SonofSamlawのブログ

うひょひょ

クオリアとマリーの部屋とジャクソン

ライター:mpcsp079さん(最終更新日時:2012/6/3)投稿日:2012/5/30

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 ★ジャクソンの色とクオリアの話で、なんだかわけがわからくなった人へ

  とってもわかりやすい話です。



ウィキペディアより
フランク・ジャクソンが提示したのは、次のような思考実験である。

マリーは聡明な科学者であるが、なんらかの事情により、白黒の部屋から
白黒のテレビ画面を通してのみ世界を調査させられている。彼女の専門は
視覚に関する神経生理学である。次のように想定してみよう。彼女は我々
が熟したトマトや空を見るときに生じる物理的過程に関して得られる全て
の物理情報を手にしており、また「赤い」や「青い」という言葉の使い方
も知っている。例えば、空からの特定の波長の光の集合が網膜を刺激する
ということを知っており、またそれによって神経中枢を通じて声帯が収縮
し、肺から空気が押し出されることで「空は青い」という文が発声される、
ということをすでに知っているのである。
(中略)さて、彼女が白黒の部屋から解放されたり、テレビがカラーにな
ったとき、何が起こるだろうか。彼女はなにかを学ぶだろうか?

 言い換えれば、色について知られている物理学的な事実は全て知っている
が、一度も色を見たことがない科学者を想像するのである。
ジャクソンは次のように問いかける。

 初めて色を見たとき、彼女は何か新しいことを学ぶだろうか?



★さっぱりわかりません。こんなこと言っているから、こ後の議論が長くなり、
本になってしまったりするのです。
 > ・・・生じる物理的過程に関して得られる全ての物理情報を手にしており・・・
などといっていますが、「全ての」ということは、もう何も未知なものがない、ということです。しかし、まだあるよ、という話にしたかったのですね(~~)

 この思考実験は彼の結論がすでに含まれています。公正なものではありません。


■このジャクソンの色の話はあまりよろしくないですね。
 
★音楽のほうがわかりやすいと思います。
 
 
 これは、音楽を聴いたことのない人に楽典を勉強させることと同じですね。
答えは簡単です。どんなに楽典を学んでも、ある曲をいいと思うのには
なにも役にはたちません。逆に、何も知らなくとも、わかる者ならある曲
をいいと思えます。ある曲のすばらしさを論理的に教えることはできませ
ん。何も学ばなくてもわかる者にはわかります。
 クラシック音楽がわからない人は、どんなに努力しても絶対にわかりま
せんね。

 


■ 数学だって、物理だって、わからない人はどんなに勉強してもわからな
い。それは「頭が悪い」のではなく、ジャクソン風に言えば、

  数学のクオリア、物理のクオリアがないからだ、

ということなのです。

 
 哲学なんかは、もっともわかりやすい例になります。どんなに頭がいいと
言われている人でも、哲学だけはわかりません。この価値を、この面白さを
、論理的に教えることができるでしょうか?

 
 数学者のあの驚くべき発見の過程を、物理的・論理的に説明できるでしょ
うか? 


★たぶん、ジャクソンは数学も音楽も知らなかったのです。



■ 我々は、疲れた人の顔は疲れたように見える。これは、教えられたわ
けでもないのにわかる。だから、それがどのような顔なのかと考えても
わかりません。わからないのに、現物が現れるとわかるのです。

 
 頭の悪い人は、頭が悪いように見える。ぼけている人の顔はそう見える。
どうしてですか?こんなことを物理的に整理できますか?

 
 ★そもそも、物理的ってなあに?

 
 宇宙の、我々の神秘は、我々の語に分解などできないのです。

マーフィーの法則は実際に成り立っています。これを、物理的に説明することは、不可能です。

いろいろ成果をあげてきたとおもっているが、結局、我々に解明不可能なものであった、ということです。

 我々の「物理的考察」により、宇宙の構造が、解明されることができるでしょうか? そもそも、解明すべき宇宙の法則の中にいる我々によって、それと同じものを解明することができるものかどうかです。我々が、その我々を、自分自身を解明するこちができるのか、自分を自分で持ち上げることができるの?、ですかね。

 未知なものを排除することはできまん。排除したと思ったら、それが別なとこへ移動したにすぎなかった、という具合です。我々は、自然法則を解明することはできません。

 どんなに考えても、いつもどこかにわからないところが残ってしまうのです。
 そこで、苦し紛れにクオリアなるものが出てくるのですね。わからなさが、これに繰り込まれているのです。
 どんなに科学が進んでも、宇宙はやはり神秘であります。

 とくに、哲学は、対象として観察者自身が含まれているので、いっそうやっかいになってきます。


フッサール現象学の理念」(立松弘孝訳、みすず書房)の訳者あとがきには次のようにある。

 

 ちなみにG・ブラントはそのユニークなフッサール研究「世界・自我および時間」(一九五五年)の序で「フッサールの思想はきわめて実り豊かであり、偉大なインスピレーションの力をもってはいるが、しかし一流のフッサール研究者ですら、いったい現象学とはそもそも何であろうかと、いまも絶えず自問している」と述べているが、残念ながらこの言葉は事実である。それはまた「フッサールの既刊の著書が殆んどみな《序論》に過ぎない」(一九四三年のE・フィンクの評)ことに由るものであろう。

 



 ★我々の語はその神秘に含まれるのであって、それゆえ、それを整理など
できない、ってかな(~~)