SonofSamlawのブログ

うひょひょ

チェルノブイリ原発事故の後始末者たちの証言

                                 

 

                                

ライター:mpcsp079さん(最終更新日時:2013/7/29)投稿日:2013/7/15

 
 

チェルノブイリ原発事故(1986)の後始末者たちの証言.事故の処理に当たり、その後ひどい病気になった人々の証言です.

https://www.youtube.com/watch?v=bhvDSqNJ31M

から引用する。ものすごい話である。

 

  ここで恐ろしいのは原発事故というより、非常時での人の行動である。日頃は「きずな」なんてよい子ちゃんだが、いざとなると本性が出てくる。命がけで処理に当たった者に対する人々の冷酷な対応は、まるで不幸者をからかったり、いじめたりする行為に等しい。あるいは火事を見に行く行為にも等しい。

 

  さらに恐ろしいのはそれから25年後の福島原発でもほとんど同じことが起こってしまったということである。職に困っている者たちを危険なめにあわせているのである。

https://www.youtube.com/watch?v=GRPzQHfOVPs

もをみよ!

 

https://www.youtube.com/watch?v=ivwp60vrUMM

によれば、

  マンハッタン計画を中心に、数年間にわたりアメリカ政府は、兵士や事情を知らない一般人、約25万人を対象にさまざまな放射能をつかった人体実験を行った。

  兵士は放射線の防御をまったくしていない状態で、原爆の爆心地に向かって歩くように命令された。
そうすることにより、政府は放射線を浴びた人間についての情報を集めようとした。

  ひどいものだ。人間とはこういうものなのだ。

 

      最後にも登場するトロリーバス運転手

 

 

 

 

 

 

 

    

 

発電所の屋上で4日間作業した。

1日めは、覆いの端をハンマーで叩いて水抜きをした。
2日めはコンクリートパネルを屋根の上から落とした。
時間は5分、
3日めは換気筒の解体、
4日めは黒鉛の破片の除去、
黒鉛を手でつかんで放り投げた、

チェルノブイリ原発の屋上には、黒鉛やウランが散乱していた。
2万レントゲンまで照射されたものだ、
黒鉛の破片を手で持つと、通常の環境では一生で浴びるほどの線量を
1から1.5秒で浴びる。
リクヴィダートルと呼ばれる労働者100万人が原子炉に送り込まれた。
そしてこの破局事故の影響が他のどの地域にも及ばないよう、
戦慄すべき放射線環境のなか、即席の石棺で原子炉を封印した。
素手でとショベルとウォータージェットで放射能と格闘したのだ。
数万人が亡くなり、今も死に続けている。
ソ連の科学者たちが計算すると、原子炉火災を5月8日までに何とかしないと、
燃え続ける核燃料がコンクリート土台を突き破って冷却水のなかに落下して、
広島の20-50倍も大規模な爆発を引き起こす可能性があった。
するとヨーロッパも居住不可能になりえた。
5月6日、原子炉火災は手なづけられた。
リクヴィダートルたちの信じがたい献身のお蔭だが、彼らへの補償は
無きに等しかった。
ロシア、ウクライナベラルーシは彼らを見捨て、彼らは孤独に捨てられた。
そして西側世界もかれらのことを黙殺した。

 

 

1991年
栄誉賞状を貰ったのも今は昔で、そのときは張合いも出たが、
それも今は、ガラクタにしか見えない。
お偉方は沢山の約束をしてくれたものだ。
この表彰状は屋根の上で良い仕事をしたから渡してくれた。
それで屋根の上で働いて、終わって屋根から降りてきたら、
指揮官がくれた報酬というのがこれだったわけだ。
こう言われたものだ。
「犬みたいに駆けて行け、兎みたいに逃げ戻れ」
今は第2級の障碍者だ。
あまりに色んな病気を抱えているのでいちいち数えきれない。
35歳でも70歳の老人みたいだ。
私たちは屋根を片付けた。石棺を作らねばならぬということだったから。
爆発のため、ウランや黒鉛棒があった。
ロボットがもちこたえられない。
内部の部品が融けて動けなくなってしまうからだ。
それで人間が送り込まれたのだ。
普通の兵士服だけ着て屋上で作業した。
ガーゼのマスクを顔に、そしてオートバイ乗りのような眼鏡をつけて、
斧でもって鉛の板を切り出した。
そして放射線の防護服らしきものを作った。
鉛は放射線の通過を遮断するというからだ。
防護服は自前でというわけだ。

 

アスベストはもうはがし終わった」
アスベストをストレッチャーの載せろ」
「急いで破片を放り投げろ]
「わかったか」
「1個、2個と運ぶ]
「場所に着いたら90数えろ、1,2,3、・・・90だ」
「90になったら道具を置いて逃げ帰れ]
「何か質問は?」
「ありません、了解」
「では作戦開始]
最初の作業時間は40秒、
40秒の間に駆けていき、ショベルがあればそれを握る。
ショベルがなければ黒鉛の破片を手で拾う。
手で黒鉛を原子炉の中に掘り込んだ。
1日め、線量計は34レントゲンしかし「9」と書かれた。
2日めは約30なのに「5」
指揮官に要求した。
「何してる? 測定通りかいてくれ!」
すると「さっさと出ていけ! 二度とくるな!」
それで終了
私もはっきりさせようとした。影響はてきめんに出た。吐き気・・・
ぶぶららあるいたり、気が静まらない状態、
方向感覚がなくなり、急に力が抜ける。
原子炉で2ケ月働いた。
電気技師として、セメントを打つ時の照明を確保していた。
設置のため原子炉のよじ登った4ものだ。
どこにでも入っていった。
私の場合、わずか「11.92レム」と書かれた。
「いかさまを書かれたとボスに言いに行ってやる!」と言って、
ボスのところに行くと椅子に腰掛けて笑みを浮かべながら、
「高くてよかったと感謝しろ、感謝しないならもっと低い数字にしてやってもいいぜ」
前の厚生大臣サフチェンコによると、
閣僚たちはリツコフ首相から招集された。リツコフは言った。
「シークレットどころではない。トップシークレットだ」
チェルノブイリ事故に関するすべての線量データと情報はトップシークレットだ」
そういうわけで線量計算は実施されなかった。
たまに実施されたとしてもそれは無理に線量を切り捨てるためのものだった。
私は放射線を測定するように命じられた。
村落で土壌を平たく削り取った。
放射能汚染を下げるために。
放射線測定器を与えられた。測定するといっても針が振り切れていかれた。
線量が高すぎたのだ。
見たくない現実だったので測定器を返却した。
「お返ししますんで何か別なものをくださいな」
すると大きなショベルをあてがわれたので作業しに行った。
しかしショベルの仕事はすぐに終わった。
散水機の仕事に配置されたのだ。
汚染されたタンクや道路に水を浴びせた。
あちこちの村落で作業したが、
住民は私たちの仕事が無意味だと見抜いていた。
上に尋ねた。
「なぜこんな無駄働きばかりしなくちゃいけないのか?」
すると「質問するな、お前は連れてこられたのだからさっさと働け]
私たちは村落を除染した。
ショベルで土壌をはぎとり、手でトラックに積み込む。
塵埃が充満した、
そして当然ながらそれを吸い込んだ。
健康状態だが・・・
私は自律神経失調症で、心臓神経症でもある。
チェルノブイリが原因で私たちを苛んでる病気だ。
胃腸の具合も悪化してひどい苦しさだ。
昔は腎臓の病気などなかったのに、今は腎臓も駄目になった。
脱力感を別としても精神状態もよくなく、いつもイライラ感がある。
事故現場から10月に帰宅したがただちに異変が現れた。
11月、まず左の手の感覚がなくなり、次に左腕、次に左の尻、そして両足が麻痺した。
医者もお手上げだった。
放射線が原因だということすら認めようとしなかった。
仕事をやめずに続けた。トロリーバスの運転手だったが、
病気については一切口をつぐんでいた。家族を養わねばならなかったから。
片手と片足だけで運転を続けた。
そのうち勤務中に意識を失って自宅に担ぎ込まれた。
今は歩くことすらできない。めまいもする。しかしそれより厳しいには足だ。
足が歩こうとしてくれないのだ。自宅では壁伝いに行く。
私は指揮官だったので誰もがこの仕事は不可欠だと認識していることが
ひしひしと分かった。
「そうだ、俺たちは人の命や生活を守っているのだ」と、
私たちのことは永久に記憶さるのだと思っていた。
でも今は御用済みでお荷物なのだ。
求めているのはただ人間的な扱いなのに。
それだけでやかましい厄介者なのだ。
「6ヶ月ごとに様子を伺いに参ります」と言ってくれた。
6ヶ月が過ぎた、何の音沙汰もなかった。
医者も来ない、誰も来ない、私たちは社会のゴミなんだ。
「お前はよく働いてくれた。賞状を授与する」
「健康と繁栄と堅忍不抜を祈る!」

 


1999年

トロリーバス運転手の話】

 

 

俺はしきりに倒れるようになってしまった。
車いすを使ってくださいと妻が言った。それで車椅子にした。それだけのことだ。
今は車椅子生活者だ。
知ったことじゃない。
思い出したら辛いだけ、忘れてしまう方がましさ。
太陽は輝く、美しく輝く。
思い出したら地獄を見る。
忘れてしまった方がましさ。
「今は昔、夢かうつつか」というだろう。
もしかして、外国の誰かさんが自動車をくれたりしないかな。
中古でもいい、どんな型でのいい。
外に出かけて野山を走りたいだけだ。
こんな有様で自然に接しないままなのは厳しい。
まったく悪夢だ。
車がたまらなく欲しい。そんなのは夢、叶わない夢だとわかっていても。
しかしそれにしても・・・
ベッドの上に板切れみたく平たく横たわっていると、
飼い犬がやってきてじっと見てるんだ。そこで「何で俺のことみてるんだ?」
俺はやってみせる。「ワン!」
犬は思ってるんだ。このおやじ頭おかしいな、構やしない。
犬は離れていって台所に行く。そして戻ってくる。
「どうしたんだ」
「ワン!」
また離れていく。そしてまた戻ってくる。もう3度目だ。
俺が「ワン」犬も「ワン!」
「これで話が通じたね」
何たる悪夢。
人間が終了、それだけだ。
何もかも断念。
まだ若いのに・・・
38歳だが60歳だといってもかまわない。何が違うんだい?
チェルノブイリがあってからというもの、希望も何も無くなったんだ。
ヴォドラズスキーが死んだ。
クリモヴィッチも死んだ。
ザトゥラーノフも死んだ。
まだ生き残っているのは、ヴェルビッキーと俺だけ。
俺たち5人の中でなぜかまだ生きているんだ。
白いカラスのように取り残されてね。
どうでもいい。
チェルノブイリは確かに起きた、しかし言う、
「今は昔、夢かうつつか、嘘かまことか」と。
あの頃のことは忘れるにこしたことはない。
前は人だった。
前は歩けた。
前は車を運転した。
今、どこにもいない。
何かがある。
そんな罪を犯したとも思えない。
覚えはない。潔白であると思う。
悪夢だ。


2001年

彼は亡くなっていた