ライター:mpcsp079さん(最終更新日時:2013/11/25)投稿日:2013/7/30
意識はどうして私から移動しないのか?
この哲学上の問題は、
http://ja.wikipedia.org/wiki/なぜ私は私なのか
に正確に記されている。
我々は、相手が自分と同じようなものであることを証明できない。たぶん・・・、この世にいるであろう人間たちは自分と同じである。しかし、視点が自分に限定されている。どうして私は、あの者ではなくこの自分だったのか?いま考察している者がこの自分であって、他の者でないのはなぜか?・・・誰もがそう考えているのなら、どうして私は誰もではなく、この自分なのだろうか? 私はどうして他の者でなく、この者なのだろうか?
考えてみてくだされ、わからなくなってきますよ。
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また「他者問題」というのもあります。
http://oshosina.blog.so-net.ne.jp/2006-03-21
から引用します。
では、その他者の問題とはどのようなものであるのか。
《他者が、私に対して在る彼の存在の彼方でほんとうに対自として存在しており、われわれが相互に存在するものであるならば、そして神に対しての一方と他方であるのでないとするならば、われわれはお互いに現れ合うのでなければならないし、他者も私も外部を持ち、〈対自pour soi〉のバースペクティブ(私に対する私の眼と、他者自身に対する他者自身の眼)の他に、(対他Pour Autrui)のパースペクティブ(他者に対する私の眼と私に対する他者の眼)が存在するのでなければならない。》(P.p.p.V‐Vll)
ここに、他者が存在することによって生ずるパラドックスがある。すなわち、事実として、私にとっての〈私〉と、他者から見られた〈私〉というものがあり、その二つの〈私〉は別々に切り離されてあるのではなく、現実に生きている同一の私に関しているのである。
つまり、私にとっての〈私〉だけでない、私でない〈私〉というものがあるということが、他者の存在とともに認められねばならないことになり、このことは、他者の側にも同様に言えることなのである。第二章においてこのことはさらに明らかにされるはずであるが、この逆説的な事態が事実としてわれわれの生においてあるということによって、事実に即して哲学をなそうとする者に、私の内部に見いだした(と思っている)絶対的な私に拠って〈哲学的真理〉を振り回すことを禁じているゆえんがあるのである。また、私が他者に対してあり、他者が私に対してあるためには、私も他者も外部を持たねばならないということによって、身体の問題が哲学における中心課題の一つとなるということも了解せられるであろう。