SonofSamlawのブログ

うひょひょ

死刑と残忍性その4(四つ裂きの刑)



これから最も恐ろしい刑罰とされる「四つ裂きの刑」を紹介する。これは、手足を馬などに引かせ胴体から引き抜く恐ろしい刑罰である。この刑罰は広く行われてきたが、その様子が詳細に記録された例は少ない。たぶんこれから紹介するものが、この刑罰のものすごさを詳細に伝えている唯一のものなのかもしれない。
 
 モネスティエ「死刑全書」(吉田春美・大塚宏子訳、原書房)を文献A、レーダー「死刑物語」(西村克彦・保倉和彦訳、原書房)を文献Bと呼ぶ


文献Aからかなり長く引用する。

 *四つ裂きはトラキア人のあいだでも行われていた、とヘロドトスは述べている。ガリアに侵入したほとんどすべての民族においても同様であった。六世紀のゴート族の歴史家ヨルダネスによると、アマラリク王は脱走兵の妻を荒馬で四つ裂きにさせたという。

 

ミシュレは『フランス史』のなかで次のように書いている。「パリの高等法院はぞっとするほど残忍な熱意を示し、情けないことに刑罰で公のご機嫌をとろうとして、この死にかけた悲惨な肉体に、殺さずに苦痛を与えることのできる刑罰を次々に科した」。処刑そのものについては以下の通りである。

「彼が柱に縛りつけられると、執行人がやっとこで両方の腿から肉を引きちぎり、次に両腕から肉をはぎ取った。四本の手足つまり四本の骨は、四頭の馬に引かれることになった[・・・]。馬に乗った四人の男が馬に強く鞭を入れ、四肢につながれた綱を激しく引っぱった。しかし筋肉はもちこたえた。執行人は大きなきざみ包丁を持ってこさせ、上下の肉を大きく切り取った。そこで馬たちはなんとか仕事をやりとげることができた。筋肉がきしみ、はじけ、そして裂けた。生きている胴体が地面にころがった」

そしてミシュレはこうつけ加える。「それ以上生かしておいても仕方がないので、執行人は首を切らなければならなかった」

 

*それ以外に何度か未遂のテロがおきたのち、一六一〇年五月一四日にフェロヌリー通りで、ラヴァイヤックが短刀で二回刺した。今回は、国王(アンリ四世)は死んだ。

犯人は弓兵たちにとり押さえられた。彼も宗教と信仰のために犯行におよんだと言ったが、だれにナイフを渡されたのか自白させるため、ひどい拷問にかけられた。しかし無駄であった。この男にもむごい刑罰を科すべきであると、人々は考えた。マリ・ド・メディシスは生きたまま皮をはぐように強く勧めたが、四つ裂きよりも恐ろしい刑罰はなかったので、そうすることに決まった。

彼は通常尋問と特別尋問を受けたのち、処刑のまえに、ルイ一五世を襲撃したダミアンとまったく同じ方法で様々な虐待を受けた。硫黄、溶けた鉛、煮えた油、火のついたタールと樹脂で焼かれてから、「体中を」切りきざまれ、最後にグレーヴ広場で四肢を引き裂かれた。処刑は長い時間続いた。というのもラヴァイヤックは背が高く、力も強かったからである。一時間近くも引っぱり、馬たちがへとへとになっても、手足はまだ抜けなかった。ようやくもだえ苦しむ胴体だけとなるには、さらに長い時間が必要だった。

 

*ラヴァイヤックの処刑ののち、民衆がまた四つ裂きを目にすることができるまで一世紀半ほど待たなければならなかった。そのとき四つ裂きにされたのはロベール・フランソワ・ダミアン、ヴェルヌイユーサントリューズという地方のブルジョワ夫人の元下僕で、パリのイエズス会士たちの召使もつとめていた。

一七五七年一月五日、ヴェルサイユの城で、この性格異常者はルイ一五世の右脇腹をナイフで切りつけた。そのときの国王はトリアノンに行くため馬車に乗ろうとしていた。寒さが厳しく、国王は着ぶくれしていたうえに、裏に毛皮のついたコートを二枚着ていたので、ナイフの衝撃は和らげられた。

国王は出血したが傷は軽かった。国王付きの外科医のラ・マルティニエールが傷を調べ、それほど深くないし危険でもないと診断した。

ダミアンはその場で逮捕された。同じヴェルサイユ宮殿で、彼はただちに数人の衛兵によって真っ赤に焼いたやっとこで拷問をうけた。国璽尚書(こくじしょうしょ)のマショー・ルイエ自ら衛兵たちに手を貸した。

ナイフの刃に毒がぬられていたといううわさが流れたため、国王は告解を行い、終油の秘蹟を要求し、自室ミサをあげさせた。しかし彼はなんともなかった。何人かの証人によると、それと反対に、国王は「あまり苦しめないように」頼んだのであり、すべては仕事熱心な判事たちと宮廷の人々が考えたことだという。しかし国王は非難されても仕方がなかった――民衆は実際に非難した。判決がでたあとで恩赦を与えなかったし、「たいした傷を負わせたわけではなかったのに、あれほど恐ろしい最期をとげさせた」のだから。

ヴェルサイユからパリ高等法院の監獄に連行されると、ダミアンは狭い独房に閉じ込められ、一〇〇人の兵士が牢獄の警備にあてられた。当局と国王は背後で大きな陰謀が進行していると信じていたのである。

精器を噛み切って自殺しようとしたので、ダミアンは常にベッドに縛りつけられていた。丈夫な革紐で手足をがんじがらめに縛られ、革紐は天井に埋めこまれた環で固定された。「紐が解かれるのは、やむにやまれぬ欲求を満たすときだけであった」。彼はそうして二か月も縛られていた。

共犯者を自白させるため、一〇時間にわたり通常および特別尋問が行われた。彼は口を割らず、どんなにひどい拷問を受けてもこう繰り返すだけだった。「国王を殺す気はなかった。その気があれば殺していたさ。神が国王に罰を与え、それで国王がすべてをもとにもどし、再び国を平穏に治めるように、切りつけただけだ」。胃に大量の水を入れられ(著者注:同書によれば、フランスでは当時、通常尋問で九リットル、特別尋問で一八リットルもの水を飲まされた!)、腕をやっとこで切り裂かれ、足首を足枷で砕かれ、胸と手足を真っ赤に焼いた鉄で焼かれても、彼はあいかわらず同じことを言い続けた。

特別尋問がすむと、彼はもはや動くことも立っていることもできなくなっていた。彼は頭だけ出して皮袋に入れられ、袋の口を縄で縛られた。高等法院の判事たちの判決を聞くため、下僕たちがそうして彼を運んでいった。判決は一五〇年前にラヴァイヤックの前で読まれたものとまったく同じであった。「被告をグレーヴ広場に連行し、そこの設けられた処刑台の上で、胸、腕、腿、ふくらはぎを焼いたやっとこで締め付けること。ナイフを握り君主殺しの罪を犯した右手は、硫黄の火で焼くこと。やっとこで締めつけたところには、融けた鉛、煮えた油、火のついたタールと樹脂、硫黄を溶かしたものを流すこと。それがすんだら四頭の馬で引かせて手足を引き抜き、体を燃やし灰にしてまくこととする」

処刑は午後四時にグレーヴ広場で行われた。まさに人の海といってよい大群衆が朝から待っていた。屋根の上にまで人々がいた。貴族たちは金貨四〇ルイを支払ってまで、二階と三階の窓を借り切った。

広場の中央に柵でスペースが作られており、兵士たちがまわりを取り囲んでいた。その真ん中に二つの処刑台があったが、いずれもそれほど高くなく、むしろ幅が広いと言えるものであった。

一つ目の処刑台は罪人の手を焼き、焼いたやっとこで肉を締めつけるためのものであった。二つ目のもう少し低い台に、罪人の体を縛りつけて四つ裂きにするのだった。処刑を行う二人の男は、ランスの執行吏にしてパリの名誉執行吏であったジルベール・サンソンと、その甥であるパリの公式執行吏シャルル=アンリ・サンソンであった。シャルル=アンリ・サンソンはこの有名な死刑執行吏の家系で最も名の知れた執行吏となったが、当時わずか一九歳であった。数年後、彼はルイ一六世の処刑を行うことになる。二人の男は、執行吏の伝統的な服装である青い半ズボンをはき、刑架と黒い梯子の刺繍をほどこした赤い上着を着て、淡い紅色の二角帽をかぶり、剣をさしていた。二人を補佐する一五人の助手と下僕はそれぞれ黄褐色の皮の前かけをしていた。

四頭の強健な馬を先頭にして、行列がグレーヴ広場に到着した。それらの馬は、処刑の前日にシャルル=アンリ・サンソンが四三二リーヴルという大金で買ったものだった。ダミアンは袋から出され、一つ目の台に引っぱり上げられた、その間にサン=ポール教会の司祭が祈りを唱えた。ダミアンは横たえられ、半円形の二つの鉄の止め金で固定された。止め金は脇の下と足のつけ根で体を固定し、処刑台の下にねじでとめられた。ジルベール・サンソンは、ダミアンの手に襲撃に使ったナイフを握らせ革紐で縛った。それから、炭火が赤々と燃える火鉢に近づいた。火鉢からは硫黄の鼻をつく蒸気がもうもうと立ちのぼっていた。受刑者はすさまじい叫び声をあげ、いましめのなかで身をよじった。五分後、彼の手はもはや存在しなかった。彼は頭をあげ、歯をならしながら手の切れ端を見つめた。硫黄の火傷が血をとめたので、切断されたところからは出血していなかった。そこで執行人の助手たちがダミアンのいましめを解き、地面に寝かして服を脱がせ、半ズボンだけにした。レグリという名の助手が炭火で燃やした長いやっとこをつかむと、犠牲者の胸、腕、腿を締あげた。そのたびにやっとこが肉片を引きはがし、恐ろしい傷を残した。それらの傷には、他の助手たちが融けた鉛や炎をあげる樹脂や溶けた硫黄を流していった。グレーヴ広場全体に肉の燃える吐き気をもよおすような臭いがたちこめていた。

歴史家のロベール・クリストフはこう書いている。「苦痛に正気を失って、ダミアンは拷問者たちを励ましているように見えた。傷つけられるたびに、『もっと! もっと!』と叫ぶのであった。彼はよだれをたらし、泣き、その見開いた目は眼窩から飛び出しそうだった。とうとう彼は気を失った」。彼が意識を取りもどしたときには、二つ目の処刑台に降ろされていた。こちらの台はもっと小さく、高さは一メートルもなかった。苦痛に疲れ果てて、彼は意識がないように見えた。それから手足を広げて、中心を釘づけされた二枚の厚板つまり一種のⅩ十字架の上に置かれ、上半身を二枚の板できつくはさまれた。二枚の板は十字架に固定され、四肢につながれた馬の一頭が全身を引きずっていかないようになっていた。鞭を持った助手が各自の馬を進むべき方向へ導いた。シャルル=アンリ・サンソンの合図で、恐るべき四頭立ての馬がそれぞれ反対方向へ走り出した。綱がぴんと張りつめ、手足がぐいと引きのばされた。受刑者は恐ろしい叫び声をあげた。三〇分ほどたったころ、手足の力を弱めるため、シャルル=アンリ・サンソンは足につけられた二頭の馬に方向を変えるように命じた。囚人に「スカラムーシュの足開き」をさせる、つまり両足を体にそって左右に高く上げさせるためである。四頭の馬は平行して同じ方向へ引くことになった。大腿骨がついに折れたが、手足はまだ抜けず引きのばされたままだった。

一時間も懸命に引っぱって馬たちは汗だくになり、さんざん鞭でたたかれすっかり疲れ果てていた。ジルベールとシャルル=アンリ・サンソンは不安にかられた。あまり働かせたので馬の一頭は倒れ、なかなか起き上がらせることができなかった。しかし叫び声と鞭に駆り立てられ、馬たちはまたしばらくのあいだ全力で引かされた。

サン=ポールの司祭は気を失い、多くの見物人も同様の状態だった。しかしすべての者がそのように気が弱かったわけではなかった。

ロベール・ド・ヴィルヌーブがその著書『刑罰博物館』でこう述べている。「ダミアンが叫び声を上げているあいだ、女たちは金持ちの物好きにフェラチオを行っていた」カサノバはその『回想録』で、ティレタ・ド・トレヴィーズ伯爵が、窓から身を乗り出して処刑を眺めている貴婦人をうしろから四回もものにしたさまを長々と伝えている。シャルル=アンリ・サンソンはとうとう外科医のボワイエに、市役所に行って判事たちに「太い筋を取り除かなければ手足を抜くのは不可能だ」と伝えてほしいと頼んだ。ボワイエは必用な許可を得てもどってきたが、肉屋がするように肉を断ち切ることのできる先のとがったナイフが見つからなかった。とうとう下僕のレグリが斧をとり、手足の関節に振り下ろした。血が噴き出し、下僕にはねがかかった。

ふたたび鞭がうなり、馬たちが全力で走りだした。今度は二本の腕と一本の足が抜け、一気に空中をとんだ。そのあいだにも裂け目から血が勢いよくほとばしり出て舗道をぬらした。

足が一本だけとなったダミアンは、まだ息をしていた。髪が逆立ち、数分間で黒から白へ変わっていた。いっぽう彼の胴体は痙攣し、何人かの目撃者によると、唇はなにやらしゃべろうとしていた。彼はまだ息をしているうちに、火刑台に投げこまれた。ヴォルテールが言うには、「荷車七杯の薪が必用だった」。さらにロベール・クリストフはこう書いている。「この日、人々の心のなかでフランス革命が始まった」

これらすべて、「光の世紀(啓蒙時代)」のさなかにおきたことである。二度とふたたび行われることのなかったこの驚くべき殺戮ののち、ジルベール・サンソンは死刑執行吏の職務を放棄した。甥のシャルル=アンリは手際の悪さを非難され、数時間牢屋に入れられた。ダミアンの判決には、彼の家を取り壊し、建て直すことを禁じると記されていた。妻と娘と父親は王国を離れなければならず、もどってきたらただちに死刑に処されることになった。兄弟と姉妹は名前を変えなければならなかった。

アミアンの町は世間をはばかって、「卑劣な君主殺しの名とあまりにも似ている」ため、町の名を変えると申し出た。

民衆といえば、この出来事を快く思わなかった。上流の人々の多くはのちになって、哀れな男が死ぬのを見るために法外な値段でバルコニーを借りた代償がいかに高くつくか知ることになる。

大革命のときには、いくつかの古い刑罰とともに、四つ裂きは消滅した。それ以来、罪人たちはもはやあまりの野蛮な刑罰を受けることはなくなり、ギロチンに上がるときには一枚の黒い布で頭を包んでもらえるようになった。

 

文献Bには次のようにある。

 

*こんなことが、たった二百年前のできごとで、それも、慈悲心のひとかけらのもなく物欲しそうな無数の群集の目前で起こっているということは、いまいちど強調されなければなららない。ここでルイ一五世の名誉のために一言しておかねばならないことは、処刑の経過報告を受けた国王が眼に涙を浮かべていたという話で、ダミアンのために泣いてやったのは国王たった一人だったということである。