SonofSamlawのブログ

うひょひょ

第二部 第一章 世と人にひそむ恐ろしくおぞましい部分に関するエッセイ

第一章 世と人にひそむ恐ろしくおぞましい部分に関するエッセイ

――自然と人間の本性は、おぞましく、恐ろしい――

 

一.はじめに

これから、我々に潜む伝統的に「悪い」と言われている性質――これらを悪者にしたのは我々であって、本当は我々人間から切り離せない良くも悪くもない「人間的な性質」なのである――について検討していく。それは恐ろしく、不気味なものである。自分でもわからないうちに何者かにそそのかされ残忍な行為(いじめや他者への攻撃)をさせられてしまう我々――。我々は、誰もが抱えている不快に耐えきれず、ついつい「悪い」と言われる行動で対処してしまう。我々は、外観はよい子のふりをしているが、常に自分を守るため、あるいは自分を快楽させるため、自分の不快を中和するための策略を秘かに考えているもので、そのためにはどのような「悪い」行動でも迷わず実行してしまうことがある。我々には、「衝動」というどこからか到来し、我々をコントロールするものが襲ってきて、驚くべき行動――後で当人も、その行動に驚くような――をしてしまう。我々の間には、危険な行動(殺人・けんか・いじめ・戦争・テロ、自動車でのドライブでの追いかけあいなど)が絶えない。二〇〇七年には、ある男性が、通りがかりの子供をマンションの一二階から投げ落としてしまったという事件もあった。彼は、そうしなければならない衝動に襲われたのだ。これは彼の責任ではなく、彼は単に誘導されたと言うべきであろう。これらの衝動は、我々が管理できるものではなく、逆に衝動が我々を完全にコントロールしているのだ(精神病も含めて)。我々自身――我々自身とは何を意味するのだろうか? ――がまったく関与できない《未知で危険な性質》が我々にあることは確かなことであり、これをしっかり認識しておく必要がある。それを悪いものとして見ないようにしてはいけないのである。我々の解決不可能な問題については、全てこのように考えるべきなのである。

特に、「残忍性」という人間特有な本能は、十分な時間をかけて検討するに値するものであろう。我々は、他人を苦しめることにより、また、他人が苦しむのを見ることにより快楽を得ることができるのである。このきわめて不道徳的な事実を、――我々は、よく調べなくてはいけない。だからこそ、復讐やいじめが、我々にとって価値あるものになるのであり、この本能がなくならないかぎり、我々の他人への攻撃はなくならないのである。あらゆる残酷な行為は、ドイツの哲学者ニーチェの有名な本の題名のとおりに、「あまりに人間的な」ものである。このような誰もの中に存在するが、誰もが見ないようにしているものをよく見ることにより、我々の行動原理がわかるようになり、あらゆる我々のおぞましい行為が自然に、「あまりに人間的な」ものに見えてくるのである。この「残忍性」については、後の章で詳細に検討することにする。

哲学の世界でも、ドイツのショーペンハウアー(一七八八年生まれ)より前では、生理的欲望や情念、つまり性欲・食欲・名誉心・虚栄心・怒り・悲しみ・退屈・不安などや、各人の固有な性格、頭の程度などをまじめに研究し、そこから人間を洞察しようとする者などいなかった。彼らはもっぱら、それらを取り除いた後に残るであろう普遍的と思えるもの(いわゆる本質)のみ――とにかくその頃の人は、普遍とか本質というものこそが、価値あるものだと信じていたのだ――を問題にしていたのであった。しかし、ショーペンハウアーはそれらに疑問をもった。彼は、カント哲学に惚れこんでいたが、それだけではけりをつけられない「我々の生の問題」に目を向けていた。そして、この二つの間で宙吊りになり、中途半端な仕事をするしかない運命にあった。そのショーペンハウアーの本「意志と表象としての世界」を古本屋で見つけ、それを読んで感心し、それを引き継いだ弟子のニーチェ(一八四四年生まれ)は、彼の師匠のようにカント哲学にしがみつくことなどせず、むしろカントやそれ以前の哲学に徹底的にけちをつけながら、師匠の着想を徹底させ、これらの問題にあっさりとけりをつけ、新しい道を見つけた(この二人の思想は「生の哲学」と呼ばれ、ニーチェは実存哲学の創始者のひとりである)。彼は、あらゆる従来の考え方を疑い、それらを徹底的にぶち壊そうと試みた者であった。彼は、「神は死せり」と言うことで、我々が見ることのできる世界とは別に真の世界、背後の確固たる世界、彼岸の世界があるというような信仰――あらゆる宗教には全てこの信仰がある――を非難している。

もっとわかりやすく言えば、「本当の自分」、「自分を偽っている」、「人間としての心」、「真人間」、「非人間的」、「良い行いをした者は、必ず報われる」というような現実になく、起こり得ないものを想定・信仰するような見方を非難しているのである。「普通に誰もがやっている行動や、起こっている事柄は、正しいものではなく、どこかにきっとまともな世界があり、まともな自分がいる。我々はそれを求めていかなければいけない。現実は、見せかけのおぞましく間違った世界であり、真の世界がどこかにある」というような考え方をナンセンスなものとしている。彼は、我々が我々の現実に嫌気がさしたときに、その対処として架空の世界を想定したり、麻薬的なものにより中和(ひたすら祈ることなど)しようとしたり、先送り(「いつかきっと良い時代がくる」といったような)したり、「我々は進歩する、我々の努力で世界を平和にできる」という信仰に身をゆだねてしまうことの多い彼以前の思想家(宗教家)――現在でも一般の人たちにとっては、この考え方は主流であろう――たちの苦しまぎれの考え方を非難している。このような麻薬的・逃避的な世界にもたれかかることなしに、我々の日常の行為を徹底的に検討することにより、人間の従来の道徳的・宗教的なものにとらわれない行動原理を探し出そうとした。あのカントでさえも、ニーチェには気に食わず、彼以前の思想が弾劾され、その有害性があばかれた。彼によると、我々の全ての行為――自己犠牲的・非利己的に見える行為でさえも――には、我々の利己的な策略(ニーチェの言う「権力への意志」)が潜んでいるのである。

ニーチェにより、このような我々の従来は除けものにされてきた陰部が、堂々とメインテーマに取り上げられ、徹底的に検討されている。だからこそ、彼の自費出版の本は、当時まったく相手にされなかったのであり、今日では、あらゆる種類の者に読まれているのである。――ニーチェのこのアイデアは、二〇世紀の思想の源流の一つとなり、二一世紀はニーチェの世紀であると言う者もいる。

以下に示す我々の誰もが震撼するような恐ろしく、おぞましく、冷酷・残酷な事実――我々は、それ以上でもそれ以下でもない――の中で、我々は生きていくしかない。我々は、我々の現象の中から飛び出して、全体を眺めることなどできない。この世界において全ては、我々の知ることのできない《メカニズム》によってコントロールされていることは確かであろう。これは、あらゆる自然現象からわかることで、我々は独立・自立していて、我々を完全に管理できる存在ではない――ニーチェも「永遠回帰説(世界は同じことをくりかえす)」でこのことを言っている。この《神秘的なメカニズム》は、太古から多くの哲学者や宗教家によって推測されてきた。しかしそれは、推測にすぎず、必ず推測者の趣味・嗜好の影響を受けている。我々は、そんな推測された《詳細なメカニズム》よりも、現実に起こっていることを詳細に調べることにより、自然や我々人間のおおよその本性や法則を知るべきなのである。我々は、以下に示された我々の驚くべき恐ろしくいやらしい性質に目を背けてはいけない。余計なことなど考えずに、これらを容認しなければならない。

 

二.我々の行動

私は、会社の机の前で一日ぼんやり仕事のことを考えていた。しかし、私には多くの雑念が出てきてしかたがなかった。我々は「恐怖」と「欲求不満」と「麻薬を求める心」に全て支配されているのではないか、そして、我々はけして独立・自立してはいない。つまり、いろいろなものと関係し合っているか、何ものかに支配され、コントロールされているということだ。しかし、我々の意識はそれらのことを全然理解していないし、理解できる可能性もない。

我々は人を助けるときでも、人を殺すときでも、その原因はそんなに違わないものなのだ。何者かに背中を押されるように、そのような行動をしてしまうのだ。どのような行動でも、我々がやるといよりはやらされていると言ったほうが正確なのだ(シェイクスピアの「リア王」のなかに出てくる言葉)。つまり、殺害された者と同じく、殺人者も被害者なのである。

我々はある行動をその効用を求めて起こしたのではなく、単にそれをやりたくなった、もっと正確に言えば、やらなければならないような衝動に襲われたからやったのである。しかし、我々はその行動の後にもっともらしい理由をつけてしまうのである。

 

三.残忍性の発見

我々は、自分の欲求を満たすためにはどのようなことでもする。そこであみ出されるアイデアには感心させられるものだ。あらゆる議論は単なる戦いであって、それによって何の成果も出てこない。これは、間違いなく相手を騙し自分の利益を得ようとする詐欺師の技術なのである。これは歴史を見てみればわかることだ。政治の世界でも、政治家は、本当に考えなければならないことをほっぽらかしておいて、政敵の些細な言い間違いや失言などを見つけて、それを攻めることに専念しているではないか。彼らは、ある原因のために怒る、というより、怒るために原因となるもの捜しているのである。そして、それを見つけると清涼感・快感を得ようと、喜び勇んでそれに飛びつき、徹底的に弾劾することに夢中になるのである。

私が小さいとき、創価学会という宗教団体がよく勧誘に来たが、そこで面白い論法をきいた。創価学会に入った者の「入信したのにちっともよくならない」という文句に対して、「もし、入信していなかったならばもっとひどいことになっていた」と答えるのである。これには驚いた。まったく反論の余地がない完璧な回答なのである。将棋で言えば相手の駒の置く所を完全になくしてしまうのである。相手のための答えというより、議論に勝つための答えなのである。議論や口論に強い者の技術がよくわかる一例である。

よくよく考えてみると、以上のことには全て我々の《残忍性》という恐るべき本能が潜んでいることが見えてくるのである。それは、ことの起こりがどうであろうとも、我々が相手をいかにして騙すか、あるいは、苦しめるかということに専念してしまうという事実である。

 

四.切れる

我々はよく「切れる」、つまり怒る。我々の怒りは理性的に考えられて出てきたものではない。突如として、我々を動かしてしまうものだ。これは誤った行為でも悪い行為でもない。我々のもっとも人間的な行為なのだ。この衝動はあまりにも不気味なものなのである。我々はこのことを把握することによって、心の中に野獣を抱えて悩める――野獣はけして悩むことはない――半ば人間、半ば野獣である人間獣の正体に迫ることができるのかもしれない。我々は常に未知なのであり、我々人間をあまりにも理想化したり、単純化したりすることは、我々にさらなる悩みを積み上げさせることになる。我々は人間をもっとストレートに把握しなければいけないのかもしれない。

 

五.不快の中和

我々の行動は、そのほとんどが不快をまぎらわす(中和する)ためのものであると言える。冒険する者は自らを危険にさらすことにより、何らかの不快を中和しようとしているのであり、僧侶は苦行で自分を痛めつけることにより、自分の耐え難い不快を中和しようとしているのである――これはマゾヒズムの一種である。これはちょうど、腐りかかったものも刺激の強いスパイスをたっぷりかければ、食べやすくなるのと同じである。人間の不快を中和するには、他人を苦悩させる(いじめなど)ことだけでなく、自分を危険や苦悩に投げこむことが必要となるというわけだ。

 

六.退屈という不快

二〇〇五年二月、社会保険庁の職員の不正についてのニュースが報じられた。女性の下着を盗んだということで自主退職した者など、多数の者が処分された。公務員は緊張感があまり必要ないために、退屈による不快に耐えかねているのである。退屈とは実に恐ろしいものなのである。退屈による苦悩は性的な欲望に変換されることが多いのである。

 

七.快適さによる不快

恐怖感のないことは我々にある種の不快をもたらす。気をつけていないと困ったことになるという緊張感、今日は何とかなったけれども明日はどうなるかはわからないという恐怖、お金に困っているときのやりくりなどは、我々にとってある種の快感をもたらすのである。昔は正月になると店がやっていないので、一二月三一日までに買いだめをしておいたものだった。「買っておかないと大変なことになる」という緊張感は、家族の中にうごめく不快感を取り除いてくれるのである。また、私のおふくろにきいたことであるが、太平洋戦争のとき、隣近所は仲良くなったという。これは、この非常時おいて仲間同士が協力しなければならない、という優等生的な論理で説明されてしまうのかもしれないが、そうではなく、戦時中の恐怖と緊張と困難が、我々の中にあるおぞましいものや不快を中和し、かえって清涼感をもたらしてくれるのである。だからこそ、誰もが仲良くなり協力し合うようになるのである。このような状況においては、不快感は平和時より少なくなり、したがって「いじめ」は少なくなる傾向があるのである。

しかし、近頃(二〇〇六年)においては、スーパーマーケットは正月でもやっている。いつでも買いたいときに買える、また、携帯電話でいつでもどこでも話したい人と話せる。恐ろしい先生が好かれ、優しい先生が退屈がられるように、こういう便利さは我々の中に悪質な不快を生み出す。そして、社会に深刻な問題をひき起こす。恐怖や危険や困難は、我々に溜まる不快を中和してくれる。たとえば仕事が忙しい人はある種の快を感じることができ、さらには性的な欲望なども鎮静することができる。退屈という不快はあまりにも耐え難い。平和で便利になった社会は、きわめて危険なのである。それは、我々が恐怖や困難や苦悩という形で消費できなかった我々の欲望エネルギーを、マゾヒストや冒険家や苦行僧のように自ら進んで自分を苦悩させ、危険にさらすことや、いじめ、虐待、殺人などの暴力的な行為によることや、エロティックな行為により消費しなければならなくなるからである。

近頃(二〇〇六年頃)、大学教授、高校教諭、公務員などによるわいせつな事件、いじめと自殺、幼児への虐待、親殺しなどのニュースの報道の量が多くなっている。実際の量が増えているのか、報道される量が増えているだけなのかはわからないけれど、恐怖と緊張のない状態がこのような事件を生み出しているような気がする。

 

八.不快からの脱出者、麻薬者の悲劇

二〇〇五年の五月のニュースでは、次のようなことが報じられた。NHKの職員が自分で作ったプログラムを外注したように見せかけて、五〇〇万円近くを不正に手に入れていた。この職員は懲戒解雇されたそうだ。だから退職金はない。たった(?)五〇〇万円のために、もっと大きなものを失ってしまったのであった。ここで、彼の行動を心理学的に考えてみよう。彼はNHKという安定した世界に退屈し、不快を感じていて、一発冒険でもしてみたくなったのである。五〇〇万円が欲しかったというのではなく、「だまし取る」という麻薬的快楽を味わいたかったのである。これはギャンブルの麻薬的な魅力に多くの人が引きつけられるのと同じだ。退屈というものは、きわめて危険な状態であることがわかるのである。

また、二〇〇三年に始まったイラク戦争に行って負傷したある米兵の場合も同じである。彼はイラクに兵隊として行き、両目と片足を失った。どうして兵隊に志願したのかという質問に対して、「退屈していたからだ」という答えが返ってきた。現在の退屈な生活に耐えられなくなった彼は、戦争という危険だが麻薬的魅惑を発する世界に行ってみたくなった。つまり彼は冒険家であったのだ。現在の退屈な気分をまぎらわすために、麻薬的な世界に誘惑されたのである。

またこんな事件もあった。ある寺の修行僧がその寺に放火した。彼はその行いも認められていて管理者であったそうだ。しかし、関係者の話によると、彼は頭が悪く管理者として無理があったという。彼はむしゃくしゃした気分のうさばらしのために放火したと言っている。たまりにたまった欲求不満は、どこかで抜かねばならなかったというわけだ。これが修行という道に入った者のやったことである。彼の中の野獣(本能)は、修行によって少しも静めることができなかったというわけだ。

次なるニュースは、金属バットで母親を十回近く殴り、殺してしまったという事件である。新聞配達の仕事についていた息子は、その仕事を満足に続けられなかったらしく、その仕事は母親がやっていたそうだ。そしてこの事件が起こった。彼女は息子に文句を言った。それに応じて息子はついに母親をめった打ちにしてしまった。どちらの気持もわかる。どちらもどうしようもなかったのであった。どちらもかわいそうだ。どちらも被害者なのである。

 

九.他人の不幸によりいやされる我々

我々は他人の不幸を見ることにより、ある不快をいやしている。我々はいつでもむしゃくしゃしている――この不快こそが大きな仕事を成し遂げる原動力にもなるのである。その不快を中和してくれる麻薬を求めている。そのだるい気分をまぎらわすために、たとえば残酷な格闘技を見る。選手が相手を殴り倒す、自分の嫌いな選手が相手に殴り倒されるのを見て、不快感が一時的に中和される。このようなことは、つまり、他人の不幸を楽しむということでもある。どちらかが必ず痛めつけたれるのであるから、我々はある者が勝つということより、敗者が痛めつけられるのを期待しているところもある。我々はそれを見ることにより、うさばらしをしているのである。残酷な格闘技というものは、古代のギリシャローマ帝国においても盛んに行なわれ、市民の残忍性による欲求を大いに満たしたのである。TVニュースでも悲惨な事件は、誰もが興味深く見てしまう。他人の不幸はなぜか我々をエキサイトさせるのである。その有力な理由の一つは、他人の不幸は自分の幸福につながるからだ。会社などでも、同僚の出世は自分にとって良いことではない。ある者が良くなるということは、他の者が悪くなるということでもあるのだ。他人の出世を喜ぶこと自体、我々にとってきわめておかしな行動なのであり、それは必ず偽装された行動なのである。他人が良くなることによって、自分が得をすることはないのであり、これを喜ぶこと自体まったくおかしなことなのである。もし、これを喜ぶとすれば、その者は狂気であるか、前にも述べたとおりにその《非利己的行為》によって、その際に自分が得ることのできる唯一のものである《優越感》に酔うことを欲しているのである。

 

一〇.不快から殺人へ

二〇〇五年三月のTVニュースでは、八〇歳の夫が妻の首をしめて殺してしまった。夕食のおかずが多すぎたということで、夫が文句を言ったことからけんかになったという。人と人のけんか、国と国との戦争は常にこのような他人から見ればばかばかしい些細なことから始まるものだ。誰もがふいに襲われる衝動により無意識のうちに動かされ、自分でも驚くような破壊行為をしてしまうのである。我々は破壊的行為により、我々の不快に対処しようとするのである。仲良くやってきた者同士が些細なことから争い殺し合う、裕福で平和そうな家庭の中では血みどろの争いが起こる、など、他人から見れば理解できないような衝動が当事者には襲ってくるのである。

 

一一.マーフィーの法則

古代から現代に至るまでに、我々人類は自然をうまく利用してきた、それは確かである。しかし、自然のことがよくわかったと思う者がいれば、それは軽率である。ミステリー映画のように、事件は解決された、犯人は捕まえた、誰もが安心している、しかし、なんと捕まった容疑者は事件とは関係なく、犯人はまだ悪事を犯し続けていた、という恐ろしいエンディングを思い起こさせる。米国の第三五代大統領ケネディは、一九六八年にテキサス州ダラスで暗殺されたが、その真相は闇に埋もれてしまった。関係者の多くは暗殺されてしまったのであった。

二〇〇一年九月一一日に起こった「九.一一テロ」は、オサマ・ビン・ラディン――正確にはウサーマ・ビン・ラーディンと発音するそうだ――が計画したものとされているのだが、あの世界貿易センタービル(WTB)に航空機が衝突し、WTBが崩壊するシーンをよく見ると、何かおかしい事に気づくのである。WTBはまるでいらなくなったビルに爆薬をしかけて解体するときのようにスムーズに崩れていくではないか。航空機の燃料が下のあらゆるフロアに広がり燃えて、鉄骨を溶かすことなどありえない。ここに何かおかしいところがあるのである。二〇〇六年九月の週刊誌「週間ポスト」の掲載されたベンジャミン・フルフォード氏の記事によれば、この事件は米国政府の謀略である可能性があるという。というのは、航空機の燃料の燃焼では、鉄骨の鋼材を溶かす一六三〇度の温度には達しない(せいぜい230度くらいだ)、鉄骨を溶かすほどの高温になっているはずのビルの裂け目から、崩壊の直前に長い髪の女性が助けを求めていた、WTBの崩壊前に四回の爆発音があり、崩壊後にも一回の爆発音があった、航空機が衝突する前に、WTBの地下で爆発があった、航空機の腹部に筒状のもの、つまり爆弾らしきものがあるのが確認できた――つまり普通の旅客機ではない! ――、WTBに衝突する航空機に“起爆装置の光”と思われる閃光が確認された、航空機の衝突したフロアより下のフロアに激しい閃光が確認された、また煙もたなびいている(つまり、あらゆるフロアに、古くなったビルを解体するときに使うような高温を発生させる爆薬がしかられていた可能性がある。崩壊したものに付着したものの分析によると、サーマイト反応によると見られるアルミニウムや硫黄が残留していた。この反応によると三〇〇〇度の高温が得られるそうである)、航空機には窓がない――旅客機ではない――、などおかしな点が多いからだ。さらには、WTBの近くにあった四七階建てのビルも同じように崩壊した。となりのWTBに旅客機が衝突することが、このビルが崩壊する原因になるとは考えられない。この事件の三日前に、点検のためという理由で全員が退去させられたという。この時に、崩壊させるための爆薬がしかけられた可能性があるという。

この事件は、国防省が国民に国防の重要性をわからせるために仕組んだ事件だとも言われているそうだ。「国防に国民の関心を向けるには、日米戦争をひき起こしたパールハーバーのような事件が必要だ」という意見も出たそうだ。それが今回の「九.一一テロ」なのかもしれない。前記の雑誌に掲載された資料には、なんとWTBが標的とされたとされるテロのポスターらしきものがあった! しかし、この事件に関すると思われる声明も出ており、オサマ・ビン・ラディンがこの事件に関与した可能性も有力なのである。まさか、米国政府とオサマ・ビン・ラディンが共謀したとも思えない。この事件の真相は複雑だ。真相などというもの自体がないのかもしれない。永久に解明されない可能性がある。不思議なことは、フルフォード氏のこのショッキングな記事や彼がこれらのことについて書いた著書に対して、その後まったく反響がなかったことである。このことが何より不気味なのである。

このように、あらゆる事件は謎に満ちている。米国政府がもしこのようなことをやったとすれば、それは恐ろしく、何よりも不気味である。しかし、このようなことを誰でもやる可能性があるのである。このようなことは日常的に起こっているということを覚えていて欲しい。どんな者でも日頃は非利己的な行動を見せようとしているが、裏ではひそかに恐ろしいような利己的な行動に励んでいるもので、誰もがそのことをよく知り用心しなければならない。

我々の心の奥底には、このような不気味なものが存在していることは確かなのである。真面目そうに見える者が恐ろしい殺人鬼であったり、有名大学の教授がわいせつな行為で二度も捕まったり、日頃優しい者が突然いじわるをしたりという具合に、我々が今までに整理し把握したものの範囲では理解できないものなのである。あらゆる者が、どこからか到来したとしか思えない衝動により、秘かに恐るべき行動に走っていることは確かなことだ。それらは自分でまったくコントロールができないものなのである。殺人鬼は、殺人の衝動に自分自身も苦しめられていることが多いのであり、彼らも被害者であることは確かなのである。これは、前出のロバート・K・レスラー「FBI心理分析官」で言われている。我々が把握できていない、そして永遠に把握できないであろう何らかメカニズムによって、これら不気味なことは、まったく不気味でなく自然に起こっているのではないだろうか。

太古の人々や現代の宗教的な人々は、そういう未知のものを想定していた。しかし、現代では科学的な方法が一応の成果を上げて、そのような「神秘的なもの」を払いのけたかのように見えたのであるが、最も肝心なところが、我々にはまったく理解できる可能性がないことがわかってきたのである。我々の想定しきれないものが、我々の感知できないところで起こっていることは確かなのである。我々はただその流れに身を任すしかない、何もなす術がないということが、一部の人の間でわかりつつあるのである。これらのことについて、最も有力でまとまった意見の一つは、米国で生まれた「マーフィーの法則」である。これは、自然界の実際のメカニズムが、我々がこれまでに築き上げ、確固たるものであると思っていた自然現象の把握の仕方を、根底から揺るがすものであることを示している。「マーフィーの法則」については、後の章で詳細に検討することにする。

 

一二.我々は悪者を必要としている

ある集団に不利益なことが起こったとき、何が悪いのか、そして究極的には誰が悪いのかが追求される。そして、便宜上の悪者が確定されると、誰もがその悪者の悪口を言い、ののしり、制裁を加えることで不快感をいやそうとする。つまり、「あいつのせいでこんなことになったのだ」と考えることは、ある種の快楽なのである。そして、その悪者にされた者が悪者であることを喜びさえするのである。というのは、我々の心の奥底に潜む残酷な本能が顔をだすからだ。その悪者にされる者は、たいてい、その集団の中で弱いか嫌われている者であるのだ。

 

一三.原因を求める

我々は問題が起こると、その「原因」を捜す。それは、その問題によってこうむった損害を、何か一つのもののせいにしなければならないという欲求からくるものだ。何かの、誰かのせいにすることによって、当事者は責任をそらすことができるからである。しかし、現実にはそのようにはなっていない。原因などと言うものは、我々がかってに想定したものであって、現実に存在するものではないのである。あらゆる問題の原因などはない。世界においては一切が相互に関係し合っているのであって、そこには我々が断固として想定している一方向の因果律などもないのである。

 

一四.共生について

共生という言葉をよく聞く。共に助け合って生きていくということだろう。しかし、このようなことを称えている者は、現場を離れた者か、現役を引退した者が多いのだ。現場という戦場で戦っている者にとっては、兄弟、職場の同僚、上司、部下、顧客は、全て敵なのである。これらの敵に道を譲っていたならば、自分のいるところはなくなってしまう。むしろ、共生などというものから離れなければならないのである。ボクサーも相撲取りも、相手に哀れみを感じるような選手は大成しない。

私のいた会社の親会社の重役も、盛んに「共生」を称えていた。組織で成功した人間が、余裕が出てくると必ずこの類のことを言いだす。しかし現場では、共生どころではない。如何に生き残るかであって、もし共生精神でいたなら、根こそぎ剥ぎ取られてしまう。現場では、共生的な振る舞いの中にも、自分の利益のために如何に相手を騙すかという姦計がひそんでいるものなのだ。我々のあらゆる非利己的に見える行動は、利己的なものから生じているということである。

現場を引退している余裕者は、静かな危険のない環境にいるから「共生」などというばかげたことを唱えるのであって、もし再び彼らを危険な戦場に連れ出し、泥まみれにしたなら、「共生」などまず唱えないだろう。

 

一五.からかうこと

髪型などを変えてきたとき、「恰好よくなったじゃない」とからかわれる人と、何も言われない人がいる。ある人の変化、行動に対してはからかいたくなってしまうが、ある人のそれに対してはからかう気にはならず、からかうことができないという威圧を相手から受ける。同じ行動でも、ある人では好ましく自然に見えたり、反撃が恐ろしくて何も口出しできなかったりする。しかし、その行動を別なある者がするとき、からかいたくなってしまうのだ。

我々は自分と同等か、より優れた者のやることについては不快にならないようにできているのだ――もし、強者に対して不快になると大変危険なことになるのだ――。しかし、自分以下の弱者のやることは目によく入るし、気になり、不快になり、「生意気」と見なすことも多く、いじめの衝動に駆り立てられる。「からかい」はいじめなのである。我々は弱者や困窮者を見るときいらいらし、その者が何か分不相応な行為をしたことをきっかけにして、思う存分いじめ(復讐)を楽しむ(不快の中和)のである。これは少し前まで――現在も、ある地域では行なわれているであろう――、我々が征服した敵の者や犯罪者に対して、刑罰という見せ掛けの理由をつけて、あまりにも残酷な方法で処刑や拷問を行なっていたのと同じである。我々は、上位の者や自分より強い者に対してはできないような無礼な行為を、下位の者、弱い者に対してやることができるからやるというのではなくて、そういう者をからかい、いじめたいという本能(残忍性)があるのである。

 

一六.我々は相手の価値に応じた態度をとる

相手がりっぱな者であるときと、貧相な者であるときでは我々の態度は大きく違うものだ。貧相な者にはきちんとした態度はとれない。この者に自分を良く見せたいとは思わず、何を見られても気にならない。ところが、りっぱな者には自分の欠点を見られたくなく、自分をできるだけ良く見せたいと思う。このことは、直接の利害関係がなくても起こる。これは人間同士以外のことでも言える。高級車に乗れば、運転もそれに応じたものとなるだろう。しかし、ぼろぼろの軽自動車に乗れば、運転は自然と雑になるものである。

どのような者に対しても同じ態度をとる者などいない。優れた者、恵まれた者を前にすると、我々は緊張し、興奮してテキパキ行動する。我々は優秀な者、高貴な者、強い者には、利害関係がなくても姿勢を正してしまう。価値なく、見苦しい者から我々は逃げてしまう。これは生き残るために必用な本能でもあるのだ。そして――ここからが恐ろしいのであるが、弱者が相手にされないのは、そのような利害関係によるだけではなく、我々は、この不運な者たちに対して、強い不快を感じるのである。どうして、自分で選択できない運命によって不運に見舞われた犠牲者に対して不快を感じるのだろうか。我々は、困り果てた者に対して哀れみを感じるというより、憎悪を感じることがあり、その不幸な者をいじめたくなるときもある。これは利害関係や道徳などによって整理できる問題ではないのであって、我々が従うしかない、ある恐るべき本能から出てくる欲望の仕業なのである。バタイユは、「エロスの涙」(森本和夫訳、筑摩書房)の中で、次のように言っている。

 

*実際、手段の追求は、つねに究極的には分別くさいものである。ところが、目的の追求の方は、欲望に属しているのであって、その欲望というものは、しばしば理性に挑戦するのである。

しばしば、私の中で、欲望の充足が利益と対立する。けれども、私は欲望充足の方に屈する。なぜならば、それは凶暴にも私の最終目的となってしまうのだから!

 

幼児においても、先天的に前記のことがわかっている。彼らは、友だちの前で弱みを見せることが危険であることを知っているからこそ、いつも余裕があるように装うのである。余裕のあるときに、自分を良く見せようとする意欲は虚栄心だが、我々は、非常時において危険を避けるためにも、自分を自分以上の人間に見せかけなければならないのである。これがうまくできた者は、組織の中での成功者となれるのである。

 

一七.不幸になった者は迫害される

通り魔殺人の被害者の家族は、周囲の者から迫害されて、そこに住んでいられなくなることがあるという。この驚くべき事実は、「我々にとって不幸な者は、かわいそうであると同時にいやらしく、憎むべき存在にすらなり、さらに突き落としてしまうことにより、我々は、より快活に生きることができる」、「我々は、他人の不幸を火事見物の野次馬のように自分の最高の不快中和剤・清涼剤としてしまう」という恐ろしいが「あまりに人間的な性質」が、我々に確実にあることを示しているのである。また、母親を幼年期に自殺(自死)で亡くした者は、何かにつけて「自殺(自死)などするような母親の子供だから」と批判されるそうである。

幸福な者、裕福な者、有能な者、うまくいっている者、退屈な者は、無能な者、つまり不運な者・不幸な者を《悪者》・《犯罪者》呼ばわりし批判する傾向がある。うまくいっている幸運な者は、ある者の無能や不幸やそのためにせざるを得なかった《悪い行為》を、その者の怠慢・悪徳によって生じた非難すべきもの――つまりその者に全ての責任がある――と決め付けてしまい、それによりある満足感――自分が優れているという――を味わおうとするのである。つまり、「その者の不運」を自分の名誉心を満足させるために利用してしまうのである。相手にまったく責任のないことを、相手のやりくりのまずさから出てきたものだ、とすることにより優越感を味わおうとするのである。これは、前記の「通り魔魔殺人」の被害者に対しての我々の《利己的な冷たい態度》と同じである。残酷なことではあるが、「幸運で退屈な者」は、自分の欲求不満の解消のために「不運な者」を利用してしまうのである!

不幸な者を見たとき、我々は道徳的な哀れみを感じなければいけないと思いながらも、本当のところは、憎しみ・いらいら・嘲笑の感情を抑えようがないのである。この本能が残忍性なのであり、それから出てきた行為の一つがいじめと言われるものであり、身体的や社会的に不幸な者や弱い者、魅力のない者に対して加えられる一見おだやかな攻撃なのである。どのような者の身体にも、必ずや攻撃的で残忍な野獣が宿っているものなのである。だから、かたわな者はいじめられ、昔なら見世物にもされるのである。それは、我々がかたわな者や不幸な者を見ることによって、何らかの快感が得られるからなのである。あまりにもすばらしいTV番組であった「知ってるつもり」でも次のように言われていた。「かたわの者たちは、いつも皆にいじめられるか、いじわるな目でみられる」。我々は不幸になった者をかわいそうに思うだけではなく、付き合う価値を感じない汚らわしい者、さらには憎たらしい者とまで見てしまうのである。

不幸になった者に気を使っても、その見返りが期待できない。我々はただであいそう良くしたり、気を使ったり、親切にしたりしているのではない。見返りを期待しているからこそ、そんなめんどうな行為を楽しくできるのである。もし、見返りが期待できないとわかったなら、何もやらないばかりか逃げてしまうのである。――しかし、ここまでならまだいいのであるが、もっと恐ろしいことには、我々は不幸な者を目の前にしたとき、妙に不快になり、その不快感を中和するために、さらには日頃のうっぷんまでもが便乗してきて、その相手を苦悩させたくなる、つまりいじめたくなってしまうということだ。この、利害関係からはとうてい理解できない我々の行為は、実に恐ろしいものである。この残忍性と言われる我々の最も恐るべき本能については、この後の章で、幾人かのこの道の先人の書物からの大量の引用により、きわめて詳細に検討してみることにする。

会社などの組織においても、落ちぶれた者は誰にも相手にされないばかりか、汚らわしい者として見られてしまうのである。組織の上層部に見捨てられた者は、価値の低い者になってしまうのである。組織によって、集団によってその者は汚らわしい者とされてしまうのである。いったんそうなると、その者の行動は全ていやらしく解釈されてしまうのであるから恐ろしい。

以上のことはあまりにも恐ろしいことであるが、人間の誰にも備わる本能なのである。きれいごとを並べ立てる者たちは、このようなことにまったく気づいていないのである。不幸に見舞われた者に対する、周りの者が下す恐ろしく苛酷であるが、実は「あまりに人間的」な判定は、常に問題にされずにいる。このようなことが表に出て議論されたことはない。いつも「そのようなことはあってはならない、道徳的には許されない」と簡単に片付けられるだけなのである。この問題の重大さがわかっていないのである。この問題は、教育や法律や道徳や刑罰などの強化や見直しで解決できる問題ではないのだ。人間が人間である以上、人間は前記のおぞましい行為をやめることはないだろう。不幸に見舞われた者は弱者になる、それはその者の価値を下げる、そして周りの者から相手にされなくなるばかりでなく、いじめの対象にされてしまうのである。不幸はさらなる不幸を呼ぶのであり、数学的に言えば、「不幸になる速度(不幸の度合いの微分)」は「不幸の度合い」に比例する。この微分方程式の解は指数関数となり、いったん不幸になり始めると急激にその不幸の度合いは増大していく。

その逆もある。私が小学校のとき、「健康優良児」として健康な生徒が表彰されていた。私はこれが不思議だった。どうして生まれつき恵まれた者が表彰されるのであろう。彼らの健康は生まれつき授かったものであり、彼らは他の者より余分にものをもらったのと同じだ。彼らは運が良かっただけだ。しかし、その運の良さをほめたたえられ、もう一度良い思いをできてしまうのである。良い者は、その良い分だけさらに良いことが起こる可能性があるのである。

だめな者は「根性がない」とかいやみを言われ、憎まれ、いやがられ、迫害され、いじめられる。うまくいっている者は何も特別なことをやっているわけではない。生まれつきそうなっていただけのことではないか。だめな者は、そのだめさが人に第一級の不快を感じさせるのである。我々は何かを悪ものにしなければ気がすまないのであって、我々の不快の原因がその不幸な者になすりつけられてしまうのである。困りはてた者はいやらしく、憎たらしく見え、その原因までがその者にあるとされ、いっそういやらしく、憎たらしくされてしまうのである。それは、残忍性のえじきになる危険性が増すことでもある。だめさというものは、我々の残忍性を強く刺激するのである。困り果てた者、弱ったもの、できの悪い者は残忍性を刺激するような臭気を放つのである。これがいじめを誘発するのである。

 

一八.善良と幸運

「正直者は結局得をする」は、「うまくいっている者はおりこうさんでいられる」ということを道徳的に言い換えているにすぎない。ここで、幸運な者が善良な者にされてしまっている。うまくいっているからこそ、幸運であったからこそ善良に見えるような態度でいられるのであって、不幸であったならとてもそれどころではない。善良であるからうまくいくのではない。うまくいくようになっていたからこそうまくいったのだ。もっと明快に言えば、うまくいくことと善良であることには何の関係もなく、これにかってな関係、つまり因果関係をつけたのは我々人間の誰かであって、彼は単にそう言ってみたかっただけなのである。この種の関係というものは発見するというより、ある者の欲求によりこじつけられるものなのである。つまり、我々は、自分が関係してほしいと思うものの間に関係を見出してしまう習性があるのである。さらに、幸運な者は、うまくいったことがあたかも自分の善良さからきたかのように見せかけるためのうまい芝居をする、という余裕と才能をも授けられているのである。

 

一九.人間の裏と表

人間には裏と表があると言われている。たまに裏表のない人がいることがある。しかし、その人はある者に対してだけ自分の裏を見せないだけなのであって、裏がないわけではない。彼は相手によって、裏を見せてよいかどうかを判断しているのである。彼がある相手に裏を見せられないのは、裏を見せてしまったときに、何らかの重大な損害を被るからなのである。だから、その相手には、彼が温和で裏表のない「良い人」に見えるのである。優秀な詐欺師はこのような「良い人」になりすまし、相手をコントロールするのである。どんな者にも裏表は必ずあるものだ。ただその出し方が人によって違っているだけなのである。

誰からも好かれ、ちやほやされている者には、周りの誰もが「良い人」であるように見え、誰からも嫌われているような者には、「世の中は冷たい」と見える。世の中の人たちは「良い人」でもなければ、「冷たい人」でもないのである。ただ、自分の都合により態度を選択しているだけなのであり、人間的に自然に生きているだけなのである。

 

二〇.先のことを考えすぎる者へ

昔、「シャーロック・ホームズ」の作者アーサー・コナンドイルのことについて、「知ってるつもり」というきわめてすばらしいTV番組の中で取り上げられていた。それによると、彼はあるとき重い病にかかり、もがき苦しんだ。そして、直ったとき彼は次のように思ったそうである。「人間はいつか死ぬ、ならば私は私の主人になるのだ、好きなことを好きなようにやっていこう」。そして、彼は客の来ない医者から、推理小説の作家に転向したそうである。また、中国のアクション俳優のジャッキー・チェンは、映画の撮影中の事故で死にそうになったとき、次のように思ったそうだ。「私はいつ死ぬかわからない、ならば、先のことを考えてもしかたがない、毎日を大事に生きていこう」。

一度でもこの世が危険に満ちたものであると感じた者、この世に安住の地がないということを感じた者は、長期的な計画を立てるのをやめる。いつどうなるかわからないからだ。一八九二年生まれの堀口大学が「若者はせっかちだ、先が長いから」と言っている。この難解な言葉は、次の例で考えてみたい。遠くの戦争を見ている者たちは、やれこうすればいいだの、ああすればいいだのとかってなことを言うものだ。それらを自分の楽しみとして余裕をもって考え、机上の空論として楽しむことができるのだ。ところが自分が戦場に行ってみると、そこには明日の命もわからない現実があったのだ。そこでは、全体を安全な所から見下ろして考えるなどということはできない。そんなことよりも、次に何をするかが唯一の問題なのだ。それによって明日命があるかどうかが決まるのである。まず、今何をするのかが大事なことであり、それは遠い未来のためなんかではなく、せいぜい今日の夜か明日の朝くらいのためなのである。今を考えないと明日はないのである。もてるエネルギーは今のために使わなければならない。これと同じように、死刑執行日が決まっている死刑囚もけしてせっかちにはならない。先の見通しが立たない者や、先がない者はせっかちにはならないのだ。

大病や事故で死にそうになった者は、戦場で恐ろしい思いをした者と同じ気分になるのだ。つまり、我々の生命の保証が何もなく、安住の地がないという我々の状態を知ってしまった者なのである。このような者にとっては、通常の平和な者の重んじる考え方などは、バカバカしく感じるのである。そういう通常の者たちのすぐ横には、その者たちをえじきにしようとしている恐ろしい運命が待ち構えているのである。このことを知らない者たちは実に平和である。いまやっていることが、人生最後の仕事になるのかも知れない、と考えたなら、その仕事を遠い未来のことに結び付けて考えるだろうか。目の前の人が、もしかしたら明日いなくなるかもしれないと考えたなら、遠い未来のことなんかより今日その人を幸せにしてあげたいと思うのではないだろうか。だから、今のことを丹念にやりたくなるのである。せっかちに、いいかげんに、急いで、一〇年後のことなどを考えてやろうなどとは思わなくなるのである。今が、そしてせいぜい明日がなければ、遠い未来もない。今が最も大事で、その先のことは遠ければ遠いほどどうでもよいと思うようになるである。そのどうでもよいことへの考えは消えていくのである。先の見通しが得られないと判断した者、先の命が確実にないことがわかってしまった者は、今やっていることをおろそかにする理由がない、つまり今やっていることより重要なことがないことがわかるのでせっかちにはなれないのである。だから今のことに専念できるのである。

この世はけして我々が思っているようなものではないのである。あらゆる宗教が教えるようなものではないのである。どんなに祈っても、我々には何も保証されないのであり、それは今までの歴史を見ればわかるはずである。

 

二一.安住の地はない

私はすぐにあわててつまらないことを言ってしまいそうになる。そのとき、「少し待て、考えを繰り延べよ、よく考えろ、時間をおけ」という言葉を思い出しそれを止める。後になると、そのとき何も言わなくて良かったと思う。しかし、そうであろうか。人間はこのようにすぐに羊にされてしまうものだ。何もかもを抑制することがよいことだということだ。このことは次の例と同じである。

大きな会社にくっついている子会社は、独立している会社に比べて危険がないように見える。しかし、大きな喜びもない。それだけではなく、しだいに衰退していき、ボロボロになってしまうこともある。まるで宗教的な人間のようにうまく手なづけられてしまうのである。それに対して、独り立ちしている会社は常に自分自身で考え、行動しなくてはならない。危険は直接襲ってくる。しかし、うまくいくと、成長し、強くなり、誰の目もはばかることなく活動していける。

ものを言う前によく考えすぎると、その間に判断の基準となる仮定がたくさん入ってくる。そして、判断を不可能にしてしまう。これは何もやらないことと同じでありながら、我々は前記のようにそのことに満足し、自分が利口な行動をしたかのように思ってしまう。しかし、これが良いものかどうかである。

思ったことを言ってしまうかどうかは、危険な冒険にでかけるか、家の中で過ごすか、という選択に似ている。言えることは、大きな収穫を得るには危険が伴うということである。何かを得るには何かを失わなければならない。また、じっとして動かないことが安全であるなどという保証はどこにもない。しかし、動くことはさらに安全でない。この世に安住の地はないのである。「正道」などというものは、絶対ない。知っている格言などに安易に従うべきではない。さらには、行動の後に反省する根拠などは、どこにもないのである。

私は前記の二つの判断のどちらが正当であるか、ということを主張しているのではない。どちらの判断が我々にとって価値あるものなのかを決めつけることを戒めたいのである。我々の前には常にわけのわからないものがあるのであって、それを器用に処理してしまうべきではないのである。それはよく考え、よく議論すれば解決できるという代物ではないのである。

何か行動をすれば、うまくいかなくても何かが残るものだ。それに、誰かが必ずあなたの勇気ある行動を見ている。何もしなければ波乱は起きないが、あなたが何もしなかったということを誰かに見られてしまっているのである。ある行動をするべきであったのかどうかはわからない。それは誰かの助言や経験や格言などで決めるようなことではないのであって、我々は常に不安定なわけのわからないものの上に乗っているということを知るべきであろう。

 

二二.暴力について

暴力はかってにどこからかやってくる。するとそこで、暴力が始まる。それが終わった後、皆何がなんだかわからない。人を殺してしまった者は「大変なことをしてしまった」と思うのである。そしてまた、暴力はやってくる。するとまた、暴力が始められる。皆、何がなんだかわからない。暴力は我々の管理下にはない。我々が暴力の管理下にあるのである。この暴力が訪れてきてしょうがない者もいれば、まったく訪れてくれない者もいる。それがどうしてなのかは永遠にわからない。

 

二三.我々の中の多用さ

我々の本心は多くのものの集合なのである。相手を愛す、いじめる、相手の不幸を望みそれにより快楽を得るなど、相反する欲望や衝動が渦巻いている。それらの間に因果関係や善悪の関係などをかってに設けたのは我々なのだ。もともとそんな関係はなかった。生命力のない者はこの多用さに迷ってしまう。ところが強者は自分の一番やりたいこと、やるべきこと以外のことは忘れ去ることができるので、悩みなく仕事を片付けることができるのだ。うまく整理しているのではなく、まったく余計なことを感じず、考えないでいられるという能力をもっているのである。人間、迷いだしたら下り坂というわけだ。若い者は、生命力もあるし知識も経験ないので、いっそう恐いもの知らずである。生命力がなくなるにつれて、知るにつれて生真面目になり、臆病になり、体に力が入り、硬くなっていく。そして今までのいやな経験による全ての資料は、不健康な思想を作るために利用されるのである。

 

二四.かわいさ余って憎さが百倍

我々は自分以下であると判断された者に対して、初めは優しくする。それにより、我々は優越感を味わうことができるのである。しかし、そのうち飽きてきてバカにしたような態度になっていく。そして、相手の行動が、我々が相手に定めた範囲を超えるや否や、大きな不快を感じるのだ。これが「かわいさ余って憎さ百倍」のメカニズムであって、いじめや家庭内暴力などに発展して行くのである。

ある人Aが、Bという人に友だちができないのを心配して、友だちを見つけてあげようとした。しかし、なかなかBの友だちになってくれそうな人は見つからなかった。このことが、AのBに対する愛情を強めた。ところがある日、Bに気の合う友だちが見つかり、それをきっかけにしてBは多くの友だちに囲まれ、毎日楽しそうにしていた。このときから、AのBに対する愛情は消え去り、ついには憎しみの念がめばえてきたのであった。

このような例を私はたくさん見たことがある。愛情と憎しみの距離は実に近く、我々はその間を不安定に行ったり来たりしているのである。

 

二五.我々は相手と自分が同じだと思っている

我々は自分と周りの者とが同じであると信じている。しかし、この「同じ」という記号で示されるものが、実にあいまいなのである。自分と相手が同じかどうかは、確かめる手段がないのである――この意味がわかるかどうかで、哲学的な思考ができるかどうかがわかるのである。自分が相手になってみなければ、相手のことはわからない。全ては推測であるにすぎない。争いの多くは、自分と相手の違いから起こるものだ。多くの人は自分と他人は基本的なところは同じで、残る少しのところだけが違うだけだと思っている。だからこそ、「人は皆平等である」、「話せばわかる」といった類の大胆な判断が氾濫することになるのである。しかし、実際はその逆であり、各人の共通なところは全体から見ればごく少ないものなのである。話し合いはけんかになって決裂するか、強いほうが押し切ってしまうことが多いではないか。互いの利益が両立しない場合、一方を立てればもう一方は損をすることになる。人によって、立場によって欲するもの、つまり彼らが「正当」なものにしなければならないものはまったく違うもので、これがあらゆる争いの原因となるのだ。世の中には両立できないものが多くあるのである。全ては好き嫌いや、各人の損得の問題に帰するのであるから、これは話し合いなどでは決着できないのは当然だ。

我々は、相手が自分とまったく違うことを考えていたり、やったりすることを知ったとき、大きな怒りを感じるのである。互いの知的レベルが高く、期待と夢が大きく、それを共有したいという気持が大きければ、それだけ二人の関係は短命になってしまうであろう。社会的に成功している者同士の離婚が多いということが、このことを証明しているのである。強者同士が仲良く付き合うということは、難しく、すぐに分離してしまうのである。

 

二六.復讐について

復讐をした後の気分は、酒を飲みすぎたときに似ている。飲み始めたときには大きな快感があったが、それが終わると「飲み過ぎた」という不快だけが残るのである。また、高額なものを買って失敗したときの気分とも似ている。復讐した後にはなんの快感もなく、「やらないほうがよかった」という後味の悪さだけが残るだけなのだ。

復讐はそれを思い立ったときが最高にワクワクする。相手から受けた損害による不快が、マッサージでもされるように中和されていくことが想像される。しかし復讐が決行される直前では、十分酔いがまわったときと同じように復讐の行為に快を感じられないようになる。そしてそれは惰性で決行されるのである。決行中にもう後悔は始まる。完了したときには、後味の悪さに苦しめられるのである。

以上の文章は、私が独立に考えたものであるが、次に挙げる有名な哲学者の考え(名文)とおおよそ一致しているが、微妙に違っている。そこのところを注意してもらいたい。前出のショーペンハウアー「随感録」(日本語訳の書名)より、関連部分を引用してみよう。

 

*不正を受けると自然に人間の心に、復讐に対する熱い渇望が燃えあがる。そして「復讐は甘美だ」とは、しばしば言われてきたことだ。それによってなんら損害の穴埋めをしようと意図するのではなく、ただ復讐の甘さを味わうために多くの犠牲がささげられてきたことは、このことを証明している。・・・いま話題にしている人間の嗜好を、ウォルター・スコットは、「復讐は地獄で料理された食べ物のなかで、いちばん甘いご馳走だ」と、正当にまた力強く言いあらわしている。そこでわたしは復讐の心理学的解明を試みようと思うのである。

自然・偶然・運命などによって苦悩を与えられても、ほかの事情に変わりがなければ、他人の気まぐれで受けた苦しみほどには、苦痛を感じないものだ。これは、われわれが自然や偶然をこの世の根源的支配者と認めていて、そうゆうもののせいでわが身にふりかかることは、同じようにほかの人たちを見舞うこともあろうと観念しているせいである。だから、自然や偶然から苦悩が降りかかってきても、われわれは自分の運命をなげく以上に、人類共通の運命をいたむだけなのである。これにひきかえ、他人の気まぐれで苦しめられるときには、それによる苦痛や損害自体に加えて、まったく特有なにがにがしいそえものがともなう。つまり、自分が無力であるのにひきかえ、ぼう力によるにせよ姦策によるにせよ、相手が優越しているという意識が加わるのである。受けた損害は穴埋めできないわけではないが、あのにがにがしいそえもの、「おまえにそんなことをされても、おれは甘受せざるをえないのだ」という思いは、損害そのものよりしばしば苦痛となり、復讐によってのみ中和できるのである。というのは、ぼう力なり姦策なりによって加害者に仕返しをすることをもって、加害者に対する自分の優越を示し、さきに相手に敗けたあの証明を帳消しにできるからだ。こうして渇望していた満足が、われわれの心に与えられる。だから誇りや虚栄心が大きければ、それだけ復讐心も強いということになろう。だが、どういう願望でもそれがみたされれば、多かれ少なかれ惑いであったことがわかるように、復讐をとげようと思う心もおなじことで、たいがいは復讐につれて期待していた楽しみも、相手に対する同情によってにがい思いに変えられ、それどころか、復讐をとげたことによって、あとから悲痛な思いにかられ、良心の呵責に悩むことがしばしば起こるであろう。なぜなら、いまはもはや復讐しようという動機はなくなって、われわれの眼のうえに残っているのは、自分の悪意の証明だからである。

 

二七.彼岸という観念

彼岸、つまり理想の世界というものに、我々はどうしてこんなにあこがれるのであろうか。此岸、つまり現実の世界をないがしろにして、我々は未知のものにあこがれるのである。このことは知ったもの、目の前にあるものに対する軽蔑、無関心と、未知なもの、所有していないものに対する我々の不気味なほどに大きな関心からきているのである。彼岸を求める我々の本能は美しいというより、不気味で恐ろしい。争い、虐待をはじめ、我々がひき起こすおぞましい事件は、この彼岸至上主義からきていることが多いのである。現実を軽蔑し、憎み、いやらしいものとし迫害する。宗教はその代表であり、多くの者をそのために殺していることは歴史上確かなことだ。あらゆる宗教はこの彼岸的世界を想定し、それを信じ、羊たちを誘惑しているのである。「理想の世界がどこかにある、あらねばならぬ」という信仰は根深く、今の自分がいる世界は「本当の世界」から外れており、いずれそこに近づかねばいけない、というばかげた信仰が多くの人にあるのである。宗教はそこを狙ってくるのであり、多くの者は自分の求めるものに合致したこの考えに、吸い込まれるように入信してしまうのである。

どこかに「正しい世界」があるのであって、我々はそこに向かわなければならない、今やっていることは間違いだらけであり、それらをこのまま続けていってはいけない、どこか別のところにしがみつかなければいけない、という信仰だ。現実のことを全てバカにして、架空の世界にあこがれるのである。今やらなければならないこと、考えなければならないこと(たとえば本書で問題にしていること)を全て無視して、架空の世界にあこがれる者のなんと多いことか。

そんな理想の世界があるのだろうか? そんな理想の世界は「ある」のではなくして創造されただけなのである。しかし、このような考えを広め、多くの羊たちを洗脳した詐欺師たちに対して、疑惑の目を向ける者のなんと少ないことか。その理由は趣味嗜好の問題でもあるのである。つまり、大多数の者は甘いものが好きであるように、彼岸的なものが好きなのである。このような彼岸的なものへの信仰に対して、徹底的に敵意をいだいた人の一人は、一八四四年生まれのドイツの哲学者ニーチェであった。彼は五六年の生涯の後半でそれを訴え続けた。しかし、その考えは未だに一部の愛好家の間にしか理解されていない。彼があれほど非難した宗教の力は、その後もまったく衰えるところを知らないのである。

いじめも、殺人も、戦争も、人の不幸を快楽するのも、火事を見物するのも、あまりに人間的な行為なのである。我々はこの中に生きなければならない。というのは、我々にはそれしかなく、脱出するところなどはないからである。宗教ではこの逃げ場所をちらつかせて、相手を誘惑するのである。しかし、それら我々の恐るべき性質によって、我々は、常におびやかされなければならないことは確かなことなのであるが、我々はこのような性質をもつ生物なのであって、それらから逃れる方法などはないのである。宗教家には実に不快なことと思うのであるが、宗教はこれらの苦悩をまぎらわすためにあみ出された麻薬なのであり、一時的な快感を味わうことしかできず、さらに続ければさらに大きな苦悩がやってくることになる。これは麻薬や覚せい剤による後遺症と同じであり、異なる宗教の間の血みどろの戦いも、その後遺症の一つなのである。苦悩から安易に脱出しようと試みた者は――特に麻薬を用いて――さらに大きな苦悩に飲み込まれてしまうということだ。

 

二八.いじめについて

いじめは我々が緊張したり、欲求不満を感じたりしたとき爪をかんだり、鼻くそをほじったりするのと同じような行動であり、我々のある不快を中和しようとする、別な言葉で言えばある快楽を得ようとする行動なのである。いじめは特定の人に集中する。いじめる者といじめられる者は、初めから確定している。いじめられる者はいじめられるために生まれてきたかのようだ。人をいじめる者はたいていの人には親切であり、そんなことをするような者には見られないことが多い。これは凶悪な犯罪者と同じであり、彼らも普段は、あるいは殺そうと狙いをつけた相手以外の者には「良い人」なのである。

人をいじめる度合いが大きい者は、相手による態度の差が大きく、自分が好きな者、強い者には異常に気を使うが、そうでない者に対してはきわめて冷酷な態度をとれるのである。誰かをある度合いで好きになるということは、それの度合いで他の誰かを嫌いになるということなのである(総和ゼロの法則)。高く飛ぶためにはその反力をどこかにかけなくてはならない。自分の好きな者にべたべたする者は、その力を自分の嫌いな者やいじめてもかまわない者をいじめることにより得ているのである――仕事をバリバリやる者が家に帰ると、家族をいじめることが多いのはこのためである。自分の気に入った者をかわいがる者は、その分、気に食わない者にひどいことをするものだ。しかも、かってな理由をくっつけて、自分の仲間といっしょになっていじめることもあるのだ。いじめというものは集団で行なうと、その快楽度が増強されるのである。

我々が相手を嫌う場合には、その相手と我々は対等な関係がある場合が多い。しかし、我々が相手をいじめようという意欲を感じるときには、我々は相手を自分と対等であるとは思っていない。我々はそのとき、相手に対して恐怖も魅力も感じず、何の遠慮もする気にはならず、道徳心は完全にどこかへいってしまい、我々のいやらしい――しかし、あまりに人間的な――本能が現れる。相手は単に快楽を得るための道具にしか見えなくなる。そして、我々はその相手に苦悩を与えることにより、快楽を得ようとするようになるのである。

 

二九.あまりに人間的な行動であるいじめ

ニュースでは幼児虐待の事件が多く取り上げられる。幼児虐待はなんと多いことか。しかし、家庭内暴力はもっと多いであろう。もし、世の中で起こっている残忍な行為を全て拾い上げてみたなら、驚くべき量となるだろう。そして、一般の人はこれらを見て、「動物でもこんなことはしないのに、動物以下だ」なんてなことを言う。しかし、この意見は人間というものをまったく理解していないものだ。動物にはいじめはないそうだ(一部の猿にはいじめの行動が見られるそうだ)。残忍性は人間の悪い点ではなく、人間だけがもつ性質なのであり、これこそ「人間的なもの」なのである。人間であれば誰の中にでもいじめの意欲は存在するのである。いじめは不快感と残忍性が結びついたときの人間的な行動である。

 

三〇.あるいじめについて書かれた本について

私は二〇〇三年の秋、ちょうど本書を書くための準備を始めた頃、埼玉県秩父市の図書館でいじめについての本を借りてみた。著者はたしか東大の先生だったと思う。この本は彼の研究内容の解説がほとんどを占めていて、読んでいてうんざりした。いじめに関する部分は数行といってもよく、そこには次のような無責任なことが言われていた。「いじめはこの部分(脳髄のある箇所を指して)に何か欠陥があるものと思われます」。そして、この本のまえがきにはたしか「いじめの意欲は、人間の失敗作的部分です」と書いてあった。バカ言うな、と私は思った。どうして「いじめが我々の脳髄の欠陥から生じている。正常なら人をいじめるなどということはない」ということが言えるのか、その根拠はどこにあるのか、こんな雑な判断をする者は一流の学者とは言えない。いじめは太古より、いつも我々にぴったりよりそっているものだ。いじめについてよく考えている者なら、この意見は一致するはずだ。彼はいじめについて一度も考えたことがないのであり、出版社からの依頼によりむりやり自分の専門分野にこじつけながら書いたのであろうことが推察されるのである。私はこのくだらない本を一時間ほどで読んでしまった。くだらないものも見ておく必要はあるので、読んでよかったと思っている。

 

三一.手中にある者はいじめられる

二〇〇六年には、子供による親殺しのニュースが多かった。親を殺してやりたいと思っている子供は多いそうだ。あるTV番組で、そういう子供の話をきいたところ、親がうさばらしのために自分に小言を言っている、というのだ。つまり、子供に小言を言うことで、何らかの不快を解消しようとしているというわけだ。これは非常に弱いいじめ、虐待なのである。

手中にある者、知り尽くされた者、弱い者に我々は魅力を感じない。つまり、このような者はいじめ、虐待、報復から身を守るために相手を抑制するものがないので、危険な状態にあるのである。我々にとって部下、妻、子供、年老いた親などはそのいい例である。変なことを言うようだが、この者たちは、我々にとってある意味においては魅力ある者、価値ある者ではないのである。我々にとって家族は大事な者ではあるが、知り尽くされた者、手中にある者であり、我々をわくわくさせるものは何一つもっていないのである。我々は日頃の不快を中和するために、その不快とはまったく関係のない手中の者、知り尽くされた者にやつあたりをするのである。

 

三二.いじめは集団で激烈になる

木の棒は一本だけを燃やすより、何本か束ねたほうが激しく燃えるようになる。これが相乗効果というものだ。それと同じで、我々は二人以上で意見が合うと大きな自信をもてるものだ。人を憎むことにおいても、二人以上で意見が一致すると、憎む気持に迷いがなくなり、さらに憎しみが増量されるものだ。束ねた木の棒が一本のときより激しく燃えるように、多くの者によって、ある者の悪口を言い合うと、全員に、一人で考えているときよりはるかに大きい憎しみが「創造」されていくのである。それは事実を越え出ていき、憎もうと思う者の趣味嗜好に合わせて憎しみ易いような形に「創造」されていく。あらゆる不快の原因がその者になすりつけられるのである。一人で考えるときには、いろいろなことを考えるから迷うのであるが、集団になると余計なことを考えたくても考えられなくなる。余計なことを考えないことが、強い考え、強い行動には必用なことなのだ。

いじめや、暴行についても同じだ。集団で暴行する場合、手加減が少なくなるものだ。誰もが、余計なことを考えずに暴行に専念できるのだ。また議論や口げんかでも同じだ。二対一くらいでも、一人の方は圧倒的に不利である。なにより相手より多いという意識による優位感が、頭の働きを活性化するのである。この強弱関係は、我々の思考を完全に支配するのである。そして、二人で交互にかってなことを言えば、とても一人の側には、勝ち目はないのである。議論や口げんかは《まじめな世界》ではなく、騙し合いなのであり、いかに相手を煙に捲くかなのである。だから、多い側が断然有利なのである。

 

三三.私の見たいじめ

(1)私が会社に入った頃の話しである。同期の者は三〇人だった。その多くが寮に入った。いじめはいじられる者と、いじめる能力のある者が合ったときに始まる。寮ではその条件が満たされたのであった。いじめられた者はA君であった。A君は寮に入って一年ほど経ってからいじめられ始まった。彼は少し痩せていて長身で神経質そうだった。いつも虚勢をはっている感じで、これは自分の弱さを必死に隠そうとしているかのように思えた――事実、彼はいじめられたのであるから弱者であったのだ。野獣的な同僚たちにはこのことがすぐに察知できたのであろう。彼の弱点がわかると、同僚たちはそれにつけこみ、それを攻めることに快楽した。前記の様に、いじめは集団でやるところに醍醐味がある。A君には変人的な要素があり、これがまたいじめる側にはおいしい要素なのである。いじめっ子たちはある日、A君の部屋に侵入した。そして、推察どおりにあやしげなポルノ雑誌を見つけた。そこに「くそを食う女」という記事を見つけた。彼は笑いものにされた。彼は完全にいじめっ子たちのえじきになったのであった。そしてその後、決定的なことが起こった。A君はいじめっ子たちの前で、ズボンとパンツを下されてしまったのであった。彼のパンツの中から、ティッシュペーパーが出てきた。彼がマスタベーション用に入れておいたものだ。――いじめっ子たちをここまで駆り立てたものは何なのであろうか。どうしてA君は反撃できなかったのであろうか。ここにはある強弱関係があったのである。いじめっ子たちはA君の反撃がないということを前もって、十分な確実性をもって感じていたのであり、A君も相手に自分が反撃できないことを十分な確実性をもって感じていたのである。それにしても不気味なのは、いじめっ子たちはまるで事前に知っていたかのように、ポルノ雑誌やパンツの中のティッシュペーパーを暴いてしまったことだ。まるで仕組まれていたかのようだ。いじめっ子たちは何か超感覚的なことを感じていたのであり、現代の科学などではけして解明できないメカニズムを想定しなくてはならない。このような事件を慎重に調べる必要がある。偶然などという考えは、けして使ってはならない。我々を含めた多くのものは、互いに関係し合っていることは確かなことだ。しかし、それは我々の意識には現れてこない。――A君はそれからまもなく退社してしまった。このようなことは、世界のいたるところで起こっているのである。

(二)私が勤めていた会社での話である。課長をしていたA氏と社長の間に起こったいじめである。A氏は頭がよく、仕事もできた。自分の主張をもち、誰からも信頼されていた。自分の自信のあることでは、憎たらしいほど相手の意見をこきのめした。つまり、生意気なやつであった。相手をバカにしたような態度が自然に出てきて、生意気さ、憎たらしさの極地であった。しかし、彼のこの態度は多くの者に大目に見られていた。しかし、社長はそうではなかった。彼はA氏の生意気な態度に、それまでの社長とは違い大きな不快を感じたのであった。しかし、A氏はそれに気がつかなかった。いままではそれで通っていたが、今度はそうはいかなかった。A氏はマイペースでその態度を続けていたのだろう。いつもそれですんでいたからである。しかし、社長はA氏のこのふてぶてしい態度をそのままにしておけなかった。彼には大きな不快がたまっていた。たまった不快はいつか爆発するのだ。この不快に耐えかねた社長は、A氏を現場に左遷してしまった。有能なA氏を左遷することに何の意味があるのだろうか。これは社長の単なる不快の中和、復讐のためだけに行なわれたのである。社長はA氏から受けた不快という損害を、A氏に苦悩を与えるということにおいて中和しようとしただけのことなのであり、これはいじめであり、報復なのである。人事異動の多くは、こんな情念により行なわれていると言ってもいいだろう。我々の行動の原因は、性欲やその他の不快によっていると言ってもよいのである。

我々の行動は教育などではコントロールできない。その人固有の不快はその人固有の「不快中和法」により処理される他はないのである。我々はわかっていないから人をいじめるのではない。我々のコントロールできない生理的な欲求とは無関係に行動することはできないのである。社長はA氏から他の者が感じないような不快を感じた。これは彼の責任ではない、彼の体がそのようになっていただけのことだ。そして、その不快に耐えられないので――これも彼の責任ではない――、それに対処しなければならなかった。食べたものがまずかったので、それを吐き出しただけのことなのである。

 

三四.私のいじめられた経験

いじめとは生物の中で我々人間だけがもつ、最も人間的で不気味な性質である。我々は他人に親切にしたいという欲望と、いじめの欲望を矛盾なく所有している。しかし、前記のように他人に親切にすることも、実は利己的なものから出てきているのである。私はよく、相手が前記の二つの間を移動するところを見せられてしまう。相手は、初対面のときには気味が悪いほど優しく、魅力的だ。この場合、いじめの欲望の強い者ほど優しく振舞うもので、これは芝居であり、何かを探っているのである。二回目では態度が悪くなっている。そして、三回目には冷酷な態度になっているか、襲いかかってくるのである。もし、一回目と二回目の審査に合格し、十分敬意を払う価値があると判断された場合には、三回目以降も親切にしてくれるのである。これから、私が経験したいじめの例をいくつか示してみる。

(一)私はいじめの対象にされやすい人間だった。私が小さい頃、年上の友だち二人と遊んでいるときのことだ。そこにさらに三人より年上の少年がきて仲間に入った。そしてまもなく、その少年が私をいじめ始まった。友だち二人は私を助けようともしないでその少年の指示に従った。ここに不気味な我々の正体が見えてくる。二人の友だちは少年の指示にいやいや従ったというより、むしろわくわくしながら従っていたように見えた。というのは、誰にとっても人を苦悩させることは、最高度の快感を得ることであるからである。私は空き地に連れて行かれ、何回も高いところから草むらに落とされた。その草の中にとげのあるものが多くあったので、私の手足は血だらけになっていた。三人はいじめの快感を味わっていた。いつも仲良く遊んでいた二人の友だちもだ。その次に、私はダンボールの箱に押し込められた。そして、少年が二人の友だちにダンボールの穴から私に小便をかけるよう指示すると、彼らはそれに従い私にそれをひっかけた。最後にその少年は私に、「このことは誰にもいうなよ」と言って帰った。私のおふくろはそれを聞いて、その少年の家に行ったことは言うまでもない。

これはいじめの典型である。なにも理由がないのに、いじめが始まっている。その少年はいつも私を見ていて、いつかいじめてやろうと思っていたのかもしれない。その少年は暗く、変人的なところがあった。不快をためこむタイプだった。それにしても、いじめる相手としてどうして私が選ばれたのであろうか。他の二人ではいけなかったのであろうか。いじめは、いじめたくなるような者がいなければ、けして起こらない。世の中には、絶対にいじめられない者と、いじめの対象に必ずされる者がいるのだ。いじめは、いじめられるタイプの者によって誘発されると言ってもいいくらいだ。

わたしが驚いたのは、二人の友だちが私に加勢してくれるどころか、少年といっしょになって「いじめ」を楽しんだことだ。我々には誰にでも、驚くべきおぞましいものが宿っているということだ。彼らが悪いとか、おかしいとかではないのである。その二人の友だちとは、その後も仲良く遊んだ! なんとも不気味なことではないか?

(二)私が小さいときに住んでいた練馬区錦町の町内会の旅行にいったとき、バスの席の隣には年上の少年が座っていた。彼はバスの中で、異様に私に優しかった――いままでも指摘してきたようにここがポイントである。それは彼の人に優しくしたいという欲求が強いということであり、欲求不満が大きいという危険信号でもあるのだ。その行為(優しい)により、彼は何かを満たそうとしていたのであり、その対象として私がぴったりであっただけで、私は単に彼のうさばらしに利用されただけだったのだ。だから、その後のある日、私の通っていた仲町小学校の校門の付近でその少年に会ったので、私が近づいて行きながらにこやかにしゃべりかけると、少年はあのときの態度とはまったく違うけんかごしの態度をしてきた。そして、いまにもいじめられそうな感じがしたので、私は逃げてしまった。このように、我々には一貫した行動はできないのだ。誰でもどこからか訪れるとしか思えない欲求や衝動に身を任せる以外はないのである。

(三)一九六四年、私がまだ小学校に入る前の話しである。東京板橋の上板橋商店街に、よくおふくろと買物に行ったものだ。おふくろがそこで友だちになった女性の息子が「けんちゃん」であった。おふくろとその女性はたいそう親しくなり、私と「けんちゃん」も親しくなった。おふくろは、私が一人っ子だったので、他人の家に泊まるという体験によって良い効果が期待できるという、誰かの、今から見ればまったくナンセンスな意見を信じ、小学校の入学式の一日前に、彼の家に私を預けることにしたのであった。「けんちゃん」は気持ち悪いほど優しく、親切であった。夜には、風呂にも行き、露店の並ぶ縁日にも行き楽しかった。夕飯を皆で食べ、「けんちゃん」の部屋で寝た。良い思いでとなった。そして、それからずいぶん経ったある日、私がおふくろと上板橋商店街に買物に行ったとき、「けんちゃん」がいた。私はうれしくなって声をかけた。しかし、相手は驚くべき冷酷な態度で、「何か用?」と言ったのであった。あの初めに会ったときの雰囲気はまったくなく、ちんぴらのような態度であった。それに我々は驚いたものだ。我々は驚きのまま買物から帰った。私のおふくろはいままでにそんな経験はしたことがなかったらしい。だから、何が起こったのかがわからなかった。

現在(二〇〇六年)の私には、この謎がすっかりわかるのである。「けんちゃん」は、初めに私と付き合った時に、私に何の価値も見出せなかった。彼はあのとき、私に優しくしながらも、それとは別に幼いながらもちゃんと私の値踏みをしていたのであった。彼の中で、私は十分低い価値に置かれてしまったのであった。だからこそ、我々が声をかけたときに、彼は何も気を使う必要を感じなかっただけではなく、不快すら感じたのである。この状態になると、私は彼に相手にされないばかりか、いじめられる可能性もあるのである。

誰でも初対面のときに、本能的に相手の価値を定めることに専念するのである。それを定めてしまうと、その後はその固定された価値が、相手に対する態度を支配することになるのである。それは容易には変更されないのである。

(四)私が小学校のとき、一つ年上の友だちと雪の日に遊んでいた。我々は空き地で雪合戦を始めた。しばらくそれをやっていると、相手がしだいに興奮してきたのを感じた。そして彼は私に本気で雪を投げつけてきた。顔つきが普段と違っていた。彼は私に接近しながら、狂ったように雪を私に投げつけてきた。そして、帰ってしまった。私は何が起きたのかわからなかった。彼は日頃は優しく親切な人間なのだが、彼の中のもう一つのものがでてきたかのようだった。私が相手をいらいらさせるのかもしれない。相手が私でなかったなら、彼はこんな衝動に襲われなかったであろう。次の話もこれと似ている。

(五)私が小学校のとき、友だちと二人で埼玉県の徳丸田んぼに遊びに行った。ところが往路で、相手の態度がおかしくなってきたのである。いかにもだるそうにしながら、不真面目な態度となっていった。「お前となんか真面目に付き合っていられないよ」というような相手をバカにしきった態度であった。これは、非常に穏やかな「いじめ」であることは確かなのである。我々はもう遊びに行くなどという状態ではなくなり、そこで帰ってきてしまった。私は相手に不快を感じさせる、だるくさせる才能があるようである。

(六)小学校のとき、四人対四人でバスケットボールをやったのであるが、私にはただの一回もパスが来なかった。どう見ても、私にパスをだすべき場面でも、絶対に私には出さないのである。これは私の存在がない、頼りないということもあるが、あんなやつにパスしてやらない、という「いじめ」であることは確かなことである。

(七)私が小学校四年のときだった。夏のある日、体育の授業はプールだった。それが終わったとき、私はスイミングパンツを更衣室に忘れてしまった。私はそれがないことに気づいたのは、家に帰ってからだ。次のプールの授業のとき、おふくろは学校にスイミングパンツを買ってもってきた。すると私の担任のいじわるな先生は自分が私のスイミングパンツを隠したことをおふくろに告げ、申し訳なさそうにしていたそうである。

私はたいていの人に嫌われる。その先生にも嫌われていた。彼女はスイミングパンツを忘れたのが私でなければ、そんなことはしなかったであろう。この事件も、日頃、彼女が私から受けている「不快」という損害に対する報復なのであり、「いじめ」と言われるものなのである。

(八)私が中学校に上がった頃、小学校のクラス会があった。秩父に行くために、池袋駅で待ち合わせをした。一〇人ほどが集まった。先生は一人一人にあいさつしていた。いよいよ私のところかな、と思っていたら、私はとばされ次の者にしゃべりかけ始まってしまった。私は最後になるのかな、と思って待っていたがついに私のところにはこなかった。彼のいじわる心は、私をわざととばしたのであった。私は帰ろうかと思ってしまった。私は彼のクラスにいたときに、たいそう彼に嫌われていたものだ。このときの彼の行動は、「いじめ」なのである。つまり、昔私が彼に嫌われていた、彼をいらいらさせた、私に魅力がなく醜かった、という彼の不快に対する報復だったのである。ひどい話ではないか?

(九)私が会社に入って間もない頃の話である。妾だった私のおふくろのところに、本妻から父が死んだ、という知らせの電話がかかってきた。しかし、おふくろは私にはすぐに知らせなかった。その電話からずいぶんたってから、おふくろはそのことを私に知らせた。私が、どうしてすぐに私に知らせなかったのか、ときくと、「毅ちゃんに言ってもしょうがないと思ってさ」という答えが返ってきた。おふくろは私をバカにしているところがあったのである。つまり、その情報を伝えるに値しない、伝える張り合いがないというわけである。もし、私がもっと魅力的な人間だったなら、おふくろはその日に私に伝えたであろう。これもひどい話ではないか?

遠くから、しかも妾であるおふくろのところには知らせがきて、目の前にいる私には知らされないのである。これも実に穏やかな「いじめ」の部類に入るのであろう。私はきわめて残念であった。私の弱者的要素が、いじめられる者としての素質が彼女にこの行動をさせたのであろう。「毅ちゃんに言ってもしょうがないと思ってさ」という反応がそのことを現しているのである。

 

三五.いじめられる者について

いじめられる者は、いじめる者の観点、趣味嗜好から見た価値が低い者である。いじめられる者に共通していることは、弱いことである。強い者は、その強さのためにいじめられることがない。それに強さは最高度に価値あるもの、魅力あるもの、相手に快感を与えるものなのだ。我々は、相手が我々の感じた価値以上であろうとするのを察知したときに、異様な不快を感じるのであり、この不快感は「生意気」とか「僭越」と呼ばれているものだ。この「生意気」というものは、実に大きな不快を我々に感じさせるものである。その不快を中和しようとする衝動が、いじめという行動を起こさせるのである。これは「復讐」というものの家柄にあるのだ。魅力的な者、価値の高い者は何をやっても、何を言っても誰も不快を感じない。だからいじめられないのだ。

いじめは不平等な人間の序列と、各人の固有な事情や趣味嗜好から出てくるものだ。それは《秘かに》実行され、周りの者たちもそれにより快楽を得ているところがあるので――野次馬たちにとっては、火事が一つの見世物でしかないのと同じである――、なくすことは困難なのである。いじめられた経験がない者は、いじめというものが全然わかっていない。

 

36.我々にとって、最も未知なる我々

フランスの一八六八年生まれの理性主義哲学者アランは、その著書「精神と情熱に関する八一章」(小林秀雄訳、東京創元社)の中で次のように言っている。『自分のことを探索してはいけない。君の見ているものは対象であって、君自身ではない』。この難解な文章を私は未だにうまく解釈できないで困っているのだが、次のように考えてみた。ある者が人間の脳について研究して、脳のメカニズムを解明したと言っていても、その仕事をした者は研究対象である同じ脳なのである。ある原理で動いているものが、その原理の中でその原理を解明できるであろうか。脳のある動作のメカニズムは説明したと思っても、そのメカニズムを推測した自分の脳のメカニズムが不明なものとして残るのである。きっぱり言うが、脳の科学的解明は不可能である。それは、脳の解明を試みようとする者がその脳自身であるからである。人間の体の動きに関して斬新な研究をしている武道家甲野善紀氏は、「人間の体の動きは数値化できない、それをモデル化することは不可能だ」と自信をもって断言している。この意見の意味は深い。そして正しい。我々の多種多様な行動や反応は、機械などでは再現できないのである。

だからこそ、一九八〇年代に盛んであったと思うが、コンピュータープログラムにより脳を作ろうという「人工知能」は失敗に終わったのである。それは、我々の行動の肝心なところが、我々にはまったくわかっていないからなのだ。たとえば我々の思考、衝動などはあらゆる他者と関連して生じている可能性があるのである。こんなことは科学ではとうてい理解できない。我々の行為のメカニズムは、我々の中で全て完結しているという仮定がどうやら誤りであることが、一九世紀後半頃から現在までにヨーロッパや米国の人々によって指摘されているのである。人間のあらゆる行動の研究において、少なくとも現在の科学的な方法は無力なのである。世界のものは我々が推測するよりはるかに複雑に関連しているのだ。しかも、我々はその中に属しているわけだから、上に飛び上がって全体を見下すなどということはできないのである。

 

三七.やくざの世界

病院などでよく見かけるのであるが、額縁に入れられて美しくも歯が浮くような文章が掲げられている。たとえば「患者のために、誠心誠意尽くす」などである。しかし、実体はまったく違うのである。何か少しでも注文をつければ、職員はやくざ的態度でこちらを威嚇してくる。「文句があるなら出て行ってくれ」と言われる。すぐに我々の野獣の本能が出てきてしまう。しかし、どんな人でも平静時にはそんなことはあってはならない、と思っているのである。前記のような美辞麗句は、どのような人でも平静時には思い描くものなのである。しかし、それは平静時だけのことであって、いったん何かが起こり、気が転倒すればたちまちそんな気分はどこかにすっとんでいってしまって、我々の中の野獣が首をもたげ、相手を容赦もなく威嚇する態度が現れてくるのである。

 

三八.わからないことは、必ず悪いものに解釈される

我々はわからないことをわからないと理解することをしない。我々は相手の言っていることがわからないとき、つまり、それが自分の考えの及ぶ範囲にない場合、たいていそのようには思わず、それを強引に自分の中にあるものにこじつけてしまうもので、必ず悪く、いじわるな解釈がなされるものだ。自分の考えられないようなもの、自分の思索が及ばないようなことは、存在することすら許されないもので、自分の中のいやらしいものに置き換えてしまう。不明なものは人に夢を与えることもあるが、人に恐怖と憎しみを与えることもあるのだ。有名になれなかった天才やユダヤ人は、不幸な人生を送らなければならなかった。「ニーチェ全集」(白水社)には、『我々は自分のわからないことは誤解する。全てが誤解されるということは、その人が特別な存在であるということだ』とある。

だからこそ、我々は自然界に起こるいろいろな現象に対して、「わからない」とは言わず、いろいろな解釈で処理し、当面の満足を得てきたのであった。それはたとえば宗教、科学、哲学、占星術などである。しかし、それらのどれもが我々の期待通りではなかったではないか。そこそこの成果は上げたかもしれないが、たまたまうまくいったくらいのことで、我々を十分満足させることはできなかった。「人工知能」も、我々の思考のメカニズムを理解できうる、という思い込みからスタートしたものであるが、実際には脳のメカニズムは我々の理解できるものではなかったのであり、それをコンピュータープログラムで作ろうとすることが、まことに軽率ななことであったのである。

宗教などは、戦争と人殺しの原因になっている始末ではないか? ヨーロッパで一七世紀末に起こった啓蒙思想などが我々にとって何の役にもたたなかったことは、その後の歴史と二〇〇六年現在の世界の状況を見てみればわかるだろう。世界は次第に平和に向かっているのではなく、我々のわからない――当然、コントロールもできない――法則によって不気味に動いているだけなのだ。

人類の管理者は人類ではない、ましてや地球の管理者は人類などではない、我々はかってにそれらの管理者を我々だと決めつけてしまっている。宗教的に言えば、我々は神の管理の下に生きているにすぎない。科学的・哲学的に言えば、我々は、我々の絶対に理解できない自然の、宇宙のメカニズムの中に生きていることは確かなのである。

 

三九.聖職者とわいせつ

聖職者も、実はわいせつな欲望から逃げられない者なのである。彼らはそのような欲望をもっているからこそ、聖職者になったのである。ひたすらわいせつなことについての悪口を言うことは、わいせつなことから逃れられていないことを示しているのである。

 

四〇.キリスト者たちのののしり合い

私が中学生のとき、私は興味本位で西武池袋線江古田駅の近くにあるキリスト教の教会に行ってみたことがある。教会にはジャネット・リンのポスターが貼ってあった。私は席に座り、周りの者が祈り、歌う姿を見ていたが、とてもついていけそうになく唖然としていた。それらのことが終わると、場所を移し食べ物が出てきて皆で食べていた。私も参加して食べた。しかし、驚いたことに《聖なる人》・《善人》をめざす人々の間で、それらに反するような激しいけんかが、いとも簡単に始まったのであった。私の目の前で、些細なことから口げんかが始まった。彼らは、大きな声で口汚くののしり合っていた。彼らはこの教会にきて、《良い子》になりすましているのだが、それは文字どおりなりすましているだけであって、本当の自分、つまり「あまりに人間的な自分」はちゃんといるのであって、重要な局面に直面したときは、これが必ず顔を出すのである。彼らは、教会で学んだことを全然実践せず、する気もなく、ただキリスト教と教会という雰囲気に酔いしれているだけなのである。そしてこのことは、人と人のけんかはなくすことができない、ということをも示している。人と人のけんかがなくならなければ、国と国との戦争もなくならない。

我々は他人と戦うようにできているのである。しかし、現場(戦場)を離れて静かな気分になると、我々の野生の本能を嫌ったふりをして、聖職者気取りで《誠実な》ことを言い出すのだ。しかし、彼が現場に立てば、静かな気分はどこかにすっ飛び、戦闘態勢に入っていくのである。今までの人類のしてきた戦争についてよく考えたことのある者なら、戦争のない世界を作るなどという考えは、ばかげたものであるということがわかるだろう。ドイツの一七二四年生まれの哲学者インマヌエル・カントの本で「永久平和のために」というのがあるが、これは完全に机上の空論であって、彼は生涯大学教授という平和な暮らしのせいか、現場の恐ろしさというものをまったく無視している。現場の恐ろしさを知っている者ならば、このようなことは考えないだろう。机上の空論に長けた者は、現場に入るとその無能ぶりを露呈するものだ。ところで白状するが、私はこの本を一行も読んだことがないくせにこのようなことを言っている!

 

四一.独立・自立していない我々

私がまだ小学校に上がる前の話だ。私は東京の練馬区錦町の借家に住んでいて、近くに住む三人の兄弟姉妹とよく遊んでいた。私はある日、その中の一番年下の少女(私より小さい)と私の家で遊んでいた。私のおふくろは買物に行っていて、家には我々二人しかいなかった。雨戸は閉まっていた。閉鎖された室内には異様な雰囲気が漂い始めた。我々二人は突然性的な衝動に襲われた。小さいながらエロティックな世界に入っていった。私が促すと、幼い彼女はパンツを脱ぎ、よつんばいになって私にアピールしてきたのであった! 私はそれに応えて、その中のものをピンセットにつけた脱脂綿で刺激した。彼女はたいそう気持良さそうだった。私は当時、その部分に女性の「あれ」があることは知らなかった。しかし、私は本能的にそこに狙いをつけていたのである。二人は成人の男女が楽しむように、エロティックな快楽に身を任せていったのであった――これは本当に本当の話である!

これは未だに結婚していない私が、最初にして最後(?)に女性と交わしたエロティックな経験である。幼い私と彼女は、教えられたこともないのに、成人男女がやるようなことをやりだしたのである。これらのことは、我々が先天的にもっている本能によるのだ、と言われる。しかし、これから示す例では、「先天的なもの」だけでは説明がつかず、これを理解するには、別な考え方によらねばならないことがわかる。我々の行動の原因が、自分といわれるものや意識の中だけにあるわけではなく、そのほとんど、おそらくはその全てがどこからか届けられる、つまり、我々の行動はどこからか来る指令に従っているだけである、という大胆な仮説を立てなくてはならないことが要請されるのである――オーストリア精神科医フロイト(一八五六年生まれ)が、このような考え方の父である――。おおかたの人が受け入れ難いであろうこの考えは、渡り鳥が遠い目的地に間違いなく行ける、ということについて考察するだけで正当性を得るのである。

鳥が他のものと関係なく、独立・自立しているものと考えた場合、どのような「先天的能力」を想定したとしても、現代の科学の範囲では、遠隔地への正確な飛行、という行動のメカニズムは説明できないのである。何も目印のない海上において、どうして目的地の方向がわかるのであろうか。常識的な範囲で考えるかぎり、我々はこのようなことが可能にする「先天的能力」を思いつかない。この渡り鳥の問題だけを考えてみても、渡り鳥が他のいろいろなもの、我々が認識できないものと関係し合い、協力することによって――その有名な例は、超心理学で言うテレパシー・念力・念波という超感覚的なものであり、これらの信じがたいものも実際にありそうな気がしてくる。我々はテレパシーを意識していないが、無意識のところで使っているのかもしれない――、見えない糸に手繰り寄せられるように遠い目的地まで正確に行くことができる、という考え方が支持されるのである。渡り鳥は遠い目的地への進路を、無意識に察知している、つまり自分の意識以外のもの、《外部》によって誘導されている、ということだ。もっと高い視点で言えば、渡り鳥が移動するということは、渡り鳥を含む全体(宇宙)の動きの現れなのである。この考え方は、一六三二年生まれの「神に酔える無神論者」と言われるユダヤ系オランダ人哲学者スピノザの宇宙モデル(世界感)に似ている。彼によれば、唯一の実体は神なのであり、あらゆるものは神の属性(本質的な性質)の諸様態(かりそめの形態)にすぎず、その世界で一切は必然性によって動き、人間に自由意志というものはない、というものだ。この今ではあまり出てこない古色蒼然とした思想が、また呼び戻されるというわけだ。私は、今までこの彼の考えをただバカにしてきたが、そうではなく、二〇世紀の「マーフィーの法則」や、一九世紀のフロイトの「無意識あるいはエス」のアイデアの先駆的なものだということがわかったのである。その後のカントやヘーゲルショーペンハウアーニーチェなどの仕事には、この渡り鳥の謎について参考になるようなものがないのである。渡り鳥は、独立・自立した存在ではなく、全ての行動は、他のものとの関係によって決まっていく、つまり宇宙全体の我々がけして知ることのできないメカニズム(スピノザの言う神)に従属している、とスピノザ風に考えなくては整理しようがないのだ。構造言語学の著書ジョナサン・カラー「ソシュール」(川本茂雄訳、岩波書店)では、これに関連した科学哲学者ホワイトヘッド(一八六一年生まれ)の意見が引用されている。

 

*何世紀にもわたって哲学的文献につきまとってきた誤謬は、「独立した存在」という観念である。そのような存在方式はない。どの存在体も、それが宇宙の爾余(ジヨ、その他のもの)と互いに結び合わされている仕方を視点として理解されねばならない。

 

全てのものが関係しているという考え方は大胆に思えるかもしれないが、「我々は独立していて、他のものとは無関係に自分の意志のみで行動している」という仮定のほうがはるかに大胆であると思わないか?

いろいろなものが関係し合って「渡り鳥」というものがある場合、「渡り鳥」というものの範囲はあやふやとなる。私が「渡り鳥」と言うとき、目の前にいる小さな塊だけではなく、もっと全体に分布しているものを考えなくてはいけないのであろう。同様に、我々人間も独立・自立しているわけではなく、多くのものと関係し合っている(何ものかにコントロールされている可能性もある)のであり、ある人の行動は、《全体の行動》でもあり、従って、個人の責任というものも考えられなくなるのである。

以上のような考え方は、米国で生まれた「マーフィーの法則」の中の多くに見られる。たとえば「我々が急いでいるときには、信号は赤であることが多い」では、我々の体験から「人が急いでいる」ということと「信号の動作」が無関係ではなく関係していて、我々の知ることのできないメカニズム(前記スピノザの言う神)でそれらは連動している可能性が高い、ということを言っている。この問題については、後の「マーフィーの法則」に関する章で詳細に検討することにする。

 

四二.サディズムマゾヒズム

我々の他人に優しくし、他人を助ける行為や、自己犠牲的・非利己的な行為などは、マゾヒズムと同類であるし、他人に冷たくすること、他人の不幸を楽しむこと、他人をいじめること、さらには他人や他国への攻撃、テロリズムなどは、サディズムと同類であろう。

このまったく異なる我々の二つの行為は、実は、我々のある本能の二つの現れなのである。

 

四三.悪い行為は良い行為より強い

一〇の良い行為をしても、たった一つの悪い行為でそれらは帳消しにされてしまうものだ。どんなにステキな人でも、たった一回その人のいやなところや、ぶざまなところを見せられ不愉快にされただけで、もうその人に対する夢のような気分はなくなってしまうものだ。

私の母が小さいとき、近所に住む青年に良くしてもらい、彼女は彼を好きだったそうだ。しかしある日、彼が便所で大便をしているとき下の窓が開いていて、彼の肛門から出て行く大便を見てしまったそうだ。そのときから彼女は彼を嫌いになってしまったそうだ。また、阪神タイガースをリーグ優勝に導いた星野仙一氏は人気が出て、その後いろいろなところに登場し、理想の上司とも言われた。しかし、二〇〇八年の北京オリンピックでメダル獲得に失敗した後は、印象が悪くなり、週刊誌などで悪口をさんざん言われ、どこからもお呼びがかからなくなってしまった。

だからこそ頭の良い者は、集団のなかでの行動において、良いことをすることより、自分の悪いところを見せないようにすること、失敗しないようにすること、相手を不愉快にしないようにすることに熱中するのである。それが最も少ない労力で大きな成果(出世すること)を上げる秘訣なのである。我々は良いことよりも、悪いこと・不快なこと・醜いことのほうがはるかに印象に残るものなのである。