SonofSamlawのブログ

うひょひょ

第二部 第三章 凶悪な殺人犯の心

第三章 凶悪な殺人犯の心理

  ――不快を社会的正当な手段で中和できなかった者の恐るべき行動について――

 

第一節 我々の中の野獣

凶悪な犯罪や残忍な事件があると、人々はたいてい「昔はこんなことはなかった、もっと平和だった、今はおかしい」なんてことを言うものだ。しかしそうだろうか、むしろ昔はもっとひどかったのではないか。

太古において、我々は食うか食われるかの状態であったろう。そこは弱肉強食の世界であり、暴力が支配していたと思われる。「あいさつの起源」について、私が中学生のときの国語の教科書に書いてあったことを思い出す。それは次のようなものだった。太古において、荒野で知らない者同士が出会うと、どちらかが死なねばならなかった。つまり、戦いになってしまうのである。我々の今でも変らない自分を守るためということと無関係に、ただ相手を打ち倒したいというあの攻撃的な本能のせいだ。これを避けようとする手段として、「あいさつ」が生み出されたというのだ。荒野での戦いを避けたいと思った者(弱者)が、あいさつという行為を発明したのだ。その後さらに発展して、集団(部族など)の中での秩序を保つために、我々の危険な衝動を押さえつけ、本性を覆い隠す必用が出てきて数々のアイデアが考案された。鋭くとがっていた人間はどんどん丸みをおびていくように仕向けられていくことになる(ニーチェ)。このアイデアとは、たとえば部族内の規律・刑罰・騎士道などであり、また、公正・正義などの観念も生み出され、宗教もそれに加わり、やがて全てを支配するようになってしまった。つまり、我々の本性(利己的で残忍で醜いもの)が、全て悪とされて禁止され、それをやった者が周りから非難され処罰されるようになった。しかし、このような手段によって抑えつけられ、手なずけたはずのもうなくなっていなくてはならない不道徳・悪と呼ばれる我々の危険な行為への衝動は、けして鎮火させることのできるものではなかったのだ。それは時々平和な世界に現れ、太古にはしょっちゅう起こっていたことを再現して見せるのである。昔は平和であった、世の中おかしくなってきた、などと言う者は単にその者が運よく平和であっただけで、今よりひんぱんに起こっていただろう恐ろしい事件を単に知らなかっただけなのだ。そりゃそうだろう、昔はTVもラジオもなかった。つまり、事件がなかったのではなく、それをいちいち報道できなかった、あるいはそれを知る手段がなかった、ということなのであって、今と変らないか今以上の凶悪で残忍な犯罪が行われていたと思われる。自分が知らないことはないものとしてしまう、というのはあまりにも雑な考え方ではないだろうか。

二〇〇四年にNHKのTV番組で、現代の子供の性格について討論していた。その中で中学校の教諭が次のようなことを言っていた。「最近の子供の行動はまったくわからない。我々が考えるところとは別なところで生きている。我々は常に彼らに負けているような気がする。しかし、この子供たちが我々と違うわけではなく、我々の中にも彼らと同じものはあるのであるのではないか。ただ、我々のそれにはふたがしまっていて、それらが外に出ないようになっているだけではないだろうか。現代の子供たちにおいては、そのふたが開いてしまっているだけなのではないのだろうか」と、つまり、我々はその何かを抑制しているのに、現代の子供たちは抑制していない、ということだ。しかし、このふたは我々にはかってに開け閉めできない。我々は未知であり、何が出てくるのかわからない。恐るべきものがひそんでいるかもしれない。これは、凶悪な犯罪を見るとき感じることだ。

これに関連して、二〇〇五年五月一三日の朝日新聞に、次のような記事があった。

 

*財団法人「インターネット協会」の主任研究員の大久保さんは、同協会を激しい言葉で非難するメールを続けざまに送ってくる相手と実際に会ったことがある。「どんなに怖い人かと思ったら、普通のおとなしい人。こちらが驚いたくらい」。

そとでは静かな人が、キーボードに荒々しい言葉をたたき続ける。「普段のストレスを、別の人格になって発散しているのではないか」。大久保さんはこう分析する。

 

外で静かな人は激しいものがないのではなく、それを外では抑えているのだ。それを出すための手段をもっていないからだ。誰にも恐るべき危険なものはあるのであって、その排出の仕方が人によって違うだけなのではないのだろうか。

二〇〇四年四月に、若い人の悩みを紹介するTV番組があった。その中で次のような告白をしている青年がいた。「自分に中に野獣がいる。いつも誰かを殴りたくなってしまう」。彼は自分の中に、自分でもコントロールできない危険な衝動があることに気づいているのである。前出の野村ひろし「グリム童話」には次のようなオーストリアの「精神分析学」の創始者フロイトの言葉が紹介されている。

 

*幸福な人間は決して空想しない。空想するのは不幸な人間だけである。みたされなかった願望こそ空想を生みだす原動力であって、空想というものはどれもこれも、願望充足であり、人を満足させてくれない現実の修正を意味しているのである。人を空想へと駆りたてる願望は、その性別、性格、生活事情によってそれぞれ異なるが、しかし、たやすく二つの主なグループに分類することができる。すなわちそれは、人格高揚に奉仕する名誉心的願望か、性的な願望かである。

 

これから話題になる凶悪な犯罪者たちは、皆、空想をよくするのである。彼らの多くは、前記の二つの主なグループのうち性的な願望が特に大きい。その中には、名誉心的願望をもつことができなかった者や、名誉心的願望がかなえられる可能性がなかった者もいる。彼らは、自分の願望を社会的に正当な手段で満たそうとする才能がないか、その可能性を断たれてしまった不幸な者たちなのだ。そんな犯罪者でなくとも、我々は前記の二つの願望に苦しみ、その不快に対処するために、苦しまぎれに実にいろいろな驚くべき手段を使う。人を助ける、優しくする、かわいがるというような一見非利己的に見える手段による者もいれば、人をいじめる、性的な暴行を加えるというような残忍な手段による者もいる。二〇〇五年に起きた大学教授による「手鏡による女性のスカート内ののぞき事件」という犯罪からは、教授になって名誉心的願望が満たされると、こんどは性的な願望が彼に安住を許さなかったという事実がわかるのである。

我々にはいろいろな欲望があり、それぞれに付いている「ふた」が開いているか閉まっているかで、その欲望に対処する行動が起こるかどうかが決まる、という見方と、我々誰もがもつ恐るべき欲望とそれによる不快に対処するための手段がいろいろあるという見方の二つがあるといえる。これからの話は後者の見方で進めていく。つまり、社会的にうまくいく者は、誰にでも共通にある我々の危険な欲望とそれによる不快の中和手段が社会的に正当なものになっていただけのことなのである。凶悪で残忍な犯罪者は、その手段が犯罪と呼ばれるもの以外にはなかったのではないかということである。この《良き》中和手段を与えられていなかった不幸な者の一部が、恐ろしい犯罪者になっていくのであろう(精神病は別として)。このアイデアは次に紹介する米国FBIのロバート・K・レスラー氏の考えでもある。

 

第二節 連続殺人犯

前出のロバート・K・レスラーの著書「FBI心理分析官」は、米国で起こった連続殺人事件について書かれたものである。レスラー氏が名づけた「連続殺人」は、一人の犯人が次々に殺人を繰り返していくもので、大量殺人とは違うものだ。彼らにはきわめて大きな押さえがたい性的な欲望がある、とレスラー氏は言う。連続殺人は、アメリカ合衆国では全てが白人の男性であるという。そして、その犠牲者のほとんどが女性であり、青年や少年もいる。米国以外の国でも人を連続して殺し続けた犯罪者のほとんどが男性であるらしい。男性は女性に比べて不快が多いのか、欲望が大きいのか――欲望は達成されるまで不快を与え続ける――、不快に耐えられないのか、とにかく、前章で明らかにしたように男性は女性に比べて「生きる」ということに関しては弱者なのである。同じストレスを受けても、男性は女性に比べて大きな不快を感じるようで、「痛さ」についても女性は男性より鈍感であるそうだ。また、野蛮になればなるほど痛さに強くなるそうだ。このような残忍な行為は全て何らかの不快を中和する(快楽する)ために行なわれると考えられる。社会的に正当な手段で中和できなかった不快は、たとえば女性や少年を冒す・殺すという手段で中和されるのである。

この本の解説のところで、犯罪学者の福島章氏も前記と同じようなことを言っている。それを引用する。

 

*著者(レスラー氏)によると、連続殺人に犯人は、ほとんどが《性的異常者》である。したがって、連続殺人はほとんど《性的衝動》に駆られての行為である。ドイツや日本の犯罪学では、この種の「殺人そのものが性的な興奮や満足を与えるような殺人」を《快楽殺人》と定義して、殺人の一類型と位置づけている。しかし、FBIの経験によれば、ほとんどすべての連続殺人者は性的殺人者であり、《快楽殺人者》であるということになる。

 

FBIの方法では、犯人の生活の歴史と心理的な発達の歴史を詳細に分析しようとする。そこでまず明らかになったことは、連続殺人の犯人幼児期は不幸であるという事実である。まず両親の離婚などによる家庭の崩壊が多い。また、拒絶的で愛情に乏しい母親との、恵まれない母子関係も多い。しかしこれは、犯罪、非行者一般に共通する特徴といえる。

 

*大切なことは、犯人たちの内面のファンタジーがいかに現実に実行されるにいたるかということであろう。心の中でこの種のサディズム的な幻想を抱き、自慰やセックスの場面でそのイメージを活性化させて満足や興奮を得ている人はけっして少なくない。このことは、世にSM雑誌やホラービデオなどが大量に流通していることからも明らかであろう。しかし、《性的殺人者》はその割に少ない。

 

*しかし、連続殺人者には、《秩序型》の典型に見られるように、一見《正気の仮面》をかぶった者も多い。彼らが、内面のファンタジーだけでは満足せず、実際に人を殺して、その死体を引き裂いたり解体したりする動機はいったい何であろうか。多くの事件の分析や、犯罪者とのインタビューを通しても、その謎は相変わらず謎として残されているように思われる。だからこそ、彼らは《怪物》なのだろう。しかしその《怪物》とは、殺人を犯さない人間も誰しも無意識の深みには抱いている《影》をたまたま目に見える形で明るみに出した人々だともいえるのである。

 

*つまり、殺人者を研究することは、人間性の一番奥深くにひそんでいる《シャドウ》を研究することにもなる。その意味で、本書はどんな哲学書にもないような事実の厚みと迫力をもってわれわれに迫ってくる。したがって、彼らに対して有効な《治療方法》などはありえない。出来ることは、われわれも一緒になって、わが内なる《怪物》と向き合うことだけである。

 

さらに、性的な欲望と殺人との関係について、前出のフランスの総合的な思想家バタイユ(1897年生まれ)の著書「エロティシズム」から引用してみよう。この本は私の生まれた年、一九五七年にフランスで出版された。

 

*エロティシズムとは、死におけるまで生を称えることだと言える。これは、厳密に言えば、定義でない。しかしこの表現はほかのどれよりみごとにエロティシズムの意味を語っていると私は思う。正確な定義が求められるならば、たしかに生殖のための性活動から出発せねばならないだろう。というのもエロティシズムはその特殊な一形態なのだから。生殖のための性活動は有性動物と人間に共通の事柄なのだが、しかし見たところ人間だけが性活動をエロティックな活動にしたのであった。エロティシズムと単純な性活動を分かつ点は、エロティシズムが、生殖、および子孫への配慮のなかに見られる自然の目的〔種の保存、繁栄〕とは無関係の心理的な探求であるというところなのだ。この基本的な定義から、私はしかしただちに、冒頭で示した表現「エロティシズムは、死におけるまで生を称えること」に立ち返る。というのも、エロティックな活動がはじめは生のあふれんばかりの豊かさであるにしても、いましがた述べたように生の繁殖への配慮とは無関係の心理的な探求は、死と無縁ではない目的に向けられているからである。ここには生と死のたいへん大きな矛盾があるので、私としては、すぐに次の二つの引用文によって私の主張に存在理由のようなものを与えたいと思う。二つともサド(著者注:サディズムという語元となったフランスの作家(一七四〇~一八一四))の文章だ。

 

*奥義は残念ながらあまりに明確なのだ。それだから悪徳にわずかでも根をおろした放蕩漢は、殺人がどれほど官能を刺激するか知っている。

 

*同じ作家がさらに次のような奇妙な文章を書いている。

 

*死を淫蕩な発想に結びつけることほど、死に慣れ親しむための良策はない。

 

*私はさきほど「存在理由のようなもの」という表現を使った。じっさい、サドの思想は常軌の逸脱であるだろう。ともかく、サドの思想が拠りどころとしている傾向が人間の本性においてさほど稀なものではないというのが本当だとしても、常軌を逸した性行動が取り扱われているのは事実だ。が、それでも、死と性的興奮のあいだの関係は問題として残る。殺人を見たり想像することによって、少なくとも病者は、性的快楽への欲望をかきたてられることがある。ただし私たちは、病がこの死と性的興奮の関係の原因だと言ってすますことはできない。私個人としては、サドの矛盾した表現の中に一つの真実が現れていると認めたい。この真実は悪徳の世界に限定されるものではない。この真実は生と死に関する私たちの表現の根底だとさえ私は思っている。私たちは、この真実から離れて、存在について考えることはできない。私は結局そう思っている。多くの場合、存在は、情念の運動の外で人間に与えられているように見える。逆に私は、断じて存在を情念の運動の外にあるものと思い描いてはならないと言いたいのだ。

 

*せいぜいのところ私たちが言えるのは、もしもエロティックな行為に、侵犯の要素、さらには侵犯を成り立たせている暴力の要素が欠如しているならば、エロティックな行為は絶頂に達するのがますます困難になるということだ。とはいえ、本当の破壊、正真正銘の殺人が、私が先に語ったそのきわめて暖味な等価物(裸にすること)よりもっと完全なエロティシズムの形態をもたらすということはないだろう。サド侯爵が小説のなかで、エロティックな興奮の絶頂を殺人行為のなかに見定めているという事実は、次のような意味をもっているにすぎない。すなわち私が描きだしたまだ兆しほどの運動を極端な結果へ導いたとしても、私たちはかならずしもエロティシズムから遠ざかるわけではない、という程度の意味だ。人が通常の生活態度からエロティックな欲望に移ってゆくとき、そこには死の根源的な魅惑が作用している。

 

また、前出のカール=ハインツ・マレ「首をはねろ!」には次のようにある。

 

*ポルノグラフィーでは好んでセックスと暴力シーンが描かれるし、一部の刊行物、とりわけ一部の大衆紙には――それだけとは限らないが――ポルノグラフィーとそっくりのシーンが出てくる。このようなテーマの描写を最初に手がけたのは、周知のとおりマルキ・ド・サドであった。彼は初めて暴力とセックスの狂宴をきわめて大胆に描き、文学はすべてのことに対して開かれたものでなければならない、と主張した。彼が二七年間も監獄と精神病院で暮らしたのは偶然ではない。

ここで注目すべきことは、メルヘンがサドよりもずっと以前に、ほとんどあからさまなサディズムや、いくつかのセックスと暴力のシーンを内容として含んでいたということ、しかもそれが非難されることもなく現在に至るまで生き残っているということである。この事実は、サディズムのようなものが個々の人間だけにかかわる病的(異常)な事柄でなくして、普遍的な人間的現象でもあるということを物語っているのかもしれない。

 

さらに、前出のレスラー「FBI心理分析官」から、いくつか引用してみよう。

 

*殺人犯の空想の特徴は、視覚的な要素が強く、支配、復讐、性的虐待服従の強制などがテーマになっている点だ。正常な人は性的な冒険について空想するが、彼らはセックスと暴力とを結びつける。相手を汚し、辱め、支配しようとするアブノーマルな要求を、性的な冒険とないまぜにするのだ。普通の空想では、相手も自分と同じように楽しむことが前提となっている場合が多い。しかし人格異常者の空想では、本人が楽しめば楽しむほど、相手は危険な目に会うことになる。・・・「こう言うとすごく冷たく聞こえると思うけど」と、エドモンド・ケンパーは申し訳なさそうに言ったことがある。「俺が求めていたのはだれかと特定の経験をすること、自分の思いどおりに相手を所有することだった。だから、その人を体から追い出す必要があったんだ」しかし、人間はいったん肉体から追い出されたら、二度と戻ることはできない。つまりケンパーは、自分の性的空想を実現するためには、相手を殺さなければならなかったと言っているのだ。・・・このエドモンド・ケンパーは思春期に祖父母を殺害して少年刑務所で四年の刑期をつとめ、出獄後に母親をふくむ七人を殺して、終身刑を宣告されている。

 

*犯罪者が孤独な青年期を迎え、性的にも目覚めると、空想にふけることがますます多くなる。彼らは世間から不当な扱いを受けていると感じ、その怒りのはけ口を空想に求める。何人かの殺人犯は、思春期にハイヒールや女性の下着、絞殺に使うためのロープに執着したと報告している。ロープは他人に対してだけでなく、性的な刺激として自分自身にも使用した。エドモンド・ケンパーは一二のとき、姉と「ガス室ごっこをして遊んだという。姉がケンパーを椅子に縛りつけガスのスイッチを押す真似をすると、彼が椅子の上でのけぞって「死ぬ」というものだ。セックスと死を結び付けたぞっとするようなわびしい遊びだった。

 

*テッド・バンディは、ロー・スクールに入るのに必要な財政的援助を得られなかったことがきっかけで、最初の殺人を犯したことになっている。もしそうしたストレスがなく、ロー・スクールで学ぶことができ、性的要求を満足させてくれる女性と出会っていたら、彼は殺人を犯さなかっただろうと言う人もいる。攻撃的な弁護士となり、売春婦のもとを訪れ、サドマゾヒスティックな関係を結び、怒りを発散させるようにしていたら、犯罪者にならずにすんでいたというのだ。むろん、これが事実かどうかは確かめようもない。だがバンディののちの行状から判断する限りでは、ロー・スクールに行こうが行くまいが、性的空想を満足させる女性に会おうが会うまいが、やはり彼はどこかの時点で犯罪を犯していた可能性が強い。彼の頭の中では、性的欲望と、傷つけ破壊したいという要求とが混然一体となっていたのだ。

 

二〇〇五年一二月には、次のようなニュースが報じられた。宮崎大学医学部の学生がインターネット上に、ドライブ中に車ではねて殺してしまったうさぎを解剖したという記事を掲載した。そのなかには次のようなことも書いていた。「魚や、かにを殺した。皆、そのとき、元気で楽しそうだった。人間の奥底を見たような気がする」。正確に覚えていないが、このようなことが言われていた。この学生が言っていることは異常にみえる。しかし、彼が「人間の奥底を見た」と言っているように、こういう気分は誰にもひそんでいるものだ。この学生は、それを抑制することができなかっただけなのかもしれない。

 

第三節 連続殺人犯の幼年期の不幸

レスラー氏は前出の「FBI心理分析官」の中で、幼年期(〇~一二歳)の幸福は、欲望やストレスによる不快に対処するための社会的に正当な手段を見つけ出す能力を形成すると言っている。幸福な幼年期を送った者は、社会的に正当な行動に専念することによって、あらゆる不快を中和できる能力をもつ。このような者はいかなる欲求や困難な状況に直面しても、その不快をいやすための、また、危機を脱するための社会的に正当な手段を見つけ出すことができるのである。ニーチェ道徳の系譜」(秋山英夫訳、白水社)の中にあるのだが、我々はある欲望が妨げられたときその方向を換える。たとえば他人を攻撃したいという欲望が妨げられたとき――攻撃する+相手がいない、相手が強すぎるなどで――、その攻撃欲望は他のものに向けられる。それは自分でもあり得て、僧侶などの苦行や良心の呵責(ニーチェの考え)などがそれであり、マゾヒズムも同種のものであり、これは、自分を積極的に苦悩させることによってある不快を中和したり、優越感を感じたりしようするのである。前出のニーチェ善悪の彼岸」(信太正三訳、筑摩書房)には、『好戦的な人間は、平和なとき自分におそいかかる』とある。この良い例として、猿は相手に抵抗できなくなると自分の手を咬むそうである。この点て猿は人間に近いのである。前出のニーチェ道徳の系譜」によれば、一部の猿には残忍な行為やいじめという《人間的な行為》が認められるそうである。

社会的に正当な不快の中和手段は、たとえばオリンピックで優勝する、会社でよい仕事をして出世する、良い人と結婚する、趣味を楽しむ、良い学校に入る、などである。しかし、そのような手段は、その人がその手段を選べる状態にあり、選べるだけの能力があったからこそ使えたのである。レスラー氏によれば、そういう能力は、幼年期の幸福により形成され、いかなる苦境においてもそれに対処するための社会的に正当な手段を見つけることを可能にしてくれるのである。

幸福な体験は、生きるために必死である者に比べて人を考えさせるのである。前出のニーチェ道徳の系譜」にあるように、我々は元々何も無かった我々の中にいろいろな意味を加えていく。薄っぺらだった人間は体積をもつようになったのである。我々は、我々の考える我々を複雑化していき、やがて道徳的・宗教的になっていくのである。

幼年期に自分のために尽くしてくれる者、魅力的な者、楽しい雰囲気の中にいた者は、前記のフロイトの言う我々の願望の二つの類型である名誉心的願望や性的願望による不快を、社会的に正当な手段を探しそれに専念することにより――たとえば勉強に励むなど――いやすことができる、という能力が身についているのである。良い思いをすればするほど、それにかかわった者に感謝し、恩返しをしたいと思い、また、その相手に自分を良く見せかけたいと思う――これが名誉心なのだ――ものだ。相手が自分に対して《優越した》のと同じく、自分も相手に対して《優越したい》と思う。ステキな相手が前にいれば、自分も負けないくらいステキになろうとするものだ。たとえば騎士道(中世ヨーロッパに起こった騎士特有の気風)などであり、ある程度対等である者同士の間だけで成り立つ。好きな相手には、自分のことを好きになってもらいたいと思う。恰好いい主人公が出てくる映画を見ると、自分がその恰好いい主人公になったような気分で帰ってくるものだ。相手が優れていれば、自分もそれに近づきたいと思う。相手が自分に良くしてくれれば、自分も相手に良くしたくなる。つまり、これらの社会的に正当な行為が、ある欲求やストレスからくる不快を中和する手段となるのである。また、これらの良い経験は我々に守るべきもの、気にしなければならないものを作ってしまうのだ。だから、それを失うのが怖くなり、悪いことができなくなる。つまり、我々をより良い子・臆病にしてしまうのである。

我々はよく「誰かのために」と考えて行動することがある。しかし、実は利己的な欲求をその誰かに関することで満たそうとする行為なのであり、相手を助けたい、喜ばせたい、というのは見せ掛けのものにすぎない。それは相手が魅力的であり、高貴であり、強者である場合にはいっそう強くなる。自分も社会的に正当なことをやり、相手に良く思われたい、相手に対抗したい、自分が相手に感じるのと同じ以上に自分のことを価値ある者と思ってもらいたいという名誉心から起こっている行為なのである。

私が大学で一番になったのも、片親ながら働いて私を大学に入れてくれたおふくろを喜ばしてやりたかったからだ、とはよく言うことだ。しかしよく見ると、そこには、魅力的なおふくろに対抗したいという醜い欲求がひそんでいるのだ。相手をステキだと思えば思うほど、我々は相手にも自分をステキだと思ってもらいたいという欲求(名誉心)が出てくるものだ。これは感謝、恩返しと呼ばれているが、実は利己的な行為なのだ。つまり、ある優越感を自分が認める《価値ある者》を利用して得ようとする行為なのである。自分の優れたところを、自分が認める《価値ある者》に見せつけたいのである。これはナイトクラブで、客が人気のあるホステスを指名し、自慢話に没頭することと同じなのである。

以上のことに関連して、ニーチェは前出の「人間的な、あまりに人間的な」(浅井真男訳)で謎めいたことを言っている。

 

*名誉心は道徳的感情の代用物であること。――道徳的感情は、少しも名誉心をもたないような天性の人々には欠くべからざるものである。名誉心の烈しい人々は道徳的感情なしにでもやっていける、ほとんど同じ成果を収めながら。――それゆえ、名誉心に縁遠いけんそんな家庭の息子たちは、ひとたび道徳的感情を失えば、通例急速に完全なごろつきに成り下がるのである。

 

つまり、我々が「良い子」の行動をするのは、それによって我々の名誉心や道徳的感情が満たされるからであり、ただで善人をやる者などはいないのだ。報酬があるからこそ、良い子でいられるのだ。まったく無条件な非利己的・善良な行為などはないのであって、何かをその行為により得られるからこそ、そんなめんどうくさいことができるのである。社会的に正当なことをやることにより報酬を受け取れるめぐまれた者にだけに、善人を演ずる舞台が用意されるわけであり、そうでない者は、そのような不快の中和手段がないわけであるから、したがって行き場がなくなり「完全なごろつき」に成り下がるしかないというわけだ。

幸せな経験は我々を弱く、優しく、考え深くする。これは守ろうとする気分であり、野生的本能である攻めよう、制覇しよう、破壊しようという気分を抑制する。これは、道徳的・宗教的な気分である。また守るべきものをたくさん背負った者も同様である。良いものをたくさんもつと、それを失うことが怖くなってしまうからだ。幸せな思いをしてこなかった者や、現在幸せでない者は、守るべきものや失うものがなく、従って、この者にとって悪い行為を抑えるという努力(善良な行い)の価値は、何もないのである。

また、病人も弱く、優しく、考え深くなる、つまり、《善良な者》になる。それは自分を守ることに専念しなければならないからだ。一般には、善き行いの代表的なものであると思われている「優しさ」とは、実は不気味なものでよく見るとその中には、我々の策略・姦計がひそんでいる。たいていの場合、優しい行為には自分の優越を確認しようとする実にいやらしい我々の策略がひそんでいるものだが、弱者、たとえば病人の優しさには、自分を守るための策略が見える。これは相手をコントロールするための手段の一つだ。我々は自分に弱いところがあればそれが気になる。どこか痛いところがあれば、その部分の存在を強く感じそれを守ろうとする行動が本能的に始まるのである。それは生存の維持への不安を感じ始めた者の策略であり、自分の生存を維持するということが唯一の目的とされているのである。それは、相手を気づかっているように見せかけているが、実は自分を気づかってくれることを見返りとして要求しているのだ。相手に自分を攻撃しないようにさせ、自分のためになる行為をさせよう、自分の見方にしようとする策略があるわけだ。この優しさという我々の実に《気高い演技》は、あらゆる場面で我々が相手をコントロールする有力な手段として、また、我々が優越感を得るための手段として活用されているのである。優しさという一見非利己的に見える行為には、実は利己的なものがひそんでいるというわけである。

会社などの組織の中で、落ちぶれていく者は優しくなっていく。家族の中に病人が出た者、困り果てた者も優しくなっていく。前出のニーチェ道徳の系譜」には『きまじめさは生命力の衰えを示している』とある。失業した者とそうでない者では、同じお金をもっていてもそれに対する考え方は違う。失業した者は残ったお金、もう当面入ってこないお金をどう有効に使おうか、という守りの体制に入っていってしまう。この状態は人を弱くする。別な言葉で言えば、何かを攻撃したいというエネルギーを奪い去ってしまう。この状態は人をきわめて考えさせ、まじめにしてしまい、良い人・優しい人・不正をしない人にしてしまう。これらの気づかいは道徳というものを生み出していく土壌となる。また、それらは宗教的な気分でもある。宗教はこのような気分を体系化したものである。組織の中でうまくいかなくなってしまった者は、皆このようなタイプの者になってしまうはずだ。ある程度めぐまれた状態から落ちてゆくとき、人は優しくなっていくのである。しかし、前記のように初めからめぐまれていない場合、人は悪くなってしまうのである。

大病をした者はそれ以後、何をやってもそれ以前のように楽しめなくなってしまうものだ。楽しむことは一つの能力であり、これは生命力の強度や心配事の量と関係しているのだ。一度でも大病や恐ろしい経験をすると楽しむという能力が低下し、不安・疑い・恐怖などに関して鋭敏になってくるのである(臆病になるということ)。また、たとえば列車の事故にまきこまれて死にそうになった者は、二度とそれに乗らなくなるものだ。昔、「ステレオサウンド」というオーディオ関係の雑誌に次のような記事があった。ハイエンドオーディオ楽しんでいる方であったが、ある大病をしてからというもの、何を聞いてもそれ以前のように感動しなくなってしまったというのだ。また、大病をした者は、他人の気持がよくわかり、思いやりのある優しい人間になるとは、よく言われることであるが、前記のように、単に弱くなって臆病になっただけなのである。自分を守ることで精一杯になった者は、いつもびくびくしているのであり、他人に対して攻撃をしかけ敵を作ろうなどという余力はなく、他人に、自分をできるだけ無欲で善良な者と見せかけ騙すというような、自分の生存を確保するための策略を立てざるを得ないのである。

新撰組の副長であった一八三五年生まれの土方は、残忍なことをしたことで有名だが、「鳥羽伏見の戦い」に敗れた後、落ち目になってしまうと、優しい人間になっていったそうだ。衰退していくに従い、人は優しくなっていくのだ。それは生命力の強度とか社会的な地位・状態が態度に現れているだけであって、けして精神的な成長の問題などではない。土方は肉体的に弱くなったわけではないが、社会的に弱くなった。彼は周りのあらゆる関係の中で弱くなってしまったのである。肉体的・社会的な状態により、それに対応した欲求が生まれ、それが精神をコントロールしているわけである。グリムメルヘンの中にもそれははっきり現れている。強い存在である女性は、実は決して優しくないのであり、きわめて冷酷な判断を下すことが多い。弱者である男性のほうがはるかに優いと言える。しかし、社会的に落ちぶれても強盗や人殺しを続け、けして優しくならない者もいる。このような者は肉体的・精神的に強く(精神障害者も含まれる)、また、守るべきものや大事なものをもたない者なのであろう。

我々誰もがもつ不快の中和手段を、社会的に正当なものの中に見つけられた者はめぐまれた者で、犯罪とは無縁のものだ。しかし、これは、欲求やストレスによる不快に対する対処の仕方が犯罪者と異なっていただけなのだ。凶悪な犯罪者の一部はこのような不快を、社会的に正当な方法で《抜く》能力を幼年時代に形成できなかった人なのかもしれない。レスラー氏によれば、それは〇~一二歳に形成され、その後では手遅れとなるという。これが形成されないと、精神病者と同じように人格的抑制が発動されないのである。しかし、凶悪な犯罪者のメカニズムをこのように単純化してしまうことには問題もある。前出の「FBI心理分析官」で福島氏は『凶悪な犯罪者の空想が普通の人とかけはなれて激しいのは確かである』と言っている。

ここで、幼年期を幸せに送ることのできた者――甘やかされて育てられてしまった者――が授かる能力についての興味深い話を、前出のカール=ハインツ・マレ「子供の発見」の最終章「ガチョウ番の少女」から引用してみよう。

 

*ヒロインが受けたような甘やかしの教育にだって、いい所はある。もちろん、このような教育を受けた子供たちは、「路上」のけんかで同じ年恰好の子供たちと戦うこともできない。けんかを挑まれても、彼らはなすすべを知らない。彼らはみんなから弱虫と思われ、利用しつくされ、軽べつされる。そこでこの子供たちは屈辱と敗北を喫する。しかし、このような無能から、将来に関する悲観的な予想を引き出すのは間違いである。またこの無能を理由に、たえず子供たちに文句を言い、彼らのふん起を要求し、期待することも間違いである。多くの小さい「王女」、もしくは何人かの「甘えん坊の少年」の将来の見通しが、他の子供たちに比べ特に暗いわけではない。むしろ逆である。この昔話はそのことを証明している。なぜなら、この昔話の中で最後に目的を果たすのは、利口で、すれっからしの腰元ではなくして、それまで大してパッとしなかった王女であるからだ。

やさしい甘やかしや、親密な親子関係は、子供たちに一つの潜在力を植えつけ、それによって彼らは他の子供たちをしのぐことになる。しかし、この潜在力が発達しきるまでには、かなり長い時間を要し、この力が発揮されるのは、だいぶ後になる。だから成果が現れると、多くの人たちは、「たなからぼたもち」のように思う。一方、かつての優者たちは、往々にしてそれまでの優位を保ちきれず、中ぐらいのところでモタモタするか、さもなければ落伍する。かつての優者たちは、最初の成功から間違った結論を引き出し、自分を過大評価する。

 

甘やかされて育った者はだめだといわれる。しかし、何がだめなのであろうか。甘やかされて幸せに育った者の体には、幼年期に何かが形成されている。これは、前記のレスラー氏の意見と同じである。それがかなり後年になって、肝心なところで効いてきてその者を助けるのである、一方、甘やかされないで、厳しく・ぞんざいに・いいかげんに育てられた者は、世の中をうまく生きる手っ取り早い知恵を習得する。苦労や、いやな思いをたくさんしてきたので、当座の困難をしのぐ術には長けているのである。しかし、それらは十分に熟成されたものではなく、場当たり的な知恵なのである。真の天才はその才能を生涯にわたりゆっくり伸ばしていくという。金をかけたものは使っていてそれだけのことがあるものだ。安く済ませたものは、長期的に見て高価なものにはかなわない。手っ取り早く知恵をつけたすれっからしは、十分に養分をとって育った者に大きな、そして長期的な問題に対したときとてもかなわない。この考えは、レスラー氏が連続殺人犯の調査から導き出した考えと一致している。つまり、幼年期の幸福な生活は、甘やかしも含めて後年、その者を大きく助けることになるのだ。

ニーチェ全集」(白水社)の中のどこかに、『天才は、労作家である』というのがあった。これも前記の考えと一致するのである。たとえばモーツァルトベートーヴェンニーチェなどがそうであるとはよく言われることである。天才はいつもあることについて考え続け、考え尽くしている。いきなりある発想が出てきたわけではない。他の者がいろいろなことに気をとられているとき、彼らはある一つのことについて考え尽くしていたのだ――というより「思想の到来を待っていた」と言うのがより正確だ。というのは、彼らにもどのように良いアイデアが産み出されたのかがわからないからだ。良いアイデアはどこからか到来した、と言われる。後の章で説明するように、良いアイデアは無意識、あるいはどこか自分以外のところで作られたものであると考えられるのである。これを「彼の活動」の中に入れてよいのなら、彼はこのアイデアを出すために見た目よりはるかに膨大な思考活動をしていたことになる。このアイデアが出されたとき、周りの者たちはそれが一瞬で生みだされたものだと錯覚してしまう。たいていの者がその問題について無関心でいたのに対して、彼はそのことについて長く考え続け、その労作を世に送り出す機会が到来したとき、その結果を何気なく出したというわけだ。すると、周りの者は彼がそれについてそんなに考えていたことを知らないので、彼がその場において一瞬で思いついたものとしてしまい感心するのである。しかし、彼はそれに長い間養分を与え、ゆっくり熟成させてきたというわけだ。

凶悪犯罪者は生まれつき他の者より悪い欲望をもっている場合もある。しかし、それを抑制する能力も普通の者より弱いのである。前記のように、レスラー氏によればこの能力は〇~一二歳に形成され、〇~七歳で母、八~一二歳では父親の影響が大きいという。この時期を幸福に過ごせた者には、あらゆる不快を社会的に正当な手段で中和する能力が授けられるのだ。この能力が欠落してしまった場合、健全な手段で中和できない不快は溜まるばかりになり――だから凶悪な犯罪者はふだん静かで、目だった行動をしないことが多い。だから、あんな静かな人が何でそんなことを、と言われるのである――、異常な想像が多くなり、マスターベーションも多くなる。そして、ついに破裂する。溜まったものは必ず抜かなければならない。犯罪という手段でしか彼の不快は中和することができないのである。

健全な者は、前記フロイトの指摘している名誉心的、性的な欲求をうまく処理する能力をもっている。それに対処するために健全な手段を見つけ出し、それに専念することができる。この能力は前記のように幸福な幼年期に形成される。レスラー氏によれば、幸福な環境は必ず何かを達成するための刺激や、それを奨励する雰囲気をもっているため、ものごとをやり抜く性格も形成される。さらにレスラー氏は前出の著書で次のようにも言っている。

 

*人と好ましい関係を築き、それを維持し、発展させる能力は子供の時に芽生え、一〇~一二歳で間に強化される。しかし、この能力が身につかないまま思春期を迎えてしまうと、もはや手遅れだ。その結果として現れる行動は殺人やレイプとはかぎらないが、人格的欠陥を示す他の行為が見られる。不幸な子供時代を過ごして深い傷を負った人は、その後完全に正常な人生を歩むことはできない。彼らはアル中の母親や暴力をふるう父親となって再びすさんだ家庭環境をつくり、そこで育つ子供を犯罪へと駆り立てることになる。

 

*殺人犯は貧しい崩壊家庭で育っているというのが通説だが、私たちの調査はこれが事実でないことを示している。殺人犯の多くは、安定した収入のある、さほど貧しくない家庭で育っている。半数以上の家庭では、最初は両親が揃っていた。

三十六人のうち七人はIQが九〇以下だったが、大半はふつうで、一一人はIQ一二〇以上という高い知能の持ち主だった。

しかし彼らの家庭は外からは正常に見えても、実際には問題を抱えていた。面接した殺人犯の半数は家庭に精神病患者がおり、別の半数は両親に犯罪歴があった。七〇パーセント近くの家族にはアルコール、あるいは麻薬の常用者がいた。そして全員――人残らず――子供ときにははなはだしい精神的虐待を受けていた。彼らは成長すると、精神科医の言う、「性機能障害者」になった。つまり、他人と合意にもとづく成熟した関係を持つことができないのだ。

 

二〇〇五年一一月にはマンションなどの建物についての強度計算偽装事件が報じられた。建築費用と工期を減らすために、建物の構造を弱くしてしまうのだ。そして、その強度計算はそれらを隠すように偽装され、問題はないかのような結果を出してしまう。しかし、この問題が発覚したため、その強度計算をしたA元一級建築士が関係したマンション、ホテルは使用できなくなり、多くの人が路頭に迷った。

この強度計算をしたA氏はどうしてこんなことをしてしまったのだろうか。この問題の答えは、前記の考察から出てくるのである。A氏は頭の良い人であったが家の事情で大学にいけなかった。工業高校を卒業し、設計事務所に勤務しながら、やっと一級建築士の資格をとった。そして設計事務所を開いた。しかし、仕事をとるのに苦労した。それで依頼主が大きな利益を上げられるような仕事をすることで何とか仕事量を減らさないようにした。つまり、工期と材料費を減らすための設計(鉄筋を少なくするなど)に対して、強度判定がOKとなるように強度計算をごまかすのである。彼は国会の証人喚問において、偽装は依頼主に強要されたためであり、生活のために、また妻が病気で入院していてお金が必要であったことなどから避けられなかった、と述べ、涙を浮かべていた。このいかにも誠実そうな発言は当時(二〇〇六年の初め)、「確かなことを言っているのは彼だけだ」という評判を勝ち得た。しかし、それは嘘であり、彼の作り話と演出が世間を魅了してしまったのであった。この発言を依頼主である建設会社の東京支店長がVTRで聞きながら、「こんな奴だとは思わなかった、誰も信用できなくなった」としみじみ言っていたが、これは本当のことであろう。つまりこの支店長は、A氏の言っているようなことは《本当に》強要していなかったのであり、A氏が進んで――わくわくしながら――やったことは確かなのである。A氏はその頃、高額の外車を購入していたし、愛人にお金を貢いでいたのだ。彼のこの誠実さの演出は、有能な詐欺師の常套手段なのである。彼をこのような悪の道に進ませたものは、収入に対する不安だけではない。それはこの章で問題にしているものだ。あまりに苦労して現在の地位に至った彼は、養分を十分に吸収しながら順調に進んできた幸せな者とは違う体(頭)となってしまっていたのである。

若い時に良い思い出がなく、養分をいっぱい吸い込めず、我慢ばかりしていた彼は、不快なこと・障害的なこと・困ったことが起こったとき、その中和・回避・対処の手段として、正常な者が選択することを避けるような犯罪行為をなんの抵抗もなく実行できる体になってしまっていたのである。これは凶悪な犯罪を繰り返す者と同じである。「もしやってしまったならとんでもないことになる」という恐怖が少なく、「まあいいや」くらいに安易に考えて、たいして迷わず、むしろ進んでやってしまうし、それに快(スリル)さえも感じてしまうのである。彼にとってはおもしろい冒険(ゲーム)くらいにしか思えなかったのだろう。これは殺人を《楽しむ》無神経で粗暴な犯罪者――拉致した被害者の首をかき切り、それをビデオに撮り世界に公開しようとするアルカイダ機構も同じだ――と同じ心理である。不幸な体験は、我々を鈍感・粗暴・野生的にしてしまうのである。若いときに十分養分をとれなかった彼は、後にそれを別な手段――通常の者がためらうような――で埋め合わせようとするのだ。彼の体はそのようになってしまっていたのであり、彼にもどうしようもないことなのだ。彼の行為の責任は彼にあるのだが、彼がこうなってしまったことの責任は彼にないことは確かである。彼にはちゃんとしたことをやろうという根気もないのである。まったく無意識のうちに次々に悪事を犯してしまう。不幸な体験がいかに我々を悪く――正確に言えば粗暴・野生的――するか、ということをよく示している。

A元一級建築士の妻は二〇〇六年三月二八日に(私がこの部分をパソコンに打ち込んでいたちょうどその日に)、家の近くのマンションから飛び降り、自殺してしまった。なんとも恐ろしいことであって、私はこれ以上何も言えない。彼も、彼の妻もかわいそうな被害者であることは確かなことである。彼はその後、自宅も外車も売り払い、ホテルで暮らしているらしい。

ここでまた、前出のレスラー氏の「FBI心理分析官」から関連の部分を引用してみよう。

 

*家庭的に恵まれなかった子供がみな、成長してから殺人などの凶悪な罪を犯すわけではない。その理由の一つは、大半の子供が子供時代の次の段階である思春期直前に、力強い手によって救われるからだ。しかし、私たちの調査対象者は、おぼれるところを救われるどころではなかった。むしろ、この時期にさらに水中深く頭をつっこまれたのだ。八歳から一二歳ごろまでに、それ以前にすでに見られた好ましくない傾向がさらに悪化し、目立ってきている。男の子に父親が本当に必要なのはこの時期だが、彼らの半数はちょうどこのころになんらかのかたちで父親を失っていた。・・・殺人犯は八歳から一二歳の間に、孤独を経験する。そのことが彼らの精神構造にきわめて重大な影響を及ぼす。彼らを孤独に陥らせる要因はいろいろあるが、最も大きなものの一つは、父親の不在だ。この時期の男の子は父親、または父親に代わる人が身近にいないと、同年齢の他の子供たちに対して、肩身の狭い思いをする。そこで友達や父親の存在が必要な状況を避けるようになる。思春期直前期の性的活動は他の人とのかかわりの中で求めるのではなく、自体愛的なかたちをとる。私たちが調査した殺人犯の四分の三は、思春期直前期に自体愛的な性的活動を始めている。半数は一二歳から一四歳の間に女性をレイプすることを空想したと語っており、八割以上がポルノを見たり、フェテシズムやのぞき行為によって性的快感を得たと報告している。言うまでもなく、父親のいない家庭で育った男の子がみな社会病質者になるわけではない。だが社会病質者になる男たちにとっては、八歳から一二歳という年齢が非常に重要だ。調査によると、彼らの異常な行動はこの時期に始まっている場合が多い。

ポジティブな人間関係を築くためには社会的な技術が必要であり、これは性的な技術に先立つものだ。しかし精神的なダメージを受けた男の子は、思春期になってもこの技術を身につけることができない。独りでいることが多いからといって、殺人犯が内向的で内気とはかぎらない。社交的で話好きな者もいる。だがそれは表向きの顔で、心の中に孤独を抱えているのだ。ふつうの若者がダンスをしたりパーティーに行ったりする時期に、彼らは自分の殻に閉じこもり、異常な空想にふけるようになる。空想はもっと健康的な、人間とのつきあいに代わるものだ。そうした空想に依存すればするほど、社会的に受け入れられている価値観から離れていく。

 

以上のことは、男性のみにあてはまることであって、女性ではこのようなことはないと思われる。不安定で神経質で弱々しい男性に比べて、女性がきわめて安定、頑強であることがわかる。わたしのおふくろなどは、八歳で母親が死んで、間もなく父親が酒に溺れて家の中がめちゃくちゃになり、小学校のとき知り合いの家にあずけられた。そして、小学校も卒業していない。しかし、人間関係は良好で友だちが多かった。幼年時代の不幸がその後にまったく影響していないのであり、これは女性が男性と違うところであり、男性に比べて強靭であるということだ。

 

第四節 関連した話題

二〇〇四年に報じられた、韓国での連続殺人事件である。ユ・ヨンチョルとい男性が三〇人以上の女性を殺害した。彼はレスラー氏が前出の著書で説明している凶悪な犯罪者とまったく同じに、きわめて不幸な幼年期を送った。父にいじめぬかれて、いつもびくびくして生きていたそうだ。さらに悪いことは続くもので、絵の技術は優秀であり、この方向に進もうと思ったのに、なんと色盲であるがためにこの世界からも門前払いをくわされてしまったのであった。つまり、彼は自分の不快を中和できるであろうと思った唯一とも言える道からも追い出されてしまったのであった。これで彼には、彼をいやしてくれることになる専念できる社会的に正当な道がなくなったと見えたのである。幼年期に養分をたくさんとれなかった彼には、さらなる正当な道を探す根気がなかった。彼にはもう、専念できるもの、守るもの、大事なものがなかった。ついに、彼は彼に残された不快中和手段により、彼に溜まりに溜まった不快を抜かねばならぬときがきた。無差別な報復が始まり、これはテロと言ってもいい。相手は全て女性だった。なぜ女性だったのか、それはかってな理由がとってつけられていた。しかし、本当のところは、バタイユ・レスラー・マレの各氏が言っているように、我々にとっては、特に凶悪な犯罪者にならなければならなかった者には、性的なものと暴力と死が結びついているからであろう。三〇人以上の自分と同じくらい不幸な女性(娼婦)を殺してしまったのだ。不幸なものが不幸なものを痛めつけることによって、不快をまぎらわせようとするのである。毒は解毒しなければならない。放っておけばなくなるという種類のものではないのである。成功者と犯罪者は、不快を中和する手段が違っていただけなのである。不快の絶頂という断崖絶壁に追い詰められた者は、とにかく不快を中和しなければならない。正当な手段が拒絶されれば別な悪い方向に進むしかない。火事になった高層建造物の窓から人が飛び降りるのと同じだ。飛び降りたら大変なことになるのだが、そこにいることもできないのである。

二〇〇四年末に、奈良市で起こった誘拐殺人事件で、わいせつ目的で誘拐や殺人などの八つの罪に問われたK容疑者は、母親を子供のとき亡くした。それまでは明るい子供だったそうだが、それ以来暗くなり、友達もできなくなってしまったという。そしてポルノビデオをきっかけに、女児に対する性的な関心が深まっていったという。母親が亡くなって、社会的に正当な方向での不快の中和手段を見つけられなくなり、また友達との交流による楽しみを感じる精神状態でなくなってしまった彼は、悪い方向に進むしかなかったのだ。社会的に正当な方向で中和できなくなった不快を、最後に引き受け、処理してくれるのは、前記のように性的なもの・暴力・死の結びつきなのである。

前出のマレ氏の著書「首をはねろ!」から、関連したところを引用してみよう。これはグリムメルヘンの「ネズの木の話」の解釈の章である。母親が継息子の首をりんごの入った箱のふたで切って殺してしまうという話である。その原因をマレ氏は次のように分析している。

 

*この夫の行動方式を徹底的に観察することはいっさい不要だ。彼の思いやりのないエゴイズムは暴力とも無関係である。欲望を感じ、かつエンジョイする人間はすべて平和である。

これに反して妻は欲望やセックスに反対する何百年来のプロパガンダ、つまり、男より明らかに女を目標としたプロパガンダの犠牲であるといえよう。寝室において妻がよろこびの声を発することは現代でも、方々の国でとんでもないこととされている。このような抑制の根源は遠く神話や宗教にまでさかのぼり、キリスト教より古い。もっともこのような抑制をきわめてはっきり表現したのはキリスト教である。アウグスティヌス(アウレリウス、三五四―四三〇)にとっては、食事の楽しみすら不純であり、自然にそむくものである(「告白」)。しかし欲望を敵視する倫理はとりわけ女性に適応された――結婚前はもちろんのこと、結婚してからでも、女性はしとやかさと純潔を保たなければならなかったし、夫婦のベッドは常に清潔にし、もちろん欲情によるしみなどがあってはならなかった。パウロはこのことをきわめてはっきりと説明している(テトスへの手紙、二・五、ヘブライ人への手紙、一三・四)し、また国中のいたる所で、欲情に対する反感が語られ、欲情のために夫婦の義務を行った者は罪人とされた。このような欲情を敵視するプロパガンダには、もちろん大きな影響力があった。このメルヘンの中の女房も明らかにこの影響を受けており、自衛と抑圧が恐ろしい暴力衝動に通じることを、身をもって示している。

 

ここで、この文章の初めのほうの「この夫の行動・・・平和である」は、欲望を抑圧する必要がなくそれを満たす手段をもつ者には不快が溜まらない,不快の中和手段をもつ者は、いつでも快活でいられるということだ。それに対して、欲望を満たすための手段を禁止されていたり、もっていなかったりすると恐ろしい暴力衝動に通じていくということだ。これは凶悪な犯罪者やテロリスト(イスラム教徒に特に多い)に言えることだ。彼らは、欲望やストレスによる不快を遂次中和する手段を運命・宗教により完全に禁止されているのである。ふだんは良い人、静かな人に見える者は、ある時、恐るべき行動に出ることがある。暴れん坊やいたずら者は、凶悪な犯罪とは無縁なのだ。しょっちゅう他人に怒っている者は、どんなときでも快活でいられるのである。

読売新聞(二〇〇七年四月一九日)によると、二〇〇七年四月一七日、米国バージニア工科大学で起こった銃乱射事件で、韓国系の学生チョ・スンヒ容疑者は、大学内で三二人の学生と教授を射殺し、自分も自殺した。彼は、大学の講義の受講票の名前の欄に、「?」を記入し、授業の課題として書いた自作の脚本は暴力と憎悪に満ちあふれていた。個人授業を試みた女性教授もいたが、サングラスをかけ、野球帽を目深にかぶったままの容疑者と意思疎通はできなかった。不気味さを感じた教授は、警備担当者に連絡できるようにしていた。またTVの報道によれば、彼は、小さいときから貧しく、大学でも友だちもいなく孤独であったそうだ。彼は、金持ちの同級生に対し憎悪を示していて、そのことが犯行中にTV局に送りつけられたビデオで語られていて、それが今回の事件の原因であると見る者もいる。しかし私が思うに本当の原因は、彼の精神が単に病んでいた、ということだ。前記の彼の振る舞いは、明らかに大きな欲求不満を抱え、それを発散する(中和する)健全な方法をもたない者の特徴的な行為だ。彼は、人間誰にもある不快を中和する社会的に正当な手段をもっていなかったのである。彼にはたぶん、熱中できる趣味、友だち、ガールフレンドなどがなかったのだ。だから不快が溜まり、そして破裂した、というわけだ。彼は、溜まる不快を中和するための健康的な手段を見つけられないので、ついに敵をつくり、それをののしることにより、苦しさに対処しなければならなかったのであった。それは、何でもいいのであって適当なものが選ばれた。彼は、金持ちの学生を敵にすることにした。彼は、金持ちの学生をののしるという快感を味わいながら、金持ちかどうかわからない三二人の者に報復しなければならなかった。つまり、彼らに報復した理由は便宜上のもの(根本的なものではなく、間に合わせ的なもの)であり、誰でも何でもよかったわけだ。彼は、報復する相手を必用としていたわけだ。相手が自分に危害を加えたから報復したのではなく、報復するがために適当な相手を見つけなければならなかったのである。これはテロ活動と同じだ。昔、祝祭や公開処刑で、あるいは戦争で敵を敗北させたとき、罪人や捕虜を恐ろしく残忍な方法で殺し、王侯貴族や民衆や兵士がうさをはらしていたように、よき趣味や社会的に正当なものに没頭する才能をもてなかった彼のうさばらしには、多くの犠牲者と自分の命が必要だったというわけだ。

ちなみに私はというと、小さいときから変人で魅力がなかったので、人間関係はうまくいかなく、いじめられ、孤独であったのであるが、私によくしてくれたおやじ、おふくろと、趣味に熱中することのできる性質のおかげで、実に健康的な生活を送ることができたのである。ここで、前出のレスラー氏の「FBI心理分析官」から、関係あるところをいくつか引用しよう。

 

*殺人の引き金になる出来事の多くは、職を失う、恋人と別れる、金に困るといった、だれにでも日常的に起こる類のものだ。ふつうの人はさまざまな方法でそれに対処する。ところが殺人犯の場合は、そうしたストレスに対処するための精神的メカニズムに欠陥がある。職を失うといった深刻な事態に直面すると、彼らは自分の中に引きこもってしまい、そのことだけしか考えない、そしてそれを解決する方法として、空想に頼る。したがって、たとえば恋人と別れた男は仕事が散漫になり、その結果首になる。収入も慰めも失った男は、以前なら対処できたはずのさまざまな困難な問題に直面して、動きがとれなくなる。犯罪のきっかけとなるストレスは、いわば限界を超す最後の重荷なのだ。

 

*二回目の犯行からは、最初の犯行のときのようなきっかけは必ずしも必要ない。いったん一線を越えると、殺人犯は意識的に将来の計画を立てることが多い。最初の犯行には、たまたま起こった事件という性格がある。しかし次の犯行では、犯人はもっと念入りに被害者を捜し、より手際よく被害者を殺害する。暴力の度合いもエスカレートする。愛情のない家庭に育った孤独な少年は、こうして連続殺人犯へと変身していくのだ。

 

*無秩序型犯罪者は、育つ過程で心の痛みや怒り、恐怖などを心の中に閉じ込める。ふつうの人も社会の中で生きていくために、こうした感情をある程度おさえるが、無秩序型犯罪者の場合は内面化の程度がはるかに強い。彼はうっぷんを晴らすことができず、自分の感情を発散させるための言語的、身体的能力も持ち合わせていない。自分の胸の内の鬱屈した感情についてカウンセラーにうまく話すことができないので、カウンセリングを受けてもあまり効果がない。

 

*彼ら(殺人犯)のエネルギーはもっぱらネガティブな方向に向けられた。学校ではつねに破壊的な行動を示すか、自分の中に引きこもり、おとなしく目立たない生徒でいるかのどちらかだった。

 

*「サムの息子」ことディヴィッド・バーコウィッツには、一九七九年半ばに三回に渡って面接した。バーコウィッツはニューヨークで一年間に六人を殺害し、さらに六人に重症を負わせた。大半の被害者は、公園などの小道にとめた車の中にいるところを撃たれていた。・・・彼は殺人を始める前に、ニューヨークで少なくとも一四八八件の放火を犯している。これは驚異的な数字だが、彼が日記につけていたためにそれが判明した。また、彼は数百回にわたっていたずらで火災報知機を鳴らしている。・・・適当な被害者や状況が見つからなかったときは車で以前の犯行現場へ戻り、自分が人を殺した場所にいることに満足を感じたという。地面に血痕や、死体の位置を示すチョークの印が残っているのを見ることは、彼にとってはエロティックな経験だった。彼は車の中に座って犯行を思い出させるこうしたものを見ながら、マスターベーションをした。

*バーコウィッツがごくさりげなく口にしたこのことは、警察にとってきわめて重要な情報だった。殺人犯が犯行現場に戻るというのは事実なのだ。将来、犯人を逮捕するのにその情報を利用することができる。さらにこの事実から別のこともわかった。犯人が現場に戻るのは罪悪感からというのが、精神科医や精神医学の専門家によるこれまでの解釈だった。だが実際はそうではなく、殺人にからむ性的な要素のためだった。犯人が現場に戻ることは、シャーロック・ホームズエルキュール・ポアロやサム・スペードが考えもしなかった意味があったのだ。私にとってこの事実はさらに別なことも意味した。私はかねてから、殺人犯の異常な行動は、ある意味では正常な行動の延長に過ぎないと考えている。年頃の娘を持つ親はだれでも、十代の男の子が何度も家の前を行ったり来たりするのに気づいたことがあるだろう。自転車や車で通り過ぎることもある。あるいは娘のそばをうろついて、目立つような行動をとる。つまり犯人が現場をうろつくのは、彼の性格が順調に発育せず不健全であるためで、本来正常な行動が異常なものになったのだ。

 

*バーコウィッツは、思春期にセックスと暴力が結びついた空想を抱くようになった、と打ち明けた。ふつうのエロティックなテーマに破壊や殺人などの要素が混じっていた。もっと幼い六、七歳のときでさえ、彼は養母が飼っていた魚の水槽にアンモニアを入れて魚を殺したり、魚をピンで突き刺したりしたのをおぼえているという。養母のペットの小鳥をねこいらずで殺したこともある。小鳥がゆっくり死ぬところや、養母が悲しむのを見ることに喜びをおぼえた。ネズミや蛾のような小動物をいじめることもあった。こうしたことはすべて、他の生き物を支配したいという要求の表れだ。バーコウィッツはまた、飛行機を空中で衝突させ炎上させるという空想にふけったこともあった。実際に飛行機に手出ししたことはないが、放火はこの空想の延長上にある。放火犯は、自分が火事というすさまじい、エキサイティングな状況をつくりだしたことに満足をおぼえる。マッチをするだけで、ふつうはコントロールできない出来事をコントロールできるのだ。火が燃えさかり、消防車がサイレンを響かせて到着し、人が群がる。そして物や、ときには人の命が失われる。バーコウィッツは炎上している建物の中から死体が運び出されるのを見るのが大好きだった。放火は、究極的に人をコントロールする殺人という行為に移行する前の、予備的行為だった。自分が犯した最新の殺人と、それが巻き起こしている恐怖についての報道をテレビで見ることに、彼は無上の喜びを感じた。

 

我々は誰でも近所で火事が起これば、家族揃ってわくわくしながら見に行くものだ。火事を見に行ったことのない者がいるだろうか。前記のバーコウィッツの放火はその延長上にあると言える。つまり、バーコウィッツの行為はそんなに意外な行為ではないのであり、我々の身近にあるものなのである。

前にも記したが、二〇〇五年のプロ野球日本シリーズで千葉・ロッテ・マリンズは優勝した。長年低迷していたこの球団をアメリカ人のバレンタイン氏が優勝に導いたのだ。彼は一九九四年にもロッテの監督になり、リーグ二位までチームを引き上げたが上司の広岡氏とうまくいかず退団したのだった。ここで、余談だが広岡氏は日本的な硬さときまじめさがあり、さらに野村氏と同じくいじわるな性格であって、バレンタイン氏の自由で、ユーモアあふれ、高度な軽さのある感覚とは相容れないことはよくわかる。しかし、再び呼ばれ、今回の優勝となった。彼にはいじわるなところが一切ない。それは不快の中和手段を、いじわるという方向以外のもっとエレガントで独創的で高級な方向へと向けることができる能力をもっているのである。いじめは不快の中和手段の中でも最も低級なものの一つである。選手をいじめることでなく、もっと別な手段で彼のもつ欲求を満たし、不快を中和することができるのである。日本の野球のように固定観念の中だけで動くのではなくして、自由で、勝手気ままで、でたらめで、いいかげんで、おもしろい作戦を立てるということが、彼の不快中和手段となるのである。これは二〇〇六年の日本シリーズで、中日を四勝一敗で圧倒し優勝した日本ハムを率いた――本当に率いたのはヒルマン監督だが――日本人離れした感覚をもった、あまりにも快活な「シンジョウ」選手にも言えることだ。