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生意気に関するニーチェの言葉

ライター:mpcsp079さん(最終更新日時:2016/5/10)投稿日:2016/5/10

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生意気に関するニーチェの言葉 聖書.jpg

 

僭越、生意気の問題に関するニーチェの文章である。驚くべき的確である。

 

 

ここでドイツの哲学者ニーチェの僭越(生意気)に関する意見を、前出のニーチェ「人間的な、あまりに人間的な」(浅井真男訳)から引用してみよう。僭越・生意気というものによって、我々がいかに危険な状態にさらされるかが、格調高い隠喩により説明されている。

 

僭越。――僭越と呼ばれ、われわれのあらゆる良い収穫を台無しにするあの雑草の生長には、何よりも用心しなくてはならぬ。なぜなら、僭越は情愛のなかにも、敬意のなかにも、好意的な親密のなかにも、愛撫のなかにも、親切な忠告のなかにも、欠点の自認のなかにも、他人に対する同情のなかにも存在するのであって、これらすべての美しい事柄もそのなかにあの雑草が生えると反感を起こすからである。僭越な者、すなわち、自分があり、あるいは値する以上に重要であろうと欲する者は、つねに誤った目算を立てる。なるほど、彼が僭越なことをする相手の人々は通例心配や便宜のために彼の要求するだけの敬意を彼に払うので、彼は一時の成功を収める。しかしこの人々はそれに対して悪い復讐をするのであって、彼がよけいに要求しただけの分をいままで彼に与えていた価値から差し引くのである。屈辱ほどに人々が高い代価を支払わせるものはない。かくて僭越な者は自分の実際の大きな功績を他人の眼に疑わしく小さなものにしてしまって、泥だらけの足で踏みつけられることになるかもしれない。――誇らしい態度でさえも、誤解されて僭越だと思われることがないとまったく確信できるところ、たとえば友人や妻の前でなくては、あえてとってはならない。なぜなら、人間との交際においては、僭越の評判をとる以上にばかなことはないからである。それは、礼儀正しく嘘をつく術を学ばなかったということよりもさらに悪いことである。

 

  以上の考察において、僭越・生意気である基準が謎として残る。ある行為は、ある者であるときのみ僭越となる。