SonofSamlawのブログ

うひょひょ

★哲学って何???

哲学って何?

 

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ようこそ、いらっしゃいました。
哲学とは、
なんなんでしょうか?

皆さん興味ありますか?

私は少し変わった、しかし本質をついた解説をしてみましたのでお読みください。
目からうろこですよ!
いままでのものとはまったく違いますよ!

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まずですが、
よくある解説です。わたしも、これとても読みきれません(> <)

 

■たとえば【ウィキペディアより】で哲学とは?

「philosopia」というのは単に「愛知の学」という意味であり、それだけ
ではまだ何を研究する学問であるかは示されていない[7]。この語では内容
が規定されていない[8]のである。哲学以外の学問の場合は一般に、
(例えば「経済学」「生物学」などのように)名前を聞いただけでもおお
よその内容は察しがつく[9]。ところが哲学の場合は、名前を聞いただけで
はそれが何を研究する学問なのか内容を理解できない[10]。これは哲学と
いう学問の対象がけっして一定していないことを示しており[11]、
哲学はまさにその字義のとおり「知を愛する学」とでもいうほかに仕方な
いような特徴を備えている[12]。(→#哲学の対象・主題)

このように対象によってこの学を規定することができないと、
「対象を扱う<<方法>>に共通点があり、それによって規定できるのはない
か」との期待が生まれることがあるが、そのような期待も裏切られる。
哲学には一定の方法があるわけではない[13]。


★このあと、ものすごい分量の説明があり、とても読んでいられませんね!

これはもう、哲学史ですよ。エンサイクロペディアの域を超えている!!!

■ もう一つ参考のために、科学とは?

ウィキペディアより】
科学(かがく)という語は文脈に応じて多様な意味をもつが、
おおむね以下のような意味で用いられている。

(広義)体系化された知識や経験の総称。
(広義)自然科学、人文科学、社会科学の総称。
自然についての体系的知識[1]。
自然科学。
(狭義)科学的方法に基づく学術的な知識、学問。



★しかし、何のことやらさっぱりわかりません。広辞苑をみても同じで、
さっぱりわかりません。


■ 哲学とは、「ものごとをほりさげて、つきつめて考えることである」なんて言う人もいるが、これ完全にピンとはずれです。まったくわかっていなーーーい。

■ ここで、少し別のことを考えましょうね! 
我々は勉強しなくても、苦しんでいる人を見れば、苦しんでいるように
見えますね! 喜んでいる人を見れば、喜んでいるように見えます。
しかし、「どこがどうなっているとそうなのか?」ときかれても、わかり
ませんね。

ステキな人を見れば、すてきに見えますが、どこがどうだとステキなのか、
ときかれてもわかりませんね。


★もしこれを論理的に説明しようとしたら大変なことになるばかりか、
まとまらなくなります。上のウィキペディアみたいに・・・



■哲学に関して言えば、これは生まれつき才能のある者しかわかりません。
というより、ここが肝心なのですが、《感じることができない》と言った
ほうが正確です。
科学でもそうで、生まれつきわかる才能のある者は、科学を直感的に理解
します。



■ つまり、哲学とは、

それを感じるものだけが味わえる「あるもの」というしかないのです。

音楽だってそうであって、わからない者にわからせる論理などありません。
論理的なものも、実は音楽と同じ感覚的なもの(クオリアといってもよい)
であったということではないでしょうか?


つまり、一つの音楽ジャンルみたいなものなのです。そんな軽いものだと思っていいと思います。音楽ジャンルを論理的に整理できますか?できませんよね!

当然、科学についてもおなじであります。

わかる者なら、ある論述が哲学的なのか、科学的なのかは直感的にわかる
のです。しかし、どうして? ときかれても、彼は説明できないのです。

私がステキと思う彼女が、どうしてステキなのかときかれても、私は
説明できません。これと同じです。


■ あらゆる概念は説明困難です。ある感覚に名前をつけただけだから
です。
しかも、いろいろな意味が付け加えられていきますから、骨格が見えなくなる、
というかわからなくなっていきます。


■ アインシュタインの相対論は科学です。しかし、哲学的と言われま
すね。つまり、科学であり、哲学でもある、と言えます。
しかし、哲学的に見えない人もいます。それは、哲学的才能、
つまり、哲学的感覚、もっと言えば哲学のクオリアがないのです。この
人にどんな説明をしても、哲学的に見える、ということを理解させる
ことはできないでしょうね!
つまり、哲学的イメージ、哲学的におい、哲学的色合い、つまり、哲学的感覚というしかありません。
良い顔といっても、いろいろありますが、そこには「良い顔」という共通点がある
。しかし、それを我々は説明できないのです。そこで、「良い顔のクオリア」としてしまうしかないのです。


■ カントの「純粋理性批判」は哲学です。これはわかるものなら直感でわかります。
しかし、これを論理的に考えたら大変なことになりますね! 科学を基礎づける、とかはじめると、哲学とは科学の土台となるべきものである、などという話にもなってしましますよ。
しかし、科学は哲学などなくてもやっていけます。実際、科学をやっている者の大半は哲学などに興味がないか、あるいは哲学的才能がありません、哲学によって基礎付けられなくても、科学は困りません。哲学などなくてもまったく困らない。哲学ほど役に立たなかったものはない、とまでいえますね(~~)

もっと言えば、哲学と宗教ほど役に立たなかったものはない、といってしまいます。

つまり、哲学は「何々のため」というのではなく、哲学的才能、感覚の欲求を満たすためだけに行なわれる精神的活動なのです。つまりもっとも趣味的なものなのです。
だから、この才能がない者にはさっぱりわかりません。そういうことで、「よく生きる」とか、「正しく生きる」ためとかいう、おかしな理由が出てきてしまうのです。

■ それと、哲学の他の学問と違うところは、

       自分を自分でもちあげようとしている
      自分自身を自分で調べようとしている
            観察し、考え整理する、という行為自体を分析しようとする

 

つまり、認識自体を認識しようとしています。
だから、わけわからなくなってくるのですね。

 

哲学も科学も我々の思考形態の種類にすぎない。

我々は我々には絶対理解できない、永遠に未知である。

従って、これらは未知である。



■ ちなみに、私はというと、科学、工学の専門家(自称)ですが、小さいときから哲学的興味にもとりつかれていた者です。