第四章 所有する、知りつくすと魅力を失う
――全てを知られることの危険さにつて――
第1節 所有と価値
「所有すると魅力を失う」、これは前記の価値の大きな変化の一例である。まず、ショーペンハウアー「意思と表象としての世界」(西尾幹二訳、中央公論社)より、このことに関連した部分を引用してみよう。
*ところで人間の生活というものはすべて、終始一貫して願望と達成というこの二つの間を流れつづけているものである。願望はその本質のうえからいっても苦痛である。その願望が達成されると今度はたちどころに飽きがくる。目標は見せかけにすぎなかったからである。所有は魅力をうばい去ってしまう。そうするとまたしても願望や欲求が装いを新たにして出現することになろう。
――わたしが望むものは、それが到来しないうちは、すべてにまさっているようにみえる。
――が、望みが達せられるとたちまちにして、わたしは別のものを望んでいる。
――こうしてわれわれはつねに同じ渇きに駆られて、あえぎながら生を求める。
〔ルクレティウス「物の本性について」〕
さらに前出のロバート・K・レスラー「WHOEVER FIGHT MONSTER」、日本語訳では「FBI心理分析官」には次のようにある。
*ケンパーの話で重要なのは、彼を殺人に駆り立てたのが空想あること、殺人を犯すようになってから、日がたつにつれて空想がますます強烈で手の込んだものになっていったことだ。だが実際の犯行では計画どおりにはいかなかったり、こうすればより完璧になると思われる事が必ずあった。何かが欠けているという思いが、次の殺人へと彼を駆り立てたのだ。しかし実際の殺人行為では空想ほどの満足感は得られなかったし、永久に得られることはないだろう、というのがケンパーの結論だった。(ケンパーはアメリカの有名な連続殺人犯である)
ケンパーは殺人行為に魅惑されるが、それを手に入れてしまうと、つまり殺してしまうと、思ったような満足を得られなかったというわけだ。そして、次の殺人を計画するわけだ。正に、前出のショーペンハウアー「意思と表象としての世界」にあるように、『所有は魅力をうばい去ってしまう。そうするとまたしても願望や欲求が装いを新たにして出現することになろう』である。
結婚してしまうと互いにつまらなくなってしまうものだ。そして、このままではすまない。口論・暴力・浮気にもつながっていく。最後の章において詳細に検討するが、相手から見た自分の価値が下がることでいじめられる可能性もでてくる。結婚する前はやさしかった人が結婚後に冷たくなり、暴力をふるうようになったという話はよくあるものだ。これは我々のけしてコントロールすることのできない「きわめて人間的な」性質なのである。これらのけっして理性的とは言えないものは、本番では必ず主導権をにぎってしまい、あの「理性」などはどこかに隠れてしまうのである。
我々は欲しいものを手に入れてしまうと、もう魅力を感じなくなってしまうものだ。結婚するとすぐに相手に今まで感じていた魅力を感じなくなってしまう、つまり、所有が相手の価値を下げてしまうのである。しかし、それを失いそうになるとまた価値は上がることもある。家族の一人が夜、買い物に行ってなかなか帰ってこなかったりすると心配になる。いつもけんかをしていて、お互いにののしり合っていたとしても、そういうときには心配になる。そして日頃のその人に対する行為を反省する。もっとよくしてあげればよかったと思うものである。しかし、その人が無事に帰ってきてしまうと、ほっとするのと同時に前記の気分がただちにどこかに隠れてしまう。そしてまた、口論や暴力が始まってしまうものだ。その人がいなくなると恋しくなる、しかし、戻ってくるとそんな気分はどこかに隠れてしまう。いなくなると価値は上がり、戻ってくると価値は下がる、と言える。その人がいなくなったとき、その人は想像上のものとなる。想像されたものは美しく魅力的だ。悪いところは読み飛ばされ、美しく魅力的なところのみが増強され、相手のイメージが美しく仕上げられるからだ。
私は小さいとき、バスケットゲーム機を買ってもらったことがある。ゲームセンターで遊んだらおもしろかったのでそれがコンパクトなおもちゃになっているのを知って、自分のものにしたくなったのである。おふくろにお金をもらい、いそいそと夕方に買いにいった。そして、店員にこれをくださいと言ったそのとき、なんとこのゲーム機の欠点が見えてしまったのであった。その時点まではまったくそれは見えなかった。もう後戻りができないとき、自分のものになったときに、突然、悪いところが見えるようになるのである。実際、このゲーム機はあまりおもしろくなく、あまり遊ばなかった!
また、私が小さい時、道に止まっていた軽トラックの荷台におもちゃの部品が積んであったので、欲しくなって一つ盗んでしまったことがある。しかし、実行するとすぐに後悔が始まった。そして、そのおもちゃで遊ぶことはなかった。
魅力を感じたものを手に入れたとたん、夢はさめてしまう。中を見てしまえば期待したようなものではなかった、ということか? 所有するまでは、期待が我々を興奮させ―――これはある種の不快でもある――、我々には欠点がまったく見えないのである。この気分が我々に欠点をさぐる行為をさせないとか、忍耐がなくなるというのではなくして、この状態のときの我々のイメージの中には、欠点が隠されてしまっているのである。
第二節 我々は、我々の作ったイメージから事実を認識する
所有すると魅力を失う、ということについて詳細に調べるためにきわめて重要な意見を前出のニーチェ「善悪の彼岸」から引用する。
*どんな学問の場合にあっても、早まった仮説、架空の作り話、《信仰》への善良にしておろかしい意志、疑念や忍耐の乏しさなどが、まず最初にあらわれる。――われわれの感官が、繊細で忠実で用心ぶかい認識の器官たることができるようになるのは、あとになってからのことであるが、それも完全にそうなるわけではない。われわれの眼には、なにかの折にふれて、すでに幾度か作られたことのある心象をふたたび作り出すほうが、ある異常で新しい印象をしっかりととらえることよりも、はるかに心地よいものに映るのだ。後者のほうが、より大きい力を、より多くの《道徳性》を必要とする。なにか新しいものを聞くということは耳に辛いこと、面倒なことである。耳なれぬ音楽を聴くのは、われわれの気分にそぐわないものである。よその国の言葉を聴くと、知らず識らずのうちにわれわれは耳にしたその声音を、われわれにいっそうなじみ深くしっくりした響きをもつ言葉へつくり変えようとする。・・・われわれの感覚にも、新しいものは敵対的な不快なものに感じられる。一般に、感性の《きわめて単純な》過程のなかにすらすでに、怠惰といった受動的な情念をもふくめて恐怖とか愛とか憎悪とかいうような情念が、支配している。――今日の読者は、一つのページの一つ一つの言葉を(ましてやシラブル(音節)なんかを)残らず読みとっているわけではなく――むしろ、二〇の言葉のなかから、たまたま五つぐらいの語をえらびとってきて、この五つの語が含むらしくおもわれる意おば《推測》する。――これと同じくわれわれは、一本の樹を見るにも、その葉、枝、色、形にわたって綿密に完全にそれを目に入れているわけではない。むしろわれわれには、そこに樹というもののだいたいのすがたを想像してみることのほうが、はるかに容易なのだ。きわめて特異な体験の場合にあってさえも、われわれはやはりそれと同じことをやる。すなわちわれわれは、体験の大部分を仮構する。そして、《創作者》としてでないかぎりは、何らかの出来事を強いて観察することなどはほとんどない。およそこうしたものが語る真実は、われわれがまるっきり根本から、昔から、――偽ることに慣れているということだ。あるいは、もっと高尚で偽善的な言いかたをすれば、ようするにもっと気持ちのよい言いかたをすれば、われわれは自分で思っているより以上にずっと芸術家である、ということだ。――活発に談話をかわしているときに、しばしば私は、話し相手の人物の顔つきを、彼の述べる思想や私が彼に思いつかせたと信じる思想などのおかげで、非常に明りょうに繊細にはっきりと目にすることがあるが、この明りょうさのほどは、私の視覚の力の及びうる程度をはるかに超えたものである。――この場合、話し相手の顔の筋肉の動きや目の表情などの微妙なところは、私の想像によってつけ加えられたものにちがいない。おそらく当の相手の人物は、まるっきり別な顔つきをしていたか、もしくは何の表情をも見せていなかったのだ。
また、ロラン・バルト「テクストの快楽」(沢崎浩平訳、みすず書房)の中には、次のようにニーチェの文が引用されている。
*《われわれは、生成の、おそらく、絶対的な流れを知覚するほど精緻ではない。永続するものは、物事を常識的な平面に要約し、還元する、われわれの粗雑な器官によってのみ存在するのであって、実は、何物もこの形では存在しないのである。木は瞬間毎に新しいものである。われわれが形を肯定するのは、われわれが絶対的な運動の精緻さを捉えないからである》(ニーチェ)テクストも、われわれの器官が粗雑なために、(仮の)名前が与えられている木であろう。われわれは、精緻さが欠けているから、科学的になるのであろう。
我々は対象からの情報(目や耳や鼻などからの)により、自分の中にその対象に対応したイメージを作り上げる。さきほどから再三出てくるこの「イメージ」という用語は、心理学や哲学で使われる場合の意味であって、日本語訳では心象や表象のことであり、意識に現れた像を指す。我々は対象から誘発されたこのイメージを見ているのであって、対象自体を直接見ているわけではない。対象のことは全て、我々が作り上げたこのイメージによってのみ我々の意識に伝えられるのである。だから同じものを見ても、乱視や色盲の者とそうでない者とは見え方が違う。また、目で見たものの姿だけではなく、たとえば自動車で交差点に進入するとき、「信号や歩行者の確認をして、自分の行きたい進路に進むという手順を思い浮かべる」ということができるのも、また、相手が自分に言ったことから自分の中に「一つのまとまったものを思い浮かべる、つまり、理解する」ということができるのも、自分の中にそれを《自分にわかるように表示するもの》、つまり、イメージと呼ばれるものが現れるからなのである。
私は昔、会社の食堂で、「すっぱいものが嫌いです」と言ったところ、相手は「刺激のあるものが嫌い」と解釈してしまった。さらに、「辛いものが嫌い」とも解釈された。私は刺激のあるもの・辛いものは大好きなのであり、酒はウィスキーのストレート、わさびはたっぷり付けて刺激を楽しむ人間だ。しかし、相手には「すっぱいものが嫌い」という素直なイメージが作られないのである。事実は、必ず相手の手が入り変形されるものだ。事実をそのまま見ることは、むずかしいというより不可能なことなのだ。つまり、我々の知ることは、全て《我々を通したもの》であるのだ。事実は我々の趣味・嗜好・体の状態・社会的な状態・願望などの影響を受け、変形されてしまうのだ。このイメージは我々によって作られたものであって、事実ではない。我々の体が媒介する以上、我々の固有な性質の影響は受けるのである。見たものはその人固有の整理に仕方(形式、フォーム)によってまとめられるのである。
何かを言っても、何度も何度も聞き返す人がいる。それは聞こえないのではなく、聞いたことをうまく整理できない、つまりそれから明快なイメージが作れないのである。頭がいい人でも、他人の話を把握するのが苦手な人がいる。「聞いたことを把握する」とは、聞いたことの一部を採取し、またあるものを付け加え、いままでの経験と知識も加えてイメージを作り上げることなのである。実際のものがそのままイメージになるのではない。イメージはその者によって作られるものである。何度も聞き返す者は、聞いたことからイメージを作る能力に問題があるのである。
捜し物をしてもなかなか見つけられない者がいるが、その者のイメージには捜しているものが書き込まれていなかったわけだ。そこにあっても見えないということだ。人によって見えるところ、見えるものが違うものだ。人によって、同じものを見ても(聞いても)その人の中に作られるイメージは違うのである。
酒を飲めば見えないものはいっそう多くなる。だから、飲酒運転をすると電柱にぶつかったり、人をはねたりするのである。この場合、我々のイメージにはそれらはなかったのである。飲酒により判断力や注意力が低下するからだ、と言われているが、要するに飲酒により我々のイメージの中に欠落が多くなってしまうということなのである。極端な例では、眠っているとき、夢以外のイメージはなくなる。飲酒は脳を眠っている状態に近づけるのである。これは、飲酒運転をして危なく事故を起こしそうになった私にはわかるのである。私は昔、会社の飲み会が終わった後、飲酒運転で帰った。あるT字路を右折しようとしたとき、信号を見ていなかった。そして、出てきた車とぶつかりそうになった。このときの私のイメージには「信号機」や「交差点への進入手順」や「他の車との衝突の可能性」というイメージが欠落していたのであった。これを判断力や注意力が低下していたと言うのが普通であろうけれど、対象や手順を精緻にイメージできなかったと言うべきであろう。前記のように、我々は目の前にあるものを直接見るのではなく、目に入った情報により作られたイメージを見ているのである。《目で見たもの》は、まだ我々の意識には現れてこられないのである。また、規則や手順なども、我々にイメージされなければ行動にはつながらないのである。だから、イメージを作る脳がアルコールで侵されていれば、何かが見えなかったり、ある手続きが無視されたりするわけだ。我々の認識について、このような考え方の基礎を築いたのはドイツの哲学者カント(一七二四年生まれ)であり、興味のある方は「純粋理性批判」という難しい本を読んでみるといい。
我々は聞いたことや見たことから各人固有にイメージを作り上げ、判断の材料にしたり、記憶にとどめたりする。だから、自分の欲するものに創作してしまうということもある。全ては我々自身のために利用されている。入ってきた情報は、我々自身のために利用しやすいように加工され、我々の要求に沿ったかたちで整理されてしまう。だからこそ、この変形や想像しやすいような者や話し方が歓迎され、これを許さないような者、未知さがない者、つまり、魅力がない者や全てを詳細に説明しつくす話し方が、相手をいらいらさせてしまうのである。好きなものや《好きにならなければいけないもの》は、現物とはかけ離れて美しくイメージされ、嫌いなものや《嫌いにならなければいけないもの》は、いっそう醜くイメージされてしまう。その結果、でき上がったイメージは原型をとどめないほどの変形を受けてしまうのである。だから、相手はそれを知って驚いてしまうもので、これは多くの争いの原因ともなっているのである。
うわさ話を見てもわかるだろう。初めの情報から各人が自分の想像を加えながらかってにおもしろおかしく作り上げたうわさ話は、人を通過するに従い大きな変形を受け続ける。言い伝えも三人くらい経るともう原型はまったくとどめていないもので、まったくの作り話と成り果てる。我々の把握において、事実の記憶は断片的であり、多くの部分は想像で補われている。この想像されたものが良いものであった人は、人に好かれるのである。もし、我々が全てを想像なしに見ることができたなら、何ものにも魅力を感じなくなってしまうだろう。
我々は相手の能力についても、よく調べもしないでひどい判断をしている。自分にとって好ましいかどうかだけで、相手の未知の能力までかってにイメージしてしまうものだ。好印象の相手であれば、どのようなことに関しても確かめもしないで有能に見ようとする。また、自分の好みに合わない者の場合には、相手の行動は全ていやらしく見え、さらには、無能であってほしい、無能であるべきだと願望し、無能であることにしてしまうものだ。たとえその相手がうまいことをやったとしても、まぐれや気のせいにしてしまい記憶にも残らない。我々は自分の見たいように見ようとし、それに合っていないものは印象に残らないので記憶にも残らない。自分に都合の良いものだけが記憶に残る。だから性格や立場の違う者が一つの事実を見たとき、まったく異なる報告をするのだ。
第三節 未知なるものや所有していないものは、魅力的にイメージされる
魅力とは不明なもの、未知なるもの、ベールに覆われているもの、まだ手に入れていないものなのかもしれない。俳優は客にしゃぶりつくされてはいけない、と言われている。つまり、自分の正体を知られてはいけないということだ。これはあらゆる者にいえることだろう。何もかもを知ってしまったなら、想像するものがなくなってしまい、魅力が失われてしまうのである。過去のことは知られてもかまわないが、現在のことは絶対知られてはいけない。宗教もそうであり、彼方に重要なものがあり、それには容易に近づけないとすることによって、より荘厳になるのである。我々を魅惑するものは、想像というものに関係しており、不明であったり、ここにはなかったり、現実にはなかったりするものなのである。旅行でも、誰も自分の住んでいる近くには行かず、遠く知らない所に行きたがるものだ。これははるか昔のローマ帝国の人も言っていることだ。
我々は神や道徳(善、悪)や我々の内容を作ってきた。昔から、「人としての心」とか「人としての道」とか言う。我々は何の根拠のなしに、我々の正体は崇高なものでなければならないとしてきた。『もともとうすっぺらだった我々の中には、内容が押し込まれて体積を持つようになった』(前出のニーチェ「道徳の系譜」より)、というわけだ。それと同じように、相手のイメージには、我々の想像したものが多くを占めているのであり、これが現実の把握を妨害している。だから、自分のいやらしい本性をかくして相手に見られないようにできる者は、相手を魅惑することができる可能性がある。相手の想像がすてきな自分を作ってくれるからである。しかし、相手の想像が下劣な自分を作ってしまうこともある。不明だからといっても、必ず魅力的になるわけではなく、嫌われればすべては悪く想像され、いっそう嫌われしまうことになる。
もともとうすっぺらである自分を厚く見せかけられる者は、魅力的に見られる。他人に自分の本性を全て知られることは、想像の余地をなくし飽きられてしまうことになる。我々にとって、衣装・化粧・変装・偽装は必需品であり、これがないと危険ですらある。相手にできるだけふくらまされて見られなければならない。相手に自分をふくらませて見られていたが、よくよく見られるとそれはうすっぺらであることがばれて、がっかりされてしまうことがある。そうなると、がっかりされるだけでなく、相手はいままで隠していた自分のいやらしい本性をちゅうちょなく出してくるし、バカにしたり、いじめたり、攻撃してくることがあるのだ。相手の全てを知ってしまうことや、相手に自分の全てを知られてしまうということで良いことは一つもないということだ。よく、互いに相手を知り合おう、などというが、これは後述のように危険な行為なのである。
会社などで新人が入ってくるとき、そしてまだ本人を知らないでその経歴だけを見ているとき、誰もがその者に魅惑されていく。新人が歓迎されるのは、未知なる者であるということと、パトロンががっちり付いているという魅惑的な背景があるからである。それに対して、パトロンが付かず組織から見放された――嫌われたと言ったほうがよいのかもしれない――出世できなかった知りつくされたベテランは、誰からも相手にされないものだ。彼自身は何も変っていない。ただ彼の背景が変っただけなのだ。
判断にしても、人を魅惑する判断というものは、把握の困難さがある。音楽をはじめとしてあらゆる芸術、そして、他のいかなるものでも、この把握の困難さが人を魅惑する。綿密に練られたことがばれてしまった冗談などは、ちっともうけないのだ。すぐれた即興は把握しがたいゆえにうけるのである。それは、我々を連れまわし、迷わせ、だまし、考えさせ、回り道させ、興奮させ、緊張させるのであり、食べ物であれば香辛料の役目を果たし、長く飽きさせないのである。女性でいえば、衣服を剥ぎ取って中を見てみたいと思わせる、つまり、セクシーな体は魅力的であるというのだが、その正体は不明さというもの、相手に把握されないもの、わけのわからないものなのである。ある体形・体格の女体は、どうして男性を魅惑するのか、それは、何らかの不明さに関係しているのであって、そういう体には把握できないもの、未知なものがあるのである。つまり、野生的で生命力あふれる肉体は、虚弱でさっぷうけいでずんどうな、あるいは痩せこけた肉体に比べてはるかに把握のむずかしいものなのだ。我々はその未知なる身体能力に魅惑される、つまり、ある種の冒険心・探究心に、もっと正確に言えば性欲にあおられるのである。また、我々はそういう魅力的な人が何を考えているか、何ができるのか、どこにどういうふうに住んでいるのか、と気になってしょうがなくなる。つまり、冒険心とか好奇心とかいう本能が刺激されるのである。これは我々を緊張・興奮させ、けして把握させないことだ。相手に誘惑され、連れまわされ、騙されてしまう、これは快楽であり魅力の正体でもある。何かを把握しようと意欲する者に対して、けしてそうさせないではぐらかしてしまい、さらに、夢の世界にひきずり回し酔わせてしまうのであって、これは《麻薬の世界》なのであって、けして《まじめな世界》ではない。相手を緊張させ、落ち着かなくさせ、読み飛ばしを多くさせて、全てを自分に有利なようにイメージさせてしまうのだ。これにより、相手はその者に高級感、つまり高い価値を感じるのであり、これは有能な詐欺師の世界でもあるのである。
知れば知るほど魅力を感じるといわれる者がいるが、この者はいつも逃げまくっているのであり、けして、本性を知られたわけではないのだ。つまり、相手の間違ったイメージが次々と変更されているにすぎないのであって、いやらしい本性はちゃんと知られないで済んでいるのである。本当に知り尽くされれば、誰でも必ずあいそ尽かされてしまうものである。
当人が気持ちよく、容易にやった行為は魅力あるものとなる。それに対して、当人が苦労し、やっとの思いでやり遂げたような行為には魅力はない。世の中にある優れたものは、その多くがこのように気持ちよく、苦労少なく、あっさりとできたものだ。つまり、才能によってできたもので、この才能というものは常に未知なもので、人を強く魅惑するものなのである。というのは、どうしてそんなに優れたものが出てきたかが不明だからである。有名になろう、優れたものを作ろう、という願望を抱いて成されたものは、人を長く魅惑することはない。人を長く、強く魅惑するものは、ぱっとなにげなく出てきてその《仕掛け》がまったくわからない。ステキな人はぱっと現れ、さっと消えていく。前日から考えていた冗談などはうけないもので、大うけする冗談はその場において即興で作られたものであり、そのことは周りの誰もがわかるものだ。その苦労を一部始終見られ、あるいは推測されたようなものには魅力はないものだ。人はそのしかけを知ってしまったものには魅力を感じないのである。だから、我々は本能的にそれを隠そうとするのだ。
芝居や展示などでは余計なものは全て隠す。見せてはいけないものは全て隠す。仕掛けなどはまったくなく、不思議さだけが見えるように見せかけなければならないのである。我々が《恰好つける》ときには、いつもそう見せかけようとするではないか。まるで生れたときから知っていたり、できたりするように見せかけるのであり、そうでなければ《恰好よく》ないのである。全ての《仕掛け》を見せてしまった《恰好よさ》なんてものはないのである。一九六〇年代のTV漫画で、「エイトマン」や「宇宙少年ソラン」はいきなり所長の前や現場に現われる。どうやってそこまで行ったのかはわからない。彼らの日頃の泥臭い生活(食事や排便や排尿)は全て隠されている。だからこそ彼らは格好いいのである。同じく一九六〇年代に英国で作られ世界を魅了した国際救助隊「サンダーバード」――これは人類の至宝である――では、あらゆる人間生活の泥臭さが隠され、恰好いいものだけを見せるようにしている。また、救助隊が目的地に到着する時間を分単位に予告する。これらは《恰好よさ》の条件だ。もたもたしている「刑事コロンボ」ではどうかといえば、やはり同じだ。もたもたしているように見せかけておきながら、本番では、いままで相手をいらいらさせながらたらたら集めていた情報を無駄なく使い、あっさり解決してしまう。その未知さ、落差の大きさ、痛快さが「刑事コロンボ」の《恰好よさ》なのである。この《恰好よさ》の問題は今までまじめに考えられたことがなかった。
買ってしまうとがっかりしてしまうのは、手に入れたとたんに仕掛けがわかってしまい未知さがなくなってしまうからだ。未知のものという麻薬的なものを前にした興奮と緊張により、また、待ち得ないという我々の性質により、そのときの我々のイメージには、酒に酔ったときと同じに、対象の欠点が欠落してしまっているのである。自分の願望にマッチしたイメージが作られてしまうのだ。前出のニーチェ「善悪の彼岸」からの引用文のように、知らないものを理解したり、一度下した判断を変更したりするより、すでに知っているものの中で強引に整理したり、夢みたものに沿うようなもののみを見て、それでよしとしたりしてしまうことのほうがはるかに容易なのである。ほとんどの部分を自分の想像で補間し、それを買ったほうが良いと考えようとするのだ。とにかくそれを買いたいという気持ちが、酒をくらった脳のように欠点をイメージに上げさせないようにしている。しかし、買ってしまい所有してしまうと、今までの興奮と緊張という不快――その不快の中和のためにそれを買ってしまったのだ――はなくなり、さめた目で見られるようになり欠点がイメージに現れてくる。なんでも手中にあるとそれを敬う気分はなくなり、いままで読み飛ばしていた、というより読み飛ばさせられていた欠点が、急にイメージに現れてくるもので、大部分の価値ある部分は実は想像上のものであった、ということがわかってくるのである。この欠点が現れたイメージは、批判的な目の標的となりあらさがしされる運命となる。前記のように、我々のある状態によって、見ることができるところとできないところが、すでに決まってしまっているということである。これは自分ではコントロールできないことなのである。
結婚した後、互いにがっかりしてしまうのも、以上のことで説明できる。結婚前は、互いに結婚を成し遂げるという興奮と緊張のために、酒をくらった脳のように相手の欠点はイメージの中に現れてこない。全てを良く解釈してしまい、欠点を見てしまったときでも、何かの間違いか気のせいだとしてもみ消されてしまい定着したイメージを作れない。そして、この時期は互いに自分のいやなところを全力で隠しているのであり、一番よい時期と言える。ところが、結婚してしまうと目的が達成され、一仕事終えたときのあのけだるい気分となり、リラックスして、またある種の不快――願望が達成されると、こんどは次の願望がやってくる、これは不快、苦悩である――を感じるようになる。そして、相手を良く調べる機能が解禁となり、相手の欠点がどんどんイメージに現れてきて、良いところが目立たなくなっていく。相手のイメージは、結婚前のステキなものでなく、いやらしいものになっていく。さらには、互いにいやらしい面を隠さず、むき出しにするようになっていくのである。というのは、結婚という目標が達成されたために、互いに相手に恰好いいところを見せるという行為の価値がなくなっているからだ。結婚という目標に向かって加速している状態が、互いに自分の欠点を隠すようにさせ、また、相手の欠点を見ないようにさせ、互いに相手を素敵なイメージに作り上げさせていたのである。
何か困っている場合、他人に相談するとうまいアイデアが出てくるものだ。何かを発表する場合でも、他人に見てもらうとうまく修正してくれる。当事者のイメージには、興奮と緊張により酒をくらった脳のように多くのものが欠落しているのだ。しかし、他人はまったくそのような困難がないので、当事者の見えなくなっているもの全てが見えるのである、また、我々は、急いでいたり、あせっていたり、緊張していたり、困っていたりすると精緻なイメージを作る能力が低下する。このとき、我々は細部まで調べる忍耐がなくなってしまう、というのではなくして、まったくそれらをイメージできない状態になってしまうのである。たとえば自分の家が火事になったとき、「一一九番は何番か?」などときいたりする。しかし、その困難が終わると、急にいままで見えなかったところ、細部が見えてくる。
第四節 詳細な説明は、相手をいらいらさせる
まず、ショーペンハウアー「随感録(パレルガ ウント パラリポーメナからの抜粋)」(秋山英夫訳、白水社)より引用する。
*ある作用も度をこすと、たいがい逆効果を生むように、言葉というものも、思想を把握させるのに役立つとはいっても、ある点までの話である。この限度をこして積みかさねると、伝えようとする思想はいよいよあいまい、もうろうとなるだけだ。その限度をぴたりと当てることが、文体の任務であり、判断力の仕事なのだ。というのは、すべて余計な言葉はその目的に反するからだ。この意味でヴォルテールは「形容詞は名詞の敵だ」と言ったのである。もちろん多くの著述家は、その思想の貧困を、ほかならぬ千言万語のうちにかくそうとしている。
したがって冗漫に流れることは、すべて避けるべきであり、苦労して読んでも報いられないようなつまらぬ言葉を織りこむことも、さしひかえるべきだ。著者は、読者の時間、労力、忍耐心を浪費させてはならない。このように心がけるならば、この著者の書いたものなら注意して読む値打ちがあり、たとえ苦労してもそのかいがあるという信用を、読者から得ることができよう。内容のないことを付けたすことよりは、よい部分でもとばすほうが、まだしもましだ。この場合にこそ、ヘシオドス(「仕事と日々」四〇行)の「半分は全体より多いのだ」という言葉が立派に適用されるのである。一般に、なんでもかんでもぜんぶ言ってはだめだ!「退屈させる秘訣、それはすっかり言ってしまうことだ」(ヴォルテール・人間論六の一七二)だから、できるかぎり、核心(エッセンス)だけを、肝心なことだけを言うべきで、読者が自分でも考えつきそうなことは言わないにかぎる。――わずかばかりの思想を伝達するのに多くの言葉を費やすのは、いつでも凡ようのまちがいない目印だ。これに対して、すぐれた頭脳の目印は、多くの思想をわずかな言葉のうちにと閉じ込めることである。
この文章には「内容のないことを付けたすことよりは、よい部分でもとばすほうが、まだしもましだ」、「できるかぎり、核心(エッセンス)だけを、肝心なことだけを言うべきで、読者が自分でも考えつきそうなことは言わないにかぎる」とあるように、我々は、他人の考えにつきあうことが苦しく、不快なことなのである。我々はいつも、好きなように想像することを渇望しているということである。相手の言っていること、あるいは読んだことは、単に自分の判断のための養分にすぎない。我々は自分の判断のための資料を求めているのであって、相手の判断を求めているわけではない。当然、みごとな判断ならば歓迎されるが、それも自分の判断の養分にできる可能性があるときだけなのである。
全てを説明しないで、相手が最高に想像できる最小限の材料にとどめるのが最も人を引きつけ、快感をもたらすのである。これは芸術をはじめ、あらゆることに言えることだ。あくまでも相手が相手の観点にたって、かってに考えることができるようにしてやらなければいけない。相手はこちらの話をきいてこちらとはまったく異なる解釈をすることも多い。それをさせないような、自由な想像を許さないような話や文章は相手をいらいらさせてしまうのである。日本の短歌・俳句・川柳なども同じであり、未知さ、ときには不気味さにより読み手に多くを考える契機を提供するもの、つまり想像させ、驚かせ、興奮させるものこそが、読み手に大きな快感を与えることができるのである。全てを説明しないで、読み手に補間・解釈・想像などを好き勝手に、ぞんぶんにさせてくれるものが歓迎されるのである。
相手に何かを詳細に説明していると、相手が次第に不機嫌になっていくのを感じる。相手に何かをきかれたときでも、相手のためだけにやろうとしているときでも、やたらに長く詳細に説明しようとすると、相手はちっとも喜ばないでそれを打ち切ろうとしたり、怒ってしまったりすることもある。とくに、自分の主義や主張などを少しでもしゃべると、相手の目には落ち着きがなくなってくるものだ。相手の想像できるもの、好みに合わせて考え直せるもの、判断にゆだねられるものを一切残さぬように説明すると、相手の態度は重苦しくなっていくだろう。結果がわかってしまったなら、推理小説もスポーツの試合もおもしろくない。どうなるかわからないから、結果を自分かってに考えられるからこそおもしろいのだ。詳細な説明や自分の解釈・判断・主義主張を話すことは避け、事実のみに限定し、不明なところをわざと多く残しながら、逃げるように、出し惜しみするように、しかも控えめに静かに低く小さな落ちついた声でなにげなく言うと、相手は落ちつき、じっと息をこらえるように真剣に聞くであろう。我々は起こった事実には興味があるが、《他人の考えや解釈》なんかにはまったく興味はない――よほどの有名人の言っていることでもないかぎり――のである。ところが、しゃべる方は、事実よりも自分の判断や主義主張を伝えたいのである。
ある人の話をよく聞いていられるのは、その話の内容によるよりその話し方、その人自体の魅力のためであることが多く、それが話をていねいに聞くという苦しい作業による不快を中和してくれるのである。また理屈が大半を占めていたり、知っていること全てを言っていることがわかったりすると、相手には嫌気がさしてくるものだ。コント・落語・漫才・漫談などの芸能でも、自分のやれることを全てやってしまったら面白くなくなる。やれることの一部をちらつかせて、あとは隠しているのがわかるから観客は引き込まれるのである。たくさん知っているように感じさせておいて、その一部しか見せないと、相手には同じものでも価値あるものに感じるのだ。
食べ物は味がなければ食べづらい。話を聞くのも同じであり、その一つが不明さや把握のしづらさなのである。人に話を聞かせるには、まず香りや味で誘惑しなければならない。わかったことや知っていることを全て見せてしまう者は、けして相手を誘惑できない。全てを知られてしまったら、もう魅力はなくなる。我々は、宗教が人を魅惑するような方法――我々は信仰というものから、けして逃れられない。宗教に限らず何かを信じているものである――により相手を誘惑しなければならないのである。しかし、これらのことは能力であるから、人に教えられるものではない。才能がない者にはけしてできないことだ。この点においてこの問題は科学などには成り得ず、誰もができる方法などというものなどはないのであり、できる者にしかできない。才能のない者がうまくいった例をまねしてみても、まずうまくいかないだろう。ある行動でも、ある者がやったからこそうまくいったのであって、それはその者と別に単体としてあるわけではないということだ。
第五節 略語の魅力
日本人は、よく米国第二の都市であるロス・エンジェルス(ロサンゼルス)のことをロス呼ぶ。スペイン語でLos angelesであり、英語で言えばThe angelsが原義である(広辞苑より)。Losというのは英語でTheぐらいの意味だ。それを、日本人は都市名にしてしまっている。スーパーマーケットをスーパー(ものすごいという意味しかない)と言い、レジスター、つまり金銭計算機をレジと略し、やがてそれは金銭の支払いをする場所や行為を示すことになってしまった。リハビリテーションはリハビリと略されている。携帯電話はケイタイで済ませている始末だ。これはおかしくないか。かんじんな「電話」が省かれ、修飾語の「ケイタイ」が残ってしまった。さらには、劣等感をコンプレックスと言っているが、正確にはinferiority complexというのである。劣等という意味はinferiorityの方にあるのであって、complexは複合体という意味なのであり、これはフロイトの精神分析学の用語である。マシニングセンタという工作機械(金属を削る)に取り付ける刃物の材質の一つに高速度鋼というのがある。金属を削ることのできる速さが従来の刃物より高くできるという意味だ。これは英語風に言えばハイスピードスチールとなるが、日本ではこの一部を取って「ハイス」ということでこの材質を表している。カタログ上でも使われ、今や日本では正式な名称となってしまっている。なんとも驚くべきことではないか。日本人とはなんともいいかげんな民族であり、めちゃくちゃな省略が好きである。英語では語の後ろの部分を略したときは、最後の文字の後ろに「.」を入れて、省略されていることを明示することにしている(たとえば米国のマサチューセッツ州は、「MA.」と略される)。しかし、日本ではこのような決まりはまったくなく、全ては場当り的に行なわれるだけなのである。
元の言葉、特に名詞の一部をそれの代用として使うことの利益はなんであろうか。全てを言ってしまうのではなく、その一部を言うことは相手に想像させるという効果があるのである。全部を言わず一部だけを言うことによって、相手も自分もある快を感じることができるのである。これは前記の話術と同じである。人から敬愛される人は、その呼び名が短縮されていくものだ。たとえばサッカーの中田英寿(なかだひでとし)選手は「ヒデ」と呼ばれている。敬愛されればされるほど、その呼び名は短縮されていく傾向がある。だから、呼び捨てにされることは、相手に敬意を表されている証拠でもある。逆に、相手にされていない場合、その呼び方はどんどん長く複雑になっていくものだ。たとえば佐久間先生、佐久間教授、佐久間大先生などと言われたら、それは「あんたなんかまともに相手にしていないんだよー」と言われていることと同じだ。
ある名称の一部を省略することによって、全てを言う、聞くというけだるさから逃れることができる。前出のニーチェ「善悪の彼岸」の『今日の読者は、一つのページの一つ一つの言葉を(ましてやシラブル(音節)なんかを)残らず読みとっているわけではなく――むしろ、二〇の言葉のなかから、たまたま五つぐらいの語をえらびとってきて、この五つの語が含むらしくおもわれる意おば《推測》する』とはこのことを言っているのであろう。さらには、一部だけ残したものを、あるいは変形させたものを相手にある記号として手渡すことによって、相手はこれから元のもの推測するという快感を味わえるのである。それを言った方も、この短縮・変形により何らかの快感を味わっている。これは「粋なことをやっている」という感じだ。その「記号」の意味を一般の者は知らないが、我々はその意味がわかり合える同士である、という快感でもある。少しだけ言うことによって、残りは相手に解読や推測をさせるということは、言う方も聞く方もその道に精通しているという優越を感じることができるのである。自分で言葉を作り出すという満足感もある。このように、言葉の短縮・変形は我々が渇望するもの、つまり未知なるものという魅惑的なものを作り出す、また、優越感を得る一つの手段なのである。わかる人しかわからない記号を受け取って解読や推測をするという高度なやりとりを楽しむのである。
修辞学でいう、換喩法(かんゆほう)や隠喩法(いんゆほう、英語ではメタファー)にも同じことが言える。換喩法とは、たとえばある人のことを、その人が所有しているものや体の特徴によって示すのである。たとえばバストが豊かなある女性を指すとき、「A子がこちらに歩いてきた」としないで、「あのバストがこちらに歩いてきた」などと言うのである。これは換喩法などと意識しないで誰でもよく使うものだ。また、隠喩法とは、あることを別なことに移し変えて説明するのである。たとえば「心の深いところに」と言ったとき、「深い」というまるで地層のようなものに心というものをたとえている。心の構造をかってに地層のようなものにしてしまっている。つまり、無形な心に形を与えている。これにより、心についての組織的な話ができるのである。実際には心には形などなく、浅いも深いもないはずだ。それを心という構造物を想定し、そのいろいろな場所に心の機能を分割して配置する。これにより、我々は心を幾何学的に考察できるようになるのだ。
これらの修辞学上の技術を駆使した作品を読んだ者は、作者が意図したものを逆に推測しなければならない。これは困難でもあるが、快楽でもあるのである。自分で想像しながら作者が思い描いたものにたどりつくことは、冒険でもあり、我々に大きな快楽をもたらすのである。換喩法や隠喩法は相手に困難を提供し、それを解決する喜びを与える一つの方法なのだ。
本や曲の題名についても、この換喩法・隠喩法をうまく使ったものが人を引きつけるのである。たとえばずいぶん前のものだが、米国のケネディー大統領暗殺について書かれた本で、「ダラスの暑い日」というのがあった。これはうまい題名だ。もし、「ケネディー大統領暗殺の真相」などという題名にしたなら、つまらなくなってしまう。そうしないで、暗殺現場名とその日の天候を題名にした――換喩法的である――ところがうまいのである。また、二〇〇六年に映画化され大きな興行収益を上げ、本としても世界で六〇〇〇万部以上を売ったという「ダヴィンチコード」も、まずこの題名が良いのである。これは、レオナルド・ダ・ヴィンチ(一四五二年生まれ)が、ナザレのイエスが実は結婚していたことを彼の絵画によって伝えようとしたという話だ。もしこの題名を「イエスの結婚を伝えようとしたダヴィンチの絵画」などとしたならば人目を引かないだろう。これらには、魅力的なものの第一の条件である《簡潔さと未知さ》がある。それを見た者に想像を要求し、相手を魅惑するのである。題名によって、売れ行きも大きく違ってくるのである。また、昔、フォークソングブームのとき、「かぐや姫」というグループが出した「神田川」という大ヒット曲があったが、これも良い題名だ。歌詞の中の物語とは直接関係のない、作詞者(この歌の中の主人公)がある日、ふと目にしたものを題名としている――これも換喩法的である――。それによって簡潔で印象深くなり、さらに相手の想像をかきたてるのである。もし「同棲生活」とか「同棲時代の思い出」という直接的表現を採用していたなら、これほどの品格を感じさせる題名とはなっていなかったであろう。これが換喩法の威力なのであるのだ。
第六節 互いに飽きられないために
昔、ある西欧の弦楽四重奏団について面白い話を聞いたことがある。彼ら四人はプロフェショナルであり、生活がかかっているので仲良くやっていかなければならない。そこで、彼らは午前中の数時間の練習以外は、一緒にいないようにしているというのだ。これは長く付き合うための唯一の方法なのである。あまり互いを知りすぎることは前記のようによいことは何もない。我々の考え方は必ず各人で異なるものだから、あまり互いに深入りするとどこかで意見が食い違うことになり、互いに相手に嫌悪を感じるようになるものだ。争いが起こっても、互いの間に強弱関係がある場合は簡単だ。弱い方は強い方に従うしかないから平和なのである。しかし、互いが対等であり、しかも、互いに強者である場合、互いの不信感は大きくなる。
両立しない問題が必ずあるので、たいていの争いは話し合いでは解決しない。話し合えばかえって争いは激しくなるものだ。その場合、互いの根本的な違いがいっそうわかってきて、いかに相手がおかしなことを言っているのかがはっきりしてしまうのである。飲み会などで議論が始まり、二時間くらいそれが続き、ついには周りの者たちが強引にその議論を終わらせなければならなくなる、ということがある。議論はすればするほど、相手を知れば知るほど、互いの根本的な違いはいっそうはっきりとしていき、いっそう大きな不信が生まれてきて、はじめに互いに感じていた親近感は簡単に破壊されるのである。話し合いというものは、常に自分の主張を相手にわからせようとする場になってしまうのである。どんな行為にも正当な理由はつけられる。ある理由は別な理由により攻撃される。それが終わりなく続くのである。自分の事情により止むを得ず起こす行為に、理由という化粧をほどこし相手に押しつけあう議論は、必ず決裂するものだ。
「趣味で争うなかれ」というラテン語の格言があるそうだ。二つの意見、信仰のどちらが正当なのかは論理的には証明できない。イスラム教と、キリスト教のどちらがいいのかは、言わば、趣味の問題という領域に属するものだ。しかし、こういう問題こそが手の付けようもない争いを引き起こして、そのために多くの者が死んでいる。しかし、誰もが自分の宗教を信じている。敵もまた自分の宗教を信じている。だから、宗教がからむ争いで何が起ころうとも、その惨状が宗教自体のせいだとは誰もが思わない。全て相手が悪いと決めつけてしまう。話し合っても、自分の考え・信仰を相手に教えようとするだけだ。つまり、互いに張り合っているのだから何の解決にもならない。
しかし、わかっている者は相手と少し話しをしてみてまったくトンチンカンであった場合、基本的なものの違いがあり、危険な信号であると判断して、その者とその関係の話は絶対にしないようにするものだ。主義・趣味・宗教などが違っている場合、その関係の話や議論をするのは極めて危険で避けるべきなのである。仲良くしていかなくてはいけない関係の場合、意見の合わない分野のことに深入りしてはいけない。何か気になることを言われれば、必ず反撃したくなりけんかとなり、相手のことが嫌いになっていく、つまり相手の魅力はそぎ取られていく。これらは実に急速に進行し、あっという間に破局を迎えてしまうものだ。夫婦でも友達でも仕事仲間でも、長く付き合わなければいけない場合、話はあまりしないほうがよい。互いに不明であるほうがよく、自分をあまり知られないようにするべきであり、また、相手のことも知り過ぎないようにするべきだ。相手の見られてはいけないものを見てはいけない。見なければ気にならないからだ。全ては必要な最小限にとどめておかなければならない。自分の考えは自分一人で楽しめばいい。自分の考えに相手を引き込もうとするから争いになってしまうのである。自分の楽しみを相手にも味あわせようと思うのがよくないのである。
夫婦げんかや離婚の問題などでは互いによく話し合え、と言うが、これはとんでもないことである。話し合えば合うほど、互いの両立しがたい考え方の違いがはっきりして、また、互いのいやらしく、醜いところがいっそうはっきりしてしまい、相手を前よりも嫌いになってしまうのである。互いに丸裸になってしまい、いやらしい中身を見せてしまうことであり、互いの価値を下げてしまうのである。
相手がどのような魅力的な人であっても、我々は自分の主義・趣味・宗教などが攻撃されれば、たちまち目を血走らせて反撃するものだ。我々の体が怒ってしまうのだ。たとえば説得や励ますことは、相手の固有な状態を「間違いである」と決めつけることなのである。つまり、説得や励ますことは、自分の主義・趣味・宗教などを相手に押し付けること、相手のそれらを全て払いのけて自分のそれらに置き換えようという行為であり、宗教で言えば相手に改宗を迫るのと同じである。
互いに楽しく談話していても、誰かが相手を説得したり、励ましたりし始めると、とたんにそれを言われた方は不愉快な顔になり、重苦しい雰囲気になってくる。相手を説得したり、励ましたりすることは、相手の考え方や相手の状態をまったく無視し、相手の中に土足で入り込もうとする行為だからである。たとえば病人は励ましてはいけない、これは、実際にうつ病をはじめとして多くの病人の言っていることである。基本的な苦悩を取り除いてやりもしないで、ただ頭を押そうとしているだけであるのだ。それだけではなく、誰にとっても励まされることは不快なのであり、それによって励まされる者が利益をこうむることはまずない。人を励ますことで役に立つことが何かあるとすれば、励ましている者が相手との会話によって生じた、あるいは、いつももっている不快から一時的に逃れることができるくらいであって、これは励まそうとする者の欲求不満解消(不快の中和)の手段となっているだけなのである。
「かわいさあまって、憎さ百倍」というのも、こんなことが原因となっているのかもしれない。我々があまりにもかわいがっている相手に、自分の全てを見せてしまうと相手に飽きられてしまうのである。そして、相手はあるとき突然その気分を現すのである。相手は自分が考えているようには全然考えていなかったというわけだ。相手の態度や行動の急変を見た我々は、異常な怒りに襲われるものだ。我々は自分の思っているとおりになっていないとき、大きな怒りに襲われるものだ。
カーネギー「道は開ける」(香山晶訳、創元社)には、次のようにある。『相手が興奮してきたら、こちらは何も言わないようにしたほうがいい。これが、夫婦けんかを最小にとどめるための秘訣である』。我々の中には、相手と仲良くしようとする意欲と攻撃しようとする意欲があり、この二つのあいだを意味もなく、不安定に行ったり来たりしている。だから、うまくいっていても些細なことにより、すぐに大げんかになってしまう。我々は不安定な状態にあり、未知で危険な本能をもっていて、しかもマーフィーの法則にあるようにいろいろなものと関係し合っていて、それは我々には認識できないし、ましてコントロールなどできない。であるから、互いにうまくやっていくためには、これらのものをコントロールしようなどとしてはならない。そして、未知で危険な本能を刺激しないようにしなければならない。争いが起こりそうになったら、少なくともどちらか一方がそれを止めなくてはいけない。何も言わないようにしなければならない。激しく、無益な口論に進んでしまう前にどちらかが停止しなければならない。
我々の思想や行動はその人固有の事情で決まっている。しかし、それには、必ず後から社会的にもっともらしい理由がとって付けられる。相手に深入りし知りすぎた場合、相手の思想や行動が自分と違うことに気づくと、怒り、相手を攻撃したくなる。これは自分の思想や行動を守り、相手に「自分から見た相手の間違った思想や行動」を修正させるための行動である。組織でも夫婦でも、仲良くやっていかなければならない相手のことは知りすぎないほうがよく、必要な話以外はしないほうがよい。自分の思想は自分だけで楽しめばいい。相手を巻き込もうなどと考えてはいけない。これが相手と仲が悪くなる原因となってしまうことが多いからだ。個人レベルのけんかでも、国同士の戦争でもその結果得るものは何もない。その結果、どちらもボロボロになるだけだ。
自分の中身を相手に知られないほうがいい理由は二つある。一つは、全部知られると自分の価値が下がってしまう。もう一つは、もし自分の本性が相手の趣味に合わないとき、相手を不快にしてしまう。互いに理解し合うことはできない、それを目指してはいけない。互いに理解し合うということは、互いがいかに相手が醜いもの・いやらしい者であるかを知ってしまうことなのである。互いに素顔は見せないほうがいいのだ。うまく、平和にやりたいのなら、うまく化粧をしていやらしい中身を隠してしまうことしかないのだ。我々の本性は実にいやらしく、醜いものなのだ。この種類の障害は突破するものではなく、うまくよけるべきものなのだ。護身術とはいかに敵に立ち向かうかではなく、いかに敵との直接の争いを避けるかであると、専門家は言っているけれど、これと同じである。
前出のアーサー・ブロック「マーフィーの法則」には次のようなものがある。『美しさは皮一枚のもの、醜さは骨の髄まで』。我々の本質は醜さにあるのではないだろうか。うまく生きるにはそれをいかに隠し、あるいは見ないようにするかにかかっている。古くなって腐りかかりまずくなったものをいかにおいしく見せるのか、香辛料などをふりかけていかにおいしく食べさせてしまうかなのである。これをうまくやってのけた者が、楽しく人生を送れるのである。言っておくが、これは性悪説などというものとはまったく関係がない。善いの、悪いのというようなことはこの話にまったく関係がない。善い悪いは自然界に存在するものではなく、我々が作り出したものである。だから時代・民族・宗教・個々の人によっても違うのが普通である。我々はまずいと思ったものは食べたくないし、醜いものには近づきたくないのである。我々は結局、このようなことにおいて行動していることをよく知り、それに沿っていかなければならない。
二〇〇六年サッカーワールドカップ、フランスとイタリアの決勝戦でのジダンとマテラッティーとの争いを見てもわかると思うが、スポーツは楽しいものではなく戦いなのである。スポーツマンシップなどは名ばかりにすぎない。机上で考えているときと違い、ピッチでは敵に対する恐ろしく大きな闘争心が支配しており、とても人には言えないような暴言も飛び交っているそうである。また、楽しいはずの長距離ドライブも、やたらに接近してくる後続車への憎しみと報復の願望、前の車をあおりたくなる我々の不気味な闘争本能のおかげで、出発前の楽しい気分はすっかりなくなり、我々はあの太古の野生的で残忍な人々の気分に戻ってしまう。必死に前の車を追いかける者、必死に逃げる者、これこそが我々の正体なのである。また宗教においては、昔から異教徒への憎しみが絶えないではないか? 宗教は人々を救うものというよりは、我々の闘争心をかきたてるものであるように思える。キリスト教とイスラム教の争いは、イスラム教がムハンマドにより七世紀に創始されてからというもの尽きることがない。正に宗教は人間たちを平和にするのではなくして――ドライブが楽しいものとなるよりは、追いかけあいという闘争になってしまうように――、人々に闘争の舞台を提供してしまうものなのである。トルコ中部の地方カッパドキア高原に六~一三世紀に岩を掘り進んで建設された地下都市には、キリスト教徒が住んでいたが、イスラム教徒の攻撃に備えるために多くの工夫がされていた。二〇〇六年現在、キリスト教圏とイスラム教圏の間には、解決不可能な激烈な戦いが起こっていて、二〇〇一年の九月一一日の事件以後、アフガニスタンにおける米国・NATOとタリバンの戦いはとどまるところを知らない。これは、キリスト教圏とイスラム教圏の戦いに他ならない。米国に力でかなわないムスリム(イスラム教徒)の一部の人々は、一九六〇~一九七五年のベトナム戦争における北ベトナム・南ベトナム解放民族戦線が、米国軍を苦しめたようなゲリラ(奇襲して敵を混乱させる戦法)という陰湿で不気味な戦法と同じような方法、つまりテロと呼ばれる方法で、世界中の直接の敵とは関係のない人々に、かってな理由をこじつけて報復している。敵はけして降参することはないのであり、不快のはけ口があらゆるところにちゅうちょなく向けられるのである――これは、我々の不快を《最愛の家族》への暴力により中和せんとする「家庭内暴力」と同じなのである。
我々を含めた生物の互いの関係の本質は、はっきり敵なのである。しかし、高等になるに従い、人間になるに従い、それらをそのまま見せることをやめるようになっていく。それどころか、我々のそのような本質をまったくナンセンスなものとしてしまう思想がはびこってくるのであって、これらは道徳や宗教を見てみればわかる。しかし、その宗教が出てきたおかげで、前記のように異なる宗教同士の戦いが起こることになった。また、その理念とは逆に今から少し前の時代のヨーロッパでは、実に残忍なことが、なんと同士の者に対して行われていたではないか。カトリック教会で始められたという異端審問や、それぞれの国が取り組んだ魔女狩りはよい例である。これによって、多くの罪のない者が殺されてしまった。どうして、普通の人や女性をいじめ、殺さなければならなかったのだろうか。それは、彼らがそうしたかったということであり、僧侶や役人の日頃は抑え込んでいる残忍性が出てきたまでのことだ。僧侶のメッキははがれたということだ。聖書の「汝殺すなかれ」というのは、全然守られてはいないではないか。我々のいやな部分は、いくら隠そうと思っても時々ちらりと出てきてしまう。もちろん、それにはもっともらしい理由がとってつけられているのではあるが、かってな理由をとってつけて人殺しをやっているだけなのであって、まったくテロリストの活動と同じだ。宗教では、我々の危険な本能までは手なずけられなかったということだ。それどころか、宗教自体が我々の不気味さと残忍さをよく現しているではないか。前出のニーチェ「道徳の系譜」には次のようにある。『すべての宗教はそのもっとも深い根底において残忍の体系である』。
「人間は皆、敵ではない」という考え方に従っている者は悩みつきなくなるだろう。というのは、しばしばこれが裏切られるからだ。相手に融和的なものを期待してはいけない。我々は以上のことをよく念頭におき、人とつき合わなければならない。いつも、用心をしていなければならない。相手は、未知で不気味で危険な存在であると考えていなければいけない。我々の正しい本性を知り、「融和に」振舞うのである。そうすれば、相手がいやな行動をしたとしても、それは想定内ということになり、あまり驚かないし腹も立たないでいられる。