SonofSamlawのブログ

うひょひょ

第一部 弟二章 男女の強弱関係

弟二章 男女の強弱関係

――強者、弱者の行動の違いを男女の行動に見る――

 

第一節 はじめに

二〇〇五年五月のTVニュースで報じられたところによれば、六〇才の男性が女装して、公衆浴場の女湯に入っていたそうで、女性の裸を見たかったと言っていたそうだ。また、宅配の職員が社服のまま、コインランドリーから女性の下着を度々盗み、張り込んでいた警察官に逮捕されてしまった。その他、この年には大学教授の手鏡によるスカートの中ののぞき、高校教諭の女子高生のパンティー剥ぎ取り事件、公務員による女性の下着の窃盗などが報じられた。男性の女性自身や女性が身に着けているものに対する関心は強く、イラク戦争のとき、名誉心や退屈による不快の中和のためにイラクに志願して行く米軍兵士のように、そのわいせつな行為は命がけで決行される。彼らはどんな危険による恐れも麻痺させられ、何も感じなくなったように大胆に実行してしまう。そしてその結果、失うものは大きい。これは彼らがおかしいのではなく、男性の本能であり、これがないほうが異常なのである。しかし、女性は男性に対してこのような欲望をもっていない。このように、男性と女性は対等ではない。互いへの関心の種類がまったく違うのである。女性の男性に対する関心とは違い、男性の女性に対する関心はエロティックな要素が多いといえる。エロ本を読むのは男性のみであって、まず女性は読まない。それにエロ本の写真は、全て女性の裸を見せるがためのものなのである。このエロティックな感情というものは、本書の他のところでその正体を説明しているのだが、これはきわめて不快を感じさせるものであり、男性はその不快を中和することを――下品な言い方をすれば、抜くことを――常に迫られているのである。男女の違いは、観る者と観られる者の違いでもある。さらに、もったいぶらない言い方をすれば、つまりもっとわかりやすく言えば、女性は男性より自然界においてより上位の存在であると言えるのである。つまり、男女に関する一部の専門家を除く大多数の者の常識は間違っていると言える。このくだらない(?)問題に関しては、多くの専門家がなんとなく唱えてきたことであるが、ここでは、私の知っている事実・考え・関係のある文献からの引用などを集め、それを徹底的に検討してみようと思う。

男性が主で女性はおまけのような存在であるという見方は、従来の常識的な考え方では、異論のないものだ。この考え方は、太古から今に至るまで、ごく普通の者の間では空気のように自然に考えられてきたのであり、これからも一般の者たちによってそのように考えられ続けられるだろう。女性にとっても男性は、強く、たくましく、女性を上回り、リードすべき者と信じられているのだ。男性の体形は理想的で恰好よく、女性のそれはそれに劣るものという考えもある。女性は主要なことでは、いつも男性より劣っていると考えている者も多い。また、男性も女性も、男性の中にいるより女性の中にいるほうがと疲れると言う。この理由として、女性が男性のようにさっぱりしていないでいやらしいから、つまり、何らかの点で女性が男性より《劣悪》であるからだと言う。しかし、これは本当だろうか? 野村ひろし「グリム童話」(筑摩書房)には、次のようにある。

 

*ボティックハイマーの「グリム童話の悪い少女と勇敢な少年」は、副題(the moral and social vision of tales)の示すとおり、グリム童話の道徳観・社会観を探ったものですが、「悪いのは女の子で勇ましいのは男の子、という役割の分担がグリム童話には埋め込まれている」と言っています。

 

また、カール=ハインツ・マレ「子供の発見」(小川真一訳、みすず書房)には、次のようにある。

 

*そもそも典型的な少年とか、典型的な少女とかいうようなものは、あるのか? あるいは、肉体的なことはさておき、そもそも何をもって、少年と少女、つまり男と女を、実際に区別するのか?

この点については、意見がさまざまに分かれ、未だに統一見解がない。確立していることは一つもなく、わたしたちが確実に知っているのは、女性の寿命が男性より四、五年長いということだけだ。この事実は「弱き性」説に大きなゆさぶりをかけた。しかしまた、この他のすべての説も、「弱き性」説以上のものはない。それらの説の根底をなすものは、大体において事実ではなくて、緯度や世紀、その時々の社会秩序である。さほど遠くない昔、人々は本気で、女性には魂がないと信じていたのだ。

 

このような問題にたけているはずのドイツの哲学者ショーペンハウアーニーチェでさえも、女性をさんざんにばかにしている。女性自身も、たいていそのように考えているようだ。昔は、女性の中に男性になりたいと思っている者が多くいて、男性で女性になりたいと思っている人は少なかった。昔は女性にとっても、男性にとっても、男性は人間の理想だったのである。――しかし、二〇〇八年現在においてそれは逆転していて、世の中は女性中心になりつつある。百貨店の女性下着売り場の規模は、男性下着の売り場の数十倍になっている。先日(二〇〇八年四月)行った床屋での雑談でも、しょぼくれた生気のない男性に比べて、女性は快活であり、たくましく、世の中を支配しているように見える、ということで意見が一致した。自信に満ち、恰好よく、かわいく、二枚目であり、魅力的であるということで、もはや女性は男性を完全に圧倒しているのである。

男性は恰好よく、女性はそれに憧れるだけの者だ、と思っている者も多い。しかし、そうであろうか、誰もがそう思っていてもどこかで、無意識的にそうではないということを、誰もがわかっているのではないだろうか。それをわかっていても、明確に整理できないでいるだけなのではないだろうか。いつも、昔から言われている固定観念に従ってしまうのである。

私はこれから、このような考え方の逆が現実なのだ、ということを詳細に検討し説明していきたいと思う。まず、前出のマレ氏の「子供の発見」の中の「ヘンゼルとグレーテル」の章から引用してみる。

 

*この物語では、普通の夫婦の役割が入れ替わっている。夫はなげき悲しむだけだが、つまの方は考え、そして行動する。冷静に見て、この場面から読み取れるのは、一方の夫は弱く、感性的であり、他方のつまが強く、論理的、理性的だという事実だけである。

このような事実があることを、心理学者たちは、たえず主張しつづけてきたし、またあらゆる近代的研究によっても、この事実は確認されている。おどろくべきことには、このような認識が早くもこの太古の昔話に出てくるということだ。さらに注目に価するのは、この昔話の場面が、淡々と、何ら非難も交えずに、このような行動方式を描き出していることである。この話の中で、夫は嘲弄(ちょうろう)されないし、つまも支配欲の強い女としては描かれない。つまの名誉も、夫の名誉も傷つけられない。わずかな行数と、かんけつながらきわめて濃密な描写によって、一組の親の姿が浮き彫りにされ、両親の行動方式と共に、夫婦の役割についての本質的な、正しい認識が表現されている。

心理学者たちはとうに知っていることであるが、夫は、つまとは逆に感情的な問題の見通しや、判断、処理が下手である。夫はすぐに感性的になりやすい。たいていの場合、夫はこの種の状況に出合うと、話の中のきこりと同じように途方にくれ、きこりと同じように、自分のつまの積極性や行動力にもたれかかる。ところがおおくの男は、自分たちにこのような行動方式があることを認めたがらない。たいていの男たちは、そのような行動方式を恥ずかしいとおもっているのである。・・・わたしたちの目に甚だ奇異に映るのは、この昔話(ヘンゼルとグレーテル)の中で紹介されている母親像である。この母親像は、母性愛の故に、どんな犠牲にも甘んじなければならないような母親像、またいかなる利己心、つまり自分自身へのいかなる思いとも無縁でなければならないような、一般的な母親の像とは、全然合致しない。

このような一般的な母親像は、感傷的で、非現実的で、間違った夫の像と全く同じようにまやかしである。

この昔話は二人の人物を、不似合いな台座から地面に引き戻す。

 

*現実を誤認して、何百万人ものアメリカの男性は、自分たちのワイフを「ベイビー」と呼んでいる。わたしたちの国(ドイツ)でも、恋人のことをシュッツヒェン(小さな宝物)とかプッペ(人形)と言ったりするが、これまた「ベイビー」と同程度のもので、やはり間違っている。もしも、いずれかの性に、幼児的な特徴が備わっているとすれば、それは正に男たちである。

 

病院の看護師、老人ホーム、保健施設などの介護職員において見てみると、女性の職員は、男性の職員に比べ、厳しく、冷酷で、恐ろしい。男性職員は、入所者や家族に対して優しく、暴力的な行動や、相手を辱めるような行動はけしてしない。しかし、女性職員にはきわめて残忍で冷酷なものがいつも臭い、たいてい攻撃的ですぐに怒ってしまう。入所者の頭を平気でたたいたり、すわって眠っている入所者に対して「おきろ!」と口汚く言いながら顔をたたくように起こしたり――これはほんとにすごい、首を折ってしまうのではないかと思うほどである――、眠っている老人にご飯を食べさせるために「起きて!」と言いながら顔をぴしゃぴしゃ叩いたり、歩きが遅い老人をどんどん引っ張って転ばせてしまい、そのまま引きずっていったりするなど、きわめて粗っぽく、攻撃的で、冷酷であり、しかも冷静なのである。不快感を男性のようにちゅうちょすることなく、相手にぶつけていき、実に野生的であるのだ。女性のこの性質には、しばしば男性は驚かされる。男性はけしてこのようなことができない。女性に比べて弱者である男性は、相手を前にしてどうしたらいいのか迷っている。女性のように、断固たる決断ができないうちに事が終わってしまうのである。だから、無難な行動を選択するより他はないのである。女性は、行動の前に迷いはなく、行動の後もそれをけして後悔しない。やりたいことをやりたいときに自信をもってやってしまう。だから男性に比べ、欲求不満は少なく快活でいられるのである――だから女性の凶悪な犯罪は少ないとも言えるのである。私の母親が、二〇〇六年一月に胃潰瘍で入院したある病院では、男性の介護職員が数名いたが、彼らは女性の職員と比べて優しく、恐怖感を感じさせなかった。強者である女性の職員の場合、何か不気味で恐ろしいものが付きまとっていて、相手を油断させないのであるが、弱者である男性職員の場合には、悪く言えば隙が多く、それが相手を緊張させないのであり、それは「優しさ」という美しく偽装された欠陥なのである。

女性は強者・健康者であり、従って無神経なのである。無神経で鈍感な者が強者・健康者の性質であり、神経質であることが弱者・病人の性質であり恥ずべきことであることは、誰もが本能的に知っており、だからこそ誰もが本能的に自分の神経質であるところを隠そうとし、無神経・無頓着であるように振舞おうとするのである。神経質であることは弱者であり、それは恥かしく、恰好悪く、みっともないことであることを誰もが本能的に知っているのである。無神経・無頓着であることは欠陥であることではなく、強者・健康者の証であり、それは最高に恰好いい姿なのであり、有利なのであり、優秀なのであり、つまり序列において上位なのであり、このことは誰もが先天的に知っていることなのである。「恰好いい」という条件には、「有能さ」に負けないくらいに、あらゆる刺激に影響されないでいられるという「無神経さ」という《能力》がその多くを占めているのではないだろうか。

 

第二節 女性は幹であり、男性は枝葉にすぎない

フランスの思想家のヴォルテールカンディード」(吉村正一郎訳、岩波書店)の中に、次のようにある。『女性はけして、自分のことでは困らない』。しかし男性は、一人では生きられない、女性を必要としている。それは、頼りにしめんどうをみてもらう相手として、自慢話を聞いてほめてもらう相手として必要なのである。一九九五年一月十七日に起きた阪神・淡路大震災では、一人ぐらしの者が増え、孤独死も増えたそうで、その多くは五〇代の男性であったそうだ。いかに男性が、《生活完結能力》がないかを示している。そういう状態になると、男性は酒を多量に飲み、栄養のことも考えない。三三才の男性の例では、地震のため仮設住宅に住んでから、夫婦げんかになり離婚した。彼は、風呂の中で死んでいたそうだ。女性がいなくなると、男性はめちゃくちゃになってしまう。女性では、このような孤独死などという例などはないだろう。女性にとって男性は、めんどうをみてあげる者であり、けしてめんどうをみてもらう者ではない。だから、いないほうがむしろいいのだ。つまり、旦那は、金のために必要なのであって、その他のことでは一切じゃまになるだけであって、いないほうがいいのだ。ところが男性は、女性にいつも居てほしいのであり、男性は女性の中で生きているのである。前記のように、「姦計(わるいたくらみ)」をはじめとして漢字には、「女」をもつものが、「男」をもつものに比べてはるかに多いような気がする。女性には、人間の中の野獣の危険で油断できないところが、はっきり現れているのであり、太古からそれらは誰にも感じられ、恐れられてきたのであった。だからこそ、男性も女性も、女性が多くいるところにいると疲れると言うのである。多くの男性の中にいることは、男性にとっても女性にとっても、気疲れしないものだ。つまり、男性にとっても女性にとっても、女性は危険で恐く、油断ができず、しかし、そこがまた魅力的なのである。

男性は誰でも、このような女性のたくましさ・強さ・有能さとその魅力を無意識的に気づいているものだ。しかし、たいていそれを明確に認識できないでいる。そしていつも、男性のほうが女性より優位な存在であると思いこんでしまっている。一見気まぐれに見える女性の行動は、実は正確に先を読み、それに対処するための本能的な行動なのである。だからこそ、その行為は的確なのであり、しばしば、自分のほうが優位に立つべきだと思い込んでいる男性を驚かせ、いらいらさせ、嫉妬させ、ときにはきちがいのように怒らせてしまうのである――夫が妻を殺してしまう事件は、ほとんどこのようなことが原因なのだろう。

昔は、「女は男の不完全な姿である」と言われたそうだ。しかし、今では、科学的にも感覚的にもこの逆であるといえる。また、「女は幹であり、男は枝葉にすぎない」と言われている。これは一九八〇年代に、TV番組で精神科医が言っていたことだ。まだ若かった私はその頃、なんとなくそのようなことを考えていたのだが、この明瞭な判断を知って、驚いたものだ。そのときから私のこの問題に関するかすかな思想は、自信をもって考えられる大きなテーマとなった。それは、女性の男性をはるかに上回る能力についての研究である。そして、前出のカール=ハインツ・マレ氏の著書が現れたのであった。この本では、グリムメルヘンの中の「ヘンゼルとグレーテル」という世にも有名な話から、大昔から秘かに称えられてきた男女の優劣関係に関する、実に正確な民衆の考え方を抽出している。それがいかに正確なものであるかが、驚きをもって語られている。昔から、常に女は男の不完全な姿であると言われ続けられ、女には魂がない、とまで言われているのに、どうしてドイツのメルヘンの中では、それと逆なことが書かれているのであろうか。誰もが男女の本当の関係について、無意識にわかっていたのである。

家の中でも中心となる者は女性である。女性は家庭内を完全に制圧している。だから、子供は母親につき、父親は浮いた存在になる。組織で言えば、母親が課長であり、子供はその部下で、父親は窓際族なのである。家の中に女性がいなくなると寂しくなる。男性はいつも女性を気にしているし、頼っている。男性が恰好いいところを見せようとするのも、いつも女性に対して、あるいは女性的な関係の者にだけであり、これは、男性と女性の関係を表している。

前出のマレ「子供の発見」の「ヘンゼルとグレーテル」の章から再び引用してみよう。

 

*ヘンゼルのほかにも、誰かに橋をつくってもらおうと考える少年や、男たちは大勢いる。つまり、いつも他人(女性)の援助を頼りにする種類の人間である。このような人たちの中で、一人でどうにかやっていける者、一人で生きていける者は、ごくわずかであろう。しかも彼らが独力で生きて行かなければならないとなると、往々にして頭がおかしくなったり、寿命を縮めたりすることがある。・・・女性は、男性が永久に知ることができない手段を、自由に駆使するものである。女性のこのような能力は、時々男たちを不安にさせるが、彼らはこのことを、一度もじっくり考えたことがない。

 

さらに、同書の「ガチョウ番の少女」という章より引用してみる。

 

*このヒロインは、「男のような」考え方を全くしない。彼女は危険のことなど全然考えないし、どんなことが起こるだろうか、あるいは起こらないだろうか、というようなことを、じっくり考えない。彼女は考えることによって心を荒らされない。彼女の場合には、すべてが無意識的に機能する。意識というようなものは、彼女にとって無用の長物である。最も簡単にいえば、彼女の女の本能が、彼女を操作しているということだろう。この本能は、男たちのことを知り尽くしている。・・・ガチョウ番の少女のこのような途方もない成功は、彼女の女性的方式――この言葉以外に、彼女がやったことを表す適当な言葉は見つからない――の威力を証明している。この能力は、決して架空のものでも、非現実的なものでもない。年れいや、美醜や、生活環境にかかわりなく、すべての女性がこの最も有効な能力を多かれ少なかれ活用している。男たちはそのような能力を持たないし、知らないし、感じないし、またそれに対抗できない。

 

また、凶悪な犯罪者はたいてい男性である。それについてロバート・K・レスラー「WHOEVER FIGHT MONSTER」、日本語訳では「FBI心理分析官」(相原真理子訳、早川書房)から引用してみよう。

 

*なぜ女性の連続殺人犯をとりあげないのか、とよくきかれる。これまでに連続殺人犯として逮捕されている女性は、私に知っているかぎりでは一人しかいない。むろん女性も複数の殺人を犯すことがあるが、男性の殺人犯のように断続的にではなく、一度に何人も殺害する場合が多い。男性殺人犯の心理的特徴は、凶暴な女性にもあてはまるのだろうか? 正直言って、わからない。その点については、今後の調査を待たなければならない。連続殺人犯はおもに男性の白人で、犯行時に二十代か三十代だ。

 

女性は、男性に比べて執着心が少ない。どんなことにも、こだわらないでいられるからこそ、いつも冷静でいられるのだ。男性のように、ある特別なものに激しく喜びを感じることができないが、それは、男性より多くのことを均等に感じることができることでもある。自分の得意なことにしがみつき、他のことが見えなくなってしまう男性に比べて、生きるために必要な多くのことを感じることができ、それらを利用することができるのだ。常に全体を把握できているので、頼もしいというわけだ。

組織というもので考えれば、女性は組織の長であり、男性はその中の一員である。男性はいつも、長にいいところを見せたいと思っている。男性の行動には、いつもそのようなところが見られる。いつも自分をほめてくれる者に、何かをアピールしようとしている。それは暴走族のお兄ちゃんが、一般の人たちに自分たちをアピールしようとして暴走しているのと同じだ。彼らは見物人のいないところを一人で暴走することはない。自分たちの行動を誰かに見てもらい、驚いてもらいたいのだ。しかし、長である女性には、そのような気分はない。自分をアピールするべき相手は、いないからである。それは自分が長であるからである。

男性の自慢話は、たいてい自分自身の能力的なことに関するものが多い。それは、俺はウィスキーをストレートで飲むほど酒に強いとか、あの製品は自分がいなかったなら絶対にできなかったろう、といったものだ。しかし、女性の場合は、自分の家がお金持ちであるとか、家が大きいとか、息子の頭がいいといった、自分に関わっているもの全てに及ぶことが多い。つまり、女性は全体を気にしているのに対して、男性は自分のことだけを気にしている。男性の虚栄心は、女性とは質が違うし、はるかにみっともなく見苦しいものであるように思われる。

男性はいつも自分を自慢したいと思っているが、その相手は誰でもいいわけではなく、女性的もしくは女性的な立場の者、つまり自分の部下、客としてなら店の店員、つまり自分をもてなさなければならない立場の者、自分にどうしても敬意を表さなければならぬ立場の者でしかも魅力的である者に限られるように思われる。そういう者を前にしたとき、彼はその衝動に襲われるのだ。相手によってはその衝動は、まったく襲ってこないものだ。女性が余り自慢をしない一つの理由は、女性には、男性にとっての女性に対応するものがいないからだ。つまり、女性のめんどうをみてくれる者はいないのである。女性は、正に孤立無援な《強者》なのである。

男性は手柄を立て、それを女性に見せてほめてもらおうと思っている。それは、息子が母親にほめてもらいたいのと同じである。母親と息子の関係は、女性と男性の関係の本質であると言えるし、この二人はたいてい仲がいい。息子は、いつも母親を気にしているが、母親はそんな息子がかわいい。息子は、いつも母親の中で生きている。母親は外界と戦いながら息子を守る。しかし母親には、頼るものは何もない。女性は強者なのであって、一人で生きていける者なのである。男性は、そういう意味で弱者であり、女性の助けを必要としている。そんな男性に女性は母性愛を感じる。つまり、息子や男性は、女性のある生理的欲求を満たすための手段として利用されるのである。

 

第三節 女性は強者である

男性は、いつも女性に自分のよいところを見せようとしたり、自慢したりする。男性は、女性を気にし、翻弄(ほんろう)されている。このことには、男性が女性に対して弱者であることが現れているのだ。下位の者は、上位の者が気になってしょうがないが、上位の者は下位の者など気にならない。男性は、たいてい女性をバカにしているが、そのくせ女性を頼りにし、自分を売り込み、認めてもらいたい、ほめてもらいたいと思っており、その心境はきわめて複雑で不安定だ。これは、弱者の典型的な行動なのである。強者は、このような行動はしないし、何も迷いはないものだ。

日本は昔から中国の文化、学問を取り入れてきた。それで今の日本があるのだ。近代になってからは、オランダ、ドイツ、アメリカ合衆国、西欧からひたすら養分を取り入れてきた。しかし、それによって、外国に見かけ上追いつくと、今度はいばりはじめ、それらを学んだ国々をバカにしはじめる(たとえば中国など)。これは、弱者の特徴的なふるまいなのである。根本的なものを自ら生み出す能力をもっていない人まね人間や国家はいつも不安定だ。神国日本とか大和魂といった大きなことを言っておきながら、実はいつもびくびくしながら、外国のことを気にしている。田舎者のように、自分の故郷をいつも最高の所と思いながら、思おうとしながら、実は自信がなく、外部のことが気になってしょうがないのである。根本的に独立した強いものをもっていない日本人は、海外のことが気になってしょうがない。自分で全てを決定し、実行する能力がないからだ。これは弱者である証拠だ。この無能者であることによる不快感が、やたらに自国をほめたたえ、外国をバカにするという行為の原動力になっているのである――これは、イスラム世界の人たちの行動にも言えることだ。彼らは、イスラム以外の宗教や文化に対して、強い関心と憎しみを感じている。優越者は、他人のことなどまったく気にならない。自分のやるべきことを自分だけで決まられ、それを実行することに専念でき、それだけで精一杯であり、これにより不快も中和され欲求不満も少ない。

これと同じに、男性はいつも女性に対して本能的に劣等感を感じているからこそ、自分の優位性を必死に主張するのである。中世ヨーロッパで始まった魔女狩りも、女性の強さ、不気味さ、神秘的なところ、優越したところに不安・不快を感じた男性によって始められたのであろう。女性は、「生活する、生きる」ことに関して、断然に強者、有能者なので、外部の事は気にならず、自分のことに専念できるのである。

母親と息子は、男性と女性の関係を代表している。息子は、母親に自分のいいところを見せたいと思っているのをはじめとして、複雑な感情をもっている。しかし、母親が息子に対して考えていることは、ただ息子のめんどうをみることだけであり、それ以外の雑念、迷いはない。まして、息子にいいところを見せようなどとはまったく考えていない。息子から見れば、それだけで母親は魅力的なものとなる。これが女性の魅力だ。それに対して、息子のほうは、母親に頼ってみたり、時にはリードしようとしたり、複雑で不安定だ。男性は、いつも女性に認められたい、自分の自慢話を聞いてもらいたいと思っている。このことだけでも、男性が女性に対して、「生活する、生きる」ということ、つまり、全ての根底となるところにおいては、弱者であることを示しているのではないだろうか。男性は、この弱者であることによる不快をまぎらわすために、女性をけなし、男性の優位性を常に主張し続けなくてはならなくなってしまうのである。

 

第四節 女性のたくましさについて

*世の中には、女性は非常事態の際にはヒステリックになるという説が広まっているが、わたしには、その理由が分からない。そんな通説が間違いであることは、あらゆる古今の経験によって証明済みである。女性がヒステリックな反応を示すのは、おそらくぼう子の留めピンか、車のキーが見つからない時だろう。しかし、大事の場合には、絶対そんなことはない。その場合は、グレーテルと同じように行動し、けっしてびくびくしない。(前出のマレ「子供の発見」より)

 

また、作家の向田邦子さんについて、太田光氏が語った太田光「NHK知るを楽しむ向田邦子)」(NHK出版)より、引用してみよう。

 

*でも、別のエッセイではお父さんの違った一面も語っているんですね。まだ幼かった妹の和子さんが庭でひとり遊んでいて怪我したときのことです。

「仁王立ちになって叫ぶ父を突き飛ばすように、母が足袋はだしで飛び出し、妹を横抱きにすると、物もいわずに隣の外科医院に駆け込んだ。(略)大体において一朝(ひとだびという意味)事ある場合、父は棒立ちでややおおげさに呼ばわるだけだが、母は考えたり迷ったりするより先に体のほうが動いているところがあった。父と母の、男と女の違いなのだろうか。」(「身体髪膚(しんたいはっぷ)」『父の詫び状』文集文庫)

そんなお父さんの姿が、向田さんが男を描くときの基本にあるんじゃないでしょうか。でも、向田さんはそれを長年描きつづけて、そこが男のまたかわいいところでもあるという視線がドラマを見ていると伝わってきます。頑固でありながら、何か起こるとオタオタし立ちすくんでしまう、道を踏みはずす、そんな未熟な男たちなんだけども、彼女は許してくれているという感じがしますね。男のダメなところもいろいろわかっていたけれども、女はそれを許さなければいけないと思ったのか、男はそこから抜けられないのだというあきらめがあったのか、両方だったのかもしれません。

 

太田光氏が言っていることは、前記のドイツのマレ氏が言っていることに正確に一致している。女性は正に、現場で、即対処しなければならない場面で、男性に比べてはるかに有能な実践者になる。しかし、そうでないときには、男性より劣っているふりをしているかのように見える。これを見て男性は得意になってしまうのである。

女性は、付き合っている男性からもらったものを質に入れて、お金に換えてしまう。また、大学に入学したお祝いに父からもらった時計をきにくわないといって一度も使わず、迷いなくリサイクルショップに売ってしまう娘。こんなことは、男性にはできないことではないだろうか。女性は、きわめて合理的判断が得意で冷酷であると言える。それは、不安・夢・冒険・遊び心といった浮いた世界とは無縁のものだ。だからこそ、女性は現実的ではない、夢のようなことばかり考える仕事は向かない。たとえば音楽・画家・哲学・科学(文学は除いてある)などである。当然これらの世界で優秀な仕事をしている女性はいるし、文学の世界ではこの理屈は成り立たないだろう。

女性は、男性や父親からもらったものを迷いなく質屋やリサイクルショップに売り飛ばしてしまうという冷酷でたくましい本能をもつ。この点で、男性や父親と話が合わなくなってしまう。娘に夢のような気持ちで贈り物をする父親と、それとはまったく違う、さめた、冷酷な、現実的な観点にいる娘なのであり、これは話し合いでは解決できない危険な関係にある。これこそが女性の強さであり、無神経さであり、自分と同じ気持ちを期待している男性にとっては、ただ驚き、恐れ、怒るばかりなのである。ここから多くのいさかいが生まれるのであって、宗教にまつわる深刻な争いと同じであって、手の付けようもないのである。男性は、女性を見て男性特有の夢を見るが、女性は男性にも自分にもそんなものは感じない。女性の夢は、男性のそれとはまったく違うのである。

ここで前出の太田光「NHK知るを楽しむ向田邦子)」より、引用してみよう。

 

*食べるシーンでいうと、向田さんの作品には他にもすごいなと唸るシーンがいっぱいあります。例えば、お父さんの浮気がお母さんにばれたんじゃないか、そうなったら、お父さんはひょっとして自殺するところまでいくんじゃないか、とかなんとか四姉妹が実家に集合して大騒ぎしている。お父さんは帰ってこない。もう寝ようかということになるんですが、そのとき誰かのお腹が鳴る。

すると、

網子「おむすびつくろうか」

咲子「あ、いいな、おむすび」

滝子「どっちにしても、おなかに入れといた方がいいかも知れないわね」

網子「腹がへっては、イクサは出来ぬ」

男には思いもつかないセリフですよ。さっきまで本気で両親のことを心配していたんですよね。でも、本当にたくましい。女性のたくましさを改めて思い知らされます。

 

女性はよく社会のルールを守らないといわれる。どんなところでも車を駐車したり、入り口と書いてあるところから出て行ったり、と言った具合である。これは男性に比べて社会性がない、と言われることになる。では、社会性とは何なんであろうか。これは道徳や社会の規律を意識してこれを守ろうとすることだ、というふうに優等生的に言われる。これらの優等生的な行動は、野生的、あるいは強者の行動とはまったく質が違うものなのである。他人を恐れ、気にして、比較して、人間に多くの意味をもたせていくことが弱者の行動であり、これこそが社会性の正体なのだ。女性は、生まれつき強者であり、隠しきれない野性的なものがほとばしり出ている。それは、彼女らの荒々しい車の運転にも現れている。女性は、男性のようにデリケートではなく、生きるのに必要なものを男性より多くもち、余計なものをもっていない。一人で生きていける者であり、一人で決められる者なのである。だから女性は、男性より社会性がなく見えるのである。野獣のように貪欲に自分と家族を守ることがちゅうちょなくできるのである。そのためには、男性のように周囲の目を気にすることをしないでいられる能力が必要なのだ。強く、有能であるということは、いろいろなことを考えないでいられるということである。余計なことに関して完全に無意識になれ、目的のことのみに専念できることは、なんと健康的なことなのであろうか。これは、武道などで言われる「全てを捨て去った一撃、迷いなき一撃」と同じであり、一流の武道家(現代のボクシング、K1、PRIDEも含めて)は、一度決めた攻撃に迷いなく集中できるのである。つまり、本能的に行動するのであって、この際、理性は停止し、本能のじゃまをしないようにしているのだ。前記の言葉は、二〇〇三年のNHKのTV番組の中に出てきた言葉だ。主人公の栄花氏は、二〇〇〇年の剣道全日本選手権で三連覇のかかる宮崎氏を敗っている。そして、二〇〇三年の世界選手権で主将に選ばれた。この栄花氏は、一九九九年の全日本選手権では、決勝で宮崎氏に敗れている。相手が面を打ってきたところをかわして胴を打ちにいったが、面が先に入っていたのだ。これについて栄花氏は次のように言っている。「面が得意な宮崎氏の攻撃に対して、それを受ける計画を立てた」。しかしそんな計画は、宮崎氏の「全てを捨て去った一撃」の前に敗れた。それから考え方を改めた。「効果を求めず、無心に進む」という方針に変えた。また、中谷彰宏「不器用な人ほど成功する」(PHP文庫)には、『直観力においては、プロとアマチュアで、それほどの差がありません。直感に対する迷いが、アマチュアのスピードを止めるのです』とある。また、中国の史記には「背水の陣」というのがあり、これは見方の退路を断って、戦いに全力を尽くさせることを言う。つまり、自分の部下にいざとなれば逃げようという雑念を捨て去らせるのである。この逆の極端なものが、たとえば強迫性障害という神経症なのであり、あまりにもいろいろなことが気になってしまう病気だ。このようになると、才能というものが、霊感というものが、自信というものが、全てじゃまされてしまう。前出のアーサー・ブロック「マーフィーの法則」には、『思慮分別のある人間は何も成しとげられない』とある。まったくそのとおりである。

これは、あらゆる分野でいえることだ。何かに偏っているからこそ、何かを忘れているからこそ、あるところをいいかげんにしているからこそ、いろいろなことを理解していないからこそ、余計なことを知らないからこそ、偉業を成しとげることができるのである。だから天才は、いつもかたわな者なのである。何かを得るには、何かを失わなければならないのである。

ジェットコースターのような怖い乗り物に乗ったとき、女性は「キャー」などと叫ぶ。しかし、ほんとに怖がっている者がそんなことをするだろうか? 本当に怖いとき声は出ないのではないか。むしろ、だまって乗っている男性のほうが、より怖がっているのではないか。一見より怖がっているようにみえる女性は、リラックスして楽しんでいるのであろう。それに対して、男性のほうは楽しむどころではない気分なのであろう。私自身は男性だが、このようなときには、きわめて大きな恐怖に襲われ、じっと静かに耐えているしかなく、とても騒ぐ気にはなれない。

前記の「ヘンゼルとグレーテル」の話のように、何か事件があると、男性ははじめのほうでは恰好よく振舞うが、しだいにその元気はなくなっていき、何をしたらいいのかがわからなくなっていく。問題が長期になればなるほど、女性のほうが優位になっていく。そして男性は、女性が優位になっていくことに不快を感じ、あせり始まる。そして、何とか優位を取り戻そうするのだが、うまくいかない。そうなると男性はいよいよ焦り、怒ったり、金切り声をあげたり、めちゃくちゃになってしまう。これを見た女性は興ざめしてしまい、たとえば別れることや離婚を決意する、つまり、女性に逃げられてしまう。ここでまた、太田光「NHK知るを楽しむ向田邦子)」より引用してみよう。

 

*向田さんがよく描くのは、同時にいくつものことをさばく女です。何かことが起こったとき、オタオタするだけで立ちすくむ男と、あれもこれもをさばいていく女。「阿修羅のごとく」にも、すごいシーンがあります。長女の網子加藤治子)の家に愛人の貞治(菅原謙次)が来ているんですが、そこへ貞治の妻豊子(三條美紀)が訪ねてくる。亭主が来ているんじゃないかと問いただす豊子と、しらを切る網子とのやりとりが続いたあと、豊子がやにわにピストルを出す。

網子「なに、なさるんです――」

ガタガタふるえて声にならない。フスマがあいて、中から、貞治、ピストルを見て、一瞬、ひるむ。

貞治「バ、バカなまねはよせ!」

豊子、腰がぬけてへたり込んでいる網子の胸に狙いをつける。

網子、パクパクやって、声も出ない。貞治も、動けない。豊子、ひきがねを引く。ピストルから水がシュっと出て、網子のお腹のあたりを濡らす。

二人「あ――」

豊子「うまく出来てるでしょ。水鉄砲――」

網子「水鉄砲――」

貞治「豊子!」

豊子、水鉄砲をおっぽり出して、激しく笑う。それから、泣き出す。貞治が何かいいかけた時、茶の間の電話が鳴る。

網子、茶の間へくる。電話をとる。まだいろいろ言っている。

網子「もしもし――あ、巻子――お母さんが倒れた――モシモシ!」

玄関から走り出てゆく豊子。貞治、茶の間へくる。

網子「病院どこ!うん、うん、うん。どして国立でなくて広尾なの、モシモシ。じゃ、すぐいく」

電話切る。

貞治「お母さん、どう(言いかける)」

網子「どうぞ、お引き取り下さい」

貞治「――」

網子「かばって下さいとはいわないけど――本ものなら、あたし、死んでるのよ」

貞治「いや、あの――」

網子「長い間、ありがとうございました」

未練をみせて、追いすがる貞治。したたかに突き飛ばされている。

                (「阿修羅のごとく新潮文庫

このシーンは同時にいろいろなことが起きますよね。豊子が来て、もめて、貞治が出てきても止められず、電話がかかってきて母親が倒れたという。

同時にいろいろなことが起こっているなかで、男は呆然としている。向田さんの描く男を僕はものすごくわかります。僕などは向田さんの描く男はそのとおりだと思ってしまいますね。確かに貞治は情けないんですが、あれは本当ですよ。あの場面に立ったら男はただオタオタするしかない。あそこでうまくさばける男なんてなかなかいないだろうなと思いますよ。そこで踏みとどまってしまうし、未練がある。ちょっと待ってちょっと待ってと言いながら、まずこっちを片づけてというやり方しかできないと思うんです。真剣ではあるんですけどね。

しかし、網子はそれを同時にさばきます。女は、いろいろなことが起きても、これはこう、あれはこうと。この場はうっちゃって、電話に対応し、着物を着替え、病院に行く、ということを同時にやるわけです。いくつものことを瞬時に結論づける。

そして、ただ驚いているだけでなくて、貞治に愛想づかしをする。あのピストルが本物だったら私は死んでいたのよ、と言うときに、男はそこまで頭がまわっていなかったということが歴然としますよね。網子は打たれてただびっくりしているだけではなくて、その時にこいつはかばってくれなかった、こいつは信用できない、これ以上つきあえない、ということも同時に考えている。だから、女というのは、本当に同時にいろいろなことを考えているんですね。このあたり、本当に男は女にかなわないと思います。

 

私が会社に入って間もない頃だった。会社にかかってきた先物取引の勧誘にのってしまい契約をしてしまった。その契約の話は、家の近くの喫茶店で行い、私はおふくろも連れて行った。そのとき、おふくろは何も意見を言わなかった。私は、その会社を実際見てから、お金を払うことにして、その会社まで行き、40万円ほどを払ってきた。相手は動き始めた。私はまずいことになったと思い、夜も眠れなくなった。電話がひんぱんにかかってきて、「もう一本買わないか」と勧誘される。これは大変なことになったと思った。しかしおふくろは、まったく平常心であった。一緒に心配してくれるはずの者がまったく何も感じていないかのようであった。私は会社に行っても落ち着かず、仕事にならなかった。居ても立ってもいられない私をしりめに、おふくろは冷たく落ち着いていた。一緒になってあわててくれれば、気がまぎれるのに、わらをもつかみたい私の気持ちをまったくわかっていないのであった。このとき、この人は(女性は)私とまったく違う人種なのだということがわかった。あるとき私は、「交通事故を起こしてしまった」という電話をかけ、うまく契約の書類を送らせることに成功した。するとおふくろは、市役所の相談サービスに出向いて、うまく弁護士に相談してきた。そのとき、私がうまく送らせた契約書類をもっていった。この行為が最も重要であった。その弁護士は、東京の友達の弁護士に処理をまかせた。そして、お金をとりもどし、問題は解決した。その費用は八万円程だった。これで、恐ろしく、危険な道から逃れることができたのであった。ただ、あわてふためく私に対して、おふくろは、みだれることもなく、冷静に判断していた。しかも、そのときの話は、その後一回もしたことがないのだ。自慢話はなく、このときの自分の功績をまったく意識していないのだろう。男性となんと違うのであろうか。自分の自慢話ばかりしたがる男性と比べて、何と違うものであるのかがわかった。

私が大学に行っていた頃のことである。私が二年の終わり頃に麻疹になった。熱は出るし、腹の中も痛くて、体をよじりながらその痛さに耐えていた。たばこの煙を吸い込むと気持ちが悪くなった。私のおふくろはたばこを吸っていた。私はおふくろに、たばこを吸わないでくれと言ったのだが、おふくろは絶対にやめなかった。そのとき私は、この人はこの人のプログラムで動いているだけなのだ、私に良くしてくれるのも、たばこをやめないのも同じようなものだということがわかった。私に良くしてくれるのも、私のためというより、そうしたかったからなのだ。やさしさも、いじわるも、無視も大きな違いがあるものではないことがわかったのだ。どんなことでも、それをやった原因というものは、それをやりたかったから、ということに尽きるのだ。人に良くするのも、良くしたいという欲求に押されただけなのだ。おふくろは、私や男性とは違う女性のプログラムに従って動いているだけなのである。たぶん、男性ならこの場合、たばこを吸うのをやめるだろう。

私が小学校三年くらいのときだった。お菓子でマーブルチョコレートというのがあった。その箱は円筒形をしていて、そのふたを何個か集めて発売元に送ると、鉄腕アトムのシールとかマジックプリントがもらえた。隣に住んでいる一つ上の友達がそのことを知っていて、その景品を私に見せびらかしていた。しかしその応募の仕方はけして教えてくれなかった。ある日、集団登校のため、彼は私の家に来た。そのとき、その景品のための応募封筒を手にもっていた。それは、私にはけして見せないものだった。相手が見せたくないというのがわかっていると、男性はどうもそれをむりやり見ようとはできないものだ。しかし、女性である私のおふくろは、彼の手にその封筒があり、それが私もほしい景品のためのものだということを知るや否や、「ちょっとそれ見せて」と言ってそれをパっともぎとって宛名を写し取ってしまった。おふくろの勢いと強さと迫力のため、相手は唖然として、それを手渡すより他はなかったのであった。このおふくろのあざやかな行動を、私も彼も唖然として見ていたものだ。

私が東京の北区に住んでいた頃の話である。ある日、山の手線の巣鴨駅で、切符を買っている夫婦を見かけた。女性は子供を連れ、大きな荷物を手にもっていた。一方男性のほうは、何ももっておらず身軽であった。男性は自分だけ先に切符を買いホームに下りる階段に向かっていた。そのとき、ちょうど電車が入ってきた。女性は切符を買うのに手間取っていた。男性は階段に片足をおろし、いらいらした調子で女性にどなり、せかしていた。今来た電車に乗ろうとしているのだ。これはひどい話だ。女性に子供や荷物をまかせ、しかも自分が先に切符を買ってしまい、さっさと身軽にホームへ向かおうとする。どうして荷物をもってあげ、先に切符を買わせてあげなかったのだろうか。もし女性があわててけがでもしたらどうするのであろうか。あわてず、次の電車にすればよいのではないだろうか。これは男性のきわめていやらしく、場当たり的で、全体を考えない行動が現れた場面であった。女性は、文句も言わずに我慢しているのであった。しかし、そのうち嫌気のさした女性は、なんのためらいもなく、さっさと離婚してしまうのである。女性のたくましさを感じる。

二〇〇六年五月六日に、昔、アパルトヘイトで世界的な非難を浴びた南アフリカ共和国の女性作家による小説が、NHKのFMシアター(土曜の夜10時)で放送された。その中で二つの昔話が出てくる。白人に雇われている黒人男性が、ある日解雇される。彼は、妻と妻におんぶされた子供と野宿しながら放浪する。ある日、ダチョウが彼らを襲う。なんと夫は自分だけ逃げてしまい、子供と荷物を抱えた妻はダチョウに殺されそうになる。そこに一人の男性がきて、彼女は助けられ、後に彼と結婚するという話で、前記の巣鴨駅での事件と似ている。いずれも男性は手ぶらで女性が子供・荷物をもたされている。身軽な男性はいち早く安全なところへ逃げてしまう、そしてそれ以後のことは、全部女性が一人で片付けるのである。

もう一つの話は次のようなものである。ある日の深夜に、ある黒人の家にブラックジャックと呼ばれている黒人の警官がきた。夫が応対すると、家の中に入ってきて子供たちを起こして立たせた。そして妻の寝室に入り、裸の彼女を辱めた。それを見ていた夫は、ただ怖じ気付いているだけで何もできなかった。それを子供たちは見て、父にあいそが尽きた。

「知ってるつもり」というTV番組に出てきたのだが、小説家の芥川龍之介も、ある事件が起こったとき、妻と子供をほっぽりだして自分だけ先に逃げてしまったことがあるそうだ。彼は、そのことを自分でもあきれていた。男性がいざというとき逃げてしまうというのは、世界共通で、男性の弱さなのであろう。

 

第五節 母親と息子

*赤ん坊や幼児は、親たちから見ると、まだ決まった性を持っていない。差別なしの愛情を以って、おむつを当てられ、おっぱいを飲まされ、寝かしつけられる。やがて、ある時期になると、母親の扱いは変わる。(前出のマレ「子供の発見」より)

 

母親にとって息子と娘は違う。我々にとっては、自分の欲求に合うものが価値あるものになる。母親の欲求、つまり母性愛は、男性的なもの、つまり、弱さ・不完全さ・たどたどしさを求めていて、その逆のものを嫌う。だから、「おしゃまな女の子」は嫌われるのである。たいていの女性は、自分は強く、男性や息子は弱いとは思ってなく、その逆であると思っている。しかし、彼女の体はそう思っていないのだ。本質的に強者であり、野生的で生命力あふれる女性は、息子という自分の対極にいるものに愛着を感じる。息子につくすことで、母性愛という欲求は満たされるのである。ニーチェは「母親は、子供の中の自分を愛している」と言っている(これは二〇〇三年か二〇〇四年のNHKの「中学生日記」という番組の中に出てきて知ったのであった)。これの解釈は、いろいろあるだろうが、その一つは、子供、特に息子の中に母親の望むものがあり、それをかまうことによって何かが得られるからこそ、彼女は息子をかわいがることに専念できるのである。全ては、自分の欲求を満たすためにやっているということだ。

女性の母性愛という欲求を満たすものは、はじめ夫だった。しかし、息子が生まれたとたんに、夫はその座を息子に奪われてしまうのだ。彼女にとって、息子は夫よりも女性の欲求に応えるものが強いのである。娘は母親の欲求には合わないので、母親は娘のことを息子よりかわいがらない。娘には、彼女の求める弱さ・不完全さ・たどたどしさが不足しているからである。つまり、女性にとって息子はペットなのである。しかし娘は、ペットにするにはしっかりしすぎているのである。かわいがられるということが、けして喜ばしいことではないということがわかる。つまり、不完全なもの、頼りないものと見られているのである。だから、母性愛をくすぐるのである。母親にとって息子は、自分にない「不完全さ」をもっている者で、そこがかわいいのである。それに対して娘は、自分と同等である完全な者、強者なのである。だからこそ、困ったことが起こったときには、母親は日頃ないがしろにしている娘を、より頼りにするではないか。気づかわれ、かわいがられている者は、いざというとき、あてにされないことが多い。日頃はいいかげんに扱われて、冷たくされている者こそ、いざという時に頼りにされるのである。

女性にマザコンはいない。それは、男性だけのものだ。マザコンとはマザーコンプレックスのことで、この言葉はフロイトの弟子で精神医学者のユングの用語である。ユングのこの用語の意味では「母親の考えや言動に左右されやすい心的傾向」(広辞苑より)とあるが、一般に広まっている意味は、母親の言うなりになる、母親を頼りきっている、母親が大好きである、母親のそばに居たい、母親がいないと不安である、つまり母親という強者にかわいがられ、その居心地のよさから離れられなくなった男ということだ。女性でこのような傾向をもつ者を、私は見たことがない。娘は、たいてい母親とは仲が悪いとまでいかなくても、ライバルの関係であり、息子のように母親の中に居ようなどとは考えない。では、ファザコンはいるのだろうか。こんな用語はない。あるとしたら、フロイトの用語であるエレクトラコンプレックスで、「女児が父親に愛着をもち、母親に反感を示す傾向」(広辞苑より)をいう。しかし、娘が大きくなった場合には、父親と仲が良くても、いつも娘が父親をリードし、面倒を見ているのであって、父親に頼りきっているのではない。むしろ、父親が娘を頼りにしているのである。父親にとって、娘は第三の母親なのである。第一の母は自分を産んでくれた女性、第二の母はお嫁さんである。娘は、父親の面倒を見ることで、強者である女性の欲求、つまり弱い者の面倒をみたいという母性愛を満足させているのである。ここで前出のマレ「子供の発見」より関連のあるところを引用する。

 

*ここで取り上げられている事柄は、母親が女性であり、息子が男性であるということだ。異性が互いに引き寄せ合うことは、決っして単なる憶測ではない。このような事実は、まぎれもなく、わたしたちが、生まれながらに持っている天性のようなものである。しかし確実なのは、この特性が、身内の者と、身内以外の者とを区別するようなデリケートな神経を持っていないということである。つまり、異性が相引くという原理は、続柄や等親などを全然問題にしない。当然の結果として、男の子が母親を愛する場合と、父親を愛する場合とでは、愛し方が違ってくる。また、娘と父親との関係と、娘と母親との関係では、質が違う。親の側から見ても、同じことが言える。母親と息子の結びつきが、母親と娘との結びつき以上に強く、しかも質が違うのは、ひとえに、息子が男性であるからだ。つまり彼女は、息子に対して特別やさしいのである。・・・母親が娘に対して割合素っ気ないことは、確かである。しかも、女対女の母娘関係には、非情、陰険、冷酷の痕跡が、女対男の息子との関係よりもずっと多く見られる。・・・一方男対男の父子関係にも当然、類似の行動方式が現れるだろうと、考える人がいるかもしれないが、この推測は当たらない。父親は自分の息子たちを、彼らが息子だという理由だけで、かわいがることが多い。

ここで、女性同士の関係にみられるこのような不和の原因を探る必要がある。女性同士の関係は昔からよくない。女性同士の友情は稀有であるし、友愛というような言葉を、女性に適用する者は一人もいない。男性の中にもいないし、女性の中にすらいない。女性の同士愛は、存在しないと言ってもいい。彼女たちには、今まで連帯感がなかったと言ってもいいし、今日でもないに近い。・・・一方、男性の場合の事情は、がらっと変わる。彼らの相互関係は昔から円滑である。男たちは、互いに好感を抱き、進んで親交を結ぶ。遠い昔から、男たちは手を結び合ってきたし、今日でも彼らの連帯感は強い。彼らは進んでグループを結成する。某組合、某学友会、某支部、某修養会等々。彼らはクラブや協会や、あるいは常連の飲食店で、男たちの社交界を楽しむ。中でも最大の男の団体は、ほとんど全国の男たちを一本にまとめて一つの共同体――今は廃止された――を作り上げる軍隊である。ここで男たちは戦友となった。

 

マレ氏は、この文章の後で、引き続き女性同士がどうして男性同士のような付き合いができないのかを考察しているが、失礼ながらそれらには決定的なアイデアが欠けているので、それをここで紹介することはしない。これから、前記の問題(母と息子、娘の関係や女性同士の不仲)を、もっと高い視点から見ることにしよう。私は、これらのことを説明する簡単なアイデアを、前出のニーチェ道徳の系譜」に見つけた。私は二〇〇五年の冬、秩父老人保健施設ビラベッキアで、重度の痴呆のおふくろのめんどうを見ながら読んでいたこの本の中に、次の文章を見つけ震撼した。これで男女間の最も重要な問題に、ついにけりをつけることができた、という思いで満足した。その部分を引用しよう。

 

*この点を見のがしてはならないが、強者らは必然的に互いに分離しようと努めるのに、弱者らは必然的に寄り合おうと努めるからなのだ。強者らにして結合することがあるとすれば、それは彼らの権力への意志の攻撃的な総合行動と総合満足を見込んでのことにすぎないもので、個々の良心の大きな抵抗なしにはすまされない、これに反して、弱者らが連合するのは、ほかならぬこの連合そのものに愉悦を覚えるからなのだ。

 

女性と女性は両方強者であるので、必然的に分離しようとする。また、男性と男性が互いに溶け合うような友情をむすぶのは、彼らの中に互いに求め合い、協力し合う弱者の本能があるからである。このように考えると、前に説明した母親と息子は仲がよく、母親と娘は仲が悪いことが、より明快に理解できる。さらに、他のあらゆる種類の男女組み合わせの仲・不仲についても理解できるのである。

たとえば嫁と姑の仲が悪いのも、女性同士だからであり、両者は強者であるから、対等な相手と協力していくことが苦手であり、すぐに権力闘争が始まってしまうのである。男性同士のように互いにもたれ合うようなことができない。強者は互いに眼をそむけ、張り合い、時には憎み合い、攻撃し合うものだ。全てを自分だけでできる能力をもち――女性はけして、自分のことでは困らない(ヴォルテール)――、全てを自分だけで決められ、相手に助けを求める必要の少ない女性にとって、対等な仲間は必要なく、かえって行動のさまたげになるだけなのだ。しかし、弱者である男性同士の婿(むこ)と舅(しゅうと)では、仲が悪いというのは聞いたことがない。この二人は「サザエさん」のマスオ君とナミヘイさんのようにたいてい円満だ。

また、前記のように、母親が息子に比べて娘をかわいく思わないのは、娘は女性であり、したがって強者であるからである。母親と娘は強者同士であり、互いに相手をライバルと見るため、安定な関係ができないのである。しかし母親と息子の場合、母親(女性)は強者、息子(男性)は弱者、という強弱関係が、この二人を安定な関係にしているのである。前記のように、強者は弱者を支配し、いたわることにより、ある満足感を得るのであり、弱者は強者に従うことにより、ある満足感を得るのである。しかし、弱者であると思っていた息子が、強者のふりをしたとき、母親は大きな怒りに駆られることもあるのであって、これは、自分の思ったようになっていないということに対する反応(怒り)であり、「かわいさ余って、憎さ百倍」と言われているものなのである。

父親と息子は弱者同士であり、それは前記のニーチェの言葉では、「連合そのものに愉悦を覚える」のだから仲良くできるのである。また、娘と父親は、前記のように娘が父親をリードしたり、気づかったりする強者の役であり、父親は弱者の役であるから安定した付き合いができるのである。

我々は、有能な者の中にいるとき疲れる。本章の初めのほうで記したように、男女共に、女性の中にいると疲れると言う。これは、女性の欠点ではなく、女性が男性より通常の生活――芸術・科学・哲学など特殊な部門においてはそうでないが――において有能であることから理解できるのであり、女性が日常において、生きるということにおいて、男性よりはるかに有能であることの証拠であり、男性に比べて強者である女性の相手を威圧する力が、男性に比べてはるかに大きいことが現れているのである。

 

第六節 男性によって作り出された女性像

*女性的美しさが単なる自己目的にとどまったことは未だかつてなかったといっていい。それどころか、女性の美は常に、目的のための手段であった。だから美は力になるし、場合によっては危険なものになる。雪白ちゃんがそのことを証明している。なぜ狩人はこの少女を逃がしてやるのか? この少女が美しいからである。雪白ちゃんの美しさのために、狩人は王妃を騙し、王妃の手で打ち首になることまで覚悟する。なぜ小人たちは雪白ちゃんのために労をいとわないのか? この少女が美しいからである。このメルヘンのずっと古いテキストでは,一二人の小人が、一二人の――娘を見たら必ず殺してしまう――悪い盗賊になっている。この盗賊たちも雪白ちゃんを殺さない。理由はやはり、この少女が美しいからだ。カール=ハインツ・マレ「首をはねろ!」(小川真一訳、みすず書房)の中の「想像の中の暴力、雪白ちゃん(日本では白雪姫として有名)」より。

 

女性は自分自身の美や肉体のエロティックさを、男性が考えるようには意識していないのであり、それらはいつも生きるために利用しうる道具くらいにしか意識されていないのであろう。

性的なことに関してみてみると、女性が「あらいやだわ」などと言うと、それを聞いた男どもは、「色気をだしちゃって」とか、「かわい子ぶっちゃって」とか、つまり、その女性が性的なアピールをしているのだと思ってしまうのである――これは、私の母親が麻雀屋で働いているときに経験したことだ。男性は女性の考えや行動を、いつも自分の欲望に沿って推測してしまっている。男性は、自分が女性に感じるようなムラムラする気分を、女性も自分自身の身体、あるいは他の女性の身体に対して感じている、という間違った考えをもってしまっている。男性が女性に感じる性的興奮を、女性は自分に対してまったく同じように感じ、それを表現しているに違いないと決めつけてしまっているのである。しかし女性は、けしてこのようなことは感じていない。それを感じるようには、体ができていないのだ。

もし女性が、男性が女性の体に感じるような性的な興奮を、自分自身、あるいは他の女性に感じるのなら、ポルノ雑誌を見る女性は多いはずであるが、そのようなものを見ている女性はまずいないであろう。男性と女性の視点はまったく違うのである。また、女性が身に着けるエロティックな下着について、男性がそれを見て感じるのと同じようには、女性は感じていないことも重要である。女性が極めて小さい下着を身に着けようと思ったとき、男性に生ずるような性的な興奮はないものだ。しかし、男性は、男性が女性に感じるような性的欲求により、それらを身につけて、自分でも興奮を味わっていると考えてしまっている。もともと、これらのエロティックな下着を考え、女性に着せたのは男性なのである。女性自身は、こんなものを着たいと全然考えていなかったのだと思う。だから男性諸君は、女性が我々男性とはまったく違う視点、感覚でそれらを身に着けていることを覚えておく必要があるのである。

エロティックな下着と言ったとき、男性と女性では、その意味するところがまったく違うのである。「ある事」、「ある行為」を互いに「エロティック」という言葉で指し示すのであるが、それの意味するところは男女でまったく違うのである。たとえば「黄色」という色を見たとき、ある者は色神経が他の者と違っていて、それを他の者の感じる「赤色」と感じているとする。しかし、彼はそれに他の者が名付けた「黄色」という名前を付けている。だから、「黄色」を見たとき、彼は「赤色」と感じるけれど、他の者と同じくそれは「黄色」だと言うのであり、一見他の者と同じに感じているように見える。しかし、彼は「黄色」という色に、他の者と同じものは感じていないで、「赤色」と感じているのである。ただ呼び名として「黄色」を当てているだけなのだ。しかしこの違いは、表面には出てこないのである。同じ名前が付けられた色が、人によって違って感じられているかもしれないのであるが、これは調べることができないのである。それは、他人の感覚と自分の感覚を比較することが絶対にできないからである。我々は自分の視点からしか見られないのである。だから、いつも他人も自分と同じように感じているかもしれない、という憶測を出られないのである。男女は、互いに相手が何を感じ、何を考えているのかを知ることはできないのである。

もし、女性が男性の想像するような感覚で、エロティックな下着を身に着けているのなら、誰にも見える所にそれらの洗濯物を干す者がこれほど多くいることはないであろう。女性は、それらを他人にみられても恥ずかしいとは思っていないのである。それは、それらの下着に対して、男性が感じているようなことをまったく感じていないことを示している。

余談ながら、エロティックな話題として昔、TVで次のようなおかしな番組があった。若い女性が台の上に立ち、手すりにつかまってくしゃみをさせられ、それを皆で見るのである。女性は、鼻の中に毛をいれられくしゃみを誘発させられる。なんとも変な番組であり、すぐになくなってしまった。しかし、私はこの番組に興味があった。女性がくしゃみをする姿は、実にエロティックなのだ。女性のあらゆる生活シーンを、エロティックに感じてしまう男性にとって、とりわけ、女性がくしゃみをするときの体の動きは、きわめてエロティックなものだ。まず深く息をしてから、それをいっきに放出する。そのとき、体のいろいろな部分が揺れ動くだろう。いろいろな筋肉が緊張することも想像できる。男性は、それらにエロティックな興奮を感じるのだ。また、女性がのどにたまった痰を排出するために、のどを細め、肺からの空気を瞬間的に外へ出すときの体の動きと、そときに発する声(はっはっは・・・)もきわめてエロティックなものである。しかし女性は、この様なことに関して何も感じないだろう。このような話は、男性にしかわからないことで、女性とは考えを共有できない。誰でも自分の想像や推測によって、大半を把握してしまっている。男性は自分のかってな思い込みで、女性を把握してしまい、それをけして変更しないでいる。男性と女性は見かけだけでなく何もかも違う。生まれつき相手を追いかけるようにできている者(男性)と、追いかけられるようにできている者(女性)の違いであり、下品な言い方をすれば、冒す者と冒される者の根本的な違いなのである。

男性は女性に夢のようなものを求めているが、女性は男性にそのようなものは求めていない。ただ、利用しようと思っているだけで、きわめてクールだ。男性が女性に感じているイメージは、全て男性がかってにこしらえてしまったものだ。たいていの男性が考えているような女性などは、世の中にはいないものだ。女性は男性のようにロマンティックではないし、繊細でもなく、くだらない夢などは見ていない。まして弱くも、優しくも、デリケートでもない。たいていの演歌に歌われているような女性像は、全て男性の作詞家が作り出したもので、あんな異様な人間は、けして存在しないことは確かである。なんと女性の作詞家までがこの影響を受け、男性作詞家に近い歌詞を書いている始末である。ところがたいていの人は、なんと女性までもがこの間違った女性像に疑問をもたないのだ。つまりほとんどの人は、我々の本当の姿を認識していないということになる。つまり、言っていることと行為がまったく違っているのである。大昔に作られたドイツメルヘンには、男女の本当の姿が非常に正確に描かれているのに、現代に至るまで、あいかわらず間違った認識が繰り返されているのである。

はじめに述べたように男性は、女性が多くの男性の中にいるときの言動を、自分をかわいくセクシーに見られたい、という願望からきているものと思っているのだが、これは間違っている。女性が男性の中で気を使っているのは、そのようなた浮いた欲求からきているのではない。つまり、単にその中でうまく振舞うことにより、感情的満足なんかではなく、何らかの実質的利益を得ようという乾いた目的のための行動にすぎないのだ。前記のマレ氏の文章にあるように、彼女は自分が女性であることを、あるいは美貌を、場合によってはセクシーさを利用して、うまく生きようとしているだけなのであって、男性が感じる意味でのエロティックな快感を求めての行動などは、断じて考えていないのである。

 

第七節 かわいさ、恰好よさについて

女性的なものの魅力が、いかに人を引きつけるかについては、一九六〇年代の漫画を見てみるとわかる。これらの漫画のヒーローは、ほとんどが少年である。鉄腕アトム、ロップ君、宇宙少年ソラン、パピー、宇宙エース、シグマ、オスパー、エスパー、狼少年ケンなどの少年ヒーローは、二枚目で、優しく、恰好よく、かわいく、エロティックでもあった。これは、全て女性的なものなのである――巨乳というか、胸がボディービルダーのようにふくれている者も多かった。さらに、その声優も女性であった。つまり、これらのヒーローは、そのほとんどが女性であるのである。女性は何か起きたとき、あわてず対処できる。男性の場合、あわててのけぞってしまう。男性は、繊細、過敏で、しかも、みえっぱりなのである。女性に根気があるのは、男性より不快が少ないからである。男性は単調な生活や仕事に耐えられず、その不快をまぎらわすために、いろいろなアイデアを出すのであり、それが芸術・科学・哲学・文学などを生み出してきたのである。男性は女性より不安定で強い不快をかかえている。それが男性を、遊び・仕事・冒険・性的行動・酒・たばこなどに駆り立てる。女性をリードしようと思ったり、頼ってみたり、ときには女性に憧れたり、定まるところがない。女性はこのようなことはなく、自分の行動、考え、自分自身について迷うことは少ない。それは、安定した軌道に乗っているからである。体調が良い者は、リラックスできる。しかし、どこかが悪い者はどこかに力が入ってしまう。その悪いところからくる不快のため、「何もしないこと」ができないのだ。大きな仕事を成し遂げる者も、おそらく、何かがうまくいっていなかったのだ。全てがうまくいっていたなら、何もやる気はしなくなる。だから、女性の偉人は少ないのだ。我々の行動は、不快によってのみ起こると言ってもいいのだ。体形についても、男性は不安定であり、それに比べて女性は安定している。男性の手がたいていズボンのポケットに入っているのは、体形からくる不安定さに対処するためだ。そうしていないと、落ち着かないのである。男性の体形は、女性の体形と比べ不安定だ。女性の体形は、あらゆる姿勢で安定している。だから、ポケットに手を突っ込む必要がない。女性が、子供や重い荷物を長時間もっていられるのも、この体形から来るものだ。女性は根気があるが、その原因の一つはその体形にあると言える。これは、歯の噛み合わせの違いが、運動能力に大きく影響するのと同じである。安定している者は、見た目も恰好いいものだ。よく精神力だの気合だのというが、そんなものではなく、体調がよく、安定した体形の者が勝つということだ。左右の足が太い太ももでぴったりくっついている女性の安定した下半身、そして大きなヒップ、そしてまっすぐ伸びた背筋は、安定していて疲れないのである。足が太いのを嫌がる女性が多いが、太いタイヤをはいた広いトレッドの自動車が恰好いいように、しっかりした足をもつ女性は安定していて恰好いい。

このように女性、は全てにおいて男性より安定しているのである。その結果、男性のような三枚目的行動――三枚目的な行動は、二枚目的な行動に合わない者が、無理やり二枚目を演じることに耐えきれなくなったとき、苦しまぎれに飲む清涼剤なのである――によるうさばらしをしないでもいられ、いつも二枚目の恰好いい良い子でもいられるのである。さらに女性は、男性のような繊細さがなく、余計な神経を使わないでいられるので、肝心なことに集中でき、また、食べ物では好き嫌いが少ないので悩みも少なく生きやすい。こんなたくましさも、女性の魅力となっており、これがエロティックなものにもなっているのである。健康でたくましく無神経であることは、エロティックなものの重要な要素である。一九六〇年代の漫画のかわいく、恰好いい少年ヒーローには、以上のような女性特有なものがあり、それは男性がけしてもち得ない憧れのものなのである。これらの漫画の作者は、本能的にそのことを知っていたのだろう。

「かわいさ」と言ったとき、その意味するところは二つある。第一の意味での「かわいさ」とは、動物の犬のようなものを見たときの感覚であり、第二の意味でのそれは女性を見たときの感覚である。第一の「かわいさ」は、自分の手中にある、自分の支配下にある、自分がそのものに対して完全に優位に立っているときに感じるある感情である。たとえばペットや自分の子供、そして年老いた母親などに対して感じる感情である。これらは、自分より何らかかの意味において下なのである。それに対して、第二の意味でのかわいさとは、自分と同等以上の者、敬意を感じている者に感じる感情である。前記の漫画の少年ヒーローや女性のかわいさは、第二の意味でのものであり、これはペットのかわいさとは違う。これは、おそらく男性のみが感じることができるものであろう。このかわいさをもつ者は、女性と一部の少年だけである。この「かわいさ」とは、男性が女性に感じるエロティックな感情からきているものなのである。漫画の少年ヒーローは、女性の良いところだけと男性の良いところだけを取り出し合体させたかわいくて恰好いい人間・ロボット・サイボーグであったのだ。これらのきわめて女性的な魅力をもつヒーローの中において、私は、鉄腕アトムよりシグマによりエロティックさを感じる。それは、シグマの胸が女性やボディービルダーのように大きく膨れているからだ。この要素は、鉄腕アトムのようなエロティックな要素がより小さなものに比べ、印象をにごらす。つまり、脂っこく、臭く、汚くみえる。それこそが、我々を最高にエロティックな興奮に導くのだ。しかし、どうして胸が大きいことが我々を興奮させるのであろうか。それは、それが女性の体形に似ているからではないだろうか。エロティックさや、第二の意味でのかわいさは女性のみがもち、それを見た男性が特にそれを強く感じることができるのである。

「恰好よさ」というものについても、同じようなことがいえる。この場合も、第一の意味での恰好よさは、男性的なものであり、第二の意味での「恰好よさ」は、女性的なものである。この二つは、前記の「かわいさ」と同じく、まったく違うもののである。男性の「恰好よさ」は、独立した女性の「恰好よさ」に対処した従属的なものであると考えられる。わかりやすくいえば、確固たるものである女性の「恰好よさ」に対抗するために出てきたのが、男性の「恰好よさ」なのである。我々は魅力的な者に出会うと緊張する。相手と行動を共にするとき、相手がすごければすごいほど、こちらもそれに釣り合うようにハッスルする。我々はカメレオンのように、相手の何かに合わせて自分を変える。相手が立派であると、それに合わせて運動量は増え、自分を相手に良く見せようとする行動が出てくる。しかし、相手がみすぼらしいと、だるくなり、声も低くなり、口数も少なくなり、平気でおならをしたりして、自分を良く見せる気がしなくなる。自分が魅力を感じた女性に対して、自分を良く見せること、自分を相手にとって価値ある者、魅力的な者に見せようとする衝動からくる行為が、男性の「恰好よさ」なのである。ところが、女性の「恰好よさ」は、何かに対処するために生み出されたものではなく、女性が自然に行動している姿を見た男性が勝手にそれを「恰好いい」と感じただけで、女性自身が何かを積極的に演じているわけではないのだ。つまり、女性の「恰好よさ」は、女性に対する男性のたぶんエロティックな感情の反応の産物なのだ。だから女性は、女性の「恰好よさ」などというものを感じないであろう――男性の感覚のようには感じないだろう。女性の「恰好よさ」をまず男性が感じ、エキサイトし、その不快・欲求不満に対処するために、男性の「恰好よさ」が苦しまぎれに生みだされた、というわけだ。男性の「恰好よさ」には、必ず女性を意識しているところがあるというわけだ。この世に女性がいなくなったら、男性はだらけきってしまうだろう。女性もステキな男性に対して、気を使うということはあるが、それは、生きていくためにうまく男性を利用しているだけであって、男性のようなエロティックで病的で弱者的なものではなく、きわめて健康的なものなのである。

 

*息子たちは気にする。わたしたちがよく目にすることだが、彼らは好んで、しかも長時間、鏡に向かい、かみの手入れをし、ひふのしみを心配し、「美しく」見えるかどうか、とりわけ「美しい男」に見えるかどうか、自問する。父親たちはたいてい、こっそりと鏡を覗き、そこに映った自分の顔を見て感心する。虚栄のそしりを受ける婦人たちは、鏡に映った自分の姿を見ても感心しない。彼女たちが鏡の前に立って「美しく」化粧するのは、人から感心されるためである。(前出のマレ「子供の発見」より)

 

エロティックなものは、男性が女性の体のあるところ、ある動作をかってにエロティックに感じてしまっているのであって、けしてそういうものが実在するのではない。「恰好よさ」についても、女性の生きるための自然な体形や行動を、男性がかってに「恰好いい」と感じてしまっただけであって、けして女性は、何も「恰好つけよう」となんか思っていないのだ。つまり、女性的な恰好よさなどというものは実在しないのであって、それは男性によってイメージされたものにすぎない。だからそれは、男性にしかわからないのである。

 

第八節 女性は本質的に二枚目である

男性のタレントは、二枚目で出てきてもやがて三枚目になってしまう者が多く、最後まで二枚目で通す者は少ないように思える。男性は三枚目になりいやすのである。男性が二枚目でいることは、きわめて不安定であるのだ。二枚目を維持することが難しいのは、何か無理をしているからだ。男性は本質的に三枚目なのである。だから二枚目に居ても、少しバランスがくずれると三枚目に《落ちて》、そこで安定してしまう。《落ちて》という表現は、三枚目になってしまった者が二枚目に再びなることはけしてない、つまり、下にあるものが自然に上に浮かび上がることはないことから、妥当な表現ではないかと思う。男性は恰好よくしていても、それは女性に対抗しているだけで、無理しているのである。男性が二枚目になっているときや、恰好つけているときは、きわめて不安定な状態なのである。本質的に恰好よいのではなく、ただそのふりをしているだけであるので、何時力がつきてしまうかわからないのである。才能のない者が努力でつないでいるのと同じなのである。

ところが女性は、本質的に二枚目なのである。だから男性とは逆に、女性が三枚目を演じるとき、無理している、あるいは場違いなことやっている、ということが誰から見ても明らかなのである。女性は安定した二枚目であり、本質的に恰好いい存在なのである。前記のように、女性は第二の意味でのかわいさ、恰好よさをもっている。女性は幹であり、本体であり、けして道化役には成りえない。女性はそのままで、何の努力もしないで二枚目でいられるのである。これが落語の中には、けして女性のばか者が出てこない(立命館大学の先生がNHKのラジオ放送で二〇〇五年に言っていたこと)ことの説明にもなるのであるである。

《女性度》というものを定義するならば、これが高くなればなるほど二枚目的行動(恰好よく、エロティックで主役的なもの)を無理なくこなし続けることができるのであり、「ふざける」という自らを三枚目的行為で《落として行く》行為は少なくなっていく。前記のように男性は、この《女性度》が低いために二枚目的な態度を安定して永く続けられないのであり、それに耐えかねて「ふざける」という態度が出てくるのである。男性は「ふざける」という行為により、男性の本質である三枚目という安定点に落ちつこうとするのである。これは、男性が体に合わないことをやっていることに対する不快さから逃れるための手段であり、言わば麻薬なのである。時々、自分本来の居所に戻る、生まれ故郷に帰ることにより、この不快を中和しようとするのである。一方、女性は本質的に二枚目なのであるから二枚目的行為に対してこのような不快を感じることはなく、「ふざける」という行為をする必要がないのである。事実、女性が男性のように「ふざける」ことは少ない。女性は、常にまじめで二枚目で恰好よい存在に、安定して居続けられるのだ。

女性が二人いて共同作業をしているとき、《女性度》が高い方は常に「ふざける」ことなく二枚目の行動を安定して維持することができる。しかし、相手より《女性度》が低い方、つまり弱者は不安定になり――我々の態度は、常に相手と自分との関係によって決まる――、ふざけたり、おどけたりする態度が多くなってしまうのである。

二〇〇九年現在、「だめ男」(「だめお」と読む)が話題となっている。女性から見て、あるいは女性と比較して、無神経、無能、ぶざま、まぬけ、恰好悪い、と思わせるような実に醜い男性特有な行動をする男性のことだ。あるNHKのラジオ放送でも「だめ男」について特集していた。しかし大事な事は、このような恰好悪い男性がたまにいるのではなく、男性は全て「だめ男」なのであり、その本性が女性のように優等な男性は絶対にいないのである。もしそのような男性がいたとしたら、彼はなんとか根性でその醜いところを隠し通しているわけであって、これにはかなりの努力が必要なのである。男性が女性のように恰好よく振舞うには、女性と違いかなりの努力と無理が必要なのである。であるから、男性は誰もがいつか力尽きて、本性をさらけ出さねばならぬ時が必ず来るのである。その姿を見て、女性は男性というものにあきれはててしまうのであり、男性というもののぶざまな本質を知るのである。

女性の二枚目的な魅力、つまりかわいさや恰好よさ、もっと正確に言うのならエロティックさ――このような魅力には、全てエロティックなものに起源があるという大胆な仮説が出てくる――に対する男性の関心は、遊びや芸術に対する関心とは違い、これらよりはるかに強いし、確固たるものである。芸術などへの関心は常に力を入れていなければ持続できないが、男性の女性への関心は、我々が努力していないとすぐに引き込まれてしまい、それを我慢するために大きな力が要るのである。そのために、いかに多くの犯罪が行われているかを知るがいい!

 

第九節 おねえちゃん

我々日本語をしゃべる者の中での話ではあるが、女性は「おねえちゃん」、男性は「おにいちゃん」と呼ばれることがある。どうだろう、「おねえちゃん」は、その響きからして何かしっかりして、かわいくて、恰好よくて、たのもしく、しかもエロ印象があるではないか。「おい、ねえちゃん」と言われたとき、ばかにした感じはない。相手を対等以上に見て、頼りにしている感じがするではないか。これは、女性の本質と一致するのである。一方、「おにいちゃん」は何かばかにした、軽く見られた感じがする。年が大きくなった女性が「おねえちゃん」と言われたとき、当人も周りの者もいやな言い方をするな、と感じるが、それ以上の不快は感じないものだ。しかし、男性が「おにいちゃん」と言われると当人を含めた誰もが、侮辱されていると感じる。たしかに両方共に、相手にて失礼な言い方だが、その質はまったく違う。「おねえちゃん」は好きになってしまった、恰好いいと思った、あるいはエロティックな欲望を感じた相手に対抗する、挑戦する、いじわるをして反応を見る、といった意味があるのだが、「おにいちゃん」の方は、完全に相手にしていない、ばかにしているという意味があるように見える。英語でも同じで、「ボーイ」と「ガール」の響きの印象の違いは、「おにいちゃん」と「おねえちゃん」の関係と強く似ている。

不思議なことは、これまで述べてきたような男女の差異が、「おねえちゃん」、「おにいちゃん」という言葉の響きに現れているのである。男性と女性の印象が、その名称から受ける印象に正確に対応している。これは、人間の顔・体形骨格・声・しゃべり方・しぐさ・性格の間に決まった関係があることと同じである。恰好いい者は、その風采だけでなく、しぐさ・声・しゃべり方といった全てがエレガントで魅力的なのである。

一般に言えることであるが、言語から受ける印象は、それを母国語とする者の印象に正確に一致しているのである。たとえばフランス人やドイツ人や中国人の風采に、フランス語やドイツ語や中国語は合っている。もし、ドイツ人がフランス語を話したらおかしい。ナチスヒトラーが、あの演説をフランス語でやっていたらおかしい。あの演説は、彼の性格から出てきたものというより、ドイツ語から出てきたものなのである。もし、彼がフランス語を母国語としていたならば、あのような激しい演説をするような性格にはなっていなかったであろう。また、イタリア人にはイタリア語、スペイン人にはスペイン語が合っている。もし、イタリア人が中国語を話していたら奇異だろう。我々は、不思議なことにその奇異さを正確に感じることができるのである。スペイン語の突き刺すような響きは、スペイン人の獰猛な性格に合っているし、イタリア語のあの独特の抑揚は、イタリア人の陽気で非ドイツ的な性格に合っている。各人種の印象は、その言語から受ける印象と一致するのである。

これらは、けして科学では解明できない我々が今までに考えてもみなかったような謎なのである。言語というものは、我々の一部分、我々の所有物ではない。つまり言語は、我々がこの世に現れたのと同じに、《我々が作られた原因》によって作られたのである。であるから、我々と言語の関係は従属関係(我々が言語を作り、支配、管理しているという)ではなく、対等な関係なのであり、しかも密接な関係がある。人間や生物が、我々にとって永遠に謎であるのと同じように、言語は、我々にとって永遠に謎なのである。だから、言語の中でのいろいろな名詞から受ける印象は、それに対応するものの印象に常に一致しているのである。

話はもどって、「ぼうや」という単語もひどいものだ。これは「おにいちゃん」よりさらにひどい。男性の本質がまぬけで、恰好わるく、みっともないものであることが、この単語に表されているではないか。

相手の呼び方について、もう一つおもしろいものがある。相手が男性の場合、目下のときは「~君」と呼び、目上のときは「~さん」と呼ぶ。しかし、相手が女性の場合、目下でも目上でも「~さん」と呼ぶことが多い。つまり女性は、どんな立場でも「~さん」と呼ばれることが多いのに、男性は、目下であればほとんど、男性からも女性からも「~君」と呼ばれる。「~さん」は、「~君」より敬意を表すものなのであるから、我々は、男性より女性に、より敬意を感じていることになり、なんとこれも、男女の関係の本質に合致しているのである。

 

第一〇節 女性のバストのこと

男性も女性も女性を見るとき、まずバスト(女性の胸部のこと)の目がいくと言われている。男性は当然であるが、女性の場合も同じで、これは数人の女性からきいたことなので確かなことだろう。女性は、女性に対してエロティックな関心はないのであるが、気にしているというわけだ。いかに女性が、そしてそのバストが、我々にとって重要なものかがわかる。私が小学生のとき、バストの小さい女性の先生がいた。運動会のとき、男女が踊る種目があった。そこでかかった音楽に合わせて皆で歌った。それは、「マイムマイムマイム・・・」という歌詞だった。皆はそれを変えて「XXXX、Xぺっちゃんこ」と歌った。Xはその先生の名前である。つまりX先生はおっぱいが小さいよ、と言っているのである。男子生徒は――女子生徒もかもしれない――相手の女性のバストを気にしている。それが大きいとき、ある種の不快であるエロティックな興奮に襲われ、それが小さいときには、がっかりするだけでなく、バストが小さいという不幸を嘲笑し、快楽のネタにしてしまうのである。男性がボディビルディングで胸を大きく、足を太くするのも、女性の体に近づくため、あるいは対抗するためではないのか、と考えてしまうのだがどうであろうか? しかし全ての男性が、無意識に女性の体に憧れていることは確かなのである。

 

第一一節 衣服について

女性の衣服の種類は、男性のものに比べてはるかに多くある。それは下着に限定しても、男性のものの一〇〇倍以上の種類の商品がスーパーマーケットには並んでいる。男性のファッションは、背広が出てきてからなくなってしまった、ということを何かで読んだことがある。そのとおりに男性の衣服は種類が少ない。売り場にたくさん置いてあっても、同じ種類のものがたくさんあるだけであって、形はほとんど同じなのである。男性が女性の着るようなものを着れば、間違いなくおかしい。しかし女性は、どのようなものを着てもステキであり、男性の着るようなものを着ればまた新たな魅力が出てくるものだ。これは、後述のいじめに関する章の中で問題とされる「どんな行動をしても、生意気・分不相応と見られない者は、いじめられない」ということに対応している。つまり、何を着てもおかしくないということは、何をやっても、何を言っても、周りの者に不快を与えないことと同じであって、これは、その者がより強い者、魅力ある者、高貴な者、価値ある者であることの証なのである。このような優者は、どんなラフな格好をしても、また正装をしていてもまったく違和感がないものだ。誰もがそれについてとやかく言う気になれない。もし、からかいでもしたならさっそく反撃がきそうな恐ろしさを、また敵にしたくない、友だちになりたい相手である、と相手に感じさせるのである。その者は、誰にもその者を刺激しないほうがよいと判断させ、また、刺激する意欲も起こさせないのである。何か余計なことを言ったりやったりして、その強く、不気味で、不明な相手を刺激しないほうが得であることを、誰もが本能的に知っているのである。その迫力を前にして何も言えなくなってしまうのだ。

女性が何を着ても、けして《なまいき》にも、《分不相応》にも見えないのである。このことからも、女性が男性より上位の存在であることがわかるではないか。

 

第一二節 老人と子供の男女について

子供(幼児)や老人の場合、男女の本質的な優劣がそのまま出ているものだ。前記のように子供の場合、女性は「おねえちゃん」と呼ばれ、その響きからして頼もしく、恰好よく、エロティックな雰囲気まで漂う。男性は「おにいちゃん、ぼうや、ぼく」などと呼ばれ、軽く見られていることが現れている。そして外観も、女性に比べてみっともない感じだ。男児は、いかにも「ぼうや」、「ぼく」という感じなのである。

これは、老人についても言えることである。老人の場合、女性のほうがより美しく、恰好いい。男性は「だしがら」みたいである。まるで、子供のときの「ぼうや」という感じが復活してきたかのようで、いかにもみっともない感じである。老人でも女性の体形は美しいが、男性はボロ雑巾のように見え、しょんぼりしている。子供と老人には、男女の本質的な違いがそのまま出てきているわけである。

よく女性は年をとっても、男性のように貫禄とか、味が出てこないと言われている。確かに功績を上げた男性は、りっぱな風貌になっていく。男性も二〇から六〇才くらいの間では、女性よりステキな風貌をもつ者も多い。誰でも健康で、うまくいっていて、楽しいときには、顔も、体も、動作も魅力的に見えるものだ。社会においてうまくいっている最中の男性は、だから魅力的に見えてしまうのである。男性は女性よりはるかに遊び人なのである。だからこそ、自分の好きなことをやっていて、それがうまくいったときの喜びは、女性に比べてはるかに大きい。その大きな喜びが男性を美しく《見せかける》のである。女性は一つのことに執着し、喜び、興奮するというより、もっと全体を気にしている。特定のことに執着することのできる女性は少ない。いつも全体を、《母親のように》見ているのである。

社会で成功した男性には、昆虫のオスのようにメスよりも美しい装飾が、そのメスより劣る体の表面に施されていくのである。しかし、その成功の期間が終わると、その中身が子供時代と同じようにむき出しなってしまうのである。退職してぶらぶらしている男性は、それまであった美しい薄いメッキがはげていくのである。そして、子供のときのように女性に比べて、その外観が劣っていくのである。これが、男性の正体なのであろう。たまたまうまくいって、美しく見えるようになったというわけだ。これが、男性の青年期から壮年期にかけての美しさなのであろう。加速している者は、いつも美しい。しかしそれが終われば、まぬけで、醜い者になってしまう。しかし女性は、いつもその美しさ、恰好よさを安定して維持しているものだ。女性は、その生涯にわたりそれらを保っている。魅力というものを、安定して保っているのである。序盤で優位に立ち、中盤で男性に抜かれるが、最後にまた抜き返す、というわけだ。

 

第一三節 離婚について

年取った夫婦において、女性が離婚を申し出てさっさと出て行ってしまうという話は多い。男性は、今まで苦労をかけてきたから、これから二人で仲良くやろう、などと考えているのに、女性のほうはまったくそんなことは考えていない。女性は、男性の論理では動いていないということだ。ここに、男性と女性の大きな違い(差異)が現れているのだ。

年取って夫に先立たれた女性は、それ以後、むしろ今までより元気になり、活動的になり、友達も多くなっていくものだ。男性より強者であり野生的な女性は、男性のように思い出を回想することにふけるなどというデリケートなことはまずやらない――強者、つまり健康な者、社会的生理的に優位な者は無神経でいられるのであり、神経質になる必用がないのである(必要のないことをやる者はいない)。神経質は弱者特有の症状なのである。だから、いままでのことにまったく振り回されない。しかし、弱者である男性が相手に先立たれた場合、最も大事な支えを失ったという気分でいっぱいになり、元気がなくなってしまい、思い出にひたり続けるのだ。彼は、今までいかに彼女に頼っていたのかがわかるのである。しかし、女性にとっては、今まで彼を「ほんのつかの間利用してきた」という感覚しかない、つまり、彼女は誰にももたれかかる必用のない強者なのである。

男性と女性の間にいざこざが起こると、男性は怒り狂い、迷い、気が転倒し、時に反省し、めちゃくちゃになる。一方、女性のほうは、冷静・冷酷であることが多い。女性は、このめちゃくちゃになった男性を見て、いっそう冷静になっていく。男性はこれを感じて、いっそう不快になり、また、負けている自分を感じて焦っていくのであり、これは弱者のお決まりの反応なのだ。そして最後に反省し、あやまるのはいつも男性だ。女性は、絶対反省などせず安定を保つ。そして、相手の男性にあいそをつかす。迷いのない女性は、けして自分が悪いなどとは考えない。そして、女性はさっさと出て行ってしまう。男性は、それをなんとかくい止めようとする。

二〇〇五年四月のあるTV番組では、離婚の問題が取り上げられていた。結婚から二〇年くらいで離婚するケースが多いようだ。女性の男性に対する不満は、一日中家にいてむさくるしい、用もないのにしゃべりかけてくる、といったものだ。男性の女性に対する不満は、うまい食事を作ってくれない、話をしてくれない、優しくしてくれない、といったものだ。この両者の不満は、その質がまったく違うことがわかる。明らかに、女性は男性にあいそをつかしており、不満の根底には、男性に対する幻滅の気分がある。男性はこれに気づいていないことが多い。女性が夫に魅力をまったく感じていないのに我慢しているのは、彼がお金をもってくるからなのだ。「亭主元気で留守がいい」とは、このことを言っているのである。しかし、男性は妻に魅力を感じ続け、何かを期待し、何より頼りにしている。自慢話も聞いてもらいたい、その他の話もしたい、ぐちも聞いてもらいたい、身の回りの世話もしてもらいたい、という具合だ。だから、夫の妻に対する不満は、たいてい妻が自分のことを相手にしてくれないというたぐいの内容だ。男女の強弱関係は、このようにはっきり出ているのである。夫は妻だけを見ている。しかし女性は、いつも生きるためにどうすればいいのか、という視点から全体を冷静にながめているのであって、夫はその中の一部でしかない。夫が妻にしてあげ、喜んでもらいたいと思っている夢のようなことなど、女性はけして求めていない。女性はもっと現実的なことを求めているのである。

二〇〇五年九月のニュースによると、三〇才の夫が、三一才の妻を布団に押しつけ窒息死させた。彼らは一年くらい前に結婚した。この事件の少し前に子供が生まれた。彼は、「妻は子供が生まれてから、自分をかまってくれなくなった」と言っているそうだ。妻の関心が子供にいってしまった、ということだ。はじめの子供が生まれると、夫婦のそれまでの甘い生活は終わる、とはよく言われる。女性には次の仕事が入ってきたわけで、それまでのように夫だけをかまってはいられない。妻は次の段階に迷うことなく進むのだが、夫は弱者なために想い出にふけり前向きの行動ができないのである。

ある詩人が――たしかボードレールだと思うが――「結婚は女性にとっては重大なことだが、男性にとっては単なるエピソードにすぎない」と言っていたが、それは逆である。現在では、女性はいとも簡単に離婚していくではないか。幹である女性は、つまらない男性と我慢していっしょに居る必要はない。女性は一人でも生きていけるのである。たぶんボードレールはこの問題をまったくわかっていない。離婚を言い渡す女性にとって、夫の価値はなくなってしまっている。知れば知るほど、夫の価値はなくなっていったのであった。しかし夫にとっては、結婚当初から妻の価値はたいして下がっていないのである。男性は、生涯に渡り女性に魅惑され続けるのである。女性は男性にとって命の母なのである。

これは、息子と母親の関係でも同じである。この最も仲の良い関係は、よく見るとけして愛すべき関係ではない。息子は無条件に母親全てを愛するが、母親はそうではなく、自分の求めるものだけを愛して、その他は冷酷に切り捨てている。これは、前記のニーチェの「母親は、子供の中の自分を愛している」が良くたとえている。一見すると、男性のほうがやりたいほうだいやっているようだが、実は、それらは女性の手の中にあるものであって、女性は強者のやり方で男性――息子も――をうまく利用しているのである。昔読んだ西遊記の漫画で、孫悟空は気がつくと観音様の手の中に居ただけであったというのは、正にこのことなのである――この西遊記も、ドイツメルヘンと同じように男女の本質を知っているのである。女性はきわめて現実的だ。生きるのに必要なことを優先して考えており、つまらない夢や余計なことなどは考えていない。だから判断が早く、冷酷なのだ。男性のように、恰好つけたり、良く見せようとしたり、その他いろいろなことを考え迷ってしまうことがない母親にとって、最も愛すべき息子のことでさえも、冷たい目、高い視点から見ることができる。

女性が夫に離婚を迫ることに対して、男性は日頃もっと気を使えばいいなどという人が多い。しかし女性は、そんなことを問題にしているのではない。夫そのものに魅力を感じなくなり、あいそをつかしてしまっているのである。一週間に何回も「愛しているよ」などと言えばいいなんてばかなことを言う者がいるけれど、夫が完全に知り尽くされ、飽きられてしまったのであって、もはやどうしようもないのである。夫自体に――その態度や行動ではなくして――きっぱりあいそがつきてしまったということで、こういう場合、本体そのものが完全にあいそがつかされてしまっているのであるから、小細工はまったく効果がない。しかし、このことに気がつかない無神経でバカな男性が実に多いものだ。

 

第一四節 昔の書物中に正確に表現されている女性の優れた行動

ここで前出のマレ「子供の発見」の「ヘンゼルとグレーテル」という章より、マレ氏が、この世にも有名な物語から解釈した女性の男性に比べて優位な能力について紹介する。いままで説明してきたことが、一つの物語の上に表現されていることがわかる。このように本当の男女の違いは、太古から誰もがわかっていたのである。しかし表では、そんなはずはないと思い込み、そう言わないようにしている。そして、この誰もが心の中で感じている真実は、秘かに物語の中だけで語られてきたのであった。同書から引用する。

 

*森の入り口に貧しいきこりが、つまと、二人の子供(ヘンゼルとグレーテル)を抱えてくらしている。生活がとても苦しく、ろくろく食べるものもない。心配で眠れないきこりは、寝床の中でしきりに寝返りを打ち、溜息をつき、そしてつまに話しかける。「おれたちはどうなるんだろう。おれたち夫婦の食べる物さえないのに、どうして子供たちを養えるだろう」。

そして母親は冷たく、子供たちを森の中に置いてきぼりにすることを提案する。子供たちはそれを盗み聞きしてしまう。ヘンゼルは落ち着いて行動する。外へ出て玉砂利をたくさん拾い、上着のポケットに詰めこめるだけ詰めこんだ。そしてグレーテルの所にもどってきて「安心して眠るがいい」と言った。

ヘンゼルは、実にすごい少年だ。勇ましく、積極的に、たじろがずに状況を処理し、賢明に脱出方法を考え出し、その上に親切で、思いやりがある。完ぺきといってもいいくらいに、ヘンゼルは「真っ当な少年」の理想像と合致する。それに反して、妹のグレーテルの様子は全く違う。この少女は消極的で、何の思いつきもなく、薄ぼんやりといってもいいだろう。この子はなくだけで、それ以外は何もしない。二人の子供は、一般的な男女の役割像を証明しているように見える。しかし、これは、よく昔話にあることだが、実は、単にそう見えるだけのことである。・・・後に、決定的な行為をやってのけるのは、グレーテルである。

 

二人は、次の朝、森に連れていかれる。ヘンゼルは前日に集めた玉砂利を落していく。そしてそれを目印にして家にもどることができた。しかし母親はもう一度森へ連れて行こうと考える。そしてヘンゼルが玉砂利を集められないように戸の鍵をしっかりかける。子供たちは、また両親の内緒話を聞いてしまう。ヘンゼルはまえと同じ手を使おうとするが、戸に鍵がかかっているのでそれができない。それでヘンゼルは、森に連れていかれるときパンを玉砂利のかわりに落していくことにした。しかし、それは鳥に食べられてしまい、前のように家にもどれなくなってしまった。森に置き去りにされてから三日目に、一羽の鳥が枝の上で歌う。そしてこの鳥について行くとある家があった。その家はお菓子でできていた。ここでまた同書から引用する。

 

ヘンゼルとグレーテルは、考える余裕はない。「さあ、食べちゃおう、すてきなご馳走だ」。ヘンゼルはそう言って、甘い屋根から食べ始めることにする。そして妹に向かって言う、「窓から食べるんだ、グレーテル。お前にはちょうどいい甘さだよ」。

実にこの少年は元気だ。この二、三日の失敗があっても、彼の心は少しも挫けない。さらにこの少年は、自分を命令できる優れた人間だと思っている。だから妹に対して、おうように、食べるものの指示まで与える。少年はうぬぼれが強いから、妹に合うものを、当人よりも自分の方がよく知っていると思い込んでいる。

これもまた、子供たちによく見られる一つの傾向である。彼らは自分たちの実際の次元に対する感覚を失い易く、やたらと兄弟に指示し、しかも放っておくと、間もなく、自分は父親や母親よりも分別があると思うようになる。

また子供たちの中には、努めてそのような姿勢で、両親に臨もうとする者もあるが、このような例はとくに片親の子供に多い。母親と暮らす少年たちは、とりわけ父親の代役を演じたがる。その場合の彼らは、妹に対するヘンゼルと同じように、「おせっかい」である。彼らはまた、「マミー」に対して責任を感じ、彼女に助言を与え、彼女に何か心配事があると、慰め、彼女の好きなものは何でも分かると思っている。彼らは、しばしば本気で「一家の主」の役を演じる。

 

話はもどり、その家の中から老婆(魔女)が出てきて、二人を家の中に入れ、おいしいものを食べさせる。次の朝、魔女はヘンゼルを捕まえると、小さな家畜小屋に入れて、「格子戸」で閉じ込めてしまう。一方、グレーテルは、魔女にうまい料理を作るように命じられる。毎日魔女は、ヘンゼルの体に脂がのってきたか確かめる。四週間が過ぎて、とうとう魔女は、ヘンゼルを食べようと決意する。そして、その前に魔女は、グレーテルをパン焼き釜の中に突っ込もうとする。ここから先、いよいよ、グレーテルの驚くべき行動が始まる。それは、女性特有と言えるものであり、本番でヘンゼルを上回る才能を示すのである。

グレーテルは、魔女からパンが焼けたかどうかみるために、パン焼き釜の中を見ろと言われる。グレーテルは、魔女の企みに気づく。魔女が自分を殺そうとしていることを知っている。グレーテルは、とぼけて言う。「どうすればいいのか、わたしにはわからないわ」。そしてグレーテルは、魔女に手本を見せるように言う。そして魔女は、パン焼き釜の板の上に座った。グレーテルは、魔女をパン焼き釜の中に力の限り押し込んだ。そして鉄の扉を閉めかんぬきを差した。魔女は、うなり始め焼け死んだ。グレーテルは、そんなことを気にかけないで、ヘンゼルの所に走って行き、吉報を告げる。「わたしたち助かったのよ。おいぼれの魔女は死んじゃったわ」。ここでまた同書から引用する。

 

*グレーテルは、実践的な面でも本領を発揮している。彼女はためらわないし、オドオドしていない。優柔不断は、女の特性ではなかった。グレーテルは勇気があるし、冷静である。彼女の行動は断固としており、殆ど冷酷に近く、最後になると傍若無人である。これらの特性は男だけのものではなかったのである。・・・つまを「馬かな子」と考えるような夫は、魔女がグレーテルにやられたと同じようなやり方で、つまに一杯食わせられる危険がある、ということだ。

 

そして二人は森に出た。しかしやがて川に突き当たりそれから先に進めない。ヘンゼルは言う。「小さい橋も、大きい橋もないじゃないか、これじゃ向うへ渡れないな」と。しかしグレーテルは白いアヒルを見つけてこれを利用することを考える。ここでまた同書から引用する。

 

*事実、ヘンゼルは、慌てる必要がない。というのも、何か起こると、必ずといっていいくらい、彼のことを心配する人や、彼の世話をするか慰めてくれる人、あるいは彼にはないようなアイデアを持った人などが、彼の前に現れるからだ。しかも、そのような務めを果たす人には、女性が起用されてきた。今、ヘンゼルの力になっているのはグレーテルであり、そのことは彼も先刻承知である。ところが彼はグレーテルをほめてやらないし、彼女に一言の礼も言わないし、彼女に席をゆずろうともしない。彼は真っ先に、アヒルの柔らかい羽の間に席を取る。エゴイズムは、これまでの話の中でも、彼が最も得意とするところである。

ところがさて、そこにとてもおとなしく座ると、とたんにヘンゼルは紳士になる。そして「かわいい妹」に向かって、自分の傍らに座るように勧める。グレーテルは、どこまでも「かわいい女の子」なのだ――彼女がそれまでに上げた、大人顔負けの業績とは全然かんけいなく。・・・ヘンゼルはグレーテルに向かって、一緒にアヒルに乗れと誘う。しかし、この「気前のいい」誘いにも、やはり利己的な意思が含まれている。ヘンゼルは、自分のそばに常に誰かがいないと、困るのだろう。彼はなるほど母親からは解放されたが、母親が忘れられないのだろう。彼の場合に、憧れは別の力を持っている。彼は一生、女性的な雰囲気や暖かさにたいして憧れを抱くであろう。ヘンゼルが始めて抱擁(ほうよう)し、キスした相手は、グレーテルである。そして今度は、グレーテルをそばに置こうとする。彼は、誰かとの結びつきや、触れ合いに寄りすがっている。彼には、優しさや愛情、愉悦が必要なのだ。

だから、ヘンゼルはグレーテルを自分のそばに座らせたかったろうし、また自分の腕で抱えてやりたかったのだろう。しかし、それができない。グレーテルが、ヘンゼルの申し出を断ったからだ。「二人一緒に乗ったりしたら、アヒルちゃんがたいへんだわ。一人ずつ向う岸まで連れて行ってもらいましょうよ」。このような心構えを、グレーテルは自分の経験で覚えた。彼女自身の苦労や、災難の結果として、彼女は他人の立場が理解できるのである。彼女は、自分が苦しい思いをしたから、思いやりの心を持っている。彼女は、兄ヘンゼルの世話をし、しかも彼を救った。そして今、彼女はアヒルの身になって、考えている。

 

二人はアヒルによって対岸に運ばれ、彼らの家に、魔女の家からもってきた財宝とともに、帰ることができたのであった。

以上は、マレ氏が「ヘンゼルとグレーテル」という古い物語の中に見つけた男女の能力の違いである。この物語の中の少年と少女の違いは、一般の男性と女性のあいだにもそのままあてはまるものだ。太古の人たちだけでなく、現代の人たちも、きっとそのことを感じているはずだ。しかし、男性が女性より、肝心なこと、主要なことでは上位である、というどこから出てきたかわからない信仰のため、男女の以上のような本質的な特徴は、表向きにはいつもしりぞけられてきたのである。そして、大多数の者は、この誤った信仰を永遠にもち続けるだろう。

さて、次の話題は、今から二〇〇〇年くらい前の話で、ローマ皇帝のネロ(暴君ネロ)に対して、反乱が起こり始めた頃の事である。自分に背こうとするあやしい者を、ネロは次々の捕らえ尋問し、そして拷問した。こうしたことに直面したとき、男性と女性の本当の姿がよくわかるものだ。そういうある場面についてタキトゥス年代記」(国原吉之助訳、岩波書店)より引用してみよう。

 

*そこでナタリスが呼び出される。二人は別々に、例の密談の性格や内容を尋問される。二人の返答は食い違っていて、疑惑が生まれる。彼らはそのまま鎖につながれ、拷問の道具を見せつけられると、ひとたまりもなかった。さきのナタリスが白状した。彼は陰謀のいきさつをより詳しく知っていたし、おまけに告発の才にたけていた。まずピソについて証言をおこない、次にアンナエウス・セネカの名も上げた。・・・ナタリスが自白したと聞くや、スカエウィヌスは、同じように意志薄弱であったためか、あるいはいっさいがすでに暴露されていたので、今さら黙秘しても得にならぬと考えたのか、ともかく残りの共謀者の名を挙げた。その中で、ルカヌスとクィンティアヌスとセネキオは、長い間罪を否認し続けた。しかし、処罰しないという約束で買収されると、自白をためらった罪滅ぼしという気持から、ルカヌスは自分の母アキリアを、クィンティアヌスとセネキオは、それぞれいちばん懇意な人グリティウス・ガッスルとアンニウス・ポッリオの名を挙げた。

*そのうちネロは、ウオルシウス・プロクルスの密告で監禁していたエピカリスのことを思い出した。女の体ではとうてい責苦には耐えられまいと考え、エピカリスを拷問にかけて引き裂くように命じた。しかし、彼女はむちにも火(訳注:拷問の形式。火は焼串を体にあてるとか、松明で焙ること)にも屈しない。拷問吏は女になめられまいといよいよ激昂するが、かれらの憤怒(ふんぬ)にもめげず、彼女は最後まで嫌疑を否認しとおした。こうして、初日の尋問は何の成果もなく終わる。翌日、またも拷問を受けるため、彼女は座輿(ざこし、ざよ:台車)に乗せられていた。というのも、彼女は四肢の間接をはずされ、立っておれなかったからだ。運ばれていく途中で、彼女は胸に巻いていた帯をほどいて、座輿の天蓋(てんがい)に結びつけ、首吊りの縄のような輪をつくった。それからその中に首を突っ込んで全身の重みをかけて引っぱり、すでに細くなっていた息の根をすっかり絞り出した。

*解放奴隷が、それも女が、身の毛のよだつ責苦に耐えて、他人を、しかり、まったく身も知らずの人をかばおうとしたのだ。自由の身に生まれ、しかも男のローマ騎士や元老院議員が、拷問にかけられないのに、それぞれ自分の肉親の仲でも最愛の人たちを売り渡したというのだから、いよいよエピカリスの示した手本は映えてくる。じっさい、ルカヌスですら、それにセネキオもクィンティアヌスも、次から次へと共謀者の名をあばいていた。それでネロは、すでに衛兵を増強して身辺を守らせていたものの、日に日に不安をつのらせていく。

 

この話は、「ヘンゼルとグレーテル」の中のヘンゼルのように、何事もないときには落ち着いて恰好つけている男性が、目の前に危険が迫った時、問題が込み入ってきたり長期化してきたりした時、急にいくじがなくなってしまう――本性が現れてしまう――ことを示している。それに対して、日頃は一歩引いている女性は、そのような時、けしてひるむことがないことがわかる。悪く言えば恐怖感や痛さに関して鈍感なのかもしれない。しかし、これは一つの強さなのである。強者や健康な者は目的のもの、自分がやろうと思っているもの意外のものには、きわめて鈍感であることができ、肝心なところに集中することができる。それに対して、弱者や病人は、全てのことに鋭敏で何事にも集中できない。昆虫でも、鳥でも、あらゆる動物でも、オスのほうがメスよりきれいだ。オスは恰好ばかりつけている。