SonofSamlawのブログ

うひょひょ

第二部 第五章 我々の残忍性

第五章 我々の残忍性

――我々は、どうしてここまで残酷になれるのか? ――

 

第一節 はじめに

この章では、我々の残忍性について詳細に検討する。残忍性は、戦争・暴力(家庭内暴力)・テロ・犯罪(殺人)・いじめなどの原因である。残忍な行為は我々の重要な不快中和手段なのである。

我々は他人の不幸を見たり、知ったりすること、さらには他人を苦しめることにより快活になることができる――この不道徳な意見にたいていの人は眉をひそめるかもしれない。それでは火事のときに、どうして野次馬が大勢現場に駆けつけるのであろうか? 昔の残忍な公開死刑に大勢の人々が集まるのはなぜか? 彼らはどのような動機で駆けつけるのか? その目的は何なのだろうが? 私はこの質問を前記の命題に反対する人にあびせてみるのだ。すると彼らは困った顔をして沈黙してしまうのだ。我々は他人の家の火事を何となく見に行くのではなく、砂糖に群がるアリのように、じっとしていられない衝動に襲われるのだ。我々はそれらに快楽する、もっと正確に言えば、性欲や食欲にがまんできないように、我々の渇望を満足させようとするのである。また我々は、他人の危機だけに快を感じるだけではない。冒険家は自分自身を危険にさらすことで、修行僧は自分を痛めつけることで、マゾヒストは自分を苦悩させることである満足(快楽)を得ようとするのである!

他人の家の火事は、その家に関係のない者にとっては迫力ある見世物くらいの意味しかない。自分に関係のない他人の不幸は、我々を強く引きつけるイベントなのである。昔のローマ帝国でいえば、人と人、人と野獣の殺し合い、また少し前まで行なわれていた公開死刑を見物するのと同じなのである。現代でも、K―1、PRIDEといった過激で残酷な格闘の見世物に誰もが見入ってしまう。

二〇〇五年四月に韓国のソウルで、ラオスから来た象が逃げて焼肉店に侵入しあばれた。店の中はめちゃくちゃになってしまった。それを見ていた見物人に話をきいたところ「一生思い出すほどおもしろかった、しかし、店長と知り合いなのであまりおもしろがれない」とひどいことを言っていた。人の不幸を本当に心配できるのは、その人と強い関係がある、つまりその人からなんらかの利益を得ることができる者のみなのである。

野次馬たちは家に帰れば「私は他人の不幸を望まない」、「誰もが幸せになってもらいたい」、「世界平和」などと言っている。身近に起こった不幸な事件をわくわくしながら見物しておきながら、普段はそれとは正反対なことを言っているのだ。お昼のワイドショーやニュース番組で悲惨な事件は報じられると、誰しも見入ってしまうものだ。大惨事ほど人を引きつける。「子供がマンションの十二階から落とされた」、「トラックのタイヤがパンクして対向車線に飛び出して対向車と正面衝突、家族三人は即死」、「車内で三人が自殺」といったニュースは、大きな声では言えないが人をなぜか引きつける。ここで前出のロバート・K・レスラー「FBI心理分析官」の解説から引用する。

 

*殺人について読んだり聞いたりすることは、たしかにショッキングであり、不快である。特に本書で多数取りあげられているような、性的な暴行やサディスティックな行為を受けた死体の描写、さらには逮捕後に明らかになった無惨な犯行経過などを読むことは、人間の感情として、けっして気持の良いものではない。

しかし、その不快感にかかわらず、この種の描写は人を引きつけ、ぞくぞくさせ、さらに知りたいという気持を起こさせる。「恐いもの見たさ」という言葉があるが、異常な犯罪のなかに、自分の無意識の中にうごめく衝動と響きあうものを感じるからかも知れない。人が犯罪についての読み物に引かれたり、ある種の人々が犯罪捜査管や犯罪学者になったりするのは、おそらくは、犯罪の持つこの魔力のせいではないかと考えられる。

 

我々が火事の現場に駆けつけるのは助けるためではない。しかし、偶然助けてしまう者もいる。人の不幸を見物するのも、人を助けるのも自分のある衝動に応えるためにやっているのであって、その手段が違うだけなのである。前者は低級あるいは直接的な手段であり、後者は高度な、あるいは歪曲され恰好つけられた手段なのである。この経路はその者の頭の程度によるが、ある人に限ってもそのときの気分、状態により変わるものだ。他人の不幸を見物してしまうだけのときと、助けに行きたいと思うときがある。どちらもそのときの体の状態に応えた必然的な行動であって、良くも悪くもないのである。うれしいときに怒れと言われてもできないのと同じだ。その人のそのときの本能の欲求に応えた行動に対して善か悪かと判断しようとするのは、我々の伝統的な悪い癖だ。

他人の不幸に快を感じるわかりやすい理由も上げることはできる。自分と家族以外の他人の不幸は、自分の利益に結びつくことが多い。組織におけるライバルや上司の不幸は、自分の出世につながる。敵の不幸は自分にとっては喜ぶべきことなのである。誰もがよくなることはできないのであって、誰かが上がれば誰かが下がるのである。だから他人の不幸を悲しく思う者がいたとすれば、それは必ず偽装された行為なのである。このような不気味な性質が我々にはあるのであり、それは本章で検討される。

他人の不幸の見物や想像は、我々のうっとうしい不快を中和する手段でもある。これは、男性がポルノに引かれるのと同じである。ポルノ映画や雑誌を見てマスタベーションをする、これで一時的にうっとうしい不快を中和するのである。ポルノを見ることはけして楽しいことではない。しかし、ポルノは我々、たぶん男性を最も強力に引きつけるのである。それと同じように悲惨な事件や他人の不幸に関する報道を見ることにより、我々は、不快をまぎらわせようとするのである。

「他人の不幸は蜜の味」と言われる。他人の不幸は、きわめて不道徳的すぎてなかなか言えないことであるが、我々にとっては最高の清涼剤なのである。我々は他人の不幸にとりわけ大きな関心を示し、その情報にはきわめて敏感だ。前出のショーペンハウアー「意思と表象としての世界」には次のようにある。

 

*この点からすれば、つまり生きんとする意欲の形式であるエゴイズムという立場からすれば、他の人の苦しみを眺めたり述べたりすることがわれわれに満足や喜びを与えるということもまた否定できぬことであり、まさにこの点の道理をルクレティウスは第二巻の冒頭で次のように卓抜かつ率直に申し述べている。「荒れ狂う風が海原を鞭打つとき、海辺にいて、岸に立って、船人が難儀しているさまを眺めるのは、楽しいことだ。それは他人の悩めるすがたを見て面白がるというのではない。自分が災悪より免れていることを知って嬉しいのである」。

 

また、暴力や他人を苦悩させることについても同じように、我々をわくわくさせるところがあるのである。前出のカール=ハインツ・マレ「首をはねろ!」から引用しょう。

 

*こん棒の話は、なかなかおもしろくて誰もが楽しめるものである。ところが、わたしがこの話から引き出した結論は決して楽しいものではなかった。その結論では暴力というものが太古以来人間の楽しみの対象であるとか、世界中を容赦なく殴ってまわることに人間は喜びを感ずるとか――ともかくも、そういうようなことが指摘されているからだ。しかし、このような楽しみや喜びについては制約が加えられる。・・・しかし、このような規制が外される例外もある。正義のためや悪に対抗するための暴力は許される。自らを守るのは当然のことだからだ。正当防衛はほとんど世界中に是認されており、この理由からであれば隣人に対して暴力を加えることも許される。「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬も向けなさい」(マタイ、五.三九)というキリスト教的理想は単なる空論に終わっている。

袋から出るこん棒のメルヘンはいかなる理想も主張せず、もっぱら快感原則をふりまわす。食事の支度をするテーブル、金のロバ、袋から出るこん棒を使って、このメルヘンは人間の原初的な喜びを描く。そのためにこのメルヘンは世界中に広まった。しかし、こん棒はこの物語の中で主役を演ずる。したがって、この種の暴力の楽しみは(原初的な)三つの喜びの中で最も重要なものかもしれない。

 

*従来、暴力的な思考は、学者たちの研究対象にはあまりならなかった。少なくとも心理学者たちはいまだにそのような思考を集計していないし、統計的にとらえてもいない。ここではまず、月並みな設問から始めよう、「車のドライバーは何回くらい攻撃的衝動を感ずるか?」。この衝動は、この分野での一つの徴候であり、表面にすぎない。この表面の下に隠れている広がりが性欲の場合より劣ることはまずないだろう。また(衝動を)抑圧しようという意識はこの場合の方がはるかに強いだろう。なぜといって誰も自分の暴力なんか認めないからだ。

 

*無力な娘たちを凌辱し、そうすることで敵を辱めること――この行為には長い伝統がある。あらゆる時代の雑兵たちが一つの都市を占領した後で敵軍の婦女子を凌辱したのは、敵を辱める行為なのだ。歴史家たちはこのような暴行をとかく覆い隠したがる。ところが預言者イザヤは違う。イザヤはバビロンの征服についてつぎのように述べている。「幼児たちは彼らの目の前で打ち砕かれ/どの家も強奪され、女たちは辱められる」(イザヤ書、一三.一六)。そうだ、彼らの目の前でだ! 夫たちや父親たちが、自分たちの妻や娘が凌辱されるところをわざと見せられることも珍しいことではなかったのだ。これが敵への復讐であり、敵の苦痛を楽しむことによる満足であり、また男たちや女たち、それに征服された町にとっての、起こり得る最大の辱めである。

預言者ナホムは、ニネベの町を遊女にたとえて、つぎのように言う、「・・・わたしはお前の裾を顔の上まで上げ/諸国の民にお前の裸を見せる・・・」(ナホム書、三.五)。マルティーン・ルターの訳文によれば、この後につぎのような文章がつづく、「わたしは、お前を忌まわしい者となし、お前に罪びとの烙印を押し、お前を見世物にする」。果たしてそのとおりのことが起こる。すなわち、ニネベの女王はほんとに服を脱がされ、裸で町じゅうを引きまわされる。強盗、略奪、殺人は横行し、「人びとは死骸につまずき」、生娘たちはむせび泣き、ため息をつく。楽しい気分になれるはずがない。

 

ニネベとは古代アッシリアの都市で、紀元前七世紀末にメディア・バビロニア連合軍に攻略されて廃墟となる(広辞苑より)。前出のバタイユ「エロティシズム」には、次のような人間の残忍性と暴力に関する恐ろしい記述がある。

 

*戦争は、動物的な暴力とは異なって、動物たちがあずかり知れぬ残虐さを発展させた。相手から虐殺を受けた後の戦闘においては、捕虜の処刑へと事が進むのは日常的だった。こうした残虐さは、戦争の、際立って人間的な側面だ。モーリス・デイヴィの本から次のような恐ろしい描写を引用しておこう。

「アフリカでは戦争の捕虜を拷問にかけ、しばしば殺してしまう。・・・フィジー諸島における要塞劫略のあとの光景は、あまりにも恐ろしいものであるため詳細に描くことなどとうていできない。いちばん残虐でない行為を一つ挙げたとしても、そこでは性の区別も年齢差も無視されている。身体部位への数知れぬ切断がときには生きている犠牲者にも加えられるため、そしてまた性欲混じりの残虐行為がおこなわれるため、敗者は捕らえられる前に自殺してしまう。メラネシア人特有の運命論的な考えゆえに、多くの敗者は逃げようとさえもせず、頭をこん棒で打たれるがままになるのだった。不幸にも生け捕りにされたときには、その運命はひどいものだった。中央の村に連れてゆかれ、高位の身分の少年たちに渡され、もてあそび拷問にかけられる。あるいはこん棒で殴打されて意識もうろうとなり、そのまま過熱したかまどのなかに入れられる。そして熱さのあまり痛みの意識が戻ると、その狂ったようなけいれんに見物人たちは大笑いするのだ」。

 

モンゴル帝国の創設者であるチンギスハンか、その孫のフビライハンのどちらかであるか忘れたが、バーミヤーンを攻略したときに、その王の耳の中に溶かした銀を流し込んだという話を聞いたことがある。なんで彼はこんな残酷なことをしたのであろうか? 「彼の中の残忍性がそう要求していた」という以外の理由は見つからない。

前出のバーナード・ルイスイスラム世界はなぜ没落したか?」によれば、この本の著者であるユダヤ系イギリス人であるルイス氏(米国に渡りプリンストン大学の教授となった)は、冷静で公正な教授であったが、プリンストン大学からの退職が彼を変えてしまい、ネオコンサーヴァティヴ(新保守主義、排他的政治思想)に成り果ててしまったという。彼はこの本で、イスラムの世界に対して誤った情報を撒き散らし、彼の新たな米国の親友を喜ばせた。つまり、ディック・チェイニー(副大統領)、ドナルド・ラムズフェルド(国防長官)、ポール・ウォルフォウィッツ(国防副長官)、そしてリチャード・パールなどであり、彼らも攻撃的な欲求不満(残忍性)を抱えていて、それを抜く手段を求めていたのであったのだろう。この欲求に応えて攻撃できる相手、つまり敵を作り出す必要があったというわけだ。そして、二〇〇三年三月二〇日、英米軍はイラク攻撃を開始した。中世イスラム史研究者として名声を博したルイス教授は、この戦争を始めた上記の米国高官たちに大きな影響を与えたと言われている。

ここで、彼の心理を分析してみる。彼は、プリンストン大学を退職するとすぐさま退屈という不快に襲われた。彼はこれを中和しなければならなかった。通常この手段として、社会的に正当なもの以外にエロティックなものと残忍なものが上げられる。退屈者がわいせつな行為に走ってやめられなくなってしまうことは、周知のとおりである。しかし、彼は残忍な方向へと進んだ。つまり上記高官たちと、イスラム、具体的にはイラクサダム・フセインをいじめることに熱中しなければならなかったのであった。これは彼らの中の《残忍性》の仕業なのであって、彼らには一切の責任はないのである!

前出のショーペンハウアー「意思と表象としての世界」からも引用してみよう。

 

*神話に対する攻撃があれば、これは法ならびに徳に対する攻撃であると考えてしまうのである。これがさらに進んでいくと、一神論を奉じる民族の場合、無神論ないし神の欠如は、いっさいの道徳性の不在と同義語となってしまうのである。このような概念混同は僧侶たちにとっては歓迎すべきことであろう。ただこの混同の結果、あの恐るべき怪物、狂言(ファナティズム)が生じ得たのである。しかもこれがいちじるしく狂った個々の悪人を支配するだけではなしに、民族をまるごと支配するようになると、最終的に、この西洋では異端審問となって具体化されるにいたっている。こいうことが人類の歴史の中でたった一回だけなら、人類の名誉になることなのであるが、最近のもっとも信頼すべき報告によれば、この異端審問はマドリッドだけでも〔スペインのほかの地方にもなお多くのこのような僧侶の手による人殺し巣窟(そうくつ)があったのだが〕、三百年の間に三十万人を信仰問題のため焚刑に処し、苦悶のうちに彼らは死んでいったという。熱狂したがる人は誰でも、大声でわめきたくなるたびに、直ちにこのことを思い出すべきである。

 

第二節 死刑

太古より執行されてきたあまりにも残忍な死刑の例を見ることにより、我々は人間というものに確実にひそむ恐ろしいもの、つまり残忍性について知ることができる。我々は、絶えず他人を苦しめたいという欲求に苦しめられ、絶好の機会があるとそれを実行し――誰もがエロティックなことにひそかに熱中するのと同じに――、快楽してきたのである。古代から少し前まで行なわれていた残酷な数々の死刑の方法を知ってほしい。そこには、我々が他人を苦しめたいという本能(残忍性)が現れているのである。罪人を罰する、見せしめにする、更生させるという近代的理由は、当時まったく考えられていなかったのである。

中国では二〇〇八現在、年に一〇〇〇人程度の死刑が執行されているそうだ(少し前には年に約八〇〇〇人が死刑にされていたそうだ)。これは一年における世界の死刑執行数の八割であるそうだ。中国は死刑王国なのである。中国は歴史上、死刑執行の数だけではなく、その恐ろしい殺し方においても世界一の残忍な国なのである。

これから二つの文献により古代から行なわれてきた数々の恐ろしい死刑の例を紹介しよう。モネスティエ「死刑全書」(吉田春美・大塚宏子訳、原書房)を文献A、レーダー「死刑物語」(西村克彦・保倉和彦訳、原書房)を文献Bと呼ぶ。文献Aは、死刑の方法と実例が多数の資料により説明されている大作であり、一ページ一約一〇〇〇文字で五五〇ページにも及ぶ大作で、恐ろしい死刑執行の図版が全ページ数の半分を占めている。文献Bは、死刑の実例よりもその起源と賛否について重みが置かれている。文献Aは、文献Bと異なり死刑における人間の残忍な欲求が淡々と語られ、古代から近代にかけての死刑において、我々に確実に存在する残忍さと非情さ、という不気味なものの存在が明確に示されている。モネスティエ氏は前出の著書の「はじめに」のなかで、『文化的なアリバイに守られていても、冷静で大胆な視点から見ると、死刑の歴史はもうひとつの「歴史」である。つまりそれは、邪悪な心と悪意に奉仕する人間の才能の歴史なのである』と言っている。これは正しい判断である。つまり、我々に確実に存在する「残忍性」を認めているのである。

それではこれから前記の文献より、ほとんどの人が知らないであろう震え上がるような恐ろしい死刑の光景を紹介していくことにする。文献Aでは、死刑を三七に分類している。それは、動物刑、喉切りの刑、腹裂きの刑、突き落としの刑、飢餓刑、檻に閉じ込める、幽閉、磔刑、生き埋め、串刺し刑、皮はぎ刑、切断刑、解体刑、切り裂き刑、粉砕刑、火刑、肉を焼く、鋸引き、矢で射る、突き刺す、毒殺、吊り落とし刑、鞭打ち刑と棒打ち刑、車刑、四つ裂き刑、絞殺刑、ガロット、石打ち刑、溺死刑、絞首刑、斬首刑、首切り装置、ギロチン、銃殺刑、ガス室電気椅子、毒物注射である。その中で特に残忍なものを紹介してみる。

 

一. 動物刑

文献Aより引用する。

 

カルタゴとインドでは、死刑囚は何頭かの象によってぐしゃぐしゃにつぶされた。一九世紀初頭に科学作家で旅行家のデュモン・デュルヴィルが、有名な著書『世界周遊記』のなかでセイロンでの囚人たちの処刑に立ち会ったときのことを語っているが、そのために特別に調教された象たちが囚人を空中に放り上げ、落ちてくるところを牙で突き刺したという。

 

*獣たちは、巧妙に決められた順序に従って。競技場に入れられた。観客はこの刑罰に通じていて、ときに一〇万人以上もつめかけ、それぞれひいきの動物を持っていた。

 

*またある者は、象や雄牛が囚人の体を踏みつぶしたり投げつけたりするのを好んだ。テバイ王の妻ディルケは裸で気の荒い雄牛につながれた。『クオ・ヴァディス』によって永遠にその名を残したリギアは、絶滅した野牛オーロックスに縛りつけられた。

 

*時期によって多少の増減はあるものの、動物刑は七世紀にわたって行われ、そのあいだに処刑のやり方においていくつかの変遷があった。猛獣に供される囚人は、個人であれ集団であれ、最初は縛りつけられ、そのうち縛られなくなったが、手には何も持っていなかった。やがて、抵抗と死の恐怖を長引かせるために、ちょっとした武器が与えられるようになった。なかには一頭、ときには二頭の猛獣を殺してから、三頭目にやられて命を落とす者もいた。このようなサスペンスは、観客にとって、まさしく処刑の面白みが増すことになった。

 

同書によると、十八世紀のトルコでは、姦通の罪を犯した女性は猫と一緒に袋に縫い込められて水の中に放り込まれて溺死させられた。

 

二. 檻に閉じ込める

この刑は、文献Aによれば罪人を身動きできないほど小さな檻に閉じ込め、放置するものである。座ることも横になることもできないほど小さな檻に閉じ込められることもある。文献Aより引用する。

 

*罪人は鉄製か木製の檻に閉じ込められ、市庁舎や裁判所や教会の外につり下げられた。処刑方法は単純である。つまり、受刑者は衆人環視のもと、飢えと渇きによる死を宣告されたのである。冬は悪天候と凍結によって、夏は暑さと照りつける太陽によって、死は早められる。

それに加えて、民衆が石を投げつけることも珍しくなかった。数週間かかって囚人が死ぬと、その死体は完全に腐り骨がばらばらになるまで、檻のなかに放置された。

 

*フランスではルイ11世の時代に最も頻繁に檻が用いられた。

当時は、ロシュ城、ブロアに近いオンザン城、モン=サン=ミシェル修道院、パリのバスティーユとトゥールネルの牢獄に檻が存在し、一六世紀まで使われていたという記録がある。そのような檻は栄養失調で死亡させるためだけでなく、拘束の刑罰としても用いられた。ヴェルダンの司教ギョーム・ド・アランクールは一四年間、ラ・バリュ枢機卿は一一年間檻に入れられていたことが知られている。

 

*それらの檻は囚人が完全に立ったり横になったりできないように作られていた。

 

*一九三九年から四五年にかけての戦争のあいだに、いまでも語りぐさとなっているビルマの残虐行為が、日本の占領下に大手をふって行われた。日本の征服者たちと同盟を結んだビルマ人は西欧の捕虜たちを執拗に虐待し、現代版の檻に入れることを考えついた。捕虜たちはしばしば微罪で餓死の刑を宣告され、金属製の樽に閉じ込められた。その樽は太陽の下に放置され、二週間後に開けられた。死刑囚は数日前に死亡していることが多く、体が二倍にふくれ上がって悪臭を発し、たいてい樽の内壁に皮膚がはりついていたのだった。

 

三. 磔刑

この刑罰は、囚人の手足を十字架と呼ばれる刑具に釘づけ(縄で縛ることもある)にし、そのまま放置し、死に至らしめるものである。たいてい槍で突くなどという行為は一切行われない。その死因は、文献Aによると窒息死であるとされる。文献Aから引用する。

 

*ローマで最初の磔刑が行われたのは、王政期に君臨した七人の王のうち最後の王であるタルクィニウスの治世下においてであったと思われる。この慣習はカルタゴ人から伝えられたものらしいが、カルタゴ人自身はフェニキア人から取り入れたようである。

 

*一般に認められているところでは、ユダヤ人が磔刑を採用したのはヘロデ王の治世下においてである。

 

*ローマ、ギリシア、オリエントでは、磔刑を宣告された者は鞭打たれてから、処刑場まで自分の十字架を運ばなければならなかった。いやより正確には、「パティブルム」つまり十字架の上部の柱を運ぶよう強制されたのである。垂直の柱である「スティプス」は、死刑囚と死刑執行人が到着したときにはすでに地面に立てられていた。十字架全体を背負ってゴルゴタの丘まで歩くキリストを描いたおびただしい数の図像は、当時の刑罰の実状とは異なっているのである。

*処刑場に着くと、死刑囚は縄で、またたいていは釘で刑具につけられる。縄の場合は、のばした両腕をパティブルムに固定してから、縄と滑車を使って、地面に打ち込んでおいた垂直の柱の上にパティブルムを引き上げる。

*釘で打ちつけた場合も同様な作業が行われるが、まず両手をパティブルムに釘づけし、死刑囚をつり上げてから、両足を釘づけする。囚人を地上で釘づけしてから、十字全体を立て、前もって掘っておいた穴に差しこむこともある。釘はけっして手の平には打たない。というのは、そうすると体の重みで手が裂け、腕が自由になるからである。

*釘は常に二つの方法に従って手首に打たれる。経験豊かな死刑執行人ならば、現代の解剖学者たちがデストの空間と呼ぶ骨に囲まれた狭い空間に、長い釘を打ち込む。・・・足は様々な方法で釘づけされる。片足ずつ並べて、あるいは両足を重ねて釘で固定されることもあれば、四角十字の場合は両足を開いて固定される。

 

*十字架上で死ぬのは多くの人々が考えているように飢えや渇きによるものでも、また出血によるものでもなく――釘打ちではごくわずかしか出血しない――窒息によるからである。十字架にかけられた者は腕より上に体を引き上げないかぎり呼吸できない。・・・この現象は、ローラン・ヴィルヌーヴが述べているように、こく最近、磔刑に立ち会った強制収容所の囚人たちによって目撃され、記録されている。彼らの報告によると。窒息を早めるため、頑強な者の足におもりを下げ、呼吸するために腕を引き上げることができないようにしたという。

 

四. 生き埋め

文献Aによれば、この刑は罪人を生きたまま地中に埋めるというものだ。同書から引用する。

 

*紀元前二二〇年には秦の始皇帝が、彼の統治原理に反する書物を書いたとして、五〇〇人もの文人を生き埋めにさせた。

 

ペルシア人は生き埋めの恐怖をさらに完全なものとした。彼らの生き埋めの刑では、罪人は大量の灰のなかに生きたまま突き落とされる。灰は罪人の肺に侵入し、通常の生き埋めによる単純な酸欠よりもさらに恐ろしい窒息を引き起こすのである。

 

五. 串刺しの刑

文献Aから引用する。

 

*串刺しの刑は、『ラルース一九世紀大百科事典』が定義している通り、「人間の残酷さが生み出した最も恐ろしい刑罰のひとつ」であり、死刑囚の体、たいてい肛門から杭を刺し、その状態で死にいたらしめるというものである。

 

*十八世紀の半ばのエリザベート女帝の時代まで串刺し刑が存続した。それから一世紀のちでもなお、シャム、ペリシア、そしてとくにトルコでこの刑が実施され、トルコでは一八三〇年ごろ串刺しの公開処刑が行われたという記録がある。

 

*串刺しの技術は世界中どこでもほとんど同じだが、多少の違いがある。というのは、アッシリア人のようないくつかの民族は、腹から杭を入れ脇の下や口から出していたが、この方法をとる民族は少なく、大半は木製あるいは金属製の杭を肛門から刺していたのである。

 

*中国人はさらに奇をてらって、串刺しに恐るべき凝ったやり方を導入した。

*まず囚人の尻に空洞の竹をさし込み、火で真っ赤に焼いた鉄の棒を直接体内に挿入したのである。

 

*オリエントの人々は威嚇のための死刑として杭を用いた。包囲した町の前で、包囲軍が城壁に最も近い場所に陣取り、町の人々を震え上がらせるために捕虜にこの刑罰を科すこともまれではなかった。

*とくにトルコ人はこの種の威嚇を得意としていた。ブダペストやウィーンの町の前で、彼らがこの刑罰行ったのが目撃されている。

*十八世紀中ごろ、モロッコで、ボカリーつまりスーダンで買われた黒人をもとに編成されたあの有名な「黒い衛兵」が反乱をおこしたときには、男や女や子供たちが何千人も串刺しにされた。

*同じ時代にダメオーでは、神々に捧げられた娘たちが、先のとがった柱でヴァギナを串刺しにされた。

*ヨーロッパでは宗教戦争のときに、とくにイタリアで串刺しが復活をとげたことが知られている。ジャン・レジェが語るところによると、一六六九年にピエモンテで、有力者の娘であったアンヌ・シャルボノー・ド・ラ・トゥールが槍で「あそこ」を串刺しにされた。執行人たちは、これは自分たちの旗印であるといって、その状態のまま娘を中隊の先頭に掲げて運び、四辻の地面に立てたのだった。

 

文献Aによると、突き刺す杭の先端はしだいに丸くなっていったという。それは、杭が体内を通過するとき、できるだけ臓器を傷つけないようにするためであり、できるだけ長く生かしておき、できるだけ苦しみを味あわせようという人間の残忍な欲求から出てきたものだ。

 

六. 切断刑

文献Aによれば、この刑は四肢を斧、ナイフ、剣、鋸で切ることである。文献Aより引用する。

 

*トルコの役人は今世紀(二〇世紀)初めに、マケドニアでこの残忍極まる刑罰を行っていた。囚人を生きたまま切り刻んだのち、その死骸の前で自分たちの写真を撮らせることもまれではなかった。

 

第二次世界大戦後に出版された『カプット』のなかで、マラパルテは、アンテ・パレヴィクのオフィスに迎えられたとき、人間の目が二〇キロも入った篭を目撃したと語っている。クロアチアの独裁者はその点において、それより九世紀前に一万五〇〇〇人以上のブルガリア人の目をくりぬいたビザンティン皇帝バシレイオスを手本にしたのである。

 

*今日でも、コーランの法を適用している国々で泥棒に対して片手の切断が定められ、実際に科せられている。その国々とはとくにモーリタニアサウジアラビア北イエメンスーダンパキスタン、そしてもちろんイランである。

 

七. 解体刑

解体刑とは、文献Aによれば「一定の順序により肉を切り離していく刑」である。文献Aから引用する。

 

ペルシア人ランゴバルド族は内臓摘出から始めた。タタール人は大鉋(かんな)を用いて肉と筋肉を長く厚めにそいでいった。

 

*ローマ人は解体のはじめに、女性は乳房、男性は男根を切り取ることが多かった。キリスト殉教史にはこのような切断を受けてから解体された例がたくさん記されている。

 

*しかし解体の真の名手は中国人である。彼らはこの刑罰を芸術の域まで高め、その手順を細部にわたって法典化した。

*マティニョン博士は一九世紀末に北京のフランス公使館にながらくつとめ、彼が立ち会った公開の解体刑に関する記述を残した。彼は次のように語っている。「慣習に従って、最初に乳房と胸の筋肉が切り取られた。次に腕の外側と腿の前部の筋肉の切除が行われた。それから体の残りの部分が、隅から隅までゆっくりと切り刻まれていった。血みどろの肉の切れ端が、そのために用意された柳の籠に積み上げられていった。数時間後に殉教者が死んだときには、その体はばらばらに解体されていた」

 

*処刑のはじめに、執行人は解体用のナイフを巧みに操って、囚人がわめき声を上げられないように囚人の声帯を切断した。

*中国の囚人が公開の場で解体されたという記録は二〇世紀初めにも見られる。一九二六年にはドイツ人の犯罪学者ロベルト・ハインドルが広東で公開の解体刑に立ち会い、次のように書いている。「処刑が行われているあいだ、見物人はおしゃべりしたり、笑ったり、煙草をふかしたり、果物を食べたりしていた」

*それより数年前、ヘンリー・ノーマンは別の目撃談を語っている。「囚人たちの足元にはくるぶしまで血がたまっていた。見物人たちは熱狂して歓声を上げていた。切り落とされた頭がボールのように芝生にころがった・・・執行人たちは膝まで真っ赤に染まり、その両手から血がしたたっていた」

 

*女性の死刑囚、とくに女性のキリスト教徒に対して事前に科せられる様々な拷問のなかでも、とくにむごたらしい「蛮行」は乳房の切断である。

*乳房は実のところ、そのエロティックでしばしば宗教的でさえある「役割」のため、体の他の部分にもまして、拷問者の残虐行為の対象となった。ナイフや鋏といった鋭利な道具で切断されたり、やっとこで引きちぎられたり、万力で押しつぶされたりしたのである。トルコ人とモロッコ人は、箱の蓋を勢いよく閉めて肉を引き裂くという特別な方法をとったことで異彩を放っている。

 

八. 切り裂き刑

文献Aによれば、この刑の一例は囚人が裸で大きな車輪の円周に縛りつけられる。そして車輪が回転すると、床に散りつけられた鉄の歯の上を通過し肉片を引きちぎられる。もうひとつの例を同書から引用する。

 

*切り裂きは執行人が鉤を操作することでも行われた。たとえばトルコ人は一六世紀から十八世紀にかけて、もっぱらこの方法を用いていた。受刑者は手足をのばして長い板か台の上に横たえられる。そのようにして固定されると、鉄の櫛や先が鉤の形をした熊手で肉、肋骨、鎖骨、肩甲骨と切り裂かれるのである。

 

九. 粉砕刑

文献Aによればこの刑は、囚人の体に大きな力を加え、押しつぶし、あるいはすりつぶし、死にいたらしめるというものである。文献Aから引用する。

 

*『殉教者行伝』によると、多くのキリスト教徒が様々な迫害で粉砕刑に処されている。古い文献の語るところでは、ギリシアの歴史家テオポンポスは柱にしっかり縛りつけられ、それから腹の上に、八人の男がようやく動かせるほどの大きな岩をころがされた。

 

ヘブライ人はダビデの治世下に同様のことを行った。円形劇場では、高いところから岩を落として死刑囚を押しつぶす刑罰が、見世物として行われていた。

 

*アフリカでは一九世紀に多くの民族がまだ粉砕刑を行っていた。ダメオーではペンチのように組み立てられた二枚の大きな石のブロックのあいだに受刑者がはさまれた。

 

ギリシア人、ローマ人、ゲルマン人が行っていた粉砕刑は、受刑者をすりつぶしてずたずたにするというものだった。彼らは重い木の大きな表面を使い、しばしばその上に石をのせたり、内側全体に鉄の爪を埋め込んだりした。それら全体が馬で引かれ、足枷をはめられ地面に横たえられた囚人の上を何度も通過するのである。

*ローマ人がそのために作った特製戦車には、表面全体に鉤と刃のついた、非常に幅が広く重い車輪が使用された。これはシリア人を手本としたものであった。

 

*エジプトでは受刑者を大きな鉢のようなもののなかに入れ、ぐしゃぐしゃになるまで上から杵で突くことが好まれた。

*ペルシアでは葡萄やオリーブを圧搾するのに使うのと同じ圧搾機のなかで受刑者を押しつぶした。

 

*加圧による粉砕は、体が形をなさなくなるまで、受刑者を少しずつ押しつぶすというものである。

*最も一般的なやり方は、二つの丸い引き臼を重ねそのあいだに受刑者をはさむというものであった。ときには二つの石が反対方向へ回転するように組み立てられることもあった。かつてカルタゴでは、またセイロンとインドでは一八世紀まで、受刑者を押しつぶすのに多くの象が使われた。受刑者は象に完全に踏みつぶされるか、象の前脚で頭だけぐしゃりとつぶされた。

 

一〇. 火刑

文献Aによれば、人類の歴史と同じくらい古くから存在したこの刑罰は、囚人を焼き殺してしまうものである。一四三一年のジャンヌ・ダルクの処刑は有名である。この刑罰は、ヨーロッパにおいて魔女の疑いをかけられた者にも行われた。魔女狩りに関して、文献Bから引用する。

 

*被疑者があくまで罪を否認すると、いよいよ拷問にかけられることになる。・・・それは五段階からなっていて、軽いものからだんだん重いものの及ぶようになっている。第一段では指を締める。ネジのついた二台の装置で、これに相手の二本の親指をはめこませてから、ゆっくり締めていって、血が吹き出すまで続けるのである。第二段は〈緊縛〉といい、ときには〈吊るしあげ〉ともなる。縄で相手の両腕を後ろ手に縛ってから、縄を左右にしごくようにすると、縄が肉にくいこむことになる。そのあとで、たいてい、天井まで吊るしあげて、かなりの時間そのままにしておく。その足に重石をつけたり、不意に縄をゆるめて落下させるや、すぐにまた上に吊りあげることもある。このやり方は、異端審問のそれと同じである。腕の脱臼はめずらしくないが、この場合は、拷問がすんでから執行吏が脱臼を直してやらねばならない。

*第三段は〈肝つぶし〉という。短い梯子のようなものに相手の手足を縛りつけ、その縄を大きいウインチにつなげば、くるくると回すことができる。すると相手は、右に左に引きまわされて肝をつぶすわけだ。ドイツ皇帝カール五世の定めた刑事法典であるカロリナのある注釈書によると、頑固に口を割らない被尋問者は、腹から後光のようなものが出るのが見えるくらいに、これで引きまわさなければならないという。

*第四段では、いわゆる〈スペイン風のブーツ〉に相手の足を入れさせる。やはりネジのついている装置で、ふくらはぎと脛骨をいっしょに締めつけるのだが、きつく締めつけると足の骨が折れることがよくある。ネジの下にクサビを突っこむと、ただでさえ痛いのがもっとひどくなる。この拷問に堪えられたとしても、たいてい不具になってしまう。最後の第五段は、火による拷問である。腕を伸ばした状態で縛られている相手の脇の下松明の焔で焦がすのだ。

 

*けれども、その随伴事情について何もわからなくても、裁判官の責め方と、容疑者の自白の内容が右のように一様であることから、このような迫害劇が狂宴にひとしいことはわかる。要するにマニアのような狂気のなすがままに、ある所見をあらかじめ作っておいて、この先入判断にあったように事実をでっちあげているのであって、本当にあった事実などには彼らは関心がないのだ。

 

*魔女妄想のために殺された犠牲者の数については、もはや正確なところはわからない。数十万人とも数百万人ともいわれる。この場合も、過大評価はしないほうが安全である。だが、火刑に処された者がほんの数十万であったとしても、当時の人口からいえば大変な数である。フランスやイタリアでは、すでに一五世紀には魔女や妖術使いがどんどん裁判にかけられていたのだが、ドイツでは一六世紀の終わりにやっと魔女迫害が妄想の形をとるようになり、まるで疫病のようなものになった。

*たとえば、ガルミッシュを中心とする南ドイツのウェルデンフェルス地方で、一五九〇年と九一年に一人の男が車刑に処せられ、四九人の女が魔女として火刑に処せられたが、この地方の人口が四七〇〇人であったことからいえば相当な数である。女のなかの最年長者は九四歳の老婆であったが、拷問されたあげくに悪魔との情交を自白している。ショーンガウでは、一五八九年に少なくとも六三人の女が火刑に処せられた。バンベルク司教区では、一五二四年から一六二五年までに三百件以上の火刑が執行された。ところが一六二五年から三三年までの間では、その数は二倍になり、死刑囚の中には、七歳から一〇歳の子供まで入っていた。特にひどかったのがヴェルツブルク司教区で、一六二五年から三一年にかけて約九百人が火刑に処された。死刑囚の中には、四人の司教座参事会員、八人の助任司祭、一人の医師、一八人の未成年男子、一人の盲目の少女、二人の女児かいた。

 

文献Aから引用する。

 

*一九一五年まで記録のある中国の方法は、もっと手っ取り早いが創意に富んでいる。それは石油やガソリンといった引火性の液体を何リットルも囚人に飲ませ、長い導火線を口から入れて胃までおろすというものである。それから導火線に火をつける。囚人は大きな火柱を吐いて爆発する。

 

一一. 肉を焼く

文献Aによると、火刑によると囚人はたいてい窒息で死亡する。しかし、「小火刑」による火あぶりは、火勢をしぼって、炎で意識のある受刑者の体を焼くのである。文献Aより引用する。

 

*またディオクレティアヌスのもとでは、もう一人の女性殉教者エウラリア・デ・メリダが判事のカルプルニウスによって、髪をつかんで町中を引き回され体にとけた鉛をかけられてから火あぶり台で焼かれる刑を宣告された。

 

*釜ゆでによる死刑は時間がかかり、恐ろしかった。しかし、ときどき行われていたように、受刑者が煮えたぎった鉛のなかに入れられると、鉛はほとんど瞬時に体をとかしてしまった。

 

*「釜ゆで」にされたり「フライ」にされたりした古代史上最も有名な人物は、マカバイ記に七人兄弟として出てくる人々である。聖書は彼らの殉教について語るときその名をあげていないのである。七人兄弟の殉教は野蛮な時代における刑罰の風習をよく表している。

*彼らは紀元前一八年に、エルサレムを占領したばかりのシリア王アンティオコス・エピファネスの命令で逮捕され、捕虜としてアンティオキアに連行された。・・・王は七人兄弟のために、鍋や釜を火にかけさせた。鍋や釜が沸騰すると、兄弟を代表して話した者を引き出して舌を切り、頭の皮をはがし、両手を切断してから、油のいっぱいはいった大鍋に入れて焼き殺した。

 

宗教戦争は焼き網と焼き串を復活させた。ジャン・レジェが一六六九年に出版した『ピエモンテ峡谷福音教会全史』から、一六五五年に行われた虐殺に関する詳しい記述を引用しよう。「ボビのモイーズ・ロングの一〇歳になる娘はピエモンテの兵士たちに捕らえられた。彼らは娘を生きたまま槍に刺し、大きな火をたいて串焼きにした」

 

*焼けた鉄もアジアの死刑執行人たちによって、むごい方法でもちいられた。金属の小さい玉を真っ赤に焼き、ピンセットを使って、囚人の頭蓋にあらかじめ開けておいた穴に入れたのである。囚人の脳味噌は沸騰しはじめ、穴からふきこぼれた。

 

一二. 鋸引き

文献Aによれば、鋸引きとは鋸を用いて人体を切断してしまう刑である。それは、上下の切断と、左右の切断の二つがある。文献Aより引用する。

 

*聖書の伝承によると、聖書の四大預言者のひとりでユダヤ人の王侯アモスの息子、ユダ王国のアマジア王の甥ともいわれるイザヤはそうして命を落とした。マナセ王に死刑を宣告され木製の鋸で真っ二つに切断されたと、ユダヤ教の教典タルムードに書かれている。

 

文献Aの一八八ページには、この刑の執行を描いた恐ろしい図版がある。ディオクレティアヌス帝の命令により、逆さに吊るされた体を又から両手の鋸で真っ二つにされるキリスト教徒。ディオクレティアヌスはカリグラと同様にこの種の死刑をとくに好んだ。さらに文献Aから引用する。

 

ユグノー教徒がフランス中部のカトリック教徒に科していた、一種変わった鋸引きについてふれておかねばなるまい。裸にされた受刑者はぴんと張った綱の上にのせられ、綱の下でくるぶしに足枷をはめられる。二人の男が腕をつかみ、綱の上でバランスをとりながら受刑者を勢いよく引き、三人目の執行人が囚人の尻を押す。そうして何度も往復させるうちに、綱は鋸と同じ効果を発揮して、囚人は真っ二つに切断されるのである。

 

一三. 矢で射る、突き刺す

文献Aから引用する。

 

*突き刺し刑はとがったもので組織や肉を刺し貫くというものである。この刑罰には数えきれないほどの種類があり、ほとんど世界じゅうで実施されていた。

カルタゴ人はローマの将軍マルクス・アッティリウス・レグルスをこの方法で殺した。将軍は、約束したとおり、ローマへ使者としておもむいたのち自ら捕虜になるためもどってきたのだった。

*しかしカルタゴ人たちは異例な方法をとった。内側に鉄の刃やとげを取りつけた樽にレグルスを閉じこめ、四方八方から刺されて死ぬまで坂道を何度も転がしたのである。

宗教戦争のあいだには、修道士たちが改革派によって体中に長い釘を刺されることがあった。二〇世紀の初めにアレクサンドラ・ダヴィッド=ニールが伝えるところによると、チベットでは体中に長い釘を刺す処刑が続けられていた。一九一七年にはトルコ人アルメニア人の捕虜の足を鉄で釘づけした。

 

文献Aの一九八ページには恐ろしい図版がある。トルコの死刑であり、高いところに取りつけられた十字に組み合わされた先のとがった杭に、四人の囚人が胴体を突き刺さされ、空中にさらされているのだ。囚人が死ぬのに数日かかることもあったという。

また同書一九九ページには、「ニュルンベルクの処女」と呼ばれた囚人の体に多数のとげを刺すための恐ろしい刑具の図版がある。同書から引用する。

 

*受刑者はこの種の棺に閉じこめられ、その非常に長く鋭いとげに貫かれた。とげの配置は、体のすべての部分を貫いても生命の維持に必用な器官はいっさい傷つけないように研究された。そのため犠牲者は非常に長い時間苦しむことになった。グスタフ・フレイタグが伝えるところによると、一五一五年に偽札を作った男に対してこの種の処刑が初めて実施されたが、男は三日間苦しんだという。

*この刑具は、スペインでは一六世紀まで「マーテル・ドロローサ(悲しみの聖母)」の名で、宗教裁判所によって使用された。これはニュルンベルクの処女とは異なっていた。こちらは受刑者を胸のなかに閉じこめるのではなく、関節のある二本の腕で受刑者を抱きしめ、窒息するまで強く押さえつけた。そのあいだに、鋼鉄のとげが彫像の心臓から出てきて受刑者の心臓を貫き、それ以外にも二つの刃が目から飛び出すのである。

 

一四. 車刑

文献Aによればこの刑は、打撃により手足の骨八本と、とどめとして肋骨を骨折させ、その後その体を高く掲げられた車輪に縛り付け、太陽に向け、死ぬまで放置するという残忍な刑罰であり、一般には知られていないが、一九世紀頃までひんぱんに行われていた刑罰である。フランスではこん棒で打ち砕かれたが、ドイツでは車輪を落下させて骨を砕いたそうである。文献Aより引用する。

 

*車刑と名づけられた死刑は、体を車輪に縛りつけられ、生きながら打ち砕かれるというものである。しかしながらアンリ四世の治世以来、囚人は処刑台に平に置かれたX十字架の上で打ち砕かれ、車輪は苦しむ囚人をさらしておくために使われたにすぎない。

 

文献Aによれば一七世紀において、わずか一五歳、ときにはもっと小さな少年少女が打ち砕かれることもまれではなかった。文献Aから引用する。

 

*車刑が手足を打ち砕くのに対して、マソーレの刑は「叩いて壊す」という基本は同じだが、こちらはもっぱら頭を打ち砕いた。・・・一五九八年から一七〇〇年のあいだに、アヴィニョンでは六〇〇件をこえる処刑が行われた。囚人は左右のこめかみを殴られてから(これだけでも普通は死んでしまう)、火あぶりにされた。・・・インドでは手足の骨を打ち砕いてから、頭にとどめの一撃を加えた。オリエントのいくつかの国では、死刑囚は生きたまま、頭だけ地面から出るように首まで埋められ、長いあいだ太陽にさらされたのち、執行人に小槌で頭を打ち砕かれた。

 

一五. 四つ裂き刑

これから最も恐ろしい刑罰とされる「四つ裂きの刑」を紹介する。これは、手足を馬などに引かせ胴体から引き抜く恐ろしい刑罰である。この刑罰は広く行われてきたが、その様子が詳細に記録された例は少ない。たぶんこれから紹介するものが、この刑罰のものすごさを詳細に伝えている唯一のものなのかもしれない。文献Aからかなり長く引用する。

 

*四つ裂きはトラキア人のあいだでも行われていた、とヘロドトスは述べている。ガリアに侵入したほとんどすべての民族においても同様であった。六世紀のゴート族の歴史家ヨルダネスによると、アマラリク王は脱走兵の妻を荒馬で四つ裂きにさせたという。

 

ミシュレは『フランス史』のなかで次のように書いている。「パリの高等法院はぞっとするほど残忍な熱意を示し、情けないことに刑罰で公のご機嫌をとろうとして、この死にかけた悲惨な肉体に、殺さずに苦痛を与えることのできる刑罰を次々に科した」。処刑そのものについては以下の通りである。

「彼が柱に縛りつけられると、執行人がやっとこで両方の腿から肉を引きちぎり、次に両腕から肉をはぎ取った。四本の手足つまり四本の骨は、四頭の馬に引かれることになった[・・・]。馬に乗った四人の男が馬に強く鞭を入れ、四肢につながれた綱を激しく引っぱった。しかし筋肉はもちこたえた。執行人は大きなきざみ包丁を持ってこさせ、上下の肉を大きく切り取った。そこで馬たちはなんとか仕事をやりとげることができた。筋肉がきしみ、はじけ、そして裂けた。生きている胴体が地面にころがった」

そしてミシュレはこうつけ加える。「それ以上生かしておいても仕方がないので、執行人は首を切らなければならなかった」

 

*それ以外に何度か未遂のテロがおきたのち、一六一〇年五月一四日にフェロヌリー通りで、ラヴァイヤックが短刀で二回刺した。今回は、国王(アンリ四世)は死んだ。

犯人は弓兵たちにとり押さえられた。彼も宗教と信仰のために犯行におよんだと言ったが、だれにナイフを渡されたのか自白させるため、ひどい拷問にかけられた。しかし無駄であった。この男にもむごい刑罰を科すべきであると、人々は考えた。マリ・ド・メディシスは生きたまま皮をはぐように強く勧めたが、四つ裂きよりも恐ろしい刑罰はなかったので、そうすることに決まった。

彼は通常尋問と特別尋問を受けたのち、処刑のまえに、ルイ一五世を襲撃したダミアンとまったく同じ方法で様々な虐待を受けた。硫黄、溶けた鉛、煮えた油、火のついたタールと樹脂で焼かれてから、「体中を」切りきざまれ、最後にグレーヴ広場で四肢を引き裂かれた。処刑は長い時間続いた。というのもラヴァイヤックは背が高く、力も強かったからである。一時間近くも引っぱり、馬たちがへとへとになっても、手足はまだ抜けなかった。ようやくもだえ苦しむ胴体だけとなるには、さらに長い時間が必要だった。

 

*ラヴァイヤックの処刑ののち、民衆がまた四つ裂きを目にすることができるまで一世紀半ほど待たなければならなかった。そのとき四つ裂きにされたのはロベール・フランソワ・ダミアン、ヴェルヌイユーサントリューズという地方のブルジョワ夫人の元下僕で、パリのイエズス会士たちの召使もつとめていた。

一七五七年一月五日、ヴェルサイユの城で、この性格異常者はルイ一五世の右脇腹をナイフで切りつけた。そのときの国王はトリアノンに行くため馬車に乗ろうとしていた。寒さが厳しく、国王は着ぶくれしていたうえに、裏に毛皮のついたコートを二枚着ていたので、ナイフの衝撃は和らげられた。

国王は出血したが傷は軽かった。国王付きの外科医のラ・マルティニエールが傷を調べ、それほど深くないし危険でもないと診断した。

ダミアンはその場で逮捕された。同じヴェルサイユ宮殿で、彼はただちに数人の衛兵によって真っ赤に焼いたやっとこで拷問をうけた。国璽尚書(こくじしょうしょ)のマショー・ルイエ自ら衛兵たちに手を貸した。

ナイフの刃に毒がぬられていたといううわさが流れたため、国王は告解を行い、終油の秘蹟を要求し、自室ミサをあげさせた。しかし彼はなんともなかった。何人かの証人によると、それと反対に、国王は「あまり苦しめないように」頼んだのであり、すべては仕事熱心な判事たちと宮廷の人々が考えたことだという。しかし国王は非難されても仕方がなかった――民衆は実際に非難した。判決がでたあとで恩赦を与えなかったし、「たいした傷を負わせたわけではなかったのに、あれほど恐ろしい最期をとげさせた」のだから。

ヴェルサイユからパリ高等法院の監獄に連行されると、ダミアンは狭い独房に閉じ込められ、一〇〇人の兵士が牢獄の警備にあてられた。当局と国王は背後で大きな陰謀が進行していると信じていたのである。

精器を噛み切って自殺しようとしたので、ダミアンは常にベッドに縛りつけられていた。丈夫な革紐で手足をがんじがらめに縛られ、革紐は天井に埋めこまれた環で固定された。「紐が解かれるのは、やむにやまれぬ欲求を満たすときだけであった」。彼はそうして二か月も縛られていた。

共犯者を自白させるため、一〇時間にわたり通常および特別尋問が行われた。彼は口を割らず、どんなにひどい拷問を受けてもこう繰り返すだけだった。「国王を殺す気はなかった。その気があれば殺していたさ。神が国王に罰を与え、それで国王がすべてをもとにもどし、再び国を平穏に治めるように、切りつけただけだ」。胃に大量の水を入れられ(著者注:同書によれば、フランスでは当時、通常尋問で九リットル、特別尋問で一八リットルもの水を飲まされた!)、腕をやっとこで切り裂かれ、足首を足枷で砕かれ、胸と手足を真っ赤に焼いた鉄で焼かれても、彼はあいかわらず同じことを言い続けた。

特別尋問がすむと、彼はもはや動くことも立っていることもできなくなっていた。彼は頭だけ出して皮袋に入れられ、袋の口を縄で縛られた。高等法院の判事たちの判決を聞くため、下僕たちがそうして彼を運んでいった。判決は一五〇年前にラヴァイヤックの前で読まれたものとまったく同じであった。「被告をグレーヴ広場に連行し、そこの設けられた処刑台の上で、胸、腕、腿、ふくらはぎを焼いたやっとこで締め付けること。ナイフを握り君主殺しの罪を犯した右手は、硫黄の火で焼くこと。やっとこで締めつけたところには、融けた鉛、煮えた油、火のついたタールと樹脂、硫黄を溶かしたものを流すこと。それがすんだら四頭の馬で引かせて手足を引き抜き、体を燃やし灰にしてまくこととする」

処刑は午後四時にグレーヴ広場で行われた。まさに人の海といってよい大群衆が朝から待っていた。屋根の上にまで人々がいた。貴族たちは金貨四〇ルイを支払ってまで、二階と三階の窓を借り切った。

広場の中央に柵でスペースが作られており、兵士たちがまわりを取り囲んでいた。その真ん中に二つの処刑台があったが、いずれもそれほど高くなく、むしろ幅が広いと言えるものであった。

一つ目の処刑台は罪人の手を焼き、焼いたやっとこで肉を締めつけるためのものであった。二つ目のもう少し低い台に、罪人の体を縛りつけて四つ裂きにするのだった。処刑を行う二人の男は、ランスの執行吏にしてパリの名誉執行吏であったジルベール・サンソンと、その甥であるパリの公式執行吏シャルル=アンリ・サンソンであった。シャルル=アンリ・サンソンはこの有名な死刑執行吏の家系で最も名の知れた執行吏となったが、当時わずか一九歳であった。数年後、彼はルイ一六世の処刑を行うことになる。二人の男は、執行吏の伝統的な服装である青い半ズボンをはき、刑架と黒い梯子の刺繍をほどこした赤い上着を着て、淡い紅色の二角帽をかぶり、剣をさしていた。二人を補佐する一五人の助手と下僕はそれぞれ黄褐色の皮の前かけをしていた。

四頭の強健な馬を先頭にして、行列がグレーヴ広場に到着した。それらの馬は、処刑の前日にシャルル=アンリ・サンソンが四三二リーヴルという大金で買ったものだった。ダミアンは袋から出され、一つ目の台に引っぱり上げられた、その間にサン=ポール教会の司祭が祈りを唱えた。ダミアンは横たえられ、半円形の二つの鉄の止め金で固定された。止め金は脇の下と足のつけ根で体を固定し、処刑台の下にねじでとめられた。ジルベール・サンソンは、ダミアンの手に襲撃に使ったナイフを握らせ革紐で縛った。それから、炭火が赤々と燃える火鉢に近づいた。火鉢からは硫黄の鼻をつく蒸気がもうもうと立ちのぼっていた。受刑者はすさまじい叫び声をあげ、いましめのなかで身をよじった。五分後、彼の手はもはや存在しなかった。彼は頭をあげ、歯をならしながら手の切れ端を見つめた。硫黄の火傷が血をとめたので、切断されたところからは出血していなかった。そこで執行人の助手たちがダミアンのいましめを解き、地面に寝かして服を脱がせ、半ズボンだけにした。レグリという名の助手が炭火で燃やした長いやっとこをつかむと、犠牲者の胸、腕、腿を締あげた。そのたびにやっとこが肉片を引きはがし、恐ろしい傷を残した。それらの傷には、他の助手たちが融けた鉛や炎をあげる樹脂や溶けた硫黄を流していった。グレーヴ広場全体に肉の燃える吐き気をもよおすような臭いがたちこめていた。

歴史家のロベール・クリストフはこう書いている。「苦痛に正気を失って、ダミアンは拷問者たちを励ましているように見えた。傷つけられるたびに、『もっと! もっと!』と叫ぶのであった。彼はよだれをたらし、泣き、その見開いた目は眼窩から飛び出しそうだった。とうとう彼は気を失った」。彼が意識を取りもどしたときには、二つ目の処刑台に降ろされていた。こちらの台はもっと小さく、高さは一メートルもなかった。苦痛に疲れ果てて、彼は意識がないように見えた。それから手足を広げて、中心を釘づけされた二枚の厚板つまり一種のⅩ十字架の上に置かれ、上半身を二枚の板できつくはさまれた。二枚の板は十字架に固定され、四肢につながれた馬の一頭が全身を引きずっていかないようになっていた。鞭を持った助手が各自の馬を進むべき方向へ導いた。シャルル=アンリ・サンソンの合図で、恐るべき四頭立ての馬がそれぞれ反対方向へ走り出した。綱がぴんと張りつめ、手足がぐいと引きのばされた。受刑者は恐ろしい叫び声をあげた。三〇分ほどたったころ、手足の力を弱めるため、シャルル=アンリ・サンソンは足につけられた二頭の馬に方向を変えるように命じた。囚人に「スカラムーシュの足開き」をさせる、つまり両足を体にそって左右に高く上げさせるためである。四頭の馬は平行して同じ方向へ引くことになった。大腿骨がついに折れたが、手足はまだ抜けず引きのばされたままだった。

一時間も懸命に引っぱって馬たちは汗だくになり、さんざん鞭でたたかれすっかり疲れ果てていた。ジルベールとシャルル=アンリ・サンソンは不安にかられた。あまり働かせたので馬の一頭は倒れ、なかなか起き上がらせることができなかった。しかし叫び声と鞭に駆り立てられ、馬たちはまたしばらくのあいだ全力で引かされた。

サン=ポールの司祭は気を失い、多くの見物人も同様の状態だった。しかしすべての者がそのように気が弱かったわけではなかった。

ロベール・ド・ヴィルヌーブがその著書『刑罰博物館』でこう述べている。「ダミアンが叫び声を上げているあいだ、女たちは金持ちの物好きにフェラチオを行っていた」カサノバはその『回想録』で、ティレタ・ド・トレヴィーズ伯爵が、窓から身を乗り出して処刑を眺めている貴婦人をうしろから四回もものにしたさまを長々と伝えている。シャルル=アンリ・サンソンはとうとう外科医のボワイエに、市役所に行って判事たちに「太い筋を取り除かなければ手足を抜くのは不可能だ」と伝えてほしいと頼んだ。ボワイエは必用な許可を得てもどってきたが、肉屋がするように肉を断ち切ることのできる先のとがったナイフが見つからなかった。とうとう下僕のレグリが斧をとり、手足の関節に振り下ろした。血が噴き出し、下僕にはねがかかった。

ふたたび鞭がうなり、馬たちが全力で走りだした。今度は二本の腕と一本の足が抜け、一気に空中をとんだ。そのあいだにも裂け目から血が勢いよくほとばしり出て舗道をぬらした。

足が一本だけとなったダミアンは、まだ息をしていた。髪が逆立ち、数分間で黒から白へ変わっていた。いっぽう彼の胴体は痙攣し、何人かの目撃者によると、唇はなにやらしゃべろうとしていた。彼はまだ息をしているうちに、火刑台に投げこまれた。ヴォルテールが言うには、「荷車七杯の薪が必用だった」。さらにロベール・クリストフはこう書いている。「この日、人々の心のなかでフランス革命が始まった」

これらすべて、「光の世紀(啓蒙時代)」のさなかにおきたことである。二度とふたたび行われることのなかったこの驚くべき殺戮ののち、ジルベール・サンソンは死刑執行吏の職務を放棄した。甥のシャルル=アンリは手際の悪さを非難され、数時間牢屋に入れられた。ダミアンの判決には、彼の家を取り壊し、建て直すことを禁じると記されていた。妻と娘と父親は王国を離れなければならず、もどってきたらただちに死刑に処されることになった。兄弟と姉妹は名前を変えなければならなかった。

アミアンの町は世間をはばかって、「卑劣な君主殺しの名とあまりにも似ている」ため、町の名を変えると申し出た。

民衆といえば、この出来事を快く思わなかった。上流の人々の多くはのちになって、哀れな男が死ぬのを見るために法外な値段でバルコニーを借りた代償がいかに高くつくか知ることになる。

大革命のときには、いくつかの古い刑罰とともに、四つ裂きは消滅した。それ以来、罪人たちはもはやあまりの野蛮な刑罰を受けることはなくなり、ギロチンに上がるときには一枚の黒い布で頭を包んでもらえるようになった。

 

文献Bには次のようにある。

 

*こんなことが、たった二百年前のできごとで、それも、慈悲心のひとかけらのもなく物欲しそうな無数の群集の目前で起こっているということは、いまいちど強調されなければなららない。ここでルイ一五世の名誉のために一言しておかねばならないことは、処刑の経過報告を受けた国王が眼に涙を浮かべていたという話で、ダミアンのために泣いてやったのは国王たった一人だったということである。

 

一六. 石打の刑

この刑は死刑囚に石を投げつけて殺す刑である。文献Aより引用する。

 

*石打はかつて、ほとんどすべてのイスラム教国、とくに地中海東部周辺の国々でさかんに行われていた。・・・現在(一九九四年)八つのイスラム教国で姦通の罪や肛門性交、同性愛、強姦といった性的犯罪に対する罰として、石打の刑が実施されている。

 

*以上の国々の裁判所は今(一九九四年)でも石打の刑を宣告している。イランでは過去二年間に、六〇〇人以上の女性が石打の刑に処されたという。

 

*ある目撃者はこう証言している。「一台のトラックが処刑場のそばに石を一山ぶちまけた。白い服を着て、頭に袋をかぶせられた二人の女が連れてこられた。[・・・]石の雨の下で、頭の袋が赤い血で染まった。[・・・]女たちが地面に倒れると、革命軍の衛兵たちがシャベルで頭を打ち砕き、女たちが完全に死んだことを確認した。[・・・]アッラーは偉大なり!」

 

一七. 溺死刑

溺死刑とは、人を水に沈めて窒息死させるものである。文献Aより引用する。

 

*しかし、いずれの民族も独自の方法を持っていた。ゲルマン人ガリア人が沼で溺れさせるのを好んだのに対して、ローマ人は長いあいだ「カレウスの刑」を用いていた。この名は液体を運ぶのに使う皮袋に由来する。紀元前五世紀にローマの刑法の規則を定めた十二表法、すでにこの刑罰のことが出てくる。それによると、「自由人」を殺した者は鶏、猿、猫、蛇といった動物とともに皮袋に入れられ、溺死させられることになっていた。動物の選択は強固なシンボリズムに基づいて決められていたことはまちがいない。次に袋におもりがつけられ、水に投げこまれる。

 

文献Bより引用する。

 

魔女裁判にこれが用いられたのがそのよい例である。この場合は、容疑者を裸にして、右手の親指を左の足首にむすびつけ、左手の親指を右の足首にむすびつけて、これを水に投じるのである。相手が浮かびあがると有罪だと認定されたのは、水は不浄を忌んでこれを受けつけないという昔からの俗信にもとづいていた。

 

*魔女の容疑者を水で吟味する手続きは、いつでも群集の面前で行われていた。それがきわめて嗜虐的な見世物であるだけに、見たがる人が多かったのだ。

 

文献Aより引用する。

 

*水は、人を沈めるだけでなく、人に飲ませるために使われることもある。「水責め」の名で知られるこの刑罰は、その名が示す通り、囚人に大量の水を飲ませるというものである。犠牲者は横棒の上に寝かされ、さらに強く引きのばされる。執行人は、囚人の喉の奥にさしこんだ漏斗に、または通常の呼吸ができないように口をおおった布の上に、ゆっくりと、しかし途切れることなく水を注ぐ。少しでも空気を吸おうとすれば、囚人は水を飲みこむので、ゆっくりと溺れていくのである。

しかしフランスではこの刑罰に規則が設けられていて、「小尋問」では九リットル、「大尋問」と「特別尋問」では一八リットルと決められていた。

それによって多くの囚人が死ぬことはあっても、表向きの目的は受刑者を殺すことではなく、罪を告白させたり、共犯者の名を聞き出したりすることであった。

ときには真水のかわりに塩水や酢が用いられることもあった。有名なクラランス公ジョージ・プランタジュネットは、エドワード四世の命令で、マルヴォワジー酒を飲むことが許された。彼は死ぬまでワインを飲まされたのであった。

水責めにはもうひとつの方法がある。ローラン・ド・ヴィルヌーブがスエトニウスの話を引用して述べている通り、それはティベリウスが考案した方法で、囚人に大量の水を飲ませてから、尿を出せないように陰茎をかたく縛るというものであった。

 

一八. 絞首刑

文献Aによれば、この刑は首を輪にした縄に通して吊るすことにより、いくつかの生存に不可欠な機能を停止させることにより、死にいたらせるものせある。文献Bから引用する。

 

*たとえば一八世紀の終わりには、首を絞められる苦痛の長く続くのを、もっと迅速で徹底した方法に変えようとする試みがあった。イギリスで発明されたいわゆる「ロング・ドロップ」がそれで、死刑囚の首に縄をかけてから、かなり長い空間にその身体を吊るすのである。こんな状態で落とすため、首の骨が折れるか曲げられるかして、いずれにしても、一瞬に意識が失われて迅速に死ねるという。

 

しかし、この安楽死案は実に疑わしい。実際に見た者の証言によれば、きわめて苦悩のうちに絶命するようだ。この方式は日本でも行われている。縄を首にかけられた死刑囚は、三人の執行吏のボタン操作――そのどれかひとつが本当の操作ボタンとなっている――で床が抜け、床から数メートル下に落とされる。文献Aから引用する。

 

*絞首刑はすぐに庶民のための見世物になったため、死刑執行吏は通ぶった庶民を前にしてその腕前を誇示するだけでなく、とくに集団処刑の場合、刑の執行を「演出する」ようになった。彼らは処刑の「美学」に目を向け始める。

 

*かつて広く行われてきたのは首吊りだけではなく、四肢を吊る方法もかなり実行されていた。しかし普通これは補助的な刑罰を伴った。たとえば腕吊りは火の上で執行されたし、足吊では犬に食い殺された。この足吊は時間を要する、恐ろしい見世物であった。

 

*処刑に時間をかける国もあった。トルコでは一九世紀になっても絞首刑受刑者の手を自由にさせていた。そのため受刑者はしばらくのあいだ、頭上の縄を掴むことができるが、やがて力尽き、再び吊るされるがままになり、長い断末魔を迎えるのだった。

 

*すでに指摘したように、処刑用具であり見世物用具である絞首台、晒し台はヨーロッパだけでなく近年の植民地の、ほぼすべての町や村に常置されていることがおおかった。

町や田舎の住民は耐え難い恐怖に襲われそうなものだが、実際は逆であった。人々は絞首台でねじ曲がった体が揺れていても気にもしなくなる。民衆に印象づけようとしてかえって無関心にさせてしまったのだ。フランスでは「万人のためのギロチン」が登場する大革命以前の数世紀間、絞首刑は「気晴らし」、「娯楽」になっていた。

 

公開絞首刑が見せしめにならないというもう一つの例は一八二〇のものだ。二五〇人の死刑囚に関するイギリスの調査によれば、そのうち一七〇人が一回以上処刑の現場を見たことがあるという。一八八六年の同様な調査では、絞首刑を宣告されてブリストル監獄に拘留された一六七人のうち、処刑を見たことがない者はたったの三人だった。

絞首刑は領地や所有物に対するあらゆる侵害だけでなく、ごくわずかな違反さえも罰するものになっていた。下層民からは信じがたいような首吊り要因が出た。すべて口実であった。

一五三五年、あごひげは貴族や軍人を他と区別するためのものであり、剃らなければ絞首刑に処す、とされていた。ちょっとした盗みでも絞首台行き。蕪(かぶ)を引き抜いても、鯉を釣っても首に縄。さらには一七六二年には刺繍入りの小さなナプキンを一枚盗んだかどで召使がグレーヴ広場で処刑された。

 

*一八世紀、絞首刑の日は休日となった。一九世紀初頭、イギリス中でまだ絞首台が常置されていた。その数は道標になるほど多かった。

完全に腐るまで死体を絞首台に掛けて晒す方法は一八三二年まで続き、首吊りに処されたジェームズ・クックなる者の絞首台と腐った死体が、溜まり場のように日曜日の散歩者を集めるようになって中止された。

アーサー・ケストラーの絞首刑に関する考察によれば、イギリスでは一九世紀になっても絞首刑は巧みに段取りされたセレモニーであり、上流階級はそれを第一級の見世物と考えていた。イギリス中をまわれば素晴らしい絞首台に立ち会うことができた。

一八〇七年のホロウェイとハジャティーの処刑には四万人以上の人々が集まった。このセレモニーで群集に踏みつけられて死んだ者は一〇〇人にのぼった。一九世紀にはヨーロッパではすでに死刑を廃止していた国もあったにもかかわらず、イギリスでは七、八、九歳の子供も絞首刑に処されていた。子供の公開絞首刑は一八三三年まで続く。

 

さらに文献Bから引用する。

 

*刑場では、たいてい、数時間前からもう、物見だかい群集が集まっていた。とりわけ、死刑囚が知名度の高い人物――特に悪名高い強盗犯人でもよい――である場合には、その処刑されるのを見たがる人はずいぶん多くなる。一七七七年にタイバーンで行なわれたドッド博士の処刑には、三万人を越える野次馬が集まったらしいが、当時のロンドンの人口は一〇万人くらいであったことから考えると、これは大変な数である。

こういう機会には大さわぎが起こる。販売ケースを首から掛けている行商人が、大声をはりあげて客を呼んでいた。混乱のため負傷する者、はては踏み殺される者まで出ることがあった。

 

*刑場の準備ができて本来の処刑がはじまると、群集の目は、死刑囚のみせる死との戦いに集中される。同時代の人の手記によれば、「その身体がぴくぴく引きつるたびごとに、喝采か嘆声かがあがるのだが、どちらになるかは、相手が憎まれているか愛惜されているかによる。呪いの言葉がひびきわたる一方では、行商人たちが大声で叫びつづけている。貧富貴賤を問わず、処刑の実況を楽しんでながめながら、不幸な死刑囚の苦しみを種にした野次をとばしている」という。

 

信じ難いことたが、当時(文献Aによれば一八三三年まで)のイギリスでは、死刑は六歳以上に適応され、スプーン一本盗んだくらいで子供が処刑されたという記録が、多数あるそうである。些細な犯罪なのに裁判で死刑を宣告され、多くの子供が車で処刑場であるタイバーンに連れていかれ、公開処刑されたそうである。

絞首刑に関連したものとして、文献Aの三一四ページには、トルコにおける残忍な処刑の図版があり、囚人は高さ数メートルのところにあるフックにその胴体を突き刺されて死ぬまで放置される。

また同書の三一一ページには、これもトルコの恐ろしい処刑の図版があり、囚人は右手と右足の先端を地面から数メートルの高さにあるフックに突き刺され、ぶらさげられている。この宙吊り状態で死ぬまで放置されるのである。

 

一九. 銃殺刑

この刑は、たいてい複数の射手により弾丸を受刑者に撃ち込み、死に至らしめるものである。しかし、この刑にも問題点はある。それは、即死させることが難しいことだ。文献Aによれば、銃殺隊から放たれた複数の銃弾が、受刑者の急所に命中することは少ない、さらにはその銃弾の数割しか受刑者に命中しない――これは射手の心の動揺からくるものである、と文献Aでは判断されている。だから、受刑者は苦しみ、さらなる銃撃を必用とする残酷な処刑となることが多いのである。文献Aから引用する。

 

*銃殺刑で、一度目の一斉射撃後にも受刑者に意識があることはよくあるが、苦痛を長く味わわせるために、一回目には殺さないよう、銃撃隊に命じられることもまたある。

たとえば一九八六年、ナイジェリアのニジェール州軍事司令官は重窃盗罪の死刑囚の処刑を、踝(くるぶし)を狙うことから始める連続的な一斉射撃で執行することを命じた。州政府のスポークスマンによれば、「この断続的一斉射撃は、強盗犯たちに罪を償わせるためではなく、死ぬまで苦しめるために必用なのである」

一斉射撃は多くの場合即死をもたらさず、士官か下士官がその後一人でとどめの一発という忌まわしい任務を遂行しなければならない。

 

*銃撃ではなく砲撃がなされることもある。フランス革命期、リヨンのブロットー平野で行われた処刑はその悲惨さで名高い。一八七六人が鉄屑弾を詰めた大砲で処刑されたのである。

アフガニスタンでは、一九一八年になっても政治犯は砲撃で処刑されていた。一九一三年、政府に対する陰謀が発覚した際、首謀者九人が捕らえられ、この方法によって公開処刑された。一人一人大砲の口に縛りつけられた受刑者の体は発砲と同時に粉々に砕けた。この種の処刑法はヨーロッパや北アフリカでも行われていた。

 

*火薬の発明によって新しい楽しみが可能になった。一六世紀にプロテスタントが思い描き、後の竜騎兵の時代にカトリック教徒が行った楽しみである。受刑者が男ならば肛門から、女なら膣から、漏斗を使って火薬を詰め、砲弾のように飛ばすのである。

中国でも二〇世紀初頭、受刑者に大量の揮発油を飲ませ、導火線を口から胃まで入れて吹き飛ばした。口から五センチから二〇センチ出ているこの導火線の先端に火を付けると、受刑者は大きな火を吹いて爆発した。

 

第三節 グリムメルヘンの中の残忍性

前出のマレ「首をはねろ!」の中から、我々の恐ろしい残忍性が現れている部分を紹介していきたい。この日本版の題名はドイツ語「KOPF AB!」の直訳であるが、ショッキングであり、印象深く、誰もが誘惑される題名である。この本は題名も良いが内容も円熟している。内容は、太古からの言い伝えであり、人間の本性がそのまま歪曲されることなく、偽装されることなく書かれているドイツのメルヘンの中から、我々の暴力、残忍性に関する部分を抽出し、解釈しているものだ。マレ氏はこの本の中に、我々が普段は口にもできないようなおぞましく、いやらしく、恐ろしいものの存在や、不快の中和のための恐るべき行動を確認している。まず「まえがき」より引用する。

 

*暴力につぐ暴力――神話や伝説のなかでも、旧約・新約聖書のなかでも、その繰り返しである。人間の歴史や現実の中でも同じである。太古の昔から暴力が人間の生活と結びついていたという否定できない認識を得た後、わたしは改悛の気持をいだいて、メルヘンにまた戻ってきた。・・・具体的な、しばしば露骨な姿や光景によって、メルヘンは間接的で隠微な暴力から、情容赦のない残酷な殺害に至るまでのあらゆる種類の、人間の暴力行為を提示する。しかもメルヘンは、道徳や、社会的規範や、キリスト教箴言や、刑法典などを全く無視する。・・・メルヘンは、暴力があらゆる社会領域に浸透していることを証明する。暴力はまず家庭の中で用いられ(それもさかんに!)兄弟や姉妹の間でも用いられる。同じように職場の仲間同士や、協力者同士や、友人同士や、とりわけ夫婦の間でもさかんに用いられる。また暴力は教育や、商売の競争や、政治にも姿を現す。これらの暴力を描く場合、メルヘンの筆法は常に驚くほど現実的である。

 

次に「暴力の楽しみ」という章より引用する。

 

*こん棒、袋から出ろ! (KHM三六「テーブルよ、食事の支度!」)――表題のような一言の命令があるだけでいい、こん棒はたちどころに、袋なり、篭なり、リュックサックなり、小さい樽から飛び出して、こん棒の持ち主が殴ってみたいと思う相手を、誰かまわず殴る。こん棒、杖、槌は、いろいろなメルヘン類輪の中で、「やめろ!」という声がかかるまで、殴るという作業をつづける。・・・誰もが自分の身を守ることを許されているし、防御としての暴力も許されている。さらに、悪い相手がさんざんに打ちのめされることはしごく当然である。このような前提があれば、こん棒の踊りを見て楽しいと思ったところでいっこうにかまわない。これが良心の呵責を伴わない、暴力の楽しみというものである。このような道徳的な裏づけはもともとなかった。つまり、これはグリム兄弟の発想になるものである。しかしKHMの初版本には、こん棒の使用に関する特別の制約はなかった。ヒーローはそれを持って出発するが、誰かから「悪いことをしかけられた」というような話は出て来ない。にもかかわらず主人公はこん棒を人びとの中で踊りまわらせ、人びとを情け容赦なく殴らせる。彼がこん棒にこのようなことをさせた唯一の理由は、楽しみは別として、親方からもらってふしぎな贈り物をいわば十分にテストする必要があったからだ。ルートヴィッヒ・ベヒシュタインの「ドイツ・メルヘン集」では、主人公はこん棒に村の犬を殴らせたり、しばしば「おっかない警察の旦那」を、「袋の中の一物で、痛い目にあわせた」。要するに、これといった動機のない漠然とした暴力の楽しみ、力とか強さとか優位とかに対する単純な興味、あるいはきびしいお上に対するちょっとしたうっぷんばらしである。・・・こん棒はこのメルヘンの中で主役を演ずる最も重要なものである。したがってこん棒が体現する暴力の楽しみは、食べること・飲むこと・金持ちになることの楽しみをはるかに凌ぐといってもいいだろう。このメルヘンでは殴打シーンを少しも憚るところなく描写する。だから、誰もが無条件でこの楽しみにふけることができる。この物語の中だけではない! いくつものメルヘンが露骨な暴力シーンに溢れており、これから本書で述べられることは、「袋から出たこん棒」の話がむしろ比較的無邪気な暴力描写の部類に属するものであることを証明するだろう。ところが、メルヘンは広範囲にわたって、美しくも健全な世界の牙城と見られてきたし、いまもそう見られている。次章を読めば、そのような見解を維持することはむずかしくなるだろう。

 

次に前記において「次章」と言われている「人間狼としての人間」という章から引用する。

 

*騙され、欺かれ、殺される(KHM二八「歌を歌う骨」)――ある王さまがおふれを出した――危険なイノシシを殺した者には、わたしの娘を嫁にくれてやる、と。これはKHM二八「歌を歌う骨」ので出しの状況である。二人の兄弟が王女を獲得しようと思う。兄のほうは狡猾で、賢く、尊大であるが、それに反して弟の方は単純である。しかし善良な心を持っている。この弟に一人の小人が力を貸す。小人は弟に一本の黒い槍を与える。弟はその槍でくだんのイノシシを殺す。弟は満足して、獲物を背中に背負い、森を後にする。弟は、居酒屋でワインを飲んでいる兄と出会う。この兄は、テキストによれば、妬み深い、邪悪な心をもっているが、うわべを装い、愛想よく弟を呼び寄せる。弟は小人のことや、どうやってイノシシを殺したかということをあらいざらい話す。・・・二人の兄弟は連れ立って居酒屋から出て行く。二人はある橋のたもとにやってくる。すると兄は弟をすこし先に歩かせ、弟を後ろから殴り殺し、そして埋めてしまう。

 

*ずうずうしくも、この犯人は王さまの所へ出かけて行き、くだんのイノシシを差し出し、王女と結婚し、「長年」にわたって満ち足りた平和な日々を送る。ところが、一人の羊飼いがくだんの橋の下の砂の中から一片の骨を見つけ、それを材料に自分の角笛の歌口を作る。羊飼いは吹こうとする。すると角笛は自然に歌い始める。「ああ、愛する羊飼いさん、あんたはわたしの骨片で笛を吹く/わたしの兄さんはわたしを殺し/橋の下にわたしを埋めた/イノシシのために/王さまの娘さんのために」。この羊飼いはその角笛を王さまの所へ持って行く。王さまは橋の下を掘らせる。骸骨は見つかる。(犯人の)兄は犯行を否認できない。兄は、テキストによれば「袋の中に入れられ、袋の口は縫い合わされ、生きたまま水に漬けられた」。

悪い兄はこの物語の否定的なヒーローである。彼は一つの例外なのかと、誰もが思う。しかし、メルヘンが例外やアウトサイダーを取り上げることはめったにない。普遍妥当なものがメルヘンの関心事である。そのことを、この物語のスイス版は代弁している。この話は、グリム兄弟の「注釈書」の中で紹介されているし、ベヒシュタインの「新ドイツ・メルヘン集」(一八五六年)には、「嘆きの歌」というタイトルで取り上げられている。この場合は、行為者が無邪気な子供、しかもだいじに育てられた王子である。そこには逆境も不運もなく、王子を殺人者にさせるようなものは何もない。幼い王子は、全く正常な少年である。彼には一人の姉がいる。そして二人は、どちらが王になるかで争う。少年は、男子としての優位性を主張する。「ぼくは王子だ、王子というものがいる以上、王女は支配者にはなれない」。一方、王女は、自分は最初に生れた子であり、最年長者であり、したがって王位は自分のものだと反論する。テキストによれば、二人は全く無邪気に言い争う。結論がでないので、二人は母親の意見を聞く。母親は二人の言うことを聞いて、暗然とする。というのも、母親は二人の言うことの中に、悪い権勢欲のきざしを見つけたからだ。母親は、そのようなきざしが「幼少の子供の心の中に根づく」ことを望まないから、二人の子供の関心をそのようなものからそらしてやりたいと思う。母親は、二人の子供に一輪の花を示して、この花を一番先に見つけた者が、いつか王になれるだろうと言う。姉と弟は、「全く無関心に」連れ立って森へと出かけて行く。二人はけして悪い子供たちではないし、二人のうちのどちらにも、悪気というものはない。二人は花を探す。二人は夢中になる。姉が花を見つける。姉は弟を待っているが、待ちくたびれて、苔の上に体を横たえる。そして花を手に持ったままとうとう眠ってしまう。

やがて弟は姉を見つける。そして、そのとたんに弟はそれまで持っていた無心と子供らしい無邪気さを失う。「よからぬ考え」が弟の心の中で頭をもたげ、「恐ろしいこと」が弟の頭の中に浮かんでくる。「ぼくは王にならなければならない、ぼくがだ!」と、弟は考える。「姉なんか王にさせるもんか」。弟は姉を殺してしまいたいと思う。そして、ほんとうに実行する。弟は眠っている姉を殺して森の中に埋める。それでも、恐怖は決して彼を襲わない。良心のとがめも感じないで、弟は花を持ち、家に戻る。そして、姉は自分と離れて勝手にどこかへ行ってしまったということを、真顔で、顔色も変えずに説明する。この説明に疑念をいだく者は一人もいない。成年に達すると、弟は望みどおり王になる。弟は自らの存在に満足する。彼は「人生を楽しむ朗らかな男性」であり、音曲を愛し、にぎやかな祭りを好む。このようにして平穏な日々がすぎていくが、ある日のこと、骨製のフルートから嘆きの歌が聞こえてくる。「あの男は眠っているわたしを殺した/あの男は無情にもわたしを殺し/墓穴を掘り/わたしを森の中に埋めた」。この歌で王室の道楽者の悪行はいっぺんにばれてしまう、そしてそのとき――初めて――彼は恐怖を覚える。彼が殺人の罪を認めた瞬間、つまり彼のすばらしい人生が終わる瞬間に、彼は激しいショックを受ける。文字どおり恐怖のあまりばったり倒れて死ぬ。彼の母親はどうしたか? 母親は、「嘆きの歌が誰にも聞こえないように」くだんのフルートを粉々にしてしまう。

 

*人びとはむしろ人間が善なるものであり、残忍なものではないという証拠を探す。それに対して、メルヘンはそのような証拠をほとんど提示しない。たいていのメルヘンはあるがままの人間を提示する。――暴力行為についてもまさしく同じことが言える。もっとも、その場合のメルヘンのやり方は特殊である。つまり、メルヘンは良いものと悪いものをはっきり分ける。その結果、たいていの読者は魅せられたように、これらの物語の善良なヒロインやヒーローの方を見ることになる。私利私欲を離れた高貴な考えで貧者や弱者を助け、常に良いことだけを行なう大勢の兄弟や姉妹に、読者たちは共鳴する。この人たちは良きヒロインやヒーローが持っている親切心に満足し、中には「人間すべからくかくあれかし」と考える人さえいる。このようにして、しばしば引用される健全なメルヘンの世界への信仰が生れる。しかしこのような信仰は、人びとが一つの側面だけを見て、他の側面――つまり、悪い兄弟や姉妹――をわざと見ないことによって可能となる。

 

*上述の二つのメルヘンは、暴力的事実を無視することを許さない。この二つの場合は悪者が(否定的な)ヒーローである。羨望や妬みのために、これらのヒーローは姉弟殺しになる。けして健全とはいえないメルヘンの世界の中で、ここに挙げたような(否定的な)ヒーローは、特異な存在ではない。このようなモチーフはさまざまな変形で、全ヨーロッパ、ロシア、南米、インド、アフリカ、さらには聖書やギリシャ神話からも発見される。兄弟姉妹の間での暴力は普遍的な問題であるらしい。しかも、このことは文明の程度や皮膚の色とは関係ない。たとえは行為者についていえば、性別は関係ない。一人の兄弟が別の兄弟を殺したり、姉妹同士が殺し合ったり、あるいは姉妹が共同で一人の男兄弟を殺したりする。また二人の男兄弟が三番目の男兄弟を殺したり、あるいは彼らの女姉妹を殺したりもする。実際にはあらゆるコンビネーションがある。殺しの方法は、撲殺、水死、生き埋めなどである。行為者の方は犯行後も安穏に暮らすが、最後には、ふしぎなフルート、ハープ、バイオリン、そのほかの楽器によって悪行をばらされる破目になる。悪行の最大の動機は遺産、つまり王国の継承もしくは財産の相続である。病気の父親のための薬――薬草や生命の水――、もしくは宝石の調達の場合でも、最終的な狙いは王位継承であり王冠である。似ているのは、ある王女との結婚が賞品としての魅力を持つ場合である。つまりこの王女が妻として求められるのは、決して愛情によってではなく、結婚につながる地位のためである。悪行の行為者たちは、惚れたばっかりに気が転倒して殺しに走ったのではなくて、力、名声、権勢、財産のために殺人を犯すのである。そのようなことのために、少女もまた殺人を犯す。彼女たちは、男性の行為者たちと全く同じように冷酷にそれを実行するし、また男性の行為者と同じように巧みにそらとぼけるすべも知っている。

 

*これらのメルヘンの暴力行為をあれこれとこじつけることはできない。それらの行為は美化や理由づけのできないものであり、また簡単にさっと説明できるようなしろものではない。そこでつぎのような不愉快な事実を直視するしかない――これらのメルヘンの中で殺害の引き金となる感情は、人間にとって欠かせない精神的装具の一つであるという事実、そして、そのような感情は原始的反応であり、また人びとがよく暴力の発作と呼びたがる一次的情動であり、要するに、誰もが覚悟しておかねばならないような何ものかであるという事実である。

このような暴力指向の決定的な意味を立証しているのが、ある太古の神話である。この神話との関連において暴力指向を取り上げているメルヘン研究者は一人もいない――両者の類似性は明らかであるにもかかわらず、この太古の神話は――これは重要なことだが――多くのメルヘンよりも古く、しかも―――これもまた大いに注目すべきことだが――たいていのメルヘンよりよく知られている。この神話は旧約聖書の創世記四章に出てくる。それはカインとアベルの物語である。この物語には、いままで述べてきたメルヘンのあらゆる要素が凝縮している。この物語は問題の根源を提示し、何が重要であるかを――私見によれば――最もはっきり示している。この物語によれば、悪事が行なわれるまでカインは素朴な農夫である。彼は畑を耕し、一方のアベルは羊を飼う。カインには特異な点は全くないし、決して悪人でもない。事件は突然、しかも思いがけなく起こる。明るい空から降りてきた神はアベルのいけにえを受け取る。しかしカインの捧げ物は受け取らない。神はカインに語りかける――お前は悪い感情(怒り)に引きずられてはいけない、それに打ち勝たなくてはならない、と。物わかりのいい援助者の忠告にもかかわらず、カインは怒りを押さえることができない。しかし、彼の兄弟(アベル)に襲いかかるのは、盲目的な、押さえ切れない怒りのためでは決してない。カインの暴力行為はそのような種類のものではない。カインは本心を隠し、自らの憎悪を包み隠している。カインはアベルに対して親しみを装い、自分の畑にアベルを連れて行く。畑に着くと、カインはアベルをうしろから打ち殺す。神に釈明を求められると、カインは今日では周知の慣用句になっている答えを返す、「わたしは弟の番人でしょうか」。この答えは、カインをテーマとするたくさんのメルヘンよりもはっきりと、カインが自らの行為に驚いていないこと、また後悔もしていないことを示している。

このような悔いを伴わない暴力行為が、旧約聖書に、人間の家庭生活が始まったばかりの箇所に出てくるのである。悔いを伴わない暴力行為はほかにもあって、聖書にも、神話にも、伝説にも、たくさんのメルヘンにも出てくる。それらの行為はほとんど全部が同じような図式に従っている。ところが、はっきりそれと分かる人間的な行動方式が、特定の名称で呼ばれたことは一度もない。この行動方式を示す概念がないのである。一方、なぜそのような概念がないのかということを、人びとはだいたいにおいてやはり理解していなかった。もっとも、その大半の理由は、人びとがそのようなことを理解しようと思わなかったからである。要するに「悪い感情」、つまり嫉妬と不信と残酷性とのいかがわしい混合物は、人間にとって自尊心をくすぐるようなものではないからだ。そこで人間は、このような状況の中で当然やるだろうと思われるようなことをやった。つまり「カイン・情動」とでも名づけられるようなものを遠くへ押しやった。人間はこの悪い(感情の)動きを抑圧したのである。ところが、抑圧の痕跡はさまざまな形で残ることになる。

たとえば一五〇〇年も続いたヨーロッパの信仰の伝統は、一つの道徳的判断をつくり上げ、それを教理として固定させたが、その内容はけして自明の理といえるようなものではない。最初の人間家庭の罪人が誰であるかは、パウロ以来解決済みの問題であり、それが改めて真剣に論議されることはなかった。罪びとは決して弟殺しのカインではなくて、彼の母のエバである。つまり人間の原罪となったのは(カインの)弟殺しではなくて、知恵の実を摘み取るという(エバの)比較的無邪気な行為であった。ということは、暴力がここでも副次的な事柄として扱われているということだ。

 

*かなりの数の王子たちが実際に彼らの兄弟を殺した。彼らの犯行の動機はしばしば、メルヘンに見られる動機と同じだった――相続、支配権の継承、王位の獲得。メルヘンとは反対に、これらの場合は、もちろん年上の、相当数の兄弟が殺された。年下の兄弟にとって兄が跡継ぎになることは妬ましかったからである。跡目相続の争いの場合には一層多くの血が流れた。

 

*わたしたちは、まさにカインの時代以来、神がカインに強く忠告したことを改めて学習することもなく、実践することもなかった。わたしたちは相変わらず自己を支配できず、引きつづきわたしたちの残忍な衝動に、ほとんどなすすべもなく身をゆだねている。これがわたしたちの克服されていない感情――つまり、自分たちの中にある潜在的な暴力犯人は自分たちの手に負えないから、罰する力を持った権威がほしいという願望――の投映を示す決定的状況である。

 

*メルヘンはわたしたちを裏切らない。メルヘンはわたしたちの期待にこたえてくれる。メルヘンはわたしたちを不安に陥れない。メルヘンは抜かりなくわたしたちの精神的欲求を充足してくれる。このような鎮静的な効果は、メルヘンが何世紀もの経過の中で身につけたものである。したがって、メルヘンの中にはわたしたちが期待し、待望する「正義」がある。よく言われるように、中途半端なことは起こらないと言ってもいい。悪者は罰せられる――彼らは殺される。

 

*人びとは自らの暴力的衝動から逃れることはできないし、それらの衝動を簡単にどこか別の方へ投映させることもできない。このことは、ともかくもメルヘンのヒーローに共鳴するすべての人を見ればすぐ分かる。つまり、この人たちもカインが望んだこと――兄弟の死――を、はからずも望んでいるのだ。だから、たいていの人は一人の兄が大きな弧を描きながら水中にほうりこまれ、しかも袋に詰められたままなすすべもなく溺れ死ぬことを喜びさえする。

 

*ともかくもわたしたちは進歩した。今日、人びとは自分たちの兄弟を殺したり、自分たちの姉妹を海に突き落としたりしなくなったのだから。そのようなことが良くない行為であることが非常に早く分かったというわけである。ところが、このような凶暴な習慣の名残はいまだにたくさん見られる。多くの人たちは、想像の中で自分たちの兄弟や姉妹をひどい目にあわせる――太古にそうであったように。いくつかのメルヘンはこのような場面をわたしたちにみせてくれる。また、子供たちの中にも、時々このような太古の抑制のきかない暴力行為の名残が観察される。彼らの表情は先祖のカインのようにゆがむし、時にはおそろしく真剣な表情で相手に殴りかかる。

 

*いままで述べてきたことを要約しよう。人間というものは、カイン・情動への執着と、自分もアベルと同じように裏切られ騙し討ちにあうのではないかという同時的な不安と、殺された者の後日の仕返しによってひどい殺され方をするのではないかという不安とに取り囲まれて、かなり破廉恥に、またさほどの道徳的抑制もなしに生きているということである。つまりこういうことだろう――人間というものは、暴力的衝動と、そのような衝動を人間から奪い取る何がしかの不安との境目に当たる狭い尾根の上で何とか生きているのであり、またこのような不安定なバランスが、人間をある程度融和的な状態に引きとめているのである。

 

*現存する資料や研究が示すように、妬みや不信は子供部屋を占領し、さらに言えば、広く世界をおおっている。たとえば、温和の典型とされているアフリカ原住民たちの集落や、表向きは「攻撃」との絶縁を強調する反権威主義的な無認可保育園も、その例外ではない。だから、狩猟や自然物の採集を生業とした原始民族のさまざまな文化が持つ融和性――これはしばしば引用されるものだ――もいつの間にか好ましい作り話になってしまったのである。

 

さらに同書の次の節を引用しよう。

 

*裏切られ、捨てられ、消される(KHM九一「地中の小人」)――妬みや、不信やまたそのようなものから派生する殺害意図は、兄弟(姉妹)や子供の間だけに生まれるものではない。このことについてはいくつかのメルヘンが証明している。グリム・メルヘンの場合には、とくに「地中の小人」(KHM九一)があげられる。この物語の発端は「歌を歌う骨」(KHM二八)に似ている。ただし、この場合は三人の王女が獲得できることになっている。そこで、三人の狩人の若者が三人の王女を探すために出かけて行く。これは「歌を歌う骨」の場合に比べてはるかに条件がいい。というのも、「歌を歌う骨」の場合には、二人の兄弟のうち一人しか王女を獲得できず、それが大きな原因となって事件へと発展していくからだ。一方、「地中の小人」の場合は違う。もしも三人の狩人の若者が力を合わせて課題を果たせば、めいめいが一人の王女を獲得することになる。したがって、この場合には、妬みや、不信が生まれる理由は一つもなく、むしろ信頼に満ちた共同作業を助長するような状況があるだろう。事実、三人の若者は当初お互いにきわめて協調的である。だから、三人はくじ引きで、家に残って食事の支度をする者の順番を公平に決める。つまり、一人が家に残り、他の二人は王女探しに出かけるというわけだ。したがって、王女探しの二人は日替わりということになる。最初の日は一番年上の若者が家に残って炊事をした。するとそこへ一人の小人がやってくる。この小人は、体は小さいくせにとてつもない強力の持主で、一番年上をめちゃくちゃに殴る。そこで彼は当然そのことを二人の仲間に話して、小人には気をつけろと言いそうなものだが、そうでない。彼は小人の一件については口をつぐむ。二番目の年上もまた、地中の小人から同じような目にあわされ、さんざん殴られる。その日の夕方、王女探しから帰ってきた一番年上は、二番目の年上に、留守中に何か起こらなかったか、と聞く。二番目の年上はそこで小人の一件を報告する。二人の年上は、自分たちが災難にあったことをお互いに口惜しがる。ところが奇妙なことに、若い狩人ナンバー2は、ナンバー1に裏切られたと思わない。その証拠に、このナンバー2は、ナンバー1が自分に予め警告も与えないで自分をわなにかけたことについて文句も言わないし、非難もしない。親しい者からこのようにあしらわれることを、ナンバー2はごく当たり前のこと、正常なこととでも思っているのだろうか? たぶんそうなのだろう、なにしろナンバー2がその後にとる行動は、ナンバー1のそれと同じであって、わが身に起こったことを彼は一番年下の若者に一言も話さないのだから。二人の年上はこの点で一致する。

このような行動の動機については、メルヘン「強いハンス」(KHM一六六)が説明している。このメルヘンの場合も状況は同じである。(ヒーローの)ハンスも、(他の二人の仲間から)乱暴な小人に気をつけろという注意を受けていない。その根拠としてあげられるのは、ハンスの仲間の一人(“もみの木ねじり”)の考えである。「ハンスの奴もきっとおれたちと同じ目にあうさ」。しかも、「そのような考えだけで」別の仲間(“岩砕き”)もつい嬉しくなってしまう。これが本音である。つまり、「他人の不幸を喜ぶ気持」が動機なのだ。他人の不幸を喜ぶ気持は、まず第一に協同の精神、つまり三人の仲間にとってきわめて困難な課題を果たすために必要と思われる精神をむしばむ。むしばむだけならまだいいが、それだけに終わらずに暴力への第一歩を踏み出すことになる。ショーペンハウアーは他人の不幸を喜ぶ気持を悪魔的なものと見なすが、この見方は全く正しいだろう。ところが、これが蔓延していることもまた確かな事実である。たとえば、二歳以下の子供たちにもこの「気持」は発見できる(アイブル=アイベスフェルト著「行動学から見た戦争と平和」、一九七五年)。いくつかの格言は「他人の不幸を喜ぶこと」の快感を賞賛し、そのような快感の有害性を過小評価している。たとえばこんな格言がある――「損傷を受けた者(失敗者)は嘲笑を免れない」。しかし、この嘲笑は危険である。なぜなら、嘲笑は社会的な関係を崩壊させ、その結果、協調的精神を危うくするからだ。

(「地中の小人」の)小人は一番若い狩人には勝てそうもない。この若者は二人の年上からバカ呼ばわりされているが、小人に一杯食わされないどころか、彼の方が小人をぶちのめしてしまう。小人は助けてくれと叫び、ハンスが殴ることを止めさえすれば王女たちの居場所を教えてやる、と約束する。ハンスは殴ることを止める。小人はハンスに、三人の王女たちの居場所と三人の救出方法を教える。ハンスはしかも、よいアドバイスを一つ、ロハで手に入れる。それは次のようなものだ――二人の年上を信用してはいけない、「もしもあんたが王女たちを救い出したいのなら、あんたは一人でその仕事をやらなくてはならない」。

ハンスは小人の言葉を疑わない。そして後から証明されるように、小人の忠告を忠実に実行するが、二人の年上と別れようとしない。ハンスは仲間意識を忘れない。ハンスは善良であり、また善良でありつづけるが、実はこの態度が不利を招くのである。不利と言っても、ハンスがそのために愚鈍と見なされたり、嘲笑されたりするというようなことでは決してない。メルヘンに出てくる善良なヒーローはすべて、そのような嘲笑を黙って甘受する。そんなことよりも、はなはだまずいのは、善良であることが危険を伴うということ、しかも時によっては生命の危険を伴うということである。これは問題である。善良であることが、善良とはいえない人間の攻撃を挑発するのである。善良であることが、奸計(かんけい:わるだくみ)、悪意、卑劣、そのほかもっとも悪質なものを誘発するのだ。

ハンスは隠しだてせず、正直に小人との間に起こったことを報告する。ハンスはみごとに小人をやっつけてしまった。ところが、このことがどうやら年上の仲間たちの嫉妬心を刺激するらしい。これはいったいどういうことだろう? ハンスは三人の王女の居場所を知っている。王女たちは井戸の底にいるのだ。三人の若者は、井戸の底へ降りていって三人の王女を引き上げさえすればいい。そうすれば、三人の若者は裕福な人間になれるのだ。そうなることは、貧しい狩人の若者たちがひたすら夢に描いてきた未来図だ。それがいま実現しそうなのだ。つまらないやきもちなんか吹きとぶはずである。また本来ならば、二人の年上は感謝の気持をこめて一番若いハンスの肩を叩くべきであろう。ところが、ふたりには感謝の念などはない。彼らはハンスの肩を叩きもしない。まあ、それもいいとしよう。だが、二人は少なくとも喜ぶべきだろう。ところが喜びもしない。すばらしいニュースも、二人には全く関係がない。二人は自分たちの将来の身分を喜ぶのでもなければ、美しい王女が間もなく自分のものになることを喜ぶわけでもない。そのようなことよりもずっと強く二人の心をとらえるのは、ハンスが自分たちと違い小人をみごとにやっつけてしまったことと、さらに、きわめて重要な情報を巧みに入手したことである。二人の年上の妬みは、富や、権力や、一人の美しい女性が得られるという見込みよりも強力である。二人は喜ぶかわりに怒る。しかしその怒りはあまりにも激しくて「目がくらむ」ほどである。何というばかげた、無目的な態度だろう! そのような態度は彼ら自身の損になるだけであり、彼らの妬みは何の得にもならない。にもかかわらず、二人はそのような態度をとる。

このような盲目的な嫉妬のために、二人の若者はいたずらに目がくらむばかりで、有望な将来を喜ぶこともできなくなるということについて、わたしたちはこれ以上問題にする必用もないだろう。しかし、嫉妬心をいだくために自らが損をするということは、動かせない事実である。もう一つの事実は、嫉妬が大騒動をひき起こすということである。そのケースがこのメルヘンである。このメルヘンでも、嫉妬が暴力の重要な動機であることはまたしても証明される。嫉妬が七つの大罪の一つに数えられるのも偶然ではないだろう。

二人の年上は、嫉妬深いばかりかひじょうに臆病だ。二人は深い井戸の底まで降りていく勇気がない。そこで、勇敢なハンスは篭に入り、二人の手で井戸の底まで降ろしてもらう。底に着くと、ハンス勇ましい竜征伐をやってのける。ハンスは三人の王女を救出する。二人は、王女たちをつぎつぎ地上に引き上げ、最後にハンスを引き上げにかかる。二人の年上は、あらゆる点でハンスのおかげをこうむっている。ハンスは二人から何も奪い取らないだろうし、二人に刃向かうこともないだろう。二人にとって、ハンスは危険な存在ではないし、二人の権益を犯すこともないだろうし、ライバルでもない。ところが二人の年上は、ハンスを(井戸の深さの)半分のところまでしか引き上げない。そこまで引き上げたところで二人は綱を切ってしまう。篭は墜落し、井戸の底で粉々になる。二人の年上はハンスの運命を信じて疑わない。ハンスはもういない。あいつは死んでしまったのだ――二人は満足げにそう断定する。そこで二人は、自分たちを救出者として王さまに申告することを強引に王女たちに約束させる。そのうえで、王さまの所へ出向き、ご褒美を要求する。そこで結婚式の準備が始まる。

 

*二人の狩人の若者は彼らの愚かな仲間(ハンス)が死んだことを確信すると、結婚式に向けて心の準備をする。しかし、ハンスはそれほどバカではなかった。彼は早めに地中の小人の忠告を思い出していたから、篭に乗らなかった。かわりに石を乗せた。ハンスのメルヘン上の兄弟である強いハンス(KHM一六六)は、同じような状況の中で重い杭を篭に入れている。ハンス一号(KHM九一)は、自分の髪の毛を地中の小人に編んでもらって地底から地上の出ることができたし、ハンス二号(KHM一六六)は、ふしぎな指輪の威力を借りて地底から救出される。このように、死んだはずの人間が再び姿を現すと、「不実な仲間」にとっては容易ならぬ事態が発生する。自分たちの仲間を「置き去りにしたということ」は、掛け値なし、割り引きなしに評価され、その結果、処罰ということになる――二人の狩人の若者は絞首台に吊るされる。きびしく、しばしば残酷な刑罰は、ほとんどすべてのこのタイプのメルヘンに共通する定型的要素である。ケルン地方の類話では、二人の狩人の若者は蛇がいっぱい詰まった袋に封じ込められ、断崖に投げ込まれる。強いハンスは自分の手で復讐する――自分の杭で二人の嘘つきを打ち殺し、海の中にほうり込む。このような私的制裁をたいていの人は悪いと思わないし、二人の殺人兄弟の死に満足するだろう。

 

さらに次の節を引用する。

 

*・・・あげくに目をえぐられる(KHM一〇七「二人の旅人」)――人間の持っている良き能力にあまり期待をかけていないのが、KHM一〇七「二人の旅人」である。これは決して特殊なケースではない。この物語に描かれている非情さや残酷さは、いくつもの同じようなメルヘンに見られる。これは目をくりぬく話である。この物語のさまざまな類話では、だいたい三つの動機からこのような恐ろしいことが起こっている。第一の動機は賭け事である。

 

*このような恐ろしい行為の第二の動機は、単なる貪欲である。その好例は、「カラス」である。この物語はグリム兄弟がある兵隊から聞いた話だが、実は兵隊自身がこの話の主人公でもある。つまり、「正直」で「勤勉な」人物である。しかもこの人物は、自分の金を「他の仲間たちのように飲み屋で」浪費したりせず貯めている。そのような特性と財産をもっているという点で、彼はつまり他の仲間たちよりも優れている。しかしこの優れているということが、ご多聞にもれず、嫉妬、悪意、強欲を誘発する。このメルヘンもまた、善良であることや優れていることが――とりわけ、当人が他の人間と少しも変わらないと思っている場合に――当人を著しく危険にさらす属性にもなり得るということを教えている。

この物語の中の兵隊は、自分が他人と少しも変わらない人間だと思っている。彼は他の二人の仲間が自分に対して、「うわべはとても親しそうな」ふりをするので、何も不安を感じない。だから彼は二人に連れられて町を出、人気のない場所にひきずり込まれる。二人の仲間は彼をぶちのめして彼の金を巻き上げる。しかも、それだけではおさまらない。二人は兵隊の目をえぐりとり、兵隊の体を絞首台まで引きずっていき、絞首台に縛りつける。

強欲は確かに重要な動機であるが、強奪後の残酷な行為は強欲とは全く無関係である。また、そのような行為は犯行の隠蔽には役立たない。隠蔽するためにはその男を殺さなければならないだろう。このような残酷行為は無目的であり、無意味であり、犯人たちのためにならない。このような行為は彼らの仲間の苦しみに対する嗜虐的な喜び以外の何ものでもない。メルヘンはしばしばヒーローたちを理想化するが、見てのとおり、人間の悪い側面も決してなおざりにしない。

 

*眼球をえぐるという行為の三番目の動機は、とりわけ悪質なものだ。一人の人間が別の人間の窮状――つまり飢餓――につけ込むやり方ときたら、理解に苦しむほどのものだ。一片のパンの代償として、悪い仲間(もしくは兄弟!)はその道連れの目玉がえぐられることを要求する。このような非道としかいいようのない動機がしばしば見られるということは驚きである。ドイツ語圏ではこのような動機がいくつかの類話のなかに広まっているし、またたいていのヨーロッパの国々でも、またそのほかタタール人、キルギス人、ジプシーの間でも、さらにインドやアフリカでも、このような動機はよく知られている。

KHM一〇七{二人の旅人}の中では、下手人が靴屋で、被害者は仕立屋である。事件までのいきさつをかいつまんでいうと――出会った二人が一緒に旅をつづける。仕立屋は明るい性格で、若々しく元気がいい。だからみんなに好かれる。彼の財布にはいつもお金がいっぱい入っている。気むずかしい靴屋は、扱いにくい男で、持っているものはいつも相棒よりも少ない。しかし仕立屋はなんでも靴屋と分け合うし、呑み屋では相手の勘定までも払う。靴屋の方はそれがまた気にくわない。その態度は、ちょうど(「地中の小人」の)ハンスの相棒たちのそれとよく似ている。感激したり喜んだりする代わりに、靴屋は「しかめっつら」をし、こんなことをほざく、「ひどい悪党ほど運がいい」と。このような言葉は、昔はひどい侮辱を意味した。というのも、悪党とは嘘つきや恥知らずの人間を意味したからだ。靴屋は悪意をいだくが、そうなるのは彼が仕立屋を妬むからである。またしても嫉妬と悪意が暴力の音頭とりになる。仕立屋は靴屋の態度なんか気にかけないで笑殺する。するとそれがまた靴屋の気に障る。

その後しばらくして靴屋は仕返しができる。その時、彼は笑える人間になる。しかしその笑いは明るくもないし、無頓着でもなくて、にがにがしく冷酷である。仕立屋が餓えのために一歩も歩けなくなり、靴屋にパンを一切れくれと言うと、靴屋は笑う。仕立屋は軽率にも、大きな森を通り抜けるのにたった二日分のパンしか携行しなかったのである。それに反して、靴屋の方は七日分のパンを用意していた。靴屋は倒れた木に腰をおろして、それを味わいながら次のように言う。「お前はいつもはしゃぎっぱなしだった。だから、ここいらで、騒ぐ気になれないということがどんなものかということを味わってみたらいいのだ。よく言うじゃないか――朝早くから歌う鳥は日暮れには大タカに襲われる(朝笑っていたものが、晩には泣かねばならない)とね」。五日目になると、仕立屋はだるさのためにもはや体を起こすこともできない。すると靴屋が言う、「きょうはパンをひとっかけらくれてやろう。その代わり、おれはお前の右目をくりぬいてやるぞ」と。そしてその言葉どおり実行する。六日目の朝、死は仕立屋の背後に迫っている。そこでわたしたちは推測するだろう――靴屋は彼の相棒の状態に心を動かされ、同情の気持を持つだろう、と。なぜなら、靴屋はこう言うからだ、「よし、お前に憐れみを施してやろう、もう一度パンをくれてやろう」と。ところが、この言葉はあざけりにすぎない。彼はつづけてこう言う、「だが、ロハではやらないよ。くれてやる代わりに、お前のもう一つの目もえぐりとってやるからな」と。そこで仕立屋は靴屋に向かって言う――おれが羽振りのよかった時は何でもお前と分け合ったではないか、と。そして靴屋の同情をひこうとする――もしおれの目がなくなってしまえば、おれは手仕事ができなくなり、乞食をして歩かなければならない、と。しかし懇願の効き目はない。感謝の気持が暴力を抑える力にならないことがはっきりとした。同情の気持ももはや起こらないようだ。だから靴屋は仕立屋の目をえぐり、仕立屋の体を絞首台の下に放置する。

しかし仕立屋は、おなじみの奇跡によって視力を回復する。そして直ちに靴屋の行動方式とは対照的な手本を示す。極度の飢えにもかかわらず、仕立屋は、コウノトリや、カモや、蜜蜂の巣を傷つけることを――請われるままに――断念する。仕立屋は足をひきずりながら最寄りの宿屋にたどりつく。彼は町にとどまり、再び自分の仕事を始める。腕がいいので彼の評判は広まり、ついに宮廷お抱えの仕立屋となる。靴屋も腕は悪くなかったから、同じ日に宮廷お抱えの靴屋となる。二人は顔を合わせることになるが、仕立屋は靴屋のやったことをその筋に訴えたりはしない。一方、靴屋は仕立屋と顔を合わせたとたんに「気がとがめた」――とテキストには書かれている。この一行を読んで、やっぱり靴屋は自分のやったことを後悔しているんだなと思ったりしたら、それは勘違いというものだ。この男の良心は特殊である。彼の良心は彼にこんなことを考えさせる。「あいつ(仕立屋)がおれに仕返しをする前に、おれはあいつのために穴を掘ってやるんだ」。これは、簡単にいえば、人間特有の卑劣の心理学である。この心理学は多くの教訓を与えながら先に進む――靴屋は(三回にわたって)仕立屋を王さまに告発する。しかし王さまは決して仕立屋のことを悪く言わないどころか、仕立屋はきわめてすぐれた能力を持っていると弁護する。仕立屋の敵役の狙いは、もちろん仕立屋の死である。(三回目の告発の時)王さまもとうとう、もしも仕立屋が課題を果たせない場合は仕立屋を死刑にするといって脅かす。王さまは言う――その時は死刑執行人にお前の「首を切り落とさせるぞ」と。もちろん、靴屋の思惑は外れる。以前仕立屋に助けられた動物たちが、こんどは彼に力を貸すからだ。この仕立屋は実に幸運だ。しかし、実際にはどのくらいの数の「仕立屋」が挫折していることだろうか? そしてどのくらいの数の「靴屋」がいるのだろうか?

このメルヘンのヒーローは、もちろん首を失わずに王さまの娘を妻にもらう。善はまたしても勝ち、報酬をもらう。

 

*だからこそ仕立屋は王さまの義理の息子になる。そのような権力の座につくと、人びとはしばしばその地位を利用してライバルに対する仕返しをするものだ。ヒーローの仕立屋はしかし、そのようなことはしない。底なしに邪悪な靴屋に対して仕返しもしない。この靴屋に対しては、「この町から永久に去れ」という命令が出されるだけだ。しかし、そこでこのメルヘンが終わるわけではもちろんない。靴屋は町から出て行く。そして疲れたので、彼はこともあろうに絞首台の下で体を横たえる。――かつて盲目になった仕立屋を置き去りにした、あの場所である。二羽のカラスがおなじみの因果応報の手段をとる。二羽のカラスとは、仕立屋を不思議な方法でふたたび開眼させることができたあの二羽にほかならない。ところがこんどは、この二羽が靴屋に襲いかかり、靴屋の目をえぐってしまう。靴屋は森の中に逃げ込む。そして、そこで衰え果てて死んだものと思われる。「というのも、その後彼の姿を見かけた者は一人もいないし、彼のことを聞いた者も一人もいないからだ」。これがこのメルヘンの結びである。

すでに言ったように、悪事の報いは必ずある。しかし、その報いはなぜそのように残酷なのだろうか? これまで明らかにされた聞き手、もしくは読み手の要求の点から見たら、そのようなことはどうでもいいことのように思われる。しかし、ひじょうにたくさんのメルヘンの中では、人間がきわめて嗜虐的な殺され方をしている。ところが、なんとこれが人びとの欲求を満たすのである。そのような欲求は処刑の歴史から容易に読み取れる。処刑は残酷なものであったが、実に永年にわたり公然と執行された。しかも処刑は永年にわたって、往々にして民間の祭の性格までも帯びる一種の重要なイベントだった。生の残酷性を見るために、人びとは群れをなして処刑場に足を運んだ。しかも、驚いたことに、処刑に変化を持たせるための配慮までなされた――絞首刑に始まり、斬首刑、くし刺の刑、四つ裂きの刑、そして火刑に至るまでのあらゆる種類の方法が用意されたのである。苛酷な刑罰は見せしめに役立つという理由づけは、単なる口実にすぎなかった。狙いは見世物(ショー)だった。処刑の公開が廃止されてからは、受刑者が刑車に縛りつけられることもなくなった。こうして多彩な残酷性はついに見られなくなった。

無分別に、暴力はライバルに対して用いられる――相手がたとえ肉親の兄弟であろうとも。表面的な動機は、暴力行為にとってたいして重要ではない。殺人は王女が原因でも起こるし、また二、三個のイチジクの実が原因でも起こる。動機づけは基本的に内面的なものであり、一種の突発的な感情である。その感情が殺害・殺人意図を誘発する。その感情はだいたいにおいて嫉妬や不信によって特徴づけられる。この感情の原型はカイン・情動である。よく知られているように、カイン・情動は早くも幼児期に見られ、しかもたいていの場合まず兄弟(姉妹)に対して示される。間もなく、逆作用をする力――とりわけ不安感――が発生し、それが攻撃性を抑制する。はっきり分かったことは、道徳的規範や、同情もしくは感謝の念も、反対者としての力をたいして発揮できないということである。だから、殺害者が、殺害行為の前も後も、良心の呵責に悩まされることはない。

刑罰の多様な残酷性は人間の別の欲求を満たす。――暴力が人間を魅了するのだ。しかし、人間はことさら暴力を恐れる。ところが、暴力行為に対する不安のために、人びとは自らの好戦的感情を抑制すると同時に、他者の攻撃に対抗して自衛手段を講じ、いざという場合には、可能な限りより強い暴力的潜在能力を行使してやろうと心がけるようになる。

道連れが登場するいくつものメルヘンでは、いっそうはっきりと嫉妬が持っている暴力誘発の役割を示している。嫉妬に目がくらんだ二人の狩人にとって、権力・尊敬・富が得られるという見通しは瑣末なことになってしまう。彼らは嫉妬と不信のために人を殺す――それが彼らの唯一の動機である。

多くのメルヘンでは、善と悪、真実と嘘、正義と不正が、賭けの形式で比較される。学識経験者である仲裁裁判官は、自称現実的な広い見地から常に悪者の方に軍配を上げる。その結果、善良という原則の代弁者は目をえぐられる。そのほかの犠牲者たちは、強欲や単なる悪意のために盲目にされる。殺害者たちには何のためらいもない。暴力がまるでやりがいのあるもののようである。

 

次に「終わりなき暴力」というこの本の最後の章から引用する。

 

*彼は笛を吹き続けた。しかし、その笛の音を聞くことができたものは一人もいなかった(KHM五四「背のう、帽子、角笛」)――いよいよ最後の章である。これまでのことを要約すれば、「暴力が人間存在の一部をなし、人間は間違いなく暴力と共に生きている」という見方を否定するものは一つもないということである。事実人間はそのようなものであり、特に好んで暴力的な物語をむさぼり読む――メルヘン、伝説、推理小説、西部劇からビデオの暴力ポルノに至るまで。しかも世界中の至る所で、人間は自分たちの同類を、よりいっそう完全な方法で殺している。わたしたちはいままでそのようなことをやむを得ないものとして受け入れてきたし、人類はそのような状態の中で生き残った。しかしいまわたしたちは、お互いに絶滅し合う危機にさらされている。それだけに、このような暴力指向の根拠や背景について、型どおりの表面的な弁明を超えて、よくよく考えてみる必要があるだろう。ここに取り上げるメルヘンは、このような検討のためにすばらしい材料を提供してくれるし、しかもわたしたちがいま、古今未曾有と見なす「世界終末」的状況さえも、あるメルヘンは熟知しているのだ。そのメルヘンの題は「背のう、帽子、角笛」(KHM五四)といい、それが描くものは、制止のきかなくなった手のつけられない暴力が、最後にはこの世の「ありとあらゆるものを」崩壊させ、この世を「廃墟」にするまでの経過である。

三人の兄弟は一山当てるために一緒に家を出る。長兄は銀で、次兄は金で満足する。三番目の末弟は金銀よりももっと価値のあるものを望み、二人の兄と別れてさらに旅をつづける。始めのうち形勢は思わしくなく、そのため挫折しそうになる。苦境が頂点に達した時、彼は不思議な一枚の布切れ――「布切れよ、食事の支度!」と言えば、たちまち目の前にご馳走が出てくるというもの――を見つける。これで食べるものの心配はなくなる。しかし彼はこれだけでは満足せず、さらに運だめしをつづける。この男の目ざす幸運が何かということは興味深い。彼は一人の炭焼きに出会って、例の不思議な布切れと兵隊用の背のうと交換する。この背のうはしかし、いわくつきのものである。つまり、これを叩くと、そのたびに一人の上等兵と銃を持った六人の兵隊が現れて、この男のために働いてくれるのである。ということは、この男は武装を整えたことになる。しかしこの男はついちょっと前まで腹をすかしていて、望みはたった一つ、「一度でいいから腹いっぱい食べてみる」ことだった。彼のその願いはかなった。そしてその願いがかなったとたんに、彼は兵隊を持ちたがる。このような傾向は全くの事実である――たとえ国民が飢えようとも、軍隊は必要なのだ。このメルヘン・ヒーローはまだ幸運をつかんでいない。というのも、兵隊を持つ者は誰でも、兵隊に戦争をやらせたがるからだ――たとえ道徳がなおざりにされようとも。だからわれわれのヒーローにとっても二、三の法律違反はたいした問題ではない。彼は背のうを叩く、兵隊たちが現れる、彼は命令する、「炭焼き目ざして急げ! おれのだいじな布切れを取り返してこい!」。「彼の」だいじな布切れというべきだろう――このような間違った言葉、真っ赤な嘘がよくもまあこう簡単に、しかもいとも自然に彼の口をついて出たものだ! 彼は武力というものがどれほど力を持っているかということを、たちまちにして学びとり理解した。彼が犯したこのような乱用をすでに預言者ハバククが、ハバクク書第一章第三節の中で嘆いている、「暴虐と不法がわたしの前にある。暴力は正義にまさる」。聖書時代以来この種の騒動には事欠かなかった。「暴力は正義の先に立つ」(無理が通れば道理がひっこむ)という言葉が有名な諺になったのはそのためである。

メルヘン・ヒーローは力を持ち、ためらうことなく、迷わず、悔いなく状況を利用する。・・・二人目の炭焼きに出会うと、彼は例のふしぎな布切れを古い帽子と交換する。この帽子を頭の上でぐるっとまわせば、とたんに大砲が出てきて「あらゆるものを撃ち倒すから、誰もこれにはかなわない」。歩兵を持つ者は砲兵も持つことになる。一つの要求がここでは次の要求を生む。わたしたちはそのことを知っている。二番目の炭焼きは最初の炭焼きと同じように騙される。それでもこのヒーローの「幸福」は達成されたことにならない。・・・要求は増大するものである。しかもそれがどの程度まで増大するかを、早くもこのメルヘンは教えてくれる。ヒーローは三番目の炭焼きを騙し、その結果小さい角笛を手に入れる。・・・この小さい角笛は力を持っており、一度これを吹くと、「ありとあらゆる城壁やとりでを、そしておしまいには町や村までもこなごなに」してしまうからである。このメルヘンは今日的という点では完璧である。

 

*やっとのことでヒーローは満ち足りた気持になり、家に帰って二人の兄に会おうと思う。「いまやおれは成功者だ」と彼は言う。

 

*このメルヘン・ヒーローはせっかく家に戻ってきたのに、彼がすばらしいものを手に入れたことを二人の兄に話す機会が得られない。というのも、彼が口を開く前に二人の兄は彼を外へおっぽり出すからだ。・・・「お前がおれたちの弟だなんて嘘にきまっている。おれたちの弟は銀や金をばかにして、それ以上の幸福を勝手にほしがったのだからな。その弟なら、必ずすごくはでな格好をして、りっぱな王さまのように馬車で乗りつけるはずだよ。乞食のような格好で帰ってくるわけがない」。そう言うと、二人の兄はヒーローを玄関から追い出してしまう。

 

*そこで彼は抵抗を開始するが、そのやり方はほどほどである。帽子をぐるっとまわして兄たちの家を攻撃するようなことは決してしない。彼はたった二人の兵隊を兄たちの家に差し向けるだけだ。ただし二人の兵隊に鉄砲の代わりにハシバミ製のむちを持たせ、こう命令する――二人の兄の「体の皮をさんざんぶちのめし、弟がどのような人間であるかをわからせてやれ」と。

武器を持っていても、われわれのヒーローは本当の自身を持つまでに至っていない。彼が期待しているのは、二人の兄が彼の価値を認めてくれることだ。そこで彼はそのような評価を二人の兄に文字どおり叩きこもうとする。これは全くばかげた方法であるし、第一すでに二千年以上も前にストア学派の哲学者たちは、このように他者の評価に左右されることを品位のない隷属として非難している。しかし哲学は宗教と同様、あまり役に立たなかった。そこで侮辱される者は、力があれば殴り返すことになるし、また二人の冷酷な兄がいましめのために殴られるのを見て、誰もがいい気味だと思うだろう。しかし、だからといって、いましめがこのような方法で行なわれることはよいことではない。なぜなら、そうすることによって呪うべき循環が始まるからである。すなわち暴力は暴力を生み、しかも回を重ねるたびにますます強烈で悪質な暴力へと発展していくからだ。

二人の兄は相当こっぴどくやられただろう。だから二人の兄は、本来ならば命だけでも助かったことを喜ぶべきであったろう。しかしこのような場合に、誰がそのような反応を示すだろうか。いくら殴られようとも、二人の兄が弟を見直すわけではないし、まして二人が弟に対してひどい仕打ちをしたことを認めたり、後悔したりするわけでもない。また自分たちが間違っているということを、二人の兄は全く認めない。ここで彼らはお定まりの行動に出る。彼らは復讐に燃える。そしてこの復讐を実行するためには、道徳的もしくはその他の基準をいっさい無視する。彼ら自身は弟に立ち向かっていかない。彼らは周囲に援助を求める。二人は金持ちであるから、お上への有力な手づる持っている。だから王さまが進んで二人を助けにくる。この王さまも事件の道徳的側面には関心がない。王さまは罪の有無、掟、正義というようなことは問題にしないし、末弟の動機も調べない。王さまにとってのこの末弟は治安を乱す分子である。そこで王さまはこの分子を「町から追い出す」ために、一人の隊長と一団の兵隊を派遣する。

 

*対決が始まると血が流れる。われらのヒーローは帽子をぐるっとまわして、王さまの軍隊よりも強い軍隊を出現させ、大尉とその兵隊に反撃を加える。「鼻血を流しながら」王さまの軍隊は引き上げる破目になる――テキストにはこう書かれているが、この描写は婉曲で、このような戦闘の深刻さを故意にぼかしている。

王さまがどのように反応するかに応じて、つぎに起こることもほぼきまってくる。王さまはつい先刻二人の兄がそうであったように、自分の敗北を認めない。王さまは当然のことのように「素性の知れないよそ者」に仕返しをしようと考える。王さまは「大軍」、つまり「もっと大勢の人間」を差し向ける。

この行動は、暴力をエスカレートさせる注目すべき第一歩である。というのも、この行動は二人の兄とは全く関係ないからである。もはや二人の兄弟を助けるということは問題ではない。王さまがいまやろうとしていることは、最初のきっかけとは全く無関係である。暴力的な進展だけが目的となったのである。この進展には、いまや猛烈なはずみがつく。しかしこのはずみのために王さまは王位を失うことになるだろう。

もちろんヒーローはこの大軍を見ても引き下がりはしない。それどころか、背のうを強く叩く。そして初版本によれば、ヒーローは「全部の軍隊」を王さまの兵隊たちの方に突進させ、そのうえ小さい帽子をぐるりとまわす。「すると重砲が火ぶたを切りはじめた」。王さまの軍隊は「撃破され、追い散らされる」。

ヒーローは防戦し、首尾よく身を守った。しかも彼のやったことは一般的な人間のおきてにも反していないから、世論も彼の見方をする。こうして万事解決した。そこで本来ならば、ヒーローは満足して引きあげてもよさそうなものである。ところがヒーローは引きあげない。彼は自分がたいへんな力を持っていることに気づいたからだ。それにこのような成果があがると、人間というものはつつましくするということができなくなるものらしい。いずれにせよ、われわれのヒーローはつつましくしていない。彼はこのような場合にごくあたりまえの行動方式をあらわに示す。彼は軍事的成果をそのままにしておかず、それを憚(はばか)るところなく利用する。「王さまが、その娘をおれの嫁にくれて、しかもおれが王さまの代わりに国じゅうを治めるようになるまで、おれは講和をむすばないぞ」と彼は言明する。この言葉はあきらかに脅迫であり、傍若無人の野心であり、権勢欲であり、おまけに激しい復讐心である。そのためにこのヒーローは、ついに善良なヒーローでいられなくなるが、かといって悪者にされるわけではない。しかし、このようなことはたいして珍しいことでもない。このヒーローと同じように振舞う政治家もしくは将軍が同じような行動によって成果を収めようとも、悪者と見なされることはない。それどころか功労者と見なされるではないか。

 

*このメルヘンの中では、一人の賛美された者と多くの呪われた者とが対峙するのではない。ヒーローもアンチ・ヒーローも同じように暴力を行使し、しかも相手の暴力に対してはより多くの暴力を用いた復讐でこたえる。

このような事態はいったん軌道に乗ると簡単には阻止できない。この事態は王さまの敗北によって一応のけりはつく。王さまはヒーローが出した条件をのみ、ヒーローは副王になり、王女を妻とする。しかし敵対者が永久に打ちのめされることはめったにない。ましてや、王位の簒奪者が暴力以外に提示するものがなく、そのうえこのメルヘン・ヒーローのように未熟である場合は特にそうだ。ヒーローはその妻の気持を察することができないし、彼女が日夜どうしたらヒーローから解放されるかを考えつづけていることにも気がつかない。それどころか妻が自分を愛撫するという理由だけで、妻は自分を愛しているものとばっかり思いこんでいる。彼は、サムソン(イスラエルの英雄)がデリラ(ペリシテの女)の甘い言葉にのせられたように(士師記一六章)妻のうれしがらせにひっかかってしまい、背のうの秘密をもらしてしまう。そこで彼の妻はこの背のうを手中におさめ、それを使って兵隊を出現させ、夫を攻撃させる。もしもヒーローが小さい帽子を持っていなかったら、彼は敗けていただろう。ヒーローは小さい帽子をぐるっとまわして大砲を出現させ、それをぶっ放し、「根こそぎ」やっつけてしまう。そこで王女は命乞いをする破目になる。ヒーローはすぐさま和睦に同意する。王女が改心を誓ったので、ヒーローは彼女を許してやる。彼女はまたしてもヒーローに対して愛想のいいふりをし、「まるで彼を愛しているかのような」態度を示す。ヒーローは彼女と仲直りをするだけでなく、彼女の切なる願いにこたえて、小さい帽子の秘密ももらしてしまう。

 

*双方とも破局を望まないが、悲劇は破局が向うからやってくることだ。このままの状態では、それにまた明らかに型にはまった人間的な行動様式に従っていたのでは、破局は決して阻止できない。状況を要約すればこうだ――もはや人間が暴力を持つのではなく、いまや暴力が人間をしっかりと掌握しているのだ。すべての参加者は犯行者であると同時に犠牲者である。したがって責任の追及はどうでもよくなる。これでは事態は少しも改善されないだろう。

夫が眠りにつくと、王女は夫の小さい帽子を盗む。そして夫を路上にほうり出させる。KHM初版第一巻三七「ナプキンと、背のうと、大砲がとび出す小さい帽子と、角笛の話」のテキストによれば、路上に投げ出されたヒーローに「敵が襲いかかる」ことになっているが、改訂版ではこの箇所が握りつぶされている。ヒーローが妻の誓いの言葉を信じたことは、あさはかであったかもしれない。しかしそれはそれとして、ヒーローはいまや激しい幻滅のあまり激昂し、怒り狂う。しかも彼は生命の危険にさらされているのだ。彼はそこで何をするだろうか。彼に残されている唯一のものは彼の小さい角笛である。

 

*このような状態に中では、思考や理性的な熟慮が彼の行動を左右するのではなくて、感情が彼の行動を決定する。彼は怒りに燃えて小さい角笛をつかむ。そして「激しい怒りをこめ」、「全身の力をこめて」角笛を吹く。現代の人たちだったらおそらくこう言うだろう――ついに彼はスイッチのボタンを押した、と。彼がボタンを押すと、あらゆるものが崩れ落ちる。「塀もとりでも、町も、村も」。人びとは殺され、王さまもおきさきも殺される。初版本のテキストはつぎのような一節で結ばれている。「残ったのは(新しい)王さまだけだった。この王さまは死ぬまで角笛を吹きつづけた」。

 

第四節 刑罰と残忍性に関するニーチェの意見

これから、前出のニーチェ道徳の系譜」(信太正三訳)の中の第二論文、刑罰の起源と残忍性の話の中から主要な部分を引用してみる。しかしその前に、刑罰とは何かを簡単に考えてみたいと思う。

広辞苑」によれば、刑罰に関する考え方において、「応報刑主義」という考え方は、犯罪という悪に対する「こらしめ」を刑罰とするという古い考え方である。一方、「目的刑主義」という考え方は、近代の考え方で、「こらしめ」という考え方ではなく、犯罪者を立ち直らせ罪を犯さないようにする、つまり、社会全体の利益を求める、という考え方である。前者は、「こらしめる」ことによって何が得られるのかが不明であり、後者は、古代において刑罰を生み出した人間の心理から遠く離れた考え方であるように思われ、永い歴史の中で常に刑罰がもつ残忍・復讐・快楽的な意味を隠して、かってな目的をくっつけ、伝統ある刑罰を冒涜するものであるように思われる。人間の本性が要求したあまりにも残忍な刑罰の恐ろしく永い歴史が踏みにじられ、まったくそれらを無視した新しい見方が横から挿入されている。二〇〇七年二月のNHKラジオニュース「NHKジャーナル」で、ある法律の専門家が言っていたが、ある犯罪に対する裁判の目的を社会の利益とする(目的刑主義と同じである)日本の判例を国際会議で発表したところ、聴衆から驚きのどよめきが聞こえてきたそうである。つまり氏は、このような考え方は日本だけなのであると言われていた。「目的刑主義」という考え方は、法律家にとってはこれでいいのかもしれないが、刑罰というものを考えようとしたとき、これではお粗末である。刑罰の歴史が我々に見せようとする我々の恐ろしく不気味な正体を見せないように、薄いハトロン紙でくるんでしまうようなものだ――中身はいずれしみだしてくる。凶悪な犯罪になればなるほど、その犯罪者は刑罰によって、善くはならない傾向が強くなるのである。このことを以下に示すいくつかの実例で示してみよう。まず、前出のレスラー「FBI心理分析官」の解説(福島章)より、関連するところを引用する。

 

*彼らの異常な殺人は、けっして偶然のなりゆきによって起こるものではない。彼らの長年にわたる空想生活の中のイメージが、ついに現実の世界で実現されたものにすぎない。「始めにファンタジーありき」なのである。殺人犯のこのような空想は、犯罪が行なわれ、逮捕され、受刑生活を送っている間も、後悔や罪悪感によって消えるということはない。むしろ、殺人の時の興奮を思い出すことが刺激となって、性的な興奮や満足が起こることすらある。サディスティックなファンタジーやイメージは、いわば第二の天性のようなものであり、生涯にわたって彼らに《取り付いて》はなれない。

 

前出のカール=ハインツ・マレ「首をはねろ!」より関連するところを引用する。

 

*下手人を――なぜか分からないが――突如として苦しめるのは、当人の良心ではない。それは、こんどは自分が暴力の犠牲になるのではないかという、実に恐ろしい認識である。

 

前出のカーネギー「人を動かす」より関連するところを引用する。

 

*この事件のおこる少し前、クローレーはロング・アイランドの田舎道に自動車をとめて、ガール・フレンドを相手に、あやしげな行為にふけっていたことがある。だしぬけに、一人の警官が自動車に近づいてことばをかけた。「免許証を見せたまえ」、いきなりピストルを取り出したクローレーは、物もいわず相手に乱射を浴びせた。警官がその場にくずれおれると、クローレーは、車からとびおりて、相手のピストルをひったくり、それで更にもう一発撃ってとどめをさした。この殺人鬼が“だれひとり人を傷つけようとは思わぬ心”の持主だと、みずから称しているのである。クローレーがシンシン刑務所の電気椅子にすわるとき、「こうなるのも自業自得だ――大勢の人を殺したのだから」と、いっただろうか――いや、そうはいわなかった。「自分の身を守っただけのことで、こんな目にあわされるんだ」、これが、クローレーの最後のことばであった。・・・この問題について、わたしは、シンシン刑務所長から、興味のある話を聞かされた。およそ受刑者で自分自身のことを悪人だと考えている者は、ほとんどいないそうだ。自分は一般の善良な市民と少しも変わらないと思っており、あくまでも自分の行為を正しいと信じている。なぜ金庫破りをしなければならなかったか、あるいは、ピストルの引き金を引かねばならなかったか、そのわけを実にうまく説明する。犯罪者は、たいてい、自分の悪事にもっともらしい理屈をつけて、それを正当化し、刑務所に入れられているのは実に不当だと思い込んでいるものなのである。

 

後に引用する一八四四年生まれのニーチェの論文の中にも、このことがきっぱり明言されている。だから、前記の刑罰に対する第二の考え方は、学者たちの空論に終わっているのである。前記の死刑とグリムメルヘンの話しから察しがつくように、たぶん昔は、処刑や拷問という残酷な行為への我々の欲求を満たすがために、犯罪者や戦闘での捕虜や敗者が利用されたのであり、それは残酷な行為が何はばかることなく、思う存分実行できる絶好の機会であったのだ。やがて、それを刑罰と呼ぶようになり、正当な行為として現在に至るまで、いろいろな意味があてがわれてきたのである。集団や国家により、あるいは宗教により残忍な行為が抑制されるようになった人間獣は、そのはけ口を刑罰や拷問という公認された残虐行為に求めざるを得なかった、これが、原初の刑罰の意味であったのであろう。これらは、個人の勝手な残忍な行為を禁じたはずの集団・国家・宗教によって行なわれたまったく同じ残酷な行為なのである。

広辞苑で「刑罰」を引くと、「罪を犯した者に対する罰。しおき、とがめ」とある。また「罰する」を引くと、「罰を与える。処罰する」とある。これらの説明は、まったく我々人間の心理上での刑罰の意味について説明していない、まったく役所的な説明にとどまっている。刑罰に当たる英語の「punishment」をLONGMAN英英辞書で引いてみると、「誰か、または何かが罰せられる方法」とあり、罰するという意味の「punish」を引くと、「悪いことをしたり、法を犯したりした者に苦悩を与える」とあり、LONGMAN Activatorという辞書で引くと、「悪いことをした者に苦痛なことをやらせる。たとえば刑務所に入れる、やりたくないようなことをやらせる」とある。つまり「punishment」は「ある者に苦悩を与える方法」ということになる。さらに「罰金を科する」に当たる「fine」を前記の英英辞書で引くと、「苦悩を与える方法として金を払わせる(to make someone pay money as a punishment)」とある。つまり、刑罰・罰金などは悪いことをした者、損害をもたらした者に反省させる、改心させる、ということ(これはニーチェによれば、刑罰の歴史の上からは、かなり最近になって考えられたものなのである)ではなく、犯罪者を苦悩させるということが説明されているのだ。

広辞苑では刑罰を「罰という言葉」で説明していて、説明になっていない。刑罰ということに関して、あまり考えられていないような気がする。しかし、LONGMAN英英辞書では「当事者を苦悩させる、いやな思いをさせる」と説明し、いくらでも考えられるであろう刑罰の意味の中でも最も重要なもの、起源とも言えるものを上げている。今ではなかなか口にできないことだが、自分の受けた損害による不快を、その損害をもたらした者を苦悩させることによりまぎらわす、中和するという我々の性質、つまり残忍性という本能の現れが刑罰なのである。全ての刑罰は、犯罪者に苦悩を与えることにより成り立っている。刑罰の説明には、相手を苦悩させるという言葉が絶対に必要なのである。これは、これから紹介するニーチェの刑罰に関する考え方なのである。

それでは、人間の残忍性についての考察があるニーチェの「道徳の系譜」の第二論文から、関連部分を引用することでこの章を終えることにする。この高度で高貴な論文は要約を許さない。だから関連部分を全て引用する。この中で彼は、刑罰の効能について「それは、苦悩させることが最高度の快感を与えるからであり、被害者がその損害さらには損害からくる不快と引き替えに異常な悦楽を手に入れるからである」と言っている。ニーチェは「この人を見よ」の中で、この第二論文について次のように解説している。前出のニーチェ道徳の系譜」(信太正三訳)の解説から引用する。

 

*第二論文は良心の心理学を展示する。良心なるものは、普通信じられているように《人間の内の神の声》ではない、――もはや外部に向かって発散できなくなって、向きを逆にするようになった残忍の本能である。最も古い、絶対に無視できない文化地盤の一つとしての残忍性が、ここにはじめて明るみにだされたのだ。

 

この難解な論文のあらすじは次のようになると思う。まず刑罰が先史時代では、我々の残忍性から起こったものであることが説明される。つまりそれは、相手から受けた損害による不快を中和するためにその相手を苦悩させる、あるいは相手を苦悩させるという快感を得るだけのために行われたものであることが詳細に述べられ、我々の残忍性という本能を確認している。相手を苦悩させることは、我々にとって価値あるものなのであり、損害は、相手を苦悩させるという等価物により埋め合せができるのである。残忍性、つまり「他人(自分であることもある)を苦悩させることは、最高度の快感を与える」というこの本文中のショッキングな文章は、サディズムマゾヒズム)というものがなんら異常なものではなく、太古から我々誰もがもつ本能であることを示している。そして、それが抑制される時代になると、つまり国家などに監視され、むやみに他人を虐待できない時代になると、その本能は自分自身を虐待する――マゾヒズムもこの一種であろう――というはけ口を見つけるようになった。これが《良心の疚しさ》であるとされる。この最後の部分が第二論文の有名なところであり、解説書などではこのことしか説明されていないことが多い。つまり、ここで重要視している刑罰の起源と人間の残忍性との関係についての紹介は省かれていることが多い。ニーチェによれば、キリスト教では人間のあらゆる本来健康的な攻撃的本能が否定され、抑制される。そしてこれら行く場を失った残忍性という本能は、ついに「自分自身へと向かう」と言っているのである。自分自身の虐待による我々の攻撃的欲求の鎮静化、不快の中和、これはあらゆる宗教に共通するところではないだろうか。ニーチェは、キリスト教をひとつの人間の病気として非難しているのである。余談ながらイスラム教徒(ムスリム)においては、この不快の中和が「テロ(テロル)」という方向において達成されているのではないかと思われる。

この難解な文において、読んでわからない箇所はどんどんとばして進んでいただきたい。そこで引っかかっているとそれで終わってしまう。そして、数回通読していただきたい。それにより大要がわかるであろう。この哲学史上重要な論文は、そんな労力を払う値打ちのあるものなのである。それでは引用を開始することにする。

 

*おそらく、人間の先史時代の全体を通じて、人間の記憶術ほど怖るべく不気味なものは一つとしてなかったかもしれない。「何かを焼きつけるというのは、これを記憶に残すためである。苦痛を与えてやまないものだけが記憶に残る」――これこそが、地上における最古の(遺憾ながらもっとも長きにわたる)心理学の根本命題なのである。今日なお地上において、人間や民族の生活のうちに荘厳、厳粛、秘密、暗鬱な色合いなどがあるところではどこにでも、かつて地上いたるところで約束や抵当や誓約につきものだった恐怖の何ほどかが影響を残している、とさえ言ってよいであろう。過去が、もっとも長い・もっとも深い・もっとも酷い過去が、われわれの《厳粛》になるそのときにわれわれに息を吹きつけ、われわれの胸臆に湧きあがってくるのだ。人間が自己に記憶を刻みつけることを必要とした場合、かつて一度とて血、拷問、犠牲なしにすんだためしはない。まったく身の毛もよだつ犠牲と抵当(初児供犠もその一つ)、もっとも厭うべき身体切断(たとえば去勢)、あらゆる宗教的祭儀の残忍きわまる礼式(すべての宗教はそのもっとも深い根底において残忍の体系である)――これらすべては、苦痛こそが記憶術のもっとも有力な手段であることを嗅ぎつけたあの本能から生まれたものである。

 

人類が《記憶にとどめた》ものが悪ければわるいほど、それだけますますその習慣の光景は恐るべきものとなる。なかでもとくに刑法の峻酷さは、人類が健忘に打ち勝つために、また社会的共同生活の若干の原始的必要事項を情動や欲望の刹那的奴隷になる者たちの記憶にとどめさせておくために、どれほどの労苦をはらったかということを知る上の、一つの標尺となる。

 

このドイツ人らは、おのれの賤民的な根本本能とそれによる野獣的な蛮行とを制圧するために、怖るべき手段を持って自分の身に記憶を刻みつけることをやった。こころみに古いドイツの刑罰を考えてみるがよい。たとえば、石打の刑(――すでに伝説にもなっているごとく、石臼が罪人の頭上に落とされる)、車裂きの刑(刑罰の領域におけるドイツ的天才の独特無比の発明であり、お家芸である!)、杭で刺しぬく刑、馬で引き裂いたり踏み潰したりする刑(「四つ裂き」の刑)、油や酒で犯罪人を煮る刑(十四・五世紀にもなお行なわれていた)、人気のあった皮剥ぎの刑、胸から肉を削ぎとる刑、それにまた犯罪者に蜜をぬりたくって炎天の下で蠅(ハエ)にたからせる刑、などを考えてみるがよい。このような光景や先例を見せつけられたことによって、ついに人々は、社会生活の利益を享受していきるために約束してきていたことどもに関して、五つか六つの「わたしはそれを欲しない」ということをば記憶に刻むようになるのである。――そして事実! この種の記憶のおかげで人はついに《理性に》達したのだ!――ああ、理性とか、真摯とか、情動の制御とか、一般に省察と呼ばれているこの暗鬱な事柄の全体、こうした人間の特権と飾り物のすべて、これらはいかに高価に支払われたことか! あらゆる《よき事物》の根底には、いかに多量の血と戦慄があることか!

 

刑罰が、一つの報復として、意思の自由とか不自由とかに関するいかなる前提とも全く無関係に発展したものだということを、おぼろげなりと夢想したことがあるだろうか?――事実は、反対にむしろ、《人間》という動物が、《故意》とか《過失》とか《偶然》とか《引責能力》とかいったあのはなはだ素朴な区別とその反対物とをつくり、これを刑の量定に際して考慮に入れはじめるようになるには、まずもって高度の人間化の段階を必要とするほどだったのだ。今日ではいとも安直なものとされる、見たところきわめて自然な、どうにも避けがたいあの思想、そもそも正義感はいかにして地上にあらわれたかという問題の説明役をもつとめねばならないほどのあの思想、つまり「犯罪者は刑罰に値する、なぜなら彼は別の行動をもとりえたはずだから」というあの思想は、実のところ、はるかに後になって達成された、いとも巧妙な、人間の判断と推理の一形式なのだ。これをば最初からあったものだとする者は、古代人類の心理にがさつな手つきで暴行を加えるものだ。人類史のきわめて長い期間にわたって、悪行の主犯者にその行為の責任を負わせるという理由で刑罰が加えられたことは全然なかったし、したがって有罪者だけが罰せられるべきだという前提のもとに刑罰がなされたこともなかった。――むしろ刑罰は、現在でもなお親が子を罰するのと同じように、加害者に向けてぶちまけられる被害についての怒りからして、なされたのである。――しかしこの怒りは、すべての損害にはどこかにその代償となるべき等価物があり、したがってそれは、加害者に苦痛を与えることによってであろうと、実際に賠償されうるものだという観念によって制限され加減された。――この至って古い、深く根をはった、おそらく今日ではもはや根絶しがたい観念、損害と苦痛とは等価であるというこの観念は、どこからその力を得てきたのであろうか? その秘密はすでに私の洩らしたところだが、つまりその力の出所は債権者と債務者との契約関係のうちにある。この契約関係は、総じて《権利主体》というものの存在と同じく古いものであり、そしてこの契約関係それ自体がまた売買、交換、交易などの根本形式に還元されるのである。

 

このような契約関係をありありと念頭に思い浮かべるとき、もちろん、すでに述べたところからもただちに予想されるところだが、そうした関係を創りだすとか承認するとかした古代人類にたいしさまざまの疑念や抵抗を覚えさせられる。が、ほかならぬこの関係においてこそ約束がなされるのである。まさにここでこそ約束をする人間に記憶を植えつけることが問題となる。あえて邪推するなら、ここにこそ冷酷、残忍、痛苦といったものの産地があるのかもしれない。債務者はその返済の約束にたいする信用を得るために、またその約束の厳粛と神聖にたいする保証を与えるために、さらにまたおのれ自身では返済を義務や債務として自己の良心に刻みつけるために、債権者との契約に従って、万一にも返済しない場合の代償物として、なおまだ自分の《所有》にかかる何かほかのものを、なおまだ自分の権限内にぞくする何か他のものを債権者のもとに抵当にいれる。その抵当物は、たとえば自分の肉体でもあれば、自分の妻でもあれば、自分の自由や自分の生命でもある(あるいは、一定の宗教的前提のあるところでは、自分の浄福や自分の霊魂の救いでさえも、とどのつまりは墓の中の安息までが抵当とされるのである。たとえばエジプトではそうであったから、そこでは債務者の屍は墓の中にあってさえも債権者の前に休安を得ることができなかった。――たしかにエジプト人にとっても、この休安が大切なものであったのはいうまでもない)。しかも、とりわけ債権者は、債務者の肉体にあらゆる種類の凌辱や拷問を加えることができた。たとえば、負債の額に相当するとおもわれるだけのものを、債務者の肉体から切りとることができたのだ。――こうして、古来いたるところにおいて、この見地からする精密な、ときには恐ろしいほど微に入り細に入った肢体諸部の一つ一つにたいする価格査定が、合法的な価格査定がおこなわれた。ローマの一二銅表律は、このような場合債権者が切りとる分量の多少は問うところでない(「より多く、またはより少なく切りとるとも、不法の搾取とはならず」と布告したが、私にはこれはすでに、より自由な、より大まかな、すぐれてローマ的な法律の証左であり、進歩であると思われる)。この賠償形式全体の論理を説明してみれば、それはまことに奇異なものなのである。すなわち、この場合等価(報償)は次のようにして成立する、――債権者は、直接的な利益の取得によって損害を埋め合わせるかわりに(つまり金銭や土地やその他なんらかの所有物を賠償にとるかわりに)、一種の快感を返済もしくは賠償として味わうことが許容される。――この快感とは、おのれの権力を無力な者の上に遠慮会釈なく振るうことができるという快感でもあれば、「悪をなす楽しみのために悪をなす」という悦楽でもあれば、暴行を加えるということの享楽でもある。こうした享楽は、債権者の社会的地位が低く卑賤であればあるほど、いよいよ高く評価され、そしてややもすればこれが彼には結構このうえない珍味佳肴(ちんみかこう)、いな、高級な身分というものの前味のようにさえおもわれた。債務者に《刑罰》を加えることによって債権者は、主宰権というものに参与する。かくてついには彼もまた、他の者を《目下》として軽蔑し虐待することができるという優越感を、――あるいはすくなくとも、実際の刑罰権、行刑権限がすでに《官憲》の手に移っている場合には、他の者が軽蔑され、虐待されるのを見るという優越感を、いだくことができるようになる。要するに、賠償の実体は、残忍の行為を指図し要求する権利をもつというところにあることになる。

 

今一度問うが、いかにして苦悩は《負債》の補償となりうるか? それは、苦悩させることが最高度の快感を与えるからであり、被害者がその損害さらには損害からくる不快と引き替えに異常な悦楽を手に入れるからである。すなわち、苦悩させることは―つの真の祝祭なのであり、すでに述べたごとく、債権者の身分や社会的地位が低ければ低いほど、それだけ反対にいよいよ高く値ぶみされるものなのである。これは推測して言っただけにすぎない。というのも、こういう地下的に秘密なことがらは、そうすることのやりきれなさは別として、これを根本的に究明することは困難だからである。それに、ここで不用意に《復讐》という概念を援用する者は、洞察を容易にするどころか、暗ますだけである(――復讐そのものは、まさにあの「苦悩させることがどうして報償(著者注、損害をつぐなうこと)でありうるか?」という同じ問題へと、立ち帰るだけなのである)。残忍というものがどれほどまで古代人類の大きな祝祭の歓楽となっていたか、いな、どれほどそれが彼らのほとんどすべての歓楽のなかに成分として混じっていたか、他方また、残忍への彼らの嗜欲がいかに素純に、いかに無垢のすがたであらわれているか、また、ほかならぬあの《無私の悪意》(もしくは、スピノザの言葉をかりれば、《悪意ある同情》)が、彼らによっていかに根本的に人間の正常な性質と見なされ――、したがってそれにたいし良心がいかに心から然りを言う(!)ものとみなされていたか。こうしたことがらを力のかぎり眼前に思い浮かべてみることは、私の見るところでは、飼い馴らされた家畜(すなわち近代人、つまりわれわれ)の繊細の感情(デリカシー)、というよりはむしろその偽善に逆らうものであるように思われる。より深徹した眼識をもってすれば、おそらく今日といえどもなお、人間のこの最古の、もっとも根本的な祝祭の歓楽を充分に知ることができるであろう。「善悪の彼岸」一九四節において(さらに早くはすでに「曙光」一八節、七七節、一一三節において)、私は、高度文化の全歴史を通じて見られる(ある重大な意味ではその歴史を形成さえしている)残忍の、いや増す精神化と《神聖化》とを、控え目ながらも指摘しておいた。それはともかくとして、死刑や拷問あるいは異教徒焚刑といったものなしには、至大な規模の王侯の婚儀や民族祭典は考えられようもなく、同様に、遠慮会釈なく悪意や残酷な嘲弄を浴びせかけることのできる相手なしには、貴族の家政は考えられようもなかったということは、それほど遠い昔の話ではない(――たとえば、公妃の宮廷で「ドン・キホーテ」が読まれた場面を想い浮かべてみられるがよい。今日のわれわれなら、ドン・キホーテを通読するとき、ほとんど拷問といってよいような苦味を感じさせられる。こういうことは、この書の作者やその同時代の人たちには、はなはだもって奇妙なこと、解(げ)せないことに思われたであろう。――彼らはこの書を、世にも朗らかな本として、良心の呵責などつゆいささかもなしに読んだし、読んでは死ぬほどまでに笑ったのである)。苦悩するのを見るのは愉快である、苦悩させることはさらに愉快である、――これは残酷な命題である。が古い、力強い、人間的あまりに人間的な根本命題であり、おそらく必ずや猿ですらもこれを是認するであろう。というのも、噂によれば、猿はさまざまの珍妙な残忍の仕草を工夫しだす点で、すでに充分に人間の登場を告げ知らせており、いわば人間登場の《前劇を演じ》ているという話だからである。残忍なくして祝祭はない。人間の太古来の長遠な歴史が、そう教えている。――そして刑罰にもまた、じつに多くの祝祭的なものが見られるのだ!

 

――私が最悪の時代のしるしと言っているのは、《人間》獣をしてついにその本能のすべてを恥じるようにしてしまったあの病的な柔弱化と道徳化のことである。《天使》(ここではこれ以上に酷い言葉は使わないでおくが)になる途中で、人間はあのように胃をこわし、あんなにも舌苔を一杯生やしてしまったため、動物の悦びと無垢が嫌になったばかりでなく、生そのものすら味気ないものになってしまった――そのため彼は、時おり放心の態で鼻をつまんで立ちつくし、教皇インノケンチウス三世とともに非難がましく自分の嫌いなものの目録を作成する(「不潔な生殖、母胎内の厭らしい養分、人間の生育のもとになる原料の劣悪さ、ひどい悪臭、唾液・尿・糞(くそ)の分泌や排泄」)。苦悩がつねづね生存に反対する論拠の第一のものとして、生存の最悪の疑問符として、横行闊歩する定めになっている現今においては、これとは逆な判断がなされたあの時代を想い起こすことが、というのはつまり、苦悩させることなしにはえられず、苦悩させることのうちに第一級の魅力、生へと誘惑する真の好餌(良いえさ)を見ていたあの時代を想い起こすことが、時宜を得たものというべきである。おそらくあの時代には――こう言えば柔弱な男どもの慰めになろうが――苦痛というものがまだ今日ほどには辛いものではなかった。

 

全古代人類は、劇や祝祭なしには幸福というものを考えることができなかった徹底して公開的な、根っから見物好きな一つの世界として、つねに《観衆》というものにたいしていきとどいたこまやかな心づかいをしていたのである。――それで、すでに述べたごとく、大きな刑罰にさえもじつに多くの祝祭的なものが見られるのだ!

 

ここで、刑罰の起源と目的について、なお一言述べておこう、――これらはそれぞれ別個の、また別個であるべき二つの問題であるのに、普通は遺憾ながら一緒くたにされている。こういう場合を処置するのに、これまでの道徳系譜学者らは一体どういうやりかたをしているだろうか? 彼らは、いつもやるように、相変わらず素朴なやりかたをしているのだ――。彼らは、刑罰のうちに、たとえば復讐とか威嚇とかいったような何らかの《目的》を探りだし、さてこの目的をば無邪気にも刑罰の《誘起因》となして事の端初におく。そして――それで万事終わりである。がしかし、《法における目的》というものは、法の発生史にとっては最後に採用されるべきものである。いなむしろ、あらゆる種類の歴史にとって、次の命題にもまして重大な命題は一つもない。その命題というのは、これを獲得するのに非常な労苦を要しはするが、しかし是非とも実際に獲得されなくてはならないものである――すなわちそれは、ある事物の発生の原因と、そのものの究極の効用、その実用、それの目的の体系への編入とは、天地の隔たり(toto coelo)ほどもかけ離れている、という命題である。これを別言すれば、現存する事物、ともかくも成立するにいたったものごとは、それよりも優勢な力によって繰りかえし新しい目標へと指し向けられ、新しい用途に振り向けられ、新しい効用へと造り変えられ向け変えられる、ということである。また、有機界における一切の生起は一つの制圧、一つの支配であり、さらに一切の制圧と支配は一つの新しい解釈、一つの調整であって、これによって従来の《意味》や《目的》が必然的に不明になるか、あるいはまったく抹消されざるをえない、ということである。

 

――さてここで本題である刑罰の問題に立ち戻って、これについて二種のものを区別しなければならない。その一つは、刑罰における比較的に恒久的なもの、すなわち慣習、所作、《劇(ドラマ)》、もろもろの処分をすすめる一定の厳格な手順などである。他の一つは、刑罰のおける変移的なもの、すなわち意味とか、目的とか、それら処分の実施と結びついた期待とかである。この場合、先ほど述べておいた歴史的方法論の基本的観点からして、類推によってただちに予想されることは、処分そのものは刑罰にとってのそれの効用よりも一層古いもの一層早いものだろうということ、この効用というものは後になってようやく(とっくの昔から存在したものの、別の意味で行なわれていた)処分のなかへもちこまれ、解釈しいれられたものだろうということ、要するに事実は、従来わが素朴な道徳系譜学者や法律系譜学者らが想定してきたようなものではない、ということである。これらの系譜学者らときては、おしなべてみな、昔から手は掴む目的のために創りだされたものと考えられてきたと同じように、処分は刑罰の目的のために考案されたものだと考えてきた。ところで、刑罰におけるもう一つの要素である変移的なもの、すなわち刑罰の《意味》はどうかというと、文化のずっと後代の状態(たとえば現代のヨーロッパ)においては、《刑罰》という概念は事実もはやまったく一義的な意味をもつことがなく、むしろ《多くの意味》の一つの全体的綜合を表している。総じてこれまでの刑罰の歴史、実にさまざまな目的に刑罰が利用されたその事実の歴史は、結局において、分解も分析もしがたい、それだけにまったく定義しがたい(この点はとくに強調せねばならないが)一種の統一体に、結晶してしまう。(今日では、いったい何のために刑罰がなされるかを、はっきり説明することは不可能である。語義学的にいって過程の全体がその内に要約されている概念はすべて、定義しがたいものである。定義しうるのは、歴史をもたないものだけである)

 

刑罰は有罪者の内に負い目の感情を目覚す価値をもつ、とされる。かくて人は刑罰のうちに、《良心の疚しさ》とか《良心の呵責》とか呼ばれる例の精神的反動に特有の道具を、見つけだそうとする。がしかし、こんな次第だからわれわれは、現今においてもなお現実と真理を捉えそこなうことになるのだ。ましてや、人間のもっとも長きにわたる歴史、つまり人間の先史時代に関しては、いかにおびただしい捉えそこないをやることか! 真の良心の呵責というものは、ほかならぬ犯罪人や受刑者のあいだにこそもっとも稀なものであって、監獄や刑務所はこの良心の呵責という齧(かじ)り虫種族が繁殖するに好適な孵化(ふか)場ではない。――この点については、多くの場合この種の判断を下すことを非常に嫌がり、はなはだ不本意なこととなす良心的な観察者たちも、すべてみな一致している。概していって、刑罰は人を非情にし、冷酷にする。刑罰は人を自己集中的にならしめる。刑罰は疎外感を鋭くさせる。刑罰は抵抗力を強くする。刑罰が人の気力をうち砕き、惨めな虚脱と自己卑下をもたらすことになるならば、こうした結果はたしかに、索莫たる暗鬱な厳粛さという特徴を帯びている通例の刑罰効果よりも、なお一層に疎ましいものである。けれども、ひとたび人間の歴史に先立つあの幾千年のことを思いやるならば、何のためらいもなくわれわれは、ほかならぬ刑罰によってこそもっとも効果的に負い目の感情の発達が抑制されてきたのだ、と断定することができる。――すくなくとも、刑罰の強権の発動を蒙った犠牲者に関するかぎりではそうだ。犯罪人が裁判手続きや行刑処分を実地に目撃することによって、どれほど自己の行為・自己の行状をそれ自体として非難すべきものと感ずるのを妨げられるかという点は、とくに軽視してならないところである。それというのも、犯罪人は実際に、自分のとまったく同一の行状が正義のためになされ、しかもその際にはそれが是認されて、良心の疚しさなしになされるのをその目で見るからである。すなわち、スパイ行為・策謀・買収・陥穽(かんせい)、要するに警官や検察官らが弄する狡猾老獪(長い間世俗の経験を積んでわるがしこいこと)な手管(策略)のすべて、それにまた、さまざまな種類の刑罰の上にはっきり現れるような、情念からしては許されないものの原則上は許される強奪、圧服、凌辱、拘禁、拷問、殺害など、――これらすべてが彼の裁判官によって、それ自体としては決して非難され処罰さるべき行動とは見なされているのでなく、むしろただそれがある種の願慮からして利用されているだけだ、というのを犯罪人は見るからである。《良心の疚しさ》という、まさにこの地上の植物の中でももっとも不気味で興味深い植物は、けっしてこの刑罰の地盤の上に成長したものではない。――事実、裁判官や刑吏たちの意識には、きわめて長いあいだ、自分らが《有罪者》を扱っているのだという懸念は一向に浮かばなかった。むしろ、扱っているのは損害を惹(引)き起こした者、責任のない一個の宿命的存在だったのである。そして、その後に刑罰が、これまた一個の宿命のように、この者の頭上に降りかかってきたとき、この受刑者自身としては別に何の《内面的な責苦》をも感じなかった。ある予測しがたかった事象、ある怖るべき自然現象が突如として見舞ってきたかのような感じ、もはやどうしようもない勢いで落下してくる岩塊に圧しつぶされるかのような感じ、それしか彼にはなかったのだ。

 

ここにおいて、良心の呵責なるものはどうなったか? ついに彼はわれと自らに言った、「これは歓喜(gaudium)の反対物、――あらゆる期待に反する結果となった過去の事物の表象にともなう悲しみである」(「倫理学」第三部、定理一八、備考一、二)。突然に刑罰に見舞われた悪行者らが幾千年来おのれの《犯行》について感じてきたのも、スピノザのこの感懐と異なるものではない。つまりそれは、「思いもよらぬまずいことになったものだ」という感じであった。けっして、「ああしたことをなすべきではなかった」という感じではなかった――。

 

疑いもなくわれわれは、刑罰の本来の効果を、何よりもまず、それが用心深さを増させる点に、記憶を長続きさせる点に、将来はもっと慎重に、もっと疑いぶかく、もっと内密にことを運ぼうと意志させる点に、多くのことに人はどうせ力およばぬものだということを悟らせる点に、つまりは自己批判の一種の改善をもたらす点に求めなければならない。人間においてにせよ動物においてにせよ、およそ刑罰によって達せられることは恐怖の増大、用心深さの増進、欲望の制御がそれである。この点からいって、刑罰は人間を馴致するにしても、これを《より善く》することはない、――むしろこの反対を主張する方が当を得ているだろう。(下世話にも、「痛い目にあえば利口になる」という。が、利口になるだけに、わるくもなる。運よく鈍物になる場合もかなりある)

 

ここにいたってはもはや私は、《良心の疚しさ》の起源についての私自身の仮説を一まず暫定的に述べておくことを避けるわけにはいかない。この仮説は、容易には人の耳に入りがたいもので、長いあいだ考慮され見守られ熟思されるべきものである。私は、良心の疚しさというものをば、およそ人間がその体験したあらゆる変化のなかでも最も根本的なあの変化の圧力のため、罹(かか)らざるをえなかった重い病気だと考える。――もっとも根本的なあの変化とは、人間が所詮は社会と平和との制縛にからめこまれているのを悟ったときの、あの変化のことである。陸棲動物になるか、それとも死滅するかの選択を余儀なくされたときに、水棲動物のうえに起こらざるをえなかったと同じことが、人間というこの野蛮・戦争・放浪・冒険にうまく適応していた半獣の上にも起こった、――彼らの本能のすべては一挙にしてその価値を失い、《蝶番(ちょうつがい)をはずされ》てしまった。彼らはそれまでは水によって運ばれていたところをば今や足で歩き、《自分で自分を運ば》ねばならなくなった。恐ろしい重みが彼らの身にのしかかってきた。きわめて簡単な仕事をするにも彼らは自分をぎこちなく感じた。この新しい未知の世界にたいして、彼らはもはや、その昔ながらの案内人を、無意識のうちにも確実に先導してくれるあの統制本能を、もたなくなっていた。――この不幸な半獣たち、彼らは、もっぱら思考・推理・計測・因果連結だけに依存し、その貧弱きわまる、誤りを犯しがちな器官である彼らの《意識》だけに依存するようになったのだ! 思うに、これほど惨めな気持、これほど重苦しい不快感は、かつて地上にあったためしはないであろう。――もちろん、そうなったからとて、あの古い本能がその要求を提出することをぱったり止めてしまったわけではない! ただそれら本能の欲求を叶えることが困難になり、ほとんどできなくなっただけなのだ。要するに、これらの本能は、新しい・いわば地下的な欲求満足を求めざるをえなくなったのだ。外に向かって発散されないすべての本能は、内向する。――これこそが、私の呼んで人間の内面化というやつである。これによってはじめて、のちのち人間の《魂》と呼ばれるようになるものが、人間の内に成長してくるのである。全内面世界、はじめは二枚の表皮のあいだに張られたもののように薄っぺらだったこの世界は、人間本能の外への発散が阻まれるにつれて、いよいよ分化し膨れあがり、深さと広さと高さとを得るようになった。古い自由の本能に対して国家的組織がおのれを防護するため築いたあの怖るべき堡塁――なかんずく刑罰がこうした堡塁の一つだが――は、野蛮で放縦で浮浪的人間のあの本能のすべてを追い退けて、これを人間自身の方へと向かわせた。敵意、残忍、迫害や襲撃や変改や破壊の悦び、――これらすべてが、こうした本能の所有者自身へと方向を転ずること、これこそが《良心の疚しさ》の起源なのだ。外部の敵や抵抗がなくなったことから、いやでも習俗の圧しつけられるような狭苦しさと杓子定規(しゃくしじょうぎ)の状態に押しこめられた人間は、心いらだっておのれ自身を引き裂き、責めたて、咬みかじり、かきむしり、いじめつけた。《飼い馴らされ》ようとしているところの、おのが檻(おり)の格子に身を打ちつけて傷だらけになるこの獣、われと自ら冒険や拷問台や不安で危険な野蛮状態をつくりださずにはいられなかったこの窮迫者、荒野への郷愁にやつれ果てたこの者、――この痴呆者、望郷に苛まれ絶望したこの囚人こそが、《良心の疚しさ》の発明者となったのである。

 

押し戻され、内攻し、心内に幽閉されて、ついに自己自身にたいしてだけ爆発し、ぶちまけられるだけに過ぎなくなったこの自由の本能、これこそが、これのみが、良心の疚しさのはじまりなのだ。

 

自己滅却とか自己否認とか自己犠牲とかいった矛盾した概念のうちに、どれだけ理想や美が汲みとれるかという謎も、それほど解きにくいものではなくなるだろう。それからまたただちに次の一事も知られるであろう――この点は私の疑わないところだが――、つまりそれは、自己滅却者・自己否認者・自己犠牲者が味わう悦楽は本来どういう種類のものであるか、というそのことである。すなわち、その悦楽は残忍の一種なのである。――道徳的価値としての《非利己的なもの》の由来、およびこの価値を発生せしめた地盤の標示については、まず差し当たってのところ次の点だけを示唆(しさ、それとなく気づかせること)しておこう。良心の疚しさこそが、自虐への意志こそが、非利己的なものの価値を生み出す前提となったのだ、と。――

 

以上の事態とともに、またそうした事態のもとに、いったい何が起こったかは、すでにお察しのことであろう。すなわち、内面化されて自己自身の内へと追い込まれた動物人間の、馴致さるべく《国家》のなかに閉じこめられた動物人間の、あの自己呵責への意識、あの内攻した残忍さこそがそれである。この動物人間は、苦しめようとするこの意欲のより自然な捌け口が塞がれたために、自己自身を苦しめようとして良心の疚しさを案出した。――良心の疚しさにとりつかれたこの人間は、その自己呵責を凄絶な酷烈さと峻厳さの極みまで押しつめるために、宗教的前提をば我が物としたのである。神にたいする負い目(罪責)、この思想が人間にとっての拷問具となる。