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トランジスタの開発物語 4 【最終回】

トランジスタの開発物語 4(最終回) 

 1986年「日工マテリアル」に掲載された高松秀機氏の記事

 

            トランジスタ

  ――理論的アプローチの威力の限界――

 

を打ち込んでみた。ものすごくおもしろく、どこにも書いてない内容です。①~④でそれぞれ7000文字くらいあります。最後の方にトランジスタの話題が出てきます。

  バイポーラ型のトランジスタノーベル賞受賞後に、ショックレーが1人で作り上げ、理論も完成した、ということが理解できます。

 

 

 

  長い目標を建てて行進する途中で、今世紀最大の発明トランジスタはこうして人類にに恵まれてきました。理論アプローチから生まれたものですが、しかしその論理は最後まで正しくありませんでした。それどころか科学史の事実として、路傍での失敗が発見への扉を開いたのです。誤りを侵さなかった鬼才ショックレーはどうしても成功へ到達できなかかったものです。そのきっかけのエラーをやった当人ギブニーは、発見からわずか数か月後にベル研究所を去っていきました。

 

  電極への接着ミスでは特許や論文にならず、評価されずに終わりました(これが後に敗因を招く)。しかし実際はそのルートを通ったのであり、トランジスタ開発をもう一度初めからやり直しても、けっして優等生ショックレーには生まれてこないでしょう。

 

 

  失敗から生まれた創造

  この創造過程はいかに理論が大切かを教示しています。たとえ正しくなくてもトライアルして現場に肉薄していることが新発見をもたらす原因となりました(彼がめざしたのは電圧を用いた制御法)。一種の仮定でも合っていなくとも、目標を立てて進めば手掛かりとなり、間違っていても発見される貴重な方法です。正否よりも信じて”行う”ことのほうが創造を呼びおこすというのです。

 

  理論は創造のあとで唱えられます。このほうが道理でしょう。その順序(ことわり)を逆にして、無謀にも見えない未来へ公式論をふりかざして踏み込むから、空振りの連続で壁に遮られ、バッタリと足が停まって限界を痛感させられていました。思えばこれまで科学の発見・発明は数多くあったのに、なぜかその創造過程については誰もが押し黙っている。その姿はまことに異様であります。創造がもしも理論や閃きで鮮やかになされたなら、己が才能を誇示して得々と説論したでしょうに。事実はそうでありませんでした。成功者たちの沈黙がそれを立証しています。なぜ言えなかったのでしょう。

 

  現代の賢人はこう語ります。「新規なこと、新しさの本質はいわばそこへ至る道があらかじめ知られていない点にある。従ってそれを予言することは論理的に不可能である」と。この正論に対し、それなら創造に至るには逆を断行しなければなりません。知らないものをどうやって先に見つけるのでしょうか。論理では不可でも、トライアルする過程のなかで拾いあげるのです。名前を知らなくても、未知のものをみつけることができるはありませんか(予測はできないが)。キャッチする心構えで準備することが創造を生むのです。

  世紀の発明

  1947年のクリスマスにベル研究所は主なる関係部署の人物を集めて、内輪でこの新発明のデモンストレーションを行いました。仲間さえも瞠目したまま見詰め、息をのむ凝視と驚きのなかで認められ、名もなきその小さな装置は「信号の転送と抵抗」transfer+Resistor->transistorと命名されました。こうして世紀のトランジスタ原理はブラッテンとバーディンにより誕生したのですが、しかしその作用がなぜ起こるのか、機構の正体は不明のままでした。

 

  理論家バーディンは半導体の表面にp型の薄い層ができることに気付いていたから、さっそく次のように解説します。入力した信号は表面のp型(正孔がたくさんある)層を伝わって走り、この薄い皮のからくりによって増幅現象が引き起こされるのだと(図1参照】。

 

  それならp型の行程が長くなれば増幅効果はどうなるか。むろん起こるだろうが、理論を作った後で試してみると、図2Aではトランジスタ作用が働いていたのに、Bでは働きませんでした。新作用の開拓には成功しながら、発明者でさえ表層メカニズムは分かっておらず、事実認識は誤ってもいました。この機構を解明するするために発見から理論へ、逆方向に検討が行われました。この道順をなぜ公表しなかったのでしょうか。何か都合の悪いことでもあったのでしょうか。・・・これが研究の方法について誤解をもたらします。

 

   


ショックレーの必死反撃

  1948年にベル研究所は希望と可能性に満ちて「トランジスタ開発の成功」を世界中に宣言しました。だがこの点接触型の基本特許や論文にショックレーの名は入っていません。むごい仕打ちですが、「このとき私の心は複雑だったと」彼は告白しています。「十数年来粉のテーマを狙って、孤独な研究を維持し続けたのは実に自分なのに(発見の下地となった失敗まで重ねたのに)、発明者から除外された」ことはエリート意識が高い彼にとっては耐え難い、死ぬほどの屈辱でありました。バーディンとブラッテンが増幅効果に遭遇したとき、ショックレーは旅行中でいなかったと言い訳していますが、とってつけた理由で真相はそんなものでありません。

 

  ショックレーは憤怒で赤黒くなって上席者の体面から怒声をかろうじて抑え、こんな点接触トランジスタ(パイオニア特許)はモノにならないと、ふるえる声で反駁する姿はさらに周りに醜く映りました。二本の針金による点接触など(0.05mmより狭い間隔)、物理的コツンでずれたらオシャカになってしまう不安定すぎる代物でした(事実そうだった)。原理発見の功績を実用性のなさにスリ換えて、誇りを捨てて否定しました。よほどの悔しさでしょう。

 

  オリジナルの発明者二人が「これは原理であって、これを基に成長させていくのだ。生まれたばかりの赤児に何を要求するんだ。! それでも指導者なのか、育てるのが役目だろう。なのに潰しにかかるのか!」と、怒りに火をそそがれました。ショックレーは自分が、生涯に執着した増幅作用の原理発見を遂げた二人に対し、にじみ出る無念をこらえ、肩をたたいてゆすり「おめでとう」と祝福していれば心は通えたものを、ザクロの嫉妬にかられて相手の弱みを理屈でひねりあげたから、協働者の”信頼”も”和”も失ってしまいました。

 

  シュックレーはリーダーとして「俺の考え通り(言うとおり)やれ」というタイプでした。それだけに彼の理論がことごとくはずれ、部下の二人が自分の指示外の処で偶発的にトランジスタ効果を発見したことは、許せぬ思いのなかで彼の心に深い傷を与えていました。正義とは何か、理論外のこぼれ球はリーダーの功績にならないのか。・・・ショックレーが形相を変えてバーディンの襟をつかみ「あの発見は理論だったろう」と詰め寄りました。だが発明者は表情をくもらせてノーと首をふりました。

 

  ノーベル賞が”三人受賞”に決定した時、ショックレーは自分も選ばれたのに、「ほんとうに長い間この仕事の責めを負い、不安に耐え忍び、成就させたのは私自身の力だ」と胸を反らし不満気に口をとがらせました。心の中で「ふたりの発見はマグレだったではないか!、非手順、非つなが、反論理ではないか。どれも学問ではない!」と叫びたかったのです。しかし理論ではなく偶然だち創造の価値が劣るのでしょうか。同じどころか、論理のみではどうしても開拓できなかった。その事実と苦しみを、ショックレーが忘れられるわけはないのですが。

 

 

  理論の威力

  しかしながら開発が第二ステージに進むや、ここでショックレーの頭脳は白刃のようにきらめきました。当人が否定した第一発明が姿を現したことによって、皮肉にも彼の思考力は冴えだしたのでした。理論は独創には無力であっても、モデルが姿を描かれた第二段階では抜群な威力を発揮するようです。ここで彼の理論は当たりはじめました。

 

  最初の発見でわかった重要なことは、n型Geに金属針を接触させると、順方向と逆方向にしろ流れた電気の主体は電子でなく、どちらも抜け穴(正孔)によって運ばれていたことでした。これが増幅作用を担うメカニズムの正体であると見当がつけられました。これはショットキーの整流理論にはなかったもので、彼らは長い回り道をして、発見した後でやっとこのことに気付いたのでした。

 

  「点接触トランジスタの成功」で沸き立ち、生まれて初めて目のあたりにした創造に研究所全体が興奮するなかで、独り背を向けてショックレーは青ざめた顔を隠し、全能力を振り搾って図3のnpn接合型トランジスタを一か月後に考え出した。端正な容貌で温厚な紳士が獣の牙をむいて歯向かい、ショックレーの一生で必死に燃えた時期でした。彼にとって前に勝ち抜くことしか生き残る道はなく、成功するしか恥辱の敗北をあがないことはできませんでした。

 

 

  しかしこの予測は実現されません。それは理論が誤っていたからではなく、p型(インジウム)n型(アンチモン)原子を計算量どおり混ぜ込む技術の進歩に時間が待たれたのでした。中央層は数十μの厚さが必要だった。そんな制御法は世界のどこにもありませんでした。

 

  この技術的解決のためにショックレーはここで大号令を発しました。「表面の研究はそれまで!」接合型トランジスタの開発へ向けて、ベル研究所の総力をあげて取り組ませました。顔を赤らめて指示を与えました。それだけ投入しても世紀の創造に値するものであろう。しかしこのためブラッテンとバーディンは自分たちの仕事を中断させられ、不本意となったバーディンあhトランジスタ素子が陽の目をみるまえにベル研究所を去っていきました(1950)。こんどは大学教授。

 

  失敗すればショックレーは(研究リーダーとして)生命を断たれる一歩手前です。幾度も眠れぬ夜が続き、彼ほどの逸材が敗残の恐怖におびえ、悪夢にうなされて半身不随と化しました。「自分の理論は間違っているのか! どうなんだと苦しげに吐きました。しかし闇からは(存在しないかの如く)何の応答もありませんでした。

 

  接合型トランジスタの実現に駆られた技術者達の苦労も大変なもので、懸命の波状攻撃をかけながらてさぐり、長いじりじりとした空白のなかで危険な道を渡り、やっと数年後にショックレーの推論はこの世で試され(1951年初め)、とうとう正しいことが確認されてきました。このとき唯我独尊の男が手を震わせて神に祈るのです。彼の考えはここで初めて的中し、実験の谷間や空白を理論が橋架けて、1935年以来15年間の生みの苦しみを遂げます。ショックレーは負け犬になる瀬戸際で主導権をもぎかえし、男の意地を果たしました。厳密な意味で今日のトランジスタは点接触型ではなく、すべて接合型トランジスタのうえに築かれるものです。苦い論理の戦勝でした。

 

  地図のない不毛の荒地をさまよった創造の道はここで最大の分水嶺を乗り越えました。理論がトランジスタ開発に果たした役割がお分かりでしょうか? 理論とは独創には脆弱であっても、応用では強力な武器に役立つものです。こういう類のの性ならそういう使い方をしないと、永久に空を切って徒労するはめ陥るでしょう。創造とは理論だけではないのです。分際をあきまえ理論が当を得て適した使い方をされる限り、すばらしい成果をその後のショックレーはあげ、彼の予言どおりにことは運んで、流石は秀才だと面目を挽回しております。

 

  理論の限界

  トランジスタは時代の上げ潮にのって科学産業の(?)児となり、社会にはかりしれぬインパクトと効果を与えます。開発部隊の指導者であったショックレーは偉人として仰がれ畏敬を集めました。ある段階では理論が縦横無尽の活躍を果たし、発表論文や学問での”説明様式”にも使われますから、これこそが”科学の方法”であるとの思い込みが脳裏に焼きつきがちですが、しかし実際は理論からは誕生しなかったのであり、別ルートをたどったのです。

 

  後に理論家ショックレーがもどかしく、研究にはいかに失敗が大事な踏み台であったかを繰り返し力説し(理論が駄目だったとは言いだせず)、苦闘した暗黒の時期を「価値ある失敗」だったと表現し、いっそ積極的に「失敗の物理学」という(概念まで提唱しています。このイキサツに彼が受けた心の打撃と痛手、「理論の敗北と無効さ」がうかがえます。理論以外にも”有効な手段”があったし、失敗どころか誤りさえも役立ったと、理論教育のみで育った超エリートが最後に認めて他者に説きだしたのです。理論家の雄にして言うから、はかれぬ重みを感じさせます。

 

  論理は腕の届く範囲内では有効なパンチであるが、それにもかかわらず少し離れたら空振りばかりとなる。手元では鋭利な解剖力ととして不可欠に誰もが常時使用しているのですが、しかしこれだけで何もかもを解決できると信じ込んでいると危険で、やってみた結果は底なしの泥沼でもがきがちです。これだけは頭に入れておかねば命取りになりましょう。

 

  ゲーデルの不完全性理論は「たとえ合理的思考によっても究極の真理を見抜くことは不可能であり、証明することも否定することもできない」と、人間の知性の限界を示している。そn立証できないカオスのなかから新発見・創造をしてくるには、論理を超えた別な方法を採らねばなりません。理論的アプローチこそが正統派で、非論理的な発見をする輩は邪道だというアカデミズムの伝統がありますが、まことに困った初学者の刷り込み、教育の錯誤といわざるをえません。

 

  目標と理論の必要性

  ここでトランジスタ開発をふりかえれば、①Si-Geの材料開発②増幅機構への野心(トライアル)③理論を可能にした周辺技術の発達、と三つの方路があります。段階的にも、1)工学による突進が種を生み2)新現象が物理学を発展させ3)育まれた理論が応用をもたらしました。これらの要素が織り合わさって世紀の創造は誕生してきました。ところでもっとも価値ある独創部分[オリジン]は、実は実験中の偶然によったものです。論理と計算のゴールではありませんでした。

 

  しかしこの結果を誤解しないでください。研究とは《方針をたてず》事由にやらせたら道に迷いこむのであって、目標設定と理論の枠組みがぜひ必要なのです。先端の創造といえども単にマグレだけで恵まれてくるのではありません。背景の違いが成功を左右します。この発見プロセスの場合もそうでした。

 

  日本にもベル研究所より先にトランジスタ現象を見ていた人がいたけれど、それだけのチャンスに恵まれながら成功者になっていません。・・・戦後間もない頃、東芝の茂原工場で鉱石用シリコン結晶をつくっていた大塚氏は、冷え固まると電気特性が偏ることから、結晶へもう一本の針を立てて電位分布を丹念に調べていると、わずかだが増幅作用が認められたのです(結晶の偏析によってシリコンがp・n型になっていた)。しかしエジソンもそうであるように、この革命の意味が読めずに見逃しています。

 

  これは問題です。せっかく豊かな宝物躍進への機会へめぐり合えながら、なぜ突進できなかったのか。「チャンスはこれを迎える準備のできている精神にのみ恩恵を与える」とパスツールは主張しています。未踏の現象を見ても知識がなければ発見できず、理論がなかったから事象の意義も分かりませんでした。目標がなかったから追及しきれませんでした。偶然でもブラッテン達が成功できたのは、計画と目標が設定された土壌に立っていたからで、トライアルの過程での思いがけぬアクシデントから真理は拾われ、間違った理論でも取り上げられ、方向を持つ組織と協力の中で育てられたのです(創造者はもう一人、ケリーであった)。

 

  栄光の後のの三人の軌跡

★類史へ永久に残る偉業を達成したチーフのショックレーは、脚光を浴びる中で意気高く旗上げし、カリフォルニアに夢の研究所をつくりあげた(1955)。がまた失敗に終わりました。だがゴットファザーの選りすぐった人材達は彼の半導体研究所を飛出し、新しくフェアチャイルド社を創設しました(1957)。ショックレーが怒気荒く裏切り者と叫んだ8人の技術者(リーダー格のノイスは29歳)達はさらに分かれて、現在のシリコンバレーにひろがる企業群(ノイスのインテル社は1968年)を細胞分裂のように集散しながら、半導体工業を繁殖させていきました。

 

  はじめは通信のために創られたトランジスタだけれど((真空管の代替えだった)、コンピューターに適用されるや、ノイスやキルビーが提案した(飛躍性のない)集積回路技術によって人類に量から質への劇的な変革を引き起こし、IBMは世界制覇への道を歩みだしました。しかし本来の開発者ATTが受けた恩恵は小さなものでした。

 

ベル研究所に在籍したわずか6年間に不朽の大仕事をやってのけ、中途で自分研究テーマを求めて再び組織からさまよい出たバーディンは、こんどは1911年以来長い間物性学の謎と空白であった現象[超伝導]に戦いを挑み、ここでも伝導機構を解明して、なんと史上唯一の物理部門二度目のノーベル賞に輝きます(1972)。こんどは理論で、かつての上役を混乱させました。

 

 

★もうひとりブラッテンだけは定年までベル研究所を勤めまあげ、その後のトランジスタの成育を助けます。しかしあれほど年下の二人に実験で協力した男が、晩年は気難し屋になってしまいました。トランジスタの思いがけない発見がショックレーやバーディンの理論よりも、彼の謙虚な精神とトライアルから本当は生まれたことを忘れたのでしょうか。いや(本人は忘れないが)評価がされなくなっていました。

 

  ベル研究所そのものが22500人の研究員(博士が3000人)と7人のノーベル賞受賞者をかぞえ、年間3500億円という膨大な研究費をつぎこみながら、トランジスタ発明以降たいした業績はあがっていない。・・・たしかに1978年にベル研究所からベンジャスとウィルソンが再びノーベル賞を受けたが、それは電子とかけ離れた「宇宙創成」の貢献によるものでした。二人は新型の超高感度アンテナの精度をチェックしていたとき、方向性をもたない予想外のノイズを拾ってこれが何者であるかを解明していくと、思いがけずビックバン説を裏付ける証拠だったのです。百数十億年前の大爆発の名残り(光)が膨張効果のため電波となって漂う、宇宙背景3K放射の発見でありました。(1964)、・・・測定器が、意図しなくても新発見を捉えたのでした。

 

  その後に電子業界で脚光されたドリフトトランジスタ・プレーナ技術・エピタキシャル成長法・集積回路光通信など、時代を牽引した発明発見はどれも最先端を行くベル研究所からは出生しませんでした。このトップ走者の停滞は、トランジスタ開発の”成功”に目がくらみ、”あとから作られた理論”と”説明用の研究方法”が状態だったと後生大事に思い込み、学問の能力を過大に信じて、一発で当てとうとし、誤りや失敗を評価せずに背を向けたからです。だが真の創造経路はそこを通っていませんでした。

 

  事実は残酷だし、簡明なもの、エレクトロニクスの進歩・発明は大学ではなくすべて民間企業で成し遂げられました。理論的アプローチだけで創造は生まれていません。金でもありません(トンネルダイオードは敗戦国の貧しい焼け跡の町工場から生まれた)。ここで創造の真相の担い手なんであるかをトランジスタ開発の経緯は示したのですが、このとき内部にいた人達は何も学んでいませんでした(初目者のうち実験屋のブラッテンのみが残り、理論家二人は姿をくらましました)。なぜか人は身近くの大切を見ようとしないのでしょう。歴史の事実として、創造と迷路への道が分かれていました。

 

  創造の女神は科学者達にこう語ります。「あなたがたはまだ何も発明していない」。しかし沈黙のまま(説明できず)人類は科学の道をなを進みます。地図や標識がなくても道はあるのではないか。

 

 

  参考文献

●菊池 誠:半導体の話  NHKブックス

 

●宮沢 久雄:科学と実験  1983、3

 

●鳩山 道夫:半導体を支えた人々 誠文堂新光社

 

④終わり

 

   

         ショックレーの創設した研究所  

    ショックレーから離脱した者によって創立されたフェアチャイルド

 

 

 

参考に

物理の歴史

 http://homepage3.nifty.com/oya2/physics/qed/qed.htm