SonofSamlawのブログ

うひょひょ

プラシーボ効果とニーチェ

  

ニーチェ善悪の彼岸」信太訳 筑摩書房

筑摩文芸文庫 より

 

  どんな学問の場合にあっても、早まった仮説、架空の作り話、《信仰》への善良にしておろかしい意志、疑念や忍耐の乏しさなどが、まず最初にあらわれる。――われわれの感官が、繊細で忠実で用心ぶかい認識の器官たることができるようになるのは、あとになってからのことであるが、それも完全にそうなるわけではない。われわれの眼には、なにかの折にふれて、すでに幾度か作られたことのある心象をふたたび作り出すほうが、ある異常で新しい印象をしっかりととらえることよりも、はるかに心地よいものに映るのだ。後者のほうが、より大きい力を、より多くの《道徳性》を必要とする。なにか新しいものを聞くということは耳に辛いこと、面倒なことである。耳なれぬ音楽を聴くのは、われわれの気分にそぐわないものである。よその国の言葉を聴くと、知らず識らずのうちにわれわれは耳にしたその声音を、われわれにいっそうなじみ深くしっくりした響きをもつ言葉へつくり変えようとする。・・・われわれの感覚にも、新しいものは敵対的な不快なものに感じられる。一般に、感性の《きわめて単純な》過程のなかにすらすでに、怠惰といった受動的な情念をもふくめて恐怖とか愛とか憎悪とかいうような情念が、支配している。――今日の読者は、一つのページの一つ一つの言葉を(ましてやシラブル(音節)なんかを)残らず読みとっているわけではなく――むしろ、二〇の言葉のなかから、たまたま五つぐらいの語をえらびとってきて、この五つの語が含むらしくおもわれる意おば《推測》する。――これと同じくわれわれは、一本の樹を見るにも、その葉、枝、色、形にわたって綿密に完全にそれを目に入れているわけではない。むしろわれわれには、そこに樹というもののだいたいのすがたを想像してみることのほうが、はるかに容易なのだ。きわめて特異な体験の場合にあってさえも、われわれはやはりそれと同じことをやる。すなわちわれわれは、体験の大部分を仮構する。そして、《創作者》としてでないかぎりは、何らかの出来事を強いて観察することなどはほとんどない。およそこうしたものが語る真実は、われわれがまるっきり根本から、昔から、――偽ることに慣れているということだ。あるいは、もっと高尚で偽善的な言いかたをすれば、ようするにもっと気持ちのよい言いかたをすれば、われわれは自分で思っているより以上にずっと芸術家である、ということだ。――活発に談話をかわしているときに、しばしば私は、話し相手の人物の顔つきを、彼の述べる思想や私が彼に思いつかせたと信じる思想などのおかげで、非常に明りょうに繊細にはっきりと目にすることがあるが、この明りょうさのほどは、私の視覚の力の及びうる程度をはるかに超えたものである。――この場合、話し相手の顔の筋肉の動きや目の表情などの微妙なところは、私の想像によってつけ加えられたものにちがいない。おそらく当の相手の人物は、まるっきり別な顔つきをしていたか、もしくは何の表情をも見せていなかったのだ。