたならば、相撲に専念できるわけはなく、これではとても横綱などにはなれない。

ある者だけがどうしていじめられるのか? 現実を見ればわかるがいじめられる者は《いじめられる才能》をもつ者なのだ、と言うことが的を射ている。これはいじめられた者しかわからない。この興味深い問題、「いじめられやすさの問題」が本章のテーマであるのだが、これは序文にもあるように本書のメインテーマであり、本書第一部の魅力に関する検討は、これを検討するための準備にすぎない。

T親方は解雇され、二〇〇八年二月七日、虐待に加わった三人の兄弟子と共に逮捕された。彼にとって自分の欲求不満(不快)を満たすことは、万引き・麻薬・冒険家の行為と同じように大きな危険を伴っていたということだ。そういう意味で彼は冒険家であったのである。二〇〇八年三月六日、三人の兄弟子は裁判が終わるまで出場停止とされ、有罪になれば解雇とされることになった。

いじめの問題は軽く見られており、学者などにはあまり相手にされず、いままであまりまじめに考えられたことのないテーマである。しかし、いじめは弱者を悩ます最大の問題なのである。いじめがなければ、我々は誰でもある程度幸せであることができたのかもしれない。しかし、いじめが弱者をめちゃくちゃにしてしまうのである。それは太古から我々の中に存在し続け、ある種の人間(ユダヤ人など)、つまり、《いじめられるために存在するような人間》を苦しめるのである。そして実に不道徳的な発言ではあるが、いじめる側の者にはそのような者をいじめることにより、「最高の快楽がもたらされる」という効用があるのである。

では、誰がいじめられるのであろうか。いじめは常に不快の中和のために行われる。どのような者がそのために利用されるのであろうか。いじめる者といじめられる者は、生まれた後の行動により決まっていくのではなく、生まれたときからすでに決まってしまっているのである。我々はどう考えるかどう選択するかは、自由であると思っているが、趣味・嗜好・考え方のスタイルは、我々が選んで生まれてくるわけにはいかない。あらゆる考え・判断・行動は、この我々の選択できない性質に完全に制約されているのである。また、顔つき・体形・健康なども自分では選ぶことができない。つまり、自分の全てはどこかで決められ、到来するのである。そして、これらのその者の固有なものが二人の人生を完全に決定するのである。一人は強い者、相手を威嚇でき、あるときは相手をいじめ、そして誰にも敬意を表され愛される者として、もう一人は弱い者、つねにいじめられる危険にさらされ、悲惨な生涯を義務付けられる者としての軌道が用意されているのである。

この宿命論的な考えに不快を感じる者も多いだろうが、二〇世紀の思想は、このような我々の各人の固有な軌道に乗ってしまったどうしようもない現実を問題にしている。宿命的にというのではなく、我々の意識が関与できない宇宙のメカニズムが、我々の知らないところで動いている――それは、我々人間の思考形態のひとつである科学などによって解明することは、原理的に不可能である――、ということに知識人たちは気がつき始めたのである。我々は中世の宗教的な見方から近世の科学的な見方に移り期待したのであるが、科学もその大きな期待に応え得るものではない――宗教よりはるかに多くの実績を残すことができたが――、ということに気がつきだしたのである。宗教にあいそをつかして科学に逃げ込んだが、そこでも満足することができず、またさまよいだしたのであり、また宗教に異常接近するかのような思想や「マーフィーの法則」に逃げこむのである。結局、我々にとって宇宙は永遠に謎であるということだ。

 

第二節 グリムメルヘンにおけるいじめ

グリム兄弟によって集められたドイツの昔話、グリムメルヘンの中には、虐待やいじめ、そしてその復讐をテーマにした物語が多くある。これらの物語の中では、いじめる者、いじめられる者、あるいは、敬愛される者は初めから決まっている。物語を読むことで各人がどうしてそのようなことをするのか、されるのかはわからない。誰もが自分では変更できない軌道に乗っているということが暗に示されているのである。グリムメルヘンの魅力はこのへんにもある。余計なことは一切省かれているのである。ある者は主人にその行動に関係なくかわいがられるが、ある者は憎まれたり、ばかにされたり、あげくの果てには目をくりぬかれたり、首を切り落とされたりする。物語を読む者には、それがどうしてだかわからない。しかし、作者はこの不気味で恐ろしい定め(我々の関与できない宇宙の法則)を本能的にわかっていたのである。作者の意識はそれを説明はできないだろうけれども、その法則はどこからか作者に告げられたのである。グリムメルヘンは、我々が意識はしていないが誰もがもっている恐るべき我々の行動方式の宝庫なのであり、作り物の「理性」ではなく、我々の恐ろしく不気味な本能が淡々と語られていくのである。そこには道徳・宗教の臭いは一切なく、どう猛な人間獣の現象だけが淡々と語られるのである。

話の中では、いじめる者、いじめられる者、いじめられない者がはっきり分けられている。話は細かいところはいっさい飛ばされ進んでいく。三つの種類の人間の必然的な運命が次々に示されていく。昔の人がいかにこの各人のどうしようもない定めを感じ、興味を示していたかがわかる。グリムメルヘン作者――多くの人が語り継いできたものだから、作者は多くの人たちだろう――はドイツの人であるから、ふだんはキリスト教の厳格な教えに従って貞淑に生きていたのであろうが、それに従いきれない衝動に襲われ、物語の中で秘かにいじめを楽しみ、また、その反対の立場であるいじめられる者に同情し、その報復を思う存分実行するということで、秘かな快感を得ていたのであろう。

グリムメルヘンは我々の未知で不気味な本性をストレートに示してくれるのである。我々の生理的な欲求と、それに対処するための行動が、道徳的・宗教的な配慮なしにそのまま書かれているのである。我々にとって気になってしょうがないことや、やってみたいことが、何の遠慮もなく書かれている。だからこそ我々を妙に引きつけるのであり、永きにわたり多くの者をとりこにし、けして飽きられないのである。これはある種のくさい匂いがなぜか我々をいやし、下品な歌手のほうが清純な歌手より永きにわたり人気を維持することができるのと同じなのである。

我々は文法を知らなくてもしゃべることができる。言葉の意味を知らなくても使うことができる。わかることと実行できることの間の関係はほとんどないといっていいのだ。グリムメルヘンでは、我々が誰でも理解しているつもりの道徳的なものや宗教で戒められていることなどがまったく無視され、恐ろしくいやらしい人間の姿が簡潔に描かれていく。その作者にも良くわからない、本番・現場において、どこからか到来したとしか思えない指令に従うかのような、我々のふだんは考えてもいないような不気味な行動方式が、物語として淡淡と示されていくのである。

 

第三節 「生意気」について

前出のカール=ハインツ・マレ「首をはねろ!」の中で、マレ氏はいじめられる原因を妬みであると言っている。またいじめに関する啓蒙書なだいなだ「いじめを考える」(岩波ジュニア新書二七一)でも、いじめは嫉妬が原因だときっぱり言われている。しかし、あらゆる組織の中の成功者は誰からも妬まれるくらい優秀であり、しかも恵まれている。ところが彼らはいじめられるどころか、いじめる立場にあるではないか。他人から妬まれることがいじめられる条件ではないことは確かである。前出のなだいなだ氏の「いじめを考える」から引用する。

 

*たとえば学校で先生にかわいがられる生徒が、《いじめ》の標的にされる。・・・その正反対の子ども、障害を持った子どもや、余り美人じゃない子を、からかったり、いじめたりする。・・・それはなぜかというのだろう。・・・それも、根は嫉妬だと思うね。だいたい、そういう形で《いじめ》をする子どもは、頭のいい子や、かわいい魅力のある子に嫉妬している子どもが多いのだ。しかし、《いじめ》の形でその感情をぶつけられない。攻撃性を向けられない。相手は、親や、先生や友達に守られているからね。あるいは自分で嫉妬の感情を抑え込んでいる。親や大人から、その感情はよくないものとして、教えられているからね。・・・心の底で親や兄弟に対する競争心もある。彼らを打ち負かしてやれたときの喜びの空想かな。そうした感情が屈折して《いじめ》の快感につながるのかな。

 

つまり、優秀な者に対する嫉妬によりその者をいじめの標的にするが、その者はいろいろなものに守られているので攻撃できない。そこで、攻撃が容易にできる弱者に狙いをつける、というのだ。失礼ながら、なだいなだ氏はいじめの実態とその心理をまったく理解していない。上位の者にかわいがられ、誰からも嫉妬される者はけしていじめの標的にはされないし、むしろいじめる側にいるのであり、これは強者の運命なのである。その逆に、いじめられる者にはパトロンがつかず、彼らは周りの者をいらいらさせ、生理的に嫌われるようになっていた不運な者――このような者は、ある分野に関する能力において有能な者も多い、たとえばユダヤ人など――たちなのであり、これが弱者の運命なのである。

妬まれることはけしていじめられる原因とはなり得ない。人の上に立つ者は、誰からもうらやましく思われるほど優秀で、恵まれている。だから誰からも妬まれているはずだ。しかし、誰も手出しできないのである。それどころか、誰からも恐れられ、敬意を表され、好かれ,たいていその行動は好感をもたれる。誰もが彼の後について行くことに不快を感じない。マレ氏やなだいなだ氏は、自分がいじめられたり、見下されたり、ぞんざいに扱われたという自己体験がないのであろう。いじめについて完全に理解するには、いじめた経験やいじめを見たという経験ではなく、自分がいじめられた、という経験が絶対必要なのである。

我々は自己体験がないことを、それがある者と同じに理解することができない。それは自分流のかってな推測になってしまうのである。我々の内的な状態は、客観的なものとして他人に伝えること、理解してもらうことなどできないのである。

次の実例は、このことを理解するのに良い例だ。ある弁護士の話である。彼はある事件で彼の家族を殺された。その事件後、彼は犯罪被害者のための活動を始めたそうだ。しかし、彼の家族が殺される前、彼は逆に犯罪者を救う活動をしていたそうだ。自分の家族が殺されるという体験は、横目で見る他人事とはまったく違うものだった。わかっているつもりでいたものが、それを自分が体験することでまったく理解していなかったことに気づいたのであった。あることについて、自己体験のある者とない者では、まったく話はかみ合わない。これは話し合いなどでは解決できず、互いに同じ体験をするまでわかり合えないのである。

魅力的な者はけしていじめられない。どのような者でも魅力という化粧が施されていれば、相手に不快を与えるようなことはないのである。魅力を感じる心を刺激する能力をもっている者は、いじめから身を守ることができるのである。それは人の価値を無条件に高める。この魅力というよろいで覆われていない者は中身がむき出しであり、外界の強い酸により腐食してしまう危険がいつもある。魅力のある者は良い会社に入れたり、出世できたり、良い人と結婚できたり、といった良い思いができる。さらに、これは相手が自分をけして攻撃できないようにする役目も果たす。

強い者もいじめられない。それはへたに手をだすとカウンターパンチが来るという恐怖、強い者には取り巻きや味方が多く、多くの者を敵に変えてしまうのではないかという恐怖からくるものであると言われるが、強いということはそれ自体魅力的なのであり、相手に恐怖を与えないような魅力はないとまで言える。だから学校では、怒らない先生、恐ろしくない先生は嫌われるのである。

二〇〇三年のあるTV番組である大学の先生が、いじめについて話していたことがあった。それは、次の条件を全て満たしているときいじめられるというのだ

一.弱い。

二.人のやらないことをやりたがる。

三.生意気である。

 

ここで重要なのは「生意気」である。それは人を不快にさせるもので、ある行動により生じる。しかし、その行動をしても「生意気」と感じさせない者もいるのだ。同じ行動をしても、人によって生意気だったり、心地よかったりする。前記の三つの条件の中で、「生意気」は他の条件と違い、本章での今の時点では意味が明確でない。「弱いこと」、「人のやらないことをやりたがる」というおまけに対して、「生意気」とは、いじめられるという問題の核心なのではないだろうか。「生意気」というものはとにかく我々を最高に不快にするものだ。

「生意気」とはいじめられるための調味料なのである。「いじめ」はそれを誘う味・臭いにより誘発される。相手を酔わせるという能力をもつ者は好かれ、優遇される。しかし、「生意気」という「不幸な能力・素質・香り」をもつ者は危険な人生となるのである。それは単に嫌われるのとは違い、相手から残忍な行為を誘い出してしまうのであり、相手は、どうしてもその者に対して残忍な行為、つまり、いじめの行為を実行せざるを得ないような気分にさせられてしまうのである。我々の他のあらゆる行為と同じように、「いじめ行為」もやるというよりやらされる、と言ったほうが正確なのだ。

同じ行動をしても、人によって生意気に見えたり、そうでなかったりする。人間関係の問題を扱った有名なカーネギーの一連の著書(創元社)――この著書では、うまく生きる秘訣は、全て人間の行動にあるということが強調されていて、各人の固有なものの効果はまったく考えられていない。つまり啓蒙的・科学的なのであり、このことがこの本の限界を感じさせる――の中で次のように老子の言葉が引用されていた。『長年人のためにつくした者が、ある時、人々の上に立っても誰も不快に思わない。人々の上に上がっても誰もその重みを不快とは思わない』というものだ。しかし、私はこの意見に反対なのである。世の中で人の上に立っている者は、初めからそうであることが多い。けして、老子が言うような手順を踏んでいるわけではない。ただ一見そう見える例もある。しかし、それは見かけの上のことだけであって、実はそうではないのである。その者にはそういう素質があったのであって、どういう行動をしても結局人の上に立てるのである。それを素質のない者がそのまま真似たとしてもうまくいかないのである。どのようなことにおいても、素質がない人が格言にあるような行動をしても、うまくいかないであろう。だめな人が上に立とうとしたとき、誰もが「生意気」であると感じてしまうのである。「生意気」とは、その行動によるのではなく、行動者の固有なものによるのである。

昔、昼食に入ったそば屋にあったカレンダーに次のように書いてあった。『自己中心的な人からは、人が離れていく』。そうだろうか、誰もが自己中心的であるのではないだろうか。同じ自己中心的なものから出てきた行為でも、いかに偽装して周りの者に見せつけるかによって、その行為の評価は大きく違ってくるものだ。成功した者は全て自己中心的なのであって、ただ、それが周囲の者に好感をもって迎えられただけなのである。我々の利己的な行動を、他者にいかに気持ちよく見せつけるかは、その者の固有な才能――外観も含めて――によっているのである。

前章において述べたように、我々は相手の価値、つまり我々感じた相手のイメージと、相手の行動の比較により相手に対する態度が決まる。相手がそのイメージの中に納まった行動をとっている場合には、我々は相手に好意的な態度をとる意欲が生まれる。しかし、相手が我々の相手に定めたイメージからはみ出る行為をしたとなると、憎しみの感情が生まれる。これが生意気というものなのである。

若くても何をやっても「生意気」と言われない者もいるし、年取っていても「生意気」と言われる者もいる。その者の固有なものが効いているのである。前記の老子の言っていることとは違い、上に立てる者はある努力をしたからではなくて、生まれつき上に立てる才能をもっていたからこそ、そうしても誰もが不快を感じなかったのである。そうでない者、たとえば見下された者などはどんなに下積みをしても、周りの者がそれを許さないのである。我々が見下している者が上に立とうとしたとき、誰もが不快を感じるのである。下積みをしなくても、誰からも敬意を表されている者はいるもので、その者が上に立とうとしても誰も不快は感じないのである。つまり、前記の老子の考えは、この点で誤りであるのである。彼はカーネギーと同じように、各人の固有なものを無視し、あまりにも科学的に処理しすぎているのである。生まれつきの優劣を無視した考察は意味を成さない。全てが平等であれば、何も問題は起こらないのであって、一切が平等でないからこそ、あらゆるいざこざが起こり、「いじめ」という問題も起こるのである。老子には、下にいて、上にはい上がれないという自己体験がなかったのであろう。福沢諭吉のような「人間は皆平等である」式の考え方では、いじめの問題を正しく理解できないのである。我々にとって重要なことは、生まれながらにして定められてしまった各人の固有のものだ。それは我々にはコントロールできないものだ。

見下された者が上に出ようとしたとき、我々は不快を感じる。自分の手中にある者、自分が世話している者などが、自分がその者に定めた範囲を越えようとしたとき、我々は不快を感じる。これが家族へ暴力を振るうことの原因である。このような感情が生意気と言われるものなのである。我々は家にいるとき、外にいるときとは心構えが違う。主人であれば、「この家の者は、全て自分の支配下にある」という家族を見下した――低価値に置いた――気分がある。その見下された者がそれにふさわしくない行動・言動をしたとき、大きな不快を感じる。そして、その不快を中和するために暴力やいじめが行なわれるのである。

 

第四節 我々をいらいらさせるもの

いじめられる者は必ず、我々を魅惑するのではなくいらいらさせる。我々をいらいらさせる原因の一つに趣味の問題がある。私がおいしいと思うものを、相手はまずいと思っているのを知ったとき、我々は大きな不快を感じる。これは話し合いで解決できる問題ではない。科学的に考えられるものではない。全ては我々個々の固有なものの差異から生じているのであり、全てはその中の問題だからである。誰でも自分の固有な事情に沿った行動をしなければならない。だから話し合っても、何も解決しないのである。趣味の不一致があると、我々は本能的に相手に不快を感じるようになるのである。そうなると、その相手を悪趣味なやつだと思うようになり、まるで腐ったもの、汚いもののように見えてくるものであり、その相手を下劣に感じ、軽蔑するようになる。つまり相手の価値は下がるのである。そして、強いほうが弱いほうを攻撃するようになる。これはいじめである。

異なる宗教を見るときも同じだ。我々日本人はほとんどが宗教に無縁なのでよくわからないのであるが、異教徒はきわめて劣悪に見え、不快を感じるらしい。異教徒に対する怒りの大きさ、いじめの凄まじさは世界中で見られる。カトリック教会による異端審問は良い例であり、相手が自分と同じ宗教でも、自分と少しでも違う教義を信仰していることが気に食わないのである。そのため大量の人を残忍な方法(火刑)で殺し、そのいらいらをなんとか中和しているのである。この異端審問は単なる僧侶のいらいら――僧侶はあまりにも欲望を抑制しているので不快も大きい――のはけ口であって、危険な異端者を排除するというのは、これらの行為を正当化するために後から考えられた口実であることは確かなことなのである。

困っている人を見るとき、我々はかわいそうだと思いながらも、ある不道徳的な感情に襲われるもので、いらいらしたり、憎たらしいと思ったり、意地悪をしてもっと困らせてやりたくなったりすることがある。困った者は誰からも親切にされるというより、むしろアンデルセンの童話「マッチ売りの少女」のようにすげなく扱われることが多い。これは困った者にかかわっても利益がないからというのではなく、我々をひどく不快にするものが困り果てた者、不運な者にあるのである。犠牲者とも言える者に対して、我々はまるで犯罪者、あるいは異教徒でも見るような目を向ける。特に成功者(社会的・肉体的な)は困窮者に対してよりいらいらするもので、肉体的に劣っている者に対して「根性がない」とし、会社などの組織において、うまくついていけない者、失敗ばかりする者に対して、それを全て「その者の行動のまずさ」のためであるとし、その者の事情・運命でなくその者自体を憎む傾向がある。つまり、我々は全てをコントロールできるのであって、だめな奴はそれを怠っているにすぎないのである、という腹立たしい判断をしてしまうのである。これは一般人向けの社会心理学の著書である齊藤勇「人はなぜ、足を引っ張り合うのか」(プレジデント社)によれば、社会心理学でも認められている事実なのである。しかし、この判断は間違っているのであって、うまくいっている者は単に《幸運な軌道》に乗っていただけのことなのである。

世の中にはいつもほぼ一定の割合で不幸な者が生み出されるものだ。だから彼らは犠牲者なのであり、幸せな者の身代わりに苦しんでいる者であるので、ばかにしたり、いじめたりするものではない。それでも、我々はこのような不運な者を見るとき、なぜか不快を感じるのである。「受付」などでもそうだろう。きちんとした身なりの者が優等生的な態度で行くと、受付の者は最大の儀礼的態度で応対してくれるだろう。しかし、みすぼらしく、疲れきって、困り果てた様子でいくと、相手は逃げ腰になり、相手の話も聞いていられない状態となり、態度は険悪になっていく。汚いものがきたので避けようとするというだけではなく、妙にいらいらしてしまうのである。相手が劣悪であると判断したとき、我々には不快感が襲ってきて、相手を憎たらしいとすら思ってしまうのである。

不運な者、かわいそうな者、冷たく言えば劣悪な者は価値が低い。それらの者が我々の感じた彼らの価値を超えるような行動・言動をしたと我々が感じたとき、我々は不快を感じ、それを中和しようとする行為がいじめなのである。だからこそ、魅力がなく弱い優秀な者、変った者は、支配的な立場の者にいじめられるのである。だから、ホームレスがいじめ殺される事件が多いのである。これがいじめに対する私の考えである。これは、また後に述べることにする。であるからこれらの劣った者は、いちじるしくその行動を制約されることになるのである。周りの者より優れた者は何をしても、誰にも不快に思われないし、からかわれない。しかし、周りの者より劣悪だと判断された者は、その自分より優位に立つ者の前である一線を越えた行為をしたならば悪臭を放ってしまい、たちまち暴力を振るわれたり、恥をかかされたりすることになる――つまり「いじめられる」のである。

私はここで、次のことを暫定的に言っておかねばならない。魅力がなく、素性の悪い(背景が悪い)者の有能さは、「生意気」とされ憎まれ、魅力があり、素性の良い(背景が良い)者の有能さは、敬意を表され好感をもたれ「有能」とされる。魅力なく素性の悪い者の有能さは、どんなに優れていても、周囲の者に不快を感じさせ、そのためいっそう嫌われ、迫害されるのである。どのような分野でも優秀なユダヤ人の運命がよい例ではないか?

 

第五章 いじめのメカニズム

このあたりで、いじめのメカニズムをまとめておかなければならないと思う。

我々は常に、自分が把握した相手のイメージと相手の実際の行為の関係を気にしている。我々は相手のイメージ、つまり我々が推測した相手の程度(魅力、頭の良さ、社会的な地位、自分との関係など)の中に相手の行為が在れば安心する。相手がそのイメージからはみださない行為をとっている場合には、我々は相手に好意的な態度をとる意欲が生まれる。しかし、相手が我々が相手に決めつけたイメージからはみ出る行為をしたとなると、不快・憎しみの感情が生まれる。相手は自分が感じたとおりの者でなければならないのである。我々の中に作られた相手のイメージの範囲の中なら、相手がどのような行為をしても、我々は好意的な態度を維持できるが、相手がその範囲を超えた行為をしたとき、我々は簡単に相手への同意の意欲から反撃の意欲へと転じてしまうのである。我々は自分の思ったようになっていないときに不快を感じるのである。魅力的な者、自分がまだ把握できない未知の存在、社会的に地位の高い者などが何をしても不快ではない。

我々は初対面の者が何を言っても不快にはならないものだ。それは、自分の中の相手のイメージがまだ限定されていないからだ。しかし、限定された者、見下されてしまった者、自分の支配下にあり十分に把握された者(たとえば家族や部下)が、その把握された範囲を超えた行為をしたとき不快を感じる。たとえば家庭内暴力は、これにより説明できる。結婚するとまもなく暴力が始まるのは、相手が把握され、未知な部分が少なくなったからだ。つまり、相手が、自分が限定した相手の行為の範囲を越え出るような行為をしたとき、我々は不快を感じるのだ。この不快を「生意気」と言うのであり、この不快を中和するために相手に苦悩を与える報復行為が「いじめ」なのである。

自分より上位であると感じた者や、あまり限定されていない未知なる者――未知なる者は我々にとって価値のあるものであり、それは上位の者と等価なのである――が何をやっても、何を言っても、何の不快も感じないだろう。たとえば社長が何をしても誰も不快は感じない。自分が尊敬する者が成功したとき、何も不快は感じず素直に喜べるであろうし、少しも妬ましく感じない。それは自分の家族についても同じだ。自分の家族が――兄弟姉妹を除いたほうがいいかもしれないが――、自分より優れていても、ただうれしいだけで何も不快は感じないであろう。この場合、自分の家族はある状況においては――家庭内暴力の状況では家族の価値は低いものになっているのだが――自分にとって価値が高いものなのである。しかし、家族であってもライバルであり、自分より下位であるべき弟や妹が、自分より優れていることを知った場合には、とても喜ぶどころではなく、妬み苦しむことになる。また、他人の子供が自分の子供より優秀であった場合、我々は不快になる。これは、生意気な行為なのだ。他人の子供は自分の子供より価値が低いからだ。そして、その不快を中和するために、悪口を言ったり、無視したり、暴力を振るったりといった報復(いじめ)をするのだ。

ここでドイツの哲学者ニーチェの僭越(生意気)に関する意見を、前出のニーチェ「人間的な、あまりに人間的な」(浅井真男訳)から引用してみよう。僭越・生意気というものによって、我々がいかに危険な状態にさらされるかが、格調高い隠喩により説明されている。

 

*僭越。――僭越と呼ばれ、われわれのあらゆる良い収穫を台無しにするあの雑草の生長には、何よりも用心しなくてはならぬ。なぜなら、僭越は情愛のなかにも、敬意のなかにも、好意的な親密のなかにも、愛撫のなかにも、親切な忠告のなかにも、欠点の自認のなかにも、他人に対する同情のなかにも存在するのであって、これらすべての美しい事柄もそのなかにあの雑草が生えると反感を起こすからである。僭越な者、すなわち、自分があり、あるいは値する以上に重要であろうと欲する者は、つねに誤った目算を立てる。なるほど、彼が僭越なことをする相手の人々は通例心配や便宜のために彼の要求するだけの敬意を彼に払うので、彼は一時の成功を収める。しかしこの人々はそれに対して悪い復讐をするのであって、彼がよけいに要求しただけの分をいままで彼に与えていた価値から差し引くのである。屈辱ほどに人々が高い代価を支払わせるものはない。かくて僭越な者は自分の実際の大きな功績を他人の眼に疑わしく小さなものにしてしまって、泥だらけの足で踏みつけられることになるかもしれない。――誇らしい態度でさえも、誤解されて僭越だと思われることがないとまったく確信できるところ、たとえば友人や妻の前でなくては、あえてとってはならない。なぜなら、人間との交際においては、僭越の評判をとる以上にばかなことはないからである。それは、礼儀正しく嘘をつく術を学ばなかったということよりもさらに悪いことである。

 

以上の考察において、僭越・生意気である基準が謎として残る。ある行為は、ある者では僭越・生意気になってしまうが、ある者では誰にも不快を感じさせないばかりか魅力的なものとなるのである。問題の犯人は、多くの者が信じている人間が誰でも共通にもつとされている《正当なもの》から《はみ出た》ものではなく、単に個々の者の間にある差異なのである。魅力的な者も、さらに魅力的な者が現れれば色を失ってしまうのである。この差異こそが人間の間のあらゆる問題や「いじめの問題」の核心なのであり、本書のメインテーマでもある。人間は平等ではなく、各人の間に差異があり、この差異こそがあらゆる問題を引き起こしているのである。

先に示した老子の考えはおかしい。人の上に立つ者は生まれたときから人の上に立っている。彼が上に立っても誰も不快を感じないのである。生まれつき素質のない者・魅力のない者は、どんなに下積みをしても、他人に敬意を表されることはないし、魅力も感じられないものだ。老子には、「他人に中でうまくいかず、苦労した」という自己体験がないのだろう。彼は各人間の間にある差異という重要な問題を見ていない。知恵と努力であらゆる困難を解決できる、という思想(啓蒙思想)はまったく役に立たなかったのである。上に立つ者は初めから上に立ち得るのであり、それまでの行動(努力とか下積み)とは関係ない。彼は生まれつき人の上に立てる者であったのだ。だからこそ、彼が上に立っても誰も不快に思わないのだ。好かれる者は何をやっても好かれるし、体形が良い者は何を着ても恰好よく、それらは行為や着こなしとまったく無関係なのである。

我々は不快に感じること、うまくいかないことの原因を、我々がコントロールできそうなものに還元しようとする。そして、その軽率な判断は危険な信仰――間違いなくあらゆる宗教はそのようなものである――に形を変える。しかし、それはあらゆる宗教の熱狂的な信者の運命を見ればわかるが、多くの者に無駄な労力を費やさせ、さらに不幸にしてしまうのである。これは犯罪ではないだろうか?

相手の価値は自分の趣味嗜好によって違ってくる。自分が認める価値がなければ劣ったものとなってしまう。才能があっても、それを感じる者がいないかぎり、その価値は公に成立しない。評価する者の趣味嗜好に全て依存しているのである。だからこそ、わけのわからない変人・才人は、一般の者から見ればその優れたところはそっくり落とされてしまい、だめなところのみが強調されてしまう。我々は、理解できないものは強引に自分の理解できるもの、しかも好ましくないものに解釈してしまう、という性質がある。天才がしばしばとんでもない災難に遭うこともわかるであろう。

我々は自分がわかるものしか評価しない。それ以外は見えない。一般大衆の趣味嗜好に合わない者は、不幸になるしかない。世の中の大半を占めるのは、趣味嗜好がほとんど同じである一般大衆である。ここに変わった者が入ればうまくいくわけがない。変人は、一般の者がもっている社会的な能力・風采・優雅な身のこなしに欠けており、その代わりに一般の者がまったく感じないようなことに対して鋭敏な感受性をもっているものだ。この者は、一般の者から見ればだめなところばかりで価値は低くなる。人のやらないことばかりやりたがる者は、人のやることはやらない。そのままおとなしくしていればいいのだが、別の才能があるためにだまってはおられず、これが一般の者からは、異教徒の不気味で危険なしぐさのように見える。そして、何か良からぬことを企んでいるようにも見える。つまり「生意気」なのである。ボロ雑巾の様な者が何かを企んでいる、これを見て周りの者は不快を感じるのである。

ところで前記のいじめられるための三つの条件の内、「弱い」はその者の価値が低いという評価で、「生意気」であるための条件であったのである。「人のやらないことをやりたがる」は、我々には価値が低い(弱い)と感じたバカにしていた相手が、我々の予想もしていなかった優れたものをもっていたり、強かったり、想定外のことを考えていたり、不可解なことをたくらんでいたりしているということに対する不快感を示しているのである。これには趣味や宗教の違いも含まれる。だめだと感じ、だめでなければならないはずの相手が、それを裏切るかのように、我々の予想を超える成果を上げようとしていることに対する不快感なのである。だから、「弱い」、「人のやらないことをやりたがる」は、このセットで「生意気」ということを言っているのであり、生意気が重複しているのである。つまり、前記のいじめられる三つの条件は、「我々が相手に感じた(定めた)価値を相手が越えるような行為をした場合、いじめられる」と言い換えることができるのである。

人のやらないことをやろうとしても、誰からも好感をもって見られ、敬意を表される者がいる。その行為は高貴に見えるほどだ。どうしてだろうか。これは、我々がこの者に高い価値を感じているからなのだ。だから、その者が何をしていても「生意気」という不快を感じないのである。その者は人の上に立っても、何をやっても、何を言っても、誰にも不快を感じられることはないのである。これはその者の「やりくり」に関係なく、生まれつきのものなのである。

 

第六節 いじめられる運命にあった民族ユダヤ

世の中には、存在すること自体が生意気・罪とされ、迫害されいじめられる者がいるが、個人でなく民族全体がそのような運命にあることがある。歴史上、このような運命にあった民族は多いが、ユダヤ人はその代表的な例であろう。

ユダヤ人はナチスドイツのヒトラーにいじめぬかれた。彼らは、その存在そのものが罪とされたのであった。彼らは、長い歴史の中で他民族(特にヨーロッパの人たち)に嫌われ、恐れられ、悪魔とされ、迫害され、差別され、虐殺され続けてきたのであった。ユダヤ人の迫害の歴史が詳細に語られている優れた啓蒙書レイモンド・シェインドリン「物語 ユダヤ人の歴史」(高木圭訳、中央公論新社)によると、中世以来、ヨーロッパのキリスト教徒によるユダヤ人に対する差別や虐殺はひどいものだった。たとえば中世のヨーロッパのキリスト教徒(カトリック)は、イスラム教徒(ムスリム)や異端者(アルビジョワ派など)を討伐するために七回にわたって軍隊(十字軍)を放ったが、その一回目の一〇九六年の遠征では、なんとその進路の途中でユダヤ人をついでに大量に虐殺したという。同書からその部分を引用する。

 

遠隔地の非キリスト教徒に向けられた宗教的憎しみは、身近にいたユダヤ人に対しても向けられるようになった。一〇九六年春、第一回十字軍がヨーロッパを横切って東方に向かったとき、その最初の犠牲者となったのはライン地方に住むユダヤ人であった。この地方の地方領主や教会関係者の多くは法に従い彼らを守ろうとしたが,十字軍の武力に対抗するだけの手段は持ち合わせていなかった。その結果、大量虐殺と強制改宗(著者注:改宗すれば命は助けると脅す)が行なわれた。キリスト教徒のたちの手にかかるよりはと、多くのユダヤ人が自殺を選び、夫は妻と子供を殺しそのあと自らの命を絶った。

 

さらに同書から、いくつかを引用する。

 

ユダヤ人に対する最初の組織的な弾圧は、一一四四年にイギリスのノーウィッチで起こった。ユダヤ人が、ウィリアムという名前の子供を捕まえて復活祭の前の聖金曜日にキリストの磔にならって殺害した、との容疑をかけられたのだ。しかも、この儀式は世界中のユダヤ人の間の、毎年キリスト教徒の子供を一人犠牲にしなければならないという約束事に基づいて行なわれたとの噂まで広まった。こうして、ノーウィッチのユダヤ人は、これに反発する住民により大量虐殺され、さらにこの動きは次々とヨーロッパ中に広まっていった。

そしてユダヤ人が、殺されたキリスト教徒の子供の血を過ぎ越しの祭りに食べるマッツオー(種無しパン)に使っていると広く信じられるようになってからは、虐殺はさらに広範囲に及ぶようになった。個々の事例は様々であるが、結果的にはほぼ同じような行為が各地で行われた。ユダヤ人家族全員、時には地域のユダヤ人社会全体が、しばしば生き埋めにされて抹殺された。代表的なのは、一一六八年のグロスター(イギリス)、一一七一年のブロワ(フランス)、一一八一年のウィーン、一一八二年のサラゴサ(スペイン)、一二三五年のフルダ(ドイツ)、一二五五年のリンカーン(イギリス)――チョーサーのカンタベリー物語で触れられている――、一二八六年のミュンヘン、一四七五年のトレント(イタリア)、一四九一年のアビラ(スペイン)などで起こった虐殺で、とくに最後の例はスペインにおけるユダヤ人排除運動の高まりを象徴するものであった。

 

一三四八年から一三五一年にかけてヨーロッパはペストの猛威に襲われた。その被害はユダヤ人、キリスト教徒を問わず、およそ三分の一の人口が消え去った。パニックに陥った民衆はその恐怖をやわらげるため極端な宗教的活動に頼った。集団ヒステリー状態の中で、ユダヤ人が井戸を汚染しペストを広めているとの噂が飛び交った。ユダヤ人社会、特に中央ヨーロッパユダヤ人社会がひとつひとつ襲われ、破壊され、追放されていった。血の粛清の際に以前の教皇たちが行なったように、教皇クレメント四世は、ユダヤ人がキリスト教徒と同じようにペストで死んでいく中、こうした馬鹿げた主張を抑えようと何度も試みたが、結局ユダヤ人が血を流す以外に民衆を鎮める方法はなかった。

 

一五一七年にマルティン・ルターによって始められた宗教改革は、キリスト教の反ユダヤ教的な態度を一層強化する結果となった。宗教改革運動の初期においては、ルターは教会批判の理由のひとつにユダヤ教に対する迫害を挙げていた。これは、教皇に対する攻撃と聖書以外の権威を認めないという彼の主張により、ユダヤ教徒キリスト教に帰依させることができるに違いないという彼の目論見によっていた。しかし、実際にそうしたことは起こらなかったため、一転してルターはユダヤ人を“不愉快な害虫”と呼び、キリスト教徒にユダヤ教徒に対する憎しみ植え付けるとともにドイツ各地からユダヤ人を排除することを支持した。

 

では、ユダヤ人のどこが悪いのか? ユダヤ人は、その行動が他の民族と違い、風貌もあっけらかんとした感じはなく不気味で野望を抱いているように見える。特に、彼らの宗教的行為は異様である。彼らはユダヤ教創始者であり、ユダヤ教はやがてキリスト教イスラム教を派生させた。前出の「物語 ユダヤ人の歴史」によれば、ユダ王国は、バビロニアとの戦いに敗れた後のバビロニアの傀儡政権(ユダヤ人が任命された)の反乱の失敗で、紀元前五八七年に崩壊した。つまり全てのユダヤ人はその地から追い出されたのであった。彼らは離散しても常にユダヤ人社会をつくり、寄り添って生きようとし、他民族に溶け込もうとせず、彼らのアイデンティティー(本性)を強く意識していた。彼らの異様な宗教的行動は周りの者を不快にした。これらのことは相手に必ず不快を感じさせることは確かである。

二〇〇五年にNHKで放送された「アウシュヴィッツ」という番組によると、アウシュヴィッツ収容所の所長であったルドルフ・ヘスは、連合軍に捕らえられた後に、刑務所の中で死刑執行までの間に書いた「アウシュヴィッツ収容所」の中で、「ユダヤ人の陰謀はドイツを滅ぼす」と言っているそうだ。ナチスヒトラーも「ユダヤ人はドイツの災難である」と言っている。このようにユダヤ人は、昔から恐ろしく憎むべき怪物にされてしまうのである。偉大な学者にユダヤ人が多いように、彼らが優秀なことは確かだ。しかし、周りの者は彼らに好ましいもの感じず――悪趣味にしか見えず――、彼らの行動は公認されないのである。理解しがたく不気味で、しかも頭が良い彼らは、常に何かを考え、秘かにそれを拡大しようとしているように不気味に見える。それは周りの者を恐れさせ、やがて憎しみを抱かせるようになる。「あんな奴ら」が何かよからぬことをたくらんでいる、そう思っただけでもいらいらしてくる。不気味で好感をもてない感じの者が何かをたくらんでいる。虫の好かない者が何らかの陰謀をたくらんでいるのではないか、そう想像しただけでムカムカしてくるのである。

アブラハム(紀元前二〇世紀頃生まれ)・ノア・モーセ(紀元前一四世紀頃生まれ)・イザヤ(紀元前八世紀頃生まれ)・イエスなどの有名な預言者・指導者をもつユダヤ教は、やがてキリスト教イスラム教を派生させたのだ。これら三大一神教は、ユダヤ人が生み出したものなのである。学者として、商人として、あらゆる分野でユダヤ人は成功している。前出の宮本久雄・大貫隆編「一神教文明からの問いかけ」によると、ノーベル賞の受賞者の二〇パーセントが、全人口の〇.二パーセントにすぎないユダヤ人によって占められているのである。彼らは、ユダヤ人以外の者に比べてはるかに優秀であることがわかる。

前に言ったことであるが、我々は自分が理解できないものや趣味に合わないものは、理解できないとしないで、自分が理解できうるもの、しかもその中でも最も劣悪なものに解釈してしまう、という性質がある。こうしてユダヤ人は、その「異様で不気味で底知れぬ優秀さと魅力のなさ」のゆえに恐れられ、劣悪な者にされてしまい、そのイメージによってさらに不気味にされ憎まれいじめられてきたのである。これは、昔のヨーロッパの死刑執行人たちが差別され、汚らわしい者とされながらも、崇拝されていた事実に似ている。

前出の「一神教文明からの問いかけ」によると、ユダヤ人が迫害される理由として次の説がある。バビロニアによりユダ王国が滅亡して(紀元前五八七年)人民が離散し、異教徒に改宗を迫られ、異教徒である印(帽子や衣服やバッジ)をつけられ、それが人種的な差別につながっていった。キリスト教の生みの親であるナザレのイエスを殺した憎むべき者である(これは、司教が無知な民衆にさかんに言っていたそうであり、自分の考えをもたない彼らは、それによりユダヤ人を憎むようになった)。国を失った落ちぶれた者である――不幸になった者がいじめられるというのは、周知のことである。商人として成功し、裕福になったことに対する嫉妬。また、前出の「物語 ユダヤ人の歴史」によれば、ユダヤ人の迷信深い異邦人と思わせるような奇妙な宗教的行為が、ユダヤ人が不快を感じられる原因の一つになっている、と言われている。同書から関連部分を引用する。

 

*こうして、ヨーロッパの一般庶民の間に反ユダヤ的感情が定着していったが、この感情の一部は恐怖感に根ざしたものでもあった。文字も読めず、迷信深い中世の農民の目には、不思議な習慣と、奇妙な宗教儀式、それにヘブライ語の祈りを行なうユダヤ人は、単に社会的、経済的アウトサイダーというだけではなく、黒魔術を操る異様な集団、悪魔の手先とも映っていたのである。

 

彼らは他民族よりはるかに優れている。しかし、それは他民族には理解できないもの、魅力のないもの、趣味・嗜好に合わないものであり、そのために下劣な者、価値低い者と解され、嫌われ、迫害される運命にあった民族なのである。そこには、他民族が彼らを憎まなければならなかった「生理的な欲求」というものを、確固たるものとして認めなければならないのである。才能はあるが人から好感をもたれるような魅力がない(理解されない)彼らは、迫害されるようになっていた、ヨーロッパの者は彼らを迫害するようになっていた、ということだ。

こう言っちゃ失礼かもしれないが、どう見ても彼らの顔をみると、頭は良さそうだが暗い不気味なところがある。これは、我々が彼らのことを理解できず誤解している、ということなのである。ヨーロッパの者は、ユダヤ人をなぜかわからず生理的に軽蔑し、憎み、悪者にするようになっていたのであり、そのメカニズムは永遠にわからないのである。「なぜユダヤ人は迫害されるのか?」という科学的な疑問は、「ヨーロッパ人は、なぜユダヤ人を迫害したくなってしまうのか?」という心理的な疑問に移る。これは、論理的・科学的な回答が存在することが期待できない。つまり、「ユダヤ人だからである」というより他はない。それは、「よい顔がどのようなものなのか」という根拠が、我々の意識の中に見出せないのと同じだ。つまり、ユダヤ人が迫害される原因は、いじめられる者や憎まれる者、あるいは人から好かれる者の原因と同じく我々(意識)にはわからないのである。我々は、ただ《本能の指令》に従い行動するより他はないのである。

しかし、雑ではあるが次のようには言える。選ばれた少数の者にしか自分の能力を理解され得ない者(たいていの者に誤解されてしまう者――この者は特別な存在である)は、大多数の者に嫌悪を感じられるのである。彼らの行為と成果が、ある意味で《無能な》周りの者にとっては、彼らに感じる価値(魅力)を越えているからこそ、彼らは、時には恐れられ、時にはいじめられるのではないだろうか。

前出の「一神教文明からの問いかけ」から、ユダヤ人を苦しめた有名な偽造文書「シオン長老議定書」についての部分を引用する。

 

*「シオン長老議定書」は、有名なユダヤ人排斥主義のいわゆる長老議会の偽造文書で、それは、ユダヤ人リーダーが世界中から集まり、世界支配のための極秘の計画を練っているといった内容でした。この文章は元々十九世紀の終わりにフランスで作成されたもので、それが一九〇三年から一九〇五年の間に、帝政ロシア秘密警察によって承認発表されて広く知られるようになったものです。一九三〇年代からナチスドイツは、ユダヤ人排斥のためにこの文章をしばしば使用しました。この文章が偽造であることが何度も証明されているのにもかかわらず、今でもこの文章は、反ユダヤ主義の作家などによってよく使われています。(ヘブライ大学教授ベン=アミー・シロニーによる)

 

このようなことは、いじめられる者がいつも体験することだ。大勢の者によってかってに悪いイメージが作られ、それが増幅され、とてつもない奇形なものにされ、それによりさらに憎まれ、恐れられ、うさばらし――うまくいかないことは、すべてその者のせいにされてしまう――に利用されてしまうのである。これは、その者の行動ではなくその者固有の何かによっていることは確かなことである。だから、努力などではいじめから逃れられないのである。いじめられない者は、何をしても絶対いじめられないのである。ユダヤ人は、そしてあらゆるいじめられる者は、誰もが迫害したくなるようなものをもってしまっているのである。ユダヤ人は、二〇〇〇年以上にわたり他民族からいじめられ続けてきた。昔のヨーロッパにおいて、彼らに対する死刑の方法は、とりわけ残忍なものとなった(動物と共に逆さ吊、ユダヤ人のための特に高い絞首台など)。ナチスドイツにより行なわれたユダヤ人の虐殺の規模は、歴史上例を見ないようなものであったが、それは、実は異常なものではなく、我々が日常行なう「いじめ」の延長上にあるものなのである。その構造は、世界のあらゆるところで起こっているいじめとまったく同じものなのである。

ユダヤ人を研究することによっていじめられるメカニズムが解明されるのか? ―-その答えは否である。我々は、前記のように目の前に現れた相手の顔が魅力的か醜いかどうかは判断できる。しかし、我々の意識にはその判断基準がわからないのである。この判断基準は、個々の例から知ることなどできず、たぶん我々の意識を超えたところ(フロイトの言う無意識・エス)で判断されているのである。これと同じように相手が現れれば、そいつを迫害したくなるかどうかの判断は下るのであるが、どのような者を我々が迫害したくなるのか、いじめたくなるのかは、我々(意識)にはまったくわからないのである。前記の「生意気」、つまり「我々が相手に定めた価値を越えるような行為」における「相手に定めた価値」がどのように決定されるのかは、意識にはわからない。それはどこからか意識に到来するのである。

ユダヤ人はいじめられたが、それは上記の一般に言われているような理由によるものではない。ヨーロッパの人たちは、ユダヤ人を見たとき、知ったとき、なぜか迫害すべき者と判断したのである。ユダヤ人は、現代においても欲求不満の多い集団内で、いじめの標的にされる者と同じ性質を民族としてもっていたのである。彼らへのいじめは、二千年以上にもわたって執念深く続けられてきた確実な事実である。前出の「物語 ユダヤ人の歴史」によれば、中世や近世においてユダヤ人は、離散した国々で溶け込もうとし、それは短期的にはうまくいったのであるが、結局また迫害されてしまう、という定めから逃れられなかったのである。アメリカに移住したユダヤ人も大きな差別を受けたそうである。彼らは、どこに行っても支配的な民族、つまりより上位の民族――この序列が常にいじめの根底にあり、この序列のメカニズムは、我々にとって永遠に未知なるものなのである――に見下されてしまうのであった。

いったいどうしてユダヤ人はいじめられたか、という問題は、どうしてユダヤ人が支配的民族になれなかったのか、どうしてヨーロッパ人がユダヤ人に対して支配的民族であったのか、この二つの民族の強弱関係はどうして決まったのか、という問題に行き着くのである。強い民族は、数においても勝っていることが多い。ユダヤ人がヨーロッパ人より数において勝っていたならば、ヨーロッパ人にいじめられることはなかったと思われるが、そのようなことが現実に起こらないようになっており、弱者はさらに少数派でもある、という《不気味な法則》があるのである。この問題は我々の思考の及ばないもの、その解明は不可能であるものなのである。この序列・強弱関係は、我々の関与できないところできっちり決められているのであり、それにより我々は、いじめる立場になるのか、いじめられる立場になるのかが定められているのである。

前出の「物語 ユダヤ人の歴史」によれば、第一次世界大戦で敗北したドイツでは、その怒りを、それまでの迫害の歴史を乗り越えてようやくドイツに同化し、うまくやっていたはずのユダヤ人に向けた。彼らは再び昔に戻ったかのように迫害されはじめ、うまくいかないことはすべて彼らのせいにされた。そして、ヒトラーユダヤ人絶滅作戦に及んだのである。これは、いじめが努力によりなくすことのできないものであるということを示しており、《いじめられる才能のある者》は機会があればいじめられてしまう、という法則を示しているのである。つまり、強弱関係という構造があらゆるものの間にあり、我々が努力によってどのように変形させても、その構造は変わらず、不運な者は苦しめられ続けられなければならないのである。

そして、あの歴史上例を見ないような大虐殺、ヒトラーによるユダヤ人の絶滅作戦――これは、一般に知られているよりもはるかにものすごいものだった――に及んでしまったのである。一般に知られているポーランドアウシュヴィッツで行なわれた大量虐殺だけでなく、東欧やソヴィエト連邦では、古代から行なわれてきた残酷な死刑の方法で、彼らは秘かに大量に殺されたのであった。前出のモネスティユ「死刑全書」には、その例が記されているので引用する。

 

*ドイツ人は第二次大戦中にソ連ユダヤ人を磔にした。マラパルテは『肌』のなかで、磔刑に処された人々との出会いを報告している。

「恐怖の叫びが私の喉からもれた。それは十字架にかけられた人々であった。それは腕を左右に広げ、木の幹に釘づけにされた人々であった。ある者は肩の上に、ある者は胸の上に頭を落とし、またある者は顔を上げて新月を見つめていた。ほとんど全員がユダヤ人の黒い外套をはおっていた。多くの者が裸で、その肌がぼんやりした月明かりのなかで輝いていた[・・・]。

磔にされた人々は黙っていた。きこえるのは、息をする音と歯のあいだからもれるヒューヒューという音だけであった。彼らの視線が私に注がれるのが感じられた。彼らの火のような目は、涙にぬれる私の顔を燃え上がらせ、私の胸をつらぬいた[・・・]。

『おれを哀れむなら、殺してくれ! ああ、頭に弾丸を撃ち込んでくれ』磔にされた人々の一人が叫んだ。『頭に弾丸を撃ち込んでくれ、おれを哀れんでくれ! 殺してくれ、ああ! 後生だから殺してくれ!』」

 

また、前出の「物語 ユダヤ人の歴史」によると、次のような恐ろしい虐殺が行なわれた。

 

*一九四一年にドイツ軍がソヴィエト連邦に侵入したとき、ドイツ軍は特別機動殺人部隊を編成した。この部隊の目的は、広大な占領地域内のソヴィエト人民委員、共産党員、パルチザンユダヤ人、ジプシーを見つけ次第殺戮することにあった。この部隊は、一般市民を殺戮するための完全に独立した権限を与えられており、通常の軍隊とは協力しながらも独立して行動した。東ヨーロッパの田舎の地方をしらみつぶしに探しまわり、小さな町にいたユダヤ人を見つけだしては、機関銃で射殺したり、溺死させたり、あるいは彼らの車の排気ガスで窒息死させた。ウクライナ人、ポーランド人、ラトビア人、リトアニア人、エストニア人、ルーマニア人なども補助者としてしばしばこうした殺戮に熱心に加わった。こうした殺戮行為で最も悪名高いのは、一九四一年九月二九日から三〇日にかけてキエフの近郊のバビヤールで起こったドイツ軍とウクライナ人による約三万三千人のユダヤ人の虐殺である。

 

この「物語 ユダヤ人の歴史」によると、ヒトラー第二次世界大戦中において、連合軍との戦いのさなかにもかかわらず、ユダヤ人にたいするいじめに没頭した。これらのエネルギーを連合軍との戦いのために使ったらよかったと思われるのであるが、これはやぼな考えであろう。彼にとって、人を、ユダヤ人をいじめるということには第一級の価値があったのである。つまり、我々にとって「いじめ」とは、性欲や食欲などに負けないくらい重要なものであるということなのである。恐ろしいことであるが――。

二〇〇〇年以上にわたって、ユダヤ人はどんなに努力しても、差別から逃れられなかったのである。これは、現代において、いじめから逃れられない者と同じだ。この事実が大事なところで、これらは人間の犯した悪いことだというのではなくして、我々の中に確固として「残忍性」があるということなのだ。現代においては、ユダヤ人に対して以上のようなことは起こらないかもしれないが、だからといってこれらのことは、忘れなければいけない悪い思い出ではないのである。一度でも起こったということは、そこに何かがあるということなのである。我々はこれらの事実により、永遠に存続するであろう我々の恐ろしく不気味な本性を見てとらねばならないのである。生まれながらにして迫害される者と、相手を迫害できる者がいる、ということも覚えておかなければならない。このことは、科学的にわかるようなたぐいのものではない、ということも覚えておいてほしい。

組織の中でいじめられる者は、たいていユダヤ人的要素があるのである。才能があってもパトロンがつかないのである。パトロンは必ずや、実効的な才能や行動ではなく、背景的なものや我々を麻薬のように誘惑するもの、つまり、外観的・肉体的・遺伝的・伝統的な魅力につく、ということを覚えておいてもらいたい。我々は肝心な局面で、フランスの思想家バタイユの言うように必ずや生理的欲求や情念が理性的な判断を抹殺するのである。

 

第七節 いじめを科学的に解明しようとしてはいけない

たびたび言う「相手に感じる価値」というものは、実はよくわからないものなのである。それは我々の意識の判断ではなく、本能の意識への命令と言える。あるいはフロイトによれば意識の外部(無意識、エス)から意識に到来したものである。であるから科学的に整理できうるものではない。我々は我々にとって永遠に未知である、ということを覚えておかなければならない。我々のことは永遠に科学的には解明できないであろう。というのは、科学は我々の思考活動の一形態なのであり、我々が科学を含み、科学は我々に従属するものであり、だからこそ科学は我々を把握し、捉えることなどは原理的にできない。

前記のいじめられるための三条件は、我々が相手に下す残酷な判断を整理したものだ。そしてそれをさらに整理すると、「相手の行動が、我々が相手に感じた価値を越えるときの不快感」であることがわかった。しかし、これで解決されたわけではない。単にわからないものが、別のわからないものに移動しただけなのである。「我々が相手に感じた価値」を我々は科学的に測ることはできない。このように問題を既成の概念で整理してしまうことは、頭の回転のよい者の仕事の仕方と同じで、見かけ上うまく処理されたように見えるのであるが、実は何も解決されていないのである。前にも記したが、フランスのボルテールは、前出のショーペンハウアー「随感録(パレルガ ウント パラリポーメナからの抜粋)」によると、「形容詞は名詞の敵」と言っている。偉大な著述家は安易に形容詞を使わない。知れば知るほど不思議である人間の行動や自然現象を、頭の回転のよい者は形容詞を安易に使うことにより、軽率に処理してしまうのである。

我々は、相手に自分の生理的欲求を満たすための価値があるかどうかを調べる。それがあれば正当・魅力的・優良とされ、なければ不当・劣悪とされる。しかし、我々はその生理的欲求という我々の本能によるいやらしい判断・行動を隠すために、色・匂い・味を付け、深遠そうな意味を載せ、美化し、いろいろなものと関係付け、ついにわけがわからなくしてしまうのである。そのような作りものは、やがて宗教・道徳・愛などという名がつけられ、我々を意味深いものに見せかけ、無知な者を騙し続けるのである。

我々が相手にいだく優劣に関する感情、つまり魅力やその正反対である憎しみ・劣悪感・生意気感は、科学的に捉えることは不可能なのである。我々の感情は各人の固有な価値観・事情・体験による。だからこそこれらにまつわる問題は、客観的なもので整理できないのである。しかし、我々はそれらを「科学的」に見ようとする。各人の固有な心理を客観的に見ようとして、強引に既成概念により説明してしまうという過ちを犯してしまうのである。

前出のバタイユ「エロティシズム」から、このことに関連のある部分を引用しよう。

 

*エロティシズムは、人間の内的な生の諸様相のうちの一つである(著者注:観察者の心理のいろいろな状態の一つ、つまり観察者の心の問題なのである)。この点について私たちは思い違いをしている。というのも、エロティシズムが欲望の対象を絶えず外部に求めているからだ(著者注:つまりエロティシズムを観察者の心理とは無関係な実体として捉えようとする)。しかし欲望の対象は欲望の内面に応えた結果なのである(著者注:我々がエロティックだと思うからこそ、それはエロティックなものとなり得るのであって、それが対象の中にそれが誰にもわかる形で存在しているわけではない)。一個の対象の選択は、いつも主体の個人的な趣味に左右される。たとえこの選択が大多数の人も選んだかもしれない女性に向けられたとしても、そこで作用しているのは、たいがいこの女性の客観的な美点でなく、この女性の捉えがたい様相なのである。この女性の客観的な美点は、もしも私たちの内部の存在を感動させないのならば、おそらく私たちの好みを左右する何ものも持っていないにちがいない。

 

たとえば野球の好きな者が、それのどこが面白いのかときかれたとき、たいてい野球の中にその回答を捜す。しかし、野球の好きでない者にとっては、それは面白いものではない。つまり、野球の中に、野球の動作の中に、誰でもわかる面白さは一つもないということだ。面白さ・魅力はその対象の中にあるというのではなく、我々のある心理状態であると言えるのである。野球自体が面白いというものを誰でもわかるようにもっているわけではなく、それを面白いと思う心理状態にある者だけが、野球を面白いと思えるのである。野球というものを面白いと思える「我々の状態・心理」があるからこそ、それは魅力的になり得るのである。だからこそ、野球の魅力についての客観的・科学的な説明は一切不可能なのである。

我々をいじめ・報復に誘う生意気・僭越というものは、相手の行動が、我々がその相手に定めた範囲を超えている、と感じたときの我々の不快感なのである。それは、ある者が媒介したときのみ発生する問題であり、対象そのものに存在する問題ではない。客観的・科学的に――誰にも共通にわかることができるものによって――生意気・僭越を理解することはできない。我々がどのようなものに価値を感じるかを我々の意識は知らない。しかし、我々は相手が現れれば容易に相手の価値を感じ、相手のとった行動に対して、生意気・僭越の判断を、思った音を正確に声に出すように容易に下してしまうのである。

前にも記したが、我々が声や口笛で思った音を出そうと思ったとき、声帯の形や口の形を試しもせずに一発で正確に決められるメカニズムは、我々の理解を超えている驚異的なことなのである。それらは、《私》という意識内で完結することは不可能であり、意識が関与できないもの(たとえばフロイトの言う無意識・エス)の中で行なわれていると暫定的に考えるしかない。あの車がどうして恰好いいのかは、《私の意識》にはわからない。気がついたときに《私の意識》は、恰好いいと判断してしまっている。魅力的な顔・体形・性格という判断は、《私の意識》の中だけで論理的に説明できるものではないのであり、どこからかいきなり届けられたものなのである。どこからか「そう感じることを告げられた」だけなのであって、《私の意識》の中だけで独立して全てを決定しているわけではないのである。魅力的な顔とはどういうものか、と問われたとき、《私の意識》は何も答えられないのである。しかし、《私の意識》は対象が現れれば容易にそれを判断してしまうのである。

人間の中でうまくやる方法について書かれた、前出のカーネギーを初めとする多くのこの関連の著書は、科学的な内容になっている。つまり、全ての問題は我々によって解明できるものとして、我々の行動に還元できるものとして、宇宙の不思議さとまったく同等な各人の固有なものの不思議さ、科学的理解を超えるもの(「マーフィーの法則」など)などは一切無視するのである。たとえばいつも楽しそうにしていると人が集まってくる、というような内容である。しかしこれは単純な解釈であり、同じ行動でも人によって効果は異なり、ある人がやると正当だが、別な人がやると生意気ということがある。つまり、その行動のみに効果を還元できないことがわかるのであり、ある効果はその行動だけではなく、その行動を行なった者の顔・体形・しぐさ・性格・声・趣味などや、その者に関係しているもの、背景・パトロン・国籍・家柄・両親の知名度・友人・出身校・経歴などや、我々とその者の強弱関係、さらには我々が考えもしないような広大な範囲のものが必ず関係しているということだ。つまり、我々にはとうてい手に負えないものなのである。

「幸運な者」は、その存在そのものがなぜか我々を魅惑し、そのためその者が何をやっても、何を言っても、その内容にかかわらず我々を不愉快にすることはなく、その者の行動は全て魅惑的・正当的に見られる。そのため、その者にとってこの世は極楽となる。しかし「不運な者」は、その者の存在や行動がなぜか我々を必ず不快にしてしまい、その者はそのために常に非難される。そのためにその者は必ず報復(不快の中和)を受けることになり、その者にとってこの世は地獄と成り果ててしまう。残念ながら、我々にはこれらのメカニズムについてわかることができず――たぶん永遠に――、原理的にこの問題を解明できないことがわかるのである。それは、意識やあらゆる知的な活動をもそのコントロール下に置く《未知なる何か》のみが知ることなのである。意識はその《未知なる何か》にコントロールされているのである。意識はその中に居るのであって、全体を見下ろすことなどできないのである。

家庭内の暴力・子供への虐待・けんか・いじめ・戦争などをなくすことができるという考えは、啓蒙的・科学的な考えであり、実に軽率な考えなのである。これらの問題は、我々がいじることによっては解決できない。腹がへった者には、食い物を食わせること以外でその不満を取り除くことはできない。世の中で起こる問題には、各人の固有な趣味・嗜好・情念・生理的な欲求、そして我々の意識がまったく関与できない何か(たとえば「マーフィーの法則」やフロイトの言う無意識など)によっているのであり、我々にはまったくコントロールできないものによりこの世界は動いているのである。

あらゆる行為に対して正当な説明はいくらでもでき、我々はその中から自分の事情に合うものを選ぶ。どんな行為でもその正当性は論理的に説明することはできる。しかし、その本当の起源は絶対に非理性的なものや、我々の意識が関与できないところからの指令によっているのであって、これこそが難題の犯人なのである。

つまり、我々は「いじめられる者の問題」をいつかは解決しうるものと思ってはいけないのであり、永遠に解決不可能な難題として捉えなければならないのである。我々はこの問題の中にいるのであって、けしてそれらを上空から眺めることができない、のであるから。

 

第八節 家庭内暴力について

ここで、これまでのいじめに関するアイデアにより、家庭内暴力、つまり「家庭内におけるいじめ」についての一つの解釈を示してみる。家族はある観点では他人よりも価値ある者だが、別な観点では他人より価値が下がることがある。たとえば主人にとっては、家族は自分の支配下にあるはずの者であり、支配下にあらねばならない者であり、また知り尽くされていて未知さがなく、自分に対して弱いはずの者、弱くあってほしい者、弱くあらねばいけない者なのである。

あらゆるものはそれを手に入れ、知り尽くしたとたんに価値は下がってしまう。自分の家族もそのような観点から見たときには価値は低い。つまり他人よりつまらないもの見えるときがある。主人にとって、妻・子供・年老いた親などは、自分が支配する者、自分より下であるべき者、自分に付き従うべき者である。家族は他人より大事な者だ。しかし、主人の残忍性やそれによるいじめから身を守るという意味での価値は低い。家族を見るとき我々には、大切なものという見方と、知り尽くされ、支配下にあり、未知さのないつまらないものという見方の二つがある。相手を見る観点は、我々にはわからない宇宙のメカニズムにより決まるもので、これを我々にはコントロールできず、それにいつも身を任せるしかない。強さ・恐ろしさ・未知さなどは、我々にとってはまるで酒・タバコ・麻薬・香辛料のように魅惑的で価値あるものなのである。麻薬的もの・未知さを渇望している気分において、知り尽くされた、あるいは互いにわかり合えた――互いにわかり合うということは、良いことどころか害になるのである――自分の家族は、つまらない存在であるばかりか、憎むべきものとなってしまうのである。不快なとき、何か刺激を求めているときのようないらいらした気分のとき、家族は価値の低い不快なものでもあるのである。

相手に強さ・恐ろしさ・未知さ・不気味さを感じさせる者は嫌われることはあっても、けしていじめられない。これらはある種の快を感じさせる。それは我々を麻薬のように麻痺させる効果がある。家族にはそれがないのだ。そして、家族をいじめても他からの反撃、報復の恐れはない。相手は孤立しているのだ。これが家族の一員がその家族の中の残忍性が高い者にいじめられやすい、ということに関する一つの説明である。好戦的な者や不快を貯めている者は、最も襲いかかりやすいもの――それはニーチェによれば自分自身でもあるのだ――に襲いかかるものなのである。

親が自分の子供を虐待したときの理由の主なものは、「自分の言うことをきかなかった」が多い。これは、自分の支配下にある者のくせにそれにふさわしくない行動をした、自分がその子供に定めた範囲を踏み越えようとした、ということ、つまり、前述の「生意気な行為」に対する報復なのである。その子供の行動は、その親から見れば「生意気」だったのである。当然、他人からみれば、どうしてそんな些細なことでそんなに腹を立てるのかがわからないのである。しかし、その子供の親はその子供を殺したいほど怒らなければならなかったのである。これは、彼(彼女)としては避けられない必然的な行動なのであり、それは我々の不気味な本性なのであり、教育などによって治るようなものではない。彼が彼である以上、彼は些細な理由で自分の妻や子供を虐待し続けるだろう。それが継子なら、いっそう激しくそれは行なわれるのである。継子は実の子より価値が低いからであり、同じことをやっても許しがたく感じてしまうのである。なんとも悲しいことではあるが、「あまりに人間的な行動」であることは確かなのである。

外では静かな者が家に帰ると人が変わったように家族に怒る。彼は外では弱く、何事も我慢し、不快は全て抑圧しなければならない。外では弱者である彼は、他人の中ではただじっとしている他はない。そしてその不快は、自分にとって弱者である家族により中和するしかない。外では静かな彼は、攻撃するべきではない者――しかし、攻撃できうる者――に対しては、その分多めに容赦なく攻撃する。これを知った者はあんな静かな人がとか、とてもそんなことをするようには見えなかった、とか言って驚くのである。凶悪な犯罪者はそのほとんどが、「まじめで、静かで、良い人だったのに」と言われるではないか。彼らは不快の正常な中和手段をもっていなかったのであって、つまり、静かな人というのではなく、「社会生活において、困ったこと、対処しなければならないことに対してなにもできず、ただ我慢していたり、黙認していたり、ぼんやりしていたりすることしかできない無能な者」であったのである。

我々の不快からくる行動は相手を選ぶ。自分の支配する者・弱者・憎たらしい者・どうでもいい者・知り尽くされた者が選ばれるのである。支配者・強者は、それらの者の《生意気な行為》を敏感に嗅ぎつけて、それらの者に、彼の生理的不快や社会活動における不快をも乗せて報復することで快楽するのである。

世の中ではうまくいっていて、けしていじめられることのない者でも、家庭内ではいじめられる可能性があるのだ。家庭内ではあらゆるよろいを剥ぎ取られた状態にあるからだ。家族は互いに助け合うものであると同時に、互いに知り尽くされているし、互いに逃げようがないという危険もあるのだ。その中に残忍性や不快の大きい者がいた場合、その者から身を守ることが難しくなる。家族はうまくいっていれば安全な集団なのであるが、不快の中和手段として社会的に正当なものをもっていない者がいる場合には、危険なものとなってしまう。

家庭内暴力は家族の中の不快者の行動だ。それは反撃も、逃げることもできない無力な家族に向けられる。欲求不満はもっともぶつけやすいところにぶつけられる。けして遠回りせず、最も身近で弱い者に向けられる。外で中和できなかった不快は、家庭の中までもち込まれ、自分の最も大事な協力者に向けられてしまう(再三言うが、ニーチェによれば自分にも向けられる)。不快の中和手段として社会的に正当なものをもっていない者は、最後には自分を支えてくれる者、ついには自分自身にも攻撃を加えるのである。なんとも恐ろしいことではないか。

前記のグリムメルヘンのある話の中でも、相手を見下した者は、その相手が自分の困ったときに親切にしてくれることすら気に食わない。それは自分より相手が優位になっていることになるからである。自分より劣っていると思った者、あるいはそうであるべきだと思った者が、自分より優位に立つことは生意気(僭越)な好意であり、我々の名誉心はそれをけして許さないのである。そして、この不快を中和するためにいじめが始まるのである。

ここで関連した実際の事件をいくつか上げてみる。二〇〇五年六月のTVニュースでは、次の事件が報じられた。父が娘を虐待し、両手を骨折させ失明させたというものだ。小学校の入学時に学校に来ないことで発覚したそうだ。どんなにひどい虐待をしたかわかるだろう。どうしてこんなにひどいことができるのだろうか。そのメカニズムを今説明したばかりの私でさえも驚いてしまうような事件だ。人間の残忍性は思ったよりも凄まじいものだ。あまりもかわいそうだ。誰も助けることができないような状況で、思う存分いじめられてしまったのである。ただやられるだけであった。

二〇〇五年七月のニュースでは、身ごもった女性がアパートの五階から落ちたというものだ。帰ってきた夫が酒を飲んで暴力を振るいだした。この女性は「許して、やめて」と叫び、窓からロープによって逃げようとした。そして落ちてしまったというものだ。このようなことはこれまでもたびたびあったと周囲の人は言っていて、いつかは何か起こるのではないかと思っていたそうだ。

二〇〇五年八月に報じられた事件は、継父からいじめられた娘の話だ。継父はその娘が宿題をやっていなかったという理由で、数時間虐待した後、娘を首から下を地面に埋めてしまった。以前からこの娘の悲鳴は聞こえていたそうだ。彼には実の娘がいたそうだが、彼女にはそんなことはしなかっただろう。彼の妻もそれを見て見ぬふりをしていたそうだ。自分の実の子でない彼女は、彼にとって価値の低い者であったのだ。その者が少しでも手間のかかることをやらかすと、他の者(たとえば実の娘)が同じことをやったのに比べて、はるかに大きな怒りが彼を襲うのであった。彼の行動は相手の行動よりも、相手の素性に大きく依存しているのである。彼女が彼の実の娘であったなら、同じ行動をしてもこんなことはしなかったかもしれない。自分にとって価値の低い者の行動は、いちいち不快なのである。彼のこの行為(虐待)は必然的なものであって、彼にはどうすることもできなかったのであろう。彼のこの残忍な行為よりも、彼の不快がいかに大きなものであったのかということが問題なのだ。この不快を彼から取り除かない限り、彼は虐待をやめることはできないだろう。彼がある不快に苦しめられることについては、彼には一切の責任はないのである。彼は自分の不快をコントロールすることはできない。それはどこからか到来するとしか言えないのである。娘を、無力な者を、数時間にわたりいじめることが、いかに彼にとって大事な仕事であり、必然的な行為であるかを誰もが思い知るがいいだろう。不道徳的な発言になるが、彼はただ、「人間的な行為」を行っただけのことであり、その継娘は運悪くその餌食になってしまっただけなのである。

このようなことが世界のどこかで、毎日のように起こっているのである。恐ろしいことではあるがこれらは、我々が暴力・いじめと共に生きなければならないことを示しているのである。また、このようなことは、太古から一定の割合で起こっていることで、道徳的には異常なことであるが、人間としては正常なことなのである。常にある割合で、不快を家族への暴行によることでしか中和できない者がいるのである。どんな時代でも、どこかで必ず弱い者が強い者にいじめられている。しかし、周りの者たちはそんなことは知らずにいる。いじめは常に秘かに行なわれるものだ。そして、たまたまTVニュースなどでそのような事件を見ると驚くのである。つまり、我々はこの「あまりに人間的な」我々の性質をほとんど理解していないで、それをまるで間違ったもの、悪いもののように扱うのである。くりかえすが、これは悪くもなく、間違っているわけでもない人間の「あまりに人間的な性質」なのである。

 

第九節 準いじめ行為

いじめほどあからさまに相手を侮辱しないが、明らかに相手への侮辱の構えをちらつかせている行為を「準いじめ行為」と呼ぶことにする。我々は相手に生意気な行為がなくても、相手との間に大きな強弱関係があり、強いほうが不快感の強い者であるとき、「準いじめ行為」が始まる。この強弱関係とは前記のように、相手が自分にとって利益のある者か、注意するべき者か、つまりへたに手を出したとき反撃がくる者か、相手そのものが自分に快感をもたらすか、つまり魅力ある者か、相手の背景的なものが自分より上か下か、相手の肉体的なものが自分より上か下か、などにより決まるものだ。

相手が自分にとって強い者、価値ある者と感じられた場合、我々は相手に自分を良く見せたいという欲求が生まれる。だから自分のいやなところを隠そうとするのであり、これが紳士的な態度なのである。つまり、我々の醜い行動を抑制するのである。相手が自分にとって強い者、価値ある者である場合、このような抑制はむしろ楽しく、快い緊張感をもって楽にできるものだ――これが古来よりあまりにも美しく語られすぎる「愛」というものの興ざめする様な正体であるのだ。しかし、相手が自分よりはるかに弱い、価値がないと感じられた場合、自分を相手に良く見せようという気分はなくなる。この相手に良く思われる必要はなく、どう思われてもかまわないからである。このとき、我々はあるだるさに襲われ、自分のいやらしいところを隠したり、抑制したりすることが困難になる。緊張する必要がなくなると、今度は「だるさ」という不快が襲ってくるのである。このとき我々はついつい、いやらしいものを漏らしてしまったり、見せてしまったりする。これはこの「だるさ」という不快感に対処するために必要なことなのである。たとえば相手の前で平気でおならをする、相手にいきなり蹴りを入れる、後ろから相手のわきの下に手を入れくすぐる、階段を上っている相手に下から近づき肛門めがけて突きを入れる、などのまことに失礼な行為である。これらは、自分にとって強い者や大事な者にはけしてできない行為であり、実に失礼な行為である。互いに対等であれば、互いに紳士でいられるのである。それは殺人をも招くエロティックな本能と同じく不気味なものである。

名誉心、つまり自分が優れた者、価値ある者であると相手に見てもらいたいという気分は、その見てもらいたい相手にも価値を要求するのである。つまりどうでもいいような相手には、我々は自分を良くみてもらおうとは思わないのであり、このような者に対して我々はけして紳士にはなれないものだ。そのとき我々は、ただ紳士(良い子)になれないだけではなく、不気味な方向に飛んでしまうのであり、その者に対して、我々のいやらしい部分を隠すことなく見せたくなるのである。それは相手に対してきわめて失礼な態度となって現われるのである。相手を苦悩させることにより自分の不快を中和しようとする行為は、いじめ・虐待であるが、相手にとって失礼な行為をすることにより快楽を得る、つまり不快を中和しようとする行為が「準いじめ行為」なのである。

我々は相手が自分より強い者、価値ある者と感じたとき、恐怖し、緊張し、ある種の快を感じる。しかし、相手にどのような価値も恐怖も感じなかったとき、いじめとまではいかないまでも驚くべき不道徳な行為に出てしまうのである。その相手に自分がどう思われても構わない、気を使う必要はまったくない、恐れることはないという判断が下ると、安心とともに一つの「だるさ」が襲ってくるものだ。この「だるさ」という不快が、我々に「準いじめ」という不気味な行為をさせるのである。強弱関係という勾配により、我々の醜いものは高いところから低いところへと流れていってしまうのである。これらの行為は「いじめ」に比べはるかに多く見られるもので、いじめの前触れ、予告と見たほうがいいのかもしれない。

 

第一〇節 いじめの例とその解釈

二〇〇五年の初めの頃、ある会社の元会長のT氏の自社株をめぐる不正のことが、毎日のようにTVで報道されていた。その中で関係者の次の二つの話が印象に残った。T氏は自分の経営する施設の中の中華料理店で女性と二人で食事をした。ところが、相手の女性が注文したものの中に、彼女が嫌いなものが入っていた。このことを怒った彼はそこの責任者を首にしてしまったそうである。もう一つの話では、同じく自分の経営するレストランに自分の子供を連れて食事に行った。しかし、そこで出てきたビーフステーキの大きさが子供には大きすぎると言って怒り、そこの責任者を異動してしまったのだ。これは家庭内暴力、幼児虐待と同じ種類のものだ。自分の手中にある者、支配下にある者の他人から見れば何でもない行為に対する異常な不快(生意気感)に対処するための報復だ。報復――刑罰でさえも――とは前章に記したように、相手に苦悩を与えることにより不快を中和する方法なのであり、それ以外の理由は後から考えられ、とってつけられたもので本当の理由ではないのである。再三言っているように、我々は相手を苦悩させることは、第一級の不快中和の手段なのである。もしこれが彼の経営する店でなければ、彼はこれほどの怒りを感じなかったであろう。自分の支配下にある者の不快な行動はこんなに人を怒らせるのである。自分の支配する者、見下した者がやらかす自分の思ったとおりになっていない行為は、我々にとって耐え難い不快となるのである。そして、彼はその相手にどのような報復もできる立場にあった。こうなると彼は迷いなくその者をいじめ、その不快を手っ取り早く中和しようとするのである。

病院、老人のための施設などでは、普通の会社、店などとは違うところがある。普通の会社、店などでは客から利益を取り出せる可能性があるうちは客に気を使う。しかし病院とか老人のための施設などではそうではない。入院したばかりの頃には、職員は気を使ってくれる。その後の経過が順調であればそれがそのまま続くこともある。しかし職員の本心は、患者やその家族を見下しているのである。彼らにとって患者たちは客ではなく厄介で無価値な者なのである。彼らは役人的な眼で――つまり何をやっても安定した給料がもらえることによる緊張感のない眼――で患者たちを監視している。入院が長くなり飽きられてきたり――入院したての頃は新鮮で、何も知り尽くされていないので丁重に扱われる――、トラブルがあって印象が悪くなったりしたとき、職員の本心は現われてくる。職員は自動車販売店の職員が客に感じるようなものを、患者たちに感じることはない。患者は入院させてやっているのであって、入院してもらっているわけではないという意識が常にあり、「いやなら出ていけ」という台詞がすぐに出てくる。ここに確固とした強弱関係があることを職員も患者とその家族も正確に感じている。職員は自分たちが強い立場であることを、患者とその家族は自分たちより弱い立場であることを自覚している。だから何かうまくいかなくなり、患者やその家族が職員に注文をつけるととたんに職員の態度は変わり攻撃態勢に入っていく。つまり弱い立場の者が偉そうなことを言ってやがる、という生意気さを感じるのである。老人や弱い立場の者のめんどうをみる施設にも共通のものがある。こういうところの職員にとって、入所者は価値低い者に見えるのである。だから初めの頃はその気分を隠して丁寧な態度をしているが、それは次第にできなくなり、いつか本心が出てくるのである。これは、弱い者、困った者、病院や施設側が攻撃してもいっこうにかまわない者が、何か良からぬこと(職員にとって)を企てているということに対する不快感、つまり「生意気」という感情に対処するための行為なのであり、「いじめ」と呼ばれる行動につながっていくのである。職員自身の上位感は、客を求める商人の気分には絶対なれず、緊張感のない退屈な気分、不快な気分へと職員を運んでいく。

会社などの中でのいじめもすごいものがある。あるTV番組で見たものであるが、社長に嫌われた社員が客と会議している最中に、社長に照明を消されてしまったとかいう信じられない話や、部長に嫌われた課長が徹底的にいじめぬかれ、ついには円形脱毛症になってしまったという話も出てきた。このような表には出てこない残酷ないじめが、毎日どこかで秘かに行なわれているのである。それらの例から、我々人間の誰もがしっかり見なくてはならない《不気味な正体》が見えてくるのである。

次の例は、青山恵「中高年サラリーマンを襲ううつ病の恐怖」(PHP本当の時代、二〇〇〇年二月特別増刊号)より引用してみる。

 

*「明日の朝までの急な仕事ができた。悪いが、今日は皆で残業してくれないか」

松田武司次長(仮名、44歳)は、部下一〇人に向かって声をかけた。都市銀行の午後のオフィスである。二〇代、三〇代の部下は顔を上げ、一瞬、妙な目配せをし合った。「すみませんが、僕はちょっと用があるので今日はのこれません」

一人の部下がいうと、次々に「僕も」「私も」と同じような声が上がった。何もいわずに下を向いて拒否の態度をとる者もいる。若い行員たちの顔には、どこか同じような薄ら笑いが張りついている。松田次長はかっとしたが、次の瞬間、力を抜いた。こんな状態がすでに一ヶ月も続いている。叱責すればさらに態度は硬化するのだ。

きっかけは一ヶ月前、部下二人を皆の前で叱責したことだった。決算前の忙しい時期に部下二人が三日間の有給休暇を取ってスキーに出かけ、真黒に雪焼けして出社してきた。前々から届けがでていたとはいうものの、思わず皆の前で「この忙しい時期にスキーとはなんだ!」と叱責してしまったのだ。

松田次長は、入行二二年目。戦後の高度経済成長期を生き抜いてきたモーレツ世代の上司に仕事をたたき込まれてきた。

「僕らの頃は、上司に皆の前で怒鳴られることなど日常茶判事。怒鳴られても、いま、自分は鍛えてもらっているのだとおもったものです。・・・」

こういう松田次長の感覚からすれば、このときの叱責はごく当たり前のことだった。ところがこの叱責には、当の二人だけでなく、周りの部下たちもカチンときたらしい。以来、残業を命じられても彼らは何かと理由をつけて断りはじめた。廊下ですれ違っても黙礼さえせず、無視する。飲みに行こうと誘っても誰もついてこない。しめし合わせてそっぽを向き始めたのだ。

自分の管理能力を問われているようで上司にいうこともできず、松田次長は孤独な毎日を送った。松田次長と部下たちの間がうまくいっていないことは、まもなく部長の耳にも入った。松田次長が統括する部門の仕事はいつも遅れがちだ。部長からの評価も下がり、松田次長はさらに孤立した。彼は不眠、憂鬱からついに出社拒否症となった。心配した家族に付き添われ、松田次長が精神科の門をたたいたのは、昨年五月のことである。松田次長の治療にあたった初代関谷神経科クリニックの関谷透院長は、しばらく休暇を取って心身を休ませるよう指導した。ストレスによる「軽症うつ病」である。

 

ここで、この例を本章の考え方で解釈してみることにする。『きっかけは一ヶ月前、部下二人を皆の前で叱責したことだった。決算期の忙しい・・・と叱責してしまった』とあるが、こんなことはどこでもやっていることだ。有能で出世するタイプの者でこのようにしていない者はないといえる。というのは、我々は実は恐怖でしか動かないものなのである。組織の中でうまくやっている者は、相手に恐怖を感じさせることに長けているもので、相手を威嚇し、恐怖を与え、けして自分に背かないように縮み上がらせることができる能力、風采をもつ者なのである。度々言うが、学校でも好かれる先生は怖い先生なのだ。相手に恐怖を感じさせない先生は嫌われる。恐怖は、勉強という退屈で不快な作業を楽しくできるようにしてくれる《麻薬》あるいは《香辛料》であるのだ。我々は、我々に常にまとわりつく不快を中和するために恐怖を、緊張感を、音的や視覚的ノイズを、そして苦悩でさえも求めているのだ。だから、誰でも冒険が好きであるし、マゾヒズムもけして異常なことではないのである。それは我々にとって不快を中和する《麻薬》であるのだ。つまらない授業も恐ろしい先生の与えてくれる《麻薬》あるいは《香辛料》と一緒に飲み込めばおいしく食べられるのである。だから部下を叱責することは、部下たちに嫌われる原因ではない。部下たちは、自分たちに恐ろしさを与えてくれ、冒険をさせてくれ、自分たちを振り回してくれるような強く、怖く、不気味で未知でたくましく生命力あふれる《怪物》を求めているのである。

『若い行員たちの顔には、どこか同じような薄ら笑いが張り付いている』とある。つまり、初めから松田次長はバカにされていたのであって、その行動などはまったく関係がない。他の者が同じ行動をしたら、結果はまったく違っていたであろう。部下にとって彼は価値の低い者であったのだ。簡単に言えば彼は次長の器ではなかったのであり、誰もが上司として付き合う相手ではないことを感じていたのだ。

関谷クリニックの話として、『昔は上司が部下をいびるといういじめがほとんどだったが、最近見られるのは、若い部下が集団で上司をいじめるという例。会社に対する考え方が滅私奉公的な中高年と、ミーイズムに徹する若者との価値観の差が原因です。この差に気づかない、頑固で融通のきかない上司は、いじめの対象になりやすいのです』とあるが、これもおかしい。世の中で出世している者は、どんな時代でも頑固で融通がきかないし、人の話を聞かないし、わがままであるのではないのか。そんなことを好き勝手にやっていながら彼らは人から嫌われず、バカにされず、好かれ、尊敬され、「生意気」などとは言われないのである。誰もが彼の行動を気持ちよく感じるのである。彼の存在自体が魅力的に見えるのである。問題なのはその行動ではなく、その者の固有なものなのである。自分が好きになった者の行為は何でも同意できる。自分が認めている者が言うからこそ、それに同意できるのであって、そのこと自体に同意しているわけではないことが多い。尊敬する者に怒られても、恐ろしいと思うだけであり、不快は感じない。しかし、バカにしている者の言うことは「生意気」と感じ、どんなことでも聞く気がしないし、指示されれば不快になる。

松田次長は、次長という役職に合わなかった人なのであり、このポストではどのような行動をしてもだめになるのである。彼は部下としては有能であったが、その上になる才能はもち合わせていなかったのである。前章でのピーターの法則、『階級組織では、人は自分の責務をまっとうできない無能レベルまで昇進する』の通り、彼にとって次長ポストは「無能レベル」だったのである。この次長という立場での「無能」とは、いままでのように与えられた仕事をこなせないとか、良いアイデアを生み出すことができないとかいうものではなく、部下たちに自分の価値を感じさせ、恐れられるようにする、つまり自分の命令に無条件に従わざるを得ないような気分にさせる能力がないことなのである。部下二人を皆の前で叱責したことは、誰から見ても「生意気な行為」であったというわけで、部下たちの感じた彼の価値を超えている分不相応な行動であったというわけだ。この行動は誰にも「僭越な行動」に見え、前記のニーチェの引用文にあるように、部下たちはこのとき、松田次長に与えていたわずかな価値からこの分を差し引いたので、彼の価値はついに尽きてしまったというわけだ。この結果、部下たちはこの「もぬけの殻」となった者にまったく気を使う必要がなくなり、生意気な彼の行為に不快を感じ、その報復としてあからさまないじめが始まったというわけである。この事件がなくても、いずれこのような行動をしなくてはならないときがくるポストであるから、こうなるのは時間の問題であったということだ。

もう一つの悲惨ないじめの例を同記事から引用する。

 

*背もたれのない丸椅子に座り、オフィスの一番出入口に近い場所で、星俊一さん(仮名、四〇歳)は一日中、フランス語の辞書と分厚いフランス語の本を前に過ごしていた。もう一ヶ月も毎日同じことをしている。

ドアを開けて男性が数人、談笑しながら入ってきた。昔、星さんが担当していた得意先の人間だ。いま、この得意先を担当しているのは星さんより若い男性社員である。

最初のうちは得意先たちも、一番出入口に近い星さんのそばを通るときは言葉をかけていたが、さすがに気まずくなり最近では目をそらして通り過ぎる。

星さんは、中高一貫教育の私立校からストレートで東大に入学。卒業後、大手電機メーカーに入社した。バリバリ仕事をこなす一方、二八歳のときに社内の留学制度を利用してアメリカのビジネススクールに留学。経営学修士号(MBA)を取得して帰国。将来を嘱望されたエリート社員だった。帰国後、星さんはビジネススクールで学んだことや、そこで培った人脈を仕事に役立てようと張り切った。そして五年間メーカーで働いた後に、ヘッドハンティング外資系証券会社に転職した。高給を保証され、会社からは期待された。星さんは次々に新しい企画を立て、顧客を開拓していった。ところが、バブルがはじけ、金融不況に直面し、会社はリストラや部署の統廃合、新規事業の先送りを余儀なくされた。星さんの上司も異動した。新しい上司は、MBAを持ち、ヘッドハンティングされた星さんに初めから批判的だった。高給取りの星さんは、新規事業を立ち上げる余裕のなくなった会社のリストラの対象となったのだ。

星さんは、まもなく、留学の経験が生かせる職場とはいいがたい仕事につけられた。“誰にもできる仕事”である。事務職の女性にコピーを頼もうと思えば、「自分でしろ」と注意される。上司の印が必要な書類を渡しても一番後回しにされる。留守の間にかかった電話のメモをわたしてもらえなかったこともある。部内の会議も星さん抜きで行なわれた。なんとか認めてほしいと思い、不況を乗り切るための企画を考えて提出すれば、見もせずにごみ箱に捨てられた。はじめは上司のいじめに顔をしかめていた同僚も、星さんがリストラの標的にされていると知ると、見て見ぬふりをするようになった。上司の機嫌を損ねれば、今度は自分に矛先が向くからだ。

ある日、上司に呼び出され、星さんは分厚い英文の本を手渡された。アメリカの学者が書いた金融論である。

「君は英語ができるから訳せるだろう。これを一冊、翻訳してほしいんだ」星さんは一番出入口に近い机に、丸い背もたれのない椅子を与えられた。訳しても何の意味のない本を我慢して訳し終えると、今度はフランス語の本を手渡された。

「僕はフランス語はできません」というと、「頭がいいんだから訳せるだろう」と取りつく島もない。星さんは食欲不振になり、頭痛や吐き気に悩まされ、会社を休むようになった。順調にエリートコースを歩んできた星さんにとって、生れて初めての挫折だった。

 

以上の例を本章の考え方により解釈してみよう。星さんの転職した会社の二番目の上司にとって彼は言わば継子なのである。継子は自分の子よりかわいくないだけではなく、憎たらしいほどである。継子が手間をかけたり、かってなことをやったり、優秀であったりしたときには、大きな不快を感じる。母親にとって、自分が生んで初めから育てた子に比べて、途中から渡された継子の価値は低いのだ。それは、その子は自分が産んだものであり、自分がその子の起源であるという優越感を感じられないからである。つまり、自分が産んだ子は、全てが自分に関係している、その子の功績も全て自分につながっているということで、母親はその子に価値を感じるのである。この優越感が、我々に自分の子がかわいいという感情を作り出しているのである。自分の子をかわいがるのも、自分の部下をかわいがるのも、全てこの感情によっているのである。つまり相手の周囲との関係、あるいは自分との関係、つまり《相手の背景》は、《その人自身》よりも我々にとって価値あるものであり、我々はなによりもこれを強く意識し、行動の大部分はこれにより支配されてしまっているのである。

前章で記したが、このことをニーチェは『母親は子供の中の自分を愛している』と言っている。自分が愛するもの全ての中には必ず自分がいる、ということだ。継子でも自分の子と同じように育ててくれる者もいる。しかし、たいていの場合、グリムメルヘンの物語のように、継子はぞんざいに扱われるだけでなく、親の日頃の不快のはけ口(虐待)にもされてしまう。価値が低く感じられた者は、やることなすこと不快に感じられてしまう。劣っていても憎たらしいし、優れていても許せない(生意気)のである。水は低いほうへ流れる、全ての不快は最も価値の低い者のせいにされる、その者が悪いのだとしたくなってしまうのである。

星さんの二番目の上司は一番目の上司と違い、彼を自分の部署に招きいれたのではなく、育てたわけでもない。ただ誰かがヘッドハンティングしてきた東大卒――この響きがなんとも憎たらしく感じられる――で、優秀で、高給を保証された憎たらしいやつなのである。

この記事の著者の青山氏は、次のように言っている。

 

*働き盛りのエリートが企業の中で自分の能力を発揮できずに錆びついてしまう「錆びつき症候群」。不況になってから、こうした例が増えてきた。いじめに合う人の多くに共通するのは、専門分野を持ち、将来性があり、仕事がよくできる人。そして目前の仕事を自分一人でやろうとする人だ。一人でしようとせず、周囲の人に仕事を上手に分担、委託するのも一つの予防策である。

 

しかし、あらゆる組織において、成功する者の行動は星さんの行動と変わらないし、それどころかもっと強引なのではないかと思う。つまり成功者と挫折者の違いの原因が、青山氏の指摘するようなところにあるのではなく、つまり両者の行動にあるのではなく、両者自身の固有なものにあるのである。

この固有なものとは、その者が歩んできた道にも関係している。前記の例で、継子がいじめられるのも、昔、日本で朝鮮人が差別されたのも、人間自体の性質や行動によるものではない。彼らが我々の前に現れるまでの過程が問題にされているのである。途中からこの優秀な星さんを受け入れた二番目の上司は、以前から彼のうわさを聞いてにがにがしく思っていたのであったのだろう。しかし、彼を初めに受け入れた上司は、彼を自分の完全な支配下に置いているし、彼の功績は全て自分が原因であり、自分がコントロールしたものだという優越感があるので、彼と彼の行動に不快を感じないのである。前記のニーチェの言い方を借りれば、一番目の上司は、星さんの中の自分を愛していたのである。しかし、星さんの中に二番目の上司はいなかったのだ。この二番目の上司にとっては、星さんの中に自分が愛すべきもの(自分に関係しているもの、自分の痕跡)がなかったので、星さんは価値低い者であったのである。だからこそ、その価値低い者の行動には生意気なものを感じ、この不快感に対処するために報復、つまり「いじめ」という行為をしなければならなかったのである。星さんに対するこの二番目の上司のいじわるな行為は、このように考えれば、実にわかりやすく、彼を非難することはできなくなるのである。つまり、彼の行動はニーチェの有名な著書の題名のごとく「あまりに人間的」なのである。

どんな者でも本能的、無意識的に何かをたくらんでいる。しかし、それらは偽装されてしまっていてなかなか見抜けないのである。誰もが自分のことばかり考えており、全ての行動は利己的なものから出てきている――あのマザー=テレサカルカッタテレサ)においても例外ではないのであり、彼女は、自分の人並みはずれた大きな欲求や不快に対処するがために、あのような大規模な《聖なる行為》をせざるを得なかったのである。ある「利己的な行為」は、ある者を通すと非利己的な行動、誠実で魅力的な行為に見え、別な者を通すとそのまま利己的で、いやらしく、また生意気に見えてしまう。高度に偽装された利己的な行為は、非利己的で崇高な行為に見えてしまうのである。これはまったく麻薬の世界であり、まじめな世界ではない。人を酔わせるということが成功への唯一の方法なのであり、それ以外の「まじめな方法」はけしてないということが、あらゆる実例で証明されているのである。本番で我々はけして理性的ではいられないのである。成功の秘訣は、いかに人を不道徳な方法で誘惑する(つまり騙すということ)かにかかっているのである。いかに人を酔わせることができるかということであり、麻薬の力をもっている者だけが世の中でうまく生きていくことができるのである。このまったく不道徳的な意見は、歴史の中で十分に実証されているではないか。

星さんは、二番目の上司を彼の身体的魅力においても、素性においても酔わせることができなかったのである。我々は、酒、タバコなどをやめたとしても、けして麻薬的なものからは逃れられない。我々はいつもある不快と戦わなければならない。常に麻薬は誰にでも必要なのであり、我々は最終的に麻薬で止めをさす。麻薬の役目を果たすものは、魅力的な者との付き合い、生意気な者をいじめること、ポルノ雑誌を見てマスタベーションする、不道徳的なことではあるが火事などの他人の不幸を見物すること、ある宗教に入信することなどである(危険な発言だが、宗教はどう見ても麻薬の仲間である)。そして悲しいことではあるが、自分の家族、とくに幼児を虐待することでもある。

以上のような、まことに不道徳的な意見ではあるが、世の中の出来事を良く見ている才能ある者ならば、必ずや納得のいくことだと思う。世の中で起こっている異常であり、間違っていると決めつけられている事件は、人間の本性をよく知った者から見れば正常なこと、「あまりに人間的な行為」だったのである。