SonofSamlawのブログ

うひょひょ

トランジスタの開発物語 1

 

  1986年「日工マテリアル」に掲載された高松秀機氏の記事

 

            トランジスタ

  ――理論的アプローチの威力の限界――

 

を打ち込んでみた。ものすごくおもしろく、どこにも書いてない内容です。①~④でそれぞれ7000文字くらいあります。最後の方にトランジスタの話題が出てきます。

  バイポーラ型のトランジスタノーベル賞受賞後に、ショックレーが1人で作り上げ、理論も完成した、ということが理解できます。

 

  

 

  人類が猿から別れて本物の「サピエンス」へ進化を達成し、叡智を獲得形質したのは、エレクトロニクス誕生以降であると後世の歴史家は線を引くことでしょう。科学史のうえでも時代を転換させたほどの大発明はそう幾つもありません。ところでわれわれは人類の形態を変える分岐路をいま渡りつつあります。コンピュータの開発によって知能が生産され、その能力が人間をしのぎ始めたからです。

  

 

  現代に革命をもたらしつつある「電子計算機」の基本子であり、科学的にはプログラム原理よりも需要だったのは、トランジスタの出現でした。この世紀の発明が誕生した不可解な経路をこれから辿ってみます。歴史上の稀な偉業においてどんな天才が揮われたか、その足跡に何がおきたのか、、創造のプロセスを吟味してください。

 

  電子原理の発見

  最初にエレクトロニクスの基本原理を創ったのは誰でしょう。真空管へ開花したその熱電子効果を見出したのは、学校教育の全くないエジソン(1847~1931)であう。彼は実験工場で日夜おそく電灯のの工夫をを重ねながら、炭素フィラメントを白熱させ、そして燃えなくする意向で空気を抜いていると、陰極側から電子が飛び出してくる事象に出会ったのでした(真空中で加熱させられたから、非常に軽い電子は動けた)。電気という新エネルギーを生活hw活用することしか念頭になかった男が、テーマ化もなしに異質の物理原理を掘り当てています(1883)。想像とは目標がなくとも生まれるのでしょうか?

  

 

  そのきっかけとなったのは、電球のガラス壁に黒い炭素が付着し、陽極側の足元が白い影にに抜けていたことです。これはフィラメントから微粒子が直進した(電荷をもつ)らしく見えたから、エジソンは電球をスズ箔でおおって検流計をつなぎ、証明を点灯してみたら、金属膜へ電気が飛び込んでくるようだった。汚いものを一か所に集めることから管内に電極を挿入し、プラスをかけることに変えてみると電気が夜光虫のようにた漂い流れた。しかし、マイナス負荷ではまったく動かず、奇形にも電流が片方向にへしか移動しない特性が、夜の街頭のごとく露出したのです。

  

  

 

  これはのちに「エジソン効果」と呼ばれ、電子の存在と整流作用にほかならず、学問的に重要となります。赤熱した電極から熱電子が飛びだしてくる現象は、ちょうど「液体の表面から蒸気が揮発していく状態」とアナロジーされて、量子力学や熱電子管の生まれる心象風景となるのです。が、エジソン自身は目に見えない電気粒子には興味をわかせず、抽象思考する知的訓練もなかった彼はこの重大な発見を見過ごしてしまい、その汚れが物質の本質を究明する鍵穴であったとも洞察できず、チャンスは巡っていたのにノーベル賞もエレクトロニクスの生みの親にもなっていないのです。

 

  歴史にクサビをするほどの独創を手中にしながら、彼は既に公知であった[空中でフィラメントを加熱したときに随伴する光の発源]へ、機材の改善に情熱と才能をふり注ぐのでした。だけどエジソンり前年に英国のスワンも炭素フィラメント電球を作り出していました(彼の科学は趣味で、特許を出さなかった)。ところがそれも先人の組み合わせであって、本質は真空ポンプの改良(名もない技術者)によって可能になったものです。エジソンは独創性やオリジンよりも、闇を裂いて輝く光線の現実と、実用化の技術確立のほうに魅せられ、夜を徹して光の炎をあきずに眺めていたのでした。

 

  エジソンが本当に偉大であるのは、電灯生活に必要なソケット・安全ヒューズ・電力メータなどを造りだし(賞とりよりも大衆のニーズを重んじ)、電力を供給するダイナモ発電所の設計も行い、発電から配電までをシステム化して電気の可能性を企業化したことです。それはのちに一発明家の意図をこえてラジオやモータ動力など、現代文明を醸造する母地となりました。・・・無関係な場で創造の種は生まれていたのでした。

 

  偉大な創造者エジソンは晩年にこう自慢しています。「自分の発明のなかで偶然によってなされたものはない。働くことによって得られた」と、しかしこの自負は誤りでしょう。彼は20世紀の科学と産業にいまも脈打つ原理と偶然裏に出会えながら、それに気付かなかったのです。彼の得意とした組み合わせだけが創造の方法ではないのです。

 

           蓄音機とエジソン

 

 

  電子の発見と別々の軌路

 

  電子の公式発見は1897年、イギリスのJJ.トムソン(1856~1940)によって記録されています。学問の領域で問題となった、真空中での陰極線に関するデータの蓄積を理論を足場に、「電子の速度」と「電荷/質量の値」を綿密に測定し、”これ以上壊れない原子”よりもさらに小さい粒子の存在を確認し、ここから古典科学の物質観を根底からくつがえす大発見を得ました。驚くべきことはそれより以前に白熱電球の発見と製造が行なわれていたことです。

 

  アカデミーよりも早くエジソンは目標がなくともすでに製造の扉を開いたのですが、この段階では理論的な構築は絶対必用でした(発展のために)。しかしそれは手で触れるものしか思考しない野蛮人エジソンには無理だったのです、理論筋道がなかったところからは現代物理学への驚異の進行はリーチされなかったのです。この事実を心に銘記してください。彼の現象が評価されるまで20年の空白がが停滞します。それほど独創の発見であったのですが、創造において歴史は違った複路を記述しております。

 

  

 

  捨て子で放棄されたエジソンの遺児を育てたのは別の人達で、英国のフレミングとリチャードソンらです。二人とも大学人であり同時期に同じ装置と原理を扱いながら、異なった領域を歩きます。創造とは一本につながった道ではないようです。フレミングは二極真空管へ転用して電子時代への綺羅めく段階をのぼり、一方リチャードソンは熱電子が飛びだすエネルギーと臨界温度の関係を追及し(1902)、熱電子放射の基礎を確立して、1928年のノーベル賞者となりました。

 

  真空だったからこの熱電子は発見されたけど、真空ゆえに炭素フィラメントは蒸発で焼き切れてしまうから、”大発明”電球は創られたが(1879)、40時間の寿命(初めは10分間)では製品として実用は無理というものでした。そこで技術者達が高い融点をもつがしかし加工は難しいタングステン(粒となってしまう)のフィラメント製法に努力をかたむけ、焼結法へ取り組みました。またGEへ入社した赤いラングミュアーは電球へ窒素を密封することを発案し、これら輝線の蒸発を防ぐ技術の研鑽によって、初めて電灯は民衆の商品へ広がっていきました(19113)。

 

  しかしエジソンがもそも初めから不活性ガスの封入を閃いていれば、新事業に苦闘はしなかったものの、この熱電子現象は見出されていなかったことになります。回り道をたどった方向の誤りは一つの重大な基礎原理の創造を、応用技術を王過程で(別な親から)出会わせました。予定外でも(彼は拾わなかったが)それがそれが創造の姿を形成し、次の発見の引き金となります。無関係な繋がり方で創造の道は切り開かれていきました。これが創造の通った道程でした。

 

  電磁波の発見

  もう一つ見ておかねばならないものがあります。電波の発明と開拓は誰が行なったのでしょう。全く違う枝川から合流します。素朴な磁石というエネルギーもないのに鉄を引き付ける不思議な鉱物を、イギリスの実験家ファラデーがいじっていると、傍に置いた(電磁石用に使う)コイルに(内を貫く磁界が変化して)突然起電力が発生しました(電磁誘導の原理)。何もないところで無から有が生じた。これは大変な出来事でした(偶然だったが)。後世に革命をもたらした電動機への応用はずっと遅れますが(これがモーターになるというイマジネーションは誰も考え付かなかった・・・そのモータを創りだした技術者は世界中のどんなノーベル賞者よりも重要ですが、それは誰なんでしょう?)。このとき、いままで別々のの分野であった電気と磁気との間に定量関係が成立してしまうのです(1831)。人智を超越した思いがけぬ結果に、学界は異様な興味にひかれました。

 

  ふとした出会いから次に学問の領域が先行し、電気と磁気の諸法則を統一する方程式がアカデミーの標的となり、高名な科学者達が挑んでいきました、どれも失墜し敗退するなかで、発見された年に生まれたマックスウェル(英、1831、18979)が、やっとアナロジーと数学から導き、成功へ至りました(だが理解されなかった)。・・・ここで定形化した(方程式をマクスウェルが改めて見直すと、アンペールの法則[電流を流したコイルは同型の鉱磁石と同等になる]という一般則に不完全な個所があることに気付き、彼はこれに新しい項をつけ加え、補いました。・・・これが発見の端緒でした。Geの存在や海王星の予言と同じように、理論は穴埋めに威力をみせ発揮されました。

 

  すなわち磁界が変化すると電界が発生する[ファラデーの法則]を逆にとりかえ、マクスウェルは”電界が継時的に変化すれば磁界が生じるはずだ”と思索しました。それなら磁界が電界をひき起こし、それが同時に磁界をひき起こす。この変化反射し繰り返され、波動が連続してくる。こうしてまだ存在も知られていない電波の発生とと伝搬までもを人類に予言したのです(1864)。さらにその物理学者の計算によれば、電磁波は光と同じ速さをもつことになり、マクスウェルは大胆にも”光は電波である”と発言して物議をかもしました。

 

  電波の発見

  電波とは加速された電荷から発したエネルギーが空間を走る現象であります。それが了解されるまでは(電球と似た)種々の実験のなかで、何もないはずの真空中をどうやって得体不明のものが伝わっていくのかと、その不可解さがさまざま取り沙汰されていました。他方で独のヘルツ(1857~1894)は師ののヘルムホルツ理論に基づいて電磁波の研究に着手します。得られた結果は(当時疑惑をもたれていた)マクスウェル理論を立証するものでした。

 

  以来、ヘルツは認められずに世を去った先人の晦渋な理論を掘り起し、これで実験のデータを解析して、仮設から24年後に電波の実発生に到達します(1888)。学問の勝利を信じさせる事由と思われます。・・・ところがヘルツが電磁波の存在を確認したのは別な仕事からであった、と証拠が残っています。初めの実験目的は図のような高電圧下で(硫黄やロウなどの)物質を挿んで電気特性の変化を調べることでした。資料内部での電界の様子を知りたいが、それは無理な注文だから、磁界分布のデータをとるために固体面に沿ってループを並べ、磁気の相互誘導を利用して磁力の強さをはかろうと試みました。そんな装置でマクスウェルが予言した電波という大それた夢をかなえる野心はヘルツには毛頭なく、測量が終わってからサンプルを抜き、測定器をはずしたそのあと、なをループがまだ何かを受信していることに驚かされました。どうも向かいあった高電圧版から磁気と違う別なものが放射されていると、初めて認知されたのです(理論とは別なルート)。そこで磁気誘導と不明体を明確に区別するために、ループと装置を互いに引き離して実験が行われました。ここで高電圧装置(コンデンサー)は電波の発生機となり、ループは受信機(アンテナ)へとコペルニクス転換がおこりました。なぜでしょう? これが創造のなまの姿です。

 

  レーダーの発明

  つねにそうであるように、新しいものの発見は分析と測定が(神に代わって)ドラマや重要な役割を演じます。ヘルツが電波で成果をあげられたのは、電磁波に感応する装置を手に入れたからでした(予期しない偶然だったが)。それを使って実験するうちに彼は検知部で火花が明暗している(干渉と共振の)現象を目撃し、つまり放電器からとばした電波が部屋の壁で跳ね返っている証拠を先に悟りました。彼は考えてもいなかったのに、ここで電磁波は光線と同じように反射される事実を知ってしまった(1887)。

 

  これはマクスウェル理論の正しさを立証するものでした。それだけでなく別の重要な意味をもつのですが、長いあいだ利用されずに埋もれます。霧のなかを航海するする船舶の安全のためにその可能性を考えた科学者はいたが、実行する人はありませんでした。

 

  40年後に、(時代は変わり)無線の技師がが電離層の高さを計っていたところ、飛行機が通過するたびに測定値が乱されました。ふとこのトラブルのなかに真理をを看取し、ポジとネガを逆にかえれば軍事へ応用できるのではないかと思いつきました(1930)。しかしせっかくのパイオニアの申し出を軍部は戦闘で直接に役立たないアイデアと判断し、アメリカでもヒットラー側でも先見性は握り潰されました。

 

  このあと無線の交信中に飛行機が近くを通りかかる、やはり通信が妨害(反射)をうけることに多くの技術者達はは疑問を感じるのです。日本でも電離層をブラウン管に映してドイツと交わす無線受信の状態を調べていた逓信省の試験員が、表示用オシロスコープに映った小さな点虫を、飛行機が通過する実影だと確信しましたが(1939)、昔の日本にはそれらを採りあげる精神風土はなく、創造の芽は遺棄されます。当時創造というものは外国からか、別世界のものとみなされていました(今でもそうかもしれない)。

 

  ところがイギリスではドイツの爆撃機を遠くから捕えたい危機感がアメリカより切実であって、国を守るために電波を用いた探査法を緊急に検討させ、さらに航空省は飛行機の機能をマヒさせる死の光線”ラジオビーム”をつくる計画までスタートさせました。この漫画的発想(テーマとしては誤り)のおかげで強力な短パルス波(衝撃波)が開拓されてくるのです。破壊用にはとても無駄なものだったが、これを転じてワトソン(雷を予知する目的で空電の位置を測るためにブラウン管を用いた気象学者)が、初の航空機探知レーダをフロック的に創りだしました(1935)。

 

  これは第二次大戦で予想を上回る威力を発揮します。敵機の襲来をいち早くキャッチし、直ちに警戒態勢を敷いて待ち伏せ、まるで神のごとく編隊群の位置と機数までを地図におさえて迎撃に向かいました。夜の海では魔法のような透視力で砲撃の方位と距離を測り、闇のなかを急迫する脅威の潜水艦群を次々に撃沈して、逆に相手を恐怖のの底へ落とし込み、防御用として開発されながら、強力な攻撃に使われ得たのでした。

 

  だけど日米開戦の火ぶたとなった日本軍による真珠湾攻撃では、最前線のアメリカ軍基地はレーダに映った飛行機群を眺めながら、その意味を解せずに放置してしまい、数十分後に痛恨のほぞを噛みました。だが皮肉なものでこの敗北によってアメリカの世論は一気に結束してしまいました。そのマグレの勝利が日本側を有頂天にさせ、電波に対する注意力をなくし、己が墓穴を掘っていったのです。

 

  またレーダ用に開発されたマグネトロンは傍の物体を奥内から加熱してることが分かって、電子レンジや医療へ応用され、そのマイクロ波はテレビや多重電話等に利用されます。一方レーダの波長をさらに短くすると雨や雲にも反射して図形を点描しだし、最初は邪魔者であったが現在では気象予報や魚群探知の必需物になっています。・・・創造の道において結果的には踏み出した目的と達成された姿形はなぜか違っている場合が多く、エレクトロニクス開拓期においてもその創造は、天才等と無縁の路から生まれてるのです。

 

  無線の開拓と発達

  若くして令名をあげながら36歳で亡くなったヘルツの追悼特集を読んだイタリアのマルコーニは、その業績のなかにあった”数十mの空間をと飛んだヘルツ波”を用いれば無線通信は可能ではないかと、素人ながら発想が浮かびました。ヘルツ自身はこの電磁波を感受するには数百m(波長)のアンテナが論理的に必要だから、空中送信に使うのは無理であると実用性を否定しました(それなら何故彼はこの研究に限りある若い生命を費やしたのでしょう)。・・・ところがマルコーニ(1874~1937)は専門知識がないためあえてトライアルし、(原理そのものは創成しなかったが)既存の技術を組み合わせて不可とされた無線方式をわずか21歳で創りあげてしまいました(1895)。勇気というか、冒険か、才能でしょうか(教育は無関係にみえる)。

 

  しかし電磁波とは直進するものだから、たとえ無線といえども届く範囲や距離はしれていると、知ったかぶりの専門家達の理論的嘲笑を背に浴びながら、再びマルコーニは1901年(27際)に(無知ゆえ)自ら開発した無線機を携えて大西洋を渡りました。(電信用大陸間海底ケーブル施設の辛苦の完成は1866年のことで、電磁理論の完成を待たずとっくに電気工業は動きだしていた)。引き返せぬ地の果てで、仲間がイギリスから発した運命の信号をマルコに―はニューファンドランド島でキャッチに成功し、正規の科学者達を腰が抜けるほどあわてさせました。あり得ない、超えてはならなぬ電波がなぜ水平線から宇宙の彼方へ飛散したはずなのに、曲反する地球の陰でモールス音が聞こえたか! 学者達は”否定する理由”をさがしました。

 

  しかし理論は存在しなかった。とうてい理解不可能なこの鍵は、1924年電離層が確認されるまで不明のままでした。その電離層もアマチュア達の交信のなかで噂されていたものです。それにしてもマルコーニに電波学問はなかったのになぜ創造が可能であったのか、これは大きな問題でしょう。理論とは違う別の創造の道が存在するのでしょうか。・・・彼はこう語っています。「天才というものはいない。熱心に仕事をやっていただけだ」。

 

  検出器の複数発明

  このころマルコーニが使っていた電波の検出器はコヒーラ(密着)管でした。これはガラス管に金属粉末をつめて電気伝導度を調べていたとき(遊び)、ふつう酸化物だから電気はは通り難いのに、横で火花放電をやってると急に電気が流れやすくなったことから((1888)、新現象をプランリー(仏)が気付きました(多くの人達が同じ作業ををやりながら意味が分からず見逃し、そしてまた何度も再発見される曰くつきのもの)。しかし彼はこれを何かに利用する気はなく、見て楽しんでいました(これも動機)。

 

  このことを知ったロッジ(英)が電磁波を感知する検出器として技術開拓したものです(1894)。さらに彼はこの装置を100mほど離れた場所に移し、そこでも電波を捉えることができたのに、友人が全生涯をかけて無線の可能性を実用化することを勧めましたが、純粋な学者であったためか門を閉ざし、栄光への道を歩みませんでした(43歳)。無線の功績によってノーベル賞を授与され、そしてかけがえのない恩恵を人類にもたらしたのは教育のない素人のほうでした。その差は学問でなく、意欲なんでしょうか。

 

  あとからふりかえれば、それより前に最初の炭素接点の電波検出器もほとんど同じプロセスで別の音楽家(ヒューズ)により発明されていました(1879)。それは音の実験をするうちに測定装置が急に不安定となり、原因を点検してみると回路に組み入れた炭素マイクが電気火花によって影響されていたのでした。”偶然”も再訪するらしい。

 

  そこで目的を転換し、検出器として用い、またも部外者が専門家よりも早く(正規ルートのヘルツはこれより9年遅れる)電波の発生をを達成し、送信と受信までの実験に成功したのに、こんどは評価を依頼した物理のy大家(ストークス)は否定して、やる気を踏みにじられ、泥にまみれて43歳年下の若造に最高賞と富をさらわれてしまいました。生涯唯一の機会を奪われ、無念の悔しさで呪いうめきましたが、さいごの詰めや立証の不備は初心者の悲しさなのでしょう。しかしそれなら創造と証明とは異なった路であることになるではありませんか。

 

  エレクトロニクス開拓期において不快なくらい素人が活躍し、むしろ専門家が妨げたのは、科学の道の前途に不安を感じさせます。創造とはいったい何なのか、次の展開はどうなるのでしょうか。

 

①は完了です。