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トランジスタの開発物語 2

トランジスタの開発物語 2

  

 

  1986年「日工マテリアル」に掲載された高松秀機氏の記事

 

            トランジスタ

  ――理論的アプローチの威力の限界――

 

を打ち込んでみた。ものすごくおもしろく、どこにも書いてない内容です。①~④でそれぞれ7000文字くらいあります。最後の方にトランジスタの話題が出てきます。

  バイポーラ型のトランジスタノーベル賞受賞後に、ショックレーが1人で作り上げ、理論も完成した、ということが理解できます。

 

 

  20世紀への扉を開くとき、無線通信は専門家達から否定されながらも、素人の手で思いがけず(理論外で)生まれてきました。祝福のない誕生でしたがひとたび使われだすと、信号を遠い距離へ運ぶためには高周波へ搬送させねばならず(長波長では届かない)、この変調波を受信した方では信号を抜きだすために分離器が必要でした。

 

  二極真空管の発明

  当時、信号検出には図1の整流を用いた機構が想定されました。他方で天然に電流の非対称性(不完全ながら整流作用)をもつ鉱物が見つかりだしてから(1875年ころ)、これを組み合わせた鉱石検出器が考えられ、ドイツのブラウンはその鉱石における非オーム性について研究を先駆け追及しましたが、性能が悪くて実用になりませんでした。・・・のちに彼はブラウン管を創って(1897)マルコーニ

とともにノーベル賞(1909)を受けることになります。

 

  それが発明される前年に、電気会社の顧問、英国のフレミング(1849~1945)は、炭素フィラメントに代わって白金性でもエジソン効果が起こることを実験で確かめていました(皆やっていたが)。しかしこの時点ではまだ電子という概念は成立しておらず、彼もまた隠された意味を見過ごします(1896)。

 

  「フレミングの法則」をうちたて、ロンドン大学で初代の電気工学教授に推されたこの学者は実地にも造詣が深く、学校教育を受けなかったマルコーニの無線通信を側面から技術援助します。それは時代を拓く大きな可能性をもっていたからでしょう(先生自身ははノーベル賞に恵まれなかった)。・・・産業が成長するにつれて無線の距離はさらに伸び、受信の限界を超えてしまい、より高感度な検波器が求められていました。必要と工夫に迫られ、フレミングはガラス電球に金属を挿入したエジソン真空管が、解釈を変えると整流器になることに思いあたり、すなわち図1のようなカットにに使えば検波器に利用できる、との着想が閃きました(このとき嬉しかったと、彼は追想しています)。

 

  これを組み合わせて実用化へ歩む行進のなかで無線電信用の二極真空管が創出されました。(1904年、55歳)。はじめは検波器で、のちに”エレクトロニクスの原初機構”となります。これは大特許へとそびえますが、オリジナルは乏しく、目的と機能の接ぎ木であって、電子管はエジソン電球そっくりの姿です。これほど重要な発明が借用から(紙一重で)生まれています。

 

  三極真空管の発見

  モールス無線の成功(1901)はやがて音声の伝送(無線電話)へと可能性がよびおこされ、なりゆき(非意志)のステップを上っていくのです。しかし二極真空管そのままでは検波器としての感度は悪く、カットだけでは飛躍の見込みもたたず、さらに原理の根本的な改革が望まれました。

  世界から遠く隔たった米国のウェスタン・エレクトリック社では、若い無名のフォレスト(1873~1961、マルコーより1つ年上)が無線検波器の新方式について探索を行っていました(こっそり隠れてもやった)。彼は火花放電(発振)を扱ったときに室内のガス灯が薄暗くなり(当時は電気会社にも電灯がなかった)、装置を止めるとまた明るく戻った奇妙な変化にでくわしたのです(1900)。その現象を逆にとりかえてみました(この間に論理関係は成立しない。ここに無線技術史上もっとも想像力に富む発明家といわれた人の創造の秘訣がある)。彼もエジソン真空管を模型にし、二つの電極間にガスを介在させてその種類を変えてみると、流れる電流のせせらぎに違いが生じたのです。

   

  そのあとフォレストはは野心に燃えながらWE社を退職します(既にマルコーニは世界的成功者であった)。機械工学出身の一青年が感度の良い検波器をめざし、富と名声へむけて勇気をふるい、無線に運命を賭けて新機構の開拓に没頭していきました。しかしうまくいかず、財政は危機がつづきました。赤熱した陰極の温度で電流を加減する代わりに(二極真空管の特許のがれとして、独創性のない)第三極を並置して流れの制御を良くしようと試みた(アンテナやバッテリーをつないだ)ら、(たまたま電極を動かすと)検波能力がグンとと増加し、従来よりも高感度検出が得られたのです。

 

  このあと新真空管を調べていると[小さな信号を大きくする]異質の現象、つまり増幅機能が思いがけず(落し物のように)見出されました。陰極との間に第三極を挿入し、そのグリッドにわずかな電圧をかけるだけで冥界のように両極の信号が大きく変動しました。意図しない驚くべき出来事でした。(模倣から)非連続な道をたどった発明だけれど、これは関係者に大変な話題をよびおこし、生まれた効果の意味(学問)と波及(工業)は重大でした。それまで”増幅作用”が存在するなんて理念では不可とみなされており、誰も考えつけなかったことを独特の径路から創りだしたのです(1906)。これこそ創造でありました(実用性と学問と独創性において)。

 

  二つの増幅器

  一方、オーストリアで電信電話を扱っていた無名の人が、真空管は無線と同じく電話でも重要になると短絡し、二本の電極へもうひとつ送話器からの音声(第三極)を追加してみたら、なんと(素人のデタラメで論理のつながりがなく、入れた位置が幸運を招き)真空管の機能が決定的に増大しました(1906)。才能などはない細工だったのに、信じがたいほどの効果をもたらしました(特許係争は泥沼になるが、それほど価値は大きかった)。思いつきが無線通信に革命を起こし、エレクトロニクス史上”空前の創造に値する”とまでの評価を受けました。これは現在の”電子素子の原理構造”であり、トランジスタのモデルとなりました。粉の発明によってそれまでアイデアでしかなかった通信法や回路が一挙に実現されてくるのです。これほどの飛躍がどのようにしてなされたか、はっきり承知してください。

 

  フレミング自身も二極管の外側にコイルを巻きつけて制御することを漠然と考えたのに、どうしてこれを実行しなかったのかが悔やまれました。やっていれば発見できていました。やらなければ予想できませんでした。これが非凡と凡人の境です。だがこれほどの創造「オリジン」が実験のなかで偶然の産物であったとは、どう筋道ののつじつまが合うのでしょうか。

 

  革命的な性能の出現

  こうして三極真空管はうまれたけれど、しかし製品としては性能がよくなく、サギだとまで否定され非難を受けました(真空技術の向上によってATTが優れたものへ仕立てあげ、やっと本来の機能は働き、認められた)。だがいったん三極真空管が創られると、この新真空管は検波と増幅作用への跳躍のみならず、他にも驚くべき能力を潜めていました。発明者も1911年頃までは理解しておらず、検波器として開発したのに、この三極管が電流増幅にも使えることがアメリカ、ドイツ各地で相つぎ見出された、さらに再生検波や帰還増幅も提案されています。このとき増幅した電波の一部を入力側に戻してやると振幅が繰り返し持続して、無線通信に必要な高周波の発振(これは別の大問題であった)が期せずして生み出されました。これらまるで魔法のような機能をもつ真空管への期待は高まり、通信事業を推進する原動力の核となっていったのです。

 

  のちに人類を変えるほどの真空管発明に対し、しかしノーベル賞はまだ授与されませんでした。なぜか疑問が残響でうねります。創造を評価する世界の権威が、「発見に至った飛躍性と創出された価値の大きさは正比例しないし、大発見といえど平凡な行為から発する」ものという創造の実体を認識してなかったのでしょうか?

 

  名もない技術者達によった無線の発達は、思いがけず「多くの人々へ情報が同時に送れることを可能にしていた」(これが電子学を現代の主役にさせる・・・しかしマクスウェルはこのことを予測して理論を建てたのではなかった)。その機能と電話を組み合わせた無線電話はラジオへと成長し、なすことなく浪費された夜の時間にかぎりない夢を語りかけ(1920)、猿人だった人間に文明の幕をひらきます。闇からの声に大衆はラジオのとりこになり、機器が実現されてからその可能性は拓かれました(マスコミも誕生)。これら驚異的な創造の平穏な行程をあるがままに受け、把握してください。

 

  ここで決定的に電子時代へ踏みだしたのですが、これほどの発明発見において神や天才は姿をまだみせていません。いち現れるのでしょう? 科学史上で永遠に輝くエレクトロニクス開墾において、まさか天才のいない世界はないでしょうね。

 

  このとき真空管の登場によってもうひとつ重要な発明が伴われました。二極真空管の「整流作用が電波を検出する」のだから、一方で、整流作用をもつ鉱石半導体も検波できるに違いないと置き換えられ(このへんは互いに影響しあう)、1906年にカーボンランダムついでシリコン・亜鉛・銅・鉄等の硫化物が続々と開拓されて、いよいよ1924年にはメリットがゲルマニウムの点接触ダイオードまでつくりあげてきました。

 

  性能そのものは真空管のほうが優れていますが、レーダー網には超高周波の出力が必須鵜であり、それは真空管ではまだ無理でした。そのためマイクロ波には鉱石が使われ(1939)、第二次大戦にGeやSiを猫ひげ(細線)で封入した導波管まで工夫されていました。ここでようやく結晶内部メカニズムを探究する目が向けられます。しかし、当時、鉱石検波器の製法や取り付けは職人芸であって科学者達は相手にしておらず、民間の技術者達が自己流でさぐっていました。

 

  シリコン面改質中の新発見

  時代の背景は戦争に前後して、電波技術は好むと好まざるとに関わらずいつのまにか軍事に不可欠の科学兵器となってしまい、第二次大戦中にアメリカ民間企業はNDRC(国家防衛研究契約)下の協力体制をとり、そのなかでベル電話研究所も電信技術の開発に取り組んでいました。

 

  レーダー用に重要となった鉱石半導体の検討をベル研ではオールとブラッテンらが受けもち、品質のバラついた天然シリコンに人工のの手を加えて性能の向上にに励んでいました。シリコン結晶を強加熱(1000℃くらい)した表面にいろんな処理(薬品)を施しながら、各種テストにかけて物性変化を測定する。わりに単調な仕事のなかである日ふと、どうも非常に整流特性の優れた半導体が得られた場合、結晶を焼くときに一種の匂いが(ネギのような)漂うことに気付くのです。記憶のフラッシュから概念をさかのぼって未知の影を現像してみると、この臭いの正体は「焼けたリン」によっているらしかったのです。

 

  添加実験をしてみると、精製品でないと性能はでなかったはずなのに、ありえないと思われましたが(想像外だった)、シリコン結晶に不純物(他の原子)を混じらせると、以外に電気特性が鋭敏に変わる。電子機構と実用面での重大な発見ととなっていました。

 

  そうなると今度は反対にリンを浸透させる工夫ががとられ、さらに知識を基にに次の展開が推理されました。図2の周期表を応用して、シリコンとゲルマニウムにP・Asを加えるとマイナス方向にへ効果が出るから(n型)、B・Alを添加すればプラス方向にへ流れやすい特性(P型)ができるのではないか、と非常に重要な第二のステップ(半導体の本性に迫る)がわずかなきっかけから掌握されてきます。この後で半導体の理論が考えられました。しかしそれら理論はなぜかどれも正しくなく、間違ったものでした。どうして答えが先にみつかるのでしょう。それどころか理論的アプローチによって開発された例はまだ姿を現していない。本当にあるのだろうか? 創造の秘密がそこに隠されているようです。

 

  はじめは単なる製品の化粧でしかなかった作業から、検波機能を超えたエレクトロニクスの秘めた本質理念の開拓となりました。また戦時中にレーダー用の高純度品をつくる精製法が発達してきて、このGe・Siの電気特性をコントロールする方法が合わさり、地祇の発展の土台となります。ここからドーピング法・拡散法・ICへの技術へと技術が自ら成長を遂げ、人類に空前の改革をもたらしますが、なんら天才とは無縁なの創造への道でした。

 

  創造とはいわば未開の現象といかにして出会い、それを取り囲むかです。神に近い現象を作り出すことではないのです。不遜にも最先端の壁を突き破って新発見を予測して描こうとするから、大変な難事となってしまう。要は「出会う」ことなんです(人生だってそうでしょう)。どうして出会えるのか、それら創造の軌跡をいま訪ねております。目的地よりも景色のほうが意義深く感じられます。

 

  ショックレーの野望と挫折

  長く不況が続いた大恐慌のあと(1936)、初めて一人の青年科学者がベル研究所の門をくぐってきました。15年ののちにトランジスタ開発の立役者になる男、ウィリアム・ショックレー(1910~)、がマサチューセッツ工科大学から期待をこめてATTへ招かれました。その時この逸材をスカウトした電子管部長ケリーが一つの使命感を示し、それ以来彼は「真空管の増幅作用を固体中で行わせる」(つまり結晶の中に真空管を実現する)夢にとりつかれて野心の炎をこがしましたが、しかし長い失望の連続でした。

 

  このころ社会状況は人類史で最大の殺戮と破壊を尽くした第二次世界大戦が、ようやく日本の死闘の果てに終了をむかえていました(1945)。歓びに包まれ緊張のほぐれた時点で、ベル電話研究所はそれまでのNDRC下の戦時体制を解き、新体制を組織いたします。戦争で仕事を中断されていたショックレーは新たに[半導体の基礎研究とそのチーム]を発足させました。リーダーは35歳の若さであり、部下は43歳の実権屋ブラッテン、37歳の理論家バーディン(他にもギブニーやシリコン太陽電池を発明したピアソン)らでした。

 

  彼にそのテーマを決意させたものは何かといえば、それは自然界に模範があったからでした。真空管は[整流・検波]と[増幅]の働きを示すゆえ、鉱石半導体が[整流・検波力]を持つなら、さらに[増幅作用]も鉱物で可能ではないかと類推で思い描かれました。・・・真空管の寿命は短くて壊れやすくて、たえず電気で赤熱させておかねばならない。世代の潮流と要請も、電力を食ってカサばる重い真空管に代わる、静かな粒部品でした。図3のような等価変換になります。

 

  しかし同じ真空管でも、整流作用と増幅作用とは全く異次元の機構であり、単なるアナロジーでは駄目なはずですが、現実はそれを超えて発見されるのです。粉の飛躍が何であったがを見逃がさないでください。

 

  「半導体と直に接触せずに外から電場をかけることによって、内部電子を制御できるのではないか」とショックレーは予言し(のちの電界効果トランジスタ)正しい方針で出発しましたが、しかし未開の荒野へ踏みだしたのは無謀な試みだったのかもしれません。名門MIT大学の稀な秀才であった青年が忍辱にまみれた苦しみを骨髄まで味わっています。後年”トランジスタ開発の成功”によってノーベル賞を獲得した3人のうち、ショックレーのみがハッキリと固体素子への野望を抱いていたのであり、他の二人は途中から引き込まれただけです。だがトランジスタ効果を最初に生み出したのは年配者二人のほうで、若いショックレーは空振りばかりでした。彼にとって取りかえせない旅路となりました。

 

  ショックレーの研究方法は、目標への道筋を”電子論”で展開して新デバイスの構造を設計し、機能するかどうかを実験で確かめるものでした。大エジソンとは正反対のアプローチ法ながら、堂々アカデミズムの正攻法でした。理論を真っ向からふりかぶり、「論理以外にスベがあろうか、学問ではそれより他に学ばなかったではないか!」と自らを激励しました。しかし推論どおりにはピクリとも動いてはくれませんでした。理論と計算による机上設計ではじゅ十分可能だと自信をもっていたのに、全く差動してくれない、「なぜなのか!」、自分の知能がいささかも通らぬことに、カミソリの切れ者ショックレーは苛立ち切歯しました。どこなのか、見えない! 砂漠の果てに出口はないのかもしれない。成功とは後から評価される(失敗者は消えたままの)、地図の内なお恐ろしいさまよいでした。

 

  何が耐えさせたのでしょう。執念の男ショックレーはなおも追い求めるのですが、しかし長い時間と情念は消耗されてしまい、その空虚がショックレーの心を狂おしくさせていました。なぜ正理論が合わないのかと、この納得のいかない理不尽に彼は仲間のちょっとしたミスでもわめきたて、そのたびごとに部下の心は離れていき、可能性を見限って内輪から仲間が去り始めたことが彼の心を動揺させ、孤独の底を這いずりました。何物かが半導体内部への電場の浸透を妨げていました。創造とは断崖のごとく険しいものでした。それをどうやってよじ登るか、方法が問題です。この難問をかれはいかにして突破したのでしょうか。

 

②は完了