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うひょひょ

第一部 第五章 魅力は些細・余計・背景的なものに依存している。

第五章 魅力は些細・余計・背景的なものに依存している。

 

余計なものを一切排した、合理的な家を作ったら落ち着かなくなったという話はよくある。その余計なもの、たとえば床の間、無駄なスペース、入り組んだ廊下、飾り物などの何の役にもたたない、なくてもいいようなものこそが、我々を魅惑し、くつろがせ、快楽させ、我々に想像する喜びを味わわせてくれるのであり、料理で言えば調味料や香辛料の役目を果たしているのである。我々を強く引きつけ、けして放さないものや、いやしてくれるものは、このような些細なもの、余計なもの、不合理なものなのである。これは、我々が女性的なもの、不道徳的なもの、わいせつなもの、残忍なもの、恐ろしいもの、下品なもの、危険なもの、さらにはある種の悪臭にさえも強く魅惑されるのと同じなのである。我々は、あまりにも整いすぎたものには魅惑されない。女性の足は長すぎるよりも、少し短めで太いほうがセクシーだし、顔でも、少しくずれていたほうが魅惑されるしセクシーなのである。これらの余計なもの、良くないはずのもの、不合理で無駄なもの、わいせつで脂ぎっていて汚くくさいもの、と思われている要素を省いたものには、我々を強く、永く魅惑し続けることはできないのである。

これは音楽でも文学でも哲学的な著作でも言えることなのである。本題に関係のないと思われる横道への道草や、雑談や遊びなどが、実は魅力を生み出しているものだ。それは劇的な効果をもたらし、人を飽きさせないのである。つまり、内容に味をつけ、おいしくするのである。我々は、内容なんかよりもおいしい味に引きつけられるのである。しかし我々は、たいていそのことを意識していないものだ。だから、凡人は余計なものに見える細部や遊び心から生まれたようなものに気が付くと、ついついそれを取り除いてしまい、つまらないものにしてしまうのである。前出のフランスの文芸評論家のロラン・バルト「テクストの快楽」には、次のようにある。

 

*どうして歴史や小説や伝記の中に時代や人物の《日常生活》が表象されているのをみて、快楽を覚えるのだろう(私を含めた、ある種の人が)。なぜ細やかな細部に対する好奇心があるのだろう。日課とか、習慣とか、食事とか、すまいとか、衣服とか。それは《現実》(《かつてあった》の物質性そのもの)に対する幻影的な嗜好なのだろうか。そして、《細部》を、すなわち、私がたやすく入り込める、些細な、私的な場景を呼び寄せるのは幻影そのものではなかろうか。要するに、奇妙な舞台、とはいっても、偉大さの舞台ではなく、凡庸さの舞台(凡庸さの夢、凡庸さの幻影もありえるのではないか)に悦楽を見出すような《小ヒステリー患者》(前述の読者たち)がいるのではなかろうか。

だから《今日の天気》の記述くらい、瑣末(さまつ)で無意味な記述を想像することはできないが、しかし、先日アミエルを読んでいたとき、というより、読もうとしていたとき、生真面目な(またしても快楽を締め出すもの)刊行者があの「日記」から日常的な細部、ジュネーブの湖畔の天候を削除して、無味乾燥な倫理的考察だけを残したほうがいいと考えているのを見て、いらいらした。古びないのはあの天候であって、アミエルの哲学ではないはずなのに。

 

人間の顔でも体でも同じことが言える。魅力のある人とない人の違いは、我々には気が付かないほどのごく些細な違いにすぎないものだ。また、写真で見るとたいして魅力のない人でも、直接見ると魅力的であったりする。その些細なところを我々は感じとるのだが、我々の意識はそれを整理できない。だからこそ、絵画や彫刻などにおいて、想像だけで魅力的な人間を描くことは難しいことなのだ。だから画家は人間の顔を描くとき、必ずと言っていいほどモデルを使う。人間の魅力的な姿を意識は知らず、それを想像できないからだ。骨格が同じでも、肉付きが少し違っただけで、顔のイメージは大きく変る。基本的なところは同じであるのに、些細なところの違いで大きく変る。骨格が同じである母親と娘であっても、娘は魅力的なのに、母親はお世辞にもそうは言えないということがある。基本的なところだけでは、相手に快感をもたらすことはできない。何もかもがととのっているのに、ちっとも魅力がない人がいる。

音楽でいえば、何度聞いても飽きないものは、そのテーマに一見つまらない、普通の曲ならば推移的・間つなぎ的なメロディーを選んでいるものだ。そして、そのテーマをいろいろな角度から展開し、きわめて軽妙で深いものにしている――羽のように軽く、沼のように深い。それらが何気なく力みもなく現われ自由にたわむれる。通常は意識されていないような、取るに足りないようなこれらのメロディーの魅力が引き出され、通常の曲をはるかに上回る快感をもたらすのである。テーマは簡単、些細であるが、この展開が正に天才のインスピレーションと言えるもので、絶対他の追従を許さないのである。だから、曲の進行につれて興奮は増大していく。こういう大発見が、ベートーヴェンの晩年の曲なのである。ベートーヴェン以後の偉大な作曲家たちが、「これらの曲を超えることはできない、どれだけ近づけるかだ」ときっぱり言っている。これらの曲のテーマのメロディーは目立つことなく、断片的であり、それ単体で聞けばつまらない。しかし、曲中において、我々に多くを想像させ、我々を病的なまでに誘惑し、一度その快楽を味わった者を麻薬のように一生にわたり放さない。「まじめなもの」は、我々を強く魅惑することはできない。我々を強く、永く魅惑することのできるものは、必ず――絶対と言ってもいい――麻薬的なものなのである。ベートーヴェンのこれらの曲は、《選ばれた通人に》とって音楽史上、もっと言えば芸術史上最大、最強といってもよく、彼らにとって最も麻薬的な要素をもつ音楽だろう。こう言っても、どんな評論家も異論を唱えないだろう。

また、偉大な作家や哲学者の作品についても同じようなことが言える。彼らの作品のあらすじや論理的内容を、解説書などによって知ったとしても誰もが感動することはできない。彼らのことを本当に理解している者は、彼らの文章の細部にある異様な興奮を発見したのであり、これは解説書などによって味わえるものではない。たとえばドイツの哲学者ニーチェについての解説書の説明は、どのような者にとっても無味乾燥なものに見える。しかし、彼の原典を読み、その細部を味わうことができた者は、彼の驚くべき才能を発見し、それに激しく共鳴し、その才気を感じ取る能力をもつ自分にも感動するのである。そしてこの細部の理解から、ようやく解説書に書いてあった彼の思想の大筋が理解できるようになるのである。全体をよく理解するためには、全体を理解しようとしてはならず、まず刑事コロンボのように、どうでもいいと思われる細部に目を向けなければならないのである。だから解説書は、十分に細部を理解してから――つまりかなり理解してから――読むものであって、つまり入門者が読んではいけないものなのである。細部の理解があってこそ全体の把握が可能なのである。

数学の世界で言えば、一九七〇年代に集合論という数学の分野が、中学生に教えられるようになった(私はその一期生であり、初めの被害者であった。そのために、今までは入っていた正弦関数などの重要なものが省かれてしまったのであった)。そしてその後、それは小学生にも教えられるようになった! 集合論とは、《それ以下の》数学の知識のある者が、全体を把握するための上級のテクニックなのである。細部(基本的な知識・教養、たとえば足し算・引き算・掛け算・割り算・関数・微分積分整数論代数学幾何学、特に無限の問題など)を知っているからこそ、集合論という見方がはじめて役に立つのである。それを、それら細部についてまったく知らない小学生にも教えようとするのであるから、まったくめちゃくちゃである。こんなバカなことをやったのは、日本くらいではないだろうか。細部の理解から、全体の把握が初めて可能なのであって、細部の理解なしの全体の把握などはあり得ないものなのである。細部を知らないで、全体を理解している者などいないのである。当時、小学生に教えようとした「集合論」は、「本当の集合論」の目録みたいなもので、中身を支える枠のようなものだ。このようなものだけを学んでも何の役にも立たないし、何のおもしろさもない。そのために、他の大事なことが省かれてしまうのである。

同様に、「思いやり」の気持は、いやな思いや、苦しい思いをしてきた者によって出てきたものである。それらの経験が「思いやり」というものを生み出させたのである。それを、そんな経験がない者にいくら教えたとしても、無味乾燥なきれいごととしか感じられず、まったく身につかないのである。「おもいやり」というもの自体はないのであり、「おもいやり」に関心・興味をいだくようにさせる我々の経験や感情があるだけなのである。これは、人には伝えられないのであり、苦労した者だけの頭の中に浮かぶアイデアなのである。

漫画の世界に目を転じれば、「サザエさん」は、世界で最も永く続いているTV漫画だろう。私が小学生の頃(一九六〇年代)から現在(二〇〇七年)まで続いている。我々が、常に重要視する本体的なものや、強烈なものや、情念に訴えるものでなく、日常の些細な、取るに足りないものだけを取り上げている。誰もが意識していないようなつまらなく、どうでもいいものばかりを取り上げ展開してみせ、それらのおもしろさをあばいている。素朴なものを使い、誰もが親近感をもてるような物語をつくっている。軽妙で力みのないところにおいては、前記のベートーヴェンの晩年の曲に似ている。日常の些細な事件を、このように丹念に展開されると、多少バカにしたような目で見ていた者も、いつのまにか引き込まれてしまい、ついには毎週見ずにはいられなくなる。これは、長谷川さんの大発見なのである。また、同じ日(二〇〇七年現在)にやっている、「ちびまる子ちゃん」についても同じことが言える。

前記のように、ベートーヴェンの晩年の曲は、簡単な音形のメロディーがテーマとして選ばれ、それが複雑に気持ちよく展開されていく。そのとき、才能ある聞き手は、はじめてこのつまらなく見えるテーマのおもしろさを思い知り、大きな快楽を味わう。そしてこの簡潔なテーマとその高度で深遠な展開技術に病みつきになる。だから、第九交響曲のあの巨大な第一楽章――と言ってもたった(?)一五分間ではあるが、世界で、私の最も好きなものの一つである――の弱音で始まる冒頭やテーマの提示部は、彼の今までの曲のように《恰好よく》なく、むしろ《ダサイ》感じがするのだ。それはまるで醤油・味噌・納豆のたぐいの味のように渋く、醜い味がするのだ。それは、通人のみが味わい、それに快楽し、親しむことができるものなのである。そこには、一般大衆にアピールするようなものは、何一つないのである(彼自身、この曲の四楽章の「歓喜の歌」の前で、それを言っている)。しかし通人は、これがこたえられないのである。それは、些細でつまらないと思われていたものが徹底して検討され、その価値が逆転され、自信をもって我々を高揚させるものとして提出されているからだ。それは、まるでパロディーが我々を強く快楽させるのと同じだ。私には、この曲がつまらないメロディーを集め、それを麻薬的な快楽の極致に変身させたパロディーに見えるのである。このような高度なものには、必ず「ふざけた気分」があるものだ。「ふざける」とか「ユーモア」の根底には、実に高度で、しかも苦しまぎれの精神活動が見られる。高度で麻薬的な作品には、「ふざけた気分」と「まじめな気分」が融合している。ロシアの作曲家ショスタコーヴィッチは、二〇世紀最大と言われるが、彼の高度な作品には、「ふざけた気分」が多く見られる(交響曲第九番はふざけすぎて叱られてしまったそうだ)。彼の最後の交響曲の第一楽章は、ロッシーニのウィリアムテル序曲のメロディーが出てきてパロディーのように扱われる。これは、遊びまくり、ふざけているようにみえるが、深遠であり、通人をきわめて強く興奮させる麻薬的魅力をもつものだ。

話についてもこれと同じようなことが言える。はでな話題をいろいろ出し、一つ一つの話題については簡潔に済ませるような話はおもしろくない。少し地味目な一つの話題について、それに関係したものだけにしぼり、徹底して追及していくほうが、相手に大きな快楽を与えるものだ。また、多くの部品でできた機械の話よりも、その中の一つの部品に関する突っ込んだ話のほうが、人を引きつけるものだ。いろいろなものをちりばめたようなものには、あまり永くは魅力を感じないものだ。ふだんは目にも留めないようなものほど、あばかれたときに印象深く、輝いて見えてくるのである。工学書において、日本のものは、多くのことを説明しようとしてしまい、それぞれの説明は簡単にすませてしまっているものが多い。しかし、たとえば米国の工学書は、話題をしぼり、それを徹底的に説明している。だから読者は、その物語に引き込まれ、いろいろな体験をするうちに、そのことにすっかり通じてしまう。すると、他のことについても、理解することが速くなるのである。ところが、日本の工学書では、言わば目録みたいなものであり、いくら読んでも肝心なところがさっぱり理解できず、多くの時間をかけた割には、得るものが少ないのである。つまり、細部をとばして、駆け足で学ぶことは、養分を十分にとらないで育った者と同じように、その理解の質は大変低いものとなるのだ。

やるべきことを端から一つ一つそのことだけを考えて――他のことにはマスクして――片付けていったときには、楽しく作業は進み結果もうまくいく。しかし、大それたことを考えてしまったり、多くのことがいっぺんに見えてしまったりして、それら全てを気にしてしまうと、不安になったり、興味がなくなったり、絶望したりして作業に身が入らなくなり、結果もうまくいかなくなってしまう。《些細なこと》をばかにして、《骨格》のようなものから考え始めようとすると、たいてい行き詰ってしまうものだし、結果もよくないのである。

芸術作品でも、作者が初めから「有名になるような作品」を意識して作ったとすれば、それは永く生き残れない作品となってしまうのである。永く世に生き残る偉大な作品は、大それた構想から生まれたものではない。それは、些細なことから始まり、自分の霊感を信じ、雑念を止め、丹念に霊感の赴くままにたどっていくことによって生まれるのである。

私が小さかったとき、雑誌(確かマンガ雑誌「少年サンデー」)に載っていたいくつかの飛行機の写真があまりにも美しかったので、切り抜いてノートに貼ってみた。しかし、ノートに貼られた写真を見ても魅力を感じなかった。それが雑誌の中にあったときに感じた魅力は、ノートに貼られた写真にはなかった。だから、雑誌にあったときには何度も見たそれらの写真は、ほとんど見ることはなくなってしまった。同じ写真なのになぜだろうと思った。雑誌のページの中で写真は、我々の意識しないノートとは違う背景の中にある。そこに貼ってあるのではなく溶け込んでいる。背景は写真と同じつるつるした紙の上にある。そしてそれらのページは雑誌に中にある。これらのもの全てが「飛行機の写真」を魅力的なものにしていたのである。もし、あるページをやぶってしまったら、そのページの魅力はなくなるだろう。背後のものや余計なものによって、それらの写真は魅力的なものになっていたのである。また、その写真によってその雑誌も魅力的なものになっているのである。この相互関係が魅力の解明の鍵となるのであり、魅力とは多くのものの関係の中で生まれる、ということがわかるのである。

魅力というものは、このように多くのものの関係で成り立つものなのであり、それは「相乗効果」と言われることもある。だから、メインであると思われるものだけを取り出してみると魅力がなくなってしまうものだ。注目されているもののみに魅力が存在するのではなく、「周りとの関係」により魅力的に見えるということで、同時に周りのものも魅力的に見えるのである。人の魅力においては、肉体的なもの・家系・家庭環境・服・仕事・勤めている会社・友達といったもの、つまり背景的なものが大きな役割――というよりそれが全てを決定している――を果たしているものだ。我々からそれらのものを取り払ってしまえば、我々にはまったく魅力がなくなってしまうのである。しかし、このことはなかなか意識されないものだ。

文章でも同じことが言える。その基本的な筋・論理・骨格などよりも細部・肉・余計なもの・雑談などが人を快楽させるのだ。何回読んでも飽きないという味は、人が意識もしない細部や余計と思われるところからにじみ出てくるものなのである。本体は、それらのおいしい味を支える骨組みにすぎなかったのである。しかし、たいてい我々はこの細部の効果に気がつかない。骨格が大事であると決めつけてしまっている。感じるが意識されない。それがわかる者は才人なのである。前記のベートーヴェンの晩年の作品は、このことが徹底的に追求されているのである。

優れた人間や文章や音楽などの魅力は、要約して他人に伝えられない。直接会ったり、全文を読んだり、全曲を聴いたりしてみなければ、どうしてそれが良いのかはわからないものだ。というのは、それらの魅力はそれらのもの全て、さらにはそれらに関係のあるもの全てにより成り立っているのであり、要約できるものではないからだ。だから、たとえばある哲学者について何もわからないとき、その解説書は読むべきでないのだ。その哲学者の原典を読み、いくらかわかったとき、解説書はおもしろく読めるようになる。

魅力的な人は、自分の気が付かない多くの細部に支えられているものだ。しかしそれらを、たとえば健康的である魅力を当人はわかっておらず、むりやり痩せて満足している場合が多いが、そのために他人から見た魅力が一切なくなってしまっている場合が多く、当人はそれにまったく気が付いていないのだ。

一生懸命に考えたことより、ふと思いついたことのほうが優れていることが多い。良いアイデアは、良く考えれば出てくるというわけではない。どこからかかってにやって来るものだ。偶然の出会いや、ちょっとしたタイミングが、人を救ったり、仕事を成功に導いたりすることになる。何かを設計していても、ふと出てきたアイデアが全てを決めてしまうものなのだ。このような現象を軽く見ている人は多い。うまく事を運ぶには良く考えるとか、良く話し合うとかいうのではなく、ふと歩きながら出てきたアイデアとか、互いが考えていることにピンときてわかり合うということが、絶対必要なのである。カタログなどを入念に調べて購入した本よりも、店頭で見つけたり、雑誌の紹介欄などで見つけたりした本のほうが役に立つものだ。ふと思いついたことや、何となくそういう感じがするといったことのほうが、永く熟考したり、話し合ったりして出てきたことよりはるかに強力なものなのである。

また、ある程度バランスがくずれたもののほうが、少し不安定であったほうが我々に快感をもたらすものだ。たとえば女性でいえば、あまり足が長すぎたり、バランスが良すぎたりするとセクシー度が下がってしまうのである。足は少し短いくらいがエロティックなものだ。ヌードにしても、陰部が隠されていたり、首に何かが巻かれていたり、はき物をはいていたりしたほうがよりエロティックになるものだ。

以上のように、細部、本体に対してのおまけ・余計なもの、他との関係、つまり、我々が軽く見ているものの役割の大きさがわかった。魅力の秘密はそんな中にあるのかもしれない。