SonofSamlawのブログ

うひょひょ

母さんのおもいで

ヴィラ・ベッキアの職員の皆様へ

 

  長い間、ありがとう

 

         操、毅からのお手紙です

 

 

 

            2011年

            佐久間

 

 

 

   目次

 

  • はじめに

 

2.あの日のこと

 

3.いやな思い出

 

4.私の記録より

 

5.操さんの写真(数歳から死ぬまでのお顔の変化)

 

6.若き日の操さんの写真

 

7.操さんの写真1998-2011

 

8.初めに骨折したときから本施設に入るまでの記録

  主に、市立病院での苦労話です。恐ろしいものです。

 

9.その後の記録

 

1.はじめに

操さんが1998年4月に骨折し、市立病院に入院した後、本施設に入所してから13年たちました。

あのとき、操さんの痴呆は一気に進み、とても家ではめんどうみられない状態になってしまいました。そのときちょうど本施設が開所したばかりですんなり入れました、もし、そうでなければ大変なことになっていました。なんとも運がよかったのです。

本施設は建物が美しくここに入れてよかったと思っています。わたしは、東京生まれ、育ちですが、こんな美しい建築物は見たことありません

13年、もう限界ですね。さみしいけど死んでくれてよかったと思っています。大きな仕事が完了した、という気分です。さみしさ、悲しさより、安堵感のほうがはるかに大きい。すがすがしい、ってかんじかなー。恩返しできた。13年間大変でした。なにより、私が先に死ななくてよかった、という思いです。

この13年間の仕事は、実に高度でした。いろいろなことやってきましたが、これほど難しい仕事ことはなかった。最後はもう限界でした。はやく死んでくれーー、て叫んでいました。私がどんなに大変だったかわかりますか。

人間、悪いことはやらないほうがいい。わたしは、操さんのために精一杯やりました。よかったと思っています。ほんとによかった。今、頭の中さっぱりです。何も後悔がない。晴れ晴れとした気分です。失うものも多かったけど、今、まんぷくです。わたしが、もし、自分のことだけ考えていたなら、後悔していたでしょうね。

秩父に来たのが1984年、やっと就職して、長年の貧乏で不安定な暮らしともおさらば、であったのですが、平穏な生活は9年で終わり、1993年に操さんはおかしな行動が始まった。たった9年だった、平和であったのは。私は幸せというものに、縁がないのである。


操さんは、死ぬ半年前から足が細くなってきました。食わなくなる前にやせてきました。これが死の兆候であったのだろう。鼻くそとってやると、鼻血がでて、その傷が治らない。

大事なことは、食わなくなる前にやせ始まったという事実です。そして歩けなくなった。さらに傷ができやすくなり、直らなくなった。これらは死の兆候です。

私は、今までになかったこの兆候を感じ、死を意識しはじました。

そして、飲み込まなくなっていきました。

最後の数ヶ月は、わたしにとって地獄でした。死んでくれて助かった、というところです。


2.あの日のこと

3月11日、東日本大震災の日、家に帰ってみると、恐れていた2メートトルくらいある茶箪笥は倒れていませんでした。しかし、中のコップが倒れていました。コーヒーのビンとか、倒れていたものはたいしたものではありませんでした。すごいですね! 倒れたら大変なことになるものは、何一つ倒れていませんでした。私は運がいい、いや、操さんが守ってくれたのである、と考えることにしています。

帰ると停電で真っ暗闇。大家さんにろうそくもらって、なんとかなる。寒いし、暗いし、操さんも死んじゃったし、なんとも言えない気分でした。たばことウイスキー飲みまくりました。

遺体は看護師の板倉さん紹介の葬儀屋「泉会館」に土曜、日曜と置いておきました。私はこの二日、15時から19時頃まで、操さんの横にすわりずっと話しかけていました。死んでしまった操さんの顔は美しかったが、生きているときとは全然違う顔でした。私は、操さんの顔を見ながら、昔の思いで話をしました。これで操さんとお話するのは最後となります。おわかれです。54年間ありがとう。

14日に火葬しました。葬式はなし、遺骨は捨ててしまいました。驚きかもしれませんが、生きているうちは懸命にやるが、死んでしまえば何もやる必要なし、というのが私の考えです。生きているうちはほっぽらかしで、死んだとたんに大騒ぎ、葬式に100万円以上かける、なんてこと多いが、ばかげていますね。墓も遺骨もありません。こんな人もいるということを覚えておいてください。


今、もう操さんのことを心配しないでよくなり、ほっとしています。自分のことに専念できます。しかし、心配することがなくなってしまった、という空虚な気持ちもあります。

 

食事会など、懐かしい。すばらしい催しでした。食事もすばらしくおいしかった。一生思い出します。

操さんのために用意したものがすべていらなくなりました。何も心配しなくていい。

本施設には、自分の家より多くいたように思います。自分の家のようでしたが、もう行けないと思うと寂しいですね。わかりますよね!

操さんは昔、私がちゃんと食べているかどうか心配していました。だから、毎日、今日たべたものを報告しています。

それから、操さんが骨折して入院したときから足の裏が痛くなりました。年々ひどくなり、最近では歩くのが困難になってきました。ところが今は、かなりよくなってきました。操さんへの心配・心労が関係していたのかもしれません。


3.いやな思い出

ここで、私がいままでに経験したいやな思い出について語ってみたいと思います。

 

《市立病院での苦い思い出》

本施設に入所してまもなく、私は歩ける操さんを連れて市立病院にあいさつに行きました。操さんは階段で3階まで歩いていきました。皆、喜んで迎えてくれるかと思っていました。

しかし、驚くべき結果となりました。こちらがあいさつしようとすると、職員がそっぽをむいてしまうのです。めんどうくさいので避けているのです。ナースステーションによく知った看護師の方がいましたので、入り口に二人でたって、「すいません」と、声をかけてみました。すると、冷たく「何か用ですか?」という返事が返ってきました。

私は、この時点ですべてわかりました。さっさと退散しました。もう二度とこのような無駄で、恥をかかされるような行為はしないと誓いました。それにしても、あきれますね!

その他にも市立病院では恐ろしい思いをしました。これらは、8節にくわしく書かれていますので、興味のある方はご覧ください。

 



《本施設での医師のいい加減な仕事ぶり》

失礼ながら、職員のなかでも医者のいい加減な行為が気になります。それを検閲する者がいないので、間違っていてもわからないのです。やりたい放題なのです。なにをやってもわからないのです。


昔、耳かきしてもらったが、傷つけられてしまい出血、その血がたまり固まってしまった。それを取り除いてくれるように頼んだ。ある日、8割とれたと報告あった。しかし、その後、私が調べてみると大きな血の塊が出てきました。ほとんどとれていなかったのです。私がいなければ、ほとんどとれています、という話にされてしまいます。この間違った判断をした方は、ある医師でした。高い給料をもらっているのに、こんないいかげんな仕事しかできないやつです。

この世界では、医者の判断にけちをつける者はいません。だから間違いが、間違いと認識されることがありません。だから、彼らはやりたい放題であり、慎重に確認すらしません。恐ろしい世界ですね。


《本施設での理学療法士のひどい態度》

1999年、2回目の骨折の後の話である。ある理学療法士に、今後どのようにしていくかを相談しようと思った。時間を決めて会うことにした。私が待っているとドアが開いて彼が出てきた。そして私に驚くべきことを言った。「なーーんですか」これが彼のはじめの言葉であった。かなりめんどくさそうであった。私は「こりゃだめだ」と思った。今までの経験でピンとくるのだ。彼がいうには、もう操さんは歩けないし、歩かせないほうががいいそうだ。

彼としゃべるのはやめにした。こんなやつを相手にしていてもしょうがないことは、今までの経験よりわかった。もう私は誰にもたよらず、操さんを再び歩けるようにしようと決意した。

ある日、私が操さんを歩かせていると、その療法士がこちらをじっと見ていた。その顔にはなんとも後ろめたいものを感じた。かれとは二度としゃべらなかった。私がいなければ、操さんは寝たきりになっていた。

 

《本施設でのひどい行為》

2002年、操さんが、食事のとき口を開けなくなった頃の話です。私が会社から17時40分に到着すると、夕飯はもう終わりました、と言われました。夕飯がくるのが、17時30分なので、10分で終わったことになります。その頃の操さんに食べさせるのは大変で、私がやっても60分かかりました。まったく食べさせないで、さっさと片付けてしまったのです。それが、たびたび続いたので、私は電話で、「私がたべさせるので片付けないでください」と言ってから施設に向かいました。

よく、弱った者にたいして、こんなひどいことできますね! 犯罪ですよね。殺される、と言っても過言ではない。私がいなければ、操さんはこんなやつに殺されてしまったでしょう。

この犯人をかりにAとしておきましょう。私は誰だかわかっていますよ。

 

《TVのスイッチとられた》

これもA氏のやった驚くべき行為です。

私はあるTV番組を毎日たのしみに見ていました。A氏は、この私の行為をなぜか苦々しく思っていていじわるをしてきました。まず、TVのリモコンを私が見ようとする時間になると隠してしまうのです。しかし、TV本体のSWを操作することでなんとかしていました。すると今度はTV本体のチャンネルSWを壊してしまったのです。しかし、その奥にあるSW本体を棒で押すことで対処しました。すると今度はその部分にガムテープが貼ってありました。

信じられますか?これが私に対するいじわるです。なんでこんなことするの?

 

《3回目の骨折のとき》

2000.2 操さんはまた転び、骨折した。左足だ。そのとき施設では「一週間様子を見る」方針だった。しかし、熱が出て、たいそう痛がっているさまを見ていて、私は一刻も早く病院に連れて行くように言った。それで、元強矢医院に連れて行くと、ほおって置いたら化膿してしまい、そうなったら人工骨頭を抜くしかない、と言われた。やはり私が行動して良かった。あのまま一週間おいといたら大変なことになっていた。骨折は人工骨頭の入っている周りだったので、一ヶ月くらい中央病院で静かにして、つながった。施設のいうとおり、一週間おいておいたら大変なことになっていた。なぜ一週間なのか? もし、自分だったそうするか? もし、私がいなければ大変なことになっていた。恐ろしい事件だった。

 

メンソレータムについて》

メンソレータムについては、誤った情報が信じられています。痛くてかわいそう、とかです。誰が火元かわかりませんが、たぶん全国的に信じられていることだと思っています。

誰もが知っていることと思いますが、操さんのお尻の状態がそれをたっぷりつけたことでよくなりましたよね。あれには誰もが驚いたことと思います。世の中には間違ったことが多くはびこっています。

傷、かゆみと、あらゆる問題にメンソレータムは効果があります。かりに直らなくても、その刺激が――皆さんの恐れる――苦しさを中和してくれるのです。

 

4.私の記録より

2011年3月11日(金) ついに運命の日がきた。前の日に38度の熱が出続け、食べられなくなった。呼吸が荒れていた。次の日の朝電話がかかり、呼吸が荒れていると言われた。10時に起きて、ラーメンと納豆を平然と食べ、コーヒーを飲みながらタバコを2本すってから、風呂に入ってから向かった。操さんは酸素吸入して苦しそうな呼吸していた。激しく吸い込み、ゆっくり吐き出す。私は音楽を聴きながらいつもの作業をしていた。操さんは苦しそうだった。14時46、東日本大地震がきた。長時間にわたり大きく揺れた。そして、停電。酸素装置は止まった。あわててボンベで行おうとしたがてまどった。そのとき、操さんの呼吸が止まった! 少しして一呼吸した、そしてまた少しして音をたてながら一呼吸した。それが最後の呼吸だった! 操さんは死んでしまった! 死んでしまったのだ。楽に死ねたのだろうか? 「あの酸素の停止がなければ?」と考える、これからもそれは考える。その後激しい余震があった。大地震と死、なんともエキサイティングが出来事だ。そうは思わないか? その後操さんは霊安室に運ばれた。なんとも奇妙な空間だった。停電でどこも真っ暗だった。顔に布をかけられた操さん。信じられない。寒かった。その後、葬儀屋の泉商会の方が来て、操さんを連れて行く。古いクラウンだ。私はその後をついていった。信号はすべて停電で機能していない。横瀬まで、聖地公園からの近道を選んだ。細くてあぶなかった。すれ違いはスリルに満ちていた。ようやく着いて、操さんは畳に寝かされた。顔には布がかけられていた。私は、事務的な手続きをすませた後、操さんに挨拶をして去った。街は停電で真っ暗、スーパーマーケットもやっていない。私は大家さんにろうそくを3本もらって、明を得ることができた。一本2.5時間もった。寒かった。操さんも寒いだろう。死んでいても。3時ころ復旧した。一時間ごとに目が覚めた。眠れない。いろいろな夢を見た。操さんも出てきた。驚くべき日であった。操さん、操さん、もう一緒に歩けないね! もうお話できないね! 大きなお口あけてかわいいあくびもしないよね!

 

2011年3月12日(土) 操さんの衣類を引き取りにいった。担当の方々にも挨拶した。車椅子は寄付した。背中のあて具はもってきた。死亡証明書は1万円とられた。その後、泉商会にいき手続きした。それで、家に帰ってしまったが、操さんのそばにいてあげなければらないと思い、もう一度戻った。3時45分に戻る。操さんは棺桶に入っていた。顔のところが開くようになっていて、開けてあった。おそるおそるのぞくと、操さんのきれいな顔があった。きれいな顔であった。しかし、冷たい、不気味な顔でもあった。すごく寒かった。私は線香をどんどん燃やした。ぜんぶで50ぽん燃やした。いろいろな話をした。ストーブを焚いていたので暖かかった。19時30分までいた。その後、スーパーマーケットに行ったがろくなものなくて、缶詰を買った。夕飯食べて駐車場に戻ったが、また操さんのところへ行きたくなって泉商会まで行った。操さんの顔見て、涙が出てきた。

 

2011年3月13日(日)操さんのところへ、歯を磨き、めがね洗って、風呂に入ってから16時頃行った。操さんはきれいな顔していた。線香を燃やしながらいろいろな昔話した。明日は火葬だ。お茶を3杯飲んだ。操さんの写真を顔の周りに置いた。操さんさよなら!

 

2011年3月14日(月)今日は火葬の日だ。11時15分に起きた。ラーメンと納豆を食べ、コーヒーを飲みながらタバコを2本吸った。風呂に入り、歯を磨き、めがねを洗って、マミーを水筒に入れた。泉商会には、14時5分頃着いた。操さんの顔見ながら線香をあげ、お茶を飲んだ。14時26分火葬場に向かった。車はゆっくり進んだ。それにしても細い道路だ。火葬場に着いて、線香をあげ、すぐに炉に入れた。さようなら、操さん。それから、ヤオコーに行き弁当を買った。地震のせいで品薄だ。駐車場で17時に3分の1食べ、18時に全部食べた。

 

 

8.初めに骨折したときから本施設に入るまでの記録

 

1998.4.18(土) 操さんは痴呆が進み、元気も無くなっていく。我々はどうなるのであろうか。寂しげな表情、何もかもわからないといった様子は、普通の生活ができない限界に近づいていることを表していた。散歩にいってもしょっちゅう帰れなくなって誰かに家まで連れてきてもらうらしい。私は1年くらい前から、いっしょに散歩したりして、操さんに気を使い出した。それは操さんの健全な状態がもうわずかしか続かないことを予感していたのかもしれない、そしてその日がついに来たのだ。いつものように散歩に連れて行き、お茶を飲んでからドライブに行った。富岡のキンカ堂で買物をしてから、操さんをトイレに連れて行き、その後荷物をベンチの上に置き、操さんもすわらせてから私もトイレに行く。このとき早く戻らないと操さんは不安になり、私を捜しにどこかに行ってしまう。――この前、私が操さんを待たせたまま買物をして戻ったところ、操さんは荷物を近くのパン屋の中に持ち込んでいるところだった。何をしようとしているのかはわからない。――私が急いで戻ってくると、操さんの目はそわそわしている。もう我慢の限界といった感じだった。私を見つけると、操さんが安心したという様子かはっきり感じられた。もう少し私が戻るのが遅ければ、どこかに行ってしまったかもしれない。我々は車に戻り操さんを乗せて再び買物にキンカ堂に向かった。操さんを車に乗せたので大丈夫だと思ったのであった。私は本屋に行った。エロティックな雑誌など買って車に戻った。車に近づくと操さんがこちらに歩いてくるのだった。またしても私を捜しにきたのであった。危なかった、もう少し遅れれば操さんはどこかに行ってしまうところだった。私は前記1997.1.11の東京での事件を思い出した。このような人を独りにしてはいけない。もしここで操さんがどこかに行ってしまったならば大変なことになった。車の中を診ると、操さんが車の中をいろいろ動いたことが分かった。私は腹が立って操さんを怒鳴った。操さんはしょんぼりしていた。かわいそうだ。それから我々は家に向かった。途中、私は車内でコーヒーを飲んだ。その空き紙パックをシフトレバーの前に置いた。ところがある右カーブでその紙パックが操さんの座っている床に転がった。これが操さんの運命に大きく影響することになる。家の駐車場に着き、操さんをいつものように先に行かせて、私は買いもの袋をトランクから出して、カギをかけようとした。しかし、ここでコーヒーの紙パックを床に落としたことを思い出した。私はそれを回収して帰ろうと思った。これが良くなかったのだった。それを回収して私は家に向かった。駐車場とアパートの間には100メートルくらいの距離があった。私がアパートに近づくと、操さんがいつものように階段を下りてくるのが見えた。踊り場で私を確認するのだが、私がまだ見えなかった。そのとき私が確認できればまた階段を上がって行くのだった。私がコーヒーパックを回収した時間だけ遅れていたのである。そして下まで降りた。そして次の瞬間「パタッ」という音がした。私が近づくと階段の下の道路に操さんが倒れていた。階段を下りると、さらにその先に道路への3段の階段があり操さんはそこ踏みはずしたのだろう。そこは暗く足元が見えなかった。この音が、これからの我々の苦闘の始まりであったのだ。この音はいつも思い出す。この音は私の人生、考え方を全て変えてしまった音であった。操さんを起こそうとすると、「痛い」と言った。私はなんと操さんをそのままにして荷物を家に運んでから、操さんのところに戻った。なぜそんなものをほっぽって操さんを助けなかったのであろう。もし車が来て操さんが引かれてしまったらどうするのであろうか。それから、私は操さんを抱きかかえ、家の中に運んだ。それから私は何をしたらいいのかが分からなかった。操さんは重大な怪我をしている。私は生れて初めて救急車を呼ぶことにした。119に電話をした。私は「おふくろが階段から落ちて痛いと言っているのだけれども、そちらを呼んでいいのですか」などときいたが、相手はなんと怒り出した。「救急なのかどうなのか、あんたは何を言いたいのか」といらいらした調子で言ってきた。なんともひどい応対だ。これがこの秩父市の困った人への応対なのかと思った。私は「救急です」と言った。住所を伝えた。すぐにサイレンが聞こえてきた。しかしなかなか近づいてこない。一本道を間違えているようなのである。私は外に出て救急車を追いかけようかと思ったが、家に電話がかかってくるかもしれないので戻った。独りしかいないので大変なのである。家に戻ると救急車から電話がかかってきた。私は場所を細かく伝え、救急車がきた。操さんはそわそわし始めた。そして何と歩いてよそ行きの靴を出し始めた。おもしろいことだ。どこかに行かなければならないということはわかっているみたいだった。大きな救急隊員が来て操さんをおぶった。スカートなのでおぶりにくかったようだ。階段を下りる途中、上に屋根がありそれに頭がぶつかりそうに見えたので気にしながら降りていた。すでに人の不幸を楽しむ野次馬が出てきていた。操さんはストレッチャーに乗せられ、救急車に引き込まれた。私も乗った。生れて初めて乗る救急車である。隊員が操さんに生年月日をきいた。操さんはすぐに正確に答えた。私は驚いた。こんなこともあるのだ。走り出すとまもなくあのサイレンが鳴り始めた。中で聞く感じは外から聞くのと違っていた。信号は無視された。あらゆる車が停止して横によけている。松本病院に着いた。診察室に入るとものすごい暖房がはいっていた。医者が来て少し見て「これは救急ではない!」と言った。私は非常に困った。操さんは何とか歩けた。レントゲン写真を撮った。しかしそれはひざ中心のもので、股関節部分は撮らなかった。その写真を見て異常なしと判定された。しかし、操さんの様子を見ていると、上のほう、つまり股関節付近が痛いような感じがした。私は帰るときに、もう一度股関節付近を撮ってもらおうと思った。しかし何か言いづらかった。そして結局、言えなかった。このとき言えばよかったのである。操さんは股関節部分を骨折していることが分かったのはずいぶん後になってからだ。こういうときは何でも申し出たほうがいい。このことが私を変えた。それ以来私は操さんのためなら、どんなことでもちゅうちょせず主張し、強引に人を動かすか、自分で実行してしまうようになった。それは少しの間他人を不愉快にしたとしても、結局私にとっても、誰にとっても良い結果をもたらすのであるから。我々はタクシーを呼んで帰った。操さんはなんとか階段を上がった。私は操さんに、右足が痛いのだから左足をまず階段に上げ、その後にその段に右足を引き上げるように言った。操さんはその通りにした。家に着くと、操さんはきちんと正座していた。トイレにも何とか行けた。私はご飯をつくり、2人で食べた。私は操さんの足が明日になったら良くなると願った。

1998.4.19(日) 朝、操さんは台所に立って仕事をしていた。私は、直ったのだと思った。こうしてだんだん良くなっていくと信じた。操さんは洗い物をして、それらを茶だんすに入れていた。やっぱりなんでもなかったのだと思った。しかし、そうではなかった。操さんの右足の痛みは次第に大きくなってきたのであった。その日の夜、ついに漏らしてしまった。私はトイレに連れて行き、下着を取り替えてあげた。今日の朝の元気な姿が嘘みたいだった。私は昼間買って来たオレンジを出したところ、操さんはうまそうに食べた。もう一つ出すと何とか食べた。

1998.4.20(月) 今日は会社を休んで、操さんを岡部医院に連れて行った。タクシーを呼んで、操さんを抱いて行って乗せた。着くと、操さんはタクシーから降り、自分で歩いて病院に入った。当然私につかまってはいる。中で車椅子を借りた。2時間くらい待った。途中トイレに連れて行って、座らせた。操さんは元気だった。そして美しかった。順番がきて診察室に入った。やけに若い医者がいた。息子だなと思った。操さんは痴呆なので何も聞き出せないで困った。この医師はどうもひざを疑っているようで、操さんを寝かせて、足を曲げたりして調べていた。これは初めに救急車で連れて行った松本病院と同じである。操さんが自分でどこが痛いのかを言えないので、何も分からない。そして、レントゲン写真を撮ったのであるが、またまたひざのところしか撮らないのだ。私が股関節も撮ってくれと言ったが、「指示はここだけですから」と臨機応変がきかないやつで、ロボットみたいだった。またしても、骨折を発見するチャンスを逃してしまったのであった。もしこのときに、股関節部分も撮っていれば骨折を発見できたのである。そしてその青二才の医師は「ひざのクッションのいたみと、筋肉同士のすれあいによるいたみである」というバカな判断をした。私は全く信用していなかった。全くやくにたたない痛み止めとシップをもらって(買って!)タクシーで帰ってきた。階段はまた操さんの足で上がった。そのとき、まえに教えた階段の上がり方を言うと、操さんは「ああ、そうだったわね!」と言った。家に帰ると、一人ではトイレに行けなくなってしまった。絶対どこかおかしい。困った、これでは会社にもいけない、どうしたらいいのだろう。夕飯を2人で食べ寝た。明日こそ良くなってくれと拝みながら。

1998.4.21(火)私は5時頃目を覚ました。どうしてこんな時間に目を覚ましたのだろうか。いやな予感がして操さんの布団を見た。すると操さんがいなかった。私が台所に行くとトイレに明かりがついている。操さんはトイレから出ようとしていた。しかし足が痛くて便器から立ち上がることができないのだ。私はこのとき、どこかがおかしい、家にいて直ることは期待できない、してはいけないと思った。絶対どこかが骨折していると思った。私は操さんをだっこして、布団まで連れて行き、パンツを取り替えた。これが大変だった。足が動かないからだ。1cmも動かないのだった。なんとかパンツを取り替えた。今日も会社を休み、操さんを岡部医院にもう一度連れて行くことにした。今日、操さんは全く歩けなかった。その前に、私は操さんの写真を撮ることにした。いすに座ったところ、タンスにつかまって立っているところである。これが操さんのスカート姿の最後の写真となった。それからタクシーを呼んで、抱き上げてタクシーまで連れて行った。岡部医院に着いて、タクシーから降りると操さんは一歩も歩けなかった。通りがかりの人に支えていてもらい、車椅子を持ってきて座らせた.混んでいて、3時間くらい待った。操さんは元気がなくなり、私も居眠りしていた。さらに困ったことに、きのうの医師が出張していて、代理の医師なのである。その医師は若くて、才能がなさそうだった。こいつが言うには「どこもおかしくない、これ以上どうしようもない」と言った。全く逃げ腰だった。私は困り果てた。ここから始まった戦いの敵は、操さんの怪我でなく、私がかかわる人たちなのである。我々はタクシーを呼んで帰るしかなかった。もう操さんは階段を上がれないので、抱き上げて運んだ。このときでもまだ私は操さんの足がなんでもないことを願っていた。帰ると、私は操さんを置いて買物に出かけた。操さんが風呂に入りやすいように風呂場にひくスポンジと敷布団を買った。敷布団は届けてもらうことにした――この敷布団に操さんが寝ることはなかった――。操さんは土曜日から風呂に入ってなかった。この状態では風呂などには入れられない。早く何とかしないと大変なことになる。私が買物から帰ってくると、操さんはトイレの前に四つんばいになっていた。痛い足を引きずり、トイレに行こうとしていたのである。私は操さんを持ち上げて、トイレに入れ座らせた。座っているときでも、少しでも動くとものすごく痛そうだった。このあたりから操さんの痴呆はいっきに進んだ。こたつの布団を手でひねくることを繰り返し始まった。これは痴呆者の有名な行動だ。この苦難が痴呆を進めたのである。四日間も何もしてやれなかった私は地獄であった。我々はご飯を食べて寝た。

1998.4.22(水) 今日は操さんが家にいる最後の日となる。きのう、5時に目覚まし時計をセットしておいた。5時に起きると、操さんは良く眠っていた。それで私もまた眠ってしまった。私が7時におきてみると操さんはおしっこを漏らしていた。このときの操さんの頭のモードは正常に近く「なんでこんなことになったのだろう」などと考えていた。それから朝ごはんを食べた。それから私は迷った。きょうこれからどうしたらいいのだろうか。足の痛みと重い痴呆のことである。もう家には置いておけない。電話で市役所に相談したら、あるところ(たしか「生協・・・」とかいったと思う)にきいたところ。現在操さんが今いる老人保健施設(全和会ビラベッキア)を紹介してくれた。ちょうど開業し始めたところで、入所者を募集していた。さっそく電話をかけたところ、足を痛がるのは痴呆のせいではないかと言われた。とにかく入所してくれ、という感じであった。それを感じるとこちらは逃げたくなるのであるのだが、我々にとってはこれが救いの神であったのである。もしここがなければ大変なことになっていた。まもなく操さんはここに厄介になることになる。我々はこの施設に救われたと思っている。話は元に戻って、私はまた電話の前の狭い空間を行ったり来たりしている。次に何をやったらいいのか考えている、いや、そのアイデアの到来を待っていると言った方が正確である。2メートルくらいの間を行ったり来たりしている。私はまた昨日行ってきた岡部医院に電話をかけた。すると看護婦さんが出てきていらいらしたような調子で「先生がなんでもないと言っているのですから、何でもないんです。今、ベッドは空いていませんので入院はできません! 心配なら来てください」と喧嘩腰である。私は考えた、ここに行ってもしょうがない。他に病院は2つある。本強矢医院と市立病院だ。どうするべきかを電話機の前の空間を行ったり来たりしながら考えた。わずか2メートルくらいのところを何回往復したかわからない。歩きながらいろいろな思い出が出てきた。ただ足が動いているだけで、何も考えてはいなかった。だんだんぼんやりしてきて昔の思い出が出てくる。今までのことを思い出しながら、私は歩きまくった。私は一時間くらい歩きまくった後、市立病院に行くことにした。そして操さんの写真を撮ることにした。台所の椅子に座っているところとタンスにつかまって立っているところを撮った。これが、操さんが家にいる最後の姿となった。この日までは、操さんは朝食も昼食も自分で食べられた。しかし、この後操さんはそれができなくなってしまったのである。私は支度をすると、タクシーを電話で呼んだ。操さんを抱いて道まで連れて行く。タクシーに乗せる。途中パトカーがオートバイを止めて注意していた。操さんはそれを見て大きな声で笑っていた。病院に着くと、私はタクシーを待たせておいて、車椅子を借りてきて操さんを乗せた。病院に中に入り、手続きをしてから、操さんの車椅子を庭に向けて止めた、操さんは「なつかしいわね、昔ここに来たことがあるのよ」と言った。当然これは妄想である。整形外科の前で順番をまつ。その間に操さんをトイレに連れて行く。しかし出なかった。そのうち順番が来た。医師は浅賀といって。いやなやつだった。レントゲン写真を撮るときまたまたひざ付近のみという指示であったのを、後から股関節部分もという指示がついかされた。やはり大腿骨の骨頭部が折れていた。ここの骨折が多いのにどうしていままでもここを疑わなかったのだろうか。やぶ医者が実に多い。転んだときここを骨折する例は多く、そのまましばらく歩ける場合がある。2003年2月のNHK-TVで、北海道の札幌での雪道での転倒を扱った番組で、次のような例があった。ある女性(老人)が買物から帰る途中、横断歩道でころんでしまった。しかしなんとか家まで帰れたそうだ。しかし、家に帰ってから痛みが大きくなり、救急車で病院に運ばれたそうだ。そして大腿骨の骨頭部分の骨折であることが分かったのである。この人は操さんと同じに人工骨頭を入れた。話は元に戻る。4月18日に行った松本病院で私がここを撮ってもらえば、こんなことにはならなかったのである。それにしてもどうして誰もが最も骨折の多いこの部分を無条件に疑わないのだろうか。操さんが痴呆でなく、自分の足のどこが痛いのかを言えれば簡単なことなのだ。それが言えないために周りの者の憶測に頼るしかなくなる。それが誤っている場合には、いつまでたっても解決されない。重い痴呆で、どこかが骨折している人を抱えたことを考えてみてみたまえ。これがいかに大変なことなのかを考えてみたまえ。私はこの時点で、相手を徹底して疑うようになった。相手の言う通りにしたためにこんなことになってしまったのであった。そしてこれから起こることによって、それはいっそう強化されたのであった。さて、私は骨折の場所がわかったことで、全ては解決したと思った。しかし、いやなことは続くもので、これからが大変なときであった。操さんはさっそく入院することになり、私はそろえるものをそろえて、紙パックの紅茶を飲んでほっとした。思えば、大変な5日だったが、これで終わりだ。操さんはまだこの時点では一見正常であり、一人で置いていっても良いようにみえた。手術は4月28(火)だった。私はひとまず帰ることにした。タクシーで銀行まで行き、お金を出そうと思ったが、銀行に着いてみると、カードを持っていなかった。家まで歩いて行って、また自転車で銀行まで行ってお金を出した。家に帰って少し寝た。

すると、病院から電話がかかってきた。操さんが動きまくっていて、他の人に迷惑だから個室にいれたいという。私がすぐ行くと、看護婦室のすぐ前の部屋に移されていた。操さんは動いて危ないので車椅子に乗せたということだった。操さんはトイレに連れていかれていた。トイレに入った操さんは、自分のおむつをくしゃくしゃいじっていた。それを見ていた看護婦さんはただただ驚いていた。操さんの痴呆はいっきに進んだのであった。何を言っても通じなかった。この病院の職員はこの程度の痴呆を見たこともないのだろう。看護婦さんはあきれ果てたと言う感じで私に「どうするんですか? こんな状態で」と言ってくる。しかしこれはバカな質問である。本当に困っているのは私であって、それはこちらがききたいことである。私がそう言うと、「あなたがそれでは困るでしょう」と言う。これもおかしな意見だ。この人は、すべていやなことを他人のせいにしようとしている。ただ意味不明の思いついた言葉の羅列で、何か意味あることを言っているつもりでいるのだ。頭の良い人ではないことは確かである。これで婦長なのであるからよっぽどごますりがうまいのであろう。トイレに車椅子で入りたい人が2人待っていた。だから余計に操さんは悪者に見えた。トイレから出るとその看護婦さん(婦長)はうんざりといった感じだった。我々の価値はいっきに下がったのである。操さんはさっき入院したときとは全く変わっていた。操さんはそれから個室に移された。その後、私は用があるため病院を出た。たしか4時半頃だったと思う。そして、私が再び6時頃病院に戻ると、操さんは夕飯を食べさせてもらった後であった。口をゆすいだ小さな洗面器が置いてあり、手ぬぐいも2つ操さんにかけてあった。寂しい光景だった。操さんは元気なかった。これがあのステキな操さんなのか。今日の午前中に見た操さんの面影は全くないほど変身していた。もうご飯は自分で食べられなくなってしまっていた。操さんは着ている寝間着(パジャマではない)をしきりに手でいじっていた。今までの操さんとは全く別人の、完全に精神障害者という感じであった。私は少し暑かったので窓を開け、窓際のいすに座り、操さんにいろいろ話しかけた。操さんはベッドのさくに寄りかかっていた。そしてその手はいつも近くの布をいじっていた。また敷いてあるタオルの中の絵のくだものをしきりにつかもうとしていた。何度も何度も飽きることなくやっていた。見ていてこちらが疲れた。私は意識不明になりそうだった。私は操さんに独り言のように語り掛けていた。そして操さんが元気だった頃を思い出して、操さんに聞かせようとした。たくさんの思い出話をした。ねぇ操さん、と言う出だしで、私は意識もうろうとしている操さんにたくさんの思い出話をした。ついに正常な精神的生活にお別れをしてしまったかわいそうな操さんである。私はこの人のことを「操さん」とか「操ちゃん」と呼んでいる。我々は2人とも血液型はB型である。だから関係はきわめて穏やかなのである。だからいつも平和にやってきた。私はもう元には戻らないであろう重度の痴呆の操さんを前にして、昔のことを次々に思い出した。少し暑く窓は開けてある。部屋の照明は消してあり、廊下の照明で逆光になった操さんの頭を窓際に座り、うつろな目で見ていた。荒れ果てた頭髪、痩せた首筋、ゆかたがみだれてみすぼらしい姿、ひたすら目の前のものをひねくる手、これがあの美しかった操さんだ・・・

 

――ここから操さんの歴史を語ることにする。操さんは、茨城県水戸から東京に出てきて、知り合いのつてで貿易会社に勤めていた父と茨城県石岡から嫁いだ母の間に、次女として1922年(大正11年)に東京の大塚に生れた。父は長瀞の学校にも代用教員として勤めたことがあるそうで、たいそう女性にもてたそうである。母親は1930年(昭和5年)操さん8歳)、父親は1940年(昭和15年、操さん18歳)に死んだ。近所の人の話によると操さんの母親は、いい加減な医者のせいで死んでしまったという。操さんの父は、妻が死ぬと女中を雇ったりしたりしたが、その女中がうその請求などしてお金をまきあげられ、また2度目(実は3度目であることが2003年にわかった)結婚をしたが、その相手が元売春婦であることを知った父は怒り、また酒びたりになり、会社も辞め、家庭は崩壊して、操さんは知り合いに預けられた。その後、父はその嫁さんの家(北千住)に住んだみたいだ。私の本籍が北千住であるのもこのせいだ。

操さんが預けられた家は、目黒にあり電気の会社をやっているそうで、たいそう大きな家だったそうだ。その家も終戦直後、その主人が胃潰瘍で亡くなったすぐ後に焼夷弾で全焼してしまったそうである。まるでエドガー・ポオの短編小説「アッシャー家の崩壊」のように主人の崩壊とともに家も崩壊したのである。

操さんは家庭の崩壊以後、人から好かれながらも、自分のことを心配してくれる者がいなかったかわいそうな人である。このため、操さんは小学校も卒業できなかった。しかし、私が小学校のとき算数を教えてくれた。私は操さんに算数において、全く勝てなかった。そのほかあらゆる勉強を私に教えてくれた。操さんは頭が良く、順調に行けば国立の大学にも入れたはずである。

操さんはその家にいるときに、何か技術を身につけなければということで、目黒にある「ドレメ」と呼ばれていた洋裁学校に入れてもらった。このときに起こった幸運について、操さんはよく私に話した。操さんが入学手続きに行くと受付の人はすんなり応じてくれ入学することができた。しかしその少し後に来た人は中学校(旧制)を出ているかどうかきかれて、いないと答えたところ入学を拒否され、寂しそうに帰っていったそうだ。操さんは小学校も出ていないのだから本当は入れなかったのだ。このことを操さんは私にいつも話していた。

操さんはドレメの寮に入り、同期の友達たちに好かれていた。誰もが操さんを小学校も出ていないとは思っていなかった。英語もよくわからない操さんに授業中に出てくる英語もわかっているものとして話しかけてくる。集団生活では良くある悩みも操さんにはなかった。楽しくてしょうがない寮生活だったのである。この時代が最高に楽しかったことを操さんは私によく話したものだ。あるとき、操さんの同室の学生が退学して故郷の岡山に帰ることになった。彼女は美人であったが、人間関係はうまくいかず、孫子の代まで寮に入れない、と言っていたそうだ。彼女は強迫性障害があったようで、よく手を異常に洗っていたそうである。彼女は操さんのふびんな運命を知っており、さらに彼女の神経症のために、操さんに強烈な愛着を感じていた。それで操さんにいっしょに岡山の実家に来て欲しいと泣いて頼んだそうだ。操さんはそれをことわった。その後、操さんのところに彼女の弟さんから彼女の死は報告された。たぶん鬱(うつ)による自殺ではないだろうか。私はそう思っている。誰からも熱烈に愛される操さんである。彼女も操さん、つまりスーパー女性的なものを必要としたのである。操さんは師範課に進み、教師からも好かれ、いつもそばに置かれた。そのまま学校に残れば教師になっていただろう。しかし操さんにその気はなかった。操さんは卒業して小さいところに就職した、しかしすぐ辞めてしまったそうだ。その後株をやって100万円くらい儲けたそうだ。

操さんは誰からも好かれ、プロポーズもたくさんされたらしいが、「知らない人と一緒にはくらせない」といって全てことわったらしい。戦時中非難していた操さんの母親の実家である茨城県石岡市で見合いをしたがことわった。

しかし、そこで知り合った妻子ある男性(後に私の父親となる理崎一定)が操さんにほれ込み、ついに1957年にその成果として、私が豊島区池袋で生れた。この男性は操さんに「九州に駆落ちしよう」といったそうだが、操さんは「やめてくれ」とことわったそうだ。その男性は操さんのことが好きで、私が就職するまでめんどうをみてくれた。その男性つまり私の父は操さんが、うなぎが好きだということで、3人でどこかへ行くと必ず帰りにはうなぎ屋に連れて行く。多く行ったところは、東武東上線大山駅の近くにある「宮川(日本で有名な屋号で全国にある)」という店である。

操さんは、どのような人にも好かれ、人間関係での悩みはなかった。これほどどんな人にもすかれ、いやらしいところが全くない人はいない。操さんと立ち話が始まると1時間は終わらない。相手はいくらでも話題を出して話を続けようとする、操さんと話がしたいのである、というよりいっしょにいたいのである。

私が小学校に上がる前に、池袋から東武東上線上板橋駅から10分くらいのところにある練馬区仲町(後に錦)に引っ越した。一軒家であって、6畳と3畳と小さな台所があり、風呂はない。ここは事実上私の故郷である。ここの思い出が一番でてくる。また池袋に戻るつもりだったのか、私は池袋の池袋第三小学校に通った。行きと返りは、操さんが送り迎えした。しかし、半年も通わないうちに、住んでいるところの近くの仲町小学校に転校した。どうして我々が池袋から練馬に引っ越してきたのか、また戻るつもりだったのか、これらの謎はわからない。きいても明快な返事が戻ってこない。操さんは何かを隠している。私にとって、この家庭は謎が多く複雑だ。その中にいる操さんはかわいそうだ。

私は普通の子とは違っていた。興味を示すもの、行動は普通の人とはかけはなれていた。ある時、操さんが自分の腕時計を私に貸してくれた。すると私はいきなりそれを床にたたきつけたそうだ。時計は壊れてしまったが操さんは全く怒らなかった。また、操さんの三面鏡も私が壊してしまった。何から何まで私の手にかかると毀されてしまう。しかし、操さんがそのことで怒ったことはない。またある時、家に友達が遊びに来ているときのことだった。私はタンスの引き出しを階段状にしてそれを上っていた。すると私の重さでタンスが倒れてきた。私はすばやく逃げたが、タンスの上に飾ってあった人形は壊れてしまった。しかし、台所から飛んできた操さんは怒ることはなかった。操さんは通常の人が怒るようなところでは全く怒らなかった。この操さんの不明さ、未知さに私は魅了された。執着心が強い私は操さんと買物にいくと途中の店によって一時間以上も商品を眺めていたり、公園に寄ってブランコに2時間くらい乗っていたりする。それを操さんは待っているのである。

散歩の途中、鍛冶屋があって、私はそれを見ていた。操さんはあまりにも長く私が見ているので、家に帰って一眠りしてしまった。あわてて戻ってくると私はまだ見ていた。変わった子供である私を――それは最も男性的なものであるかもしれない――、操さんは女性的な視点で好ましく見ていたのである。

私が小学校4,5年の頃、私の同級生の母親が3人ばかり、操さんに学校のことで相談に来た。しかし、その話の内容を聞いていると、相談の内容以外の雑談がほとんどであることが多かった。それで2時間くらいしゃべっていく。相手はその相談自体より、操さんと何でもいいからしゃべってみたいのである。それで満足する、ある種の不快を中和するのである。

私が小学校5,6年の頃、隣に住んでいる人が私の記憶では3回、物を持ってきてくれた。たしか一回目はせんべいの詰め合わせ、2回目は自動車のプラモデル、3回目は中学入学祝いの万年筆である。どうして彼女がこのようなことをするのだろうか。何かのお礼でもないし、何かをやってもらおうというわけでもない。たぶん操さんへの貢物なのである。操さんも不思議であったみたいである。ステキな操さんに自分をアピールしたのだと思う。魅力は相手を最高度に動かすものだ。それは、魅力的な操さんに対するある種の不快の中和の欲求から来ているものなのだ。それほど魅力は人をじっとさせておかないものなのである。

操さんは私の全ての行動をほめてくれた。「毅ちゃんは頭がいいからきっとできるわよ」、「いやーすごい、毅ちゃん頭いいわね!」という具合に、私の行動全てを、良く解釈してくれた。これは後年、私が苦境に立ったときに私を助けてくれることになった。というのは、良い思いをたくさんした者、成功体験をした者、養分をたくさん取り入れた者は苦境に強いのである。これは、犯罪学の分野でも言われていることだ。その逆に、幼年期に栄養失調であった者は、困難にぶつかるととたんにおかしくなってしまったり、対処しきれなくなったりするのである。

ここで、幼年期を幸せに送ることのできた者――甘やかされて育てられてしまった者――が授かる能力について興味深い話を、《カール=ハインツ・マレ「子供の発見」小川真一訳、みすず書房》の最終章「ガチョウ番の少女」から引用してみよう。

 

ヒロインが受けたような甘やかしの教育にだって、いい所はある。もちろん、このような教育を受けた子供たちは、「路上」のけんかで同じ年恰好の子供たちと戦うこともできない。けんかを挑まれても、彼らはなすすべを知らない。彼らはみんなから弱虫と思われ、利用しつくされ、軽べつされる。そこでこの子供たちは屈辱と敗北を喫する。しかし、このような無能から、将来に関する悲観的な予想を引き出すのは間違いである。またこの無能を理由に、たえず子供たちに文句を言い、彼らのふん起を要求し、期待することも間違いである。多くの小さい「王女」、もしくは何人かの「甘えん坊の少年」の将来の見通しが、他の子供たちに比べ特に暗いわけではない。むしろ逆である。この昔話はそのことを証明している。なぜなら、この昔話の中で最後に目的を果たすのは、利口で、すれっからしの腰元ではなくして、それまで大してパッとしなかった王女であるからだ。

やさしい甘やかしや、親密な親子関係は、子供たちに一つの潜在力を植えつけ、それによって彼らは他の子供たちをしのぐことになる。しかし、この潜在力が発達しきるまでには、かなり長い時間を要し、この力が発揮されるのは、だいぶ後になる。だから成果が現れると、多くの人たちは、「たなからぼたもち」のように思う。一方、かつての優者たちは、往々にしてそれまでの優位を保ちきれず、中ぐらいのところでモタモタするか、さもなければ落伍する。かつての優者たちは、最初の成功から間違った結論を引き出し、自分を過大評価する。

 

甘やかされて育った者は、だめだといわれる。しかし、何がだめなのであろうか。甘やかされて、幸せに育った者の体には、何かが形成されている。それが、かなり後年になって、肝心なところで効いてきて、その者を助けるのである、一方、甘やかされないで、厳しく、もしくはぞんざい、いいかげんに育てられた者は、世の中をうまく生きる手っ取り早い知恵を習得できる。苦労や、いやな思いをたくさんしてきたので、当座の困難をしのぐ術にはたけているのである。しかしそれらは十分に熟成したものではなく、場当たり的な知恵なのである。真の天才はその才能を生涯にわたりゆっくり伸ばしていくという。金をかけたものは使っていてそれだけのことがあるものだ。安く済ませた物は、長期的に見て高いものにはかなわない。手っ取り早く知恵をつけたすれっからしは、十分に養分をとって育った者に、大きく、長期的な問題においてとてもかなわない。この考えはレスラー氏の連続殺人犯の関する考えと一致している。つまり、幼年期の幸福な生活は、甘やかしも含めて、後年その者を大きく助ける可能性が大きいのである。

《「ニーチェ全集」、白水社》のなかのどこかに、『天才は、労作家である』というのがあった。これも前記の考えと一致するのである。例えば、モーツァルトベートーヴェンニーチェなどがそうであるとは、よく言われることである。天才は、いつもあることについて、考え続け、考えつくしている。いきなりある発想が出てきたわけではない。他の者が、いろいろなことに気をとられているとき、彼はある一つのことについて考えつくしていたのだ。無意識的にそうしている場合も多い。というのは、彼にも、どうしてよいアイデアが出てきたのかわからない場合が多いからだ。よく、良いアイデアは、どこからか――自分の外部から――到来した、と言われる。このアイデアは無意識、あるいはどこか自分以外にところで作られたものである。これを「彼の活動」の中に入れてよいなら、彼はこのアイデアを出すために、見た目よりはるかに膨大な思考活動をしていたことになる。このアイデアが出されたとき、周りの者たちはそれが一瞬で生みだされたものだと錯覚してしまう。たいていの者がその問題について無関心でいるのに、彼はそのことについて長く考え続け、ついにその労作を世に送り出す機会が到来したとき、その結果をさっと出した。すると、周りの者は彼がそれについてそんなに考えていることを知らないので、彼がその場において一瞬で思いついたものとしてしまい、感心するのである。しかし、彼は長い間養分を吸い、ゆっくり熟成させてきたというわけだ。

私が中学1年の6月頃(1970年)、西武池袋線練馬駅から5分くらいのところにある練馬区練馬に引っ越した。一軒家だが2階はアパートになっていた。6畳2つ、4.5畳が1つ、ダイニングキッチンと風呂と便所があった。家賃は3万円であった。よくこんな高い家賃を払ったものだ。

私の父はえらい者だ。私が中学を卒業するまで操さんは働かなかった。だから父がたまに来て置いていくお金が唯一の収入だった。父がなかなか来ないと不安だった。父が長く来なくなったとき、ここの家賃を払いきれないと思った操さんは、私と安いアパート探しに行った。不動産屋に行き現地へ行き中を見せてもらった。6畳一間で便所は共同であった。ここでいいと思い操さんは不動産屋に手金として1万円を払った。しかし、そのすぐ後に父がお金を持ってきた。そこで我々はまた安心してそのアパートに移ることをやめた。操さんは手金としておいてきた1万円を返してもらえないかときいてみたがだめだった。操さんは「お金がないときなのに痛いわねぇ」と言っていた。かわいそうだった。操さんはそのお金を少しずつ貯め、私が中学3年(1972年)のときに私に教えてくれた。「毅ちゃん、何かあったときのために、ここに50万円あるのよ」、私はなぜか泣けた。

確かその頃だったと思うが、操さんがなじみの歯科医院に行ったときのことである。その歯科医院で勧められた「ウォータピック」という歯の手入れ器具(1万円)を買ってきた。1万円と言えば大金であった。操さんは気まずそうに、私にそれを見せた。普段、私のもの以外に何も買わない操さんにとってそれは大きな買物であった。信頼している歯科医の勧めだからこそ、それを買ったのであった。しかし、それはあまり役にはたたなかった。

あるとき叔母が洗濯機を買ってくれた。それまでは、私が生れたころ買った昔の手動の絞り機の付いたものが練馬に引っ越してくるまで活躍していたが、ここに来てからは庭に横たわっているだけであった。洗濯は操さんが風呂場でやっていた。買ってもらった洗濯機は二層式であった。つまり全自動ではなく脱水機がついたものであった。この洗濯機は長く使い、私が就職した秩父でも使っていた。それに付いていた「かご」は未だに使っている。

あるとき、父が電動ドリルを二つ持ってきた。私はそれで遊んだ。私は鉄道模型を趣味としていた。思えば、1969年7月16日、アポロ11号が打ち上げられて7月20日に月面に着陸した夏の暑い日に、操さんに「弁慶」という蒸気機関車の模型を西武百貨店で5500円で買ってもらったのがきっかけだった。TVでアポロ11号の着陸船からの映像が流れていた。それ以来、私は鉄道の車両模型の工作の研鑽に専念していた。それ以来操さんは、貧乏なのにもかかわらず、ED70(5000円)、D51(18000円)、9600(19600円)と高価な機関車の模型を私に買ってくれたものだ。そのドリルも私の工作に進歩をもたらした。しかしあるとき。操さんはそれを質屋に持って行き、現金に替えてきた。父がお金を持ってこなかったのだ。そのうち父が来てそれを聞き、ドリルを取り戻してくるように言った。操さんはその通りのドリルを取り戻してきた。そして父はその二つのドリルを持って行ってしまった。

操さんは私が高校に入る前に、池袋西口駅前にあった「サンファイブ」というマージャン屋に勤めた。たしか10時から21時までの仕事だった。受験の苦手な私は日大豊山という低レベルの高校にも正規で入れず補欠となった。操さんは勤め先から父の車に乗って補欠料金5万円を払いに行った。ごめんね、操さん。操さんは勤め先でも周りの人に好かれた。いつものことだ。操さんは店の客が残していった、タバコ、酒を毎日持ってきた。そしてそれらを2人で楽しんだものだ。タバコを2人で吸い、酒は温めて飲んだ。寂しさがそれによって「マッチ売りの少女がマッチをする、そして夢を見る」ときのように中和された。とても懐かしい。

私が高校1年(1973年)の夏休みには九州に蒸気機関車の撮影旅行をした。そして、操さんに写真の引き延ばし機(約2万5千円)を買ってもらった。操さんは、「やりたいときにやっておかなければだめよ」と言っていつも無理して買ってくれるのであった。私はいままで撮った写真を焼付けした。暗闇であたまが痛くなったものだ。露光時間が決め手なのだ。

1月(1974年)、ある病気で入院した。その1年は無駄になった。操さんは日曜日に病院に来て、洗濯物を持って帰った。また、操さんはこたつを持って来てくれた。昼間、私はそれをベッドの上に乗せて暖をとった。操さんには迷惑をかける。

私は3月に国鉄会津線蒸気機関車の撮影旅行に行った。このとき私が家を出かけようとしていたとき、父が来てしまったのであった。我々(私と操さん)は、お金を余分に使うことは、いっさいこの父に内緒だった。だからこの日の私の旅行も秘密に行なわれなければならなかった。私は別の部屋で支度をして、買ってきたばかりの長靴を畳の上ではいて、オーバーコートを2枚重ねて着て、「ちょっと散歩に行ってくるよ」とどなって家を出た。このときのことをいまでも懐かしく思い出す。私は操さんに買ってきてもらった京樽の弁当をいくつか持って出かけた。これは持っていってよかった。店などないところ、しかも豪雪地帯に行こうというのだから。会津線に入ると横殴りの雪が降ってきた。宿は湯上駅にした。旅館では寒く、布団も浴衣もじめじめでこたつで寝た。布団の湿気で冷たくよく眠れない。しかし、翌日は5時に起きて、前の晩旅館の人に作ってもらったおにぎりを食べた。凍っているみたいに硬かった。帰りは疲れきって、夜行列車で2席分をとって死んだように眠って帰ってきた。

私は1975年に退院して復学した。この夏の休みに私は再び会津線蒸気機関車の撮影旅行に行った。帰りの列車の中で、わたしは下痢をしてしまい会津若松駅に着くまで地獄だった。

父がお金を長い間持ってこなかったときのことだ。操さんと私は夜、父のアパートまで出向いた。たしか都電荒川線の沿線で、線路際にあったのを覚えている。私は父の住まいをそのとき初めて見た。私は外で待っていて、操さんだけアパートに行った。しばらくして操さんが戻ってきた。少し安心した顔をしていた。操さんは何も言わなかった。かわいそうな操さん、いつもお金の心配ばかりしている。早く私が助けてあげたい。

操さんは前記のマージャン屋にたしか1976年頃までいた。操さんは給料が低いということでそこを辞めて、新宿にあるマージャン屋に勤めた。操さんが辞めると言ったとき、そこの責任者は操さんに「働かなくてよくなったんですね、よかったですね」と言ったそうだ。当然のことながら人間関係はうまくいっていた。

次のところはかなり広いところみたいで操さんは「まるで劇場みたいなのよ!」と言っていた。操さんはその頃住んでいた練馬区練馬から西武線練馬駅近くのバス停まで歩き、バスに乗って通っていた。そこで調理の仕事をしていた女性と仲良くなって、家に呼ばれた。その人の家はなんと我々が住んでいるところから1kmくらいのところにあった都営アパートであった。操さんが行くとその人はピアノを弾いたそうである。その人は一人暮らしで、操さんとできるだけいっしょにいたいみたいだ。

そこで半年くらい働いたあと、操さんは私の父の紹介で建築業をやっている小さなところの電話番として勤めることにした。そこは経営が苦しいらしく給料も滞りがちだった。さらにセメントを仕入れる場合、一回目は代金をすぐ払い相手を安心させ、その次の注文で代金を払わないのだ。これを「引っ掛ける」といって、私の父もよく引っ掛けられた話をしていた。そうしなければ生き残れないのだ。そこの女性事務員の自宅は経営者の借金の抵当になってしまっているというから恐ろしい。断れなかったのだろう。操さんも「家は自分のですか?」ときかれたというから恐ろしい。

操さんは、そこに数ヶ月いた後、給料不払いのため辞め、1977の夏ごろそこで知り合った人の紹介で、何をやっているのかわからないところに勤めた。実態はあやしげなブローカーだった。八丁堀のマンションの一室を借りた事務所が操さんの勤務場所となった。仕事は電話番であったが、その他、顧客との打ち合わせに出たり(喫茶店にて)していた。私が朝、高校に行く前に電話がかかってきて、操さんは指示されていた。操さんはハンドバックに私の国語辞典を入れていた。しかし、おかしな仕事も多かった。お寺を回って、札に何かを書いたものを集めるといったどうでもいい仕事が多かった。ある時、操さんがそんな仕事で池袋を歩いていていたとき、下痢が襲ってきたそうだ。操さんはあわててあるアパートの共同便所に飛び込んだそうである。そして次第にその雇い主の本性は出てきた。その雇い主はある時、操さんにお金を貸してくれ、と言った。操さんは貸した。するとそれに利息が付いて帰ってきた。しかし、それはわなであった。それを何回か繰り返した後に、より高額な金額を要求してきた。操さんは今までの流れで断れなかった。たしか50万円位であったと思う。しかしそれは帰ってこなかった。これが彼、つまり詐欺師の作戦だったのである。先の操さんが勤めた建築業の主人のやり方と同じで、人を引っ掛けるには、まず初めに甘い汁を吸わせるのである。この事件で、操さんはそこの行くのを辞めてしまった。計算してみると、操さんがもらったいままでの給料を超える額をとられてしまったのであった。警察に行ったが相手にされなかった。その雇い主はおばさん連中が集まる集団旅行に参加して、だます相手を物色していたそうだ。彼は詐欺師だったのである。事務所にはこのようなだまされた者からよく電話かかかってきたそうである。我々はまだこの世界のことが分かっていなかったのである。ある日2人でこの事務所に行ってみることにした。操さんはどうにも落ち着かないのだ。夜だった。その付近には、その雇い主の奥さんが住んでいるというアパートがあった。木造で古く汚いアパートだった。操さんは近くの店で情報を聞いた後、一人でそのアパートに行き、奥さんと話をしてきた。戻ってきた操さんは何も言わなかった。奥さんも困っているみたいであった。それを見て操さんは落ち着いたのであった。その近くには、その雇い主の父が立てた貸しビルがあった。いよいよ我々は雇い主の事務所に行った。マンションのたしか5,6階の一室である。マンション内を歩いていると、ある部屋から家族の楽しそうな笑い声が聞こえてきた。私はそれがうらやましかった。カギを持っている操さんは中に入った。誰もいなかった。照明をつけた。我々は中を歩いた。私はこれが、操さんが通っていたところなのかと思った。白いカバーのかけてあるきれいな椅子が優雅に並んでいた.台所もあった。操さんのいた机もあった。トイレも、風呂も見た。緊張感あふれる時間だ。全てを見た、そして気が済んだ。全てを見てしまうと我々は、何か満足した。それで家に帰った。全てをあきらめることにしたのであった。このとき私は高校3年だった。大学の入学金として操さんが大事にしていた50万円がなくなってしまった。

10月頃になると1970年に越してきたここ、練馬区練馬の借家(家賃3万円)の立退きを迫られた。そこで、父の関係の家(父の娘が住んでいたみたい)に引っ越した。場所は練馬区南大泉で西武線保谷の駅から歩いて20分くらいのところだ。家は古く、6畳3間で風呂はあった。家の中には父の娘の荷物があった。後の話だが、ここに父の本妻が荷物を取りにきたことがあったが、操さんと仲良くしゃべっていた。操さんに敵はいないのだ。

私はこの時期に東武百貨店でバッハのフーガの技法のLPレコード2枚組を買ったのを覚えている。コレギウムアウレウム演奏で、弦楽四重奏と一部チェンバロの連弾によるものだ。さらには、ヘーゲル精神現象学(上)(田中武蔵訳、岩波)というたいそう高価な本を買った。この大変な時期に、私は遊んでいたのである。また操さんもそれを推奨してくれる並外れたふところの広さを持つ人だった。いかなるときでも高級な、より上位の見方を固持することができる数少ない人であった。私は受験勉強が苦手で、いつも自分のやりたいことしかできない。私はこの現象学を読んだり、書いたりしていた。このあまりにも寂しげな家と気分に我慢できなくなると、夜、散歩に出かけたりした。そして受験は失敗した。今の状況では浪人なんて考えられないし、浪人しても受験勉強もきらいで競争心も体力もない私は来年も同じことになると思った。第一そんな余裕は我々にはない。そこで工学系の短大に入り、そこから理工学部編入することにした。その校舎は習志野にあり、理工学部の隣にあった。

この頃、操さんはというと、読売新聞をみて就職先を探していた。そして、池袋にある旅館「ホテル登紀」にまかないとして勤めることになった。操さんは、たぶんどこに行ってもことわられることはないだろう。私は前記のように短大の試験は受かった(ここを落ちるようではもうおしまいである・・・)が、入学金がなかった。叔母に出してもらうことも考えた。操さんはその勤め先でさっそく仲良しができ、その人に話をしたところその人は泣き始め、勤め先の女主人に相談してくれた。その結果、その主人がお金を出してくれることになった。

こうして私は学校に行くことができたのである。習志野までは、家から2時間半かかった。疲れ果てた私は毎日通学の電車の中で心臓が痛くなった。狭心症だった。何時倒れるかもしれないとおもった。夏休みや冬休みには、操さんが出かける前に昼ごはんを作って楕円形のお盆に乗せといてくれる。1979年の冬休みに、操さんはストーブの上に昼ごはんを乗せて出勤した。私はそれに気づかないでストーブに火をつけてしまい楕円のお盆にひびを入れてしまった。そのお盆は今でもあり懐かしく見ている。操さんは旅館にいる多くのあばずれの中でも好かれ、いつものように中心的な存在となっていた。誰もが操さんと仲良くなりたい、嫌われたくないと思っていたようだ。貢物まで持ってくる人もいた。人から嫌われる私としては、うらやましいかぎりである。

我々の貧しい家の隣には裕福そうな大きな家があった。彼らは我々をバカにしていた。そして反対側の隣にも立派な家があった。しかし、その家の主人は精神的異常者のようだった。その主人は自分の妻と息子を毎日どなりつけていた。操さんはよく私にそのことを言っていた。ある夜、私が窓からこっそりその家の窓をのぞくと、主人が怒りくるっているさなかであった。かわいそうな奥さん、そして息子。奥さんはとってもステキでグラマーな人であった。

1979年の12月にはそのとき住んでいた家を出なければならなくなった。あるとき、この土地の所有者と思われる人がやって来た。私が出ると、彼は不安そうな顔になり家の中に踏み込もうとした。そこで操さんが出てきて話をしたところ、その人は安心して帰っていった。私は、私と操さんの格の違いを感じた。操さんが出てくると、何もかもがすぐに解決してしまうのだ。そこで父の探してきたアパートに引っ越すことになった。荷物の一部は父の関係の空き家に運んだ――この荷物とはこれで永久にお別れになってしまった。思い出深いものたちが失われた。

そのアパートは東京の北区にあり、山の手線の駒込駅から5分くらいのところにあった。古い木造で6畳一間の風呂も便所もないところだった。家賃は1万5千円位であったと思う。貧乏な我々にはこれが相応なのだろう。落ちるとこまで落ちてしまったものだと思った。引越しは12月の私の冬休みに行い、父とその部下が大物を運んだ。引越しが済んだ夜12時頃、我々3人は駒込商店街のすし屋に入った。店主は今頃どうして家族3人が店に来ているのかが不思議だったみたいだった。私と操さんはそれから家に戻り片付けてから寝た。1980年の初め、その短大の後期試験の後、私は麻疹になってしまった。夜、気分が悪くなり、大家さんにきいた医者のところまで、タクシーで行った。そして麻疹であることがわかった。腹の中まで痛くて参った。試験の後でよかった。その後私は日大理工学部に推薦で行けることになった。操さんありがとう、よかった。私は全てに感謝した。

1980年4月から私は駿河台の理工学部電気工学科に通うことになった。私は毎日が楽しかった。数学科や物理科にも聴講に行った。代数学群論)、微分幾何学、位相、解析力学などを聴きに行った。ドイツの土木工学の先生が書いたテンソル解析の本や、朝永信一郎の「量子力学Ⅰ、Ⅱ」などを完全に読破した。あらゆる勉強をしたかった。高校までつまらなかった勉強とは別物であった。私はいつもこの幸運に、そして操さんに感謝した。

1981年の後期試験の直前に、私の腹が痛くなった。近くの医院に行ったところ白血球の数が多くなっているので盲腸の疑いがあるということで、点滴をやってもらった。そこでたぶん操さんが父に連絡してくれたのだと思うのだが、父に車で池袋の東大病院に連れて行ってもらった。なんとその日は休みだった。帰りに2人でうなぎを食べた。私の腹はあまり痛くなかった。父は盲腸の私に脂っこいものを食べさせてしまったと言っていた。次の日にまた父に東大病院に連れて行ってもらった。白血球の数は200以下であるので盲腸ではないと言われた。もう私の腹は痛くなかった。その後、池袋の東口のそば屋で昼食を父と食べ、家に電車で戻って支度をして試験に出かけた。病気の後は何か頭がすっきりして試験はうまくいった。たしか工業数学だったと思う。危なく間に合ったのであった。その後も快調に進み、この成績で私は電気工学科において、平均点97点で1番になった。この病はたぶん私の神経的な緊張から来ているものだと思われる。しかし、よく我々のような貧乏な者が私立の理工学部などを卒業できたものだと思う。お父ちゃんも操さんもたいしたものである。操さんはどうやりくりしていたのであろうか。

1981年の4月頃から、卒業研究の研究室を決めた。そこで私は電磁波の理論的な研究、分かりやすく言えばマックスウェルの方程式を、ある条件、境界条件で解くコンピュータープログラムを作る研究室を選んだ。そこには電磁波と伝送回路理論の権威者(細野先生)がいた。

夏から就職活動に入った。学校が学校だけにあって、良い(大きい、有名な)会社は募集していなかった。外観が貧弱な私は初めに行った会社(航空電子)の重役面接で落とされた。この面接の前の日に、操さんに背広とネクタイを東武百貨店で買ってもらった。私はあせった。つぎに決めたのが秩父キヤノン電子であった。重役面接で一人の重役が私に注目した。その人はキヤノンから天下りしてきた人で、見かけより成績にこだわっていた。こんな成績の人はいままで来たことはない、と言って採用してくれたのである。もしこの人がいなかったなら、この会社にも入れなかったかもしれない。情けない話である。あぶないところでもあった。操さんを路頭に迷わせてしまうところであった。

1982年に入社して、秩父の寮に入った。しかし、2ヶ月くらいで東京目黒区中根の親会社の技術研究所に行った。家から通った。2年行っていた。操さんは前記の旅館に勤めていた。仕事はまかないから、引退した元女主人の世話に変わった。時たま、泊り込みもあり朝方帰ってきた。私は、初給料(127000円)をもらったあたりで、父が私の給料を借りて行った。操さんは怒っていたが、私はやっと恩返しが出来たと思った。1983年の4月頃巣鴨駅の近くのスーパーマーケットでTVを買った。新品のTVを買うのは、1965年に買ってもらった三菱の真空管TV以来である。いままでは父がどこからか持ってきた中古のものばかりで、すぐ壊れてしまうのであった。またこの頃、冷蔵庫も買った。それまでの冷蔵庫は、これまた父が1968年ころどこからか持ってきた中古品であり、良く使ったものだ。貧乏なのであるからしょうがない。私は1983年6月頃から車の教習所に通った。なんと公認ではないところに行ってしまったので7ヶ月くらい通って(40万円くらい払った)、鮫洲(さめず)に行って試験を受けなければならなかった。試験場試験は5回目、路上は2回目で受かった。路上試験で、試験管に「運転がうまいですね、免停になったの?」ときかれたほど運転はうまかった。大変だった。なつかしいい。操さんはこの頃、勤めていた旅館を辞めている。これで操さんは定年退職だ。59歳だね。長い間ごくろうさんでした。

1984年4月から秩父に戻ることになった。操さんは引越しのために「主婦の店」からダンボール箱3個をもらってきた。それは今もある。6畳一間であるので片付けづらい。操さんは運送屋に頼みに行った。そこでまた相手の女性事務員に好かれてしまったらしく、2時間くらいしゃべってきた、と言っていた。「なかなか話をやめないのよ」などと言っていた。引越しの前日の夜、私がなかなか作業に入らないと操さんは怒り出した。「もう間に合わないわよ!明日は無理よ!」。私は気合を入れて梱包した。次の日の朝は朝食を食べ、食後それらを洗って梱包した。布団も梱包した。運送屋が来る前にやってしまわなければならなかったので大急ぎだ。運送屋が来てどんどん運び出す。トラックの荷物を見て驚く。6畳一間にこれだけの物が収まっていたのか。トラックには私が乗り、操さんは掃除をしてから電車で移動することにした。なにもなくなった部屋を見ると今までの感じと違う。ここでもいろいろなことがあった。我々の貧乏生活もこれで終わればいいな、と思った。さようなら、貧乏アパート。なつかしい大学生活、ありがとう操さん。

秩父のアパートは新築の重量鉄骨でいいところだ。荷物を運び終えたところで、運送屋さんがトイレを貸してくれと言ったが、上司に外でしろと言われてやめてしまった。私は2人に5000円を料金(50000円)とは別に差し上げた(操さんが封筒に入れて私に渡してあったものだ)。私はそれから昼食をたべにいった。そば屋に入った。帰ってみると、入り口の前に操さんが立っていた。悪いことをした。それから照明器具などを買ってきてつけた。

秩父に来て操さんは太ってきた。「ご飯がおいしくってさ」とか「太ってスカートがはけなくなっちゃうね」とか言っていた。いろいろなところに散歩もしていた。操さんの一番よかったときである。散歩していても友達ができる。お店の人にもしゃべりかけると中に上がって1時間くらいしゃべって来る。私が同じことをやってもこうはいかない。操さんは何をやっても、言っても好かれる。プロパンガス屋とも仲良くなった。1990年に自動車(セドリック)を買ったとき、貯金通帳がなくなりそのプロパンガス屋の主人に保証人になってもらった。これもいかに操さんが相手を魅了するかを示している。また近くのクリーニング店でもおかしなことがあり、操さんは市役所に相談に行った。すると相談員(女性)に好かれ2時間くらい雑談してきたそうだ。その相談員は「暇だからまたしゃべりにきてください。」と言ったそうである。操さんがよっぽど気に入られたのだろう。しかし、操さんはその後行かなかったようだ。秩父に来た頃にはミシンでも買って洋裁でもしようかな、なんていっていた。操さんは洋裁学校の師範課を出ている。

あるとき操さんは、私に「この前お父さんが亡くなったという電話がきたわよ」と言った。本妻から電話があったのだ。しかし、操さんはすぐに私には知らせなかった。操さんは「毅ちゃんに言ってもしょうがないと思ってさ」と言った。私は驚いた。何百キロも離れた、しかも本妻から妾の操さんのところには知らせが来ても、すぐそばにいる私のところには知らせが来ないのである。バカにされたものだと思った。そうは思わないか?・・・

 

――以上が、我々の歴史である。これが佐久間家の寂しい歴史である。このあたりまで私はまだ受動的な行動しかしなかった。まだ私は人を信用していた。しかし、これから私は能動的な、人に疑いを持って見ることに徹する人間に変身していかなければならなった。今日はずっといてくれといわれていたが、良く眠っている操さんによく布団をかけて帰った。22時頃だった。

 

1998.4.23(木) 10時頃病院に行った。昼食はうどんだった。ほとんど食べられなかった。しかし、夕食は全部食べた。夕食後家に帰り夕食を食べ、ビールを飲んで、また病院に行った。なお私は自転車で病院に通っていた。操さんはぐっすりと眠っていた。睡眠薬を飲まされたようだ。

1998.4.24(金) 今日も会社を休んで、病院に15時半頃行った。操さんはぐっすり眠っていた。また睡眠薬を飲まされたらしい。朝食を食べた後に飲まされたみたいだ。昼食は眠っていたため食べられなかったそうだ。大変なことになってきた。操さんが動かないように毎食後に睡眠薬を飲ませようというのだ。持って行ったりんごを食べさせても、眠ったまま食べている。そして18時になり夕食が出てきたが、操さんは眠っている。私は操さんの顔を熱いおしぼりで拭いてやった。熱いおしぼりは誰でも使えるようになっている。操さんは気持良さそうであった。それで目を覚まし、夕食を少し食べた。それからうつらうつらしていた。操さんの対角方向にいる人は、風邪で脊髄が侵され、下半身がマヒしてしまったそうだ。これも大変なことだ。

私はこの日操さんが睡眠薬をひんぱんに飲まされていることを知り、このままにしておくわけにはいかないと思い始めていた。食事ができないくらい飲まされている。このあたりから、私は次第に全てのことに懐疑を持つようになっていく。少し前までは病院に入って安心していたのであるが、全てをおまかせにしていたら大変なことになることが分かりだした。75歳にもなるという弱った老人に毎食後に睡眠薬を飲ませるという驚くべき残忍な行為を、病院側が自分たちの労力と危険を逃れるために無神経にやってしまうというのは驚きであった。私はこの日、3日間のお任せ体制から防御体制に切り替えた。もう誰も信用できない。誰もが自分の立場を守ろうとしているだけであることが分かったのであった。不安を感じながら、そして対策を考えながら、私は21時50分に帰った。

1998.4.25(土) 操さんはおかしなことばかり言っている。操さんは長く風呂に入っていない。私は、昨年の10月頃参加した介護講習会で教えてもらったアルコールで頭を拭くことを思い出した。私は薬屋さんで消毒用アルコールを買ってきた。これで眠る前に頭を拭いてあげるのだ。そしてシェービングクリームも買ってきた。これで顔を拭いてあげるのだ。これはその名の通りひげをそるときに使うものだ。私が前記北区の風呂なしの安アパートにいた私が大学時代のとき、この方法を発見した。風呂に行くのがめんどうであったために、濡れタオルにそのクリームをつけて体を拭いたのであった。多少残ってもかゆくならないのである。それだけで風呂に入ったのと同じくらいさっぱりとするのである。これには驚きであった。頭は大きななべでお湯を沸かして洗った。操さんは先週の土曜日から7日間風呂に入っていない。この日から退院の日まで、私は毎日続けた。頭はガーゼにたっぷりアルコールをつけて地肌からしっかり拭く。脂分は完全にとってしまわなければならない。10分位はかかる。それから、病院に用意してある暖かい濡れタオルにシェービングクリームをつけて顔を拭いてあげる。病院には廊下に濡れタオル蒸し器が置いてあり、自由に使える。私はこのタオル一本もらい、まず片面にひげそりクリームをつけ顔を拭く。そして裏面で拭き取ってしまう。これには5分かかる。これで操さんはさっぱりして、私も満足である。それから、操さんの歯を磨く。小さい洗面器を借りる。ブラシに歯磨き粉をつけて磨いたその頃操さんはちゃんと口を開けていてくれた。これで一週間会社を休んでしまった。今日から五月5日まではゴールデンウィークである。私は、この間は午前中から病院に来ることにして、昼間は睡眠薬を飲ませないようにした。私は毎日朝、コンビニで一日分の弁当と飲み物を買ってから病院に向かった。操さんに昼食と夕食を食べさせ、歯を磨いて、顔を拭き、頭をアルコールで拭いて8時頃帰るのであった。汚れた下着、おむつカバーは毎日持ち帰り洗濯して干し、次の日に持って行くのである。睡眠薬を昼間飲まなくなると、操さんは、当然昼間はあまり眠らなくなった。ところが病院の関係者は、操さんが眠ってばかりいるのは痴呆のせいであると言っていたのである。恐ろしい話ではないか。75歳にもなる弱りきった老人に3回も睡眠薬をのませるとは。殺されるところであった。手術は4月28日で3日後である。

1998.4.28(火) 病院に10時頃行った。手術は15時頃からだと思った。昼食を食べさせてそれを待った。私は操さんにいろいろ話しかけた。もし死んでしまったならそれもいいと思った。こんな重い痴呆状態で生きていてもしょうがないからだ。時間が来た。操さんは白い帽子をかぶされ、ベッドごと連れて行かれた。私は死んじゃってもいいよ、と小さい声で言った。1時間半位経った頃戻ってきた。操さんは大腿骨転子部骨折で、釘で補強することが難しいため人工骨頭を入れたのであった。麻酔はまだ効いていて眠っていた。酸素吸入もしていた。その日は私も泊まることになった。操さんの人工骨頭の入った右足はちゃんと動いていた。私は弁当を食べた後、ビールを買って来てこっそり飲んだ。酒なしにはいられない気分だった。操さんが目を覚ますと、また手が動き始まった。操さんは酸素吸入器のマスクとか、手術部分から血を排出するチューブとかをいじってしまう可能性があるので、私がその手を押さえつけていた。操さんが眠りに入ると私は窓際のベッドになる長いすにこしかけ、操さんの頭の上についているZライトをのばして雑誌を読んだ。それから寝た。何もかけないでそのまま寝た。寒かった。朝7時頃医者と看護婦が入ってきた。私は全く熟睡できなかったのでもうろうとしていた。そして朝昼晩の飯を操さんに食わせて、歯を磨き、顔と頭を拭き、洗濯物を持って8時頃帰った。夜は睡眠薬を飲むが、ある日の夜、もう飲んであるのに看護婦さんが来てまた飲ませてしまった。つまり眠らないとめんどうだからであろう。その看護婦はいかにも怪しげな奴だった。他の人はそんなことはしなかった。翌日婦長さんにそれを言ってみたら相手にされなかった。全くとんでもないことをやる奴である。このような人がいるから危険なのである。病院の問題というのではなく、職員個人の問題である。そういう奴はやれれば何でもやってしまう。抑制が効いていないのである。どんなに教育したとしてもその個人の固有な性格までは変えられないし、その人固有の欲求不満まで解消してやれない。本番で我々を動かすのは理性ではなく、本能や情念なのである。苦情をあまり言えば今度は報復される可能性がある。それは最も弱い操さんに行く可能性が大きい。その看護婦は、私があまりそのことを言えば操さんに報復するであろう。「睡眠薬を飲ませなければ動いて危ない、こちらにも責任がある」と言うが、1日3回も飲ませる必要があるかどうかである。病院関係者の身の安全と手間を省くことだけを考えているのだ。睡眠薬を飲ませすぎて、何も食べられなり廃人になってしまったらどうするのか。しかし、こうなっても病院関係者は全く困らない。適当な理由を考えうまく逃げてしまうか、ほったらかしにしてうやむやにしてしまうだろう。困るのは私だけなのである。余りにも「責任」と言う言葉が使われすぎている。この言葉はいつも都合よく使われている。意味は全く不明である。「責任」と勝手な理由を組み合わせて如何なることになっても逃げてしまうのである。操さんが睡眠薬の飲みすぎで眠りっぱなしになってしまったとき、病院関係者は私に「これは痴呆のせいです」と嘘をついたのである。病院関係者は、自分たちにとってのみ都合の良いようにしてそれに反することは全て「そんなことしたら何かあったとき責任が持てない」という決まり文句を並べて、相手との議論を止めてしまうのである。これは一つの技であって意味は何もない。この言葉が出てきたときには、相手は逃げ腰であり、身を守ろうとしている。同時に攻撃態勢に入っており、「責任」というわけの分からない言葉で相手の目をくらませ、自分たちが有利で楽な方向に持っていってしまおうとしているということだ。用心したほうがよい。特に役所的な職業の人たち(病院関係者もそうだ)によって良く用いられる。一般の良く考えない人たちはそう言われると、何か大きな意味があると錯覚してしまい、ひるんでしまうものだ。私が1984年に秩父に来たとき、印鑑証明を市役所につくりに行った。三文判を持っていったら「これではだめだ」と言われた。私がどうしてか尋ねると、「何かあったとき責任が持てない」と言うのだ。では「何かあったとき」とはどうなったときなのか。三文判でないときには、その何かあったとき責任をとってくれるのだろうか。それは何をしてくれるのだろうか。そこまで考えて言っているのだろうか。そうではない、ただ機械的に昔からこの言葉を困ったときに使っているだけなのである。「これを守っていただけなければ、こちらとしても責任は持てません」、これは一つの威嚇であって、意味は何もない。これを聞くとたいていの人はひるんでしまうのである。

1998.5.6以降 ゴールデン休みは終わり、操さんはまた毎食後に睡眠薬を飲まされるようになり、元気がなくなり、ご飯も良く食べられなくなっていった。私は困り果てた。操さんは手を伸ばしたりしているが下に落ちるようなことはないと言ったが、病院側はそんな話は聞いていなかった。彼らは自分たちが忙しくなってしまうこと、めんどうなことになってしまうこと防ごうとするだけであった。操さんはうつろな目をしていた。私は会社から帰り、タバコを一本吸って、干してある洗濯物を取り込んで病院に自転車で向かう。そして夕食を食べさせる。操さんは眠っていてなかなか食べなかった。これは毎食後に飲まされている睡眠薬のせいである。こんなに体の弱った者に対してやることではない。

一度決められたことは役所的に変更されない。恐ろしいことである。それを指令している奴は全く現場を見ていない奴なのだ。現場にいる者は指示に逆らえず、何が起こっていても決められた通りに機械的に、臨機応変なしに進められてしまう。あらゆる病院、施設の責任者は不始末を恐れている。そのため患者がどのようなめにあってもかまわない。患者に関しては家族ではないので何の関心もない。立場上この行動は必然である。守りの姿勢は、そういう立場の人には強まる一方なのである。彼らはそれだけで精一杯なのである。部下は勝手な行動が許されないので、たとえ危険を感じても何も判断できず、危険回避の行動ができないのである。もしその人が上司に報告しても、上司は現場を見ていないので実態は伝わらないし、たいていの場合報告はその人によって事実が大きく歪曲されてしまっているものなのである。口伝えによる情報は伝えられるに従い大きく歪曲されていくものである。

重要なことは現場からもっとも離れたところで判断されるものだ。判断は患者にとってではなく管理者にとって都合のよいものが選ばれる。患者は犠牲になってしまう。しかし、その文句を看護婦に言うとそれは上司に《歪曲されて》伝えられる。すると上司(医者)が怒った顔をして、声を震わせながら飛んで来て、「何をナースに言ったのか」と言う。完全に攻撃態勢に入ってしまっている。入院したときには紳士ぶっていたがたちまち本性がむき出しになってしまう。こちらの意見は、その内容を無視され、全てけしからんものとされてしまい徹底的に攻撃され、悪口を仲間にも言う。彼らは身を硬くしていく。これは国と国の戦争でも同じである。人間の間の関係の本質は敵なのである。私が何を言っても卑しい者の憎むべき、攻撃すべきうるさい奴であると決めつけられた。相手は、私には気を使う必要がない、という判断が下されていて、まだ良く知らない相手に示す紳士的な態度は省略され、人間の飾りや化粧がない醜い本性がむき出しにされるのである。我々は彼らにとっては何も気を使う必要もない、言うことは全ていやらしい無価値な存在なのである。一度そう判断されると、我々の行動はすべて無条件にいやらしく、憎たらしく、醜く見えるものだ。こちらが何か言うと、何も知らないくせにかってなこと言うな、という顔色である。事情を確かめる前にすでに彼らの頭の中では決めつけられている。国同士の戦争と同じで、両者を両立させる方法などはない。強い方が弱い方を押しきってしまうのである。

いかなる行動にも正当な理由はとってつけられる。「急いては事を仕損じる」に対して「先んずれば敵を制す」は逆なことを教えている。前者は「いそぐな!」と教えているし、後者は「とにかく急げ!」と教えている。また「君主危うきに近づかず」に対して、「虎穴に入らずんば虎児を得ず」も逆なことを教えている。前者は「危険は避けよ!」と教えているし、後者は「危険を恐れていたならば利益はあげられない」と教えている。どちらも人を納得させる論理は持っている。あらゆる格言はその反対の意味のものが存在するのではないかと思われる。だから、ある実際の局面で、ある自分の知っている適用できそうな格言の教えるとおりに動くことは危険なのであって、そんなものに頼ってはいけないのである。実際に起こったことはどんなことでも正当化する理屈はつくれる。だからうまく説明されたからといって感心してはいけない。我々はある理由のためにあることをやったというが、その理由は後からその行動を正当化するために作り上げたもので、断じてその行動の原因ではないのである。我々の行動の原因なるものは我々にとっては全く未知なのである。それは我々にとっては脳のメカニズムと同じく知ることができないものなのである。そりゃそうだろう、もし自分のことが自分でわかったなら、それは自分で自分をもち上げるようなものではないか。その原因が他人と両立しないために人間同士ならけんかになり、国同士なら戦争になるのである。

患者と病院の関係もこれと同じである。病院側は自分たちを守りたい。事故を起こしたくない。ここで言う事故とは《病院の困る事故》のことであり《患者が困る事故》ではない。例えばベッドからの転落、騒いでうるさくする、窓から転落する等のことである。例えば患者を縛りつけてはいけないが睡眠薬を大量に飲ませても良いらしい。それは見た目に虐待が現れていて分かりやすいからであろう。そのことをきかれれば、もっともらしい理由を考えてうまく説明するのだろう。たいていの人はそれを聞いて納得してしまうのかもしれない。しかしその反対、睡眠薬よりも縛りつけるほうが良いという理由も考えられる。見た目より実をとればこっちの意見になるだろう。年とって弱りしかも重い痴呆になった者に大量の睡眠薬を飲ませることがいかに危険なことであるかは誰でも分かるであろう。それにより痴呆も進む可能性があり、ご飯も食べられなくなってしまう。

病院は、ご飯が食べられないのは痴呆のせいであると断固言う。これはもう言葉の争い、言葉の遊戯なのである。患者は弱い立場であるので勝ち目はないのである。根底にある強弱関係は重要であり、これが全てを支配しているものだ。

私はどうしたらよいものかと考えた。操さんは一日じゅう眠っているみたいだった。私が会社から帰り、18時頃行って夕食を食べさせようとしても食べるどころではない。とてもものを食べるような状態ではない。このままにしておいたなら、操さんは廃人になってしまうことは確実だ。いまさら病院を替わるというのもやっかいである。一度決めたことはそのまま実行される。誰も何も見ていないし、何も考えていない。それは自分たちにその被害がこないからである。我々がどうなったってかまわないのであり、誰もが決められたことだけをやっていればよいのである。私が心配すればするほど憎たらしくなるらしく、いろいろいやみを言ってくる。病院の職員にとっては、患者とうるさい家族は厄介者なのであ。お前らがいるから俺たちは大変なんだ、とでも言いたそうなのである。まるで昔の役人のようだ。

ここまで分かると方針は簡単である。私が考えなくてはならない。彼らに相談しても無駄である。彼らに任せてはいけないのである。もし任せたなら、操さんはボロボロにされて、「これは痴呆のせいだ」などと言い張るのである。この考え方は現在に至るまで続いており、間違いがなかったことが証明されている。操さんに恩返しをする機会が来たのである。私は「シルバー人材センター」のことを思い出した。高齢者の人に仕事を斡旋するところだ。登録してある人を紹介してくれる。私はここに人を紹介してもらい、操さんにご飯を食べさせ、またそばで見張っていてもらうことにした(8時から17時まで)。それで朝食後と昼食後の睡眠薬はやめさせた。これで問題は解決した。だめな奴を動かそうとせず、自分で動くことだ。もしこういう行動をしないで文句をつけ続けていたならば悲惨なことになっていたであろう。5月18日から、シルバー人材センターの人に来てもらった。その方は元家政婦をやっていた人であるから手馴れていた。操さんは、昼間は睡眠薬を飲まされず、操さん専門の人がゆっくりご飯を食べさせてくれるのでたちまち元気になった。昼間は眠らないし、良く食べるようになった。「眠っているのは痴呆のせい」というのは間違いであったであろう。

我々がこんな間違いを平気で言われてしまうということは、いかに患者たちがバカにされているかということが示されているのである。たいていの人は病院に何を言われても、神の言葉のごときに信じ、それに素直に従うのである。だから病院関係者は余計調子に乗ってしまうのである。「どうせ相手は何も知らないアホだ。何を言ってもかまわないわい」という具合である。役人とか医者はうぬぼれているし、うぬぼれていられる環境にある。誰にもちやほやされるからである。しかし、私にはそのことはどうでもよいことであった。争いは何も得るところがないので、私は操さんの事だけを考えることにして、私の意地などは捨てることにした。

シルバー人材センターから来た人は月曜から金曜まで来てもらって、土、日曜日は私が10時から来た。全部で3人来てもらったが、一人は私にはできないと言って二日でやめてしまった。2人の人が2週間くらいずつ来てくれた。大事なことはご飯をゆっくり食べさせてくれることなのである。2人ともよくやってくれた。食べたくなさそうな相手に食べさせるのはつらいものである。ついついかわいそうになって途中でやめてしまうものである。相手は痴呆なので自分の状態を全く伝えられない。全ては世話する者の判断によるしかないのである。この感覚がある者しか優れた世話はできない。

そうして、操さんは元気になっていった。この頃から、私は会社から帰ってから食べさせた後、歯を磨いて、腹筋運動を20回やる。操さんの足を右手で押さえて左手で操さんの両手を持ち、上半身を引き上げ、腹筋運動をする。私は操さんに運動をさせたかった。こんなことをやっているのは私だけであり、見た者はあきれていた。これは最も日本人的な反応なのであろう。寝たきり王国のこの国では誰もが何もしない。「老人だから疲れるのはよくない」という根拠のないことを誰もが信仰している。私がいままで会った人は例外なくこのような信仰を持っている。私に言わせれば老人であろうと、若者であろうと運動不足は危険なのであり、疲れることも必要なことなのである。特に寝たきりになると食事中少しむせただけでも肺炎になってしまうそうだ。しかし、医者は別としてこのように考えている人に会ったことがない。ほとんどの人は私の意見と違うというのではなく、何も考えていないのである。人まね国家である日本の人たちは肝心なことは外国から輸入する傾向がある。私から見ていると、一般の人たちは私から見て最も大事なことに対して鈍感である。話は戻って、あるとき操さんは、私が足をいじっていると、寝ながら「ひょいひょいひょい」と言いながら片足を上下に振って見せた。良く動いていた。操さんは元気になっていったが、腕、足の筋肉は少なく骨だけという感じであった。病院からはリハビリテーションをやるので体操服を用意してくれと言われたが、あまりやってもらえなかった。病院のリハビリテーションはおまけのようなものなのだなと思った。また、人工骨頭を入れるために入院した場合、手術後2週間で退院してすぐにリハビリテーションに入るべきなのに、経営上の理由によってなのか1ヶ月以上入院させる病院が秩父には多い。

操さんのリハビリテーションは全く進まず、私はまたもや考えなくてはないときが来たと思った。操さんは歩けるようになるのだろうか。私は、リハビリテーションは私がやらなければならない、と思い始めた。しかし、どうしたらいいのかわからなかった。操さんにまた歩けるようになってもらいたかった。病院のほうは重い痴呆ということでリハビリテーションはやらないことになってしまったようだ。見捨てられてしまったようだ。操さんを助けられるのは世界で私だけなのだと確信したときであった。このときから私はあの大魔神のように変身した、変身しなければならなかった。私はこのとき、他人に頼っていると、いろいろな事情、趣味、嗜好が介入してくるし、それが多数であれば統一した行動にならないし、他人は我々がどうなろうとたいしたこととは思わないので良い結果は絶対得られないということを確信した。私は、操さんがどうなるかは私にかかっているのだと思った。リハビリテーションもほっぽらかしで、いったいどうすればよいのか。誰もが何も考えてくれていないのである。

たいていの人は病院まかせで疑うことも知らない。病院が自分より優れていると考えているからである。よく「様子を見ましょう」と言われる。これはうまく逃げられているにすぎない。ちゃんとした処理をすることは簡単なことではない。言われたとおり、決められたとおりの仕事をしている人たちは、勉強をしていないことが多く、研究心もなく、臨機応変の行動ができない。

これらのプロフェショナルの人たちにあいそが尽きた私はもう誰にも相談することなしに私の感覚だけを頼りに操さんのリハビリテーションをやってみることにした。こうなれば簡単だ、自分で何もかも考えればいいのだ。相手を当てにしていたから良くなかったのである。相手が当てにできないことがわかればもう当てにしない。このあたりを中途半端にもやもやさせておくから悩みつきないのである。現状を良く見て何をすべきかを自分自身で決めなくてはならない。他人に頼っていると一見楽で安全であるように見えるけれど、問題が深刻になったときそれは危険なことになるものだ。これは親会社に完全に依存している子会社と同じである。親会社に完全に依存していると一見安全で楽である当に見える。しかし、親会社の動きに揺さぶられるし、生かさず殺さずにされてしまう。そしていつまでたっても自立できず、親会社から離れられなくなってしまい、親会社にいいように使われてしまう。親離れできない子供のようにいつまでも自立できない。そして親がいなくなったとき途方にくれてしまう。どうせ一度は通る修羅場は早い時期に通っておいたほうがいいのである。年とってから修羅場を経験すると立ち直れなくなってしまう。自立することには危険が伴うが、その後は快適になるものだ。独立している会社は大変なところもあるが、自分の力で開拓していくことができ、うまくいったときにはそれが全て自社の栄養となり発展していくことができるのである。自分で多くのことを見て考えるようにすると問題点がたくさんあることが分かり忙しくなっていく。やるべきことが次々に見えてくる。他人に任せてはいけないところも分かってくる。ぼんやりと他人任せにしていたときに比べて、起こることは想定内であることが多くなり不安、驚き、怒りが少なくなる。今まで見ないようにしていたものもしっかり見られるようになる。自分の把握したものができてくる。自立している人は誰もが自分の把握、築いた世界のモデルを持っているものだ。彼はそれを調べることにより正しかろうが、間違っていようが対策を出すことができる。このようなものをもっていない人は他人の判断に依存しなければならない。それは自立できない子会社と同じで長期的に見れば危険な人生となるのである。短期的に見れば判断してくれる人に従っていくので平和ではある。しかし事がうまくいかなくなるとその平和は簡単にくずれるものだ。

私はまず操さんをベッドの横に座らせて靴を履かせる。足はぶらぶらさせておく。そして細くなってしまった足が床に着くまでおしりをずらせていく。足が床に着いたら操さんの背中に回り操さんを後ろから持ち上げるように支えて前に押してみる。このとき操さんは自分の体重をなんとか支えることができた。初めの日は足が動かず歩くことはできなかった。我々のこの行為に対して病院関係者誰も励ましてはくれず、変なことをかってにやっている、というふうに見ていた。この日は、立つことができることが確認できた。

次の日は少し歩けた。私が後ろから持ち上げるようにしながら前に押す。足は交互にうごかすようになった。こういうことを5日間くらい続けた。この間、あまり進展はなかった。どのようなことでも次第によくなるということはない。ある時点まで進展は目だって見られないものだ。あるときにパッと進展する。6日目くらいから、私が持ち上げていなくても歩けるようになった。その日から突然おもしろいように歩けるようになった。前に押せば前に歩くし、後ろに引けば後ずさりするのであった。ここまでくれば後は遊びだ。わたしはこれを誰もがアドバイスしてくれない中、一人でやったのであった。感覚的に多くのことが分かってきた。これらは実際にやった者しかわからないことだ。しかし、病院関係者は苦々しい顔で私の行動を見ていた。誰も励ましてくれる人はいなかった。日本はつまらない国だ。たぶん西洋であったならこんなことはないだろう。変わったことをやっている人を見たとき、おもしろいと思う人がいないのが日本人なのである。皆が同じ事を考えている。遊び心が全くないのである。当たり前のことを当たり前にやるだけなのである。

私は以後、操さんを歩かせるのがおもしろくて、会社から駆けつけ、夕食を食べさせ、歯を磨くと操さんを歩かせる。私を動かすものは「おもしろさ」なのである。つまらないことをつまらなくやりつづけることはできない性質の人間なのだ。私は時々操さんを車椅子に乗せて外に出て高速で走った。そして、ついに操さんは片手を持っただけで歩けるまでになった。

 

1998.6.13(土) 老人保健施設に移る日だ。ここに入れてよかった。ちょうどできたところで募集しているところだったので入れたのであった。わたしは運が良かった。もしここがなかったなら、いたいどうなっていたのであろうか。お昼ごはんを食べて支度をし終わり14時になると施設の人が2人で迎えに来た。エレベーターで一階まで降り、玄関付近に止めてあったリフト者に操さんを乗せた。施設に着いた。操さんはおむつの上にスカートをはいていたのでつりあがっていた。入所時の話の中で私は操さんの歯を磨いてもらいたいと言ったが、今日に至るまで私が毎日やることになった。それからカギのかかったドアで締め切ってある中に入った。まだ収容人数の半分くらいしかいなかった。中は広く、斬新なデザインであった。12x24(m)くらいの広間の周りに4人部屋が3部屋ある。その先に76(m)くらいの回廊があり、それに沿って4人部屋が6部屋ある。操さんの部屋は一階の一番奥であった。私はまだ昼食を食べていなかったので食べた。セブンイレブンで買ってきた弁当だ。15時半頃だった。その後、車椅子に座っていた操さんを歩かせた。廊下の突き当たりに黄色い長椅子があり、そこに座った。操さんはご飯を自分で食べられていたが、右手はしょっちゅうぴくぴくけいれんしていた。私のリハビリテーションで退院から2週間で操さんは一人で歩けるようになった。

 

 

9.その後の記録

1998.6 操さんは一日中歩いていた。夜も歩いていたみたいだ。

1998.6 私が操さんを後ろからひっぱると、「ひっぱっちゃだめよ」と言った。

1998.7 施設の職員に「操さんはいやなところがないですね、たいていの人はどこかいやなところがあるんですけどね」と言われた。全くその通りなのだ。

1998.9 私が会社から寄って、操さんにご飯を食べさせていた。御飯をたべさせながら、私はいつも操さんにいろいろしゃべりかけていた。操さんもわけがわからないことをしゃべっていた。すると、介護さんが操さんに「なにしゃべっているの?きになってしょうないわよ」ときいた。すると操さんは「喧嘩なんかしていませんよ」と、とぼけた顔して返した。この意味不明な返事の解釈であるが、これは私とよく口喧嘩をしていた時の記憶がでてきたのだろう。

1998.6~11 操さんは一階を歩いていて、よくガラスにぶつかった。ガラスというものを認識できないのである。

1998 操さんは、歯を磨いた後、お口をゆすぐためにくちゅくちゅやっていて、なかなか水を吐き出さなかったため、私は、操さんの頭をポカポカ叩いたっけ・・・ 

1998  操さんは歯医者に行った帰り、古い家の前で立ち止まり見ていた。

1998   わたしは操さんを休みの日にドライブに連れて行った。ミューズパークを一時間ほど歩いたものだ。

1999.8 操さんは二回目の骨折(今度は左足の大腿骨の骨頭部)である。本強矢医院に入院した。家政婦をつけた。120万円かかった。このころから、操さんは寝ていても頭を上げるようになった。おきているときはたいてい上げていた。痴呆が重くなってくると誰でもこうなるようだ。操さんの場合は体を少し(5度くらいでも)傾けてやると、頭は降りる。また、手術の後、右手がむくんでいて、紫色になっていた。1996.12頃からおかしくなってきた右手なのだ。しかし。このむくみと紫色はその後の私のリハビリにより次第に直っていった。

1999.9    その後の私のリハビリテーションは困難だった。誰もが反対して、応援してくれなかった。私がこの施設のリハビリテーションの職員に相談するとうるさそうでめんどうくさそうな態度で「なんですか?」といいながら出てきて、「この人はもう歩けない、座るのもあぶないくらいだ」といわれた。私はあきれた。もうここの人には頼れない。私がやるしかない、と確信した。それからは、私は誰も頼らなかった。私のリハビリテーションが始まった。

1999.9    私は毎日9時までいて、操さんを寝かせて帰った。

1999     夕御飯を食べているとき、介護さんが操さんに「おいしい?」ときいた。すると、操さんは「じょうず」と答えた。

2000.2  操さんはまた転び、骨折した。左足だ。そのとき施設では「一週間様子を見る」方針だった。しかし、熱が出て、たいそう痛がっているさまを見ていて、私は一刻も早く病院に連れて行くように言った。それで、元強矢医院に連れて行くと、頬って置いたら化膿してしまい、そうなったら人工骨頭を抜くしかない、と言われた。やはり私が行動して良かった。あのまま一週間おいといたら大変なことになっていた。骨折は人工骨頭の入っている周りだったので、一ヶ月くらい中央病院で静かにして、つながった。

2000,4  皮膚病(疥癬)になって隔離された。骨折で入院した病院(本強矢医院)でうつったのだろう。1.5ヶ月くらいとじこめられた。私は毎日会社が終わるときて、御飯をたべさせ、歩かせ、歯を磨いて帰った。しかし、うつるから、毎日来るなといわれ、週に2回来ることにした。ひどいことを言うやつがいるものだ。私がいかないと、操さんの顔が険しくなっていくとよく言われた(久保さん)。しゃべったり、動いたり、歩いたり、つまり、ほっぽらかしにしないことが肝心なのだ。

2000,7    46kgまで太った。

2001     他の人によくしゃべりかけていた。

2001.3  足が水虫になった。それで、新しいぞうりのような靴を買った。7000円くらいのものだ。私は水虫の薬を毎日塗った。水虫は治った。驚いたことに、家にいた頃から始まった足の親指の爪の爪白癬も治ってしまったのであった。

2002   わたしは操さんが他に人にしゃべりかけているところをよく録音した。

2002  おむつに出血があるということで子宮がんが疑われた。施設で調べに行ってくれたそうだが、痴呆なので診察ができなかったそうである。それで私がいっしょに行ってみることにした。私の家のそばの産婦人科医院に連れてってもらった。私が股を広げ超音波診断をした。結果異常はないのではないかということになった。やっぱり私が行かないとだめである。その後異常はなく、2006年現在まで健康である。

2002.4 どこかが痛いというので第一病院に連れて行ってもらった。何も分からなかった。しかしこの原因は後になってわかった(2004年10月)。それは長く不自然な姿勢で座っていることで、おしりの一部に体重がかかり、そこがおかしくなったのである。どんなに薬をつけても直らなかった。2002年秋頃から、私は薬をつけまくった。しかし、直らなかった。2004年10月頃にその原因が分かり、私はその対策として、車椅子のフットレストに足を乗せないようにしてもらうことにした。こうすることにより、足が下がり、体が伸びて、その結果全身で体重を受けるようになり、おしりの一点で体重を受けることを避けることができたのである。すぐに(一ヶ月くらいで)その効果は現れ、長年(2002年頃から)続いたおしりの痛みは直ったのであった。このような科学的な対策は一般の人、文系の人には難しい。理学療法士以上の者が考えてやる必要がある。しかし私以外の誰もが考えてくれなかったのである。

2002.10 ご飯を食べるとき、口をあけなくなってきた。スプーンを入れようとすると舌を歯の後ろにおいてブロックしてくる。たぶんむりやり食べさせられることへの抵抗だろう。進化論だ。大変な状態になってきたのである。

2002.12    この頃、ご飯をたべなくなった操さんのために、私は、会社を17時にでて、私の夕飯を途中で買って、施設に向かった。私が施設に付くのは17時40分頃であった。操さんのご飯が来るのは17字30分ころであった。しかし、口をあけない操さんに腹を立てたある介護職員はさっさとかたづけてしまうことがあった。ある日、私が行くと、もうかたづけられてしまっていた。それ以来、私は「私が食べさせるのでとっておいてくれ」という電話をかけておくことにした。全く恐ろしいことだ。

2003.1.4. 操さんを家に連れて行った。4、5、6と2泊3日だ。こたつに寝た状態から、ご飯を食べさせるために起こそうとしても起こせない。筋肉がつっぱっているのだ。椅子に座ることはできる。しかし、その状態でひざを伸ばすことができないのだ。だから畳の生活はできない。アルツハイマー脳梗塞などが重くなってくるとこのように体全体がつっぱってくる。筋肉に力が入り、しかも伸びなくなる。どんなに寝たきりで動かなくてもこのような脳障害のない、あるいは老人ボケくらいの人はこのようにはならない。この症状はある種の脳障害と関係していることは確かなことである。

2003.1.7 *夕飯をわたしが毎日食べさせる様にした。2時間かかった。開かない口に、スプーンを持つ手は震えてくる。わたしは会社をやめた.こうしなければ操さんは倒れてしまうであろう。食べなくなると、弱り、やがて風でも引いたり、それがこじれたりして、また肺炎にでもなったりすればこの施設にはいられない状態になる。そして痴呆はさらに進みもう復活の見込みは無くなる。そして、そんな状態で長生きしたとすれば、大変なことになるだろう。病院めぐりがはじまり、そのときには、会社をやめなければならない。もし、私が会社の関係で遠くに行ってしまい、施設に来られなくなれば、一ヶ月くらいで、最悪な状態になってしまうだろう。であれば、まだ間に合ううちにと考えたのであり、これは最良の道であったのである。

2003.1 体重は42kgまで減った。

2003.1 私は1998年の私立病院でのことを詳細に書き始めた。さらに骨折の力学、つまり転んだときに骨に加わる力についてまとめてみた。この結果ころんがときに骨にかかる力は1トンにおよぶことがわかった。その他操さんにかかわることを書き、10月までに500枚くらい書いた。

2003.6 会社が倒産して、どこにも就職できなかった、元記者で、いまフリーのジャーナリストの話をそのために買ってきたラジオで、二人で聞いた。私と重なるところがあって、参考になった。

2003.6 東京の叔母が骨折した。私は帝京病院に行って説明を聞いてきた。そして帰りに痴呆に関する本を買ってきた。

2003.7 歩く時、右手を持った私の手を押し下げるようになった。それから、歩くとき、前こごみになろうとする。このころから、座っていても左に傾くようになってきた。

2003.10 操さんについて書いているものを棚上げにして、私の昔からの問題であり、1992年あたりから断片的に書き続けていたものをまとめてみることにした。人間の魅力といじめについての話である。まず断片的に書いてみることにした。そして、いろいろな本を読んだ。

2003.10 操さんの角膜が血で真っ赤になっていた。さっそく眼科に行った。大変だった。初めに眼圧を測ったがこれまた大変だった。角膜の血管が切れたのだそうだ。たぶん目やにでかゆくなり、爪で引っかいたのだろう。それ以来私は、毎日夕飯の前に操さんの目やにを濡らしたタオルで拭き、顔も拭いて、手も石鹸で湿したタオルで拭いてあげることにした。そしてその後、鼻くそと耳くそもとるようになった

2003.11 熱が38度くらいでた。その夜よく眠って、次の日に熱はさがった。しかし、その夜、目を上にむけていたそうであり、その後、よく上を見るようになってしまった。痴呆が進んだのだろう。上を見るのは、痴呆がかなり重いことを示している。ここから、わたしは、昼から行って食べさせることにした。

2003.11 私が昼ごはんを食べさせていると、職員に「1時に片付けます」と冷たく言われた。この職員は、今はいないが、私たちにたいそういじわるをする人だった。その後、村田さんにより、15時に片付けることになり、ゆっくりやることができるようになった。人によりこうも違うものだ。

2004  操さんは、歩かせようとして押すと、前かがみになろうとするようになった。

2004.1~3 「いじめられる者」について考察した。「人間の魅力といじめ」についての話の中の一章である。この分析に大変苦労した。どのような人がいじめられるのか、という問題である。そして、私は一つの簡単なアイデアを考えついた。

2004.2 私は、ニーチェ道徳の系譜」を何年かぶりに読んだ。白水社版である。3回も読み直した、

2004.3 《らくらくごっくん》という食事の注入器を貸してもらった。シリンダーとピストンにより、容易に口の開かなくなった人の口の中に食べ物を注入することができる。

2004.7 東京の叔母がまた骨折した。私は2回帝京病院に行った。暑い日だった。歩きながらお茶を飲んだ。帰りに、電子辞書、ニーチェのなどを買ってきた。これが後で役にたったのであった。この電子辞書はカシオのもので広辞苑や研究社、大修館の英語辞典、ロングマンの英英辞典、パソコン辞典、和英辞典が入っており重宝した。

2004.7 私が今まで書いたもの(人間の魅力といじめについて)を整理してみた。300枚くらいに及ぶ原稿を整理した。

2004.7 また、熱が39度出た。前の夜、私が暑いと思いおなかのあたりにしか布団をかけてあげなかったせいだ。肺炎だといわれたが、私はそうでなかったと思う。一週間くらいで直った。

2004.9 食事の注入器を自分で買った。5000円くらいであった。

2004.9 私はアパートに、瞬間湯沸かし器をつけた。そしてカーペットを替えて、机を買った。

2004.11 私は施設で、ニーチェ善悪の彼岸」「偶像の黄昏」「道徳の系譜」(筑摩書房、ちくま文芸文庫)を読んだ。私の著書に引用すべきところがたくさんあった。

2004.12 私は施設で、ショーペンハウアー「意志と表象としての世界」を読んだ。50パーセントくらい読んだ。

2005.? 寝ると、頭を上げるが、少し体を傾けると頭を下げる。これは痴呆が重くなるとよく出る症状だ。ほんのすこし(5°くらいでも)かたむければあたまは降りることを発見した。

2005.? 目がうつろになってきた。上ばかり見ている。

2005   歩かせるとき、体に力がはいってしまうが、にぎりしめた右手をむりやり開かせると、歩きはスムーズになる。おもしろい。

2005.1 ロラン・バルト「テクストの快楽」、ショーペンハウアー「随感録」、キエルケゴール「漂泊者の日記」を読んだ。

2005.3 食事の注入器が壊れた。壊れた部品(ノズル押さえキャップ)を注文した。この後、職員の岸田さんが退職した。寂しかった。

2005.3 フロイトの「夢判断」呼んだ。「夢解釈」と訳すのが正しいであろう。なんともまとまりのない本だ。訳が古く、字も小さく読みづらい。この本のなかにあの有名な「無意識」がでてくる。

2005.5 私の書いているものをまとめに入った。今年の12月でほぼ完了した。まだ、未完ではあるが。

2005、9 アパートの水道工事のために片付けをした。そのとき地球儀が出てきた。これは私がまだ私が小学校のときに操さんが買ってくれたものだ。私は思い出してしまった。――東京の練馬区錦町に住んでいた頃、操さんは、買物に北町商店街に行った。あるとき私は操さんに「地球儀が欲しい」と言った。文房具屋に入り値段を見ると高かった。私は無理だなと思いあきらめた。ところがある日、私が道路で遊んでいると、操さんが買物から帰ってきた。手に持っているかごの上に箱が乗っている。私はそれが地球儀であることがわかった。操さんは覚えていてくれた、気にしていてくれたのである。私はうれしかった、地球儀よりも操さんが気にかけてくれていたことを。私は想像した、操さんは文房具店に入って「地球儀なんですけど」、「ずいぶん高いんですね」、「一番安いのはどれですか?」、「じゃ、それください」なんて言ってそれを買ってきたのだろう。この地球儀を見るたびに、そのことが思い出される。

2005.10 ご飯を大盛りにしてもらう。8月あたり(37kg)から太り始まり、11月には41kgになり、測定のたびに1kgずつ増えていく。2006.1.には43kgに増えた。それまでは体重は2000年のmax46kgであり、これはご飯のとき口をあかなくなった2002.10まで続き、それから2005.8の37kgまで減少し続けていたのであった。私は昼ご飯を食べさせると、毛布をかけてあげる。するとよく眠っている。そして、手足も暖かくなり、顔色も良くなる。夜になると元気になり口数も多くなる。

2005、11 右手、右足は温まっているのに、左手、左足は温まらない。左右非対称なのだ。左に傾いて、右手がおかしい。

2005.12 私が行くと、ご飯をたべさせてもらいながら前こごみになっていた。わたしはそれを見て、おかしいいと思った,それは当っていたそれ以来、食事の飲み込みも悪くなった。また、歩き方も悪くなった。この原因は後でわかった。操さんは胃潰瘍になっていたのであった。この苦しみのために痴呆が進んだのであった。痴呆はこのような苦悩にとり大きく進むのである。

2006.1.1 私はスーパーマーケットが休みだったので、前に買って置いたカップラーメンを昼と夜に食べた。

2006.1 私の書いているものについて、パソコンで清書し始めた。清書と言ってもほとんど書き直している。初期の頃(2003年頃から2004年にかけて)の文章は青臭くてそのままでは使えない。自分で書くようになってから、他人の本を読んでいて名文というものの判定ができるようになってきた。ただ読んでいるときにはそれがわからなかったのである。

2006.2.18  操さんは気分悪そうだ。夕飯を食べると、目をつぶったままだった。思えば、一週間まえから、どこかが痛いといっていた。かわいそうだった。

2006.2.19  この日、わたしが行って起こすと、操さんは、痛いといっていた。操さんはお昼ご飯をたべたあと、吐いて、吐血した。第一病院に連れて行った。

2006.2.20  前の夜、わたしは酒を飲み、TVを見ながら眠ってしまった。朝、目がさめると、つけっぱなしのTVではトリノオリンピックフィギュアスケートで荒川選手が金メダルに決まったところであった。私はそれをうらやましく見ながら、朝ごはんの支度をして、食べて、第一病院へ向かった。操さんは、胃カメラにより、胃潰瘍であることがわかった。止血剤が投入された。

2006.2.25  操さんは私がパソコンの電池を取り替えるために、パソコンを操さんの足に置いたら、痛いって言って、手をバタバタさせていた。まだ、痛いと言う言葉は残っているのだ。私はこの日、少し歩かせたが、痴呆がまた進んだようで、きわめて困難だった。

2006.2.26  ずっとでていた熱(37度)は、きょうの17時には、36.5になっていた。明日は退院だ。看護婦さんに「操さんは笑顔がすてきですね」と言われた。

2006.2.27  退院した。熱も。36.5℃と下がった。ご飯も食べている。薬も飲んでいる。よかった。しかし、首を後ろに下げて、死んだように寝ていた。夕飯を食べた後は、元気そうだった。

2006.3.2   今日は遅く行ったので、昼ごはんは下げられてしまった――こんな悪いことをする職員がいるのだ。それでも、前のように寝ることはなく、元気だ。熱も36.6℃で、夕飯を食べた後は気分もよさそうで、よくしゃべっていた。目をきょろきょろさせて、元気そうだった。しかし、歩きは、きわめてぎこちない。

2006.3.3   操さんはいすで寝るときに2つのモードがある。かぜをひいているとき、つまり、気分が悪いときには頭を後ろに倒してしまう。しかし、気分がいいときには、頭を左前に倒して寝る。またもう一つ面白いのは、歩いているときでも、食べているときでも、握り締めている右手を、伸ばしてやると、軽く歩いたり、よく口を動かしたりするようになる感じである。

2006.4 この頃朝、体を突っ張って、いすにから落ちそうになるそうである。

2006。4。21 今日、操さんは昼からにこにこしていた。気分よさそうだった。

2006.4.22  今日、操さんの耳くそをとった。でかいのがたくさん出てきた。この頃便も良く出る。下剤を飲んだことはない。

2006.4.23  今日は気分悪そうだった。午前中寒かったのだろう。過渡期は困る。

2006.4.27   操さんは今日、つっぱりすぎて、いすから落ちてしまった。怪我しないでよかった。私はさっそく対策をした。

2006.4.28  入所者から、「操さんの笑顔がかわいい」と言われた。

2006.4.30  操さんはかなりわからなくなってきてが、良く温まり。良く寝た後では、私の言ったことに必ずあいづちを打つし、何らかしらの言葉で返事を返す。操さんは何かこちらが何か言うと、必ずうなずくのである。

2006.5.12  操さんは私が行くと眠っていた。手は冷えてなく元気だった。よく私の言うことに答えた。「ふふふ」という笑いもよくでた。しかし、昼ご飯を食べてから2時間ぐらいぐっすり眠った。熱も無く元気だった。このごろは眠っているときのけぞっている状態である。前のように前こごみにはならなくなった。これは痴呆が進んだことを意味している。痴呆が進むと誰もがこうなる。しかし、調子がいいと、私の話にうまく反応したことを言う。

2006.5.13(土) 操さんは、今日、お風呂に入って少しお疲れだ。午後、毛布をかけて少し寝て、しっかり暖まった。たくさん運動して、夕飯を食べ、また毛布をかけて暖まると、顔色も良くなり、よくしゃべり始まる。この頃、のけぞる姿勢が多くなり、前のように前こごみで眠ることがなくなった。痴呆が進んだのである。しかし、人の顔を見ると、前のように目をぱっちり開けて、その人に合図するのである。このかわいく、ユーモアのある動作は、以前に比べて少なくなった。

2006.5.18(木) 操さんは、今日私が行って立たそうとすると、いつもになくよろけそうになり、歩きもたどたどしかった。そして「スー」と口をひん曲げて息を吸い込む。これはどこかが痛かったときなどにやる動作だ。足が痛いのかもしれないが、痴呆が進み、歩くシステムがまた衰退してしまったのかもしれない。何も伝えられないのでかわいそうだ。

2006.5.20(土) 今日は暑い日だ。私は床屋に行ってから、操さんのところへ向かった。汗びっしょりだ。11時30分頃行くと、操さんは椅子の上でぐっすり眠っていた。お風呂に入った日は良く眠る。私はむりやり起こして、ご飯を食べさせたら、良く食べた。お茶と牛乳を飲んで終わった。また眠りだした。毛布をかけて暖かくしてあげる。それから、大雨になって、すごい音がしていた。私の車は洗車機で洗ったようにきれいになったであろう。操さんは16時30分まで眠っていた。

2006.5.20  ここで、今まで気が付いたことを書いておく。操さんは右手が1996年くらいからおかしい。しかし1998年――ビッラ・ベッキアに入った年――にはご飯を右手でなんとか食べていた――かなりピクピク痙攣していたのであるが――。何時だかは覚えていないのであるが、右手のほうが温かいし、爪も左手の2倍くらい伸びる。そして、体は左に傾こうとする。立っていても、左後ろに倒れようとするのである。

2006.5.21  今日は、私の誕生日である(49歳)。操さんは便が硬いと前々から言われていたので、夕飯のとき、下剤を3滴、毎日飲むことにした。今日はそのせいか、16時頃、歩いていたとき、大きく、柔らかそうなすばらしい便が出た。

2006.5.25 毎日下剤を3滴飲んでいるせいか、2時半頃大きく良い便が出た。毎日この傾向があるのだが、夜中寒いのか、午前中寒いのか分からないが、私が昼に行くと寒そうで疲れていて、体温は36.0度と低い。昼ごはんを食べて、毛布をかけて暖かくしてあげると、死んだように眠る。このとき暖かくしないと眠らない。午前中はこの状態で、眠くても寒くて眠れないのだ。そうして眠ると夜にかけて体温が37.3度と上がり、気分悪そうにみえる。しかし、夕飯を食べ、暖かくしていると次第に顔色が良くなり熱も下がる。おしゃべりも多くなり、にこにこしている。私が手をさわるとやさしくさわり返してくる。それが気持いい。やさしい操さんだ。そのおててを普段は左右かわいく合わせている。私が世界で一番大事なものは操さんだと、恥かしくなく言える。

2006.5.27(土) 操さんはお風呂に入って疲れ気味である。昼ごはん食べて、私の持っていったコーヒーを飲んでから、毛布をかけて眠った。14時20分のおむつ交換で起こすと、かわいそうに、口をパクパクやって起きた。かわいい顔していた。

2006.5.29 午前中は寒いらしくおしっこがたくさん出てズボンにしみだしていた。操さんは歩いているとき、職員の人が来ると、目をパッチリ開けて、おどける。そして何やら言っている。

2006.5.30(火) 操さんは風呂に入った。歩いていて人が来ると頭を下げてあいさつした。この頃なにもしなくなったが、たまにはこのようなこともやることがある。

2006.6.2 この頃、操さんは頭を下げて眠ることはなくなった。完全に突っ張りモードばかりになった。痴呆が重くなるとたいていこのモードになっていく。また、これはずいぶん前からではあるが、飲ませようとしてコップを口まで持っていくが、それを目で見てはいない。口にコップがくっついて水がくちびるに接触したとき、はじめてそれを飲もうとするのだ。しかし、こちらがどんなに小さい声で何か言っても、ちゃんとあいづちをうつ、これは必ずうつ。もしくは「そうよねぇー、そういえますよねぇー」、と驚くくらいまともな反応も示すこともあるのである。

2006.6.7(水) 操さんは午前中寒いみたいだ。だから午後は良く眠ってしまう。そこで私は5日にプリンターを買った帰りに、キンカ堂でタオルケットを買ってきて半分に切り、首の入る穴を開けかけてもらうことにした。そのせいか今日は午後、あまり眠らない。午前中暖かいので消耗が少なく、しかも良く眠れたのであろう。また夜のおむつ交換ででっかい便が出ていた。やはり毎日3滴の下剤が効いているのであろう。

2006.6.30(金) しかし、その後の様子から下剤を5滴にしてみた。3滴では足りないようだからだ。操さんは28日に37.3℃の熱が出た。原因は私が寝るとき暑いので足と腕を出してやったことによるのだと思う。あるいは午前中に冷えるのかもしれない。2004年の7月にも、厚いだろうと思ってお腹の辺りだけに毛布をかけて帰ったら、次の日の夕食のときに吐いてしまい、38.3℃の熱が出て、肺炎騒ぎになったのだ。このときには一週間で直った。このときから私は寝るときにはしっかり毛布をかけて帰ることにしたものだ。しかし、またやってしまったのであった。この3日くらい元気なかった。昨日は「明日、午前中寝かせてください」と言って帰ったので、操さんは私が12時頃行くと良く眠っていた。起こすと元気になり、よくしゃべった。熱は36.5℃で直ったと思った。しかし、歩かせたら36.9℃になった。しかし元気よく、眠ることはなく、よくしゃべっていた。この頃足も曲がらなくなってきたので、私が足を曲げる運動を毎日やっているが、そのせいか背もたれのないところにも容易に座っていられるようになった。しかし、歩行は困難になってきた。足が良く動かせないのだ。今日も、私は9時半頃に帰ったが、途中パトカーに追いかけられたバイクが前を横切り危なかった。追いかけてきたパトカーは止まってくれたからよかった。

2006.7.11(火) 操さんは体重が44kgになった。下剤は7滴にした。6滴にしても便は硬い。この後下剤を7滴にすることにした。熱は36.5℃で平熱だ。足を曲げる運動のせいか足のむくみもなくなってきた。

2006.7.15(土) 今日はお風呂に入った。いつもだったらぐったりなのだが、今日は元気だった。タオルケットをかけているので暖かかったからなのかもしれない。「ウフフ、ウフフ」と笑っている。気分がいいのだ。私は昼食を食べる前に少し歩かせる。長く座っているので疲れるからだ。昼寝もあまりしなかった。少し前から私は昼食を食べた後、目やにをとってやりベッドに寝かせてあげる。それから少し歩く。痴呆が進んできているので歩くときでもおかしな力が入ってしまい大変なのである。それでも運動は体にいいと思っている。それから私はブドウジュースを300cc飲ませて16時頃から車椅子で眠らせる。操さんはぐっすり眠る。17時頃操さんは目をさましてきょろきょろしている。少し歩かせた後、屈伸運動を20回やり、目やにをとり、顔の脂をとり、手を消毒する。それから広い台の上に操さんを寝かしてから枕を背中に入れて逆立ちをさせる。それから背中に枕を入れてそのまま寝かせておく。背中をそらせるのである(この体操は7年前から続けている)。5分くらいそのままにして足のむくみ対策を始める。滑り止めのシートを操さんの背中に敷いて、足の先端を私の腹に当て、操さんの足を曲げていく。痴呆なので足をつっぱり曲げづらい。足をなんとか折りたたませ、そのまま5分間くらい保持する。それが終わると今度は一方の足を伸ばしたままもう片方の足を上げる。筋肉がつっぱってしまっていてなかなか上がらない。45度も上がらないのである。この体操を毎日やってそれ以上に上げられるようにしようと思っている。これをやりだしたのは2005年の5月頃だった。この頃は20度くらいしか上げられなくなっていたのであった。この頃から足のむくみが出てきたのであった。上記の体操によりむくみは進まなくなっている。歩いているだけではむくみ対策にはならないのである。

2006.7.21(金) 操さんは日曜から熱が出ていた。日曜は37.8度あった。それが毎日少しずつ下がっていき、おとといの夜には37.1度になった。昨日はひるは36.7度だったが、昼寝をすると37.3度になった。しかしそれから起きてジュースを飲むと36.7度になった。それから操さんは元気が良くなり、良くしゃべり、よく笑っていた。

2006.7.31(月) 熱くても、布団はちゃんとかけてあげるようにしたら、熱はださなくなった。午前中はタオルをかけてもらうようにしているので冷えない。だから午後もあまり眠らない。痴呆は進んでいるのでご飯を食べさせるのも大変だ。上を見上げてしまう末期的症状だ。今日も昼と15時に大目の歩行をして、18時の夕飯前に柔軟体操をしてから夕飯を食べ、歯を磨いた。操さんは気分良さそうな顔をしていた。私が近づいて笑うと、にこっとしていた。私は満足するのであった。

2006.8.3(木) 昨日は亀田氏のボクシングの階級チャンピオン戦を見た。どう見ても亀田氏が負けている試合だったのに亀田氏は判定で勝ってしまった。――操さんは午前中、首が入る部分を作ったタオルをかけてもらっているので冷えないで午後も元気がいい。あまり眠らない。今日は梅雨が明けて暑い日だった。操さんも少し暑そうだったが、冷え切っているより良いみたいだ。顔色はよかった。20時に体温を測ったら36.3℃だった。このごろ口にご飯を入れても飲み込まなくなった。大変になってきた。また痴呆が進んだのであろう。またおむつ交換のとき、おしっこをしてしまいズボンを取り替えた。いつもそうであるが、夕飯を食べ、少しぼーっとした後、元気になる。夜型なのだ。寝かせるのがかわいそうだ。寝かせるとき、右足の靴下を脱がせた後、左足の靴下をゆっくり脱がせていると右足を私の手にかけて押し左足の靴下を自分で脱ごうとする。この行為はずいぶん前――2003年頃までか――にやっていたものだ。そのときは、私が右の靴を脱がせ、次に左の靴を脱がせようとしたときに、操さんは右の足を左の靴を持った私の手にかけて押して自分で靴を脱ごうとするのであった。私は、これを見ていてうれしかったものだ。久しぶりに見たこの行為であった。また、操さんは私が「操さん」と呼ぶと、はっきり「はい」と答える。「は」が強く、「い」が弱い。布団にはいると、目をパッチリ開けている。少し暑いだろうけれど、私は毛布を良くかけて帰るのである。――足のむくみは歩行だけでは防げない。わたしは操さんを寝かせて足を曲げさせる。かなりつっぱているので難しい。この体操を始めてから、むくみはなくなった。

2006.8.19(土) 操さんの痴呆は進み、私は大変だ。しかし、足を深く曲げてやる体操のおかげで、むくみはなくなった。それにしてもこのところ暑い。九時頃、操さんを寝かせるとき、私は足を毛布から出してやる。帰りがけに私が、「操さん!」と呼びかけると、操さんは「ハイ!」応答する。かわいい操さんである。

2006.8.28(月) 操さんはこの頃、昼間眠らない。元気がいい。今日も夜寝るとき、「あはは」「おほほ」と笑っていた。わたしが何か言うと、それに答えてくる。恐ろしくもっともらしい返事を返してくるのである。体重は45kgになった。お腹はおそろしく出てきた。おもしろいものだ。私がセッティングしてあげた車椅子の上で、いつも気持良さそうにしているのである。

2006.8.29(火) 今日、操さんはお風呂に入った。私が行ったら上を向いていた。手をさわってみたら暖かかった。操さんは元気よくなってきて、あまり昼間眠らないようになった。何か言うと、反応してくる。よく笑っている。にこにこしている。私は嬉しかった。

2006.8.30(水) 操さんは、夜寝かせた後、私が「操さん」と呼ぶと、「はい」と応えてくる。何度も何度も呼ぶと、そのつど応えてくる。可愛くてしょうがない。

2006.9.7(木) 今日は暑かったが、操さんはタオルをかけてもらっていた。それでも寒そうだった。鼻の横、目の下に大きな傷があり、血が出て固まっていた。元気なかった。夕飯を食べた頃から、顔色がよくなってきた。二一時二〇分に寝かせ、私が「操さん!」と何回も呼ぶと、そのつど「はい!」と応えてくる。私は涙が出てきてしまった。「操さん」と呼ぶと、お目目をパッチリ開けて、にこにこして、「はい!」と応えてくれるのである。

2006.9.17(日)操さんの目はタオルでは不潔なので――ものもらいになったことがあるし、数日前のニュースでは、このような施設で使うタオルに細菌がいて、失明したという事件があった――、アルコールティッシュを買ってきて、それで拭くことにした。昼と寝る前に拭いてやる。昨日も今日も夕飯を食べた後は元気で、寝かせた後、私が独り言っていると、それにちゃんと応えてくるのだ。おもしろくなって、いろいろしゃべると、もっともらしい答えを返してくる。よびかけると、お目目ぱっちり開けて「ハイヨー」と応えてくる。かわいい操さんだ。

2006.10.3(火) 操さんは、このところ熱を出している。37.8まで上がっている。37.3だったり、37.8だったり、大きく変化している。一体どうしたのであろう。ご飯はよく食べる。きのうは熱も下がった戸想い、安心したが、教はお風呂に入れてもらったせいか、また37.6に上がっていた(18時頃)。午後は寝ていたが、ぐっすり眠れず、足や手が冷たかった。この状態は、良くなっていく状態ではない。良くなっていく状態は、ぐっすり眠れて手足はぽかぽかになるものだ。夕ご飯を食べて、歯を磨いて寝かせてから、アイスノンを取替え、手足の温度を確かめて、「操さん」と呼ぶと、「ハイ! 何!」と答えてくる。何度も何度も呼びかけると、「ハイ!」と答えてくる。かわいい顔して答えてくる。時々、お目目をぱっちり開けて答える。ね、操さん!

2006.10.5(木) 操さんはきのうの夜、ひどいめにあった。それにしても、一般人と私の違いは、はなはだしい。熱が37.4度も出ているのに、アイスノンができなかった。夜電話で話したが、私との考え方の違いは大きかった。

2006.10.6(金) 操さんはよくなってきた。熱は下がってきている。夜は私の持っていった毛布をかけて、足も暖まっている。私が足の温度を確かめると、きゃっきゃーと言っていた。笑った。にこにこして気分良さそうであった。外は大雨で寒い。皆、毛布一枚で寒そうだ。

2006.10.7(土) 操さんは今日、お風呂にはいった。熱は16時に36.7度だった。寝ているとき、私が独り言を言うと、「そうですね」と返事してきた。

2006.10.13(金) 操さんの熱は、いっこうに引かない。18時頃には37.9度に達する。私は、それでもベッド上で体操をしてしまう。ご飯を食べて、歯を磨くと体温は下がってきて、気持が良さそうな顔になってくる。かわいそうな操さんである。

2006.10.15(日) 操さんは、相変わらず15時ごろ38度の熱を出した。ご飯を食べたあと寝かせると。21時ころには37度に下がった。目をつぶっている操さんに、私が「操さん」と呼びかけると、目をつぶったまま、「ハイ」という返事が返ってきた。操さんはどうなるのであろうか。

2006.10.16(月) 今日、操さんは元気がよかった。17時でも37.3度であり、夕飯をたくさん食べ、21時には36.4度から36.6度であった。寝てからも、お目目はぱっちり開けていた。

2006.10.24(火) 操さんはまだ午前中36.8度の熱がある。今日、私は早く起きて、市役所に国民健康保険証を取りに行った。操さんの右上の歯がぐらぐらなので、中央病院にいってとってもらった。レントゲン写真を撮ろうとして大変だった。今日はものすごく寒かった。私はチョッキと厚いズボンを持っていった。夕飯は毛布をかけて食べた。手足は冷たくなっていた。夜寝たら、暖かくなってきた。体温は36.8度だった。やれやれである。

2006.10.26 操さんは昼には36.7度だった。カレーライスをきれいに食べ、りんごジュースをのみ、目やにをとり、顔を拭いて、鼻くそをとって昼寝した。17時40分には、37.6度の体温になっていた。わたしはかまわず柔軟体操をした。その後、起こして夕飯を食べ、歯を磨くと顔色はよくなってきた。にこにこしていて気分良さそうだった。顔はふっくりしていて美しかった。寝かせてから体温を測ると、37.1度だった。暑そうなので、チョッキを脱がせた。足も暑そうだったので、ふとんを立てて外気が入るようにした。操さんは目をきょろきょろさせていた。となりの本橋さんも38度の熱を出していた。布団がよく架かっていなかったので、しっかりかけてあげた。本橋さんの頭を枕に乗せようとしてさわると、かなり暑かった。

2006.10.27(金) 操さんは昼に36.4度だった。17時40分には37.3度だった。夕飯を食べ、歯磨きをすると、顔色がよくなってきた。21時頃寝かせると顔色はよく、今までになく白くふくよかだった。体温は36.9度だった。寝かせる前にはやや冷たかった足の先は、20分後に暑くなっていたので、私は布団にトンネルを作り、足の先を冷却するようにした。隣で熱を出していた本橋さんは、昨日の夜、私が布団をよくかけてあげたのがよかったのか今日は熱が下がり元気だった。

2006.10.30(月) 操さんは昼頃37.0度の熱があった。しかし、もう一回測ると、36.4度になった。体温計を入れたまま20分待つと、36.9度まで上がった。測定の作業により表面が冷えてしまったのだ。私はこの実験で、今までの謎が解けたような気がした。このことに遭遇した看護師の方は、体温計がおかしいとしてしまっている。私はこのことにつてまとめてみようと思っている。操さんは17時30分頃には、また推測値で37.7度の体温になっていた。もう一回図ると、推測値で37.0度だった。体温計を入れたまま20分待つと、推測値で37.5度まで上がった。やはり、2回目は冷えてしまっているのだ。私は足の体操をしてから、車椅子に座らせ、ご飯を食べさせた。操さんはいつもの量を食べ、私も弁当を食べ、操さんの歯を磨いた。その頃には、操さんの顔色はよくなっていた。20時45分に寝かせてから、体温計をわきの下に入れておいた。体温測定の作業のための温度低下の効果をなくすためだ。私が自分の歯を磨き、ご飯の注入記を洗ってから、操さんのわきの下に入れておいた体温計――十分に温まっている――で測定すると37.0度だった。操さんの顔色はよく、息も無臭だった。操さんの何もかもがきれいだった。

2006.11.4(土)操さんの体温は、昼頃37.0度、18時に37.7度、21時30分に37.0度だった。こんな状況が、一ヶ月も続いている。ご飯はよく食べられる。顔色も良かった。21時30分頃、目をつぶっている操さんに、「操さん!」と何度も呼びかけると、目をつぶったまま、にこにこしながら「ハイ」とか「なんだー」とか応えてくる。なんともかわいい操さんである。

2006.11.13(月) 操さんの体温が17時頃38度近くに上がる問題は、体温計の推測値の問題であることが確かめられた。正しく測ると37.3度以上にはなっていないことがわかった。今日、操さんは午後気分が悪そうで寝ていた。体温は15時頃36.5度であった。私は三菱自動車でもらった「爪切りセット」で操さんの足の爪を切ってあげた。大きな爪切りを使うと切りやすかった。操さんはよく寝ていた。

2006.11.24(金) 操さんの症状を見ると肺がんであることは確かである。今日、操さんは私が行くと寝ていたが、手足は冷え切っていた。ご飯を食べ、暖かいところで車椅子の上で眠らせた。よく眠っていた。いつも気分が悪そうである。夕飯を食べる前にいつものように体操をした。夕飯を食べた後も眠っていた。21時に寝かせた。21時30分ころ体温は36.9度であった。操さんはお目目をパッチリ開けてにこにこしていた。かわいそうなみさおさん。今から一年前からおかしな症状、長びくせき、のどのごろごろ、微熱があり、胃潰瘍で二〇〇六年二月に入院した病院でもそこのところをきいたのであるが、相手にされなかった、もっと私が肺がんを疑っていればよかったのだ。なんということだ! 私はどうしたらいいのだろう? 泣けてくる、今までのいろいろな情景が出てくる。操さん、操さん、私の操さん、私はどうしてあげたらいいのだろうか? ・・・

2006.11.30 操さんは、いよいよ気分が悪そうだ。昨日は、施設の面談があり、今後の対応が確認された。操さんは午後車椅子で寝ていたが、気分が悪そうだった。18時ころに体操した。その後、操さんは元気になったが、少し歩かせると気分が悪そうになった。夕飯を食べ、歯を磨くと、熱が下がってきたらしく、口数が多くなってきた。笑いも多くなってきた。気分良さそうな顔つきになっていた。21時30分に熱を測ってみると36.5度であった。操さんは、寝かせた後もお目目をパッチリ開けていた。外は寒かった。操さん、操さん、操さん、私はどうしたらいいのだろう・・・どうしてあげたらいいのだろう・・・

2006.12.2(土) 操さんは、私が行くとお風呂に入った後に寝ていた。お目目は上を向いてしまっていた。私が起こして、車椅子に乗せ、運んだ。少し歩いた。ご飯はいつもどおりに食べた。その後は、暖かいいつもの場所で、毛布をかけ、音楽を聞きながら眠った。15時30分にブドウジュースを飲み、お好み焼きを食べ、お茶を飲んだ。その後眠ったが、操さんは気分が悪そうな顔をしていた。17時45分には、いつもの体操をした。操さんの足はずいぶん曲がるようになってきた。操さんは気持良さそうだった。夕飯をたくさん食べ、歯を磨くと操さんは気分悪そうであっても顔色はよくなってきた。しかし、そのお目目は何か悲しそうであった。かわいそうな操さんである。ベッドに寝かせると、お目目はパッチリ開けていた。私は、寒かったので3枚かけてあげた。操さんのお目目は悲しそうだった。また明日、操さん!・・・肺がんの疑いのある操さん・・・私は何をしてあげたらいいのだろうか?・・・熱は36.7度だった。

2006.12.3(日) 今日、操さんは午前中寝かせてもらえなかったらしい。そのためか、午後はずっと寝ていた。ご飯は食べられた。夕飯を食べた後も眠っていた。21時に寝かせると、お目目はパッチリしていた。体は温まっていた。体温は36.7度だった。今日は暖房を入れてくれているみたいなので毛布はかけなかった。今日は秩父の祭りだった。帰りは去年みたいな渋滞はなかった。

2006.12.5(火) かわいそうな肺がんの操さんははお風呂に入れてもらった後、寝かしてもらっていた。私が起こして、すこし歩かしてご飯を食べさせた。気分が悪そうな顔をしていた。寒くなってきた。操さんにはタオルをかけてあげているのであるが、手が冷たかったので、車椅子の上に毛布をかけてあげた。だんだん操さんは温まってきた。21時に寝かせた。私が「操さん」と呼ぶと、「はい」と返事する。何回も呼ぶとちゃんと返事する。試しに「佐久間さん」と呼ぶと返事はない。また「操さん」 読んでみると、「はい」と返事がある。

2006.12.6(水) 操さんの血たんの検査結果は異常なしというものだった。血液検査の結果も異常なしであり、肺炎、気管支炎、肺がんではないということだ。しかし、操さんの顔つきは気分悪そうなのだ。私はどうしたらいいのだろうか? 操さん、どうしたらいいのだろうか。

2006.12.7(木) 操さんは午後、暖かくしてあげて車椅子でよく眠っていた。17時頃の顔色はよく、昔のきれいな顔になっていた。17時40分頃から体操をしたが、小便をしたらしく着ているものが全て濡れてしまった。着ている物を全て取り替えた。やれやれである。夕飯を食べる前も操さんは気分が良さそうな顔をしていた。夕飯を食べた後も気分良さそうだった。21時20分頃熱を測ると、36.9度だった。

2006.12.10(日) 昨日お風呂に入って、今日は午後眠っていた操さんだ。昨日は大きな便が出たが、今日も、17時40分の体操の後に便が出た。夕飯はたくさん食べ、21時10分に寝た、体温は36.9度だった。

2006.12.14(木) 今日は私が行くと、疲れた顔をしてお膳の前に座っていた。お昼ご飯を食べ、目くそと鼻くそをとった。16時頃歩かせると、大きな便が出た。夜は硬くなっていたが、体操をすると気分良さそうになってきた。夕飯を食べると、さらに気分良さそうな顔になってきた。歯を磨く前に少し歩いた。よく歩けた。寝かせた後もよい顔をしていた。体温は36.8度だった。暖房が効いていて少し暑かった。操さんは気分良さそうだった。――つよしちゃんより。

2006.12.15(金) 操さんは、私が行くと疲れきった顔をして、テーブルの前に座っていた。少し歩いて、昼ごはんを食べて、ぶどうジュースを飲んで、毛布をかけて昼寝をすると顔色はよくなってきた。3時にジュースとお茶を飲んで、少し歩いてまた毛布かけて眠った。17時45分頃には手足は暖かくなり、体操をすると、操さんは元気になって口数が多くなってきた。小さな声で何か言っている。にこにこしている。夕飯をたくさん食べ、歯を磨く。お目目はパッチリ開けている。21時頃寝かせると、お目目をパッチリ開けている。体温は36.9度だった。部屋の暖房は効いていて少し暑いくらいだ。私は布団のかけかたを考えてから帰った。

2006.12.16(土) 操さんはお風呂に入れてもらい、寝ていた。少し疲れた顔をしていたが、起こすと、軽く歩いた。ニコニコしていて、口数も多かった。15時頃、体重を量ると、44.3kg(61.8-17.5)だった。のどはごろごろしていた。よく歩いた。18時頃足の体操をすると顔色はよくなり、口数も多くなった。夕飯を食べてから少し歩いた。それから歯を磨いた。顔色はよかった。21時30分頃、体温は37.0度だった。お目目はぱっちり開けていた。暖房が効いていて暑いくらいだった。

2006.12.17(日) 血たん検査OK以降、操さんの顔色はよくなってきている。今日も、午後、眠っているときの姿勢は、前こごみでよい状態だ。後ろにつっぱって、口を開いた状態は良い状態ではない。今までになく良い顔をしていた。今日は寒かったので、3枚かけて帰った・・・。

20006.12.18(月) 操さんは椅子で眠るときに、後ろにそっくり返らなくなった。今日も午後は眠っていたが、18時頃体操をすると元気になり、夕飯を食べ、歯を磨くとつ美しい顔になった。お目目はきょろきょろしていた。今日は暖房がなく寒かった。毎日暖房の入り方がちがう。私は3枚かけてあげた。操さんは良い顔をしていた。しかし、まだのどはごろごろしていた。

2006.12.19(火)操さんは午後、車椅子で眠っているとき、前こごみになっていた。顔は前のようにのけぞった苦しそうな顔ではなかった。17時45分から体操すると、気持の良さそうな顔になった。夕飯をたくさん食べて、歯を磨くといっそう気持の良さそうな顔になった。しかし、21時20分の体温は37.1度だった。

2006.12.20(水) 操さんは昼ご飯を食べると椅子の上でぐっすり眠っていた。のけぞって口をあけた姿勢でなく、元気な頃のように前こごみになりかわいい顔して眠っていた。

2006.12.26(火) わたしが行くと、操さんはお風呂に入れてもらって昼ごはんの前で眠っていた。少し歩いて、ご飯を食べ、ジュースを飲み、目やにをとって、毛布をかけて眠った。なかなかお手手が温まらなかった。16時にジュースとお茶をのんで、また眠った。17時45分ころになってお手手が温まってきた。体操をして夕飯を食べ、歯を磨いた。寝かせてから体温を測ると37.4度だった。推測型体温計では37.9度と出た。操さんは気分悪そうだった。午前中に冷えたのであろう。

2006.12.27(水) 操さんはこの頃、午前中寝かせてもらていない。だから、また前のように17時ころに37.4度の熱を出す。午後眠っていてもなかなか手が温まらない。21時30分には37.4度だった・・・

2006.12.29(金) きのうから寒い。きのうから午前中寝かせてもらうことを再度要求した。今日は私が行くと寝ていた。しかし、手足は冷え切っていた。しかし、顔色がよくよくしゃべっていた。気分良さそうだった。昼ご飯を食べて眠った。その眠っている姿勢が状態の良さを示していた。そっくり返って口を開いた姿勢ではないのだ。13時40分においても手は温まらなかったけれど元気もよく、顔つきも良かった。お茶を飲んで歩いて便をして、また眠った。17時40分にはお手手は温まっていた。足の体操をした。操さんは気分良さそうだった。口数も多かった。夕飯を食べ、歯を磨いて寝た。熱は37.0度だった。操さんは気分が良さそうだった。大変寒かった。

2006.12.31(日) 今日は大みそ日、会社が順調で操さんが元気だったなら、いつものように二人でこたつに入ってTVでも見ていただろうにねぇ。今日のお昼ご飯は手打ちそばだった。私はていねいにきざんで食べさせた。私の夕飯は、ひさしぶりにうな重だ。おいしかった。21時30分で37.0度だった。たっぷり眠って、お腹いっぱいになった操さんは、お目目をぱちくりさせていた。昔、三人でうなぎを食べに行ったことを思い出した。操さん、なつかしいね!

2007.1.3(水) 明けましておめでとうございます、の操さんである。こんなことをやって、もう4年が経つ。今日は、操さんは午後、居眠りしていた。夕飯を食べまた眠っていた。歯を磨いてから寝かせた。私がいろいろなことを言うと、それに応えてげらげら笑っていた。お腹いっぱいになって満足そうだった。私が何か言うと、必ず何やら応えてくる。お目目はぱっちりしていた。かわいい操さんである。

2007.2.8(木) 操さんの21時の体温は昨日36.3度だった。今日のそれは36.4度だった。その前までは37.1度まで上がっていた。操さんは食事にとき、かなりむせるようになった。昨日も今日も、操さんは寝かせると機嫌よく笑っていた。お目目はパッチリ開けていた。気分良さそうであった。ご飯はよく食べ、便は下剤の飲みすぎなのかゆるいのが毎日出ている。

2007.2.15(木) この頃、操さんは気分悪そうだ。痴呆が進んだせいか眠ってばかりである。ご飯を食べているときでも、やたらにむせる。21時に寝かせると、目をつぶっていた。私が「操さん」と呼ぶと、「ハイ」と応えてくる。にこにこしているのだが、お目目はつぶっている。五木ひろしのような細いお目目をしている。かわいい操さんである。体温は36.4度であった。手足はぽかぽか暖かかった。

2007.2.19(月) 操さんは苦しそうな顔をして眠っている。21時30分に体温は37.1度だった。昨日も今日も午後には多量の尿がでていて、ズボンまでもがぬれていた。午前中に冷えきっているのではないだろうか? 夜、寝かせてから20分くらい後に見に行くと、操さんは足のほうに手を入れていた。そこがかゆいのだ。私はメンソレータムをたっぷりぬってあげた。

2007.2.20(火) 今日はお風呂に入れてもらった。お昼に私が行くと、操さんはよく歩いた。昼食もよく食べた。午後は、車椅子の上で毛布をかけてよく眠っていた。顔はいつも熱っぽそうで、気分悪そうだ。

2007.2.21(水) 今日は、床掃除で、操さんの体温が36.5度だった。15時から21時30分までに4回はかったが、全て36.5度以下だった。

2007.2.22(木) 操さんの体温は15時に36.5度で、17時には36.9度だった。21時20分には36.5度だった。

2007.2.25(日) 操さんは、今日は寝かせてもらっていた。昼ごはんをたくさん食べてから、操さんは眠った。16時には、体温は36.7度だった。21時には36.5度だった。この頃。36.5度杜いうことが多くなってきた。

2007.2.26(月) 操さんは21時に37度だった。

2007.3.1(木) 体重が45.2kgだった。前が44.4kgだから、0,8kg増えた。体温は21時に36.8度だった。

2007.3.2(金) 操さんのお昼ご飯のうどんは大半が捨てられてしまっていた。操さんは眠りながら口に入っているうどんをかんでいた。残りは、私が食べさせた。かわいそうな操さんである。午後も眠っていた。16時頃、体温を測ると、38.3度だった。21時ころには37.2度にさがった。夕飯は食べなかった。

2007.3.3(土) 私が行くと、車椅子から落ちそうだった。居眠りしていたが、少し待つと目をさまし、全て食べてしまった。昨日は、あまり食べていないので食べさせなくてはならなかった。お風呂に入ったかどうかわからないが、頭は洗っていなかった。16時に排泄をしたが、尿がたくさん出ていた。おそらく、午前中に冷えきっているのである。明日、私は毛布を買ってこなければならない。最近は暖房も入っていなく寒い。

2007.3.4(日) 今日、私は操さんの毛布を買った。私は9時40分に起きた。私が行くと、操さんは気分良さそうだった。手も暖かかった。17時には体温は37.0度で、21時には36.7度であった。

2007.3.5(月) 操さんは冷えきっていた。私はきのう買って洗濯してきた毛布をかけて、昼食を食べさせた。操さんは、暖房がなくなったなめ寒さで疲れきっているようだった。途中、10分くらい眠った。それでやや元気になり、また食べた。とにかく冷えきっていた。午後に尿が多量に出ることからもわかる。夕飯を食べて少し眠ると、ようやく手足が暖かくなり元気な顔になってきた。

2007.3.8(木) 操さんは毛布をかけているから、それほど冷えてはいなかったが、気分が悪そうだった。17時には37.1度で、21時には37.2度だった。かわいそうだ。どこか悪いのだ。

2007.3.9(金) また寒くなってきたというのに、暖房は入っていない。誰もが冷えきっている。操さんは毛布にくるまって眠っている。久保さんが操さんの毛布の首の入る穴のところをミシンで縫ってくれた。よくできていた。操さんは、夕飯を食べた後も、毛布に包まっていたので手足は暖かくなっていた。21時30分に体温は37,0度だった。

2007.3.10(土) 操さんはお風呂に入った。昼は元気で、いろいろしゃべっていた。よく歩いた。17時には37.0度だった。21時には37.2度だった。それでも操さんは。お目目をぱっちり開けて、なにやらしゃべったり、笑ったりしていた。かわいそうな操さんだ。

2007.3.11(日) 操さんは食事のとき、飲み込みが悪くなってきた。45分くらいかかるようになった。今日は、操さんのズボンのゴムがきついので、入れ替えた。夕飯は45分かけて食べさせた。冷えきっていた操さんは、車椅子で買ってきた毛布をかけてあげて、よく眠っていた。しかし、お手手は温まっていたけれど、足は冷えきっていた。今日は、操さんのズボンのきついゴムを取り替えた。17時から50分くらいかけて5つを取り替えた。夕飯を食べた操さんは、お手手も足も暖まっていた。操さんは小さい声で何かを言っていた。21時30分に、操さんの体温は37.1度だった。操あさんは、お目目をぱっちり開けていた。

2007.3.13(火) 私が昼に行くと、お風呂に入った操さんは疲れきっていた。手が冷えきっていた。3月に入ってから暖房はなくなった。昼のうどんは少なく、全部食べた。それから眠ったが、なかなか暖かくならなかった。15時ころ散髪をやってもらって、また眠った。14時ころりんごジュースを飲んで少し歩き、また毛布をかけて眠った。17時30分頃、手があたたかくなってきた。体操をしてから、風反を食べた。21時には37.3度だったので、アイスノンをやった。操さんはお目目をぱっちり開けて上を見ていた。

2007.3.16(金) 操さんは21時頃元気になる。私がいろいろしゃべると、ちゃんともっともらしい返事をしてくるからおもしろい。

2007.3.21(水) 操さんは、昨日、昼から元気よかった。私の顔をよく見ていて、午後は、ほとんど眠らなかった。しかし、21時頃、熱は36.9度だった。今日は、元気なく午後は、口を開けて苦しそうに眠っていた。

2007.3.24(土) 今日はお風呂だった。21時に体温はなんと36.5度だった!

2007.3.25(日) 今日も操さんは、気分悪そうに一日中眠っていたが、21時に36.6度だった。26日の21時には37.0度だった。

2007.3.27(火) 今日はお風呂だった。操さんはお昼に私が行くと、にこにこしていた。アハハ、ウフフと笑っていた。歩かせるとよく歩いた。昼ごはんを食べているときでも、よく笑っていた。よく飲み込んだ。それからよく眠り、13時50分にはジュースも飲んだ。しかし、体は硬直していて、歩かせるのには苦労した。夕飯もよく飲み込んで、早く終わった。その後も気分良さそうで、よく動いて、いろいろしゃべり笑っていた。顔色もよかった。しかし、21時に体温を測ると37.3度だった。

2007.3.28(水) 操さんは、今日もよく食べ、よく眠っていた。夕飯を食べると、元気になり、21時には、、体温が36.7度だった。

2007.3.29(木) 暑い日だった。午前中は毛布をかけてもらったが暑そうだった。21時には、部屋が暑かったので窓を開けて冷やした。操さんは、37.2度だったが、なにやらしゃべり、笑っていた。

2007.3.30(金) 今日も暑かった。私はたわらやさんに行ってズボンとジャンバーを買った。6800円であった。ズボンは良いのがなかった。操さんは午前中毛布をかけてもらっていたが、ちょうどよさそうだった。そのためか、よくしゃべり、にこにこして調子がよさそうだった。

2007.4.3(火) きのう、操さんは21時ころ寝かせると、げらげら笑っていた。数日前は、夏のように暑かったが、このところ雨がふって寒い。今日はお風呂にはいって、毛布はかけてもらっていたが冷えていた。昼食を食べてから寝かせて少し温まったが、足は冷えていた。夕飯を食べているときでも目をつぶっていた。21時の体温は、37.5度だった! 私はアイスノンをまくらに乗せた。操さんは気分悪そうだった。私は、毛布もかけてあげた。操さんは目をつぶって無言だった。

2007.3.4(水) 今日は寒い、雨がふり、やがて雪になった。暖房はしていなかった。操さんは、私が行くと眠っていた。その眠りに、異常なものがあることを感じた私は、操さんの体温を測った、すると、38.8度だった! 私は、操さんを寝かせた。足が冷えきっているので、湯たんぽを入れてもらった。熱は37.7度に下がり、操さんはよく眠っていた。足はしだいに温かくなっていった。夕飯は食べられたが、りんごジュースを飲んだらむせ、食べたものを全て吐いてしまった。ビニールをしいておいたので助かった。

2007.4.5(木) 昼には36.6度だった。昼食のカレーは食べた。ぶどうジュースも飲んだ。15時ころには36.9度だった。しかし夕飯のときには顔色がわるくなっていた。しかし夕飯は食べられ、すぐに歯も磨いた。20時に寝かせて体温計をセットした。私は夕食を食べ、歯を磨いた。21時頃、体温を見ると、38.1度だった。操さんは、気分の悪そうな顔をしていた。どうしたらよいのだろうか?

2007.4.6(金) 前の日に、今日は午前中寝かせてくれ、と頼んだのに寝かせてくれていなかった。操さんは、気分が悪そうに車椅子で眠っていた。昼ご飯を食べさせようとしても、食べなかった。お茶を飲ませると、吐き出してしまい眠っていた。私は迷ったが、私が昼食を先に食べ、操さんに車椅子で少し眠らせることにした。20分くらいして目をさますと、食べるようになった。全部食べ、りんごジュースも飲み、目やにをとり、顔を拭いてから、16時にベッドに寝かせた。操さんは冷えきっていて、体温は36.1度だった。18時20分頃には、操さんの足は少し暖まってきた。私は先に夕飯を食べることにした。18時50分頃、操さんはポカポカに暖まっていた。私は起こして夕飯を食べさせた。毛布を操さんにかけ、食べさせた。私は、15時に飲む予定であったりんごジュースを飲ませ、それから食べさせた。途中大きなせきでお口の中の食べ物をはきだしてしまったが、無事に食べられた。お茶も多めに飲んで、歯を磨いて寝た。21時の体温は36.5度だった。このごろ、21時に帰れ、ということになり大変である。まだ寒いので、水色の毛布は腰のところまでかけてあげた。

2007.4.7(土) 今日はお風呂に入れてもらったみたいだ。私が行くと、操さんは毛布をかけないで傾いて眠っていた。少し歩き、寝かせ、それから昼ごはんを食べさせた。今日はうどんだった。全部食べさせ、目やにをとって、寝かせた。操さんの体温は、15時頃、36.4度であった。手足は冷えきっていた。操さんは、ぐっすり眠っていた。私はそれからパソコン仕事をし始めたが、明日の行事の作業のため落ちついて仕事ができなかった。16時20分頃、操さんは目をさまして体もやや温かくなったので、起こして、ジュースと紅茶を飲ませて、少し歩かせた。痴呆が進み足の運びは、一段と悪くなった。それから寝かせて足の体操をしてから、18時25分から夕飯を食べさせた。体温は、37.0度だった。夕飯を食べ、歯を磨いて寝かせ、体温を測ると36.6度だった。操さんは、前のように何かをしゃべっていることはなく、ぐっすり眠っていた。少し暑かったので、私は掛け布団を少し下げて帰った。

2007.4.8(日) 今日は行事があった。私が行くと操さんはベッドに寝ていた。ぐっすり眠っていた。たぶん朝、ぐっすり眠っていて起こせなかったのだろう。9時にお茶を飲ませてもらった形跡があった。体温は36.6度で、手足はポカポカだった。私は、操さんをグループホーム棟に連れて行き、ご飯を食べさせた。操さんは気分よさそうに食べていた。すこし寒かった。それから操さんは車椅子で眠った。体温は36.4度だった。冷えきってしまったのだろう。16時頃、ジュースを飲ませた。夕飯はよく食べて。またぐっすり眠っていた。21時に寝かせ、体温を測ると36.6度だった。手足はポカポカで、ぐっすり眠っていた。この頃、寝かせるとすぐに眠ってしまう。ここ三日くらいのことだ。

2007.4.9(月) 12時30分には36.6度で、眠っていて元気なかった。14時には36.5度、16時に36.6度だった。夕飯はよく食べ、21時には36.7度で、昨日とは違いお目目をぱちぱちしていた。21時15分に帰った。

2007.4.10(火)   36.4  36.9  36.5 お目目ぱちぱち 笑っていた

2007.4.11(水)        36.9  37.0

2007.4.12(木)    今日は暖かかった。操さんも暑そうだった。午後熱があると言われ、測ると36.7どだった。夕飯のときには操さんは意識があぶなかった。この頃、たいてい目をつぶっている。夕飯は、初めに味噌汁をのませてあげることにした。21時には37.0度だった。

2007.4.13(金) 操さんはかなり痴呆が進んできた。毎日進んでいる感じだ。昼ご飯の前にお茶をのませようとしたが、大変だった。全てを終えるのに50分くらいかかった。午前中暖かかったようで、午後あまり眠らなかった。15時には36.7度だった。17時には36.9度だった。夕飯はよく食べた。便もよく出ている。21時には37.0度だった。床暖房が廊下に入ってしまっているようで、暑かった。

2007.4.14(土) 昼はうどんだった。苦労して食べさせた。この頃、日増しに痴呆が進み、飲み込みが悪い。それから寝かせて、体温を測ると36.7度だった。安心して、15時40分にジュースを飲み歩いたが、どうも気分が悪そうなので、体温を測ると37.8度だった。昨日暑かった(この2週間ほど暑い)ので、夜、毛布だけにしてもらったのが悪かったのだろうか――熱を出すときはいつもそうだった。夕飯はあまり食べず、お茶を飲み、歯を磨いた。操さんはぐっすり眠っていた。やれやれである。この頃やけに建物が暑いのだ。

2007.4.15(日) 私が行くと、操さんは寝ていた。暑そうだった。操さんは、にこにこして気分良さそうで、何かしゃべっていた。顔はふっくらとして、リラックスしていた。私は、操さんを車椅子に乗せて涼しいところに連れて行き、昼食を食べさせた。熱は。36.7度だった。初めにお茶を飲ませようとしたが大変だった。45分くらいかけて、8割食べさせ、ぶどうジュースを飲ませて終わった。それから、寝かせた。暑いので、窓を開けた。熱は36.7度だった。15時40分に起こして、ジュースを飲ませた。そして、また寝かせた。熱は36.9度だった。施設の体温計でも測ったが。一回目が37.3度。二回目が37.1度、三回目が36.9度だった(左わきの下に替えた)。夕飯はよく食べ、歯をみがいて寝た。37.1度だった。寝顔は気分良さそうなモードだった。

2007.4.16(月) 体温計の電池が切れた。操さんは気分が悪そうな顔をしていたが、体重は44.3kgだった。昼食前であったので、その後であれば、45kgになっていたであろう。21時にはにこにこしていて、元気良かった。お目目はぱっちりしていた。

2007.4.17(火) 今日はお風呂だった。操さんは何もかけておらず寒そうだった。昨日と今日は雨で、それまでの暑さはうそのように寒かった。昼食は五目ラーメンだった。この頃の操さんは食べさせるのが大変だ。日増しに痴呆が進んで行くという感じだ。口に入れても、なかなか飲み込まないのだ。一時間かけてやっと食べさせた。その後、体温計の電池を交換した。操さんの体温は、36.7度だった。寝かせて、また体温を測ると、36.5度だった。かなり歩かせて、体温を測ると、37.0度になり、その後眠ると37.1度になった。座っている操さんに「操さん!」、と呼びかけると、「はい!」という返事が返ってくる。夕飯を食べ、21時の体温は36.7度だった。痴呆はかなり進んでいる。やばい! どうしたらいいのだろうか? 眠っている操さんに、「操さん!」、と呼びかけると、「はい!」と答えてくる。何度も呼びかけると、やがてお目目を開け、かわいい笑顔が見えてくる。かわいい操さんである。

2007.4.18(水) 今日も寒い。ここのところ雨が降り寒い。操さんは毛布をかけてなんとかお手手が暖かかった。12時30分には、体温は36.2度だった。お昼ごはんは一時間かけて何とか食べさせた。何もかもが大変になってきた。ここ一ヶ月、痴呆の進みが速い。夕飯もなんとか食べさせた。17時に体温は36.9度で、21時には36.7度だった。

2007.4.19(木) 操さんは毛布をかけて暖かかった。熱は36.6度だった。元気が良かった。しかし、この頃上ばかり見ている。少し歩いて、昼ごはん食べさせた。はじめにお茶を飲ませた。よく飲んだ。全て食べ、寝かせた。体温は36.5度だった。16時頃起こして、お茶を飲ませようとしたら、じゃまが入った。近くでレクレーションが始まり、しかも、柴崎さんが近くに連れてこられてしまったのであった。さっそく柴崎さんは動きまくり、我々はそこにいられなくなった。我々は逃げた。17分の時間ロスである。なんでこうもじゃまがはいるのか? それから、かなり歩かせた。17時に体温は36.6度だった。夕飯を良く食べ、21時には36.9度だった。

2007.4.20(金) 操さんは眠っていた。昼ご飯のときも、夕飯のときも。そして、寝るときになると、お目目パッチリになった! 36.8度

2007.4.21(土) 今日はお風呂だった。36.2度だった。この頃、操さんの痴呆は急速に進んできた。昼ごはんは何とか食べさせた。15時に36.8度で、18時には37.2度だった。操さんは18時の体操で右足を上げると痛そうだった。夕飯のときは、お目目をつぶっていてなかなか飲み込まなかった。私は、腹が立って操さんの頭を叩いた。操さんは左手を上げてそれを防ごうとしていた。昔、操さんが家に居たころ、おかしなことをやったとき、私が操さんの頭を叩くと、「なにするのよ!」、と怒っていたことを思い出す。かわいそうな操さんである。しかし、私はどうしたらいいのだろう・・・。それでも、なんとか食べさせることができた。それから歯を磨いているうちに、操さんは、元気になってきた。寝かせる頃になると、お目目をぱっちり開けていた。困ったものだ。

2007.4.24(火) きのうは、ほぼ完成した論文のコピーを9枚のCDRにした。そのまま眠ってしまった! 今日は寒かった。私が行くと、操さんは何もかけないで座っていて、冷えきっていた、お風呂に入って湯冷めしてしまっていた。しかし、すこし元気な顔をしていた。うどんを食べた。私は飲み込まない操さんの頭を、このごろ何回も叩いてしまう。かわいそうであるが、どうしようもない。体温は36.5度だった。しかし、これは上昇中の途中のものだった。その後寝かせて、体温を測ると36.7度だった。気持良さそうに眠っていた。16時に起こしジュースを飲ませ、少し歩いた。すると、体温が上がり、気分の悪そうな顔になった。それから寝かせて体温を測ると、37.9度だった。さらに上がり38.4度になった。夕飯は食べずに、お茶を飲んで、歯を磨いた。午前中寒かったのに、何もかけずにいて、湯冷めしてしまったのだろう。また、きのう小泉さんに言われたのだが、操さんのおしりにまた傷ができている。この頃車椅子のフットレストが出ていることが多いので、そのために以前と同じ状況になってしまっているのである。私は、フットレストを出さないようにしてもらうように頼んだ。

2007.4.26(木) しかし、昨日もフットレストが出ていた、私は車椅子からフットレストを取り除いてしまった。昨日は21時に37.1度だった。今日は私が行くとベッドに寝ていた。操さんは気分悪そうだ。何かある。昼ごはんはよく食べ、15時には37.1度だったが、15時30分には36.9度だったので、ジュースを飲んでから歩かせたが、17時には37.6度に上がってしまった。歩くとよくないみたいだ。夕飯もよく食べた。21時には、操さんは「ウフフ」、と昔のように笑っていてきれいな顔をしていたが、37.5度であったので、アイスノンをしてあげた。熱のある顔をしていた。かわいそうな操さんである。どうしてあげたらいいのであろうか・・・

2007.4.27(金) 今日は寝かせられていた。昼を食べ寝かせると、37.4度あった。体重は35.3kgだった(61.7-16.38)。操さんは気分悪そうだ。夕飯はよく食べた。17時には37.5度で、21時には37.3度だった。かわいそうな操さんなのだ。どうしたらいいのだろう・・・

2007.4.28(土) 私が行くと操さんは寝ていた。熱は、37.6度あったが、椅子にすわって昼ごはんをたべた。17時には37.1度になり、21時には36.9度だった。

2007.4.29(日) 昼ごはんを食べた後、36.9度であったが、17時には37.6度になった。14時には便が出ていて、いろいろしゃべっていた。21時には37.2度だった。

2007.4.30(月) 昼には36.9度だった。昼ごはん食べてぶどうジュースを飲むと、操さんの顔は明るくなった。おいしかったのではないだろうか。13時に37.0度、18時に37.3度、21時に37.0度だった。夕飯はよく食べた。18時頃、看護婦さんに「37.9度ありますよ」、と言われたが、実際は37.3度だろう。音楽を聞かせると、なにやらぶつぶつ言っていた。――操さんは、私が何か言うと必ずうなずく。私がしゃべりかけると、何か答えてくる。私の操さんである。

2007.5.1(火) 私が行くと、操さんは寝ていた。お風呂に入る前に吐いてしまったそうだ。操さんは疲れたような顔で寝ていた。36.2度だった。これで、二回も風呂に入れなかった。昼食はよく食べられた。その後、私は操さんのおでこと頭と手の油を石鹸でとってあげた。操さんは元気だった。15時には36.6度だった。16時にも36.6度だった。それから少し歩いた。18時には36.8度だった。夕飯はよく食べた。21時には36.7度だった。操さんは、お目目をぱっちり開けていた。

2007.5.3(木) 操さんは、私が行くと車椅子でぐっすり眠っていた。15時の36.6度、それからぶどうジュース300ccを飲んで歩いても何やらしゃべっていて気分良さそうだった。18時にさわった感じも冷たく36.6度だった。操さんは気分の良さそうな顔をしていた。夕飯のとき、味噌汁を飲ませようとしたら、やたらにむせた。明日から少し食べさせてから味噌汁を飲ませようと思った。まだ飲む体制ができていないうちに飲ませると危険だ。夕飯をたべてからも、操さんはめずらしく気分良さそうな顔をしていた。しかし、21時10分の体温は、37.1度だった。操さんは、お目目をぱちぱちさせて美しい顔をしていた。今日は、ひさしぶりに操さんの美しい顔を見た。

2007.5.4(金) 今日は暑かった。操さんのおしりの傷は治ったようだ。昼は涼しいところで食べた。なかなか大変だった。15時には37.2度あったが、ジュースを飲んで歩いた。18時には37.1度だった。21時には37.0度だった。今日は気分悪そうだった。暑かった。

2007.5.5(土) 操さんはお風呂に入った。一週間ぶりだ。薄いズボンをはかしてもらっていた。昼はおすしだった。苦労して食わせた。15時には36.7度だった。18時には37.1度だった。夕飯はよく飲み込んだので早く終わった。それからよく眠り、歯を磨いてから元気になった。よくしゃべっていた。21時には36.8度だった。暑いので、布団は腰だけかけて、12時にかけてもらうことにした。

2007.5.6(日) 16時30分にはたくさん歩いてしまったが、18時に体温は37.1度だった。夕飯を食べると気分悪そうな顔で眠っていたが、はを磨き出すと気分良さそうな顔になり、21時には36.7度になった。私が「操さん!」よ呼ぶと、大きな声で「ハイヨー」と答えてきた。暑いので、布団から足と腰から上を出してかけた。12時に全部かけてもらうことにした。

2007.5.7(月)操さんは、夕飯を食べ、眠り、歯を磨くと元気になり、寝かせても笑っていた。21時に36.9度だった。

2007.5.8(火) 操さんはお風呂に入れてもらった。顔色がよかった。しかし、夕飯の時には、頭を叩いてしまった。21時に36.7度だった。

2007.5.10(木) 私が行くと、いつもと違いまえこごみで眠っていた。昼食はよく食べ、15時に36.5度、18時に36.6度、21時に36.3度(?)だった。16時に歩いた後も、車椅子で、前こごみで眠っていた。わたしは、昼食に冷やし醤油ラーメンを食べた。

2007.5.11(金) 操さんは、私が行くと冷えていた。昼ごはんを食べて、15時には36.3度だった。18時には36.6度だった。夕飯は飲み込みが悪かった。私は、腹が立って、操さんの鼻をふさいだが、そのため操さんは大きくむせた。これは危険なので、明日からやらないことに決めた。薬は、食べ物の中に入れて注入器で入れることにした。ところで、今日の私の昼飯は、ビビンバ麺であった。おいしかった。いろいろなものがあるので、それらを食べてみようと思っている。21時に、操さんの体温は36.6度だった。このところ操さんの体温は高温にならない。14時の体重は45.1kgだった。

2007.5.12(土) 36.6.度 37.1度 36.7度 私は昼に冷やし醤油ラーメンを食べた。

2007.5.13(日) 私が行くと、操さんは気分の悪そうな顔をして車椅子で眠っていた。 寝かせてマッサージして少し歩いてから昼食をたべさせ、ジュースを飲ませると、少し気分の良さそうな顔になってきた。いままで飲まず食わずでいたのだろう。私はその後、買ってきた「坦々麺」を食べた。この頃、このような私の嫌いな「酢」が入っていない「冷やし中華」があるのだ。私は嬉しくてしょうがない。毎日が楽しみなのだ。操さんは、昼食後ベッドで眠り、その間によい便をした。14時にはジュースを300cc飲み、歩いた。16時には体温が37.1度だった(看護婦さんの測定では37.5度だった)。夕食後はいつものように疲れたように眠り、その後、元気になった。21時には36.7度だった。操さんはお目目をぱっちり開けていた。暑いので、私は操さんのおなかの所だけに布団をかけてあげて、12時に全部にかけてもらうことにした。

2007.5.14(月) 私が行くと、操さんは気分の悪そうな顔をして車椅子で眠っていた。 寝かせてマッサージして少し歩いてから昼食をたべさせ、ジュースを飲ませると、少し気分の良さそうな顔になってきた。いままで飲まず食わずでいたのだろう。私はその後、昨日に続き買ってきた「坦々麺」を食べた。操さんはお目目を開けていたので、起こして歩かせた。14時にはジュースを300cc飲ませた。その後深く眠り、元気になった。夕食後はいつものように疲れたように眠り、その後、元気になった。21時には36.8度だった。操さんはお目目をぱっちり開けていた。暑いので、私は操さんのおなかの所だけに布団をかけてあげて、12時に全部にかけてもらうことにした。

2007.5.22(火) 操さんはお風呂にいれてもらったみたいでさっぱりしていた。さらに、散髪したようでさっぱりしていた。昼ご飯を食べた後でもあまり眠らなく元気だった。歩かせた後でも、体温は37.1度だった。夕飯の後、気分が良さそうだった。21時には36.9度だった。操さんは元気だった。暑い日だった。夜も暑かった。

2007.5.24(木) 外は5月だというのに炎熱地獄である。私はズボンをとってきた。靴下も12足買った。ガソリンも入れてきた。操さんは元気だった。よく笑っていた。午前中暖かいからかもしれない。ここのところ三日くらい元気がよく、足も軽い。今日はカレーで最後にぶどうジュースを飲んだ。36.7度だった。私は、厚いのでシャツ一枚にしてあげた。

2007.5.26(土) 昨日もそうだったが、操さんは昼食を食べた後36.7度で、その後眠った後ジュースを飲み、歩いて、18時には37.0度で、夕食後は元気なく傾いている。しかし、20時頃からお目目はぱっちりしてきて、歯を磨いた後は顔色もよくなった。昼間鉛色だった顔は白くなった。体温は36.8度だった。

2007.5.27(日) 今日も操さんは20時頃から元気になってきた。時々にこにこする。私が「操さん!」と呼ぶと、「はい」と答え、にこにこする。

2007.5.30(水) 一昨日の晩は暑いので上着をまくり上げて寝かせた。しかし、そのせいで昨日は18時に37.8度の高熱が出てしまった。昨日はそのようなことをしなかったせいなのか、今日は15時に36.7度、その後歩いた後、37.0度、21時に36.7度と調子がよい。夕飯を食べた後は、にこにこしていた。足も軽い。操さんは、きれいな顔をしていた。しかし体の傾きは大きくなってきた。

2007.5.31(木) 今日も操さんは元気だ。私が行くと笑っていた。冷房が入ってなかったので暑かった。昼食を食べてから寝かせた。36.7度だった。それから便をしたみたいで、ズボンも汚れていた。パンツとズボンを取り替えて、少し歩いた。ジュースを飲んでから涼しいところに置いた。夕飯は暑いので居室で食べた。歯を磨くと、操さんは元気になってきた。げらげら笑っていた。36.7度だった。とっても気分がよさそうだった。暑いので布団はお腹のところだけかけて、12時に全部かけてもらうことにした。

2007.6.1(金) 操さんは、この頃午前中暖かくてよく眠れるせいか、午後は寝かせてもお目目ぱっちりだ。今日は冷房が入っていないで暑かった。15時に36.7度だった。30度と暑いので別室に移動して、窓を開けた。涼しかった。ここで昔TVを見ながら夕飯を食べたっけね! 私の夕飯は久しぶりにカレーライスだ。21時で36.6度で、げらげら笑っていた。気分良さそうだった。

2007.6.6(水) 今日はパシオスに行って、この前(4月)買ってよかったズボンを買ってきた。同じのがあってよかった。このズボンは軽くて歩いていても階段を上っているときでも抵抗がない。79cmであるが、76cmと同じである。79cmが二つあったのでそれら(3900円)と、もう一つ別なの(1900円)を買った。操さんはこの二日、21時の体温は36.6度と低い。

2007.6.10(日) 私は散髪に行って、ガソリン3000円入れて、本買った(フーコー)。操さんは15時に36.7度。18時に37.4度で、夕飯を食べているときに吐いてしまったが、そのとき体温は36.7度だった。その後三回測り36.5度だった。

2007.6.15(金) 13日に操さんの左足の太ももの下に青あざがみつかった。筋肉が硬くなっていた。これは数年前からあったものだ。むくみだろうということになり、私は佐久間式マッサージをすることにした。操さんは14日には、21時に36.6度で元気に笑っていた。今日も夕食を食べてから眠ると元気になり、21時には36.8度で笑っていた。

2007.6.23(土) 一昨日は18時頃に37.6度の熱が出てしまった。今日は14時に36.7度、21時に37.1度だった。操さんは寝かせる前に、私がしゃべりかけると、なにやら答えていた。私が何か言うと、必ずうなずくのである。暑い日だった。

2007.7.2(月) ここのところ、操さんは調子が良い。四日続けて大便がでている(昼食を食べた後に寝かせた後に出ている)。21時の体温も36.4度、36.4度36.8度、そして今日は36.5度だった。飲み込みも良く速く食べられる。午前中は寒いらしく半袖では危険だ。しかし、体温が下がるのは夕飯を食べて少し眠った後で、その前は気分が悪そうな顔をしている。

2007.7.19(木) 昨日と今日、操さんは便が出た。しかし、痴呆はどんどん進んでいる。コップのお茶ものませずらくなっている。いつも上を向いている。18時ころは気分が悪そうだ。しかし、夕飯を食べ、少し眠ると気分がよさそうな顔になる。21時には体温は36.5度で気分良さそうだった。私が「操さん」とよぶと、「はい」とかわいい声で応えてくるのだ。今日は、爪を切ってあげた。

2007.8.12(日) 操さんは、夕食後、歯を磨いた後に今までになく大量の痰を吐いてしまった。濁ってはいなかったが、そん量の多さに驚いた。苦しかったであろう、かわいそうだった。私は、二週間、朝は八時に起こしてもらい、朝食後にまた寝かせてもらうことにして様子をみることにした。その結果、体温は下がる傾向が見られた。運動をした後の十八時においても、37.1度を超えることはなかった。また、私の買った体温計の説明書により、正常な人の体温の平均値が36.89度であることがわかった。これは大事件であった。

2007.8.22(水) 暑い夏だ。操さんは寝かせてもらっていた。私が操さんを車椅子で連れてくると、一階の宮前さんが近づいてきて、操さんは、いつも眠っていてわからなかったが太ったので見違えた、と言っていた。操さんは、気分良さそうな顔をしていた。いつも顔色が悪い夕食のときにも気分良さそうであった。――一昨日は20時に寝かせたが、冷たくなってぐっすりといびきをかいて眠ってしまった。だから私は毛布をかけて帰った。しかし、昨日は20時の寝かせても元気よく、お目目はぱっちり開けていた。私が「みさおさん」、と呼ぶと、「はい」、と答えてくれた。3週間前から、朝は8時頃起こしてもらうようにしたが、そして、一週間前からは、少し早く寝かせるようにしたが、午後の体温の上昇が穏やかになってきた。18時には37.1度を越えることは一回(37.3度のときがあった)しかなく、20時に36.7度、21時には36.5度が多いのだ。――しかしこのところ暑い。熊谷は40.9度にもなったそうだ。地震で停止している塩原原発のおかげで電力の需要は供給能力を超えそうなのだ。

2007.9.12(火) 9月8日(土) 操さんは、このごろ足の運びが悪くなってきた。歩かせることが困難になってきた。――私はというと、7月に酒を飲んでそのまま眠ってしまい、起きると手の調子がおかしい。たぶん脳血栓だ。それから2ヶ月たった今、かなり改善したがまだ右手の動きがおかしい。しかしこの程度ですんでよかった。大変なことになっていたかもしれない。気をつけないといけない。酒を飲んだら水を飲んで寝なければならない!――操さんは8日(土)の39度の熱を出した。14時の37.4度から上昇していった。しかし21時には、37.4度に下がっていた。頭のせいだと思う。今日は最高36.9度で、21時には36.7度だった。私が「操さん」と呼びかけると、「はい」と答えてくれた。飲み食いは良い。

2007.9.15(土) 少し前から操さんの歩き方がおかしい。足が前にでないのである。痴呆が進んでいる。さらに13日に体操していたら、「ビシ!」と音がした。筋肉が切れたみたいだった。しかし、歩けるので安心したが、14日に同じ体操をすると激痛があった。私は、どこかおかしいと思い医者に連れて行ってもらうことにした。かわいそうなことをした。――この頃寝るときの体温が高い。たいてい36.7度くらいなのに37.0度くらいになっている。今日は21時ころに私が「操さん」、と呼びかけると「はいよー」、と答えてくれた。

2007.9.17(月) 夜、「その後どうなったか?」、ときいたところ、医者が来週の水曜まで来ないのでわからない、という返事がきた。ところが別の看護師の吉岡さんと合い事情を伝えると「明日なんとかしましょう」。という好意的な答えがきた。

2007,9.18(火) 18日に私が施設に行くと――その日私は、換気扇と踏み台を買った――、丸山さんがきて、私に操さんの症状をきいた。それから看護師長の澤田さんが今日医者に連れて行く手配をしていることを伝えてくれた。16時30分に本強矢医院に出かけた。レントゲンを撮り、骨には異常がなく、少し動かしてみて問題がないという判断がされた。信用してよいかどうかは今後の課題であるが、まずはやれやれである。帰りの道は速いが危険なルートを選んだ。怖い場面があった。19時頃戻り、操さんに夕飯をたべさせた。私の夕飯はベルグの駐車場で済ませた。

2007.9.20(木)昨日はエアコンが壊れた。暑い日であった。そこで扇風機を山田電気で買ってきた。家に帰ってから18日に買った踏み台と換気扇と今日買った扇風機を家に運んだ。駐車上で大家と話した。買ってきた踏み台を使い、扇風機で涼をとりながら換気扇の交換をした。大変だった。汗びっしょりになった。しかし、緊張感あふれる快感の時間だった。

2007.9.21(金)サンヨーに電話してエアコンの修理をたのんだ。

2007.9.23(日)操さんは、ある姿勢での痛みはあるものの日常の生活には支障はなかった――昨日の私の夕飯は御寿司であったが、ベルグの駐車場で食べなければならないことになった。今日は、昼頃顔色がよかった。20時30分頃音楽を聞かせながら寝かせると気分よさそうであったのだが、21時ころに体温が37.3度に上がり苦しそうだった。

2007.9.25(火) 一昨日と昨日、操さんは夜高い熱が出た。今日は、エアコンの修理の日だ。暑い日だった。私は早く行ったが丸山さんにつかまり10分遅れた。14時40分に家に帰り、修理の支度をした。暑かった。ベランダには洗濯物のハンガーが落ちてこなごなになっていた。2001年に買ってから6年間太陽光線をあびてボロボロになったところ、先日の台風でゆさぶられ落ちたのだろう。買ってきたサンダルを履いて準備をしていると、すぐに修理の人の車らしきものが通過するのが見えた。上がってもらいみてもらうと、回路基板の在庫がないので発注するとのことであった。これも緊張感あふれる快感のひと時であった。今日、操さんの21時の熱は、36.5度で気分よさそうであった。

2007.9.27(木) 車検のために車をもって行った。代車は軽のマニュアル車で軽快だった。

2007.9.29(土)車検が終わり車をとりにいった。149号線の軽自動車でのドライブは快感だった。クラッチもハンドルも軽かった。私の車はもううんざりした。車検費は166000円だった。バッテリーも交換した。私は出ていくばかりのお金にうんざりした。しぶしぶ出した。私の車に乗り込みクラッチを踏むと、その重さに驚いた。踏み込むことができなかったのだ。半クラッチで前進させようとするとエンジンストールした。公道に出るのが怖かった。私は、なんとかたどたどしく車を進めていった。体が軽自動車に慣れきっていたのである。――それから操さんのところに行って昼ごはんを食べさせ、顔を拭いていたら、なにやら血のようなものがタオルについてきた。それは左耳から出ているらしかった。耳に中から血の凝固したものが出てきた。きっと風呂に入ったとき何かあったのだろう。風呂に入ると怪我していることが多い。Tシャツにも血痕があった。月曜日に耳鼻咽喉科に連れて行ってもらうことにした。心配だ。何があったのだろう。17時に、操さんを寝かせて足の爪を切ってあげてから、「操さん」、と呼ぶとちゃんと「はい」という返事がきた。18時の体温は36.9度――今日は運動しなかった――、21時の体温は36.8度だった。私は、また心配で食欲がなくなってしまった。

2007.10.2(火) 操さんの痴呆は毎日進んでいく。夕飯のとき、操さんは意識不明のように見えた。しかし私が「操さん」とよぶと、「はい」と答えてくれた。夕飯を全て食べさせることができないと思われたができた。昔30分で終わったものが今では一時間かかるようになった。耳からの出血の対処はまだできていない。明日、喧嘩になるかもしれないのだ。体温は、運動後に最高36.9度で、21時には36.7度だった。

2007.10.4(木)今日はエアコンの修理が来たが、交換部品を忘れて明日になった。操さんは10時にお茶を飲ませてもらったらしいが、タオル・Tシャツ・ズボン、シャツがびしょびしょであった。私が行くと、喧嘩を吹っかけられた。体操後の18時の体温は36.8度だった。21時には36.7度だった。

2007.10.6(土) エアコンの修理は無事完了した。私が15時頃家に着くと、サンヨーの方はもう到着して車の中で寝ていた。回路基板の交換した後、確認したところNGだった。しかし、センサーのコネクタの接触不良であることがわかり完了した。よかった。30分くらいで完了した。ベランダには西日があたり暑い日であった。これで9月のあの暑い日に始まったエアコン修理騒動も終わった。なんだか寂しい感じもする。私が施設に戻ると、3時のお茶とおやつは食べました、という嘘をつかれてしまった。私はそれがわかり、ジュースと牛乳を操さんに飲ませた。

2007.10.7(日) 操さんは昼ごはんの前にお茶を飲ませようとするとむせて大変だった。それから眠ってしまい15時にようやく半分食べさせた。夕飯は少し控え目に食べさせた。歯を磨いているとき嘔吐しそうになったが、なんとかおさまった。熱は21時に37.1度あった。

2007.10.8(月) 今日は何とか正常だった。18時の熱は37.5度であった。夕飯も食べて、歯も無事みがいて20時30分の熱は、37,3度であった。21時10分の熱は37.2度であり、下がる傾向にあったので私は心配しなかった。しかし操さんは、毛布を手ではいで左手を出していて暑そうだった。中に入っている右手は暑かった。手足を触ってみると少し暑かったので、手と足を出してあげた。私が「操さん」と呼ぶと、「はい」と返事してきた。

2007.10.10(水)昨日はお風呂だった。今日は私が行って車椅子を動かすと笑っていた。マッサージしてから歩かせると笑っていた。昼食と夕飯は順調に食べた。14時のは36.8度、18時には37.6度という体温だった。夕食まえには十分な運動をした。それにより冷たかった手足は暖かくなった。20時30分に36.9度、21時20分に37.0度であった。厚かったので、お腹のところだけ毛布をかけて帰った。今日はいつも出るところの工事をしていたので別のところから出た。

2007.10.13(土) 今日はお風呂。ここのところ、酒を飲んでそのまま眠ってしまう。あぶない。ねぼうして風呂に入らずいった。昨日も操さんのチョッキを買うために風呂に入らなかった。操さんは、私が行くと眠っていた。それから寝かせてマッサージしてから歩かせると足の動きは良かった。15時30分にジュースバー――これはきわめておいしい飲み物だ!――を飲ませると二回吐き出してしまった。腹が立った私は、またもや操さんの頭を叩いてしまった。操さんは、おかしな声で「いたい、いたい」と言っていた。かわいそうだった。さらに私はお手拭を洗いに行く途中に、操さんの頭をまた叩いてしまった。操さんは、それに大きく反応していたっけ。かわいそうだったが、私もいろいろなものに挟まれて大変なのである。昨日から19時30分に帰れと言われて困っている。夕飯は安全に食べられたが、お茶や味噌汁を飲むときむせて大変だ。

2007.10.16(火) ここのところ、私は7時30分に帰り、ベルグの駐車場で夕飯を食べ、それをベルグのゴミ箱に捨てて帰る。今日は寒かった。私は毛布とチョッキをもって行った。操さんはお風呂に入り冷えきっていた。顔色も悪く疲れきっていた。昼食も時間がかかった。なかなか飲み込まなかった。14時30分に体温を測ると、36.1度だった。こんな低音はひさしぶりである。寒かったのであろう。私は、もってきたチョッキを着せて寝かせ、もってきた毛布をかけてあげた。もってきてよかった。16時になっても操さんの体温は上がらず、手足は冷たかった。ジュースを飲ませてから運動を多めにした。すると手が暖かくなってきた。体温も36.7度まで上がってきた。夕飯のときには、顔色もよく、よく飲み込んだ。寒い日だった。19時30分に操さんを寝かせ、毛布を2枚慎重にかけてから、私は帰った。帰りにパシオスによって、チョッキを買い、ベルグに行き、夕飯を食べてから帰った。

2007.10.20(土) 昨日は寒かったらしく37.0度の熱が出ていたので用心した。体操はしなかった。夕飯は食べられたが、21時に体温は37.2度に上がっていた。今日はお風呂に入った。そして日の当たるところにいた。昼食は飲み込みが悪く、私は何度も操さんの頭を叩いてしまった。汗びっしょりだった。14時のジュースもなかなか入らず、強くコップを押し当てると口を開けるが、そこにジュースを流し込むと吐き出してしまう。私は切れてしまい操さんの頭を強く叩いてしまった。そこに宮前さんがきて話をしながら飲ませると、よく飲んだ。それから体操をして音楽をきかせながら寝かせた。体温は36.8度だった。味噌汁は食べてからにしたらよく飲んだ。20時30分に36.7度で、21時には36.9度だった。

2007.10.21(日) 私が行くと、操さんは11時に吐いたということで寝かされていた。横向きになり、大きい白いタオルが置いてあった。私は、操さんを起こし車椅子に乗せていつもの場所に連れてきた。歩かせようとすると倒れ掛かってきた。いつもと様子が違う。それから車椅子に座らせ、お茶を飲ませた。なんとかコップ一杯飲ませたが、眠ってしまい食べさせられないので寝かせた。体温を測ると35.6度だった。眠っているうちに体温は36.2度まで上がってきたので、15時ころ昼食を食べさせたら良く食べた。体温はだんだん上がってきて、夕飯のときには36.7度になった。夕飯は少なめにした。21時の他恩は36.5度だった。

2007.10.22(月) 今日は操さんは正常でよく飲み、よく食べた。夕飯の味噌汁は初めと中間と最後に分けることにした。寒いのでズボンは冬用にしてあげた。あしたの昼はうどんなのだ。

2007.10.23(火) 今日はお風呂だ。うどんを食べるのにむせて大変だった。家に帰ると「燃えないゴミ」をだした。扇風機と換気扇と柱時計をだした。「柱時計」は迷った。ふたを開けると懐かしい油の臭いがした。振り子は新聞紙にくるんで入れてある。鐘を鳴らすレバーを押してみると、なんとハンマーがたどたどしく動き出した! 私が手助けしてやると鐘を鳴らせた。もう一度押すとまた鳴らせた。40年近く前に巻いたぜんまいの力でなんとか動き、40年前の音が響いた。これは、お別れの二回のあいさつであったのだろう。さよならである。私はこれを捨てるのをためらったが、夜に捨ててしまった。その後、夜中に何度も家に持ち帰ろうと思ったがついにもっていかれてしまった。もう二度と会えない。思い出の中にとどめておこう。――時計と言えば、小学校に入学するとき買ったゼンマイのめざまし時計を、高校のとき入院しているときに買った電気時計を買うまで使っていたっけ。扇風機も懐かしい(古い扇風機の電解コンデンサからの発火事件が起きている)。私が小学校のときに秋葉原で買ったものだ。そういえば、真空管ラジオもオープンテープレコーダーも秩父まで捨てないでもってきたが、捨ててしまったっけ。

2007.10.24(水) 今日の昼食はねぎとろ丼であった。操さんはよく食べた。夕飯時に、操さん体温は37.0度であったので、気分良さそうで、お目目はぱっちり開けていて、よく食べられた。寝かせてから毛布を2枚かけると厚かったみたいで口で荒い呼吸をして苦しそうだったので一枚にした。手足は暑かった。

2007.10.25(木) 今日は、お昼も16時のジュースも夕飯もよく食べた。21時体温は36.7度だった。今日くばられた布団をかけたところ、手足が暑くなっていたので毛布一枚にした。

2007.10.28(日) 私が行くと、操さんは前こごみになっていて苦しそうだった。昼食はなんとか食べさせ、果物はジュースに入れて飲ませた。体温は36.2度で、眠った後は36.6度だった。これは正常な状態なのだ。げんきになってきたが、左に傾かなくなった。歩くのも大変になった、21時に寝ている操さんに、「操さん!」と呼びかけると、「ハイ」と返事してきた!

2007.11.3(土) 今日はお風呂だった。操さんは、コップからよくジュースを飲み、体温も正常だ。

2007.11.4(日) 操さんは左に大きく傾いて眠っていた。調子が悪そうだった。お茶を飲ますのは大変だった。昼食は飲み込みが悪く、頭を何度も叩いてしまった。同じ回数だけ私の頭も叩いた。しかし、ジュース(ジュースバー)はよく飲んだ。15時の体温は36.8度だった。これは少し高めでいつもなら36.6度だ。16時にも、ジュースはよく飲んだ。はじめにジュースが操さんのお口に少し入ると、操さんの顔が変わる。それからよく飲むようになる。やはりおいしいのだ。それから体操して寝かせて体温を測ると37.7度だった! 手足は冷えきっていた。16時30分まで寝かせておいたが、体温は36.6度だった。夕飯を食べているうちに手足は暖かくなってきたので安心した。20時30分には37.3度で、21時15分には37.2度だった。それで安心して私は帰った。

2007年11月5日(月) 今日も操さんは大きく傾いて眠っていた。三日まえからのけぞらないで前に倒れている。昼食はよく食べ、ジュースも飲んだ。体温は36.3度だ。それから寝かせて――4枚かけた――音楽を聞かせると、にこにこしながら何か言っていた――やっぱり音楽を聞かせることはよいのだ。15時の体温は36.6度だった。それからジュースを飲んで、運動した。体温は36.6度だった。手はあまりにも暖かくなった。昨日とは違う。夕食もよく食べた。しかし、顔色は悪い。21時の体温は36.6度でお目目はパッチリ開けていた。

2007年11月6日(火) 今日はジュースバーがなくてひさしぶりのぶどうジュースだ。操さんは冷えきっていて14時30分には36,3度だった。音楽を聞かせると笑ってなにか言っていた。15時には36.6度だった。体操した後でも36.3度だった! 夕飯食べ他後、21時でも36.3度だった。おかしい。

2007年11月7日(水)14時には36.2度で15時には36.5度だった。昼寝をしてから起こすと、おおきな便をしていた。操さんはそれが気になって左手でいじろうとしていた。ジュースを飲んだ後、ベッドに座らせたがそっくり返って大変だった。運動後は36.7度で手足は暖かくなっていた。寒い日だったが、寝る頃体はぽかぽかだった。おむつ交換のときに、体が厚い、と言われた。21時には36.5度だった。

2007年11月8日(木) 今日は暖かく、操さんは冷えきっていなかった。お昼はカレーライス(はやし)であり、私も350円のカレーライスを食べた。おいしかった。14時30分に36.5度、15時に36.5度、体操後の17時45分に36.9度で、21時に36,5度だった。手足はほかほかだった。

2007年11月9日(金) 昼食はうどんだった。操さんはこのうどんが、むせてしまいなかなか食べられない。細かく切ってあげないといけないみたいだ。その後、「ジュースバー」というジュースは、前記のようによく飲んだ。お口に少し入るとお目目をぱっちりあける。その後は自分で吸い込んでくる。おいしいのだ。14時の体温は36.8度、15時では36.9度だった。運動後に37.3度になり、21時には36.9度だった。

2007年11月12日(月) 14時には36.5度、体操後の18時には36.8度、21時には36.3度だった。昨日も、21時には、36.3度低かった。堤さんが、毎日帰るといって大騒ぎだ。大塚さんは、食べなくなってしまった。もう終わりかもしれない。私が今まで見ているところで、食べなくなった者はおしまいなのである。

2007年11月13日(火) 15時36.5度。かなり歩いた。21時36.4度であった。

2007年11月14日(水) 今日の昼食はカレーだった。操さんはよく食べた。ジュースはよく飲んだ。15時に36.4度、体操のあと17時30分に36.6度、21時に36.5度だった。この頃体温は低い。操さんは布団の中で、「いひひ」と笑っていた。13時ころ便をしていた。お腹一杯で気分良さそうだった。

2007年11月15日(木) 昼食のとき飲み込みがわるく、私は操さんの頭を叩いた。15時36.8度。18時37.2度。21時36.8度。

2007年11月16日(金) 14時36.5度、15時36.7度、体操の後36.5度、21時36.5度。

2007年11月17日(土) 今日はお風呂だった。操さんは暖かく眠っていた。私は歩かせ、寝かせてマッサージしてあげた。昼食を食べると、操さんは元気になった。寝かせてもお目目をきょろきょろさせていた。15時に36.6度、体操のあと16時に37.0度、21時の36.7度だった。この頃、37.4度となることは少ない。

2007年11月18日(日)気分良さそうだった。足の運びは軽かった。昼食後は居眠りしていたが、ジュースを飲ませるとお目目パッチリになりどんどん飲んでしまった。きっとおいしかったのだ。36.4度 36.7度 屈伸運動と歩きの後36.9度 気分良さそうだった。21時36.4度でお目目パッチリだった。顔色良かった。ね!

2007年11月19日(月) 今日は冷えきっていて36.0度だった。暖かくして寝てようやく36.4度になった。運動たくさんしてもあまり温まらなかった。寒い日だった。一昨日の帰りには。車のフロントガラスの水滴が凍っていた。21時には36.6度だった。大塚さんという入所者が食わなくなった。毎日点滴をやっている。息子がきて興奮していた。いったいどうなってしまうのだろうか。彼は、こういう場合の対処法を知らないのである。ただうろたえているばかりなのである。――この大塚さんはなんとまもなくいなくなってしまった。死んでしまったか、入院であろう。

2007年11月20日(火) 今日はおふろだった。操さんはかなり硬直していた。しかし、運動して、昼食を食べると柔らかくなってきた。14時に36.4度で、音楽を聴かせるとにこにこして何か言っていた。気分よくなったのだろう。それからは、顔色もよくなってきた。やはり私がいなくてはだめなのだ。右の耳の中になにかがあるので、丸山さんに書いてもらって医者に連れて行こうとおもったが、16時に帰ってしまい間に合わなかった。夕食はよく食べた。20時30分に36.6度、21時に36.8度だった。

2007年11月21日(水) 今日は掃除だ。操さんは冷えきっていた。昼食を食べた後は眠っていた。16時には36.4度だった。体操しても36.5度だった。椅子に毛布をかけてあげた。寒い日だった。夕食を食べ、20時頃から温まってきた。20時30分には36.6度だった。21時には36.9度で手は熱かった。しかし、足は冷たかった。私は、毛布2枚を腰から下にかけて帰った。操さんはお腹いっぱいになり、暖かくなり、元気よくなりお目目はぱっちり開けていた。

2007年11月23日(金)  今日から床暖房が入ったようで、そのせいか操さんは穏やかだった。体は柔らかく、足の運びがよかった。運動した後は、顔色もよくなってげらげら笑っていた。昼食後がいっそう元気がよくなり、げらげら笑っていた。昨日と一昨日に下痢をしたのは、午前中冷えたためと思われる。14時36.6度、15時36.6度、18時36.9度、20時30分36.6度、21時36.6度。ジュースはよく飲んだ。夕飯のときに出た果物は、昔のようによく吸い込んで飲んでしまった。

2007年11月24日(土) 今日私は散髪にいってきた。操さんは昨日よりは元気なかった。 15時36.6度、激しい体操後18時36.7度、21時36.6度だった。この頃、16時頃の発熱がない。夜寝るとき、私は毛布2枚を腰から下にかけてあげている。大塚さんという人が食わなくなってしまい大変だ。

2007年11月25日(日) この頃床暖房が入り、操さんは暖かそうだ。しかし、この頃操さんの便が柔らかい。今日も柔らかいのが出た。15時36.8度、運動後の18時37.2度、21時36.8度であった。夕飯を食べた後と歯を磨いた後に、操さんを床暖房の入っているところにおいておく。だから操さんのあんよは暖かいのである。操さんは21時頃ポケーとしていたが、私が「操さん!」と呼ぶと。「はい」と元気ない声で答えてきた。今日は大正琴の演奏会があって、我々は別室で昼食を食べた。焼きそばだったので大変だった。なんとか食べられた。その後操さんを寝かせて、私はあの場所で読書をした(ユダヤ人の歴史)。思えば昔ここでいろいろな本を読んだっけ。懐かしい。その成果は全て私の著作に実っている。ニーチェの「善悪の彼岸」、「道徳の系譜」、ショーペンハウアーの「意志と表象としての世界」をじっくり読んだっけ。あの頃は操さんもまだ手がかからないで私の時間がたくさんあったのだ。

2007年11月26日(月)15時に操さんの体温は37.2度あった。18時には38度になった。19時15分には37.6度に下がったので夕食を食べさせた。21時には37.2度で眠っていた。呼びかけても反応はなかった。時々このようなことがあるのだ。私は、ユダヤ人の歴史の本を読んでいる。今日は、ヘロデ王やそのまま娘のサロメ(洗礼者ヨハネを殺させた)、イエスを殺したローマ総督のピラトのところだ。ここのところ、イスラムユダヤ教キリスト教に関する著作を読んでいる。

2007年11月27日(火) 今日はお風呂だったが、操さんは入ってなかった。たぶん熱があったのだろう。昼食は、そばだった。私はスプーンできざんで食べさせた。大変だった。体温は12時36.7度、15時37.2度、運動した後18時36.7度。21時37.0度(二回測定)だった。

2007年11月28日(水)昨日風呂に入らなかったので、着替えた。12時36.2度、昼食をたくさん食べてから、14時に36.4度、15時36.6度、体操してから18時に36.7度、おいしい魚の夕食をたくさん食べて20時30分には36.7度、21時には36.9度であった。私が「操さん」と呼ぶと操さんは「はい」と答えてきた。かわいい操さんである。

2007年11月29日(木) 14時36.4度、15時36.7度、体操後36.7度――>36.8度、20時30分36.9度、21時37.0度(暑かった、操さんの手足は急速に暑くなっていった)。

2007年12月2日(日) この頃私が行くと、床暖房のおかげで操さんは暖かい。14時には36.7度だった。この頃、体操の後の18時でも37度を越えることはない。夕飯を食べた後は気分の良さそうな顔をしていた。昔のようなかわいいお目目をぱっちりあけていた。

2007年12月3日(月) 今日は秩父夜祭である。私はいつもと違うベルグで買物をして向かった。今日も操さんは床暖房のせいか気分のよさそうな顔をしていた。14時の体温は36.4度で、音楽を聞かせるとなにやらしゃべっていた。屈伸運動をした後18時に36.9度で、夕飯をよく食べて20時30分、21時に36.7度だった。お手手は暖かく、あんよはこれから暖かくなるところであった。

2007年12月4日(火) 今日はお風呂だ。14時36.2度、15時36.5度、体操後の18時36.4度!、20時30分36.4度、21時36.6度であった。このごろ(床暖房が入った頃から)便の色が明るく柔らかい。

2007年12月6日(木) 気分良さそうな顔をしていた。また明るい色の柔らかい便をしていたので取り替えた。14時36.5度、15時36.6度、体操した後18時36.6度、20時30分36.7度、21時36.9度であった。この頃37度以上になることはない。顔つきも苦しそうなことがない。便は柔らかいのが常に出続けている。消化していない便だと言われた。心配だ。

2007年12月8日(土) お風呂だった。昼食は飲み込みがよかった。14時36.5度、15時36.8度、運動後18時36.7度、21時36.7度。

2007年12月9日(日) 一昨日きたおかしな奴に翻弄されている。荷物はどこかに入れてしまわなければならない。その話し合いを昨日した。私はそれに関連して椅子を並べた。実に美しかった。14時の操さんの体温は36.7度、15時36.8度、体操した後――このときもあのおかしな奴に妨害された――、36.7度、20時30分36.7度、21時36.7度であった。私が帰る時、私によって美しく並べられた椅子と広いスペースを見た。なんとも美しく、私は幸せにも忙しかった。美しい光景と忙しさ――これはまったく快感の極致なのだ。

2007年12月10日(月) 14時36.6度、15時36.8度、体操後18時36.7度であった。爪を切ってあげた。おかしな奴が入ってきてたいへんだ。

2007年12月11日(日) 操さんの昼食がなかった。おかしい。きっと食べてない。かわいそうだ。柔らかい便が出ていた。14時36.6度、15時36.8度、20時30分36.6度、21時36.8度。暑かったので毛布一枚にして、後でかけてもらうことにした。外は非常に寒かった。夕食中に柴崎さんがじゃまにきてまいった。操さんは快調に飲み込んでいたが、味噌汁を苦労して飲ませた後、意識がなくなり飲み込みがわるくなったのでまた頭を叩いてしまった。大変だった。操さんごめんね。――ところで、今日は15時におそばが出た。ボランティアだそうだが、操さんは食べられなかったが、私のところに塩田さんがもってきてくれた。嬉しかった。そしておいしかった。いままでに食べたことのないような粘り気のある麺とスープの味だった。全体にそのおいしいスープの臭いがたちこめていた。21時30分に私が帰る時、そばを調理したグループホーム棟には、そのおいしい臭いがまだたちこめていた。

2007年12月12日(水) 昼食ははやしライスだった。見青さんはよく食べた。この頃ジュースバーがないのでぶどうジュースにしている。14時36.6度、15時36.8度、15時30分に起こしてくると36.4度、21時36.6度。今日から操さんの鼻をつまんで食べさせるのはやめにした。味噌汁も食べ終わってから飲むことにした。操さんがいつまで飲み込んでくれるかが心配だ。

2007年12月13日(木) 今日はうどんだった。少し遅く行ったら、少し食わせてもらっていた。私が食わせると恐ろしくむせた。痰が大量にたまっている、という感じであった。かわいそうであった。一服してから、また食べ始めた。14時30分に36.7度――これは高すぎる――、運動後17時36.2度、18時37.7度、18時30分37.6度で、夕飯を食べ始めた。なんとか食べられた。20時30分37.3度、21時37.2度としだいに下がってきている。操さんは、寝かせたとき、せきをして多量の痰を排出したようだった。

2007年12月15日(土) 下水の工事で9時から排水禁止であるので、私は9時までに終えた。そこで郵便局に行ってお金を出してから、操さんの支払いをした。11時40分くらいに着いた。今日はお風呂だった。部屋の中は暖かく、暑いくらいだった。そのためか操さんは気分よさそうだった。十分に体操をした。14時36.5度、14時36.7度、体操した後18時36.7度でよい状態だ。21時36.8度だった。外は寒いというのに、部屋の中は暖かく、操さんのお手手は暑かったので、毛布一枚にして帰った。

2007年12月17日(月) 下水の工事が9時から始まるので、私は、家の片付けをし、エアコンのフィルターをいれてから、操さんのところに11時30分頃行った。操さんは前こごみだった。寒かったのだ。きょうはエアコンが入っていないので寒かった。14時に36.0度だった。15時36.5度になった。運動後、ここで体温計の電池がなくなった。

2007年12月18日(火) お風呂だった。36.7度、36.8度  36.5度   36.7度 

2007年12月19日(水) 私が行くと、昼食はなかった! 私は体操して、ジュースを飲ませた。暖かかった。14時36.8度、15時36.8度、体操後17時36.8度、18時36.8度、21時36.8度、と快調だった。気分の良さそうな顔をしていた。ベッドが置いてあったので、何回も屈伸をした。

2007年12月21日(金) 14時36.5度、運動後17時36.5度。18時36.5度、21時36.4度。今日は寒かったので三枚かけてあげた。私が「操さん!」と呼ぶと、操さんのかわいいお目目がぱっちり開いたのであった。今日もよく食べ、よく飲み、よく運動した・・・。

2007年12月23日(日)14時36.8度、15時36.8度、体操後18時36.5度。この頃ベッドで毎日屈伸運動ときちんとすわることをやっている。夕飯はおいしそうな香りのする魚だった。操さんはたくさん食べ気分良さそうな顔をしていた。歯を磨いたあと、操さんはいっそう気分の良さそうな顔になった。21時36.5度。お目目ぱっちりだった。操さんも私も、少し前までは、薄い色の便だったのであるが、このごろ濃い色となってしまった。

2007年12月24日(月)14時36.8度、15時36.9度、運動後17時36.5度、21時36.5度。

2007年12月25日 私は、昨日寝たのが6時だったので、目覚まし時計の音も目を覚まさなかったようで、12時に起きた。私は、操さんの食器を冷蔵庫からとり、トイレにも行かず向かった。12時30分頃つき、昼食はまだあった。それを食わせてから買物に出かけた。ベルグの駐車場で食べてからGSに行き1万円分の給油をした。戻ってきて、操さんに牛乳とコーヒーを飲ませると吐いてしまった。ビニールで受け止めたので被害はなかった。操さんは夕食も食べ、お茶も飲んだ。しかし、意識はもうろうとしていて、おむつ交換のとき立たせると倒れてしまった。その後は歩くことができたが、だんだん歩けなくなっていくようだ。17時36.5度、21時36.度。20時ころから操さんはお目目をぱっちり開けていた。

2007年月12日30(日)きのうはひどいこと言われた。何もおかないでくれということだ。あずかることはできない、車に置いといてくれ、というのだ。私は、私の車椅子にすべての荷物を乗せる、という提案をしてなんとか切り抜けた。なんとも世の中恐ろしいものである。このアイデアがなければ、とんでもないことになっていた。やはり、知は自分を救うのである。それから私は、車椅子に荷物を乗せるための工作をした。17時だった。そして今日、私はリュックサックを買ってきて、亀田さんに頼んでダンボールとはさみとひもとガムテープを借り、車椅子の荷物を乗せるところの改良をした。この作業中に立ちくらみがした。疲れているのである。操さんは夕飯を食べると眠り、暖かくなった。全身が暑かったが、体温は36.9度(二回測った)で正常だった。

2007年月12日31(月)きょうは遅く言ったので昼食を下げられてしまっていた。かわいそうだ。きっとまたあいつなのだ。下痢便をしていたので交換してもらった。足元まで尿がたれていたので、探ってみたら、パンツから便が漏れていて、私の手についてしまった。小泉さんに操さんをもっていてもらい、私は手を洗ってきた。おむつ交換をして、ズボンを取り替えた。その後ジュースを飲ませた。15時36.7度、体操して爪切った後36.4度、21時36.7度だった。夕食はおそばだったので大変だった。しかし、よく食べられた。これで、今年は終わった。操さんは、歩くことも困難になってきた。どうなってしまうのだろう・・・。

2008年1月1日(火) 今日はお風呂だった。15時36.8度、運動後17時36.4度、21時36.6度。今私は、数年前に買った社会心理学の本を読んでいる。これがはじめはばかにしていたのだが、なかなかおもしろい。しかし、荷物を置くなと言われて、今では小さいリュックサックになってしまい、大事な本を持ってこられない。しかし、もうこのような本を読むことはないだろうし、パソコンももってくることはない。よかった、もし1年前にこのような事態、つまりあのような危険な入所者がはいってきたなら、と考えると私の運命に感謝するのである。重要なところは全て完了した。私は、いつも危機一髪で救われる。帰りのラジオでは、貧困者の実態が生生しく語られていた。派遣社員が増え、働いても生きていけない者が増えている。

2008年1月2日(水) 行くと昼食がなかった。またやられた。15時に37.1度、17時に37.4度、21時に36.5度。夕飯はよく食べた。桜井は、大騒ぎだった。私はなんとか21時30分に帰った。

2008年1月8日(火)今日はお風呂だった。昼食はあった。14時36.5度、16時36.7度、体操後の17時36.4度、21時36.4度!だった。夕飯のときの味噌汁はたいそうむせた。そして、歯磨きのときにむせてはいてしまった。ビニールでなんとかキャッチした。味噌汁はやめることにした。明日は喧嘩になるかもしれない。私は社会心理学の本を読み終え、逆境指数の本を読んでいる。

2008年1月9日(水) 昼はたぬきうどんだったが、操さんは気分が悪そうであまり食べられなかった。なかなか飲み込まないのだった。ずいぶん頭を叩いてしまったが、かわいそうだった。15時に37.0度あり、異常を感じた。その後、ジュースを飲んだが吐いてしまった。18時には37.4度であった。私はいつものことと思い夕飯を七割くらい食べさせた。その後歯磨きをしたがまた吐いてしまった。寝かせると体温は上がってきて、37.6度、38,1度となった。操さんは苦しそうだった。どうしたらよいのだろう?!!!?

2008年1月10日(木) 私が行くと操さんは車椅子で熟睡していた。体温は36.6度だった。昼を無事に食べてジュースも飲んだ。15時に36.7度。15時30分に36.8度。体操後17時に36.4度18時に36.4度。夕食中にむせてまた嘔吐しそうになったが、かわいそうに出てきたものを何度も飲み込み何とかおさまった。通常の3分の2食べたところで終了した。歯磨きは用心深く行い成功した。

2008年1月11日(金) 操さんはこの頃おかしい。今日は歩いているとき、便が出た。昼食は食べジュースを飲んだ。15時36.6度、14時36.8度で正常だった。体操した後、なんと36.1度だった。18時には36.5度となった。夕食は食べられたが。または磨きで少し吐いてしまった。この三日何かおかしい。21時36.6度。かわいそうだ。どうしたらよいのだろう。

2008年1月12日(土) 今日はお風呂だった。操さんは気分の良さそうな顔をしていた。15時36.3度、16時36.7度、体操後の18時36.5度、21時36.5度。歯磨きは無事終わった。体操は30分くらい多めにやった。夕飯は飲み込みが悪くて苦労した。

2008年1月13日(日) 今日は新春演芸会であった。車椅子に全ての荷物を乗せているのでまったく困らない。昼食は居室で食べた。よく食べた。15時36.7度、体操語の17時35.9度(!)、18時36.5度、21時36.9度。夕飯は次第に飲み込みが悪くなって困った。歯磨きはブラシの中の水をよくきって口に入れた。なんとか吐かないですんだ。その後、暖かいところにおいてあげた。

2008年1月14日(月) 操さんは元気良かった。昼はよく食べた。昼寝のとき、音楽を聞かせると、げらげら笑っていたっけ。15時36.7度。夕食はよく食べた。味噌汁も半分飲んで、私が半分飲んだ。歯磨きはよく歯ブラシの水をきって行なった。たくさんの水が入っていて、これが悪かったのだ。その後、暖かいところに操さんを置いといて、食器を洗い、飯をくった。操さんは温まっていた。21時36.8度でよく暖まっていた。操さんは、お目目ぱっちりであった。

2008年1月15日(火) 昨年から家のかたづけをしようと思っているのだが、「いじめられる者について」の追加、修正で何もやっていない。もう一ヶ月以上これにかかっている。15時36.7度。夕食後、暖かいところにいたら、気分のよさそうな顔になった。

2008年1月20日(日) 操さんは、私が11時40分ころ行くと、疲れきった顔をして寝ていた。――操さんは、昨日、38.4度の熱を出して、夕飯も食べられなかったのだ。38.3度の熱のある操さんを、18時30分に車椅子に乗せ、りんごジュースを飲ませた。19時まで熱を測り続けたが、38度以下にならない。それで私は夕食をあきらめて寝かせた。そして、20時50分にまた車椅子に乗せジュースとお茶を飲ませた。――そして今日、操さんの熱は36.0度だった。私は、操さんを少し歩かせた後、ゆっくり昼食を食べさせた。14時30分に寝かせ音楽を聞かせると、操さんはげらげら笑っていた。元気になったということだ。やはり私がいないとだめだ。14時に36.5度、体操もよくした。暖房もよくきいていて暖かかったので、操さんの手は暖かかった。顔色もよく、にこにこしていた。21時には36.7度という理想的な体温になっていた。私は満足した。

2008年1月22日(火) 今日も操さんはよく食べられた。夕食はおいしそうな八宝菜であった。味噌汁は私が飲んだ。その後は磨きして、暖かいところに置いておき、私はカップの洗浄をした。そして、暗い片隅でカツ丼を寂しく食べた。この光景を笑い話として思い出す日がくるのであろうか? 操さんはよく暖まっていて気分良さそうだった。寒いときに暖めてあげることは最高のサービスなのだ。操さんはにこにこしていた。手も足も温かかった。私は満足して帰った。

2008年1月24日(木) 14時30分36,7度、15時36.9度、14時10分36.8度で正常と判断。21時36.4度。夕飯を食べ、歯を磨いた後、暖かいところにいた。足も手も暖かくなった。操さんの痴呆は進んでいる。

2008年1月26日(土) 昨日も今日も、夕飯を食べ、歯を磨いた後、操さんを暖かいところに置いておく。21時頃には、操さんの手足は暖かくなっている。操さんは気持良さそうに眠ることが出来るのである。これこそが最高のサービスではないのではないか? 21時には暖まって、体温は36.8度だった。外は極めて寒かった。

2008年1月27日(日) 昼食は終わっていた。足のマッサージを多めにしてからジュースを飲んだ。14時30分36.7度、15時30分36.8度。夕飯を食べているとき、「操さん」と呼びかけると、「はい」という返事が返ってきた。歯磨きした後、暖かいところに置いておいた。操さんは、眠っているのかと思ったが気分の良さそうな顔をしていた。私が夕飯を食べ、歯を磨いた後、操さんを寝かせようとすると、にこにこしていた。お目目はぱっちりであった。私はうれしかった。体温は36.5度であった。外は寒く、低温注意報が出ていた。

2008年1月28日(月) 15時に37.1度で、その後37.6度まで上がった。ジュースを飲んだあとの17時には、36.9度であったので夕飯は食べた。その後37.1度に上がり、21時にも37.1度だった。操さんは気分の悪そうな顔をしていた。ハアハア呼吸をして、苦しそうだった。お目目はつぶっていた。

2008年1月29日(火) 今日はお風呂だった。操さんは気分の良さそうな顔をしていた。15時36.7度、15時30分36.8度で屈伸体操してから、ジュースを飲んだ。夕飯もよく食べられ、気分良さそうだった。21時には36.7度で、お目目ぱっちりでにこにこしていた。手足は暖かかった。

2008年1月30日(水) 14時30分36.7度、15時分37.0度、15時30分36.9度、17時36.8度。今日は内田さんからいやなことを言われた。やがて21時までいられなくなってしまうそうだ。どこかに移らねばならない。また逆境がきた。桜井問題のすぐ後に、こんな問題が控えていたのである。操さん、どうする?

20081月31日(木) 操さんは昼食の後りんごジュースを飲んだ後に、少し吐いてしまった。きっとむせたのであろう。そると大騒ぎになり、ノロウィルスかもしれないと言われ、隔離されてしまった。熱は36.7度であった。夕飯は寒い居室で毛布をかけて食べたね。しかし、操さんの手は暖かくなっていった。そして、足も寝る頃にはあたたかくなった。それまで元気のなかった操さんは、21時にはお目目ぱっちりで、げらげら笑っていた。よかったね!

2008年2月1日(金) 行ったら寝ていて隔離されていた。操さんは元気だった。36.1度だった。午前中は飲まず食わずみたいだった。お茶を飲ませて食べさせた。良く食べた。14時30分36.7度、17時37.0度だった。夕飯もよく食べ、21時には36.5度で元気だった。

2008年2月2日(土) 私が行くとまだ寝かせられて、お風呂にも入れてもらえなかったみたいだった。おむつの中に手を入れていた。その手を拭いてあげると、何かがついてきた。私はそれを便だと思って、パッドと取り替えてもらったが、便は出ていなかった。それは血であった。あそこがかゆくてかいていて血が出てきていたのであった。今までもたびたびパッドに赤い血が見られたが、かきむしったあげくの出血だったのである。私はポリ手袋をもらいメンソレータムをぬってあげた。今までもたびたび見られたあそこの部分を左手でかきむしることは、その後なくなった。かゆかったのである。かわいそうである。もっと早く気がついてあげればよかった。ズボンの上からかきむしっていたのは、実際かゆかったからなのだ。

2008年2月3日(日) 今日は雪だった。操さんは行くと眠っていた。昼食は、操さんの頭叩きながらなんとか食べさせた。14時36.4度、15時30分36.7度でよい。体操してからジュースを飲み、30分歩いた。17時36.4度、18時36.5度でよい。19時30分に帰った。弁当はベルグの駐車場でたべた。おもしろいクラシック音楽の番組をやっていた。

2008年2月5日(火) 今日はお風呂に入ったみたいだ。操さんは車椅子で眠っていた。暖かかった。この頃、室内は汗をかくほど暖かい。昼食は楽に食べられた。おむつ交換の後、私は操さんのあそこにメンソレータムをぬってあげた。14時30分36.7度、16時36.7度(絶好調!)。夕飯前に30分運動した。夕飯はよく食べた。歯を磨いた後、おむつ交換をし、亀田さんによくあそこを拭いてもらった。それから操さんのあそこにメンソレータムをぬってあげようとしたのだが、浅野さんや桜井の妨害に合い、操さんを倒してしまった! 私は、操さんに異常がないかどうか確かめるために少し歩かせた。だいじょうぶなようなので、操さんのあそこにメンソレータムをたっぷりぬってあげた。それから操さんに毛布をかけて暖かいところに置いた。21時には、操さんの手足はぽかぽかで気分の良さそうな顔をしていた。私は満足だった。やれやれである。体温は36.5度だった。

2008年2月7日(木) 操さんは気分悪そうだった。昼食はうどんだったがなかなか飲み込まなかった。15時に37.0度で、これは異常だ。その後38,2度まで上がり、18時三〇分に37.8度に下がった。夕飯を食べさせたが、なかなか飲み込まず危険なのであきらめた。21時に37.2度だった。

2008年2月8日(金) 昼食は食べたがジュースを飲んだ後少し吐いてしまった。14時三〇分36.7度、14時36.8度で、便が三日ぶりで出た(看護婦さんが出してくれた)。夕食は食べ、暖かいところに置いておいた。手足はぼかぼかだった。寝かせるお目目ぱっちりさせて大きなあくびをかわいくしていた。36.7度だった。

2008年2月9日(土) 今日はお風呂だった。昼食は無事食べられ、あそこにメンソレータムぬってあげた。15時36.7度、14時36.7度、長時間の体操後の18時36.9度。夕飯食べた後、操さんを暖かいところに置いておいた。手足は暖かくなっていて、気持良さそうだった。お目目はぱっちりだった。21時36.7度。

2008年2月21日(木) 今日は銀行に行ってきた(残り1550)。今日の昼食はそばであり、きざんだり、大変だったがなんとか食べさせた。昨日から、操さんは夜布団と毛布をかけると、左手で布団を払いのけようとしている。暑いのだ。私は、毛布と布団だけにして帰る。

2008年3月23日(日) 操さんはこの頃、痴呆は進んできたが、熱は出ない。毎日屈伸運動している。夕飯のときには、左に大きく傾き、目は閉じている。しかし、21時頃になると気分良さそうな顔になる。寝かせると、「うふふ」と笑っている。お目目はぱっちり開けている。体温は36.7度である。ご飯を食べるときに、上を向かないようにする台を高田さんに作ってもらった。むせなくなり、20分で食べられるようになった。

2008年4月14日(月) 4月4日(金)に桜井問題の会議が開かれ、我々はグループホーム棟に移ることになった(4月5日(土))。また、五月より19時30分で帰らなければならないことになった。その後、操さんは39.3度の熱が出た。それは21時頃で苦しそうな呼吸をしていた。かわいそうだった。さらに私は腰痛に苦しんだ(すぐに治った)。その後は35度台の低温となった。しかし4月13日には37.4度の熱が出ていた。今日は36度台であった。グループホーム棟はきわめて美しかった。今日の21時では36.4度だった。操さんの痴呆はどんどん重くなって行く!

 

 

それから3年後、操さんは死んでしまった。