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うひょひょ

第一部  第一章 人間の魅力・エロティック・強さ・幸運に関するエッセイ

第一部 第一章 人間の魅力・エロティック・強さ・幸運に関するエッセイ

――相手を酔わせ、恐れさせることのできる麻薬の保有者は成功する――

 

一.はじめに

人から好かれる者は、どんなことをやっても良く解釈されることが多い。一方、人から嫌われる者はその逆である。どのような行動も良く解釈することは可能であり、誰もが納得するよう論理をつくることはできる(あばたもえくぼ)。また、その逆も言える。社会の中では人から好かれないと、どんな良いことをやったとしてもうまくいかないのである。「人を魅惑するもの」をもたない者は、嫌われたり、無視されたり、いじめられたりする。虐待やいじめの原因は、「被害者が他人を魅惑する要素がなかった」ということに尽きるのである。だから、まず初めに「人に好かれる」ということを検討することが絶対に必要なことなのである。人を魅惑する能力について理解することができると、人に嫌われる原因が、「その能力の欠如にあるだけのことである」と理解できるのである。そこで本章では、相手を魅惑する能力にまつわる話を集めてみた。

魅力というものは、食べ物にたとえれば味であり香りである。我々はうまい味のもの、よい臭いのするものに魅惑される。うまい味がして、誰もが食べたくなってしまうような者が魅力ある者なのである。我々は自分の味をコントロールすることができない。化粧などでコントロールしようとすることもあるが、そんなものではコントロールできないものをここでは問題にしている。

人の中で生きる上で、この「味」の差は大きい。誰もが迷いなくおいしい方を取るからである。人に好かれるのは、その行動ではなく先天的なもの・その人固有なものなのである。集団の中でうまくいかない者、結婚できない者などは、相手を魅惑する何かが欠落しているのである。この欠落は、我々の努力などでは埋めることができないものなのだ。

魅力というものは、我々の細かいやりくりとか、気づかいなんかから生まれてくるものではない。その体から本人の意志とは関係なく出てくるものなのだ。魅力的な者はどこから見ても、人を引きつける。その声も、しゃべり方も、しぐさも人を魅了する。しかも、彼女や彼らはそれを意識してやっているわけではない。無意識にやっていることが、――無意識にやっているからこそ――相手を魅了してしまうのである。

私の話をさせてもらうと、私は小さいときから相手にすぐ飽きられてしまうのだった。初対面のときにはよくしゃべってくれた相手も、二度目、三度目となっていくと、しだいに私を相手にしなくなっていく。その相手は他の人にはよくしゃべりかけているのに、私からは逃げるようになってしまう。昔の私はこれがどうしてかわからなかった。誰からもよくしゃべりかけられ、永きにわたり飽きられない者は、相手を常に緊張させるものをもっているものだ。私にはそれがないのであった。小学生のとき、私は遊んでいた友達から、「君と遊んでいてもおもしろくない。君は頼りない」と言われた。これで、私がいかに魅力のない人間であるかを思い知ったものだ。その当時の私は、人から好かれる者の行動をまねすることで、人から好かれるようになろうと努力した。中学校のときには、人からバカにされないようにするために、けんかも多くやった。しかし、何の効果もなかった。我々にとって最も重要なものは、その全てが、我々にはどうしようもないものなのである。このことがわかってきたのは、相当大きくなってからだ。我々には、その人がどうして人から好かれるのかはわからない、つまり、そのメカニズムを解明することは不可能である――それだから、努力で魅力を手にいれることはできない――、というアイデアに到達した。つまり、生まれつき人から好かれる者と好かれない者がいるという簡潔な回答であった。人から好かれない者は好かれるようになっていない、ということだ。あらゆるものにとって、魅力とは《本体以上》に重要だ。料理でいえば味であり、香辛料である。この香辛料は昔、本体以上に高い値で取引されていた。料理には香辛料が必用で、これがない料理は売れない。そして、人間には魅力が必要で、これがない者は人から敬遠されてしまうかたわ者なのであり、人の中に入ると、びっこをひきながら歩かねばならず、苦労することになる。

私は自分にないものはあきらめ、自分の得意なものの中で生きていくことにした。総和ゼロの法則によれば、何かが劣っていれば、その分他のところが優れているものだ。自分に合う土俵は必ずあるものだ。生まれつき魅力がある人と同じ土俵で戦っても、勝てるわけはないのである。

序文でも記したことだが、「急がば回れ」というのがある。今、困っていることに対する対策を考えるより、別な道、一見遠回りに見える道を選んだほうが、かえって良い結果になることが多い。人間関係に悩んでいる人は、良い機会だから「人間の魅力」についてよく調査したほうがいい。困ったときには、場当たり的な行動をせずに、いろいろなことを丹念に整理してみるのだ――家庭内に困ったことが起こったときには、片付けや何かの整理を丹念にすると、心が落ち着くのと同じだ。未知のものは異様に美しく、あるいは恐ろしく見えるものだ。しかし、よく知るとそうは見えなくなる。あらゆるものは、よく知るとつまらないものになってしまうのである。知らないことは不安である。不安は我々を弱くする。よく知った者にとって、対策は以外に簡単に見つかるものなのである。

我々の意識は、対象が目の前にあればそれが魅力的であるかどうかをたやすく判断することができるが、逆に、「魅力あるものとはどのようなものか?」ということについては何もわかっていない。つまり我々の意識は、その判断のメカニズムをまったく知らないのである。我々は、それがわからないのに判断できてしまうのである。フロイト流に言えば、それらは、我々の意識の関与できないところ(無意識あるいはエス)で判断され、我々に届けられるというしかないのである。

であるのでこの章では、魅力というものに関するくだらなく役に立たない論理的な探求は避け、多くの実例とそれに対する私の解釈を断片的に示し、魅力という《不気味な生物》の姿を静かに観察してみることにする。

 

二.人から好かれない者にはスポンサーはつかない

人間のあらゆる成功の背後には、その者が実力を発揮できる場を提供したパトロンが必ずいるものである。もしこのパトロンがいなければ、我々は、自分の能力を発揮できる舞台に立つことができないのであり、どのような能力があったとしても何もすることができないのである。あの大作曲家ワグナーも、バイエルン国王というパトロンがいなかったならば、あのような大きな仕事はできなかったであろう。組織などで出世する者は、必ず上司に好かれているもので、それは《生理的に好かれている》と表現するのが正確だろう。つまり成功者とは、自分の運命を左右する者を《生理的に魅惑する》能力があった者なのであり、女性なら性的な魅力が最強の武器になるのである。我々の最終的な行動や判断は、けして理性的なものではなく、結局我々は、生理的(本能的)なものに振り回されてしまうのである――立派な職についている者の性的犯罪が多いのもこのためである。社会的成功者は、全て自分の運命を左右する有力な者に《生理的に》好かれた者である、と言ってもよいのである。このことは、実力はあってもまったく報われない者が大量にいる、という事実から疑う余地がないのである。

理性的なものは、むき出しにして人目にさらすことがし難い我々の醜い正体を隠すために利用されるだけである。もし、我々がこれらの正体をむきだしにしたなら、人間の中の争いは増大し誰もが平和に生きられなくなってしまうだろう。しかし、我々のこの醜いが承認しなければならない正体を、悪いもの、そうあってはいけないもの、なくさなければならないもの、としてしまい、よく調べようとしない者が大多数を占めていることは確かなことである。

どこかで聞いたことがあるのだが、自動車レースのF1の世界でも人間的魅力の効果は大きいそうである。アイルトン・セナより優秀な人はたくさんいるそうだ。しかし、彼らは舞台に立つことすらできないのである。だから実力を示せないのだ。F1ドライバーは恰好いいやつばかりだろう。スポンサーに認められるには、実力と魅力の両方が必要なのである。どんなに実力があっても、魅力がない者にスポンサーはつかない。どちらにしようかな、と考えたとき、よほどの実力差でもないかぎり、自分の好きなほうを選んでしまう。日本人としては初めてF1ドライバーに選ばれた中島悟氏は、人好きのする人だ。このとき、星野氏も候補に挙げられたらしいのだが中島氏が選ばれてしまった。二人の腕は同等であろう。しかし失礼ながら、中島氏のほうがはるかに魅力的であることは確かである。

我々はおいしいものを食べたい。本能はそう言っている。しかし、理性はそれを隠さなくてはいけないと思っている。だから、このような地下的な動きはなかなか公にはされない。しかし、ここぞというときに出てくるのは、理性でなくこの本能なのである。たとえば教育委員会の会長が酒気おび運転で逮捕されたり、不法投棄撲滅運動の中心的人物が会合の帰りに車の窓からタバコの吸殻を投げ捨てたりという具合に、我々はそんなに長くお利口さんではいられないのである。我々は、本能の醜さを隠さなければならないという切迫した《さらなる高度な生理的欲望》により、理性という道具を生み出したのである。理性と呼ばれる「良い子」は、このような理由により作り出されたものなのである。それは実在するものではなく、本能の自然な《悪くも良くもない行為》を悪行とする、たとえば宗教的立場から我々が作り出さねばならなかったものなのである。

人間の中で生きるには、単に仕事ができるだけではだめだ。仕事ができても、仕事がなければ何もできない。仕事を誰かがやらせてくれるからこそ能力を示すことができるのである。まず仕事をもらうという能力、つまり、自分に仕事をくれる上位の者に好かれるという能力が必要であって、これがない「かたわな者」は大成できないのである。

二〇〇五年にプロ野球チーム「楽天」の二人目の監督として、野村氏が選ばれた。結局、若い人ではなく実績のある人になってしまう。優秀な人はたくさんいるだろう。しかし、実績のある人は少ない。だから、才能と実績をもつ数少ない人たちがいつも繁盛してしまう。では、実績はどうしたら積めるのであろうか。まず、監督にならなければ実績は積めない。つまり、誰かに監督に選んでもらわなければならない。技術が優秀である以上に、選定者に好かれることがまず大事なのである。好かれている者はけして捨てられないのである。

スポーツ選手の場合、引退後、TVの解説などで活躍している人もいるが、仕事がなくなり自殺してしまったり、おかしなことに手を出して警察のやっかいになってしまったりする人も多い。引退後も人の中でうまくやっている人は、見るからに人好きがすることにお気づきだろうか。選手時代の成績にはあまり関係なく、人好きのする者は進んで拾い上げられる。世の中でうまくいっている者には全てパトロンがついているのである。「あいつのめんどうをみてあげよう」さらには「あいつのめんどうをみたい!」という欲求を相手に起こさせる者は一生幸せに生きられる。それは、その者が魅力的であったということにつきる。このパトロンの非利己的に見える行為は、実は、そのパトロンがその魅力的な者を支配して優越を感じたい、感謝されたいという利己的な考えによっているのである。パトロンはその者を喜ばせてあげる代償として、必ず何かを得ようとしている。それはたいていの場合、優越感という快感である。これは母親の母性愛と同じである。相手が魅力的であればあるほど、この快感は大きくなるのである。

ブルース・リー主演の映画ドラゴンシリーズにノラ・ミャオという女優がよく出てきた。それは、ブルースに好かれていたからだ。彼女はかわいくて美しかったが、ブルースが死んでからは、表舞台から消えてしまったらしい。前に、有力なパトロンにかこわれていた者の場合、そのパトロンがいなくなると、次のパトロンはなかなか見つからないものだ。というのは、彼女には前のパトロンの臭いが残っているからだ。誰でも、相手を自分だけのものにしたいし、新鮮なもののほうがよいものだ。

吉村作治氏は、早稲田大学の有名なエジプト学の先生である。彼はちょびひげをはやした人好きのする人であり、数多くのTV番組に呼ばれている。確か二〇〇五年だったか、NHKのラジオで彼の自伝が朗読されているのを聴いた。職人の家庭で育ったことから始まり、早大に入りエジプト学に没頭して、やがて教授になる。この話を聴いていて――私は全てを車の中のカーラジオで聴いた――、彼のこの成功は、彼が人から好かれることによっているということがよくわかった。だから、大学の先生方は彼を選んだのであった。もし、同じ事を私がやっていても、私は選ばれなかっただろう。やったことよりも、その人が重要なのである。二〇〇五年、アメリカ合衆国では、ブッシュ大統領が重要なポストを「彼が好きな者」で固めていると批判されていた。しかし、これは誰でもやっていることだ。吉村作治氏が順調な人生を歩めた原因の大半が、彼の人好きがする性格、外観のためであると言える。彼の実力が彼を救ったのではなく、彼の魅力が実力を発揮できる舞台を用意してくれたのである。我々は魅力がなければ、実力を発揮できる機会をも与えられないのである。有名な哲学書ニーチェツァラトゥストラ」(手塚富雄訳、中央公論社)の中では、この問題が次のように簡潔に言い表されている。

 

*友らよ、君たちはいうのだな、趣味と味覚は論争の外にあると、しかし生の一切は、趣味と味覚をめぐる争いなのだ。

 

しかし誰もが、「私が好きだから彼を選んだ」などとは言わないで、「彼がふさわしいから選んだ」と言う。これは、我々が自分でも本当の動機に気がつかないか、そのようなことを人に言えないので「道徳的な理由」を作り出し公表するのである。つまり、偽装するのである。趣味、嗜好で公の判断をした、つまり体の要求に従ったなどとは言えないからだ。我々の行動は、全て趣味、嗜好によっているのであるが、それにはすぐに「理性の仮面」がかぶされてしまい、中の仕掛けが容易に見られないようにされてしまうのである。我々はこの作業を本能的に、無意識にやってしまうので、自分でもわからないことが多いのである。「理性」とは、いつも情念・生理的欲求(本能)に支配されている不安定で何の地盤もない小船(以下のニーチェの著作からの引用文における「ある衝動の道具」)でしかないことを忘れないでいただきたい。

我々のどのような行為にも、必ず利己的なものが、以下に示す引用文でニーチェの用いた言葉で言えば「自分の生の保持のための生理的要求」が隠れているものだ。我々のあらゆるまじめで誠実で理性的に見える仕事や行為も、実は、我々の個人的な趣味・嗜好に支配されているものなのである。このことを格調高く言っている文章を、有名な哲学書ニーチェ善悪の彼岸」(信太正三訳、筑摩書房)より引用しよう。この本は、一八七五年生まれのドイツのノーベル賞作家トーマス・マンが「ドイツ一の名文」と評したそうだ。文章中の「・・・」は、中略を意味する。

 

*たっぷり時間をかけて哲学者たちを綿密に吟味し仔細に観察したあげく、私は次のような考えをいだくにいたっている。――われわれは、意識的な思考の大部分を、やはり本能の活動の一種とみなさなければならない。哲学的な思考でさえもその例に洩れない。遺伝や《天性》に関して学び直したように、この点でもわれわれは学び直さなければならない。分娩のひとこまが、遺伝の経過と継続の全過程のなかにあっては問題とならないように、《意識している》ということも、何らか決定的な意味において本能的なものと対立したものではない。――ひとりの哲学者の意識的な思考の大部分は、彼の本能によって秘かに導かれ、一定の軌道に乗るように強いられている。一切の論理とその運動の見かけの自主独立性の背後にも、もろもろの価値評価が、もっとはっきり言うなら、或る種の生の保持のための生理的要求が、隠れている。それはたとえば、確定したものは不確定なものより価値があるとか、仮象は《真理》よりも価値がないとかいったような評価である。このような評価は、それがわれわれにとってどんなに規制力としての重要性をもつものであろうとも、だがしかし、それは前景的評価にすぎないもので、われわれごとき生物の保持のためにこそ必要となるような一種の愚劣事なのだ。・・・すべての哲学者を、半ば不信の念をもって、半ば嘲笑的に眺めたい気になるということは、われわれが何度となく彼らの無邪気さ加減を見抜くがためではない、――つまり、彼らがいかにしばしば、いかにたわいなく間違ったり迷ったりするかを、要するに彼らの児戯と子供っぽさを、見抜くがためなのではない、――そうではなくしてむしろ、彼らが充分に正直でないからなのだ。なにしろ、彼らは、誠実という問題がほんのちょっとでも触れられたとなるや、すぐさまこぞって大仰な有徳者振りの空騒ぎをやらかす。彼らはおしなべてみな、自分たちの固有な意見が、冷徹な、純粋な、神々しく超然たる弁証法の自己展開によって発見され、獲得されたものであるかのような振りをする。・・・ところが、実際をいうと、ある前提された命題、ある思いつき、ある《感悟》が、たいていは抽象化され篩いにかけられた彼らの胸中の願望が、後からこじつけた理由によって弁護されるのである。・・・これまでのすべての偉大な哲学の正体が、次第に私には明らかとなってきた。すなわちそれは、その創作者の自己告白であり、思わず識らずのうちに書かれた一種の手記なのだ。・・・実際のところ、ある哲学の極めて迂遠な形而上学的見解が、もともといかにして成立するにいたったかを解明するためには、いつもまず次のように問うてみるがよかろう(これが利口というものである)、――つまり、その哲学(その哲学者)は、いかなる道徳を欲しているか、と。それゆえに私は、《認識への衝動》が哲学の父であるとは信じない。むしろ私は、ここだけにかぎらず他の場合でも同じことだが、いま一つ別な衝動が認識を(また誤認を)ただ道具として利用しているだけなのだ、と信じる。・・・哲学者にあっては、非個人的なものは全く何ひとつ存在しない。とくに、彼の道徳は、彼の何者なるかということについての、確定的にして決定的な証拠を提出する、――換言すれば、彼の本性の最内奥の諸衝動が、どのような位階秩序において整置されているか、ということについての決定的な証拠を提出する。

 

以上のやや難解な文章において、ニーチェは、彼以前の伝統的哲学者たちが自分の固有な願望に応えるために、ある学説を称えなければならなかった、そして、その願望から出てきたことを隠すように、後からこじつけた理由で弁護する、ということを言っている。我々は生理的な欲求から逃げられず、それと無関係に理性的、非利己的に行動することはできないようになっているのだ。我々のあらゆる行動には、その人固有の、他人にはわからない願望の充足、不快の中和など、つまり生理的欲求に対する対処が見て取れるのである。しかし我々は、そのことが悟られないような理由をとってつけて、自分の生理的欲求や衝動といういやらしい――誰もがそう思っている――行動を隠そうとするのである。

ところで、それらの行動の原因たる衝動は、我々が選んだり、欲したりしたものではない。我々はその衝動にまったく関与していない。その衝動は呼び寄せもしないのに勝手に訪れてくる。我々はどこからか到来してくる衝動に身をまかせるしかない。この衝動は、我々にりっぱな仕事をさせることもあるし、恐るべき犯罪に走らせることもあるのだ。

同様に、相手を選ぶときでも自分の生理的欲求にしたがって選んでしまう。しかし、そのメカニズムは隠される。我々は自分の本当の内部事情を、相手に知られることを最も恐れる。それは、誰もが、そうなることが極めて危険であることを本能的に察知しているからだ。「あいつが好きだから選んだ」などと公表したなら、非難されることは確かだ。これは本書によって、これから検討されることになる重要なテーマである。

 

三.水戸黄門の魅力

水戸黄門というTVドラマはどうして寿命が長いのだろうか。二〇〇五年のNHKのあるラジオ番組で、この「水戸黄門」と「東山の金さん」と「暴れんぼう将軍」の三つが、一般大衆全般の人気を長く保てる時代劇として上げられ、その逆に良いできではあったのだが人気を長く保てなかった時代劇として、「木枯らしもん次郎」と「座頭市」が上げられていた。そしてこの二つのグループの違いがある程度明確に説明されていたが、私はその説明に満足できなかった。

二〇〇六年現在も続いている「水戸黄門」の人気について考えてみると次のように簡単なことになる。このドラマに魅力を感じる者は多くいる。しかし、魅力を感じない者もいる。これは、ある食べ物をおいしいと思うか、まずいと思うかと同じである。「座頭市」についてもそれと同じで、魅力を感じる者とそうでない者がいる。そして現実には、「水戸黄門」に魅力を感じ、「座頭市」に魅力を感じない者が多かったのである。このことは,たとえて言えば、カツ丼が一般大衆に人気があるのは、カツ丼の客観的なおいしさではない。我々がこの世にいなければ、カツ丼はおいしくもまずくもない。我々がカツ丼をおいしくしたり、まずくしたりしているのである。カツ丼が嫌いな者も少数ながらいる。しかし、大多数の者が好きなのである。これがこの食べ物の人気の説明なのであり、単にそれが好きな者が多いということなのである。カツ丼がどうしてうまいのかなどということは、論理的に、あるいは客観態に説明できるようなことではないのである。

水戸黄門」と「座頭市」の関係は、たとえば「流行歌」と「ジャズ」の関係に似ている。「ジャズ」に比べて「流行歌」の好きな者の数は断然多い。それは「流行歌」のほうが優れているからではなく、大多数の人たちは「流行歌」が好きであり、かつ「ジャズ」の良さがわからないのである。つまり「流行歌」に人気があるのは、それを好きな者が多いからであり、趣味の問題なのである。どんなに「ジャズ」が優れていても、大多数の趣味に合っていなければ商売にはならない。結局、一般うけするもの、大多数の趣味に合うものをメーカーは売ることになるのである。一般大衆には「座頭市」や「木枯らしもん次郎」の尖った・通人好みの・冷たい・高級なところについていけないのである。つまり、一般大衆は「甘いお菓子」が好きなのである。彼らは高級なものなど求めてはいない。高級なものは学問的には価値があるけれども、商売にはならない。「水戸黄門」は大多数の者の求めるもの、つまり趣味嗜好に合うものを提供したからこそ長く存続できるのである。

二〇〇七年現在において、レトルト食品の代表であるカレーにおいては、ハウスの「ククレカレー」(一五〇円)などの古参(二〇年以上前からある)が廃ることなく店頭に並べられている――私はこのククレカレーの甘ったるい味が嫌いだ。それに対して、私にとっては大変旨いと思われる意欲的で少し高価な(二五〇~三五〇円位)ものは、その寿命がきわめて短い。これらの通人好みとも思える高級な商品は、その出来栄えが良いのにもかかわらず、値段が高いせいもあってか、その見返りがあまりにも少ないのである。つまり、一般大衆はそんな「高級な味」などを求めていないのである。もしそれを求めているのならば、少しくらい高くとも買うはずだ。その味に価値を感じないということだ。もっと正確に言えば、その《内容・味・値段》に総合的に価値を感じないのである。良いものを作ったからといって売れるわけではないということだ。その「良い」とは一部の通人から見てのことであり、一般の者から見れば何も良いところは感じられないのであり、ただ値段が高いだけに見えるのである。売れる商品は、《内容・味・値段》において大多数を占める者たちの好みに合わせることなのだ。

我々の精神は趣味嗜好に支配されている。その者の趣味趣向に合ったものこそ、その者にとって価値あるものなのだ。「水戸黄門」は日本の大多数の者の渇望をいやしてくれるのだろう。この意味で「座頭市」や「木枯しもん次郎」などは、一般大衆の趣味とずれていたのである。優れていても、それを理解できる者が少数では商売にはならないのである。

 

四.理由は後からとってつけたものにすぎない

我々は何かの行動した後、その行動はある理由でやりました、と言う。しかし、それは違うのであって、我々の行動はそれが重大であればあるほど、論理的な思考はパスされて直感的に行なわれる。そのときの気分としては、単にそうしたくなったから、くらいのものでそれ以上は自分でもわからないものだ。しかし、我々はこれをそのまま言わない。美しい理由でその行動に化粧をする。大変な事態になればなるほど、論理的な思考は役に立たない。有能な者は皆、現場でいきなり直感的に判断できるのである。だから、それを説明することはできない。我々の判断は、我々の管理下にはないところで成立し、我々の意識はその作業に参加していないことは確かである。

あらゆる意味での魅力というものについても、これと同じである。どうして、それに魅力を感じるのかはわからない。魅力は作ることができず、ただ感じるだけだ。というのは、我々がどのようなものに魅力を感じるのかがわからないからだ。それがわからなくとも、我々は感じる。しかし、誰もが自分がどうしてそのものに魅力を感じるのかを、説明できると思い込んでしまっているのだ。魅力とは外部に確固としてあるものではなく、我々の思考形態の一つにすぎないのであり、そのため、これ以上の追求を不可能にするのである。

 

五.我々は魅力的な人のところへ行きたくなる

我々が困ったときに、すぐに相談したくなる人がいる。それとは逆に、あの人に相談してもしょうがないと思われてしまっている人もいる。我々が相談したくなる人は、必ずしも何でも知っている人ではない。なんでも知っていても相談したくない人もいる。人がよく相談に来る人の場合、二人の話をよく聞いていると、相談したい内容とは関係のない話が多いし、話は長時間になるものだ。一方、あまり相談をしたくない人の場合、相談に来た人は目的以外の話はまったくせず、ごく短時間で帰ってしまう。この場合、相談されている方は一生懸命なのに、相談している方はさめていて気が乗らないようだ。

我々は誰かに相談しようとしたとき、目的のもの以外のものを期待しているのである。ただ知っているだけではいけないのであって、「良い味」がしなければならない。それは、調味料、香辛料のようなものが多量に入っていなければならないということである。それが酒・タバコ・麻薬のようなものであれば、女性の場合ならセクシーであれば、さらに人を引きつけるのである。我々はそのような欲求から、けして逃れられない。どのようなまじめな状況でも、生理的な欲求や情念と無関係になることはできない。誰かのところに相談しに行ったとき、我々は、その大半を無意識的に相手自身を味わおうとしているのであり、相談すべきことなどはどうでもよくなってしまうのである。何でも知っていて、判断力があっても、良い味のしない者のところには人は集まらないものだ。

こういったわけで、我々はものを尋ねるときでさえも、おいしそうな感じの人を選んでしまうのである。

 

六.魅力ある者は、あらゆる戦いにおいてきわめて有利である

あらゆる動物、そして我々人間は、戦いの中に生きていると言える。我々と戦い、つまり、国同士の戦争、組織同士の争い、組織内での争い、人同士のけんか、いじめなどは切り離せないものだ。単純な一騎打ちならば、ただ力があればよいのだが、もっと複雑な戦いになると、人間的魅力というものが、いかに大きく勝敗にかかわってくるかがわかる。魅力的な人はいつも、勝利へのルートが用意される。それは、見方が多くいるからだ。そして、けしていじめられない。しかし、これがない者には、それが用意されないのであるだけではなく、いじめの対象にされる可能性もある。世の中において、他人に嫌われたり、バカにされたりするほど恐ろしいことはないのである。

 

七.我々は、自分が満たされているところでは鈍感になる

恰好いい者は、自分自身を他人が感じるほどは恰好いいとは思っていない。他人がうらやむものをもっている者は、自身はそれについて関心がないものだ。セクシーな――男性から見て――女性は、自分自身をセクシーであるとは感じていない。ただ周りからそう言われるのでそう思っているだけであり、自己体験として理解しているわけではないのである。彼女らは、むしろ他の自分に欠如しているものに関心があるものだ。肉体的に優れている女性は、自分の恵まれた生命力あふれるセクシーな肉体については、何も関心がなく、ひたすら痩せようと努めるものだ。恰好よさに一番敏感な者は、それが欠如している、つまり不恰好な者なのである。我々は何かを所有すると、それには魅力を感じなくなる。十分に優れた肉体を所有している者は、その優れた点に関してはまったく関心がなく鈍感になっているのである。

あることについて気にしている者、あるいは、あることについて気にしないように気にしている者は、それが欠乏しているのである。「そんなことはどうでもいい」などと言っている者は、どうでもいいなどとは思っていないのである。本当にどうでもよければ、そんな話題を出すことはないだろう。

魅力ある者は多くを語らない。欲求不満が少ないからだ。魅力ある者は、生理的にも社会的にもうまくいっている者なのである。しかし、そんな人たちも、生理的あるいは社会的にうまくいかなくなれば、たちまち魅力を失い、口数も多くなっていく。口数が多いのは、欲求不満という不快をそれで中和しようとしているからである。

 

八.我々は欠乏しているものに魅力を感じる

我々が何かを欲しがるとき、それが我々に欠乏しているのである。我々があるものを価値あるものと思うのは、我々にそれが欠乏しているからなのである。その欠乏が埋められたとたんに、それへの関心はなくなってしまうものだ。たとえばある人のことが気になってしょうがない場合がある。誰でも自分と同じ性格の者を好きになることはない。自分が欠乏しているものを相手がもっているときに、我々は相手に価値を感じるのである。しかし、それら自分に欠乏しているものが自分の身についたとすると、とたんにその相手に価値を感じなくなってしまうものだ。ある人と結婚したとたんに、この欠乏が埋められることもあり、彼は相手を捨て去りたい気分になっていく。この場合、離婚や暴力につながっていくこともあるのだ。

我々の欲望は、我々の固有の欠乏からくるものなのであり、いわゆる趣味、嗜好によるものなのである。これらは、他人の理解できるものではない。ところが、各人は自分の欲望が世界中で成り立つものと思ってしまっているのである。これがまた、争いの元となるのである。

 

九.相手にとって有用であることが魅力となる

アーサー・ブロック「マーフィーの法則」(倉骨彰訳、アスキー出版)に次のようにある。『友だちでいられる大事なことは必用であることだ』。つまり、全ては生きるために必要なこと、生理的な欲求に結びついているのであって、あの美しいもの、つまり愛とか平和などに関係しているわけではない。それら美しいものは、誰もがあこがれるが、実際の行動にはまったく関与しないのである。

我々はいろいろ気を使うが、それが何の役に立つのだろうか。我々は、我々に最も役立つ者に引きつけられるのであって、いままでの経緯などはまったく関係がないのである。人を引きつけるのは、現時点での相手の要求を満たすという意味での可能性のみなのである。どんな相手であっても、その人にこちらの求める価値がないとわかれば、我々は冷酷にもその人を捨てる準備を始めてしまうのである。たとえばのどが渇いたとき、「あの給水タンクの水を全部のんでやる!」などと本気で言うが、コップ一杯も飲むと、もう水など見たくなくなってしまうのである。いくら有能であっても、それが相手に必要なければ、人を引きつけることはできないのである。

 

一〇.パトロンがいなくなった歌手

一九七〇年代だったろうか、ちょうどニューミュージックという言葉が出てきた頃だ。Hという歌手が出てきて、曲はヒットして、TV番組への出演も多くなり、成功への道を歩むかに見えた。しかし、あるラジオ番組の中で、「Hは生意気だそうだ」と言われていた。オールナイト日本という深夜放送にゲストとして出演したときに、酒を飲んでいるらしい司会者(フォークソング歌手)は、彼を完全にバカにするような態度をして、まったく彼に敬意を表さなかった。私はこの流れに危険なものを感じた。順調にいく者には、このようなことはけしてなく、常に誰からも尊敬され、何を言ったとしても「生意気」などとは言われないものだ。そして実際、彼はメジャーの世界から消えていってしまった。順調にいく者は皆生意気であるし、言いたいことを言うが、周りの者がそれに不快を感じないのである。ところが彼の全体は、見れば見るほどなぜか周りの者をいらいらさせるのである。彼には、人間としても、歌手としても、音楽的才能においても相手を永く魅惑し続ける能力がなかったということなのである。我々は、相手に能力・魅力がないと判断するやいなや飽きてしまい、すぐさま切り捨ててしまうという《残忍で冷酷な本能》をもっているのである。彼のパトロンは、次々離れていったのであろう。彼には初めに期待されたほど人を魅惑するものがなかったのであって、そのため言いたいことを言ったとき、人は彼を「生意気」であると判断するのであり、この不快感という損害の穴埋めをするために、報復(いじめ、つまり生意気と言われること)がなされるのである。彼は現在(二〇〇六年)に至るまで、ついに復帰することはなかった。今後もないであろう。

 

一一.電車の中でのけんか

近くに来ただけで相手を緊張させてしまうような人がいる。その人が自分に話しかけてくるだけで、我を失ってしまうほどの迫力を感じる。応える声にも力が入り、声は強くかん高くなる。そして、その人が好きになってしまう。いつまでもいっしょにいたいと思うようになる。それとは逆に、話しかけられても応える価値をまったく感じず、早くこの相手とのやりとりをやめにしたいと思われてしまう人もいる。

ここで、私が高校のときに経験したおもしろく、恐ろしい事件の話をしてみよう。私は西部池袋線で、文京区にある低レベルの私立高校に通っていた。練馬駅から乗車し、江古田駅を過ぎたあたりで、高校生の大きな話声に腹を立てた男(A)がどなった。「お前らうるせいぞ!」。そして、その言葉をきっかけに、その男の怒りはエスカレートしていった。二人の学生はしょんぼりしてしまった。その男の怒りはどんどんエスカレートしていった。その男は四〇歳くらいで太っていて小さかった。そして、ここから驚きの展開を見せた。世の中何が起こるかわからない。その男が学生に怒りの言葉を《気持良さそうに》に浴びせかけて、独走態勢に入ったかと思えたそのとき、その近くにいたもう一人の男(B)がからんできた。その男Bは細く小さかった。小さいと言っても男Aくらいだった。しかし、声の調子は自信に満ちていて堂々としていて、落ち着いた低い声は恐ろしく響くのであった。男Bは男Aに攻撃した。彼は神のように、ドラマの主人公の台詞のように相手を威嚇し、間違いは何ひとつなく、男Aを圧倒していた。彼は男Aに「電車の中でさわぐな」と言っていた。これが彼、男Bの唯一の主張であった。男Aはめちゃくちゃ興奮して応戦した。周囲の者たちは(私も)大げんかが始まると予想し震えていた。しかし、男Bは男Aを完全に制圧し、コントロールしていた。男Aは「おれを怒らすとこわいぞ」と言うが、男Bは冷静に「どうなるんだよ」と質問する。すると、男Aは何も言えない。男Bの攻め方は全てを見通している。自分が完全に優位に立っていて全てを、コントロールできているという確信をどこからか得ているとしか思えない。起こること全ては、彼の想定の内にあったのである。それに対して、男Aの対応は自信がなく、場当たり的であり、迷いまくっていた。男Aが男Bに圧倒されている間に、電車は終点の池袋に着いた。それで終わりであった。周りの人も私もやれやれであった。男Bは何者であったのであろうか。彼は初めから恐れてはいなかった。全てを読んでいた。場当たり的な行動は何一つなかった。彼はやくざなのか堅気の人なのか、今となってはわからない。どう見ても、堅気の人には見えない。どう見てもけんかのプロである。いままでに幾度となく、このような経験をしてきた人なのではないのだろうか。朗々とした自信に満ち、力がぬけて落ち着いた低く美しい声のしゃべり方であった。男Aと比べて何もかもがはるかに上位であった。彼は戦いに入る前に、この勝利を知っていたのである。相手が自分よりも下位であることを知っていたのである。もし、相手が襲い掛かってきたならば、体力的に劣っている彼に勝ち目はないだろう。きわめて確実な何かを、彼はつかんでいたのである。それは男Aにも言えることだ。互いに、互いの序列を、人間の強さとしての序列を感じていたのである。だからこそ、男Aは攻撃できなかったのではないだろうか。互いに、互いの強弱関係について、正確な判断がどこかでなされたのであった。男Aはもっと攻めてもよかったのではないか。しかし、それができなかった。彼は謎の力により、それができなかったのである。ひょっとしたら、男Aは男Bに惚れこんでしまったのかもしれない。つまり、男Bの印象は、男Aにとって魅力的だったのである。彼の外観・声・しゃべり方は快感を与え、憎たらしく、不快な要素はまったくなかったのであった。彼のことを「生意気」だと思う者などは誰一人いないだろう。男Aも男Bのことを「生意気」だとは思っていない。男Aは男Bと戦う気がしなくなったのだ。男Bには憎たらしさがまったくなく、高貴な感じであり、友だちになりたいという気分を相手にもよおさせるのである。そしてそのことは、男Bにも、初めからわかっているのである。男Bには、このようなこと全体がわかっていたからこそ、あれだけの勇気が生まれたわけである。殴り合いは、二人が同等である場合に始まるものなのである。このわけのわからない力関係こそが、私の問題としているものなのである。相手に攻撃をさせない何かなのである。容易に踏み込めるところと、踏み込めないところが世の中にはあるのである。

 

一二.魅力ある詐欺師 

魅力ある者は、相手を「まじめ」にしてしまう。つまり、相手を興奮させ、真剣にさせ、何か対処をしなければならない、失礼なことをしてはいけない、嫌われてはいけないという気分を起こさせるのであり、これは有能な詐欺師と同じである。つまり、相手を、自分の軌道上の重要な基地としたくなってしまうのである。

 

一三.人から好かれない理由

悩みのある者は、その原因をひたすら自分の中に捜す。つまり、自分の中に悪いものがあるということが前提されている。まず、自分の中に悪い原因があると仮定しておいてから、その原因を捜すのである。自分を責め、いじめる。元々何もなかった体内は、悪でいっぱいになってしまう。

人から好かれないのは、けして自分のせいではない。我々は自分を完全に支配しているという考えは間違っている。生まれた国、生まれた家、性格、体形などの我々にとって重要な要素は、自分で選び取ったものではない。さらには、考え方ですら自分でコントロールしているわけではないのである。天才のインスピレーションはよく「どこからか到来した」と言われる。天才だけでなく、どんな人の、どんなつまらない考えも、全てはどこからか到来したものなのである。その原因は自分の中に見つけられないのだ。

 

一四.有能な者は限定して考える

私は「人は外観どおりである、つまり、中身が外観に出ている」と思っているし、「人の外観と中身は、驚くほど違っている」とも思っている。また、「十人の言うところは正しい」と思っているし、「十人の言うところ、それは偏見に満ちている」とも思っている。

これら二つの相反する判断は、どちらも十分価値のある判断である。ある場面では初めの判断が合うが、別の場面では二番目の判断が合うのである。音楽で言えば、ジャズ、クラシック、ポップスなどは良いところが相反している。

全てに成り立つものなどない。『ある者には薬となるものが、ある者には毒薬となる』(ニーチェ)。だから、いろいろなところに気を使いすぎたもの、知っていることを全て盛り込もうとしたもの、作者の将来のことを考えすぎたものは、たいした魅力をもたないのである。優れたものは、常に限定されたものであり、鋭く、視界が狭く、単細胞である。そして、それは限定されたところでしか力を発揮できないものだ。クラシックやジャズ音楽は、一部の選ばれた者しか魅了することができない。しかし、それだからこそ、その選ばれた者たちは、異常な快楽を得る事ができるのである。

 

一五.嘘について

我々は、自分では気がつかないほど多くの嘘をついているのである。というのは、我々は嘘をつくときに、それを嘘であると意識することのほうが困難であることが多いからだ。嘘とは、我々が生きる上において、きわめて必要なものなのであり、危ないところを渡りきるときには、絶対用いなければならないものなのである。たとえて言えば嘘とは、原子炉における制御棒のようなものであり、もし、全てのことを正直に言っていたなら、人間世界は大爆発してしまうのである。嘘は、我々を無益な興奮や戦いに駆り立てるあの野獣本能を麻酔にかける唯一の方法と言ってもよい。集団や組織の中において、嘘は潤滑油のようなものなのであり、これをうまく使いこなせない者や、バカにする正義派ぶった者は、必ずや痛い目を見ることになるのである。というのは、世の中は、正当――そんな者があるかどうかは別として――なことで整理できるようなものではないからである。

我々は、自分の行為を偽装することに手馴れている。どのような行為でも、それは善良なものによっているのではなく、我々のおぞましい欲望によっており、全ては利己的なものにその原因があることは確かなことなのである。だから我々は、そのことをそのまま示すことがどのようなことになるのかを知っている。性的な事柄と同じで、けしてその事情は誰にも知られてはいけないのである。肝心なところは常にかくされ、歪曲され、きれいに見せかけられたもののみが常に公表されるのである。我々がある行動をしたとき、その目的・動機・原因として挙げるものは、たいてい嘘なのである。それは、意識的にも無意識的にも行なわれる。ある行動の本当の目的・動機・原因などは、自分でも信じたくないようなおぞましいものなのである。

嘘をつくことがうまい・へたで、我々の運命は大きく違ってくるのである。私が大学に行っていたとき、電気工学の実験を風邪で休み、その補修を夏休みにやることになった。私は、担当の助教授に誰か実験を手伝う者を連れてくることを要請された。しかし、私はそのような者がいないとはっきり言った。すると、相手は怒り、君はそのような相手も見つけることもできない人間で・・・、といろいろいやみを言われた。そのような者がもう一人いた。彼は、手伝う相手を用意できると返事をして当面事なきを得た。そして、実験の当日、彼は誰も連れてこなかった。大学の助手に対して彼が言ったことは、頼んだ者が、都合が悪くて来られなかった、ということだった。すると助手は「私がやってあげる」と言って機嫌よく手伝っていた。彼は、はじめから私と同じように誰にも手伝ってもらう気持などなかったのである。しかし彼は私と違い、それをうまく切り抜ける嘘という技術の使い方を知っていたのだ。彼がこの嘘をつくことで、被害を受ける者はいない。この嘘のおかげで、先生は怒ることなく、彼もいやな思いをしないですみ良いことずくめなのである。

我々がこの世でうまく生きていくためには、相手をうまく騙す技術が必ず必要であるということだ。騙すということは、青二才の考えるような劣悪なことではないのであり、我々がうまく生きるための究極の技術であるということだ。

 

一六.我々を強く魅惑する者の中には、恐ろしい姦計がひそんでいる

ある場所に人が何人かいる場合、それを誰かが見たときに感じる雰囲気は、その場にいる最も個性的で強く魅力的な一人の人間により決められてしまうものだ。その人が強ければ強いイメージ、漠然と魅力的なら魅力的なイメージ、セクシーならセクシーなイメージに、その集団は見えるのだ。その集団の見え方は主人によって――ちょうど料理が同じ材料を使っても味付けによって大きく異なるのとおなじように――大きく変わるのである。だから、その集団を支配できるような者は、相手をうまくコントロールしたり、騙したりすることもできるのであって、これがマインドコントロールと言われるものなのである。

優秀な詐欺師は、最も詐欺師らしくない誠実な者に見えるのだ。このような者を前にすると、誰でもこの良い香りに酔ってしまい、うまくコントロールされてしまう。これは、コントロールされる側にとってなかなかの快感なのである。詐欺師だけではなく、我々を強く魅惑する者には、中途半端ではない第一級の不気味な姦計がひそんでいるということを忘れてはならないのである。

会社などの組織においても、出世する者は常に上司を騙している。彼は、常に自分と上司が困るような事実は報告しないで、何も問題がなく全てがうまくいっているように見せかけるので、彼の上司はいつも上機嫌でいられ、彼を好きになるのである。有能な上司は、必ず有能な部下に騙されているものなのであり、それは、キャバレーやナイトクラブで、ホステスに騙されながら高いお金を払って虚栄心を満足させているまぬけな男性たちと同じなのである。我々は、どんな回り道をしようとも――つまり、我々の醜い欲望による行為を、非利己的行為に見せかけながら達成する――、最終的には自分自身を満足させることを目標としていて、しかも麻薬的なものを常に求めている。有能な者は、それを知っていて上司を満足させ、酔わせることに長けているし、それに徹することができるのである。そのような連中は、その行為をけして恥じたり罪悪感に悩まされたりすることもなく、自信をもって迷いなく快活に長期にわたって続けることができる、という能力をそなえているのである。これは、あらゆる種類の有能者に言えることである。組織で出世する者は、必ずや部下や関係者などには気を使わず、自分の運命を左右する上司にだけ気を使うことに何のためらいもなく自信をもって専念できる、という能力があるのである。そのしわ寄せは、全て弱い者にいく。ある者を喜ばせるには、別な者を苦しませなければならないのである。ある者がお金をもうけることは、別な者がそれだけ損をすることと同じである。部下や関係者、あるいは弱い立場にいる者に気を使いたくなる者は、それらの者には好かれるが、そのことは彼の出世にはあまり関係しない。弱い者に優しく誠実で正直であるということは、一般には善良なことだとされているのだが、これは単なる彼の趣味にすぎないのである。彼は、彼の善良で危険なこの趣味のために、自分の運命を左右する上司より、部下や関係者に気を使うことに価値を感じるようになる。これは、聖者気どりと言ってもよい。このような者は、あるところまでは出世しても、いずれ必ず左遷されるものなのである。それは、彼の行動が彼の出世するタイプの上司を上機嫌にできないばかりか、むしろ不愉快にしてしまうからなのである。彼の上司は、全体としてうまくいくことをたてまえとしては称えているが、これはまったくの見せかけ(嘘)であり、本当のところは、自分の利益のことしか考えていないのである。

我々は永い歴史の中で、相手を魅惑する能力と相手に魅惑される気分を最高度に美化し、信頼し、崇高なものにしようとしてきた。多くの詩人は、この作業に迷いなく専念してきたし、宗教もこの立場だ。しかしこの結果、我々の恐るべき本能に対しての用心というものがおろそかにされてしまったのである。我々の美しいとされている部分は、自分がうまく生きるための、あるいは自分の欲望を満たすための恐ろしい武器であったのだ。美しく見えるものは恐ろしく、特に女性は不気味で、あらゆる行動に姦計(悪だくみ)を感じさせる。この「姦計」という文字のなかに「女」という文字が三回も使われている――この文字を生み出した昔の人には、そのことがわかっていたのである。「女」という文字は、漢字の中で多く用いられており、学研の漢和辞典「漢字源」で調べると、「女」を部首にする漢字は九九個あり、「男」を部首にする漢字はなかった。いかに女性が、自然界に深く根づいているかがわかる。女性というものは、強く・かわいく・恰好よく・美しく・有能・不気味・恐ろしい。――有能である者は常に不気味であり、麻薬のような危険な魅力で我々を誘う。

二〇〇六年現在も、大昔と同じく、我々の間には恐ろしく不気味な事件が後を絶たない。いじめや暴力などである。我々のいやな中身が、我慢しきれずにたまに顔を出すということだ。これらは教育・道徳・法律・刑罰などではなくすことはできない。魅力と残忍性は同じものの表裏なのだ。この問題に関しては、第二部で詳細に検討することにする。

 

一七.類似という魅力

私はよく、ある人と他の人が似ていることに気づいてしまう。しかし、他人はその類似がわからないことが多い。たとえば私は、俳優の鶴田浩二と歌手の岩崎弘美が似ていると言う。この二人が似ている点に気がついたことは、私自身感心している。しかし、他人にはそれがわからないそうだ。この似ているところの発見は大きな知的快感なのである。別なものの中にひそむ同じ構造の発見は、大きな変化、進歩の始まりだ。似ているといっても、その似方の種類はいろいろあって、低レベルのものから高度なものまである。

最も高度な類似の一つに、音楽における性格的変奏がある。元のメロディーから類似したメロディーが作り出されるのだが、凡人にはどこが類似しているのかがまったくわからないのである。単純な変奏は元のメロディーに細かい変化をつけるだけであるが、性格的変奏の場合、その変化は論理的には説明しがたいものであり、理解できうる者にしか理解できない。元のメロディーの中に感じるあるムードを取り出し、パロディーのようにそのムードを強調したり、変形させたりする。それを聴いたものは、変奏されたメロディーの中に、元のメロディーの要素があることを理解できなくてはならない。それができたとき、大きな快を感じることになる。全ての変奏は同じメロディーを起源としていることを感じることに快を感じる。

類似しているものは、ある一つのもののいろいろな表現であるとわかったとき、大きな快感をもたらすものなのである。一つのものから、多くのものが生成した、いろいろなものがかってに、偶然にあるのではなくて、それらは互いに関係し合っているとわかったときに大きな快感をもたらすのである。多くのものの中に共通した基本的な構造が見えたとき、あたかもその正体を見たというような快感をもたらすのである。これは創造なのであって、解明などではない。自然現象は探れば探るほどわけがわからなくなっていく。もし、本当の解明などができたなら、それこそ不思議な話なのである。

賢者は一つのものをいろいろな角度から見ていく。けして、解明などしているのではない。いくつかのものの共通点を抽出していくということは、歴史上の重大発見の共通点である。いろいろなものの中から、いくつかの共通するものを抽出できるという才能は、雑音にうもれているものから役に立つものを引き上げる能力というよりも、おもしろいものを創造する能力なのである。

頭のよい人は、難しそうな問題を簡単なモデルに置き換えることができると言われるが、そうではなく、あるモデルを創造し、それと実物の間にある関係を作り出すことができるのである。そのような関係を創造することができたとき、我々は快を感じるのである。

 

一八.割り切り型と夢想型

「夢について」というあるTV番組の中で、面白い話があった。夢を見てもよく覚えていない人は、「頭の中の境界が太い人」であるそうだ。そういう人は、芸術的感覚がなく、元気であり、想像にふけることがなく、割りきりがいい。このような人は、ブルーカラーやホワイトカラー、つまり、組織の中で生きるのに向いている。理数系が向いており、スポーツにも励むことができる。それに対して、夢をよく見て、しかもそれをよく覚えている人は「頭の中の境界が細い人」なのだそうだ。つまり、いろいろなことが入り混ぜられてしまう。こういう人は空想にふけり、組織の中での生活が合わず、芸術家に向いているという。スポーツなどはあまりやりたくない。

私はこのことに、次のことを付け加えたくなった。前記の第一の人は、強迫性障害とは無縁の左脳の人であり、健康的で、野生的な人である。そして、前記第二の人は、強迫性障害に近い人であり、一つの発想が次々に連鎖する天才型の人である。物事は割り切れず、だからこそいろいろな関係が見えてきて、気になってしょうがない。これがうまくいったとき、偉大な発見と名誉が彼にプレゼントされるのであり、うまくいかなければ、単なる暗い、無能な神経病者で終わってしまうのである。

 

一九.選ばれる人について

一九九五年八月のNHKドラマ、確か「魚岸のプリンセス」(?)というような題名だった。その主人公には二人の男性がいて、一人が振られてしまった。彼が振られてしまった理由は、彼が下り坂にあり、無能であるということであり、もう一人の者は、上り坂にあり、有能であり、可能性があったのである。誰もが「自分の生を保存する」ために、役に立つものに引かれるのである。つまり、強さ、有能さに引かれるのである。それがない者は我々にとって、醜く、いやらしく見えてしまうのである。我々は無能なものには近づかないようになっているのである。

 

二〇.遊ぶのにいい人と結婚したい人

知っていること、できることは別なことである。知っていてもできない人がいるし、できてもわかっていない人がいる。一般にはわかっているからできる、と思われているはずだ。しかし、この因果関係は我々がかってに決めたことなのだ。上の二つの間には何の関係もない。「わかる、知る」と「実行できる」は、我々の別な行動であり、それらは対等の関係にあるのである。世の中には、このような不当な順番がつけられているものが多い。日常的なことができないのに、もっと難しいことができるわけない、と言う者がいるが、これも関係ないだろう。難しいことができる者は、日常的なことができない者が多いのではないか。また、準備はよくできるのだが、本番がだめな者がいるし、その逆もある。批評がうまい者は、実際に何かをやらせるとその実行力のなさを露呈するものだ。逆に、実行力のある者は、自分のやったことを整理できないし、それを他人に教えられないことが多い。それぞれの作業は、それぞれ別の才能がいるもので、それぞれの間には何の関係もないのである。

ここで余談となるがゴルフや野球などでは、スイングするときに体の軸がぶれているとうまいショットができないと言われている。たしかに、うまいショットをする者はスイング中に体の軸がぶれていないことが多いのである。しかし、体の軸がぶれていなくてもうまいショットができない者もいることは確かなことで、この二つに因果関係があるとは言えない。うまいショットは、運動神経や骨格や肉付きといった天性のものによっている。体の軸がぶれないのもこれらのことによるもので、けして体の軸をぶれないようにしているからではない。つまり何を言いたいのかというと、うまくいっている者は、うまいショットもできるし、体の軸もぶれないようにもできるのであり、この二つはどちらかが他方の原因なのではなくして、両方ともに幸運なゴルファーや野球の選手の二つの《因果関係のない》天性(運命)なのである。これは、めぐまれた者が《良い子》でいられるのと同じなのであり、幸運だから全てはうまくいくのである。けして良い子であるからうまくいくのではない。「正直者は得をする」は、「うまくいっている者は、おりこうさんでいられる」ということを道徳的に言い換えているにすぎない。

ここで前出のニーチェ善悪の彼岸」から、関連部分を引用する。

 

*知識と能力の間の割れ目は、おそらく、ひとが考える以上に大きなものであり、不気味なものである。大きな規模の能力を有する者、創造者は、おそらく一個の無知者であらねばならないだろう。

 

また「ニーチェ全集」(白水社)の中には、次のようにある。『人間の能力はその時点での上昇度にある』。『我々は、その人が何をやってきたかより、何をやれそうかということを重視する』。

遊ぶのにはいいが、結婚する気にはならない者がいる。我々はいろいろな用途別に、相手の価値を決めている。この判断は無意識的に、つまり《我々を抜かして》行なわれる。よく考えられた行動などというものはないのであって、考えるのは行動してからなのである。我々の重大な行動は、それが大発見であろうが殺人であろうが、我々の意識があまり関与しないで遂行されるものだ。ひらめいた、とか、気がついたら殺してしまっていたとは、よく言われることではないか。

我々はちょっと遊ぶにはよい者と、一生を伴にしたい者とを正確に分けている。結婚したい者のほうがより上位の価値をもっていることは確かである。前記のニーチェの引用文における「知識ある者」は「遊ぶのにはよい者」に対応し、「有能な者」は「結婚したい者」に対応するのである。結婚したくなるような者は、たとえ何も知らなくても、たとえ軽自動車に乗っていても、我々を魅惑する。彼は未知であり、可能性があり、麻薬的なもの――これこそが我々を最高に魅惑するのだ!――をもつのである。我々を最高度に魅惑するものには、必ず麻薬的なものが潜んでいるということを覚えていてもらいたい。

 

二一.集団の功績は、その中のたった一人の者の功績なのである

二人以上で何かをやり、それがうまくいったときに、各メンバーはその功績が各人に公平にあると信じてしまうものである。しかし、あるメンバーが抜けてしまったとき、急にうまくいかなくなってしまうことがある。つまり、そのぬけた人一人の功績だったのである。難しい仕事は大勢ではできない。その仕事をしている人は一人であり、その他の者は誰でもよいのである。

 

二二.大きなシステムとしての魅力

ある人のある行動がステキだからといって、別の人がその行動をそっくりまねても、同じ効果は得られないものだ。その人がやったからこそステキだったのである。魅力的なものとは、その行動者にくっついている別のものではなく、その行動者自体なのだ。魅力ある者の行動は、その全てが人を魅了するものだ。しかしたいてい、その行動だけが取り出され、ほめたたえられることが多い。しかし、その行動はその人と一体となったときに魅力を放つのである。

ある人が魅力的である場合、どこから見ても、何をしていても魅力的である。視野にかすかに入っただけでもその人だとわかり、ワクワクするものだ。魅力的な人のもっているもの、やっていること、住んでいる家、属している集団までもが魅力的に見えてくるから不思議だ。実は、それらのものや状況がその人と関連し合って、互いを魅力的にしているのである。

魅力とは「その人の中」のみにあるものではない。人は動きの中に魅力が現れる。また、その人の背景が大きな役割を果たしている。つまりその人にかかわる全てのものが、その人の魅力に関与しているということだ。その人を魅力的にしているのは、これら全体と、それらとの関係であって、その人一人だけの問題ではなく、大掛りなシステムであったのである。だからその人があるシステムからはずれてしまい(会社から解雇されてしまったとか)、ぶらぶら私服で歩いていると、まったく前のような魅力がなくなってしまう。

 

二三.しゃべりが多いドラマと形容詞

日本の映画はしゃべりが多い。画面を見なくてもわかり、ラジオで聞くだけでもよい感じだ。ところが欧米の映画などはそうではない。もし、画面を少しでも見ていなかったなら、成り行きがわからなくなってしまうのだ。それは言葉以外のもので伝えるものが多いからだ。文章で言えば日本の映画は、形容詞が多く、欧米のそれは名詞と動詞が多いのである。欧米の映画はその場の状況を言葉だけでうるさく説明しようとはしていない。もっと別な視覚的なもので表そうとしていて、これが見ている者に快感をもよおさせる。つまり、作者や演出家や監督の考え出した言葉以外の信号により、何かを伝えようとしている。それをみる者はこの信号を解読することで快楽を得るのである。音楽においても、高度なものは些細なメロディーやきわめて単純なメロディーをうまく使うことで、大きな効果を出すようにしている。つまり、それ単体で見ればたいした意味もなさそうなものを組み合わせて、新しい意味のあるものを創造しているのである。聴衆は創造能力を要求され、それをわかる者、選ばれた者は、高度な創造の快楽にふけることができる。

低レベル作品は、全てを説明しようとしてしまう。既成の言葉がうるさく騒ぎたてられ、聴いている者はうんざりする。相手に何も創造させないのである。自分でも感心するようなインスピレーションがないと、人まねが始まる。それは形容詞を並べるだけの文章と同じである。既成のものを組み合わせただけであり、見ている者に斬新なものを見せることはできない。名詞と動詞で語られたものは、言わば、その作者によって初めてつくられた、新しい形容詞となる。それがわかる人は、大きな快楽を得ることができるのだ。

日本人は欧米の人たちと比べ、高度なユーモア精神も少ないが、ある簡潔な動作や記号によって、すばやく、しかも面白く――これが最も大事なことだ――相手に何かを伝えることに価値を感じていない民族である。私は欧米の町を車でドライブしたことがないのでかってなことは言えないのだが、日本人の大多数が交差点で右折や左折をするときに、ウインカーを出すのが遅いのである。信号が青になってから出す者がほとんどである。しかし、ウインカーはその交差点に接近しているときから出すべきなのである。そうすることにより、周りの者が早めに対処できるのである。早めに、自分の意向を他人に知らせるということ、これは実用的な意味からだけではなく、相手に自分の行動のことをある記号や合図で知らせるということにより互いにある種の快感を楽しむことができる、という利己的な考えからくるのであって、趣味的なものなのであり、《遊び心》なのである。日本人はこの《遊び心》が欧米人に比べてはるかに少ないのである。

 

二四.形容詞について

あるTV番組で、ナザレのイエスの言葉には形容詞がない、と言っていた。これは偉大な作家の特徴でもあり、音楽においても同じようなことが言えるのだ。ベートーヴェンの晩年の作品のメロディーは、形容詞的なもの、つまり既成のものが使われていないのだ。

エスの言葉「砂の上に城を建てた」は、名詞と動詞でできている。また「私について来なさい」という言葉の不思議な魅力も指摘されていた。この言葉は、相手を考えさせる――つまり、想像させる――のである。未知なものとして、相手を魅惑する。魅力あるものは、全て未知さがあるのである。

さらに、この番組では「誠実さ」のアピール仕方についても、ドイツ人の考え方を賞賛していた。あるドイツの自動車メーカーの日本での広告で、「私たちは騒音と公害を生み出しています」とあり、これはその会社の誠実さを相手に強く感じさせるためのうまいアイデアである。既成の「誠実」という言葉を、ただがなりたてるのではなくして、「誠実さを感じさせる文章」を創作し、静かに語ったである。これは日本人のような、全てをどこからかもってきてすまそうとするような手配師的民族とは正反対なのである。彼ら欧米の者たちは、今までどこにもなかった表現を作り出してしまうのである。それに対して日本人たちは既成のものを、几帳面に、遊び心のもなく並べるだけなのである。

 

二五.未知なるものの魅力

二〇〇五年、イギリスのある海岸をずぶぬれでさまよっていた青年が保護され、ある施設に収容されたが、彼はなにもしゃべらず、ピアノをうまく弾いて皆を驚かせたという。このニュースは世界中に広まり、彼は「ピアノマン」と名づけられた。どうしてこんなに騒がれたのか、それは彼が未知であるからなのである。「未知」というものは、ひどく我々を魅惑するのである。その後、彼はピアノそんなにうまく弾けないドイツの田舎の青年であることがわかり、世界中をがっかりさせた。

 

二六.マインドコントロール

人が人に魅惑されたとき、その人の言った短い言葉、半ば不明な言葉は、いっそう魅惑的なものとなる。相手がそちらに行こうとしているからこそ、そちらに少し押してやるだけで、相手は動いてしまうのだ。それは、相手を自在にコントロールできるのだ。くどくどした、うるさい説明が役にたたないことは確かだ。まず、相手を魅惑することにより、相手をそちらの方向に向けておいて、短い不明さのある言葉でとどめをさすのだ。これは、マインドコントロールというものの正体なのであり、相手を魅惑することなしのマインドコントロールはあり得ない。

 

二七.感謝の大きさは相手の魅力が大きいほど大きい

人がある人に助けられて感謝したとき、相手が魅力的なら感謝の動作にいっそう力が入るが、そうでないときには力が入らずいいかげんになってしまう。つまり、我々が相手に感謝するとき、相手の価値というものによって、その気合の入り方が違ってくるのである。相手にしてもらったことより、相手の有能さ、可能性というところに大いに関係しているのである。これは実に不道徳なことではないか? 我々は、実に不道徳な生き物なのである!

 

二八.相手が魅力的なほど、怒られたときに恐い

怒られたときに恐いのは、あらゆる意味で相手に魅惑されていたからだ。それは、人間的な魅力や権威などからくる魅力である。それらの強者ににらまれたとき、我々は縮み上がってしまう。たとえばお上さん――女性は幹であり、男性は枝葉にすぎない――に怒られた男性は、最高に恐ろしい思いをするものだ。

 

二九.交友関係を永く続けるには

相手を魅惑し、恐れさせるもの、これらが相手を引きつけ、またあまりにも接近することを阻止し、交友関係を長続きさせることを可能にするのである。長期にわたって仲良くできる人たちは、互いにこれらの能力をもっている人なのだ。もし、相手を威嚇するものがなかったなら、相手はどこまでも付け込んできて、相手の養分をずうずうしく自分のために利用してしまうであろう。そして、もう何も取り出せるものがなくなったと見るや、相手を捨ててしまうだろう。また、相手を引きつけるものが自分になかったならば、相手は寄ってこないので、交友関係は初めから成立しないのである。

 

三〇.要領のいいやつ

組織において、有能な部下をもつ者は、常にその部下に騙されている。有能な部下は、けして正直ではない「悪人」なのである。事実は、自分を守るため、上司を上機嫌にさせるために歪曲され報告される。だから、その者の上司はいやなものを見ないですむし、快楽することができるわけである。本当のこと、不快なことは何ひとつ報告されないのであり、上司とその部下にとって良くないことは全て隠ぺいされてしまうのである。有能な部下は、上司をもてなすホステスのようなものだ。彼はこの行動を実に自然にできるのである。だからこそ、彼の上司も彼に疑いをもたないのである。これは、有能な詐欺師と同じだ。もしこのようなことが苦手な者がむりやりやったならば、すぐ見抜かれてしまうだろう。これらの「悪人たち」の悪事のしわ寄せは、全て他のより弱い者のところへいくのである。私はこのようなことができない「善良な」中間管理職を幾人か知っているが、彼らはすぐに上司とうまくいかなくなり左遷されてしまうのである。集団の中でうまくいっている者は、必ず上司を騙す術、芝居をする能力、弱い者に容赦なくしわ寄せができる能力をより多く所有しているのである。凡人はこのようなことを年取ってから思い知るが、彼ら「悪人」は生まれたときからそのプログラムが頭の中に形成されているのである。

人間の魅力の正体は、相手を騙す能力である、とまで言えるのである。我々の本性同士が直接対面したならば、互いにうんざりしたり、互いの利益が両立しない場面では戦闘が始まり、弱いほうが撃破(左遷)されてしまったりするのである。弱い方は、相手(強者)から見た自分の醜さを自覚し、いかにそれを隠すための化粧をほどこすかで、生き残れるかどうかが決まるのである。余談ながら、女性の魅力は、男性を騙すためにあり、それ以外の意味はない。

我々の生理的な欲求に応え、情念に訴えかけられる者は、集団のなかでうまくいく。我々は本番では、道徳的な考えでは行動せず、生命の欲求がもっぱら優先される。

 

三一.人間的な魅力とは客観的に説明できるものではない

魅力というものはどういうものかと説明しようとする人もいるだろう。しかし、私は「魅力を感じる」のであって、それ以上のことはわからない、と言いたい。しかし、「私が魅力を感じる」という、主観的なものでなく、そのメカニズムを知りたい人が多いのではないかと思う。つまり客観的な理解を求めるのである。しかし、魅力というものは、個人の固有な趣味、嗜好、状況から離れては、意味をなさないものであると思う。おいしい料理が、どうしておいしいのかは、科学的には説明することはできない。それをまずいという者もいるし、お腹がいっぱいのときにはたぶんまずく感じるだろう。我々を魅惑するもの、快感をもたらすものを、科学的に解明することなどは不可能なのである。

 

三二.頭の回転の良い者は教えるのがへた?

頭の回転の良い者は、自分が余りにもわかっているので、人にものを教えるのがへただという意見があるけれど、それは間違いである。彼は余りにも頭の回転が良いだけなのであって、これは、もっとわかりやすく言えば、もっともらしい、誰でも騙せそうな、きわめて雑な、間違った、薄っぺらな理由をどこからかこじつけてしまう才能をもっているだけのことで――これは詐欺師と同じである――、本当のところ何もわかっていないのである。本当にわかっている者は、「刑事コロンボ」やノーベル物理学賞受賞の朝永振一郎博士のように、きわめてわかりやすい説明をしてくれるものである。

 

三三.所有すると魅力を失う

我々は、自分がもっていないもの、行ったことのない所にあこがれるものだ。ところが、それを所有したり、そこに行ってしまったりするとその魅力は失われてしまうのだ。だから、あるものや事について熱っぽく話をする者は、そのものをまだ手に入れていないとか、そのことについて未熟であり、熟練を夢見ている状態であるのである。熱く語るということは、何かに飢えていることなのである。彼がもし、それらのものや事を所有してしまったならば、そのことについて口は重くなるであろう。我々は手中にしたものや知り尽くしたものについては、なんの魅力も感じなくなるのである。

これに関連して次の事実は有名である。「私はそのことについてはまったく気にしていない」などと言う者は、実はそのことについて常に気にかけていて、しかもその自分の状態を恥じているのである。本当に気にしていないならばそのことを話題にすることはない。

 

三四.相手を善良にしてしまう人間的魅力の魔力

我々のあらゆるものは、相手によって大きく変わる。ある相手にはよくしゃべっていた者も、相手が代わると無口になってしまうことがある。セールスマンなどは、客に対して、まるで愛している相手に対するように気を使い、よくしゃべる。彼はその客を愛しているわけではないのだが、その客の価値を愛しているのである。うまく口説き落とせば買わせることができる。買ってもらえる可能性がある客は、彼にとって魅力的に見えるのである。その客が自分の成績を上げることに関係しているからこそ、その客に誠実で大げさなサービスをする力が出てくるのである。我々は自分に何か利益をもたらす可能性がある者に対したとき、きわめて善良になってしまうのである。しかし、善良の裏には、きわめて利己的な姦計があるのだ。

しかし、このようなわかりやすい利益をもたらす可能性もないのに、我々をハッスルさせる者がいる。こういう者を相手にすると、誰でもよくしゃべるようになる。我々はその人間的魅力をもつ相手から、何を得ようとしているのだろうか。我々は人間的魅力のある人のところに集まる。近くにいるだけで、何かよいものが得られるのである。よい香りのように相手に引きつけられ、後について行きたくなる。まるで、麻薬のようなものだ。このような人といっしょにいると、相手は活性化され、この人の気を引くことに専念する。この人が、自分の行動に反応することがうれしいのである。さらに、自分がその人に飽きられないようにがんばる。

どうして、人間的魅力をもつ人は、こんなに相手を動かすのであろうか。有能な会社員もこの力で上司や顧客を騙す。詐欺師もこのような力で相手を騙していく。相手を「この人ために何かをしたい、この人にあいそをつかされたくない、この人に喜んでもらいたい」という気分にしてしまうのである。これまた、マインドコントロールなのである。我々は自分が好きな人としゃべるときには、しゃべりたいことが次々出てくる。また、話がとぎれてしまった場合、早く話題を出さなくてはいけないと焦る。

 

三五.欲求と魅力

魅力とは、我々の欲求に合ったものを見たときの我々の反応だ。我々の欲求に応えるものを見たときに、我々は魅力を感じる。欲求がなければ、魅力も存在しない。快の前提条件が不快であるように、強い欲求が魅力を、そして、醜さ、憎たらしさを成立させている。だから、欲求が小さい者は、誰に対しても同じ態度で接するのであり、その反対に欲求が大きい者は、相手による態度の差が大きいのである。魅力あるものは、その欲求者があいそをつかすまで、欲求者を満足させない。欲求者はそれによって興奮したり、緊張したり、ワクワクしたり、むらむらしたりする。

「どうしてそれは魅力があるのか?」ではなく、「どうして私はそれを欲するのか?」である。「どうしてブドウはおいしいのか?」ではなく、「どうして私はブドウの味を欲しているのか?」である。

 

三六.相手の自分に対する態度

人の態度は相手によって違う。こちらが弱々しく、貧相であると、ぞんざいに扱われるし、いじめられる可能性もある。その逆ならば、丁重に扱われる。その人の態度というものは、確固としたものとしてあるのではなく、相手との関係で成立するものなのだ。だから我々は人前で、本能的に自分を飾ろうとする。自分を価値ある者に見せかけようとする。そうしないと危険であるからだ。これは幼児でも知っている。

 

三七.腐ったものは悪臭を放つ

我々の体に害をもたらす危険なものは悪臭を放ち、いやな味がする。だから、我々はそれに近づいたり、食べたりしないですむ。もし、こうなっていなかったら大変だ。元々悪臭というもの自体はなく、ある「におい」を、我々は「くさい」と感じるようにできているだけのことである。つまり、我々の体は生まれながらにして、危険なものを避ける能力をもっている。体は生まれながらにして、医学、化学を知り尽くしており、危険を察知するためのセンサーまでも用意しているのである! 我々の意識は知らないことを、一般にその従者だと思われている体は知っているのである。その体に関係していると思われる意識は、体のこの神秘を調べようとしているのだ! おかしな話ではないか?

我々が人間を見るときも同じだ。付き合って利益がない者、危険なものは、我々にとって醜く見える。我々にとって何らかの利益が得られる可能性のある相手が魅力的に見えるように、我々の体は作られているのである。

 

三八.魅力は優良の印である

どのような魅力的な人でも、痩せたり、病気をしたり、悩んだりすると、その魅力は失われてしまう。どこかが少しでも変化しただけでも魅力は失われてしまう。魅力的であるということは、生理的、社会的に完全であることを示し、全てがうまくいっていることの印なのである。だからこそ、人が集まってくるのである。

 

三九.私は嫌われてしまった!

私は小さいときから人に嫌われた。私は醜いのだろう。私の弱さや変質を、他人が察知したときの感覚が醜さなのだ。特に、女性はそれをストレートに示してくるので驚く。あるスーパーマーケットのレジ係りの女性の店員は、いつも私に何も言わない。しかし、他の客には丁寧にあいさつしている。そして、その態度は日増しに悪くなっていく。ただ、料金を支払っているだけで、他に何も関係していないのに驚きだ。この店でこんなことをする者は他にはいない、というより、今までのどのような店でもこのようなことをされた経験はない。しかし、この事件は私にとっては大事な経験だった。女性は男性と違い、きわめて野生的、本能的な行動を迷わず実行できる能力をもつ。だから、欲求不満も男性より少ないのだ。私はこの店員に初めの一目で嫌われてしまったのであった。私から放たれる危険な臭いを、私の通常の生活における無能さを示す赤信号を、人一倍悪臭に、危険に感じとることのできる能力をもつ有能な彼女は、そのあまりの苦しさのあまり、私にあいそ良くするどころではなかったというわけだ。腐ったものを近づけられて、のけぞらない者はいない。ただそれだけのことなのだ。

 

四〇.各人の固有性

後天的なもの、つまり経験により我々の判断、行動、能力などが影響を受けることがある。たとえば凶悪な犯罪者は、幼年期に不幸であった人が多いし、幼年期によくしてもらえた者は苦境に強いなどである。だから、各人の固有性よりも後天的なもの、たとえば教育や環境の重要性を説く人が多いのだ。先天性と後天性については、哲学者の間でも昔から問題であった。というのは、一人の人を二つの条件で育てることは不可能であるからだ。異なる二人の人生を比較する場合、二人の先天的なものは違うことは確かなので、結果から後天的なものの影響を分離することができないのである。しかし、そもそも我々の性質を、先天的なものと後天的なものに分けることが可能かどうか考えてみるといい。これは、人間を精神と肉体に分けて考えることへの疑問と同じだ。元々そのように分離していたわけではない。我々がかってに人間を精神と肉体に分離してしまったのであって、分離した姿を見たわけではない。私は、先天的なものと後天的なものは独立してあるのではなく、一体となっている、つまり、あるメカニズムによって関係付けられている、各々が独立に存在してはいないような気がするのである。

我々の性質(性格、能力)は経験により変わるといっても、我々の経験は自分で選択できるものではない。生まれる国、生まれる町、生まれる家、両親、自分の性格などを我々は自分で選べない。そして自分の経験できるものは、これら我々に選択できないものに完全に関係しているのである。たとえば魅力あふれる者のところには人が集まるが、嫌われ者は一人ぼっちであり、交友という経験が思う存分にできない。交友という経験は、先天的なものに関係している。こんなわかりやすい関係だけでなく、不気味な関係が、あらゆるものの間にある可能性がある。先天的なものと後天的なものの間にも、ある関係があると考えられない根拠は絶対にない。このアイデアは、米国で生まれた「マーフィーの法則」(たとえば急いでいるときには、信号は必ず赤になる。つまり、独立していると考えられている自分状態と、信号の間にある関係がある!)の根底にあるものなのである。

我々は個々に何かが違う。魅力あふれる人の動作を完全にまねても、その人と同じにはなれないだろう。この固有なものこそいろいろな問題をひき起こしている犯人なのだ。アフガニスタンタリバンの戦闘員は、我々日本人と同じ人間であるが、彼らの味わった恐ろしい体験は、日本人のような平和な民族とはまったく違う。彼らのようなひどい経験をすれば誰でもタリバンに入り、ゲリラやテロをやるようになるだろう。彼らは自分で選んでアフガニスタンに生まれたわけではない。彼をアフガニスタンに生誕させた自然のメカニズムが、彼のその後のあらゆる経験には関係していないということが、どうして言えるのであろうか。

ところが、一般にはいつの時代でも、冷徹で科学的な考えに徹し、共通点を重視して固有性をないがしろにし、あるいは生誕とその後の運命を独立して考えてしまう傾向がある。しかし、世の中のものは全て関係し合っているということを否定するものは、何一つないのである。世の中のものは全て独立して存在するのではなく、関係し合っている。我々のわかり得ないメカニズムが働いていると考えることができるのである。この考え方は「運命論」とはまったく関係のないものだ。初めから全てが決まっているなどと言っているのではない。ただ、いろいろなものが我々の知らないところで関係し合っている可能性があると言っているのである。これらの考察については、前記の「マーフィーの法則」が大いに参考になるのである。

 

四一.人気のあったやつ

一九七〇年、私が中学生のときだった。私も所属していたサッカー部に学校でも有名な部員がいた。誰もが彼には一目置くのだ。同級生や教員もが男女に関係なく彼を尊敬していた。彼と話をするだけでも嬉しいといった感じだった。やや痩せ型で、変人的、個性的要素はなく、頭の回転は良くテキパキ話す。顔はアイドル歌手のような一般受けする感じであった。彼は、家庭、勉強、スポーツ、人間関係の全てにおいてめぐまれていた。それに対して、私はそれら全てにおいてうまくいっていなかった。私は私と彼の何が違うのかを考えてみた。同じような部品でできているのだが、組みあがったものは別物であった。もし、足だけ、手だけ、頭だけというふうに、部分だけを比較したならば、また静止写真などでは、二人にはたいした差はなかった。しかし、それらを組んだものにおいて、その動きの中で、ある背景の中に置いた状態において大きな違いができてしまったのである。全体の中にその違いは現われていたのである。ひょっとしたら、何か信号が発射されているのかもしれない。魅力のある人がそばに来れば、何か異様な霊気を感じるではないか。

彼には相手を緊張させ、覚醒させるものがあった。つまり、相手を騙し、自分を有利にしていく能力、魔力があったのである。その体形、身のこなし、声、顔つき、どこを見ても相手を魅了してしまうのである。声も話し方も気持がいい。ずっとそばにいてもらいたいし、彼が近くにいると、空気までが変わってしまうのだ。誰もが本能的に、彼のほうが自分たちよりも優れていることを感じているのだ。では、彼のどこがそんなに優れているのだろうか。それは、まず我々がどうしてそう感じるのかを考えなくてはならないだろう。彼が恰好いいというのではなく、我々が彼を恰好いいと感じているのであって、それは彼の問題ではなくして我々の問題なのであり、しかもこれは解明できる可能性がまったくないのである。すばらしい彼と、醜い私の違いを説明できる者などいないのである。

 

四二.私のこと

子供の頃、私は友だちと遊んでいて、次のようなことを言われた。「君と遊んでいると面白くない、頼りがない、こんな人は他にいない」。私はまれに見るような「人をワクワクさせる」には程遠い者だった。私は相手に快感を与えるようなものを何ももっていなかった。このような者に寄ってくる者はいない。それは「行動の問題」などではなくして生まれつきの何かだ。

一緒にいて相手に快感を与える原因は何だろうか。適当な理由はいくらでもとってつけられるであろうが、この問題は永遠にわからないであろう。もし、私が人間関係でうまくいっている者のまねを正確にしたとしてもうまくいかないであろう。そこには我々が把握できない何かがあるのである。我々は何かを把握したと思っている。しかし、肝心なことは常に未知なのである。そしてそれらは今後も永遠に未知であるのである。

先にも言ったように、魅力というものは行動の問題ではない。魅力的な者の行動をそっくりまねても、同じ効果は得られないものだ。ある人と遊んでいて楽しいというのは、そのことをやっているからというのではなく、その人とやっているからなのである。そういう相手はいっしょにいるだけで楽しいのである。我々は誰かと遊んでいるとき、その事柄よりその相手を味わうことにより快感を得ているのである。

 

四三.よい思い出の多くは、魅力的な人と関係している

私は、幼年時代のことをたびたび思い出す。それはほとんどが人間関係のことではなく「物」に関することだ。たとえば昔使っていた懐かしい真空管ラジオ・真空管テレビ・たんす・柱時計・昔住んでいた所などである。ところが、その物質的なイメージの背後に常に私の大好きな母親の影が濃厚に寄り添っているのを感じるのである。もしこれらの思い出から、母親の印象という背景を取り除いてしまったなら、これらの物の思い出は無味乾燥なものになり、私をまったく魅惑することができなくなり、懐かしい思い出としてけして出てくることはないであろう。

思い出は魅力的な人の記憶と結びついていることが多いものだ。自分の尊敬する人や好きな人――つまり、価値ある人――といっしょに過ごした時間は、何をやっていても後からたびたび美しい情景として思い出されるものである。たとえば昔忙しく働いていた頃のことを思い出したとき、そこには病気で寝ていた大好きだった母親がいたりする。その母親に魅力が強いほど、その思い出は濃厚になるのである。もしそこにこのような人が関係していなかったならば、この思い出にたいした価値はなくなるのであり、思い出すことなどなくなるのだ。

私が中学生の頃、鉄道模型に熱中していた頃の思い出の中には、必ず台所で炊事をしていた母親の姿が出てくるのである。自分の見下す者や嫌いな者と過ごした時間のことなどは、思い出さないものである。魅力を感じない人との行動は、どんなに劇的なものであったとしても、我々に強い記憶を残さないものなのだ。ステキな思い出の中には必ず魅力的な人がいるのであり、この人がその思い出においしい味、良い香りをつけているのである。

ある二人がいっしょに何かの作業をやったとする。この二人の間に大きな優劣関係や強弱関係があるとする。身体的優劣関係・頭脳的優劣関係・社会的組織的優劣関係、あるいは、片方はもう片方を好きだが、もう片方は片方を好きではないなどである。この作業のことを劣っている者の方はいつも懐かしく思い出すのだが、優れている方にとってはほとんど印象に残らないのである。我々の間にある差異、つまり強弱関係・優劣関係が我々にとって重要なこと全てを決定しているのである。

一人でドライブしても良い思い出とはならない。しかし、魅力的な人とのドライブは、どこに行ったとしても印象が強くなり、何度も思い出し味わいたくなるものである。また、ある車の持主が魅力的なら、その車やその駐車場までもが魅力的に見える――その駐車場に自分の車を置いてみたとき、異様な興奮に襲われたりするものだ!――。魅力的な者の住むアパートは魅力的なものになる。魅力的な者のやること・着ているもの・趣味・その者が関わったもの全てが魅力的に見えてくる。魅力的な者が触ったもの・歩いた道・用いたもの・その仕事までもが魅力的に見えてくるのである。我々は、魅力的な者が活動した場所に立つことや、その者の行なった行動を模倣することで異様な興奮を味わうのである。これは女性の下着泥棒が、盗んだ下着を身につけて異様な興奮を味わうのと同じことで、下着自体に魅惑されているのではなく、その下着を着けているセクシーな女性への関心が、この下着を魅力的なものとしているのである。下着自体が魅力的ならそれを買ってくればよいのであるが、そんなことをする男はめったにいないのであって、《ある女性が身につけた下着》に執着するのである。魅惑するものには必ずある魅惑的な人間が関わっている、ということである。二〇〇三年にNHKのBSで放送された「冬のソナタ」の主役であるペ・ヨンジュンは、日本の中高年の女性を魅惑した。そして彼は、日本人が永年軽蔑していたはずの韓国を魅惑的なものとしてしまった!

幼年期の良い思い出は、良い親や魅力ある人間により作られる。幼年期の良い思い出をもっている者は逆境に強く、これがない者は逆境に弱く、犯罪者になる可能性もあると言われている。魅力的な人との良い思い出が作れた者は、おいしいものをたらふく食べ、やりたいことを存分にやった者と同じであり、逆境に強く、犯罪という方向に行かない。尊敬できるような相手と親交をもつことができた者は、また、価値ある相手に敬意を表された者は、現状を守ろうとするし、そのために臆病にもなり、優しくもなり、良い子にもなる。自分が手に入れた良いものが失われるのが恐いからだ。良い子的行動の正体は、偽装された利己的な意志(ニーチェが言う権力への意志)なのである。しかし、良い思い出をもたず、しかも現在が悲惨な者は、守るものや失うものがないので、彼の生理的・情念的欲求不満は現状を迷いなく破壊しようとするのである。

 

四四.気を使う人と使わない人

利害関係がないのに相手に気を使ってしまうことがある。その人に嫌われること、こちらの醜いところを見られてしまうことが恐ろしくなってしまうのである。その相手に自分を価値ある者であると見てもらいたいので、恰好よく振舞うようになるのである。このときの緊張した気分は、快感であり、後々まで「思い出」として残るものとなる。この人には、相手を恐れさせる能力があるということだ。

一方、そんな気をまったく使う気になれない者もいる。こんな相手の前なら、どんなことでもできる。自分のどんな醜いところを見られても恥かしいと思わない。だから平気で「おなら」をしたりしてしまう。その人の前にいても緊張もしない。気分は緊張感がなく、だるい。この相手は自分にとってどうでもいい者であり、どう思われてもかまわないのである。

ある者に何か注意されると、心が動じてその通りにしなければならないと思うのだが、別な者に言われてもまったく無視できるということがある。怒られたときに、まずいことをした、その相手にとっての自分の点数が下がってしまう、と心配になる者と、全然そんなことが気にならない者がいる。気にならないばかりか、逆に反撃に出てしまうこともある。たとえば生徒にいじめられる学校の教師や部下にいじめられる組織の管理職などである。ある者は嫌われることを恐れられ、ある者は相手から捨て去られてしまうのである。ある者は何をやっても敬意を表され、別な者は初めからその人間自体にあいそをつかされているのである。これは生まれつきに決まっているもので、後からは変更することはできない。生まれつき人から好かれる人は、幸せな一生を送れるが、人から好かれない者は、幸せにはなれない。これは自分のせいではない。

人から好かれる者のどんな行動も、周囲の者はかってに良い解釈をしてしまうものだ。それに対して、人に好かれない者のどんな行動も、周囲の者は悪い解釈をしてしまう。

 

四五.石原裕次郎と操さん

私は「操さん」と私のおふくろを呼ぶ。以前、俳優の中村玉緒がTVで「石原裕次郎くらい人に好かれる人はいない」と言っていた。私はこのことがよくわかる。私も「操さんほど人に好かれた人はいない」と言いたい。アパートの隣人や上の階の住人たちが、何かと理由をつけて操さんとしゃべりに来る。話しは二時間に及ぶこともある。私の小学校のときにも、友達の母親が操さんに相談にきて、その大半を相談したいこととは関係ない雑談に費やして帰っていく。相談というのは口実であり、不安な気持をまぎらわすために操さんと話したかったのである。誰もが操さんといるだけで安心した。そして、話は尽きることがなくなる。これはキャバレーやクラブの魅力のあるホステスに、客が自分の自慢話をいくらでもしたくなるのと同じだ。操さんは石原裕次郎と同じに、人間関係で困ったことなど一度もないのである。操さんのこの能力は、痴呆になるまで安定して機能していた。操さんは自分のこの能力について、まったく意識していないし、努力もしていない。我々はうまくいているとき、そのことを意識していないものだ。

引越しをしたとき、運送屋に相談にいって、事務の女性と一~二時間雑談したこともあった。また、役所の無料相談に行ったとき、その相談員と話がはずみ、一~二時間しゃべってきたこともあった。そして、その相談員に「暇だから、たまに話しに来てくれませんか」と頼まれたそうだ。操さんと話し出すと、相手が操さんを帰さないように、次々話題を出してくるのである。誰でも操さんとできるだけ長くいっしょにいたいと思うのである。初対面の相手は操さんの能力や可能性を、本能的に察知してしまうのである。

 

四六.立ち話

前記のように、私が小さい頃、私のおふくろはよく立ち話をしていた。私は長い時間それを待っていたものだ。たいてい一時間くらいしゃべっていた。私のおふくろは、相手を魅了する何かをもっていた。相手は話の内容よりも、おふくろと一緒にいたいのである。

よく誰かとしゃべる人がいるが、私などがその人と話をしようとしてもまったく乗ってこない。この人は、ある人が好きであるからしゃべりに夢中でいられたわけである。強い者と弱い者、好かれている者と好きになった者、上司と部下がいれば必ず後者は前者に気を使いよくしゃべる。話している二人を見ていれば、どちらが優位であるかがわかる。一生懸命しゃべっている者でないほうが、優位に立っている者なのである。

長い立ち話の二人は、たいてい対等ではない関係にあるものだ。どちらかが相手としゃべりたい、つまり相手といっしょにいたいのである。しかし、あまりかけ離れた関係でもうまくない。ある程度釣り合いがとれていなければ成立しない。余りにもかけ離れた関係であると、上位の者は下位の者をまったく相手にしないからだ。前にも述べたように、対等な関係であるとき、両者の程度が高ければ高いほど、権力闘争の気分が高くなり、付き合いはうまくいかなくなるものだ。長い立ち話をしているとき、二人のうちの上位の者は少しうんざりしているものだ。しかし、下位の者はもっと続けたいと思っている。

 

四七.出張ホスト

二〇〇三年一〇月のあるTV番組で、出張ホストについてやっていた。ある者は月収一〇〇〇万円(!)にもなるそうだ。この人はあるホストクラブでナンバーワンだったそうだ。そして、そこを辞めて独立したそうだ。出張ホストとは、客のところへ行ってデートしてお金をもらう仕事だ。それにしても月収一〇〇〇万円とはすごいものだ。

ホステスやホストは人間の魅力を売る仕事だ。その人といっしょにいて楽しいと思われなければ仕事にならない。こういう仕事が成り立っているということは、我々が魅力ある者といっしょにいることに、いかに飢えているかということ示している。おいしい食べ物のように、酒、たばこ、麻薬のように、また、エロティックなもののように我々を誘惑する。

良いホステスやホストの魅力は、生まれつきのものだ。酒やタバコや麻薬が、どうして我々を誘惑するのかはわからない。しかし、我々の体はそれを最高度に求める。離婚した、寂しい女性が、このような出張ホストと一日デートして一〇万円くらい払う。それで彼女は満足する。人間的な魅力は相手を誘惑する麻薬であり、人間関係という戦場における最強の武器であるのだ。出張ホストという仕事は、天から授かった人間的魅力に全てがかかっている仕事なのである。

 

四八.子供の魅力について

子供は無心でかわいい? とんでもない、かわいさというものは無心の状態にはないのである。かわいさを含めた我々にとって感じのよいものとは、最も無心からは遠いところにあるのである。子供においては、人間の本能がむき出しになっているので、いやらしい状態であると言えるのだ。子供は大人が考えているよりも相手をよく見ていて、それに応じて何も気を使うことなしに反応してくる。これが無心というものなのであり、我々のいやらしいところがそのまま出てくるということであって、これはほめたたえるようなものではないのである。

我々が他人と付き合うときに、もし「無心」で感じたこと、言いたいことをそのまま出していたら、すぐにけんかになってしまうであろう。我々の行為の全ては、例外なく、自分の生を保存するためのものなのである。しかし、それを相手に陽に知られてしまうことは危険なので、それを緩和、あるいは偽装することが、先史時代より永年にわたり、道徳として習得されてきたのであった。我々の本性をそのまま外に出さないようにすることによって、我々の中の野獣を直接見られないようにすることによって、集団生活を融和なものとすることができるのである。

通常相手に好感を与えるような行為は、全てある策略のもとにあるもので、ここには「無心」の行為に見せかけるための工夫もされていることがある。つまり、元々のいやらしい本性を隠すための偽装を、さらに隠すための偽装が施され、これがうまくいくと相手には「無心」の行為に見えてしまうのである。そして、これも一般に間違った解釈がなされているのだが、よく「人間が大人になると、いろいろな策略を立てるのでいやらしくなる」などと言われる。しかし、これこそ我々を最も融和な関係にさせることのできる唯一行為なのであって、たとえるならば原子炉に制御棒を深く挿入するようなものである。これらの行為は我々をいやらしくするのではなく、すでに存在するいやらしさを見せないようにするための策略なのであり、けして非難すべきものではなく、道徳そのものなのである。

 

四九.我々を最も魅了する肉体的魅力。

人間的な魅力の中で最も強力なものは、肉体的魅力であろう。それはセクシーと呼ばれているものである。不思議なことに、その肉体的に優位な者においては、顔や声や動作にもその肉体的迫力が反映されているものだ。肉体的に貧弱な者の顔、声、しゃべり方をもつ、肉体的優位者などはいないのである。

この肉体的な魅力は、誰もがもっとも憧れているものなのではないだろうか。頭が良い、顔が良いというよりも、誰もがりっぱな体、セクシーな体に本能的に憧れているものだ。優良な肉体は、他の全ての欠点を覆い隠してしまう。優良な肉体を前にすると、誰でもきわめて大きな不快感(劣等感)を感じてしまう。そして、負け惜しみに「頭が悪いくせに」とか言って、その不快の苦しみをいやそうとするのである。しかし、そんなことではとてもいやしきれないのであり、悔しくてどうしようもないのである。

女性のグラマーな肉体は、男性はもちろん女性でも何か底知れない衝動を感じる。箱根彫刻の森美術館のマイヨールの作品「捕らわれのアクション」というブロンズ像は、顔は男性で体は豊満な肉体の女性なのであり、後ろ手に縛られていて、大きな乳房や大きなおしり、太くたくましい太ももを見せつけていて、きわめて生命力あふれエロティックなのである。つまりこのブロンズ像は、我々の《体を》を最高に誘惑するものを集結させているのだ。つまり、女性の豊満な肉体と後ろ手に縛られた姿であり、我々の誰もがもっているエロティシズム・サディズムマゾヒズムの欲求に応えようとしているのだ。

男性だけではなく、女性も女性の体を気にしている。我々が女性を見るときに、その顔だけではなく体全体を調べ上げてしまうものだ――特に女性の乳房は必ず調べられるものだ。男性は女性の体に憧れている。だからこそ、前記のマイヨールの作品の体――頭は男性――は女性なのだ。男性はこの衝動に対処するために、女性に対抗する行動――女性に対して恰好つけるとか――をとらねばならないのである。

我々は頭で負けるより体で負けるほうがつらいのである。頭で負けるのと、体で負けるのでは、劣等感の質が違うのである。体で負けることに、我々はどうしようもない不快を感じる。体形の良い人、エロティックな肉体をもつ者、特にそれが女性の場合、男女を問わずそれに嫉妬してしまうのである。他人の肉体的な優位性は、その他のいかなるものよりも大きく我々を嫉妬させるのである。

 

五〇.肉体的優越の優位性

肉体的な魅力は、他のいかなるものよりも激しく我々を魅惑する。ここで、面白い例を話してみよう。あるとき、頭はいいが体が貧弱な女性Aが、敵対的な関係にある頭は悪いが体形、体格に恵まれた女性Bを見て、次のように言った。「頭が悪いくせに!」。これにより、彼女は肉体的に負けたという不快感から一時的に逃れようとするが、女性Bの肉体的優位性に強く嫉妬している。一方女性Bは敵対的関係にある女性Aのことを「ぺちゃぱいのくせに!」とののしるだろう。しかし、彼女の女性Aより自分の方が、頭が悪いということに対する劣等感は、悪質なものではないのである。それに対して、女性Aが女性Bを見て感じる肉体的な劣等感は、きわめて悪質なのである。

頭のいい女性Aは、社会的な地位として女性Bを超えている。しかし、彼女はどうしても満足できない。どうにも理性的には処理しきれない不快が、日夜彼女に襲いかかってくるのである。彼女は肉体的に女性Bより劣っているという不快感を、「頭が悪いくせに」などという論理ではとうてい解消できないのである。自分は頭がいいという優越感でそれを埋めようとしても、どうにも埋められず悩まされ続けるのである。肉体的に劣っているということに、我々は最も大きな劣等感を感じるのであり、性質の悪い不快が女性Aを一生苦しめるのである。一方、女性Bは快活な一生が送れる。頭が悪いという劣等感は、別のことで埋めることができる。肉体的に優位な者は、結婚相手にも恵まれるのである。彼女は幸せな生涯を送れるだろう。

頭が良い、肉体的に優れている、という二つの優越感は、その質がまったく違う。我々は《本能的》に肉体的優位性を最高に求めている。また、「肉体的に劣っている」という劣等感は、「頭が悪い」という劣等感に比べて、はるかに悪質であるのだ。この劣等感は、我々を煮えたぎるようないらいらからけして解放しないのだ。

一九七〇年一一月二五日に割腹自殺した作家の三島由紀夫(一九二五年生まれ)は、一九六二年頃からボディビルディングを始め異常なほど熱中した。そして筋肉がついた体に大きな喜びを感じ、機会あるごとに裸になり、「薔薇刑」と題する自らのヌード写真集を出版した。小さいときから自分の貧弱な体に劣等感を感じていた彼は、作家という知的な活動の成功よりも、肉体的な優越の方により大きな喜びを感じるようになってしまったのだ。それは、生まれた時から肉体的に優れている者に比べ、はるかに大きなものとなるものだ。彼にとって、筋肉もりもりの自分のエロティックな身体を眺めることによる快楽は、《知的世界》での快楽をはるかに上回るものだったのだろう。

 

五一.情報通

いろいろなことを知っている者がいる。それはいろいろなことについて興味があり、積極的に知ろうと思っているからである、と言いたくなるが、それだけでは重要な情報を誰よりも先に知ることなどできないだろう。重要な情報というものは、自分の力だけでは手に入れられないもので、他人の協力が必用である。

魅力ある者のところには人が集まってくる。その者たちは、彼(彼女)のところにできるだけ留まれるように、面白い情報を用意してくる。その中には極秘情報もある。彼(彼女)のところには、このようにいろいろな情報が集まってくるのである。誰もが魅力的な者と親交をもちたいので、相手に興味がありそうな「貢物」を惜しげもなく持参してくるのである。彼(彼女)はどこに行っても相手が歓迎してくれる。相手は彼(彼女)を退屈させないように、知っている面白そうな情報や、言ってはいけないような情報をもどんどん話してしまうのだ。まるで、言わされてしまうという感じである。彼(彼女)を前にすると、誰でも魔力にかかったように何でもしゃべってしまうのだ。

その反対に、魅力なき者、嫌われ者のところには人は集まらず、たとえ来たとしても、必用なこと以外はしゃべらずさっさと帰ってしまうので、おもしろい裏情報は何も聞くことができない。他人の力を利用できないこの者は、集団の中で生きることが困難になっていく。

重要な情報を早く手に入れるということは、きわめて有利な状態となるのである。一方、それができない者には恐ろしく、絶望的な終極が待っているものだ。伝える必用がある情報でも、相手をバカにしていたり、嫌いだったりすると、伝えないこともあるのであって、これは「いじめ」の部類に入るのだろう。

 

五二.どうして、思った音を声として、正確に出せるのか

我々はある音を思い浮かべられ、さらに声や口笛でその音を正確に出せる(音痴以外の人の場合)。ある音に対応する声帯や口の形を、我々は試しもしないで、瞬時に間違いなく決められるのである。しかし、我々の意識はそれをどうやっているのかは感知していない。ただある音を出そうと思うだけで、体がかってにその器官の形を決めてしまうのである。つまり、この作業の肝心な部分に我々の意識は参加していない。無意識の中で行なわれているのである。

このようなことは、声や口笛以外の我々にあらゆる行動で起こっていることで、「我々」と呼ばれる我々の意識は、我々を完全にコントロールしているのではなく、肝心な実務をこなしている者が意識とは別にいることは確かなのである。むしろ我々の意識がその者に従属しコントロールされていることは確かなのである。

 

五三.良いものは一発でできる。

明日のことはわからない。今日、どんなにうまくいっていても、明日うまくいくかどうかとは関係ない。これまでのもの、実績、準備などが、明日のことに役に立つかどうかはわからない。成功は積み上げていくものではなく、一発で決まるものなのである。もちろん成功のためには、永い準備が必要な場合もある。

このことに関連したことで、良いものを二つ合わせても、さらに良いものはできず、むしろ悪くなる。ある成功が発展していってさらなる成功をもたらすことはない。たいていの成功は単発で終わる。だから、一つの成功にしがみついている者はやがて没落する。真の天才は、一生の間にその様式を変えていく。ベートーヴェンなどは、うまくいった様式に行き詰ると、その様式を捨て新たなる様式に移り、三つの様式を作った。

世の中は我々の把握しているつもりのメカニズムとは、まったく違うしかけで動いているのだ。

 

五四.魅力的なものは意図されたものではない

意図された行動や未知さのない行動は人を魅了しない。前日から考えていたような冗談はそれが相手にわかるもので、まったく面白くないのである。即興でやったものはそれを見ている者にもそれがわかり、気持ちよく笑えるものだ。意図し、計画された行動は、それが相手にバレてしまったとき、その効果は反転する。それはいやらしく見え、全てを台無しにしてしまう。当人をわかりきった、未知さのない、安っぽい人間と見せてしまうのである。

その場で考え、いままでの経験にあまり頼らず、人に聞かず、判断し、実行できる人は、相手に不明さを感じさせ、相手を魅了する。この人は自分の行動のメカニズムを、けして他人に推察されないですむのであり、「ふところの深い人」とも表現される。魅力あるものは必ず不明さ、未知さがあり、それがあるものは必ず魅力ある者となる。

 

五五.集団の代表

我々が二人以上の集団を見たとき、頭に残る者はたいてい一人であり、その者がその集団を代表してしまう。その他の者はほとんど印象に残らないものだ。我々はこういうとき、一人の人間しか見られないようで、最も魅力的な者を見つけようとするのだ。そして、その者のみを相手とするのである。ある集団の代表は他人から見ても、集団の中の者から見ても、ある一人の者であるのである。実際、その集団の中の者は、本能的にその代表者に敬意を表し、付き従っているのである。

昔、「世界ビックリ大賞」という番組で、大きなバストをもつ米国の女性が二人出てきたことがある。一人は「ビッグバスト」と呼ばれ、異様にでかいバストをもつ、もう一人は「ビューティーバスト」と呼ばれ、形の良い、バランスがとれたバストをもつ。ここでも、前記のようなことが起こった。つまり、カメラマン、司会者、ゲストが皆「ビューティーバスト」の方ばかりに集まり、二人を対等に相手にしないのである。カメラマンはハンディーなカメラにより、大きなバストをしたから見上げる角度から撮影していたが、「ビューティーバスト」ばかりであった。

「ビューティーバスト」の方は、ホステスになれば客が多く来ると思えるような、話を聞いてもらいたいような、母親のような雰囲気があった。それは、体全体から感じられた。誰もが、彼女には敬意を表さずにはいられないような、大きな価値を感じてしまうのだ。前にも記したように、人間においては顔、体形、肉付き、声、しゃべり方、しぐさなどは独立していないのだ。魅力的な者では、それらのもの全てが優良であるのだ。さらには、家庭環境もいいという始末だ。その逆に、悪いものがここまで重なるものなのかと思うほど悲惨な者もいる。せっかちに話すことしかできない者は、いかにもせっかちそうな顔をしていて、声もしゃべり方も身のこなしまでもが下品なのである。これらのものは、一つのもののいろいろな表現であるにすぎないのではないかと思ってしまう。このように、科学的に、常識的にまったく関係のないと思われていることの間には、実は我々が知ることのできないある関係が、しっかりあるのではないかと考えられるのである。

「ビッグバスト」の方はバストは特大なのだが、顔も体もしぐさも人を引きつけるものがない。バストはでかいのにあまりセクシーでなく、話をしてもあまりこちらを引き込むことができないのである。これは、見た人全てが共通に感じたことだと思う。この人のどこが悪いのかは、いまだに私にはわからない。しかし、私の体はそれを知っているのだろう。

 

五六.人が集まっているところには、必ず魅力的な人がいる

ある人が何かをやっていたり、TVを見ていたりすると周りの人が来ていっしょにそれをやったり、TVを見て話が盛り上がったりする。しかし、別な人が同じ事をやっていても、誰も寄り付かない。つまり、人はそのやっている事に集まってくるのではなく、やっている人との交わりを求めてやってくるのである。魅力ある人がやる事は、無条件に人を引きつけるのである。魅力ある人のもち物も魅力あるものになる。服でもそうであり、恰好いい人が着るとどんな服でもステキに見える。

 

五七.焼却可能なゴミと生ゴミ

私がある会社にいたとき、鋭い直感をもって各人の特徴を指摘する同僚の隠喩に、しばしば感心したものだ。彼はあるとき、ある同僚のことを「生ゴミ」とたとえた。そして、私のことをついでに「焼却可能ゴミ」とたとえた。これは、この二人の特徴をみごとにあばいていたのである。このたとえられた二人は、どちらが喜ぶべきなのであろうか、どちらが悲しむべきなのであろうか? この場合、汚く、危険で、不気味で、近寄りがたい「生ゴミ」は、脂ぎっていて、たくましく、野生的で油断ができなく、相手を威圧し緊張させ、しかもセクシーなものを思い起こさせ、つまり、優秀な者・強者に対する隠喩なのである。一方、さっぱりとした「焼却可能ゴミ」は、知り尽くされ、生命力の衰えた、干からびた老人を思い起こさせ、ようするに劣悪な者・弱者に対する隠喩なのである。つまり我々誰もが、我々を最も魅了するものが、清純なものや、きれいでさっぱりとしたものではなく、我々がいやらしいものとするようなどろどろしたものと密接な関係があることを知っているのである。

我々をゆさぶる真に魅力ある者は、生命力あふれる者であり、清純ではなく脂ぎっていて、不気味で不可解で、恐ろしく、下品で、ずうずうしく、野生的な者なのである。操るのに手こずるものだが、頼もしい。そこに誰しもが最高の魅力(我々を酔わせる麻薬的なもの)を感じるのである。一方、「焼却可能ゴミ」とたとえられた者は、生命力のなく、脂気のなく、干からびた、未知さがなく、知り尽くされた、魅力のない存在ということだ。このような者にはよいパトロンもつかないし、よい結婚相手も見つからないものだ。

 

五八.人気の長続きする歌手について

人気が長続きする歌手とそうでない歌手がいる。歌がうまい者はたくさんいる。人気が長続きする者は「歌唱力がある」というのではなく、声、歌い方、あるいはその体に魅力がある者である。この声、歌い方の魅力は次々に生み出されていき、決まったパターンはない。どのような声、歌い方が我々を魅了するのかは、人によっても違うし、魅了されてみなければわからない。

二〇〇四年には、平原綾子という人が歌う「ジュピター」という曲が大ヒットした。私はこの曲を車のラジオで聴いたとき驚いたものだ。曲の始めに低音で歌い出されるその声には、極めて我々の本能を刺激する、ある種の下品とも言える濃厚なダシがきいていた。曲に対して声が勝っていた。この人の低音の声はすごかった。さらりとした品の良い声というより、何かどろどろした肉体的魅力を感じたのであった。

これと同じことが言えるのが宇多田ひかるという人だ。この人の声、歌い方も、エロティックなものが我々を最高度に引きつけるのと同じに、我々を引きつけてはなさない。

昔ある女性歌手がいて、クリスタルボイスと言われ、他にまずいないような品がよく、安定した声をもっていたが、宇多田ひかるのような大ヒットにはつながらなかった。彼女の声や歌い方はあまりにも清らか、優等生的で、エロティックなもの、汚いもの、くさいもの、おぞましいもの、野生的なもの、生命力あるもの、ドロドロギトギトした脂ぎったものがまったくないのである。麻薬的なものも希薄だった。我々の最も強く欲するところに、切り込んでくるものがないのである。

人を強く引きつけ続けるには、道徳的に禁止されているような要素――たとえばエロティックなもの――が必要だ(フランスの思想家バタイユは、エロティシズムとは禁止の侵犯であると言っている)。彼女らはそれを秘かにちらつかせて、我々を麻薬のように引きずりまわすのである。けして逃れることができない我々の強い欲望を刺激する術を知っているのだ。米国の歌手マドンナを見ればわかるだろう。下品と言われる彼女は、前記のような要素を全てもっており、それらを総動員している。ある種のくさい臭いに、我々が引きつけられるように、彼女から出る悪臭は、我々を強く魅了するのである。つまり、我々の不快を中和してくれるのである。酒やタバコがやめられないように、また、ある種のくさい臭いに引きつけられるように、我々はマドンナをやめられなくなるのである。毒は毒で制する、ということだ。単なるおいしい食べ物や飲み物ではいけないのであって、人を依存症にしてしまうような《麻薬的なもの》をもっていなければならないのである。また、体形についても同じだ。あまりにもバランスがよい体には魅力がない。あまり長すぎる足をもつ女性はセクシーではない。足は少し短いくらいのほうがセクシーであるのだ。あまりにも整いすぎた体には、魅力もセクシーさもないものだ。顔でも、バランスが少しくずれたような少しおかしなところに、我々は大きな魅力を感じるのである。

以上が人気を長続きさせることができる者についての、私の一つの考えである。だからといって、人を強く引きつける声、歌い方とはどのようなものかはわからない。だから良い歌手は作ることはできない、発見するだけなのである。アリストテレス以来、美学は一人の優れた芸術家も作れなかったのである(たしか、ショーペンハウアーがどこかでこう言っていた)。

 

五九.「からかい」は、相手の魅力へ対抗行為である

相手に魅惑されたとき、我々はある種の不快感をおぼえる。それがエロティックな魅惑ならば、性欲という不快感をおぼえるのである。不快感こそが、我々に行動を促し、あらゆるりっぱな仕事をさせ、また凶悪な罪を犯させる原因なのである。《感動》や《喜び》と呼ばれているものも、一種の《不快感》であることは確かなのだ!

「いじめ」と「からかい」はしばしば混同されるが、その意味はまったく違う。相手を叱ったり、からかったりすることが、相手への好意や尊敬の現われであったりすることがある。我々は相手に魅了されたときに感じるある種の不快感に対処するために、いろいろな行動を起こさなければならないのだ。たとえば優しくする、ほめる、叱る、いじめる、困らせる、笑わせる、驚かせる、怒らせる、脅かす、ひわいなことを言う、などである。とにかく、やたらにかまいたくなるのだ。「呼捨て」で呼んだり、「ちゃんづけ」で呼んだりするのは、相手に対するこちらの敬意を陰にアピールしているのである。そして、そのときの相手の反応を見ることにより、相手に魅惑されたというある種の不快感に対処しているのである。

我々は何も魅力を感じない人には、このような行動はしない。そういう人はほったらかしにされる。優しくもされなければ、叱られもしないし、からかわれもしない。当然、「呼捨て」にもされないし、「ちゃんづけ」で呼ばれることもない。

 

六〇.誰もが魅了される非利己的な行動の裏

非利己的な行動は美しく、我々を魅惑する。しかし、この行動の裏には我々のおぞましい利己的な計略が潜んでいるのである。この行動は我々のおぞましい利己的な欲求を、「高級な方法、見栄えのする方法」で満足させているのである。「良い人」つまり、自分を犠牲にし、他人のためにつくしてくれるような人は、実は何かを偽っているのである。つまり、それで失った分を別な何かで取り戻す、もしくはそれ以上のものを得ようとしていることを隠しているのである。そのことによって自分を恰好よく見せ、あるいは、自分自身の中だけで優越感に酔い痴れるためにそのような「めんどうくさい手段」に勢力を払うのである。つまり、自分を魅力的に見せかけたり、自分の魅力を自分自身で感じたりして満足するという「高級な趣味」が、そういう人にはあるのである。人を助けるために命をかける行為にも、そのようなものがあると言わなければならない。だからこそ、「高級な趣味、高級な欲求充足手段」と言われるのである。ときには、自分の身を危険にさらし、自分の財産を投げやることもある。しかし、彼らはそれにより、ある満足感を得ようとしているのである。見返りを求めない行動というものはあり得ないのであり、我々人間の行動というものは、その人の頭の程度に応じたやり方で、ある欲望を達成しようとしているのにすぎないのである。あらゆる行動には、必ず利己的な欲望が作用しているということだ。世の中に聖的なものなどはないのであり、勇気をもって言うのだが、火事を見に行くのも、電車のホームから転落した人を命がけで助けようとするのも、元は同じところから出ているのである。

ここで、前出のニーチェ善悪の彼岸」から、関連したところを引用しよう(前記のことは、私が独立に考えたことであるのだが、つぎの文章は一〇〇年以上も前にこれとまったく同じ事を言っているのである! ――文章の格は段違いであるけれど)。

 

*現今《利害関心なき人間》というものが大いに一般民衆の称讃を博しているのを見るにつけて、われわれは、いささか危険とは思いながらも、民衆が真に関心をもつものは何であるかを、また、およそ一般庶民が痛切に深く心にかけるものは何であるかを、はっきり理解しなければならない。ここで一般庶民というものには、教養人も、また学者も含まれるし、なおまた全くの間違いでないとすれば哲学者も含まれるとみてよい。そこから次のような事実が明らかになる。つまり、繊細な洗練された趣味をもつ者たちや、すべて高級な本性をもつ者たちにとって興味があり魅力があるものの大部分は、一般人には全く《興味がない》もののように見えるという事実である。――それなのに一般人は、そうしたものに打ち込んでいる者を見ると、それを《利害関心がない》(無私無欲)と呼び、どうしてこう《無関心的》に振舞うことができるのかといぶかる。こうした民衆のいぶかりの念を、魅惑的な神秘的・あの世的表現にもたらしさえした哲学者もあった。(――おそらく彼らは高級な本能の人間を経験から知ることがなかったからであろう?)――。ところが彼らは、かかる《無関心的》な行為が条件いかんではまことに興味ある利害関心の行為であるという、あるがままの真実に正しい真理を、提示することがなかった。―― ――「そんなら愛はどうなんだ?」――なんだって! 愛からでた行為は《非利己的》であるとでもいうのか? なんたる馬か者だ――! 「また、自己を犠牲にする者は称讃される、だって?」だが、じっさいに犠牲をはらった者なら、自分がその代わりに何かを望み、それを手に入れたことを――おそらくは自分の何かをささげた代償として自分に必用な何かを手に入れたことを――知っている。また、自分がここで何かを犠牲にしたのは、かしこでそれ以上のものを獲えるためであり、おそらくは総じてより以上の者でありたいため、あるいは、ともかくも自分を《より以上》の者と感じたいためであることを、知っている。

 

六一.魅力的な者は恐いもの知らず

大病をした者は健康になっても、何か病気になる前とは違ってしまい、魅力的なものが一切なくなってしまうものだ。その当人にとっても、世の中は魅力的なものとは思えなくなってしまうのである。物理学者のアインシュタインも大病をしたが、病後はあの夢見るような不気味で余裕のある美しい顔つきではなくなってしまった。生真面目さが深い顔つきになってしまった。生命力あふれ、恐いもの知らずで、無知で、無神経な状態が、我々に大きな魅力をもたらすのである。

世の中は危険に満ちている。しかし、我々はそのほとんどを知らないでいられる。知らないということが我々に健康というものをもたらすのである。我々の幸福とは、いかにいやなことを知らない、感じない、見ないでいられるかということなのである。一五三三年生まれのフランスの思想家モンテーニュは著書「エセー」の中で、『私の生涯は危険に満ちていた。しかし、恐れていたことは何一つ起こらなかった』と言っている。極端な例では、その危険さに鋭敏になってしまった強迫性障害の患者は、生きることすら困難になってしまう。健康であることは、余計なこと知らないこと、知る能力がないこと、楽観的であること、という一つの《欠陥》によりもたらされるのである。知りすぎた者には明日はないのである! 

ニーチェは、ニーチェ道徳の系譜」(信太正三訳、筑摩書房)で、『生真面目さは、生命力が衰えていることを示している』と言っている。生きること、快楽を得ることだけに専念できる状態は、人間を最も強く美しく見せる。世の中で苦労したり、病気をしたりして、世の中の恐ろしいところをたくさん知ってしまい、おじけづいた者は生真面目になっていき、強さも魅力もなくなってボロボロになってしまうもので、しかも、悪いことは重なるもので、たいてい宗教的になっていくのである。

 

六二.強者について

強者は相手に恐怖感を与えるが、相手はこれによりある不快を中和することができるのである。強者と付き合うことは、一つの快感なのである。これに対して、弱さ、つまり、頭の悪さ、身体的な弱さ、運命の悪さ、貧乏、要領の悪さなどは、相手を不快にするものなのである。前記のように学校でも、恐くない先生の授業はだるく、不快が溜まっていく。それに対して、恐い、あるいはうまい(頭が良い)先生の授業は、勉強という不快を中和してくれるのである。

強者においては、その強さがスパイスの役目を果たし、当人の醜いところを隠し、相手自身が感じている不快をもまぎらわせてくれるのである。つまり、うまく相手を「騙す」ことができるのである。ところが弱者においては当人の醜いところを、相手はしっかりと見せつけられてしまうのである。

 

六三.目の利口そうな人

前にも記したように、相手の体や顔を見ると、その人の性格や体質がわかるものだ。つまり、精神と肉体は関係しているということである。現在では、体形と性格が関係あるというクレッチマーのアイデアに従う者は少ないと思うが、実は無関係ではないのである。

また、「頭が良さそうな目をしている」と言われる。確かに、頭が悪い人の目を見ると、トローンとしているのだ。これは不思議だ、ただ顔に穴が開いていて、そこに誰でも同じような眼球が入っていてそこに瞳があるだけなのに、どうして大きな違いを表現できるのだろうか。

我々は顔だけではなく、体・歩き方・後ろ姿、そしてあらゆる動作や考え方から、相手の性格・頭の程度・状態などを推測しようとする。我々は重い痴呆の人の顔を見ると、正常でない精神状態を感じるし、気分の悪い人の顔から相手の気分の悪さを感じることができる。これは当たり前のことだと思っているかもしれないがそうではない。目の前のものの状態を察知することができるのは、目を含めてそれを可能とする「しかけ」が我々にあるからだ。我々が相手の顔や体や動作によって相手の状態を推測できるのは、我々の体にそれを可能とする「しかけ」があるからだ。足が長いことがどうして恰好いいかは説明できないが、誰もがそう思っている。目の大きいことがどうして美人の条件なのかはわからないが、これに異論を称える者はいないであろう。

ヨーロッパの車は、誰が見てもヨーロッパ風に見えるし、アメリカの車、たとえばシボレー―あの十字の簡潔なエンブレムは世界最高のものだと、私は思っている――は誰が見ても日本車とは違うデザインがあり、独特の美しさ・恰好よさを感じる。しかし、いったいどこが日本のデザインと違うのか我々にはがわからない。これは、我々の意識の中では整理できないもので謎なのだ。我々はこのような判断を生まれたときから誰もが共通にするようになっているのである。これらの感覚は学ぶのではなくて、どこからか到来するものなのだ。つまり、そうなっていることが美しく、あるいはセクシーに見えるように我々の体は誘導されているのである。恰好いいもの、かわいい顔、セクシーな体がどのようなものでなければならないかの判断は、我々の意識がどこからかコントロールされている、ということなのである。男性は小さいとき――私などは幼児――から、おっぱいの大きい女性を見ると興奮し、あるところが勃起するようになっているではないか?

我々は頭がよい人の体つきと行動がどのようなものなのかを、生まれながらに知っている、あるいはどこからか告げられているのである。目が利口そうであるのではなくして、顔全体、さらには体全体からくる印象を、目のせいだと思い込んでしまっているだけなのである。

「頭のよい人はよい顔をしている」と言うなら、「よい顔とはどんな顔か」と質問する。それに答えて「あそこがこう、ここがこう」などと答えるならば、「どうしてそこがそうなっているとよいのか」と質問する。これは無限に繰り返すことができる。つまり、我々にはわからないがそう感じるだけのことであって、その根拠を我々の意識は知らないのである。もっとわかりやすく言えば、我々は何も判断していない、それはどこからか到来したのである。

我々の意識は頭のよいかどうかを、現物が目の前に現れたときに初めて判断できる。しかし、頭のよい者はどのような外観をしているかを説明できない、つまり知らない。我々の意識はその判断のメカニズムをまったく知らないが判断できてしまう。我々のこのような判断のメカニズムは、意識の中にあるものではない。それは意識以外のところ(フロイトに言わせれば無意識・エス)から意識に届けられるのである。だから、我々は、頭のよい者の特徴が目に、顔に、体に、その動作にどのように現れているかがまったくわからないのである。我々の判断のメカニズムはいつも謎なのである。

余談になるのだが、科学や哲学とは何か、という問題についても同じことが言える。広辞苑には、「科学とは、体系的であり、経験的に実証可能な知識」、「哲学とは、諸科学の基礎づけを目ざす学問。世界・人生の根本原理を追求する学問」とあるが、この説明は、歴史上成果のあった科学や哲学の仕事の一例を示したのにすぎず(たとえば前記の広辞苑の哲学に関するはじめの部分は、ドイツの哲学者フッサール現象学の説明である)、これでは科学や哲学の「心」をまったく感じることはできない。科学や哲学《そのもの》について何も説明できてなく、素人がこれを読んでも何もわからない――これは、偉大な音楽や文学や哲学を、解説書などで理解することが不可能であることと同じだ。わかる者ならば、「ある考え」が科学的であるのか哲学的であるのかは、直感的にわかるものだ。しかし逆に我々は、科学とは、哲学とは、という質問に答えることは不可能なのである。それらについての論理的な説明は、我々の意識の中だけでは不可能なのである。歴史上の偉大な科学者・哲学者の仕事には、それぞれ共通の何かがある――だからそれらを科学・哲学と分類できるのである。しかし我々には、それを説明できないのである。それは、我々が目の前に現れた人間の顔を、良い顔・醜い顔に分類することはできても、良い顔・醜い顔とはどのような顔なのかを説明できないことと同じなのである。我々が良い顔・悪い顔を判別する基準は、意識の中にはないのである。だから画家は、魅力的な女性を描くのにモデルを必要とするではないか。想像だけで魅力ある女性の絵を描いた者があるだろうか?

 

六四.呼捨てにされること

「呼捨てにされなくなって・・・」なんて歌詞がある。このことからも、呼捨てにされることがよいことであることが、たいていの人にわかっているのである。相手を呼ぶときに「先生」をつけたり、目下のものでも「さん」をつけたりして呼ぶことは、相手をバカにしていることなのである。これは相手に尊敬の念・脅威・肉体的な魅力などを感じていないことだとも言える。この「肉体的な」というのは、下品な意味でのことだけではなく、我々の「体」が判断する魅力・価値のことなのである。我々をわくわくさせるもの、緊張させる何かなのであり、当然、下品な意味のものも大きな地位を占めている。前にも記したように特別な状況でないかぎり、肉体的優位性は、頭脳的優位性よりも常にはるかに上なのである。

呼捨てにされる者は、相手に大きな興味を抱かせ、対抗意識を感じられている。つまり、相手を自分と同等かそれ以上の者と意識し、それとの同調・格闘・にらみ合い・様子うかがい・探り合いをしているのである。つまり、挑発しているのである。その未知なる者・魅惑的な者・油断できない者・自分より上位である可能性のある者に対する冒険心なのであり、自分の把握できない者への特別な感情なのである。バカにされてしまっている者は、把握されたつまらないものと判断されてしまったのである。そこからは何も取り出すものなどない「だしがら」のようなものと判断されてしまった者なのである。それに対して、未知の者であると思わせる者には、誰もがワクワクさせられる。肉体的に優良な者・生命力あふれる者・野性的な者は相手を常に最高に魅惑する。このような者は相手にけして飽きられない。相手の中からすごいものが出てくるのではないかと、相手に半ば期待させ、半ば恐怖させるのである。プレゼントされたものは、ふたを開けるまで我々を興奮させるものだ。また、相手が優良であればあるほど、相手に自分をよく見せたいという虚栄心は大きくなるものだ。

相手を呼捨てにすることは、我々が相手に対して緊張感をもち、期待し、敬意を示しているということから必然的に出てくる態度であり、相手にそのような自分の判断を知らせるための行為でもあるのだ。だから、相手にそのような価値を感じなくなると、呼捨てで呼ばなくなってしまうのである。そのときには、相手を真剣に呼ぶということがバカバカしくなり、「おふざけ」が始まる。二枚目でいることが困難になり三枚目に落ちてしまうのである。「先生」とか「さん」という余計な言葉をくっつけ、「こちらには真剣さがないよ!」という気分を現してしまうのである。

 

六五.動きの中で現れる魅力

制止しているときにはとてもステキなのに、動き出すととたんに興ざめしてしまう者がいる。また、写真を見たときには良かったのに、実際に会ってみるとがっかりしてしまうような者がいる。その逆に写真では印象が薄かったのだが、実際に会ったらステキな者だったということもある。また、何も事件がないときには、冷静で頼もしかったのに、事件が起こるとあわてふためき、自分だけ逃げようとし、誰もがこれを見て興ざめしてしまうような者もいる。つまり、この者は自分で判断して行動していかなければならなくなると、その無能ぶりを露呈せざるを得ないのである。人の能力は動き、変化、危機的状況の中で現れるのである。何も事件がなければ、たいした違いは出てこないものだ。誰もがただすましていればよいのなら、人の差というものはそれほどないのである。しかし、何か事件が起こり、判断や行動をしなくてはいけなくなると、人の間に大きな違いがでてくるのである。

このことは、人間の肉体についても言えることだ。肉体の魅力はある動きの中やある姿勢をしたときに初めて現れるものだ。ただ立っているときには感じられなかったのだが、しゃがんだり、かがんだり、ひざまずいたり、座ったりしたとき、その肉体の美しさやセクシーさが初めて現れるものだ。ある姿勢をしたときの見栄えの良さは人を特に引きつける。このような者は真に体形の優れている者なのだ。その逆に、ただ立っているときには恰好よく見えた者が、ある姿勢をとったり、ある動きをしたりしたとたんに、ぶざまな姿を見せてしまうことがある。

不安定な状態にされたとき、何かをもったとき、のっぴきならない状態になったときにその者の本性が出るのだ。その者の性格、骨格、肉付きの様子などが明るみに出るのである。素質は動きの中で暴かれるのである。優れた者は、動きの中で優位なところを露呈し、だめな者は、動きの中で骨格の悪さ、肉付きの悪さ、無能さを露呈してしまうのである。

 

六六.ブルックナーの音楽の不気味で残忍な魅力

一八二四年生まれのオーストリアのオルガン奏者であり作曲家でもあるアントン・ブルックナーは、今やドイツ四大B(バッハ・ベートーヴェンブラームスブルックナー)の一人と言われる大作曲家であり、一一曲の交響曲を残していて、世界中に熱狂的なファンをもつ――私もその一人である。その曲は、日本では「清らか」と言われ清潔なイメージが大きい。しかし、私はこの見方に納得ができない。私が一五歳のとき始めて聴いたこの作曲家の曲は「交響曲第五番」であったが、その印象は冒頭から不気味で恐ろしく血の臭いがするような残忍さを感じたものだ。それ以来、その《不気味さという魅力》にとりつかれている。ベートーヴェンを別にして、私はブルックナーの曲を最高に愛好していて、体の一部になってしまっている。ブルックナーの音楽を知り尽くしている(つもり)私には、前記の「清らか」という表現は全然理解できないばかりか、無知な者の歯の浮くようでつきなみな優等生的発言と見えて、きわめて不快なのである。私は――全人類も間違いなく――、清らかなものには強く魅力を感じないのであり、恐ろしく不気味なところに最高に魅力を感じているのである。つまり、ある種のいやな味やにおいや残忍なものに引きつけられるのと同じである――民放のTVニュースでも、殺人や火事や事故ばかりが取り上げられるではないか。彼のどの曲を聴いても、不気味・陰湿で薄気味悪い。これは我々の不気味で恐るべき願望を表しているのかもしれない。彼の音楽には、キリスト教徒特有の残忍さや不気味さがあると言ってもよい。「清らかさ」というのは、ドイツの作曲家メンデルスゾーンやその友人のシューマンによる曲のようなものをいうのであり、だからこそ、失礼ながら彼らの音楽には魅力も薄く、熱狂的ファンがいないのである――と言ったが、私はシューマンの「ピアノ協奏曲」を誰よりも愛する者である。人を強く引きつけ、人気の長続きする歌手の話で前にも記したように、我々を長期にわたって濃厚に魅惑し続けるものは、けして清らかなものではないのである。清らかな歌手の寿命は極めて短いのである。長続きする歌手は絶対に清らかでなく、不気味でセクシーで脂ぎっていて下品で薄汚く悪魔的であり、つまり、必ず麻薬的要素をもっているのである。我々は清らかなものにあこがれたいのであろうが、我々の体はもっとドロドロしたものを欲しているのである。

雑誌「ラジオ技術」(二〇〇〇.11、アイエー出版)において、是枝氏は、DVD版の朝比奈指揮ブルックナー交響曲七番について次のようなことを言っている。

 

*さて、このDVDですが、典型的な日本的な美意識のブルックナーだといわざるを得ません。・・・朝比奈じいの演奏には一部熱烈なファンがおられるようですが、じいの演奏はその方々にとっては唯一無二のブルックナー解釈なのでしょう。ただしこれは本盤での印象であって、演奏会場ではまったく異なる可能性はあります。だいたいにして、ブルックナーの作品はアルプスの雪のごとく清らかなるものだという認識が納得できません。私はブルックナーの音楽にも悪魔的な匂いを感じます。それを感じさせない演奏は好みではありません。バッハの「マタイ」も天国的な美しさと汚れ切った人間の暗闇が同居しているではありませんか。その二つがあってこそ真の音楽でありましょう。

日本人は清らかさだけを重視しすぎます。キリスト教およびキリスト教文化に対する素朴な信頼と誤解がその根底にあるような気がします。ブルックナーは朴訥な人柄であったでしょうが、あのワグナーにいわば臣下の礼をとったではありませんか。ブルックナーの本質はそこにあるといっても過言でありません。

 

六七.魅力ある者は引きつけ、突き放す

魅力があり、能力がある者は相手を引きつけるが、相手をある距離より近づけない。相手を引きつけておきながら、相手が接近しようとすると突き放すのである。つまり、相手を宙ぶらりんにしてしまうことができるのである。つまり、相手をけして安定状態に安住させない。だからこの者は、自分の内部事情を相手に知られることを防ぐことができるのであり、他人から見た自分の価値を長きにわたり高く維持することができ、人と安定した関係を長きにわたり持続できるのである。

 

六八.価値ある者は何をやっても不快に感じられない

価値あると思われた者は相手を不快にしない。偉い、強い、魅力的である者の行為は、全て好感をもって良く解釈されて受け入れられるのである。それは、それらの者から感じられる高い価値が、趣味や見解の不一致によって生じる不快を全て中和してしまうからだ。古くなった物を食べるには、香辛料を多量に入れれば食べやすくなるし、場合によってはよりうまくなることもあるだろう。古くなった刺身を食べるとき、わさびを多めにつければおいしく食べられる。どんな行動、考えでも、その者の価値がわさびのように効いて、相手に不快を感じさせないようにしてくれるのである。前にも記したが、学校では恐い先生が好かれる。恐いという「わさび」により、耐え難い授業がより面白く感じられるようになるからだ。

魅力ある者はつねに「わさび」のようなものをもっていて、相手にそれをかけ、麻痺させてしまうのである。だから、その者がどのようなことをやったり、言ったりしても周りの者は不快にならないのである。自分の好きな者のやることは正当に見えるのである。「正当」とは「好ましさ、気持のよさ、自分の利益になること」くらいの意味しかなかったというわけだ。我々が「正当」と判断するとき、そこには必ず「自分の利益になるか? 気持がよいか?」が考慮されているものだ。我々は自分の利益になるものを「正当」という公認されうる形に仕立て上げる作業を、無意識的にやっているのである。だからこそ、「正当」は人によって、国によって、民族によって、宗教によって異なるのであり、《本当に正当なもの》などはないのである。

相手自身に好感をもっているか、相手から何らかの利益を得ている場合、その者の行動、言動については心の底から好ましく見えるものなのであり、「正当である」との判断が迷いなく下されるのである。そして、その逆の場合には何もかもがいやらしく、憎たらしく、醜く感じるものなのであり、それは「不正」という判断を我々に強要してくる。そして、我々はその判断を《正当化》するために、我々は後からこじつけられた不当さの理由を並べ立てるのである。

 

六九.我々の本性は相手により変わる

我々は相手の言っている内容よりも、相手自身のことが気になるのだ。我々の相手への対応は、相手自信により完全に決まるものなのである。ステキな相手の言ったことは、どんなことでも納得できる。しかし、そうでない相手の言ったことは全て同意する気がしないし、仮に意見が合っても反対したくなるほどだ。まずいものは、どんなに体に良くても食べる気はしない。醜い者の言うことはどんな内容でもいやらしく見えてしまう。

我々は相手により、基本的な考え方までも変えてしまうものだ。我々が確固たるものと思っていたものが、その場の状況により大きく変わる。そして、我々はその行動に後からもっともらしい理由がとってつけてしまうのである。我々の本性は相手を決めなければ決まらないのである。自分の好きな相手には善良な自分を演じる、しかし、どうでもいい相手には極悪になる。前記のように、我々は態度だけではなく、考え方も相手によって変わるのである。我々の本性は相手によって決まる。相手に関係なく存在する絶対的な本性などはないのである。我々は他との関係によって自分を決めるのである。

 

七〇.両立しないものを求める者たちへの忠告

「独創的であり、協調的な人になってもらいたい」と言う者がいる。しかし、この二つは両立しないことなのだ。独創的な者はけして他人とは協調できない。だからこそ、よっぽど成功でもしないかぎりは、不幸な人生を送ることになる。独創的な性格は誰にも進められるものではないのであり、きわめて危険な人生となるのである。独創的とは協調的でない性格のことを言うのであり、うまくいかなければ多くの敵の中で苦しく生きることになるのである。

協調的である者は自分自身の考えというものをもたず、昔から言われていることや権威のある者の意見により、自分の行動を決めるほかはないのである。だからその行動は相手に依存しているのであって、必然的に協調的になるのだ。これは道徳的に優れている者と言うより、自分でものを考え出す能力が欠如している者と言ったほうがいいのではないだろうか?

 

七一.協調性についての別な解釈

協調的である人は周りの人と協調すると言われる。しかし、ただ周りの人と趣味・嗜好が合っているだけなのではないだろうか。というのは、彼らは、「独創的で協調的でない者」とはけして協調しようとしないからだ。協調的な人は自分が協調できる人とだけ協調しているのである。つまり、協調的である人とは大多数の人たちがもつ趣味・嗜好をもった人にすぎないのであり、その協調できうる相手が多いので、どこにいっても誰とでも協調できる可能性が高くなっているだけなのである。だから、彼らは「誰とでも協調できる」とふんぞりかえることができるのである。彼らに本当に「協調性」があるなら、どんな人とも協調できるはずだ。しかし、どんな人とも協調できる人などいないであろう。

 

七二.項梁は移動の際、身を隠したそうだ

中国の秦末の武将である項羽(紀元前二三二年生まれ)の叔父である項梁は、甥の項羽と天下を取り始めた頃、移動するときにはその身を隠し、誰にも見られないようにしたそうだ。項梁は「この(貧弱な)身を人目にさらして民衆を失望させることはない。だが、甥の項羽は違う、その身体を見せつけるだけで人がついてくる」と言ったそうだ(司馬遼太郎の作品で、NHNTVで放送されたものより)。

私の場合も同じで、電話でしゃべっているうちは、相手は私に敬意をはらっているのだが、実際に会うとすぐに私を見下す態度になっていくのである。自分の悪いところは全て隠したほうがよいということだ。また、同じように、自分の考えなども相手と趣味が合わないとわかったならば、言わないほうがよいのである。特に自分の主義主張を示すことは、相手を最も不愉快にするものであるからどのようなときでも言わないほうがよい。

 

七三.才能について

学校でも会社でもライバルに勝てないで苦しんでいる者がいるだろう。そういう人はいつもどうして自分は負けるのだろう、と考える。そして、適当な理由を考え出して気分を鎮める。そして努力することで挽回しようとする。「一生懸命になれば何とかなる」という信仰にしがみつくのである。しかし、そうだろうか、我々はそれぞれ固有なものがあり、我々の間には能力の違いがあるのである。才能の違いによる間隙は努力では埋められない。才能の違いというものは、その成果が数倍違うなどというものではなく、不可能であったものを可能にしてしまうのである。一〇と一〇〇の違いではなく、〇と一〇〇の違いである。〇は何倍しても〇なのである。才能のある者はそれがない者が考えもしないようなことを容易に思いつくのである。これは努力で渡れるような間隙ではないのである。

学生時代に優秀な成績を収めてよい会社に入った努力型の人が、才能ある同僚にいっきに引き離されてしまい、追いつくことができずに挫折してしまうという話は多い。特に今までに挫折を経験したことのない人にとって、このような経験は危険である。彼らはこのようなときの対処法がわからず、ただ焦るだけなのである。ただいままでのやり方で単調に走ろうとするだけだ。だから、どこかにぶつかるとおしまいである。才能のある人は挫折したときでも復活のし方をわかっている。才能のある人は準備、学習なしにいきなりよい回答が見つけられるように見えるが、実は凡人たちがぼんやりしているときでも、意識的にも無意識的にも考え続け、準備し続けていたのである。これが才能というものであり、問題が起こる前からそれについて予見し、準備できる能力なのである。

 

七四.均衡と道徳

我々は相手と釣り合いがとれているとき、互いに道徳的になり、あるいは紳士になり、気どって見せたり、欠点を隠したり、いやらしいところを見せないようにしたりするのである。この場合、互いの間は緊迫感があり、良い状態であると言える。戦いで言えば、互いに何もできず、様子を伺っている状態である。恋人同士であれば、結婚前の最もよい時期に相当し、互いに未知なものを期待している。しかし、均衡は維持するのが困難だ。だから、均衡している関係での付き合いはきわめて疲れるのであり、不安定であるのだ。そして、つい根気がつきて、自分のいやらしいところを見せてしまったり、相手のそれを見てしまったりしたとき、均衡はやぶれる。

均衡がない関係には紳士的なものはないのである。二人の間に大きな強弱関係があると、強者の方はだらけてきて紳士的に振舞えなくなる。相手をバカにしたような態度をしたり、相手の前で平気でおならをしたりといった行動が始まるのである。ときにはいじめも始まってしまうのである。

完全な均衡は平和の条件なのであるが、不安定なのであり、短命に終わる。だからこそ、初めから少しだけ差がある関係こそが望ましいのである。

 

七五.仲良しの二人の関係

長期的に仲のよい二人の関係をよく見てみると、対等でないことが多いのである。それは上下関係、強弱関係、好かれた者と好いた者の関係などである。一方がリードして、もう一方がついて行く関係だ。しかし、この場合、下の者は二人が対等であると思っている。しかし、上の者はそうは思っていない。自分の優位さを自覚しているものだ。下の者は二人の関係を重要なものであると思っているけれど、上の者はそれをそれほど重要だとは思っていないで、単なる成り行きであると思っている。しかし、下の者は上の者が自分と同じ気分であると誤解してしまっているものだ。このような関係は安定したものとなる。対等な関係よりも安定しているのである。

相手を自分より下の者としてやや見下して付き合っている者と、相手を「ステキな者」と見なし頼りしている者の関係はうまくいくのだ。安定な関係にある二人の関係は、ある程度差がないといけない。しかし、あまり大きな差があってはいけない。この若干の不平等さこそが平和をもたらすのである。同格の者同士の関係は安定しない。特に、互いが強ければ強いほど、より安定しなくなる。力の釣り合った一流の者の関係は陰険で険悪になるのである。一流の芸能人同士の結婚生活は永く続かないものだ。女性同士の仲もあまりよくない。それは女性が強者であるからだ。母親と息子の関係は一般に良好だ。母親が強く、息子が弱いからだ。母親と娘の関係はよくないことが多い。それは両方が強者であるからだ。男性同士の関係は女性同士の場合より、はるかに安定している。男性は女性に比べ弱者であるからだ。弱くなればなるほど、対等であっても安定した関係を作れるようになるのである。それは、張り合うことなく、権力闘争になることがなく、互いにもたれ合うことができるからである。強者同士はけしてもたれあうことなどできないのである。

 

七六.後についていきたい人、抜いてしまいたい人

我々は道を歩いているとき、前を歩いている人のことがたいそう気になるものだ。自分が敬意を表すべき者であるという判断をした場合、そのまま後ろについて歩いていく。しかし、見下すべき者であると判断した場合には、追い抜いてしまうものだ。自動車に乗っていても同じ事で、前を走るミニバイクがどんなに速く走っていても、後ろの車は必ずこれを追い抜こうとするものだ。我々は相手の行動でなく、相手の価値により自分の行動を決定するのである。つまり我々は、相手の話の内容でなく、相手の肉体や社会的地位により、その話しを好意的に、敬意をもって聞くのか、ぞんざいに聞くのかを決定してしまうという性質があるのである。