SonofSamlawのブログ

うひょひょ

第一部 第3章 相手や行為の価値や魅力

第3章 相手や行為の価値や魅力 

――価値・魅力は対象や行為自体にあるのではなくて、対象の背景や我々と対象の関係の中にある――

 

第1節 我々は平等ではない

男性と女性の間には、けして乗り越えられないものがあり、互いに理解し合うことは不可能であることはこれまでのところでわかったと思う。両者は違うものなのである。もちろん共通なものもあるだろう。互いに異なるものの存在は厄介で解決不可能な問題を引き起こす。この違いを軽く見て、少し話せば互いに理解し合えるなどと軽率に考えてはいけない。男性と女性は違っていて、共通なもので整理できないのである。だから、話し合えば合うほど、互いに相手が自分を基準とすればおかしく、間違っていることがより明確になっていくのである。しかし、相手がおかしいのではなく、何かが違っているのである。これはあらゆる人間の間についても言えることだ。どんな者たちの間にも、互いにけして理解できないものがあるものだ。それら固有のものが直接接触すれば、整合できなくなり戦いが始まるのである。我々の一切は、この自分の固有なものを守り、拡大しようとする戦いなのである。

我々は、各人にそれぞれ固有なものを感じている。そして、その固有なものを自分の観点から見て――つまり固有な見方により――点数をつけようとする。たとえば良い・悪い・優秀・劣悪といった具合に相手は分類されてしまう。我々は、たいてい平等を称えながらも不平等さを正確に感じ、さらには不平等を好み、それを必要としているほどだ!

人によって同じことをやっても自然に見えたり、おかしく見えたりする。たとえばある人がある服を着ると何もおかしく見えないのに、別の人がそれを着るとおかしく分不相応に見えてしまう。また、ある人がある動作をしても自然に感じられ、さらには快感をもたらすのに、別な人がその動作をすると、誰もが不快を感じることがある。また、ある人があることを話題にすると、周りの人はそれに不快を感じないが、別な人がそれを話題にすると周りの人たちは「君がどうしてそんなことを知っているのか」とか、「あいつのそれに対する意見など聞く気になれない」という不快を感じる。人によって同じ行動をしても自然に見えたり、不自然・生意気に見えたりする。これは人種差別と同じものだ。これは、我々にどうすることもできない各人の固有な性質――運命論の用語で言えば定めと言ってもよい――によっているのであり、我々がコントロールできるものではないのである。我々はけして平等ではなく、各人にはそれぞれ固有なものがある。人間は皆平等であるなどと言った人は、これらの事実をまったく無視しているのである。

 

第二節 我々は上も下も必要としている

あらゆる集団には必ずリーダーがいる。誰かがリーダーになるのである。ではリーダーとは何か、どうしてその者がリーダーなのか。我々は誰かをリーダーにしてしまう。そしてその者はやがて我々にとって害になること、危険なことをやり始めるかもしれない。二〇〇六年一二月に絞首刑に処された元イラク大統領のフセインや官制談合を指示した県知事たちを見ればわかる。それでも我々はリーダーを求める。リーダーを求める我々の本能があり、またそれに該当する者がいるのである。二人以上いれば必ずリーダーが出てくる。他に命令する能力がある者と、それに従うという能力がある者に分かれる。これは強弱関係でもある。命令する者は、まるで生まれつきそういう素質があるかのように、自信をもって行動に出る。一方、それに従う者は、生まれつきそのような身分であるかのように素直にその命令者に従う。そのことは互いが暗黙に了解しているのである。このようにして、集団の中の役割の序列は、我々の価値判断能力によって自然に決まっていく。ほとんどの者にとって、その序列は一致している。その序列に不満である少数の者もいるが、それらの者が弱者であった場合、異端者として迫害されるのである。

我々は誰かと仲良くしたいだけではなく、誰かを崇めたいし、誰かを見下したい。尊敬する者も、ののしるべき者も必要としている。高貴なものも、下劣なものも必要なのである。また、愛するものも、憎むものも必要なのであり、善も悪も必要としている。善が意味をもつためには悪が必要なのであり、その逆も言える。善のみ、あるいは悪のみで存在することは不可能なのである。愛するものや美しいものは、憎むべきものや醜いものがあるからこそ、その価値をもつことができるのだ。下劣なものがあるからこそ、高貴なものが高貴たるものとされるのだ。優越者の優越性はそれより劣った者により支えられている。全ての者が優秀であったなら、誰も優越感など感じることはできないのだ。下がいるからこそ、上でいることができるのである。つまり、下と上が互いに支えあっているという一つの構造物(全てのものが関係しあっているという意味で)であるのだ。

各人に、あらゆるものに価値を定めることで、我々はある満足感を感じる。これは清水真木ニーチェ」(講談社)によれば、ニーチェの言う「権力への意志」と「権力感情」である。尊敬し従うべき者を決めそれに従うことによって、また、軽蔑する者を罵倒することよって、我々は本能的な欲求を満たそうとしているのである。

リーダーは、いつもその他の者たちによって選ばれるものである。もしその者が強くても、その他の者が大勢でかかれば勝てるはずだ。しかし、その者には誰も刃向かわない。それは、我々にとって必要だからなのである。我々は「平等」を求めながら、そのくせ本能はそれを嫌うのであり、上下関係を、差別を、区別を欲するのであり、もやもやだらだらした上下関係のはっきりしない平等な関係には、不快を感じるのである。平和は良いが、それはあまりにも退屈なのである。そうなると我々は刺激を求めるようになる。平等には、我々が求める刺激がないのである。たとえば軍隊のような緊張状態にあこがれるのである。我々は、自分の価値判断能力による対象の差別を渇望している。あいつは良いとか、あいつはダメだとか決めつけたい(ニーチェの言う権力への意志)のである。それにより、我々はある満足(ニーチェの言う権力感情)を得ようとしているのである。

我々は誰かを尊敬したり、好きになったり、崇拝したりする。そして、誰かを軽蔑し、ののしり、迫害する。それら全てのものは、我々に必要なものなのである。こんな政治はだめだとか、こんな音楽はだめだとか、こんなやつはだめだとか、こんなやり方はだめだとか、つまり下劣なものを確定することによって、また良いものを確定することによって,我々はある満足感を得ているのである。

 

第三節 関係の重要性

我々は、まるでソシュールの構造言語学のように、相手自体ではなく自分と相手との関係を気にしている。この構造言語学創始者である一八五七年生まれのスイスの言語学者ソシュールの考えについて、木田元現象学の思想」(筑摩書房)から引用してみよう。

 

ソシュールの教えるところでは、記号というものは一つ一つとしては何も意味しない。それぞれの記号は一つの意味を表すのではなく、それ自身と他の記号との差異を表わす。つまり示差的な意味を有するにすぎないのである。したがって、言語の体系とは項のない差異からなるものだとか、言語の辞項はそれらのあいだに現れる差異によってのみ発生してくるのだ、といった逆説的な言い方をせざるをえないのである。

 

ここで、記号とは単語(花、行く、美しいなど)を指しているのであり、関係が項より優越している、ということを言っている。

ある二人が対面したときに、互いに正確に相手との強弱関係・上下関係を感じるものだ。それは対等であるのか、自分が上なのか、下なのかということである。これらは感じるのであって、判断するのではない。それはどこからか「告げられる」と言ってもいい。この強弱関係は相手の状態、つまり組織の中での地位、その組織の有名度、相手の体の状態(体力、たくましさ、頭の良さ、魅力など)といった多くのものが、そのときのこちらの状態と比較され、自分との関係が決定される、と一般に言われる。しかし、この比較は無意識にわけもわからず行われ――我々は、たとえば「良い顔」についての判断はできるが、その判断のメカニズムはまったく未知なのであり、フロイト流に言えば判断の根拠は我々の意識の中にない――、その結果だけが意識に届けられるのである。

我々は、自分が相手より下であると感じた場合、相手に気を使う。声は高くなり、早口になり、口数も多くなる。相手に飽きられてはいけないと思う。相手の気を引くような行動をするようになるのである。相手にあいそつかされたくない、自分を良く見てもらいたい、という気分である。また、相手より上だと感じた方は、相手を見下ろす態度が始まる。声は低くなり、ゆっくり落ち着いてしゃべり、口数は少なくなる。自分にこびる相手に不快を感じ始める。

我々はけんかや議論になったとき、相手との強弱関係がしゃべり方に影響を与える。つまり、二人の関係が自分のしゃべり方をコントロールしているのである。相手より強い立場の者は、おもしろいように相手を攻撃するうまい言葉が出てくるものだ。まるでどこからか湧き出してくるかのようだ。しかし、弱い立場の者はうまく相手を攻撃する言葉が出てこない。全ては二人の間の強弱関係に支配されているので、勝手な行動は許されないのである。強い立場にある者は、無意識的(どこからか確実性のあるアイデアが到来するということ)に相手を攻撃する言葉が出てくるのだ。これに対して弱い立場にある者は、何もかもうまくいかないのである。

態度が堂々としていないと、相手に軽く見られてしまい、話し合いや議論において相手のペースになってしまうと言われる。しかし、これは逆なのであって、堂々としているから優位に立つことができるのではなくして、相手より優位であることがすでに決まっていて、それを感じているからこそ堂々としていられるのである。相手より劣っていることを察知した方は、とても堂々とはしていられないのだ。この優位性は、けして行動とか努力などから生じるものではない。それは、我々がコントロールできないメカニズムにより決まってしまっているのであって、我々がまったく関与できないものが、我々の思考や行動を支配していることは確かなことなのである。

人が落ち着いていられるのは、相手に対して自分が優位に立っていると感じているときだ。頭の良さ・経済的なもの・体形・体力・健康さなどのいろいろな我々の属性のなかで、その場で必要なもので優位に立っている場合、我々は落ちつけるのである。

たとえば病院において、困り果てた病人やその家族と病院の職員の関係を見てみると、この二者の間には大きな強弱関係がある。職員は強く病人関係者は弱い。だから職員は、いつも落ち着いて対応できるし、病人関係者を見下ろすような気分になる。逆に、病人関係者は職員を見上げ、気分は落ち着かない。職員は自分と対等でない相手に対等な気分で対応することが困難となる。初めの頃は誰でもたいてい丁寧であるが、慣れてくるにしたがい、病人関係者をよく知るにしたがい雑な対応になっていくものだ。相手が何か意見を言ってくればなんだ生意気な、ということになる。だから職員は病人関係者をよくどなりつけたりするのである。まして医者ともなると、自分は最高位の職にあるという自負があるので、自分よりはるかに下位である病人関係者を見下ろすような態度を抑えるのが困難なのであり、さらに相手がみすぼらしく魅力的でない場合、この気分は増強されるのである。医者は、これらの自分より下位な相手が、自分に素直に従っていればまだいいが、わかったようなことでも言って反抗してくれば、たちまち腹が立ってきて攻撃したくなるのである。この感情は《残忍性》に関係しており、報復やいじめにつながり、これについては後のいじめに関する章でくわしく整理することにする。

我々は相手によって「良い人」になったり、「悪い人」になったりする。良いとか悪いとかはその人の本質なのではなく、相手との関係、または周りとの関係において現れるものなのだ。相手なしに、その人自体の性格などというものは現れない。ある人に優しい人が、別の人にはいじわるだったりする。誰でも自分が好きな人や自分にとって価値あると思った人には優しく良い人になる。しかし、嫌いな人や劣悪だと思った人には冷たくなる。我々単体では何も起こり得ない。何かとの関係で、何かと反応することによって、ある衝動が発生するのだ。その人を何ものとも関係させないで、独りにしておいたなら、その人の性格などはわからないだろう。

あることをやりたくないと言っていた者が、別の者に促されると、たちまちいそいそとそれを楽しそうにやりだす始末だ。そのやること自体がいやなのではなく、やれと言った者に価値を感じなかっただけなのである。自分の好きな者、価値を感じる者に言われれば、どんなことでも価値あるものに見えてしまうのである。

人間には裏と表があると言われる。しかし、裏表がないと言われ、ほめられる人もいる。しかしその人に裏表がないのではなく、ある相手に対して裏を見せなかっただけのことなのである。裏表があるかないかではなく、見せるか見せないかの問題なのである。どうしてその人が相手に裏を見せないのかというと、その人が相手に魅力を感じているか、恐れているからである。つまり、彼は自分の醜いところを相手に見せてしまうと自分の得にならない、あるいは危険であると感じているからなのである。その人は別のどうでもいい人には、自分のいやらしく醜いところを平気で見せつけているものである。

我々は、ある事柄をいろいろなものの関連の中に見ているものだ。たとえばある景色を見ていい気持になったとすると、そのイメージには必ずその景色とかかわりのあり、自分の知っている魅力的な人のイメージが潜んでいるものである。その人とのよいかかわりによって、またその人が目の前の景色にかかわりがあることによって、我々はその景色を愛するようになるのである。そういうことは、たとえば私が好きだった鉄道模型などにおいても言えるのである。鉄道模型のことを考えていても、その考えていることを楽しく魅力的にしているのは、実はそれとかかわりの深いある魅力的な人間のおかげだったりするものだ。どんな良い思い出にも、必ずある魅力的な人との関係が見られるものだ。我々は、人間のことを我々が考えているよりはるかに気にしているのである。あることをやることやあるところに行くことがうれしくてたまらないとき、ある魅力的な人が関係しているのである。我々が何か楽しいとき、間接的にせよ必ずある人のイメージが潜んでいるのである。だから、人間関係がうまくいく者は何をやっても楽しく、そうでない者は何をやっても楽しくないのである。

音楽においても同じようなことが言える。どんな良い曲でも、世界にその曲しかなかったなら、はたしてそれをどれほど良いと思えるだろうか。他の曲との比較や関係、あるいは音楽以外にものとの関係によってそれはきわだってくるのではないだろうか。私が好きだった鉄道模型無人島において独りでやっていても、はたして楽しいだろうか。鉄道に関係したもの――その中には実際の鉄道やそれにかかわる人やそれを利用する人やそれを愛する人がいる。そしてそれを模型として楽しんでいる人がいる。それをいっしょに楽しんでくれる家族がいる――の中でそれにかかわっているからこそ楽しいのではないだろうか。つまりある関係の中に入っているからこそ、それが意義あるものとなるのであって、鉄道模型自体が意義あるものなのではないのである。我々のどのような行動の中にも、いつも他の人や他のことが意識されていると言っていい。一見そのように見えないような行動においても、そのよりどころは他の人間や他のこととの関係においてあるものなのだ。

暴走族の様な人たちの行動も、前記の《構造言語学》的に説明することができる。誰もいない所や山の中を暴走して楽しんでいる暴走族はいない。彼らは必ず周りに人が多くいる所で暴走するものだ。彼らは暴走において何を得ようとしているのだろうか。たぶん、自分たちの行動を周りの人に見せつけることにより、優越感という快感を得ようとしているのだ。彼らには必ず多くの見物人が必要なのだ。彼らと見物人との関係が、暴走行為を彼らにとって価値あるものにしているのだ。彼らが快活に生きるためには、普通の人たち、つまり自分たちを驚きの目で見る「反自分」の存在が絶対に必要なのだ。彼らは、もし周りの人たちが全て自分と同じようなスタイルの人であったなら、自分たちの《演技》を見せつける相手がいないということになり、彼らの不快はぶつけるところがなくなり、快活に生きられなくなるであろう。彼らは自分たちの行為を見せたいのであり、その見せたい相手は誰でもよいわけではないのである。これはキャバレーやクラブでホステス相手に自慢話をするなさけない男たちと同じ心理である。この場合も、この男たちはより優れたホステスに聞いてもらいたいのであって、誰でもいいというわけではない。彼らは周りの人たちとの関係によって、より快活になろうとしているのである。彼らにとっては、自分たちの驚くべき暴走行為を見た周りの人の反応をイメージすることが、究極の目的なのである。別な言い方をすれば、彼らは何かの不快に対処するために綱を引っ張る。そのとき、それの反対側は誰かに引っ張ってもらわなければならない。誰もが彼らの側を引っ張っていたのでは、綱は彼らを引っ張ってはくれない。引っ張られる綱を引っ張り返すことにより、彼らは快活になることができるのである。暴走行為自体にはまったく価値はない。しかし、自分たちを驚きの目で見てくれる《普通の人》と関係することにより、暴走行為には大きな価値が出てくるのである。前記のソシュールの構造言語学と同じように、関係というものが項(暴走行為)より需要であることがわかる。

他人とのおしゃべりも、研ぎ澄まされた目で見てみると、魅力的な相手との係わり合いを楽しむ――性交と同じで!――ことが、唯一の動機なのであって、けして、その話題自体を楽しもうと思っているわけではないのである。その話題は、その相手と係わり合うための道具にすぎないのであり、我々の気にしているものは、間違いなく我々と相手の関係なのである。だから、相手がろくでもないことがわかると、我々は何もしゃべる気がしないものだ。

ここで、話題は私の趣味的なものに転ずるが、後世の大作曲家をうならせたベートーヴェンの第九交響曲、特に第一楽章などにおいては、それを構成するメロディーだけをとりだしたらたいしておもしろいものではない。しかし、それらが曲の中で関係し合ったとき、この曲の底知れぬ魅力が現れるのである。高度な作品――ブルックナーの最高峰である第八交響曲の第一楽章にも同じことが言える――には全てこの傾向があり、構成要素間の関係が緊密であり、それが大きな魅力を生み出しているのである。曲全体が一つのメロディーなのだ! しかし、そのことに気付き、快感を得ることのできる者は選ばれた者だけだ。その秘密は解明不可能なもので、この曲の魅力を探ろうとしても、この曲はそれをけして許さないのである。それは、ある一つの《解明不可能なもの》の影にすぎないからだ。一つ一つのメロディーは、それらを支配するもののかすかな現われにすぎないのである――だからこそ、それらの間には関係があるのだ。このような曲の中のメロディーは、そこから出して単独で聞かせたとしたら、まったく意味なく、おもしろくないものとなるのであって、その曲の中にあるからこそ、他のメロディーと関係しているからこそ、生きるのである。普通のレベルの曲の中のメロディーはそれだけ取り出して聴いてもよいものが多い。これは、他の芸術作品においても言えることだ。このように、個々の美しいメロディーを並べていくというのではなく、もっと簡潔で素朴なメロディーを重厚に関係させるという方法によった高度な作品の味を知った者は、病みつきになるのであって、その麻薬的な感動の大きさは常軌を逸したものであって、「気がくるいそうだ」と表現する他はないのである。このような高度な作品、つまり《怪物》の紹介は難しいのであって、要約することは不可能であり、簡単に説明できない。つまり、自分で聞いて確かめる他はないのである。それが書かれたものであれば、原典(テクスト)を全て読むしかないのであって、解説書などでは、その《怪物》をどうにも取り扱えないのである。

天才は、普通の人よりものの間の関係に敏感なのである。普通の人では考えもしないような関係を感じることができるし、それが普通の人より気になってしかたがないのである。また強迫性障害のような神経症性障害の人においても同じことが言える。普通の人は何かやろうとしたとき、その目的のもの以外のことには盲目になることができ、余計なことは考えないことができる。女性は得にその傾向が強く、よく「女性は余計なことを考えない」と言われ、特に中年の女性は「おばたりあん」とか呼ばれ、その野生的な行動は恐れられるもので、これは最も健康的な状態だ。しかし、強迫性障害者の場合には、その目的のもの以外のことが気になり、いろいろないやなことが連想されてしまい、目的のことをやることに専念できなくなってしまうのである。つまり、目的のことを遂行するために障害となるものがマスクされないで、全てが強調されて見えてしまうので、それらが気になって目的のことに集中できなくなってしまうのである。たとえば汚いと思われたものをごみ箱に捨てようとした場合、今度はそのゴミ箱が汚く思えてしまい、それに自分の手がついてしまうのではないかという恐怖が襲ってくる。さらに、ごみ箱に自分の手が接触したことが連想され、それに対処しなければならなくなり、そのものを、自分の手をごみ箱に接触させることなくごみ箱に捨てる、ということに専念できなくなってしまうのである。正常者は、余計なことを考えないようにしているのではなく、考えることができないようになっているのだ。ところが強迫性障害者には全てのものがしっかり、しかも強調されて見えてしまうのである。触ってはいけないものに近づいたとき、正常者なら触らないようにすることだけに専念できるが、強迫性障害者はその危険さがあまりにも激しく迫ってくるので、緊張して恐ろしいほどの欲求不満が襲ってくるのである。そのため、そのものに自分の手が激しくぶつかったことを連想したり、さらには、なんとその恐ろしいものに自分の体のどこかをぶつけてしまおうという、正常者ならまったく考えられない異常な衝動に襲われたり、触っていないのに少し触れてしまったようで気になって作業が進められなくなったり、といった異常な想像・衝動・不安・雑念にじゃまされて、なかなか「触らないようにする」ということに専念できなくなってしまうのである。また、家のドアに鍵をかけて外出するとき、強迫性障害者は鍵を抜いても本当に施錠されたか不安で、何度も鍵をかけなおすものだ。また、バッグに大切な物を入れてふたを閉じようとしたときに、自分の手でその物をまた出してしまったのではないか、そのものが外に飛び出してしまったのではないか、という異常な不安・雑念がきわめて強烈に迫ってきて立ち往生してしまい、その仕事を完了できなくなってしまうのである。これは目的のことを実行するときに、余計なことを考えてしまい、断固たる決断ができなくなってしまい、決断した後でも迷いまくる男性に似ている。世の中、多くを知ってしまったら、多くの関係を知ってしまったなら何もできなくなってしまう。多くのことや多くの関係に盲目であるからこそ、我々は自信をもって行動できるのである。知りすぎた者は、おじけづくだけなのであり、それは弱く無能な状態に成り果てるのである。有能な者とは、《無神経》という能力をもつ者なのである。女性は余り余計なことは考えずに決断でき、その後も迷わないのである。男性は余計なことを考えすぎて迷ってしまい、変なところに入ってしまうことがあるが、これにより大発見や偉業を成し遂げられることもある。これは弱いもの、病的なものと言われる者によっているのである。進化論で有名なダーウィンも「私がこれほど病弱でなかったなら、これほどの仕事はできなかったであろう」と言っているのだ。天才もそのようなものだ。彼らは普通の人と違い、ある一つの刺激からいろいろなものや、それらの関係、あるいは深刻な問題点が異常に強調されて見えてしまうのである。これらの気づかいがうまくいった場合、天才と言われ、うまくいかなかった場合、神経病者と言われてしまうのである。

昔、毒入りコーラ事件というのがあった。公衆電話ボックスや外に置いてあった毒入りのコーラを飲んでしまい、死んでしまったというものだ。よくも外に置いてあるような、しかも飲みかけのようなものを平気で飲めるものだ。この人たちには「その中に何が危険なものが入っている可能性がある」という「飲むことと危険との関係」が徹底的にマスクされてしまっていて見えないのである。いわゆる無神経人間のよい例であり、強迫性障害者と対極にあり、それは最も健康的であると同時に、強迫性障害者と同様に最も危険でやっかいな状態にあるのである。

知ってしまうと恐ろしくなる。いろいろなことを知ってしまい、しかもそれらを重大なことだと思ってしまったとき、それらのことが気になって目的のことに集中できなくなる。大病して苦しみ、死のふちまでも迫った者は、病気が治った後も気分は元には戻らないもので、何をやってもいままでのようには楽しく思うことができないのである。きまじめになり、敏感になる。今までは、自分に襲ってくる可能性がある災難について考えてもいなかったために、何をやっても楽しかったし、それに集中できたわけだ。また、いろいろな不安ややるべきことが多くあると、今やるべきことに集中できなくなる。だから、一つ一つの作業に対して気もそぞろになってしまい、やったことに自身がなくなり、何度も確かめたくなる――これは強迫性障害者の代表的行動である。「全てを捨て去った一撃」――これは、大きな仕事を成し遂げるとき、必要なことである――ができず、いろいろなことを考えながら不安を感じ、迷って出した一撃はうまくいかないものだ。強迫性障害者は恐ろしい体験を実際にしたわけではないのに、それらが自分のイメージの中に勝手に《到来》し、次々に拡大され関係付けられていく。これらの健康な者なら見ないですむようなイメージを、無理やり見せられてしまい、怯えるしかなくなるのである。

強迫性障害者においては、運転中に人をひいたのではないか、あやまって人を傷つけてしまうのではないかといった不安が普通の人より大きい。二〇〇六年四月一〇日の報じられた事件では、地面をならすロードローラーで、ある会社の敷地をならしていたところ、その敷地で遊んでいたその会社の社長の子供をひき殺してしまった。運転手は神経症性障害とはまったく無縁の状態で、実に気楽に運転していたのだろう。子供がいることを気にしていれば――少しでも強迫性障害の傾向があれば――、こんなことにはならなかったのだ。 

 

第四節 相手の価値の定め方

我々は相手の価値をどのように決めるのだろうか。我々には良いところと悪いところがある。ある状況では才能を発揮できても、別な状況では無能だったりする。遊ぶには良いが結婚したいとは思わない者やその逆の者もいる。いろいろ相談はしたいけれど、雑談はしたくない人もいる。我々は状況に合わせて相手の価値を判断する。ある状況で、その人固有の願望に答えるものが価値あるものとされる。他にどんなによいところがあっても、その状況において無能なら、無価値である、と判定されてしまう。我々は相手を見るとき、隠れた才能などは見ていない。その場において自分が願望する能力しか見られないのだ。我々はその場の状況において、自分に役に立つものや快感をもたらすものしか歓迎しない。その他のものはマスクされてしまう。どんなにあることについて有能であっても、その場において無能であれば、相手には「価値のない者」にしか見えないものだ。常に我々は自分に役に立つもの、自分の願望に答えるものを価値あるものと感じるが、それはそのまま言われることはなく、社会的・道徳的に正当に見えるように歪曲されて表現されてしまう。つまり、そのような我々の醜い正体を隠蔽するためにきれいな理由が後から考え出され、それが本当の原因に取って代わってしまう。これは半ば無意識的に行われていて、自分でも気がつかないほどだ。

人間は皆平等ではない。各人は違うのである。我々はそれぞれ固有なものであり、だからこそ「他人に乗り移ってみる」ことはできない。その違いは観点の違いにもつながる。観点はその者の固有な状態、つまり体の状態や社会的な状態により決まる。我々はこの観点から見て相手の価値を感じる。一人の人でもその観点は状況に応じて変わっていく。あらゆるものをぼんやりと平等に固有なものを感じずに見る人はいない。必ず各人を自分にとっての価値として、不平等に記憶するものだ。たとえばある集団のことを思い出すとき、たいていある一人か二人の人の顔しか出てこない。つまりその人がその集団の中で、自分にとって最も価値ある人だったのである。その他の人はどうでもいいということだ。相手にしなければならない者が多数いれば、それらは自分の観点から見た重要度(価値)の順に整理される。相手に対する態度はこの重要度により違ってくる。重要度の高い者は何をやっても正当に見え、不快を感じない。しかし重要度が低い者の行動には何から何まで不快を感じるものだ。そして、その者としゃべるのも面倒になるし、さらにその者の悪口を言うことにより快楽するほどになる。

このように、我々は相手が人間でも物でも、それらの価値というものを決めつけようと意欲している。我々にとっては《相手自体》でなく、自分が下した判断や想像したもの、つまり自分の中に作られた相手のイメージが相手の全てとなるのである。初対面のときから我々は相手の価値を定めることに専念する。相手の価値を定め終わるまでは、どんな者に対してもあいそよくするものだ。つまり、様子を探っているのである。我々はこの作業になぜか狂ったように全力をあげる。そして,この作業を完了すると落ち着く。我々はどのようなものに対しても、その作業をしなくてはいられないのだ。相手の価値を定めてしまうと、それからは落ち着いてこの確定された相手の価値に基づいた態度で相手に対応することになるのである。見下された者はぞんざいに扱われ、自分より上か対等であると判定された相手は丁重に対応されることになる。これはその者の固有な一つの解釈なのである。相手が多数なら、それぞれの者の価値が定められ、重要な者からどうでもいい者までの序列がイメージされるのである。

ドイツの哲学者ニーチェも、このような各人の固有性を問題にした。といっても彼が主に問題にしたのは、人種的な違いによる序列と考え方や行動との対応である。彼は、人間の思考は必ずその人固有なものの影響をうけていると考えている。つまり、純粋に理性的な行為は原理的に不可能なのであり、自分のいやらしい本性を隠すために用いられる《理性風な行為》があるだけなのである。これは、どの時代・どの国・どの階層の人たちにも必ず見られる「不道徳的な行為」を眺めてみれば納得できるのではないか? 誰でも他人には言えないような動機で行動しているではないか? 我々は表では「理性」を称えているのだが、実のところはもっぱら生理的欲望(感覚的、本能的、肉体的な欲望で、たとえば性欲)や情念(怒り、悲しみ、喜びなどと思念)が主導権を握っている。しかし、表ではそれらを隠そうとしたり、けなしたりしている。私の体の欲望に従って行動したなどとは、言いたくないからだ。やりたかったからやってしまったなどとは、言いたくないのである。

相手の価値は、太古の昔から引き継がれるドロドロと煮えたぎる我々の永久に未知で不気味な本能――この表現は前出のカール=ハインツ・マレ「子供の発見」より借用させてもらった――により決められるのである。それには非理性的なもののみ、つまり生理的な欲求や情念によっているのである。ニーチェによれば、理性的に見える行為も、必ずやその者固有な生理的欲求や情念によりコントロールされているのである。だからこそ、世界中で起こるあらゆる重大な問題が、《理性的な対策》によって解決されたためしがない。これらにまつわる問題は厄介で、手がつけられないのである。これらの問題はすべて、各自・各民族・各国・各人種などの固有な事情によっているものであって、他人が立ち入っていじれるようなものではない。つまり、客観的・科学的・理性的には整理することができないのである。

このように、我々の価値を感じるメカニズムは、科学的に解明することは不可能である。思い浮かべた音を、口笛あるいは声により試しもしないで一発で正確に出せる能力と同じだ。また渡り鳥は、日本から東南アジアまでといった、気の遠くなるような遠隔地に間違いなく行き着ける能力をもつ。二〇〇三年の一月にNHKラジオ深夜便で聞いた「日本野鳥の会」の方の話だと、このメカニズムは未だにわかっていないそうである。この能力は永遠に解明されることはないであろう。さらには私の場合、アトピー性皮膚炎と思われるが、毎年一一月頃から全身がかゆくなる。そしてそれをかくことにより血だらけになる。しかし、六月頃にはすっかり直ってしまうのである。それは、体が季節を感じて始まり、終わると言うしかない。しかし、体はどのようにして一一月や六月を察知しているのであろうか。我々が、我々の体が季節を感じるメカニズム――それは温度とかいう単純なものではないことは確かだ――は、科学では到底整理できないものであることは確かだ。我々の体と自然現象(季節)は関係し合って動いている――もっと強く言えば一体となっている、あるいはオランダのユダヤ系哲学者スピノザ(一六三二生まれ)の言う「この世に現れるものは、唯一の実体である神の諸様態(かりそめの姿)にすぎない、すなわち人間の自由意志というものはあり得ない」という古く今では誰も相手にしなくなったような言葉に現実味が出てくるのである。つまりどのようなことでも、ある《一つもの》によってコントロールされているというアイデアである――ことは確かなのである。また、目の悪い(近視など)人がものを見るときに目を細めるか、手の平を目の前に置き指の間で狭い隙間を作る。これはピンホールカメラの原理により網膜上の像のぼけを小さくしているのだ。小さい穴を通った光はぼけない像を作ることができる。この光学的な事実を誰もが、どんな田舎の老人でも本能的に知っていることは驚きである。我々人間を作った者は、レンズというものを知っていたのであるし、ピンホールによりぼけない像を作れることを知っていて、それを我々の本能にも植えつけたのである。我々の科学がごく最近になって発明したものを、どうしてはるか前から知っていたのであろうか。恐竜をはじめとして、太古の動物には必ず目があり、これにはレンズがついているではないか。我々の体は驚くべき精巧にできている。我々はそのほとんどをまだ理解していない――たぶん永遠に理解できないだろう。医学はどんなに発達したとしても、肝心なところは体の驚くべきメカニズムにまかせているにすぎない。しかし、我々生物を作った者――宗教家はそれを神と呼び、それに全てを繰り込むし、科学者はおおざっぱに言えば、それを原子の運動メカニズムに還元しようとする――にはそれがわかっていたのである!

思い浮かべた音に対応した口や声帯の形を、どうして一発で決められるのだろうか。それは自分でもわからない。というのは、それについて我々の意識は何もやっていないからだ。我々はある音を出そうと思うだけだ。すると、その後の作業は我々の意識がかかわれないところ(フロイトの言う無意識)で処理されてしまう。それは、我々の意識とは無関係にどこかで行なわれる。我々の意識は、ただそれをやろうと思っただけなのであって、それから声を出すまでの作業については、まったく関与していないのである。思い浮かべた音は、なんだかわからないうちに口から出てきてしまうのである。いったい、口や声帯の形をどのように決定したのだろうか。このあたりのことを考えてみたまえ、不思議ではないか。このあたりのことは、科学という方法などでは理解できないのである。だから、人間の脳の判断や想像行為を、コンピュータープログラム上で実現しようという「人工知能」の壮大な試み(一九八〇年代)は、失敗に終わってしまったのである。もちろん、科学以外のどのような手段によっても、我々を含む自然についての研究にはある限界があるのであって、「我々とは常に未知で解明不可能で不気味な存在である」ということをしっかり理解しておく必要があるのである。

こういうことは、あらゆるプロの技を見ればいっそうわかる。一流のピアニストも自動車レーサーも、自分のやっている神業的な行為を意識してやっているわけではない。大数学者のオイラーは「なんでそんなにいろいろなことを思いつくのか」と言う質問に「自分の鉛筆が利口なのだ」と答えたそうである。つまり、彼らの意識は何もやっていないし、何も知らない。神業的行為のための筋肉への命令セットは、我々の意識以外のところで作られ、それが我々の筋肉へ直接伝えられたと考えるしかなくなる。良いアイデアなども意識以外のところで作られ、我々の意識に届けられるということだ。その「意識以外の領域」を、精神分析学で有名なフロイトは「無意識」と呼んだのである。

前記のように、我々は判断や行動を迫られたとき、理性などはどこかに行ってしまい、生理的な欲求や情念が主役となる。我々はただこれらのものに従うだけになってしまう。この非理性的なものが、価値判断においても主役となっているのである。戦争や殺人を引き起こすのも、偉業を成し遂げるのも、全てはこの非理性的なものによっているものだ。ここで「理性」という言葉の意味の一例として、「広辞苑」によれば「感性的欲求に左右されず思慮的に行動する能力」とあってよくわからないが、この感性的というところが、今まで言ってきた生理的・情念的なものなのであり、我々誰もが飢えて欲求する最も肝心なもの、それに従って生きるしかないものである。しかし、それらをいやらしいもの・おぞましいものとしてしりぞけ、別な能力を我々に強要する我々のある《趣向》が、理性というものを生み出したのである。この非理性的なものは、起こったことを後からのんびりと優雅に整理する能力ではなく、今来た問題に即対処する能力なのである。それは「理性」などという《道徳的なもの》ではなく、自分を守ったり、自分の願望を満たしたり、相手の優良さや下劣さを正確に感じたりするための能力であり、きわめていやらしく、危険で邪悪なものなのである。

どうしてあの車が恰好いいのかは、論理的・客観的に、つまり誰にでも納得できるような説明などはできない。というのは、それを恰好よくないと言う者もいるからである。もしその理由として「あそこの部分がこうなっているからである」と説明されたなら、どうしてそうであることが恰好いいのかということになり、問題を初めに戻してしまうのである。「恰好よさ」という価値は、その者にしかわからないもの、他の者に移し伝えることができないものにより判定されているのだ。

前出のニーチェ善悪の彼岸」には次のようにある。『一般向けのものはない。ある者に薬となるものでも、ある者には毒となる』。あるものの価値は、それを見る者によって決まるものなのである。それ自体が、絶対的に価値があるというものはない。重要なところを気にする者は、どうでもいいところには関心がない。その逆にどうでもいいところばかりが気になる者は、重要なところに関心がない。価値は、各人の固有な見方から生まれてくるものであり、対象にあるのではない。

危険なものは危険に見えるし、食べてはいけない物は危険な臭いや味がするものだ。例外はあるだろうけれど、我々に害となるものは、まずく、危険な臭いを放つようになっている。相手が人間の場合も同じだ。女性であれば、自分の生を保存するために、良い男性と結婚したいと思う。彼女の本能は、生命力ある男性を好きになり、弱い男性を好きにならないようになっているのである。またそうでない場合でも、それが自分の趣味嗜好に合う場合には価値あるものに見えるのである。弱い男性でも、女性にとって彼のめんどうをみたいというという願望に合っていれば、それは価値ある者になる。相手が同姓であっても、付き合って自分の願望に応える者が、あるいは自分の趣味嗜好に合う者が、良く見えるように体が仕掛けられているのであり、そうでない者は全て醜く見えるようになっているのだ。このような本能が相手の価値を決めるのである。これらのことに関連した文章を、ニーチェ「偶像の黄昏」(原佑訳、筑摩書房)より引用する。

 

*何ひとつとして変質している人間以外に醜いものはなく、――このことで美的判断の国は境界づけられているのである。――生理学的に割りだせば、すべての醜いものは人間を弱めその心を暗くする。それは人間に、頽落(たいらく)、危険、無力を想いおこさせ、人間は事実そのさい力を失う。人は醜いものの作用を力量計で測定することができる。総じて人間の気がめいっているときには、人間は何か「醜いもの」の近づきを嗅ぎつける。人間の権力感情、その権力への意志、その気力、その矜恃(著者注:きょうじ、自分の能力を信じていだく誇り、自負、プライド、「広辞苑」より)――これは醜いものとともに下降し、美しいものとともに上昇する。・・・いずれの場合にも私たちが一つの結論をくだすのであるが、そのための前提は途方もなく豊かに本能のうちに蓄積されている。醜いものは退化の合図や症候と解される。だから、ほんのかすかにでも退化を想いおこさせるものは、私たちのうちに「醜い」という判断をひきおこす。

 

我々は、強さ・不気味さ・恐ろしさなどを感じさせる者に大きな価値を感じるものだ。それは、酒・タバコ・麻薬のように我々の不快をいやしてくれる価値あるものなのである。それは、今から少し前、残忍な公開死刑を民衆が群れを成して見物に行った――公開死刑は見せしめというより、見世物という意味が強かった――ことや、危険なことに挑む冒険愛好家が多いことや、恐ろしい遊園地の乗り物に人気があることからもわかる。我々は、強さ・不気味さ・恐ろしさなど、さらには自分自身を苦悩させることにさえも引き込まれていく。これらには、我々の不快を中和する作用があるのだ。我々は、ジェットコースター・恐ろしい映画・火事・他人の不幸などにより異常に快楽するものだ。スペインにおいては、この本能がことさら強い。闘牛を見る者は残忍さで快楽し、闘牛士は冒険による快楽を味わう。さらには、この国では牛を街中にはなし、街の人たちはこの強烈な危険さにより、日頃の不快をまぎらわしている。さらに、少し昔においては、首都マドリッドで行われたキリスト教徒の異端審問により、驚くほど多くの無実の者が殺されたそうだ。この国の人の野生的な本能のすさまじさには驚くばかりである。しかしこのような性質、つまりサディズムマゾヒズムは異常な性質と見られているのだが、実は人間誰もがもっている本能なのである。

組織の中で、自分が嫌いではあるが恐ろしいと思っている上位の人が、自分に不愉快な行為をしても、それほど不快にならないものだ。その人の醜さや不快さが、その人の強さ・不気味さ・恐ろしさ・偉さなどにより打ち消されてしまっているのである。つまり、腐りかかった食物に香辛料をたっぷりかけて食べると、おいしく食べられるのと同じなのである。相手を威圧することができる能力をもつ者は人間関係で悩むことはないのである。香辛料的なものをもっている者は、何をしても相手に快感を与え高い価値を感じさせることができる。憎たらしいことをやっても、相手が不快を感じないのである。

女性は相手として優れた者――その者固有の趣味嗜好によって判定されたものではあるが――を選ぶという。これは前にも言ったように、自分の生を安定に持続しようとする本能からきていると言われる。しかし、これより有力な次のような理由もある。前記のように我々は、強さ・不気味さ・恐ろしさなどに魅了される。冒険は人を強く魅了するが危険であり、生の保存とは逆の方向である。どのような人でも、ヒトラーのような危険な者に魅力を感じることがしばしばあるものだ。女性も男性も強烈なものに引かれるのであって、それは生の保存とは関係のない欲求からきていることもある。効用が我々を魅惑するのではなく、危険そのものが、あるいはその人間そのものが我々を魅惑するのである。しかし、この真の動機は、「効用を得るために」という間違った動機にすり替えられてしまうものだ。効用と動機の間には、何の関係もないことが多い。このことは、前出のニーチェ道徳の系譜」の第二論文で言われていることだ。我々の行為にしても、ただやりたくなったのでやった――どこからか我々の意識に「やりたい」という衝動が届けられた――だけなのに、間違った、あるいはきわめて道徳的な動機が効用を基に考え出されてしまうのである。我々は、強さ・不気味さ・恐ろしさなどを、その効用とは無関係に欲する傾向があるのである。

我々は自分に関係したものに価値を感じる。自分の子供・家族・部下・会社、あるいは自分が設計に関与した製品といった具合に、少しでも自分が関与したところがあるものは魅力的に見える。母親は、自分の子と自分の間にある関係を愛しているのであって、その子自体を愛しているわけではない。前の章で引用したニーチェの『母親は子供の中の自分を愛している』のもう一つの別な解釈は、このことをたとえているのである。もし、自分の子供と瓜二つの者が他人にいても、ちっともかわいくないだろう。だから年賀状などに自分の家族の写真を入れるし、客が来れば自分の家族や自分が関係しているものの写真などを長々と見せたり、自分の思い出話・自伝・武勇伝などを長々と聞かせたりすることによって満足感を得ようとする。しかし、他人にとっては、そのようなことにはまったく価値を感じないのであって、たいそううんざりさせられるのであり、このようなことは絶対やるべきではないのである。

 

第五節 価値は変化していく

価値は対象の中にあるわけではなく、我々の解釈の問題にすぎないのである。だからこそ、それは変化しやすく不安定なのだ。たとえば客のあまり来ない店では、客が来ればどんな人でも魅力的に見える。その客がどんな顔・恰好・声をしていようとも魅力的に見えるものだ。心の底から機嫌よく客にしゃべりかけることができる。これはけして芝居などではないのだ。何を話していても気持がいい。しかし、客が代金を支払ったとたんに、その客はただのどうでもいい無価値の者になってしまうであろう。また、腹がすいたときにラーメンを見ると、たいそう魅力的に見えるが、腹がいっぱいのときにはむしろむかつく。また、私がまだ小さい頃、友達と二人で遊んでいて仲良くしていたが、そこにもう一人来て一緒に遊びだすと、はじめの相手は急に私に冷たくなり、無視するようになった。はじめの私の相手は、新しく来た者に私より魅力を感じ、相対的に私がつまらなく見えてきたのであった。このように、相手に感じる価値は、相手及びその他のいろいろなものとの関係により決まっていくことがわかる。その関係するものの範囲は、たぶん我々が想像するよりはるかに広いものなのである。

たびたび言うように、価値というものは、対象の中にあるのではなくて、自分と対象・周りとの関係の中で自分がイメージするものだ。対象の中にある確固としたものではなく、想像されたものであるから、不安定で変化しやすい。たとえば次の話はいい例だ。あるところに、老夫婦が住んでいた。二人はよくあるようにしょっちゅうけんかばかりしていた。ある日、夫が家を出て行ったままなかなか帰ってこなかった。日が暮れても帰ってこない。妻は心配になってきた。そして、夫にいままでどうしてもっと優しくしてやらなかったのかと後悔し始めた。このとき、彼女にとって夫の価値は高くなったのだ。夫が帰ってこないという状況によって、夫の価値は上がったのである。しかし、それから間もなく夫は元気に帰ってきた。すると、彼女は安心したのと同時に、今までの考えはどこかにふっ飛んでしまった。そして、また夫婦げんかが始まったのであった。夫の価値は元に戻ったのである。永遠の価値などというものはない。

日頃は嫌いな者でも、自分が困っている問題に関してその者が有用であることがわかると、つまり、その者が自分にとって役立つことがわかると、その者は魅力的に見えてくるのである。しかし、その状況が終わってしまうと、彼はまたいやな奴に戻ってしまうのである。このとき、前のその者の功績の余韻はまったく残らないのが普通である。つまり我々には、過去のことはほとんど関心がないか忘れてしまうのであり、可能性のみに価値を感じるのである。

余り好きになれそうもない女性がいた。見る気もしない顔であり、話などする気も起きない。できるだけかかわりたくないと思っていた。しかし夏になり、彼女が薄着になったとき、セクシーな肉体が確認された。すると、それまで彼女をバカにしていた気分は一転する。彼女を見る観点が変わったのだ。彼女は価値あるものとなった。エロティクな観点で見ると彼女は魅力的なのだ。それからは、いつもワクワクするような気分で彼女を見る。こちらに関心を示してもらいたい、自分に価値を感じてもらいたいと思うようになる。生命力あふれる肉体は男性の性欲を刺激する。性欲ほど我々を動かす欲望は他にないのである。このことは、これにまつわる事件の多さから容易にわかることであろう。多くの有名人が、この性欲のために罪を《犯させられている》ではないか。自分の今いる安定した地位を危うくするであろう行為をあえてする。安定した仕事についている者たちの恐るべき性的衝動には誰もが驚かされる。驚くべきことは彼らの行為ではなく、彼らの性欲のすさまじさである。彼らはそれにより自分自身をずたずたにされている。彼らも被害者なのである。彼らはこの欲望を満たすためなら、どんな危険な行為でもちゅうちょなくするのである。それは麻薬のようなものだ。性欲に押されて断崖から飛び降りる者のなんと多いことなのか。だから麻薬は高くても売れるのだ。それは麻薬の価値がそれだけ人間にとって高いということだ。《我々の不快を中和してくれるもの》ほど、価値は高くなる。だから昔、香辛料には高い値が付いていた。我々にとって、キャバレー・クラブ・麻薬・ポルノ・女性・わいせつな行為・酒・たばこ・冒険・残忍な行為・いじめ・音楽・ゲームなどは、そういう意味で食べることや金をもうけること以上に価値のあるものなのであるのだ。

私が大学を出て、ある有名なカメラメーカーの子会社に入社した頃の話だ。私は長期出張で、親会社の研究所に通っていた。その頃私は北区の安アパート(六畳一間)におふくろと住んでいた。ある日、私はねぼうしてしまった。研究所にいる上司からアパートの大家さんのところへ電話がかかってきた――家には電話がなかった――。それ以来、大家さんの私に対する態度は一転して良くなった。たぶん研究所の上司が電話で大家さんに親会社名を言ったのだろう。それで大家さんは私に価値を感じるようになったのだ。

会社で窓際族になった者について見てみるといい。その人が現役でバリバリやっていた頃、周りの者たちは彼に大きな価値を感じていたはずだ。怖くて、ステキで、たのもしくて、恰好いい。彼の行動は全て好ましく、センスよく見えた。誰でも彼としゃべる機会があると緊張したものだ。彼の行動は全て魅力的に見えた。ところが彼が落ちぶれた今、彼の全てがだらしなく、みすぼらしく、醜く見えてしまうのである。誰もが彼には近づきたくなく、話もしたくない。誰もが彼から遠ざかり、かかわらないようになっていく。彼の価値はいまや完全になくなってしまったのである。しかし彼の中身は、おそらく昔と何一つとして変わっていないのであり、彼の《背景》が変ってしまった(パトロンがいなくなってしまった)だけなのだ。前出の清水真木ニーチェ」の中の表現を借りれば、彼は動いていないのに土俵が移動してしまい、彼は負けになったのだ。相手の価値などは実に不安定であり、他のものとの関係において暫定的に決められているにすぎないということだ。

母親と息子・娘の関係において、母親は「母性愛」という女性特有の願望に対処するために、娘より息子をより必要としてかわいがる。強く、自立的な娘は母親の母性愛に応えることのできる存在ではない。生活力において劣っている息子は、彼女の母性愛にとって絶好の標的になるのである。願望に合うものが価値あるものになるからである。だから平和であれば、彼女にとっては息子のほうが娘より価値ある者なのであり、娘の方は目立たない存在となる。娘は生活力において頼りになるが、母親の母性愛は生活力において頼りなく、たどたどしいものを求めているのである。娘はこの要求にまったく答えるものではなく、平和なときには、母親のライバル的な存在なのである。

ところが困ったことでもあると、彼女にとって頼りない息子に比べて娘は価値あるものに見えてくる。困ったとき、自分を助けてもらいたいという欲求に応えてくれるのは、息子でなく娘なのである。こうなると息子は彼女にとって目立たない存在となる。自主的に仕事をしてくれる娘は魅力的に見えてくる。はっきり言ってしまえば、息子の母親の観点から見た本質は、「ペットちゃん」であったということだ。