SonofSamlawのブログ

うひょひょ

第二部 第四章 マーフィーの法則と精神分析学

第四章 マーフィーの法則精神分析

――我々の意識が知り得ることのできないメカニズムの存在について――

 

第一節 我々の不思議な行動

相手にやたらに親切になったり、冷たくなったりする。自分の最も大事だと思っていた人や自分を苦労して育ててくれた親とも、突然大げんかになってしまったりする。その後たいそう後悔するのだが、またさらに激しくけんかしてしまう。他人の不幸を悲しむこともあるが、逆にそれに快を感じることもある。

我々のこのきまぐれな行動はどうなっているのか。感銘する、怒る、悲しむ、といったことが「どこからか」かってに我々のところに「到来する」という感じである。それらの行動は、我々がやっているというより、やらされているという感じがする。我々の行動にはこういう不思議さがある。あるところで突然、糸が切れたように全く違う方向にいってしまうこともある。どんなに仲のよい者同士でも、親子の間でも、けんかが始まってしまい、あっという間にエスカレートしていってしまう。大事な人をののしったり、暴力をふるったりする。ときには殺してしまうことすらある。自分でもなんだかわからない。殺人犯は、「自分でも、どうしてあんなことをやってしまったのかわからない」と言うことがあるが、これは正直な発言なのである。大きなけんかの後は誰でも後悔して、「次は気をつけよう」、「もう、けしてこのようなことはしない」などと考える。しかし、それらは何回も繰り返されるのである。そして、ちょっとおかしなことが起こっただけだと思い、誰もが忘れようとするし忘れなければいけないと思う。しかし、コンピュータプログラムのバグや病気の兆候と同じように、おかしなことが一度でも起こったということは、確実に病根かあるということだ。

二〇〇六年七月一〇日のドイツでのサッカーワールドカップのフランスとイタリアの決勝戦で、フランスのジダン選手はイタリアのマテラッティ選手に何かいやみを言われて怒り、その相手に頭突きをして倒し、退場してしまった。こんな大事な試合でも、彼はある衝動を抑えられなかったというわけだ。このジダン選手は度々このようなことがあったみたいで、「自分でもわからないうちにやっている」というようなことを言っていた。このようなことは誰にでもあることだ。人によっては殺人に及んでしまうこともある。このような場合、日頃の心得なんかが全てすっ飛ばされて《どこからか過激な行動の指令が来る》としか考えられない。我々が予想もしなかった衝動が、どこからか到来して実行されてしまうという感じだ。悪いことが重なって起こったとき、我々は、それを《偶然》で片づけるように、これらの行動について真剣に整理してみようとは思わず、あってはいけない行動として覆い隠そうとする、あるいは見ないようにする、忘れてしまおうとする傾向がある。この場当たり的な態度が、これらの問題に対する理解を妨げている。この章では、これらの不可解なことについてじっくり検討することにする。非難し場当たり的な対策を考える前に、まず理解しなければならない。我々のこれらの不気味な行動はおかしなことではなく、人間の確固とした行動原理によっているのであって、けして無くすことはできないと考えなくてはいけないのである。我々の以上のような不可思議な行動を、人間の性質の一つとして研究するべきであり、それらとうまく付きあっていかなければならないのである。

我々や宇宙の中のものは、実は、科学が予想もしなかったようなメカニズムにより動いているのではないだろうか。我々が関係ないと思っているものの間には、実は、驚くべき関係があるのではないだろうか。それだから、我々が意識していないのに、かってに出てきてとんでもないことをしでかしてしまう、ということが起こるのである。オーストリア精神科医であるフロイトは「精神分析学入門」(懸田訳、中央公論新社)の中で、「しくじり行為」はけして偶然ではなく、ある意味、意図のある行動で、我々の無意識の中で意欲された行動なのである、と言っている。つまり、「しくじり行為」は《単なる間違い》などではなく、意識はされないがある計略の上に成り立っているというのである。たとえばあることを忘れることが多い場合、責任感がないというのではなく、その者固有の無意識の計略があり、無意識の領域で意図的に忘れるようにしているということである。私には少し変人的な要素があるのだが、中学生のときに出欠委員をしていたとき、ほとんど毎日出欠簿を職員室に戻すのを忘れた、という驚くべき体験をした。毎日やるべきことなのに、帰る時間になると忘れてしまうのである。これは責任感でかたづけるような問題ではない。帰る時間になると私の体は《積極的に忘れる》ことを実行していたのである。

 

第二節 各人の局所的な理解は、全体には適応できない

長い間愛してきた者が、あるとき、急に憎たらしくなってしまう。長い間仲良くしてきた者同士が、いきなり激しいけんかになり、別れてしまう。これは自然災害や、相手の裏切りというのではなくして、我々の考えた論理が局所的なところでしか通用せず、全体に適応できないということなのだろう。つまり、各人が考え、整理したものによって、全ては整理できないということで、世の中は、個人が把握しているようには全然なっていないのではないだろうか。

異なる人種・宗教・性格の者は、うまくいかず、激しい争いになってしまうものである。我々は自分の中に、自分自身では満足のいく美しい論理を作る。しかし、これは他人から見れば、全くおかしなものにすぎず、それを拡大しようとするとき、周りの者の反感を買うことになり、反撃されてしまうことになる。これは、本人とっては大事件であり、この反応として大きな怒りが襲ってくる。人間や宇宙は、我々が考えているようなものではないということだ。自然のメカニズムは、現在の科学的な方法の延長では到底理解できないものであることは、もはや確かなことなのであるのである。

全てを網羅するような考えなどは、我々にはないのであって、誰もが、常に自分の観点から見ることしかできないし、局所的な理解しかできないのであり、全体を統一して整理する能力を我々はもっていないのである。我々は宇宙の原理に従って生きているわけであるから、その原理を解明するということには、ある限界があるのである。他の者や自然現象は自分が把握している範囲の中などにはないのである。だからこそ、「かわいさ余って、憎さ百倍」ということになるのであって、「相手が、自分が把握し、見積もり、期待したものの中に入っていなかった」ということに対する怒りを言っているのである。

右か左かという問題に対して、右も左もという答えも出てくる。物理学で言えば量子力学で、電子は右の穴を通ったとも、左の穴を通ったとも言えないと考えるように、答えは右か左かのどちらかになるだろうというのが初めの考えだったが、進めていくに従い、初めには考えもしなかった問題が現われてくる。この問題は、二つがどちらも捨てられないことを要求してくるのだ。次々に現われてくる問題の中で、その答え方が変っていくのだ。たとえば次のようなこともある。Aという人とBという人のどちらが良いのかという問題である。良いという判定基準は「あいさつをよくするか?」であるとする。さらに、「規則を守るか?」を含めたとする。Aはよくあいさつをするが、Bは規則を守る。すると、どちらが良いのかが判定できなくなる。どちらが良いのかと言ったときに、判定基準が多くなると、何も判断できなくなってしまう。多くの判定基準が、それぞれにかってなことを要求してくるからだ。順番を守り、いろいろなことを考えずに、はじから片付けていけば、たいていの問題は処理することができるが、いっぺんにやろうとしたり、考えすぎたり、いろいろなことを気にしたりすると身動きができなくなる。これは神経症である強迫性障害の代表的症状でもある。あまり良く知らなかったので、あまりよく考えずにやったのでかえってうまくいったのである。これは武道で言う「全てを捨てた一撃」である。しかし、それは狭い範囲のことにしか適応できない。あることがうまくいったとき、さらにそれを進めていくと、うまくいかなくなっていくことがある。初めにうまくいっても、それが続くことは少ない。「真の天才は、一生の間にその様式を変えていく」という。一つの成功に一生しがみつこうとする者は、大きくなれないし、やがて没落するのである。

初めの問題を良く考えていくと、それにつれていろいろな副次的問題や判定基準が生み出されていくものだ。そして、混沌としてくる。自然現象の解明というのは、言い換えれば、我々の頭の中でのやりくりだ。これはある物語をうまく語るのと同じなのである。人を笑わせるのだって同じだ。あまり考えすぎたギャグはおもしろくない。美しい物語はそれ自体で美しいのであって、そこから出て行ったら、いろいろ気にし始めたらその魅力を失ってしまう。美しいものは全てその中で完結しているものであって、他のものにもたれかかるようなことはない。それを拡大しようとしたり、他のものに応用しようとしたりしたとたんにその色を失うことになる。問題はその答えとペアで閉じているものだ。それは、他には応用してはいけないということだ。うまい回答は、その問題の別の表現であると考えたくなるほどだ。

あまりいろいろなことを考えず、多くのことを知らないで判断したときのほうが、たくさん考え、多くのの知識を得てから判断したときよりうまくいくのである。しかし、それに味を占めてそれを他に応用しようとしたり、拡大しようとしたりすると、たちまちうまくいかなくなってしまう。我々のこのような「局所的な理解」は、もっと広い、全体の理解には全く役に立たないのである。あまりにも全体を考えすぎてしまうと、我々は何もできなくなってしまうのである。それは、歴史を見てみればわかることで、小さな成功を拡大しようとした構想は成功することはないのである。たとえばドイツの理論物理学者である一八七九年生まれのアインシュタインの非常に簡潔な特殊相対性理論やそれを重力の問題に拡大した一般相対性理論はうまくいったが、それを物質間の全ての種類の引力の理論に拡大しようとした統一理論はうまくいかなかった(らしい)。また、ユダヤ系ドイツ人である一八五九年生まれの哲学者フッサールが創始した現象学は、あまりにも難解な哲学であり、その基本的なアイデアは二〇世紀の思想・精神医学・科学に大きな影響を与えたと言われるが、その体系は完成できなかった(らしい)。フッサール現象学の理念」(立松弘孝訳、みすず書房)の訳者あとがきには次のようにある。

 

*ちなみにG・ブラントはそのユニークなフッサール研究「世界・自我および時間」(一九五五年)の序で「フッサールの思想はきわめて実り豊かであり、偉大なインスピレーションの力をもってはいるが、しかし一流のフッサール研究者ですら、いったい現象学とはそもそも何であろうかと、いまも絶えず自問している」と述べているが、残念ながらこの言葉は事実である。それはまた「フッサールの既刊の著書が殆んどみな《序論》に過ぎない」(一九四三年のE・フィンクの評)ことに由るものであろう。

 

つまり、大域的な理解は局所的な理解の延長上にはない、大きな仕事は小さな仕事の積み重ねではないということであろう。大域的な理解を目ざす場合、今までの局所的な理解に用いたアイデアは捨て去る必要があるのではないだろうか? 世の中に起こることを大域的に理解する一つの糸口が後述する「マーフィーの法則」なのである。

 

第三節 我々の無意識な他と関係した行動について

人間関係に悩んでいる人は多い。たいていの人は、他人とうまくいかない原因を自分の中に探す。自分の中に全ての原因があると思ってしまう。しかし、そうであろうか。我々の行動は我々の責任なのであろうか。我々は自分を完全にコントロールできているのであろうか。私は私の性格を自分で選んで生まれてきたわけではない。私は寄せ集められ、かってに押し付けられた性格と体質と体形をもつ。これらは何者からか押し付けられたのであって、私が選んだわけではない。であるから、私が今のようであることに対して、私には責任がないのであり、私は単に宇宙の法則に従っているだけなのである。自分の体の性質や環境――これが我々の運命を完全に決定している――を自分で選べないのに、我々がどうして《自由である》などといえるのであろうか。

一八四四年生まれのニーチェと一八五六年生まれのフロイトはこの種の問題に初めて手をつけた人だ。彼らの斬新な考え方は二〇、二一世紀の思想に影響を与え続けている。フロイトは、我々の意識の範囲では偶然や突発的としか思えない発想の連鎖やひらめきを、無意識というものを措定し、その中の意図ある心的過程として論理的に説明するというアイデアを提出した。それが有名な精神分析学なのである。このアイデアは、本章の主題の「マーフィーの法則」の考え方と共通するところがあり、我々の精神活動における不思議なことや偶然と言われてすまされてしまうことに対して、無意識の中での首尾一貫した活動としてそれらを整理してみせたのであった。つまり、我々の思念において、意識の中では関係のないと思われていたものが、無意識の中で関係し、意識の中では起源がないと思われていたものが、無意識の中に起源をもつとされるのである。これは、我々が関与できない背後のメカニズムを想定するものである。精神分析学の創始者フロイトは、前出の「精神分析学入門」の中で次のように言っている。

 

*驚くほど複雑な生体の機能の頂点ともいうべき心的活動の過程は、それ自体としては無意識的であり、意識的過程は心的活動の一つの作用面であり、部分であるにすぎない、ということです。・・・精神分析学は意識的なものと心的なものとは同一であるという仮定を認めることはできません。みなさんの定義によれば、心的なものとは感情・思考・意欲といわれるようなものの過程であるということになります。しかし、精神分析は、無意識の思考や無意識の意欲があると主張せざるをえないのです。・・・私は無意識的な心的過程が存在するという仮定を立てることによって、世界の学問にとり、まったく新しい方向づけがなされるようになったのだと断言したいのです。

 

また、ニーチェは前出の「道徳の系譜」(信太正三訳)の中で、『意識という器官』と言っている。つまり、ニーチェフロイトと同じように意識を「我々を構成する諸要素の一つ」くらいにしか考えていなかったのである。

 

第四節 マーフィーの法則

前出の精神分析学の「意識の中だけでは関連づけられなかったことが、意識が立ち入れない無意識というものの中で関連づけられる」というアイデアを心的過程以外のものにも適応してみると、全く関係のないと思われていた事件、行動は、実は関係していたと考えられるのである。しかし、その関係の仕方は、我々にはわからないのである。このアイデアを進めると、「私はあらゆるものと関係している」ということになり、私という閉じたもの自体がなく、私という他のものとは独立、自立して、従来の意味で科学的に存在するものはないということになる。ニーチェは、我々の思考は全て我々の自由にならないその者のレベル、つまり高貴な者から下劣な者に至る序列、つまり位階序列の中の位置によって決まっていると言っている。つまり、各人の考えや行為は、全体との関係の中で決まってしまっているのであるから、個人は自立しているとも、自由であるとも言えないのであり、前記の考え方と同じだ。彼らは、それ以前には議論の外にあり、けして問題にされなかった「各人の固有なもの」、「生理的な欲求」、「情念」、「他との関係」、「無意識」などを、我々の行動や心理の研究における主要な場としたのであった。

我々の無意識の思考・判断・行動のよい例として、朝六時に起きようとして、目覚まし時計をセットして寝ると、目覚まし時計が鳴る一〇分くらい前に目が覚めることが多い。このことを多くの者が体験していることを私は確認している。これはいったい誰がやっていることなのか。自分の全く意識していないところでやられている。眠っている時には私の意識はない、だから私の意識がやっているわけではないことは確かである。いったい何者がそのときに私を起こしてくれるのだろうか。その者は私が起きなくなくてはならない時間を知っていて、時計も見ているのだ(体内時計というわけのわからない考えは使わない)。これがフロイトの言う無意識の活動なのである。また、良いアイデアを思いついたとき、いきなり、どこからか到来したとしか思えないことがある。それが、自分の意識に現われたときには、もう完成したものとなっていたのである。自分は何もしていない。それは自分の意識がかかわることができないどこかで作られ、私のところへ、私の意識へ届けられたのだ。何十桁もの数の掛け算を暗算でやってしまう者がいるが、これは意識の上の作業としては全く理解できない。その者にそのやり方きいても満足な答えが返ってこないそうである。つまり、彼にもどうやっているのかわからないのである。さらには、大数学者たちの業績は驚くべきものがある。その発想はどういう過程で出てきたのであるかが全くわからない。その大半は意識の中で作られたものではなく、どこからか――フロイトに言わせれば「無意識」から、そして「外部」から、後述のクリステヴァに言わせれば「他との相互関連から」――届けられたものであることは確かなことである。だから、彼らにもどうしてそのようなアイデアが出てきたのかがわからないのであり、ただ届けられたものをそのまま出しただけなのだ。天才的な数学者は、世界の《あらゆるもの》と連携していたからこそ驚くべき成果を生み出せたのである。

恋人だってそうだろう。その人とは運命づけられていたかのように出会うのである。その経緯はとても論理的には説明できない。けして自分の意識が何かを仕組んだわけはない。突然襲ってくるのであって、自分は何もやっていないのである。かってにそうなってしまったのである。自分はただそれに従っただけなのである。

我々の考えや行為を調べると、その全ての出元がわからないのである。自分の知らないところで、何ものかが我々をコントロールしているとしか思えないのであり、それは「無意識的にやっている」とよく言われるものだ。いじめ・暴力・殺人なども、当人はどうしてそんなことをしたのかがわからないのであり、悪魔に取り付かれたというのが唯一の理由となる。犯罪者をかばうつもりはないが、彼も何者かにコントロールされ、犯罪をさせられた被害者の一人だったというしかないのではないだろうか。たいていの場合、自分の行動はある理由から行なわれたとされる。しかし、その理由は、その行動が行なわれた後に考え出され、添えられたものなのである。自分のある行動について、他人は実に多彩な解釈をするものだが、自分においても、自分の行動についていろいろな解釈をするものだ。つまり、自分の意識の中に、その行動の起源がないということなのである。また、一つの行動の理由は時間と共に変わっていくものである。

自然界における謎を、前記の「今まで全く関係のないと思われていたものの間に関係がある」というアイデアで整理してみるとおもしろい。急いででいると、信号がやたらに赤になったりすることがある。これは《偶然》などではなく、「急いでいる」ことと「信号が赤になる」ことが関係していたのである。このような今まで誰もが経験していながら、まじめに考えられたことのない現象を自然界の確かな法則と見たのが、米国で生まれた「マーフィーの法則」であり、このような法則の総称である。これらは、今まで全く関係がないと考えられていたものの間に、意地悪な、我々を困らせるような関係があることを見つけているものが多い。我々が普通に信じている従来の科学的な見方、つまり、個々のものはそれぞれ他と関係なく独立して存在し、衝突などしない限り互いに相互作用はしない、という前提――信仰でもある――を打ち破っている。ただし、物質の間に働く引力、たとえば万有引力などは、我々が見ることができる物質間の相互作用、つまり、互いに関係なくいられないことが現れている現象だ。しかし、どんなメカニズムで物質間に引力が働くかは、ふつうに考えると全くわからない――というより考えようがない――(アインシュタインが一九一五年に提出した一般相対性理論は、この引力を数学的に説明しているのではあるが・・・)。二つの物質間には引力が働くが、我々はその事実から引力の存在を知るだけなのである。我々はまだ引力を知らなかったとき、物質間には何も関係がないと思っていた。しかし、地球とその上の物質の間に引力が働いていることを知ったのであった(一六四二年生まれのニュートンによる)。初めは関係のないと思われていたものの間に、引力という相互作用があったのである。これは「マーフィーの法則」の手順と同じだ。自然を調べれば調べるほど、いろいろなものの間に関係や相互作用があることがわかってくるのである。

以上のことに関連することが、前出のアーサー・ブロック「マーフィーの法則」の中にあるので、それを引用する。

 

*すべてのものはシステムである。すべてのものは、より大きなシステムの一部である。すべてのシステムは無限に複雑である。単純に見えるのは、限られた変数だけしか注目していないための錯覚である。

 

*何かを拾い上げようとすると、宇宙のすべてに結びついている。

 

さらに、前出のロラン・バルト「テクストの快楽」から引用する。

 

フローベールの作品の他の箇所でも、同じような具合に、プルーストをもとにして、ノルマンディーの花盛りのりんごを読む。私は常套句の支配、起源の逆転、先に書かれたテクストを後に書かれたテクストから由来させて読む気楽さを味わう。プルーストの作品は、少なくとも私にとっては参考書であり、全体のマテジスであり、文学の宇宙開闢説の曼陀羅である。・・・これは私がプルーストの《専門家》であるという意味では全然ない。プルーストはやってくるのであって、私が呼び寄せるのではない。それは《権威》ではない。単に、循環する記憶なのである。そして、これこそ相互関連テクスト、すなわち、無限のテクストの外で生きることの不可能性である。――このテクストがプルーストであろうと、日刊新聞であろうと、テレビの画面であろうと構わない。

 

前記の「相互関連テクスト」について、同書の訳注には次のような解説がある。

 

クリステヴァの用語。彼女によれば、テクストは「閉ざされた単一体」でなく、「あらゆるテクストの引用のモザイクとして構成されており、他の多数のテクストの吸収ならびに変形である」(「セミオティケー」原書一四六ページ)。このような性質を「テクストの相互関連性」といい、そのテクストを「相互関連テクスト」という。また、バルト自身によれば、「テクストの相互関連性をテクストの何らかの起源と混同してはならない」という(「作品からテクストへ」、拙訳、「みすず」一六九号)。ようするに、《源泉》や《影響》のように、一方通行的なものではないのである。

 

ロラン・バルトは一九一五年生まれのフランスの文芸評論家であり、ジュリア・クリステヴァは一九四一年ブルガリア生まれのフランス国籍の女性哲学者・社会学者・精神分析家である。「テクスト」という言葉は日本人にはわからないものだが、「書かれたもの」くらいに考えればいいだろう。テクストにおいても、それ単体として、他と無関係に、独立してあるのではなく、その全てが、書かれた時期に関係なく、関係し合っているということだ。広辞苑にも載っているフランスの有名な学者たちによるこの大胆な仮説は、「マーフィーの法則」の心をテクストに適用したにすぎない。分野を超えて、同じようなことを考えている人がいるものだ。こんな理屈はふつうの科学などでは全く理解できないもので、これが二〇世紀のユーモアと遊び心あふれる思想の特徴なのであって、これは昔の神秘的な思想に逆戻りしたわけではない。ただ、現代において「霊能者」と呼ばれる者たちは、あらゆる現象や特に不思議な現象を「霊」というものにこじつけてしまっているのである。これは哲学の世界で言えば客観的観念論のプラトンスピノザヘーゲルや主観的観念論のバークリ・フィヒテのような観念論に近い。「霊能者」の言う「霊」は、プラトンの言う「霊魂」であり、ヘーゲルの言う「精神」だろう。

途中まではうまくやるのに、あるところで無能になってしまう者。それと逆に、初めはだめだが、途中から有能になる者もいる。簡単なものができなくても、難しいことができる者、あるいは、その逆もある。関係があると思われているものに関係なかったり、関係がないと思われているものに関係があったりする。つまり、因果関係があると思われたものにそれがなく、全然関係がないと思われているものに因果関係があるのである。やたらに幸運が重なることもあるし、不幸が重なることもある。我々はこれを「偶然」ということにしてしまう。しかし、ここに我々の知らない、そしてけして知ることのできない、何か確固たる法則があるのではないだろうか? それは、たいていの人が仮定すらしないようなばかげたものに見える。全てのことは何か関係している。それはいままでの科学では説明がつかない。「関係があると思われているものに、関係がなかった」と言うが、「関係がなかった」というのは、単に「自分の思ったようになっていなかった」ということにすぎないのであって、そこには必ずある関係があるのである。

ギリシャ・中国・インド・中東諸国などは、ヨーロッパより先に文明が開けた国であるというのに、近世になってヨーロッパに大きく遅れてしまった。中東諸国は、中世においては軍事・科学・経済などでヨーロッパより優位に立っていたそうだし、中国は日本に養分を与え続けた――現在でも昔の中国は、日本に影響を与え続けている。古代のギリシャは、数学・科学・哲学で世界をリードしていた。しかし、これらの国は、近世になって大きく遅れをとってしまった。イスラム世界に関する啓蒙書であるバーナード・ルイスイスラム世界はなぜ没落したか?」(臼杵監訳、日本評論社)は、約二五〇ページのきわめて濃厚な著書であり、イスラム世界に関するきめて豊富な資料を示し――トップクラスの中東研究者によるこの著書は、中東やイスラム世界についてまったく無知である私にとってたいそう勉強になり、感心することばかりであった――、その終章においてその没落のメカニズムに対するいろいろな意見が述べられている。しかし、この短い終章を何回読んでも断片的な意見の羅列があるだけで、期待した斬新な判断はなく没落の原因はさっぱりわからないのである。イスラム世界の没落のメカニズムは、表面に現れた事実から科学的に説明することなどできないのである。序盤で優位に立った者が中盤や終盤で優位に立てる、という因果関係は自然界にはないのであり、それは、我々の単なる何も根拠のない推測なのである。状況が変わる中で、いままで優位に立ってきた者が劣勢であった者よりよいアイデアを生み出し続けられるなんてことは、絶対言えないのである。前出のアーサー・ブロック「マーフィーの法則」には、『思慮分別のある人間は何も成しとげられない』とある。優れたもの、革新的なものは、論理的に、あるいは分別の中から、さらには信仰や哲学なんから出てくるのではなく、むしろ無神経、不真面目、ふざけた気分、エロティック、伝統の無視、法律違反、犯罪に近い行為などより、論理・秩序なくいきなり届けられるものなのである。これこそが大きな発展のための、あるいは敵に大きな差をつけるための、窮地を脱出するための唯一の手段なのである。「真の天才は一生の間に何回も様式(スタイル)を変える」と言われるように、一つの成功が長く成長し続けることは絶対なく、それにしがみつく者には必ず衰退の運命が待っているのである。

コペルニクスガリレオの地動説も、当時を支配していた宗教の考えを打ち破ったものだ――だからこそ、彼らは宗教裁判(異端審問)で死刑の宣告を受けそうになったのであった。しかし、これらの型破りな先駆者・冒険家(コロンブスなど)のおかげで西洋は、近代において、科学技術や開拓において他者(イスラム世界など)を大きくリードできるようになれたのである。しかし、宗教から逸脱した行動をとることを、大多数の者(ほぼ全員)が極度に嫌った敬虔なイスラム世界は、衰退する運命にあったのである。宗教やら伝統やらにしたがっていたら絶対に飛躍はできない。飛躍は、そのようなものと関係のないところから訪れるのである。これは、同族結婚が優れた子孫を残せないのと、また、混血児が優れた者となることが多いのと同じである。きっぱり言うが、実に思慮深い宗教とか哲学――私は哲学が大好きなのであるが――などは、あらゆる学問の中でもっとも役に立たなかったものなのである。それらは、難しい能書きは言うけれども、電気モーター・ガソリンエンジン原子力発電も生み出せず、病気の治療もできないのであり、ただ批判をしているだけの机上の空論者なのである。世の中を変え、人を実質的に助けてきたものは、宗教や哲学ではないことは確かなのである。

特にイスラム原理主義という、これらの発展のメカニズムを極度に嫌い、排除しようとし――彼らは、イスラムの教えからはみ出ようとする者を抹殺する――、イスラムの中だけで生きることを最善と思っている者どもには、未来はないであろう。この「イスラム原理主義」は、イスラム世界をイスラムの教えを厳格に守ることにより向上させよう、という運動、つまりイスラムからはみ出ているものをイスラムの中に入れようとする運動である「イスラム主義」の行き詰まりによるいらいらにより、一九八〇年代に発生した。つまり、イスラムからはみ出たものをもどすのではなく、抹殺するのである。日本の例で言えば、豊臣秀吉方針に行き詰まり、織田信長方針に流れたのである。

発展や危機からの脱出のカギは、静か・平和・正当・安全・安定なところにあるのではなく、破壊的・冒険的・危険なところ、あるいはエロティック・ふざけたところにしかないのである。このことは、本章のテーマで《ふざけたもの、ユーモアの極致》である「マーフィーの法則」の精神でもある――と私はかってに思っている。宗教の束縛があまりにも大きい《まじめな国》は、このような理由で衰退してしまうのである。このことは、現実を見ればわかるであろう。イスラム世界の一部は、今や(二〇〇七年)発展どころではなく、安定に生きることすら難しくなっているではないか。

科学には前提があるが、この前提自体が問題となる。マーフィーの法則はこの前提を大きく変更して、従来、無関係と仮定されていたものの間の関係の発見談なのである。ほとんど通行のない狭い道において、偶然すれ違わなければならない車たち、急いでいるときだけタイミングよく赤になる信号たち、嫌がる者に集中的に襲いかかる嫌がられるものたち。これらは他人から見れば笑い話だが、被害者にとっては恐ろしい体験なのだ。偶然という概念は、何もわからないという苦悩からの解放、つまり思考を停止させるために生れたものである。マーフィーの法則はこの思考の停止を解除するものなのだ。

このように、あらゆる事件や行動の間に関係を見出していこうという考え方が、米国で生まれた「マーフィーの法則」なのである。これをまとめたものが、前出の「マーフィーの法則」という本なのである。この本の解説によれば、この呼び名は、一九五〇年代から米国で使われているそうだ。これは特定の法則を意味するわけではなく、マーフィー的な事柄や法則の総称が「マーフィーの法則」なのである。この法則は、「失敗する可能性のあるものは、失敗する」という基本的な法則に集約されているといってよい。その本当の意味の深さは、同書によく書かれている。この呼び名の生い立ちは、同書によれば次の通りである。

一九四九年、カリフォルニアのエドワード空軍基地で働いていたひとりの信頼の厚いエンジニアが、オリジナルの「マーフィーの法則」のマーフィーこと、エドワード・アロイシャス・マーフィーJrだった。ジョン・ポール・スタップという少佐が、テスト飛行中、重力測定装置の異常を認めて戻ってきた。原因を調べると、誰かが間違ったセッティングしていたことがわかかった。そして、これを発見したマーフィーが言った台詞が「いくつかの方法があって、一つが悲惨な結果に終わる方法であるとき、人はそれを選ぶ」というものだったという。数週間後にあった空軍の記者懇談会にで、スタップ少佐がマーフィーのことを紹介し、それが業界関係雑誌に掲載されて、少しずつ一般化していったのだという。

たとえば名前と性格が関係しているかもしれない。名前と性格、運命の関係について書かれた本も出ている。しかし、マーフィーの法則ではその関係をそのように徹底的には追及しない。このような追求はけして成功しないからだ。というのは、マーフィーの法則を確かめようとしたり、他人に見せようとしたりすると、マーフィーの法則は成り立たなくなってしまうことが多い。しかし、これもまたマーフィーの法則なのである。その可能性だけをさらりと指摘して、それ以上のことは何も言わないし追求しない。これはニーチェの哲学と同じである。

忘れてはいけないことは、我々がこの法則の《外》に存在し、この法則の有様を冷静に眺めることができないということで、我々のあらゆる思考・行動は、常にこの法則の中での動きにすぎないということだ。我々がこの法則を調べようとするとき、我々の行動は今調べようとしている法則により支配されているということだ。このことから考えても、この法則の科学的研究はある限界があることがわかる。

前出の「マーフィーの法則」の中には、ニーチェアフォリズム箴言)とずばり同じものがあった。『事実とは、凝固した見解である。高熱高圧で、事実は弱体化する。真実は伸縮する』。これに対応するのが次のニーチェアフォリズムである。これは前出のバルト「テクストの快楽」の中で引用されていたものだ。『《真実》とは、古い隠喩の凝固したものの他ならない』。これは前記のものと、ほとんど同じことを言っている。ただし、前者が後者の盗作でないとしたらの話である。

 

第五節 「マーフィーの法則」の例

前出のブロック氏の「マーフィーの法則」より、おもしろい「法則」をいくつか引用してみる。これを読んで笑いが止まらなくなった者は、知的レベルが高いと思って良い。

 

『捜していないものはかならずみつかる』、『何かがきれいになるには、何かが汚くならなければならない(汚れ保存の法則)』、『何かを汚くしても、何もきれいにはならない』、『徹夜で仕上げた急ぎの仕事は、少なくとも二日は必要とされない』、『機械は、動かないことを誰かに見せようとすると、動く』、『作業台で道具を落とすと、もっともやっかいな場所に転がり込む』、『組み立てには、たいてい手が三本必要だ』、『重要書類は、あなたが置いた場所から、あなたが見つけられない場所に移動することによって、そのバイタリティ(重要性)を証明する』、『カバンを下に置くと、エレベータが来る』、『風力は髪のセット代に比例する』、『タバコ、バーベキュー、あるいはキャンプファイヤーの煙は、煙に敏感な人の顔に向かって漂う傾向がある』、『結婚生活の長さは、結婚式の費用に反比例する』、『一緒にいるのを見られたくない人と一緒にいるときほど、知っている人に出くわす』、『この世の良いものは、法律で禁じられているか、不道徳であるか、食べて太る』、『一番近くに住んでいる人が、一番遅くやってくる』、『車がほとんど通らない道をそれぞれやってきた車とトラックは、恐ろしく狭い橋で出会う』、『信号で止まったらお化粧を直そうと思っていると、どの信号も青である』、『修理工を待っていると、一日中待たされる。五分間だけ留守にすると、そのあいだにやってきて帰ってしまう』、『欠けた食器は壊れない』、『もっとも神経質な人に、ふちの欠けたコーヒーカップ、口紅の付いたグラス、髪に毛の入った料理が回ってくる』、『壊れやすいものを落としたとき、それを空中でキャッチしようとすると、何もしない場合により、損害が大きい』。

 

さらに、同書から、有名な「ピーターの法則」と名づけられたものを引用する。

 

*階級組織では、人は自分の責務をまっとうできない無能レベルまで昇進する。

結論

一. 時が経つにつれて、階級組織のすべてのポストは、その責務をまっとうできない無能レベルに達した人々によって占められる傾向がある。

二. 仕事は、まだ無能レベルに達していない人々によって成される。

 

カギをかけ忘れたときに限って、ドロボーに入られたりする。確認しなかったときに限って、間違えていたりする。カギをかけるという行為と、ドロボーが入るということが関係している。確認するという行為と、間違えるということが関係しているのである。しかし、間違えている、いないは確認行為をした時点ですでに決定しているはずである。つまり因果性からすれば、確認する、しないが、間違えている、いないに影響を与えるはずがないが、この影響を考えるのがマーフィーの法則なのであり、この問題はよく知能レベルの高い人の間で議論される。この時間の方向に逆らった因果関係の想定は、前記のバルトとクリステヴァ(この二人は師弟関係にあった)の「いろいろな人に書かれた全てのテクスト(文)は時間的順番にも関係なく、相互に関係し合っている」という驚くべき考え方に一致する。

このようなことは、宿命論(運命論)や決定論によって説明する者もいる。つまり、全ての出来事はあらかじめ決定されていて、なるようにしかならず、我々の努力もこれを変更できないということだ。「彼はその時、間違い、確認しないことがすでに決まっていた」というものだ。しかし、これは雑な見方であって、自然現象をあまりにも単純化し過ぎている。そこにはおもしろさやユーモアが全く感じられない。ところが、マーフィーの法則クリステヴァ、バルトの考え方は、ニーチェの気高い思想と同じように、「関係がある」とあっさりと指摘しているだけであって、それ以上のことを決めつけるようなことをしない。知っていること以上のことは言わないのである。しかも、ユーモア精神がほのかに匂っている。ここに、品格が備わった信頼性のある考え方が感じられる。そして、その関係の及ぶ範囲は、我々の固定観念を打ち破る広大なものとなっている。

これらに関連した米国における恐ろしい事件を前出の「FBI心理分析官」より引用しよう(原文に、少し、変更、追加をしてある)。

 

*ローリー・ロセティーという女子医学生が、殺されたという事件である。十月の土曜日に、ロセティーは数人の学生と一緒に午前一時半ころまで部屋で勉強していた。その後、本やバックを抱えて男子学生と二人で、自分の車を取りに下の駐車場へ行った。男子学生を乗せて駐車場の前のフロアに行き、そこで彼をおろした。男子学生はドアをばたんと閉めたので、彼女はドアがロックされていると思いこんだのだろう。その男子学生や他の人が警察に語ったところでは、ロセッティーはいつもそのことに細心の注意を払っていたという。メディカルセンターはイリノイ・サークル大学のキャンパスの端の、治安の悪い環境にあったので、センターへの行き帰りには用心していたのだ。しかしそのドアはその時ロックされてはいなかった。ちょうどその頃、四人の少年が金を奪うことのできそうな車を探していた。十五分ほど待ったところでロセティーの乗った車が信号で止まった。グループのうち二人が車の前に立ちはだかり、もう一人がロックしていないドアがないか調べた。彼はロックしていないドアを見つけて乗り込み、仲間のために他のドアを開けた。四人はロセティーに運転させて陸橋のところへ行き、護身のために車の中に入れてあった先のとがった棒で彼女を刺した。そして車のボンネットの上に彼女を乗せてレイプしてから、殴って気絶させた。ロセティーが身動きするとビニール袋に入れたコンクリートの塊で頭を殴った上、車でひいた。

 

彼女はこのように殺されてしまった。たまたまドアロックがされていなかったとき、犯人はそれに合わせてやってきたのであった。それまで、必ずドアロックしていたときには、たぶんこのようなことは一度も起こらなかった。ドアロックをするかしないかが、犯罪者が襲ってくるかこないかと関係していたのである。つまり、ドアロックの確認は、襲われたときのためにというより、襲われないための対策になるということをよく覚えておいてほしいのである。

私自身も前記の実話と同じような体験をした。一九九八年の一二月だったと思うが、私は会社の就業後、痴呆のおふくろのめんどうみるために施設に行った。そして、仕事に戻るための帰りに後ろに異常に迫ってくる軽自動車がいたので、私は腹が立ってこともあろうに速度を上げたり下げたりしたり、蛇行運転をしたりした。そしてある交差点の信号で止まったとき、その運転手は降りてきて私の車のドアを開けた。そして、私の髪の毛をつかみながら殴りかかってきたのであった。そいつの口からは日本酒の臭いがしていて、長髪で凶暴な顔をしていた。二〇代の男性であった。私はいつも用心のためにドアロックをしているのだが、このときだけ忘れていた。危険な状況であり、私は殺される可能性があるとさえ思った。私はおふくろの顔を思い出した。そのとき、最高のタイミングでレスキュー隊がサイレンを鳴らしながら対向車線を通過した。それに驚いた男は去っていった。私の車のキーは地面に落ちて、メガネは車の中に飛んでいた。私が車から出なかったことが幸いした。外に出たら終わりだったかもしれない。私がドアロックをし忘れたときを狙って襲ってきた事件であった――私はそう思っている。もし、いつものようにドアロックをしていたら逃げられたと思うが、なによりも、この事件自体が起こらなかったと思っている。それにしても、もしあのときレスキュー隊が通過しなかったら大変なことになっていただろう。これも偶然ではない、きっと私のおふくろが助けてくれたのだ――と思っている。これは決して宗教的な考えではない。そのような可能性はマーフィーの法則によって否定できないのである。

さらに私の体験談をお話しよう。私が一七歳くらいのときの話だ。私が夏休みに会津線只見線蒸気機関車(C11)の写真を撮るため、旅行したときのことだ。新津駅で、帰りの列車を待つためにベンチに腰掛けていた。その近くの立ち食いそば屋で、一〇歳くらいの少女がこちらに背を向けてそばを食べていた。短いスカートからちらちらパンティーが見えていた。男性であるわたしはムラムラしてきて、それを写真に撮ってやろうと決意した。相手は後ろを向いているのだから、カメラを出して風景でも撮るふりをして撮ってしまえばよい、と思ったのであるが、そうはいかなかったのである。私がカメラを出していじっていると、彼女は私の方を何度も振り返って、気にしだした。私がカメラを構えると、すかさずこちらを見る。信じられない、科学的には説明できないことだった。それが気になってシャッターが切れない。ついに、一枚も撮れないで終わってしまった。私の行動が、それを見ていないはずの彼女の行動に影響していたとしか思えない。もし、私がこのようなエロティックな気を起こさなかったなら、彼女は落ち着いてそばを食べることができたはずだ。

もう一つ私の体験をお話しよう。私が会社に勤めていた頃、こんな不思議なことがあった。私は、ある課長(A氏)と話をする必要に迫られていた。しかし、A氏はそれが自分にとって厄介なことなのでそれを避けたいと思っていた。ある日、私はA氏の所へ行った。しかし、少し話し始めると、A氏への電話が入り、話は中断した。それは長電話となり、私は自分の席に戻った。その電話はやがて終わり、私はまたA氏のところへ出向いた。彼と話を始めて一〇秒ほど経ったとき、また彼への電話が鳴った。私はそれを待ち、それが終わったのを見て、またA氏のところへ出向いた。すると、別の人(B氏)がA氏のところへ来て話が始まってしまった。二人の話は一時間くらいにわたった。不思議なことに、この間にA氏に電話はかかってこなかった! 私はA氏の所へ行き、こちらも急ぐので私と話をするように要請したところA氏は同意して、B氏との話を打ち切った。そのとたんにまたもやA氏に電話がかかってきたのであった。私はA氏との話をこの日これで打ち切り、これ以後何も話さなくなった。これを単なる偶然と片付ける人も多いだろうけれど、私はそうは思わない。A氏と私が話すことが、自然法則として徹底的に拒まれていたのである。

 

第六節 「マーフィーの法則」の著者ブロック氏の言葉

ここでたびたび引用しているブロック氏の「マーフィーの法則」の中の「はじめに」は名文なので、その一部を引用しよう。「マーフィーの法則」がやや難解な文章で説明されている。

 

*トイレに座ったとたん電話が鳴ったり、タバコに火をつけたとたんにバスがきたり、車を洗ったら雨がふったり、傘を買ったすぐ後に雨がやんだりしたことはないだろうか? そんなとき、あなたは、まだちゃんと解明されていない「宇宙の法則」というものが存在して、そいつの仕業なのではないかと感じたことはないだろうか? あるいは「マーフィーの法則」や「ピーターの法則」や「選択的重力の法則」なら聞いたことがあるという人はいるだろう。それらのうちのひとつを口に出して言ってみたくなったことがあるかもしれない。しかし、その正確な言い回しまでちゃんと覚えている人は少ないだろう。

本書は、そうした多くの法則について、最初にして完璧なリファレンスブックである。ちょっと変った科学者や官僚やヒューマニストや批評家たちによって述べられ、また書かれてきた機知と知性そのものである。ところで本書を編集していく間に、われわれが発見したのは、それらに多数の類似する例が存在することだった。これは、とりもなおさずわれわれのいう「宇宙の法則が存在する」という見方の正当性を証明するものだろう。作者がわからないという法則もいくつかあったが、まったく同じ法則を複数の人がとなえているという例にしばしば出くわしたのである。ただ、「一度ミミズの缶を開けてしまったら、それを入れるには、もっと大きな缶を使うしかない」と言ったザイマージ氏に対しては、とくに謝意を表しておきたい。というのは、本書をまとめる作業は、まさにこの「あまりにマーフィー的な法則」のとおりの結果となったのであった。ひとたび手をつけ始めたとたん、取り扱うべきテーマの数と範囲はどんどん広がり続け、われわれの実体験がまさにこのとおりになっていくのを認識させられた。

人類の長い歴史のうえでも、賢人や才人たちが、このあやふやだがずっと存在し続けてきた宇宙の基本的構成要素について、われわれに教えてきた。宗教家からは「教訓の法則」として、神秘主義者からは「宿命の法則」として、合理主義者からは「論理形式の法則」として、そして、芸術家からは「美学の法則」としてである。そしていま、この伝統的知識体系は、テクノロジストたちによっておびただしい数のものがとなえられている。

テクノロジーの世界、すなわち、科学分野の基本トーンは、「絶望」である。それは、彼らが「熱力学の法則」と言い換えた「ギンズバーグの定理、一.勝ちは望めない。二.引き分けも無理である。三.途中で降りることもできない」にも見ることができる。科学が探求の対象としている宇宙は、その誕生以来四〇億年にもわたって、グツグツと煮立っているシチュー鍋のようなものなのである。はっきりしているのは、やがて、われわれは人参も玉ねぎも区別できなくなってしまうということだ。

「それでは、もっと身近なことについてはどうか?」と、あなたはウォッカやマティーンなどちびりちびりやりながら、ペントハウスの窓からビジネスのために地上をうごめいている人たちをみて言うかもしれない。しかし、ビジネスについていえば、ピーターやパーキンソンの目を通して見るだけでよい。ビックビジネスも政府も、この世のそれ以外のものがそうであるように、やがては何もできない状態になろうとする。われわれはこれが単に時間の問題であることを知るだろう。

 

ブロック氏のこの文章中で、最後の方で言われていることは、興味深い。一九五〇~一九五三年の朝鮮戦争、一九六〇~一九七五年のベトナム戦争、二〇〇三年の米国とイラクの戦争(ブッシュ政権フセイン政権の打倒したいという欲望が原因であろう)――これらはすべて、マーフィーの法則を生み出した米国の関与したことだ――などでは、戦争を始めるときの想定とは全く違う泥沼化した結果となった。はじめ頃はうまくいくが、進めて行くと次第にめちゃくちゃになっていき、収集がつかなくなっていく。いじればいじるほど、努力すればするほど、良くなるのではなく、めちゃくちゃになっていくのである。これは、夫婦関係などすべての人間関係について言えることだ。初めは互いに価値を感じ合い、うまくいきそうだった。しかし、協力し合い、話し合い、互いをよく知るにしたがって、良くなることはまずなく、険悪になっていく。初めの頃が一番よかったというわけだ。うまくいった場合、我々が手を加えたからそうなったわけではなく、種が良かっただけで、我々がいじるとむしろ悪くなることが多いのである。二〇〇六年のイラクの状況を見てみればわかる。ほとんど内戦状態になっている。米国がいろいろいじったことによって変化はあったが、けして良くなってはいないことは確かである。第一のフセインがいなくなれば、また第二のフセインが出てくるというわけだ。ハエはいつも部屋の中に一匹いて、それを殺すとまた別のハエが出てくるというわけだ。努力すればそれだけ良くなるという「進歩信仰、啓蒙主義」は、世の中の一部だけしか見ていない人の考えである。どこかが良くなれば、そのぶん別なところが悪くなるのだ――これも「マーフィーの法則」だ。いじめも、けんかも、戦争もけしてなくならい。それは事実が証明しているではないか。『基本トーンは、「絶望」である』ということだ。

簡単に解決できそうなことも、深入りしていくと手が付けられなくなっていく。初めは、うまく整理できたものが、深入りしていくと、もやもやしていき、そのうち何もわからなくなってしまう。正に『科学が探求の対象としている宇宙は、その誕生以来四〇億年にもわたって、グツグツと煮立っているシチュー鍋のようなものなのである。はっきりしているのは、やがて、われわれは人参も玉ねぎも区別できなくなってしまうということだ』ということだ。世の中のものをよく見ると、我々の理想に程遠いものであることがわかるのである。これは現実がおかしいのではなく、我々が現実を良く見ていないで、かってに美しく解釈していただけであったということだ。今までの悲惨な歴史を十分知っているはずの現代において、世の中の困った問題を人間の「英知」と「努力」で解決できるという思想(啓蒙思想、ヨーロッパ思想史上、一七世紀末葉に起こり一八世後半に至って全盛に達した旧弊打破の革新的思想。人間的、自然的理性を尊重し、宗教的権威に反対して人間的・合理的思惟の自律を唱え、正しい立法と教育を通じて人間生活の進歩・改善、幸福の増進を行うことが可能であると信じ、宗教・政治・社会・教育・経済・法律の各般にわたって旧慣を改め、新秩序を建設しようとした。「広辞苑」より)をもっている者がいたら、その人はまだまだ経験が足りなく、多くの知らないことを、雑なしかも間違っている推測によって判断しているといえる。つまり『ビックビジネスも政府も、この世のそれ以外のものがそうであるように、やがては何もできない状態になろうとする。われわれはこれが単に時間の問題であることを知るだろう』ということだ。

 

第七節 我々の固定観念を打ち破る道具としての「マーフィーの法則

我々は周りの対象を自分のかってな考えと想像で把握してしまう。それは自分の中に作られたものである。そして、その対象が自分の思ったとおりになっていないとき、自分の考え方がおかしいのではなく、対象がおかしいのだと思ってしまう。世の中で起こることが、自分にとって不快なとき、我々は「今の世の中はおかしい」と決めつけてしまうのである。いつも、自分と自分の考えは正しく、対象が間違っていると考えてしまうのである。

今までの考え方で説明できない不思議な現象や、理想に合わない人間のおぞましい考え方、行動をむりやりいままでの枠組みの中で整理しようとしたり、間違いだとしたり、無視したりせず、それに合せた考え方をするのが「マーフィーの法則」である。しかし、それは従来の科学のように体系化されたものにはなり得ず、ニーチェの哲学のように箴言調に言い表されるだけなのである。大域的な自然現象は、今までの科学の考え方の延長で説明できないであろう。渡り鳥が何の目印もない海原の上を、どうして間違いなく目的地まで行けるのか、数十キロも離れたところに犬を捨ててきたのに、どうして彼は戻ってきてしまうのか、また、「体内時計」はどうやって時間を把握しているのだろうか、という問題は現代の科学でも、未来の科学でも到底解明できない。難しい問題は全て「体内時計」などという言葉に繰り込んでしまい、何かわかったようなそぶりをするのが科学というものなのである。渡り鳥の場合も、科学は「鳥は何らかの方向検出手段をもつ」ということでこれらの問題を処理するしかない。物質の間に働く引力(万有引力)についても同じで、「とにかくそのような力が働くようになっている」と理解するのである。どうして離れていて、その間に何もないのに関係し合うことができるのかという謎が残る。アインシュタイン一般相対性理論は重力に関する壮大な理論で、引力を媒介する空間の数学的構造(物質の存在により空間が曲がる)が導かれ、ニュートン万有引力現象が説明されるが、元をたどれば「光速度不変の原理(光の速度を測定したとき、発光源の速度と観測者の速度に全く関係しない)」という《理解不可能》な半ば事実・半ば仮説――相対性理論の華麗な魅力と不思議さは全てこの原理から出てきているのであり、空間の歪みはこの原理の歪みから出てきたものなのである――と、「加速度による力と重力による力は見分けがつかない」という「等価原理」というアイデアから《うまく》・《偶然に》・《運よく》・《要領よく》導かれたものである。この「光速度不変の原理」は、どうしてそうなっているのかは依然としてわからないのであり、しっかり確かめられてもいないし、確かめる方法も定かでないのである。万有引力現象を説明したと一般相対性理論は胸をはって言うだろうけれども、その土台となった「光速度不変の原理」は誰もが説明できないでいるのである。この原理は「万有引力」と同等に解明不可能であって、「万有引力」の不思議さをこの原理に移動させただけなのである。科学におけるどのような理論の中にも謎として残るような仮説があるのであり、《不明な場所を移動した》にすぎないと思える。

現在の科学で整理されている全ての現象の最も根本的なところにおけるこのような謎は、前記の「渡り鳥の方向検出手段」、「体内時計」の謎と全く同じである。我々にとって、これらの現象のメカニズムを根本的に、つまり、想像や仮説ぬきに解明することは不可能であるだろう。つまり、我々が事実として捕らえられることの他に、多くのものの間に「科学的な常識を超えるような関係」を想定する必用があるのである。一神教に関する啓蒙書である宮本久雄・大貫隆編「一神教文明からの問いかけ」(講談社)には次のようにある。

 

*こういう言い方に対して現代人は、すぐ次のように反論するかもしれません。生命が人間を越えたものから贈られ委託された物だなどというのは、古代人の作り出した、また宗教者が信じたがる、幼稚な神話にすぎない。じっさい人間自身の手でクローン人間すら作りうる時代になりつつあるではないか、と。しかしこうした言説に対して、あの存在の超越的根拠としての神理解は、逆にそれこそ、科学の原理的な限界を見ていない神話にすぎないのではないか、と問いかけて来るはずです。確かに現代の科学は、酵素を用いてDNAをある種のウイルスなどに連結し、これを増殖させる手立てを発見しましたが、科学に分かるのは原理的にそこまでなのです。何故こういう操作をするとDNAが増殖するのか、そもそも何故DNAなるものが既にここに存在しているのか、そのことについて科学は知り得ないはずである。つまり、自然やそこに働く自然法則を既に存在しているものとして受け取ることしか、科学にはできない。そこに科学の限界があり、人間の限界があるのではないか。そして自然が、そこに働く法則が、なかんずく生命そのものが、所与のものとして与えられて在るということ自体、なんと神秘に満ち満ち、驚くべきことではないか。(旧約聖書学の関根清三氏による)

 

「渡り鳥の問題」は、前出の「マーフィーの法則」の中から再度引用すると、『すべてのものはシステムである。すべてのものは、より大きなシステムの一部である。すべてのシステムは無限に複雑である。単純に見えるのは、限られた変数だけしか注目していないための錯覚である』から理解しなければならない。つまり、鳥は宇宙というシステムに組み込まれているのであって、鳥の行動は全体のある「動き」にすぎないということだ。鳥単体として他とは独立したもの、自立したものとして考えた場合、到底理解できないのである。このようなことは、あらゆる自然界の生き物の行動に見られるものであって、彼らは教えられたこともないのに、自然を完全に知り尽くしているとしか思えない行動を「無意識に」やっているのである。「マーフィーの法則」は科学のように体系的ではなく、何も原理をもたないために、自由に常識をやぶるような、あるいは、ばかげた主張をどんどん提案できるわけである。だから、フロイト精神分析学や「マーフィーの法則」のような考え方によれば、未知の問題を理解するためのよいヒントが出てくるかもしれない。

我々は他人のことでも単純化し、かってに決めつけて把握する。「あいつはそんなことを考えるようなやつではない」とか、「彼はこんなこともできないのだから、あれはできるわけない」とかであり、確かめもしないで決めてしまう。それは自分の知っている、愛着のある、好きな観念や考え方の中だけで行われる。何か問題があると、すぐに「教育」のせいにする人がいる。彼がどうしてそうするのかといえば、「それしか思い浮かばなかった」からだ。問題は何かのせいである、何かのせいにしなければならないという《信仰》が、たまたま思い浮かんだ「教育」に目をつけるのである。頭の回転の良すぎる人は、問題を手ごろな固定観念によってまとめてしまうという《技術》に長け過ぎているということにより、またあまりにもせっかちなために、大きな成果が残せないのである。一つの問題に対して、うまい解答はいくつでもあり、手ごろな回答を見つけてそれに満足してしまうようでは大成することはないのである。「マーフィーの法則」はニーチェの哲学と同じに、今までの固定観念にことごとく「足払いをくわせ」(この表現は三島憲一他「現代思想の源流」(講談社)よりお借りした)、斬新な考え方を促す道場なのである。宇宙は全く未知だ、従来の考え方では整理できないことに遭遇した場合、《自由な精神》をもつ者は思わず「マーフィーの法則」を称えるのである。

ある現象やその過程は多くの考え方、たとえば運命論、目的論、機械論(メカニズム)などで整理できる。たとえば我々がある経験により、我々には何事もコントールできないと感じたとき、宿命論は、この世に起こることは全て前もって決まっていると主張するであろう。しかし、「マーフィーの法則」という考え方はそれに異議を申し立てるだろう。宿命的であるという考え方は単純すぎるのであって、ただ我々には立ち入れない、わからないものがあるということであって、宿命的に起こっているように見えるものは、実は、我々が想像すらできないような自然のメカニズムによって宿命的でなく、機械論的に起こっているのかもしれないのである。我々にはそのわからなさに我慢ができず、早くけりをつけてしまいたいがために、たとえば宿命的という単純でわかりやすい考えを選んでしまうのである。

わかっていることは、何もかもが依然として未知であるということだ。ある現象の「しかけ」を我々はただ想像するだけだ――たとえば宿命論にて――。ある理論もごく狭い範囲では自然現象をうまく説明することができるが、範囲を広げると全く適用できなくなってしまう。あるやり方がうまくいったからといって、いつでもどこでもそのやり方を適用できるわけではない。ニーチェは『確信は一つの誤謬である』と言っている。